ふくよかだがどこか刺々しい、野趣溢れる薔薇の芳香が、若い神剣士の鼻腔をくすぐった。

 初夏のぬくもりとともに風が運んできた可憐な口説き文句に、柳也は穏やかに相好を崩して、前を歩くギーシュに訊ねた。

「……じゃあ、これから向かう薔薇園は、もとはそのダンジュウ卿が研究目的で造ったものなのか?」

 虚無の曜日のトリスタニア。王都の中心を流れる大河沿いに通りを歩く、奇妙な顔ぶれのパーティ。王都見物にやって来た柳也達一行だ。先頭をギーシュとケティが歩き、柳也とルイズ、才人、マチルダと続いている。

 柳也と才人に自分達の暮らすこの世界のことをもっと知ってもらいたい、と久しぶりの休日を利用して二人をトリスタニアに連れ出す計画の発起人たるギーシュは、甘いマスクに魅力的な笑みを浮かべて彼の言葉に頷いた。同じく今回の王都観光のもう一人のプランナーたるケティも、にこにこ笑いながら彼の言葉を継ぐ。

「はい。ダンジュウ卿は、貴族社会ではスクエアの土メイジとしてしばしば話題に上がるほどの人物ですが、それ以上に、アカデミーでは植物学者として有名な人物でした」

「特に花の研究に熱心で、〈長春花〉のふたつ名を取るほど、薔薇には深いこだわりがあったようです。初めは研究のために造った小さな薔薇園が、いつの間にか六〇〇平方メイルにも拡大していたぐらいですから。研究云々というよりも、単純に薔薇が好きだったのでしょうね」

 二人が語るジャン・ダンジュウ卿は、いまからおよそ六〇年前のトリステインで活躍した土メイジだった。彼らの言によれば、ダンジュウは学者タイプの土メイジで、特に植物にまつわる研究に精力的な人物だったという。彼の著書は一部の上流階級層や知識人だけでなく、一般の平民にも広く読まれ、当時はトリステインでも十指の内に数えられるほど有名な人物だったそうな。また一方で、彼は男色家としても有名な人物だったという。

「ダンジュウ卿には妻子がありませんでした。だから彼の死後、その持ち物はすべて王国政府の所有物となりました」

 ギーシュが柳也達に是非見せておきたいと口にする薔薇園も、そのときを境に王国政府の管轄下に置かれたという。まだアンリエッタの父が存命だった時代のことだ。先王は薔薇園の美しさに一目惚れし、この美しい景観を失ってはならないと王室お抱えの庭師にその管理と運営を命令した。平民出身の庭師は、卿の著作物と同じようにこの薔薇園も広く一般に公開するべきと提言、国王の承認を得た上で、王都有数の観光スポットとして生まれ変わらせた。

「拝観料の三〇スゥさえ払えば、平民でも自由に観て回ることが出来ます」

 ギーシュの言葉に、柳也は頭の中で拝観料の価値を計算してみた。例のゲルマニアのシュペー卿が鍛えた剣が二〇〇〇エキューだったから、およそ六七〇〇分の一。現代日本人の感覚でいえば、三〇〇〇円ぐらいか。この手の観光名所の拝観料としてはやや高額な印象だ。

 もっとも、先王の心を射止めたほどの薔薇園だ。その維持費のことを考えれば、高すぎる! と憤る声は少ないだろう。

「本当に素晴らしい光景なんですよ! お二人もきっと気に入ると思います!」

 まだギーシュと恋人関係だったときに、二人で足を運んだことがあるというケティがうっとりと微笑んだ。

 花よりは断然団子派の柳也だが、このような笑顔が見られるのなら足を運ぶ価値はあるだろう。彼は莞爾と微笑み、「ああ、楽しみだ」と、応じた。










永遠のアセリアAnother × ゼロの使い魔クロスオーバー

ゼロの魔法使いとその使い魔と、ついでに現われた守護の双刃

EPISODE:56「いまこの瞬間、この美しい光景は、俺だけのものだな」










 入園ゲートと管理人の住居を兼ねた旧ダンジュウ邸の門をくぐって中庭に出ると、そこには素晴らしい景観が広がっていた。視界いっぱいに広がる美しい花園。四方を取り囲む野趣溢れる甘い芳香。六〇〇平米もあるという広大な空間を存分に活かして築かれたいばらの楽園世界を前にして、柳也はただただ圧倒されるばかりだった。花を眺めるよりは団子派を自認する彼をして、思わずうっとりと溜め息がこぼれてしまう。

 ――これは……なんと見事なのか……。

 入園ゲートを抜けてまず視界に映じたのは、薔薇の塔だった。鋼造りの骨組みをつる薔薇が這い、
白い花を螺旋状に咲かせている。 高さはおよそ、四メートルといったところか。

 薔薇の塔が築かれた場所は、ロータリーになっていた。円形の広場からは四本の道が延び、各々が客人達を美々しき世界へ招き入れようと甘い香りを漂わせている。気を抜くと、いまにもふらふらと吸い込まれてしまいそうな恐怖を感じた。

 ――たしか、中世のヨーロッパでは薔薇は悪魔の花として教会に禁じられていたんだったか……。

 柳也達の世界では、薔薇は古来から洋の東西を問わず人々の心を魅了してきた。暴君として有名なあのネロ皇帝などは、庭園の池に薔薇を浮かべ、薔薇水が噴き出す噴水まで作ったという。それほど古くから多くの人々に愛されてきた薔薇を、教会は人々を惑わす悪魔の花と見なし、栽培を厳しく取り締まった。

 ハルケギニアにおいてもまた、薔薇は魔性の花なのだろう。でなければダンジュウ卿も、斯様に見事な花園を創出しようとは思うまい。

「本当は、もう少し暑くなってからがいちばんの見頃なんですが……」

 感慨深げに辺りを見回す柳也の横顔を見ながら、ギーシュが残念そうに呟いた。

 そうなのか、と訊き返そうとして、ああそういえば、と思い出す。ハウス栽培盛んな日本で育った身ではつい忘れがちになってしまうが、地球でも薔薇は夏の花だった。こちらの世界でも、薔薇は初夏に最盛期を迎えるのだろう。

 現在のトリステインは春も末。なるほど、そう言われてみると、ロータリーを囲むミニチュアローズの塀はまだ開花前の蕾が多く見受けられた。

「そいつは…・…また夏場に、ここに来なくちゃならん情報だな」

 柳也はかぶりを振りながらギーシュに言った。

 薔薇の造花を杖とする美貌のメイジは、それこそ八重咲の薔薇のように微笑んだ。

 

 

 薔薇園の中は、特に順路が定められておらず、自由に観て回ることが出来た。

 円形の広場から延びる四本の道を前に、柳也ははじめ時計回りに巡回することをみなに提案したが、ここで根が女好きのギーシュが悪戯心を出した。

「どうせなら、男女のペアで自由に回ってみません?」

 本来はギーシュ、ケティ、柳也、才人の四人で回るはずだった今回のトリスタニア観光だったが、ルイズとマチルダが加わったことにより、奇しくも男三人、女三人でカップルを三組作れるようになった。ギーシュと同様女好きでイベント好きの柳也は、「面白そうだ」と賛意を示した。ルイズはといえば、そんな柳也の横顔をちらちら眺めながら、「わたしはべつにどういう回り方でもいいけど、多数決には従うわ」との意見。才人とケティはそんなルイズに生暖かい視線を送りつつ、賛成の意見を述べた。マチルダはルイズと同じでどちらでもよいとの言。ギーシュは早速くじを作った。 「レディー・ファーストだ」と、言って、先端部分を“錬金”の魔法でそれぞれ赤、青、緑に着色した楊枝を三本、ケティに握らせる。

 最初にくじを引いたのはルイズだった。結果は赤。続いてマチルダが引く。結果は緑。

 今度は男性陣の番だ。発案者のギーシュがくじを三本握りしめる。

 女性陣はその様子をじっと見つめた。ルイズなどは、妙に熱の篭もった眼差しをギーシュの手に注いだ。金髪のメイジは苦笑しながら、右手を柳也に差し出した。

 柳也は腕を組んで思案顔。おとがいに指を当てて、ふむぅ、などと呟きながら、神妙な顔つきで向かっていちばん右端の楊枝を取った。

 結果は、赤。それを見てルイズは心の中で小さくガッツポーズをする。はにかむブロンドの少女を、才人とケティはニヤニヤしながら眺めた。

 続く才人の結果は青。残ったギーシュは当然緑だ。これで柳也とルイズ、才人とケティ、ギーシュとマチルダのカップルができた。

「せっかくペアを作ったのに、全員が同じ道を選んではつまらん。どうせなら、最初は別々の道を選んでいこうぜ?」

 デート気分を演出しよう。二人きりの時間を作ろう。柳也の言に最初に反応を起こしたのは、この薔薇園に過去何度も訪れたことのあるギーシュだった。彼はマチルダの前に跪くと、芝居のかかった口調と仕草で、掌を上向きに彼女へと差し出した。端整な甘いマスクを、春風が撫でる。

「八重咲なれど女王はご機嫌麗しく、気まぐれな天も微笑み、ぽかぽか陽気ですごしやすい。今日は美しい方と花を愛でるのに絶好の日です。わが愛の女神よ、本日はどうかこの卑しき子羊に、あなたのナイトとなる栄誉をいただけませんでしょうか?」

「……薔薇の美しい場所をご存知で?」

 芝居がかったギーシュに合わせて、こちらも普段は使わない口調と態度で応じる。

「あなたの美の添え物にしかなりませぬでしょうが。……お連れしましょう、楽園へ」

 力強く頷いたギーシュの手に、マチルダは己の右手を重ねた。柳也が口笛を吹いて歓声を上げる。

「いよっ、千両役者!」

「柳也さん、その言い回しは伝わらないと思います」

「それもそうだな……。じゃあ、いよっ、日本一!」

「もっとダメですよ、それ」

 苦笑する才人の前に、ケティが立った。

「ギーシュさまほどではありませんが、私もこの薔薇園には来たことがあります。ご案内しますわ」

 可憐に微笑むケティの顔を正面から見つめて、才人は自分の心臓が高鳴るのを自覚した。じっくり眺めてみると、彼女もルイズやキュルケとはまた違ったタイプの美形だ。その笑顔が自分にだけ向けられていると思うと、ちょっとどぎまぎしてしまう。

「ま、任せるよ」

と、才人は照れ臭そうにそっぽを向いて頷いた。導かれるままに、彼女の後を追う。

 最後に残った柳也は、にんまり笑ってルイズを見下ろした。

 ギーシュのように芝居がかったふうではなく、ごくごく自然に、右手を差し伸べる。

「では、るー姫、参りましょうか?」

「るー姫ってなによ!?」

 諧謔めいた口調で訊ねる柳也に、ルイズは憮然とした表情で応じた。

 おずおずと重ねられた小さな手を、柳也は宝物を扱うが如く繊細な手つきで握った。









 色とりどりのミニチュアローズが、大人四人が並んで歩ける道の両脇を飾っていた。

 ルイズと二人、肩を並べてその道を抜けると、視界に映じたのは盛り土でできたひな壇に囲まれた半円形の広場だった。ひな壇は全部で五段。各段には一メートルほどの高さのつる薔薇が整然と植えられており、色鮮やかな花を咲かせている。花の色は、赤と白の二色のみ。上にいくほど花はより白く、下に落ちるほどより赤い花が植えられていた。最上段の白薔薇は陽の光を浴びて、きらきら、と輝き、白亜の石畳が敷かれた広場を透明な光で薄っすら照らしている。

「おおッ」

 薔薇の広場を前にした柳也は思わず歓声を上げた。隣に立つルイズも、うっとりと溜め息をついて目の前の光景に見惚れた。

 美しい。

 それ以外の言葉が見つからなかった。

 それ以外の言葉は不要だった。

 柳也とルイズの二人は一瞬、呼吸さえ忘れてしばし目の前の光景に見入った。

 広場には他に人影なく、二人は存分に眼前の“美”を楽しむことが出来た。

「きれいね……」

「ああ。……まさに、花の女王と呼ぶにふさわしい光景だ」

「あんたの…・…」

「うん?」

「あんたの世界にも、薔薇はあるの?」

「ああ……。何千年も昔から、多くの人に愛されてきた」

 先に引用した暴君ネロなどはその代表格だろう。柳也自身、好きか嫌いかを訊かれれば、躊躇いなく好きだと断言出来る。

 自然と、唇が古い短歌を紡いだ。千年の時を経てなお語り継がれる、防人の歌だ。

「……道の辺(へ)の、茨(うまら)のうれに、延(は)ほ豆の、からまる君を、はかれか行かむ」

 万葉集巻第二十に記されている歌だ。茨とはすなわち薔薇を意味する言葉。その意味するところは――――――、

「なによ、それ?」

「俺の生まれた国に伝わる、古い詩歌だよ。古の防人が、道端に咲く薔薇を見て詠んだと言われている。……道端に萌ゆる茨の枝先まではう豆蔓のようにからまりつく君。そんなあなたを残して別れて行かねばならないのか……とまあ、別れを惜しみ、その運命を嘆き呪っているわけだな。別れは、俺達軍人にはつきものだから」

「君って、誰のことなの?」

「さあ? なにしろ一千年以上も昔の歌だ。からまる君が誰なのかは、歌を詠んだ人間の数だけ解釈がある」

 この歌を詠んだのは、天羽の郡の上丁丈部鳥と伝えられている。天羽の郡とはすなわち現在の千葉県富津市南部一帯、すなわち、巻第二十が成立した頃でいいうところの板東の地だ。源平の時代以前、板東地方の文化を詳細に取り扱った資料は多くなく、君、という言葉が一般にどんな人物を指すときに使われたかは、現代でも定説がない。

「主君か、家族か。同じ防人の友人か……。あるいは故郷に残す恋人にあてた歌だったのかもしれないな」

「あんたは……」

「うん」

「あんたは、誰だと思っているの?」

「昔は……、家族だと思っていた」

 柳也はひとり薔薇の斜面に歩み寄ると、最下段に並ぶ真っ赤な薔薇の花に顔を寄せた。古い記憶を紐解く懐かしさに微笑みながら、彼は続けた。

「でも、地球を離れて軍人になってからは、仲間じゃないかと思うようになった」

 かつての自分にとって、家族とは己のすべてだった。自分を生かすために自らを犠牲にした両親。しらかば学園で一緒に育った兄弟達。さらには、幼い頃から兄弟同然に過ごした瞬と佳織。初めて万葉集の頁をめくったのは中学一年生のときだった。このとき自分は、己が上丁丈部鳥ならば誰を想うだろうかと想起しながら、この歌を読んだ。

 地球を離れ、ファンタズマゴリアで軍人として働くようになってからは、大切なものが増えた。悠人やアセリアといったスピリット・タスク・フォースの戦友達。リリアナやセラス、セシリアといった王国の戦士達。ダグラスやリリィなどの自分を陰から支援してくれる者達。彼らと出会ってからは、歌の解釈も変わった。

 あるいは、特定の誰かを指す言葉じゃないのかもしれない、とさえ思った。自分に関わる、すべての人達。自分が大切に想う、すべての人達との絆。上丁丈部鳥は、それを思い歌を詠んだのではないか、と。

「そう」

「るーちゃんは……」

「うん」

「るーちゃんは、誰だと思う」

 柳也は莞爾と微笑んで振り返り、ルイズの顔を見た。

 ルイズは少し悩んだ素振りを見せ、それからゆっくりと言の葉を紡いだ。

「恋人、かしらね」

「そうか……」

「ええ」

 頷きながら、柳也は胸の内でしまったと己の浅慮を悔いた。会話の流れから思わず口ずさんでしまった疑問だが、ルイズにとっては傷口に塩を塗りたくられるが如き問いだったかもしれない。

 もし、彼女が自分と同じように上丁丈部鳥に自らを重ねて歌を解釈したのだとすれば、ルイズが思い描いた恋人とは、すなわちあの男のこととなる。祖国を裏切り、自分達を裏切り、なにより婚約者を裏切った、あの男…・…わが友、ジャン・ジャック・ワルド。

 勿論、かもしれない、というのは自分の推測にすぎない。しかし、ルイズの実際の心情がどうあれ、この話題はすぐにでも変えるべきだろう。アルビオンでの一件から、まだそう時は経っていない。繊細な彼女のこと、心の傷は、いまだ癒えていないはず。あの男のことを想起させる話題は、いまのルイズの前ではなるべく避けるべき。そのことは、以前彼女と臥所をともにした晩にも感じたことだったが、後悔の念がこみ上げてくるまで、すっかり忘れていた。

「……それにしても見事な光景だなぁ」

 やや強引すぎるか? そう、考えながら、柳也はとりあえず話題を目の前の薔薇に戻すことにした。

 両腕をいっぱいに広げ、満面の笑みを努めて言う。

「出来ることなら、この薔薇全部を手折ってでっけぇ花束にして、独り占めしたいもんだぜ」

「乱暴な考え方。これだから平民は」

「だから、出来れば、って言ってるでしょうに」

 苦笑。

 そのとき、北の方角より一陣の風が広場に吹き抜け、ひな壇で絡み合うつる薔薇を揺らした。

 ぷつり、と茎の切れるかすかな音を、神剣士の聴覚が拾う。どうやら一輪、もともと傷ついていたらしく、大輪の白薔薇が風に吹かれて石畳を転がった。中心部分が薄っすら紅色に染まった、八重咲きの薔薇だった。

 何を思いついたか、柳也はにんまり微笑むと転がる花を手に取った。自然に千切れた一輪だ。拝借しても問題あるまい。彼は丁寧に棘を削ぎ取ると、脇差の鞘から小柄を抜いて茎を短く切った。三本の指で手挟むと、怪訝な顔をしているルイズのもとに歩み寄って、彼女の髪にそっと挿した。ルイズから離れ、その姿をまじまじと眺める。

「むぅ……。うん。よく似合っている」

「な、ななな、なぁ〜〜〜!」

 突然のことに茫然としていたルイズの顔が、途端、真っ赤に彩られた。

 桃色がかったブロンドの髪に、白無垢の薔薇はよく映えた。柳也は両手の親指と人差し指を使ってフレームを作ると、その中心に、花も恥じらう可憐な乙女の顔を捉えた。

「ふむ。さすがにこの場に咲く薔薇全部を独り占めすることは叶わんが……」

 好色に微笑みながら、柳也は言った。

「いまこの瞬間、この美しい光景は、俺だけのものだな」

 せっかくのデートだ。平素ならば不敬と罵られてもおかしくない甘い言葉も、いまこの場でなら許されよう。

 ルイズはしばし口を、ぱくぱく、させた後、やがて恥ずかしげに俯いた。

 傾くブロンドの髪から、白薔薇の芳香が匂い立つ。その香りに、柳也はしばし酔いしれた。









「ああ、やっぱりギーシュのやつがくじに何か仕掛けたのか」

 才人とケティのペアが選んだ道の先には、つる薔薇の塔がいくつも並んでいた。ロータリーに建っていた塔と同じで、鉄の骨組みにつる薔薇を絡ませて作られた塔だ。来場者達の目を飽きさせないよう様々な形状の塔が並び、華麗に花を咲かせている。

 二人は広場に置かれたベンチに腰掛けながら談笑していた。

 正面には大樹を模した薔薇の塔がそびえたち、八重咲の黄色い花を咲かせている。

 才人の言葉に頷いたケティは、きらきら、とした眼差しを正面の塔に向けたまま頷いた。

「ええ。おそらく、ミスタ・リュウヤがくじを引くときに“錬金”の魔法を使ったのでしょう。くじの色は、ギーシュ様の手の中で変わっていたんだと思います」

「なるほどなぁ……。あれ? でも、ギーシュのやつ、いつルーンを唱えたんだ。それに杖だって……」

「ギーシュ様はドット・クラスとはいえ、“土”系統の専門家ですから。くじの先端部分の色を変えるだけなら、ルーンなしでも可能ですよ。それにあのとき、私も含めてみなさんの視線はくじを持った右手に集中していました。あのとき、ギーシュ様が左手で何をやっていたか、サイトさんは見ていましたか?」

「いいや」

 才人はかぶりを振った。

「でも、そうか。あのとき、杖を振っていたのか」

「たぶん、そうでしょうね」

「あいつ、柳也さんに弟子入りしてからそういう駆け引き、上手くなったよなぁ」

 敵の注意を一箇所に集め、その隙に別の場所で罠を仕掛ける。柳也に弟子入りして以来、軍略の腕をめきめき上げていく友人を才人は称賛した。

 二人の会話は、そこで止まった。

 広場に暖かな風が吹き抜け、薔薇の塔を揺らす。

 静かに刻々と、時間だけが過ぎていった。

 もともと付き合いの浅い二人。共通の話題など限られている。しかしそれ以上に、才人にはケティに進んで話しかけづらい事情を抱えていた。

 思い出すのはいつかのヴェストリ広場の光景。二人きりで話し合う、柳也とケティの姿。

 あのとき、二人の会話の内容を盗み聞いた才人は、友人の少女がオリハルコンネームなる謎の言葉のことで悩んでいるのを知って、何ら力になってやれない自身の無力を嘆いた。と同時に、彼女のために自分にも出来ることを探そうと決意したが、あの日掲げた志は、いまだ実を結んでいない。ケティのために、自分にはいったい何が出来るのか。それはいまだ見つかっていなかった。

 そうした不甲斐なさと、盗み聞きをしてしまったことに対する罪悪感もあって、才人は意識的にケティとの会話を避けていた。

 ちらり、と才人は隣に座るケティの横顔を一瞬流し見た。

 まだあどけなさを残す整った顔には、白百合を思わせる清楚な微笑が浮かんでいる。平素の自分なら思わず見惚れ、相好が崩れていただろうが、その笑顔の実、彼女がいまこの瞬間も深く苦しんでいることを思うと、顔の表情筋は硬直するばかりだった。

「あの、サイトさん……」

 夏の風に揺れる風鈴のように涼やかな声が、才人の耳膜を撫でた。

 振り向くと、紫水晶の瞳が自分のことを心配そうに見つめている。

 表情の硬さが気になったか、続く言葉は己の機嫌を問うものだった。

「こういった場所は、お嫌いでしたか?」

「え、あ、い、いや。そんなことはないよ」

 問いかけられて、才人は慌ててかぶりを振った。

 花よりは団子派の自分だが、目の前にある美しいものを愛でるくらいの心はある。一緒にいるのが可愛い女の子とあれば、楽しさは倍増だ。

「ですけど、あまり楽しそうには……」

「うっ……ご、ごめん……。その、ちょっと、考え事をしていてさ」

「考え事、ですか?」

「ああ」

 才人は困ったように顔をしかめた。頷きながら、続く言葉を必死に探す。

 自分の胸中を素直に語ることは出来なかった。話せば、あの日二人の会話を盗み聞きしていたことが明らかとなってしまう。かといって、露骨な嘘はばれたときのことを考えると憚られた。

 やがて才人は、舌先で言葉を選ぶように、ゆっくりと口を開いた。

「その、ちょっとだけ、自分を情けなく思って……」

「情けなく?」

 ケティが目を丸くして才人に訊き返した。

 才人は頷くと、照れ臭そうに頬を掻いた。

「恥ずかしい話だけどさ、俺、女の子と二人きりでデートみたいなことするの、初めてなんだよ。だからその、こういうとき、何を話せばいいのか、分からないんだ」

 才人はケティのほうを見ずに早口で言った。

「ほら、デートって、二人で楽しむものだろ? でも、俺はケティのことを楽しませてやれていない…・…。

 俺はギーシュみたいに弁が立つわけでも、柳也さんみたいに経験豊富ってわけでもない。こういうときに場を盛り上げられる、芸も持ってないしさ。そんな自分が、情けなくってさ」

 言いながら、だんだんと気持ちが下降していくのを自覚した。ケティに本当のことを悟られぬための言とはいえ、いま口にしたことは、一切の虚飾を交えぬ自分の本心だった。実際に言葉にし、口に出してみて、改めて自分の不甲斐なさを自覚した。

「そう、だったんですか……」

 ケティは静かに、才人の言葉を一語々々噛み締めるようにゆっくりと呟いて、微笑んだ。少年の暗い表情とは対照的に、少女のそれは明るく華やいでいた。

「私は、いま、とっても楽しいですよ」

 気遣いから出た言葉でないことは、屈託のない表情からも明らかだった。

 思わず顔を上げた才人の左手を、ケティはそっと握った。

 胸の高鳴りを自覚した。手の甲のルーンが、淡く輝いたのを悟った。

「け、ケティ……」

「サイトさんと二人で、こうして薔薇を見れて。とっても楽しいです」

 平賀才人。異世界からやって来た、本当ならば出会うはずのなかった人。そんな彼と、こうして二人、肩を並べて薔薇の塔を眺めている。本来ならばあるはずのない時間を、いま、二人で共有している。この奇跡のような出来事を、ケティは楽しく、そして嬉しく思った。

「私はいま、とってもワクワクしています。この薔薇園には以前、ギーシュさまとも一緒に来ましたけど、あのときとは何もかもが違って見えます」

 隣に座っているのが、あなただから。

 ケティは顔の赤い才人を真っ直ぐに見つめた。

 剣だこで硬い少年の手を、少女はしっかりと強く握った。

「ありがとうございます」

「え……?」

「私に、こんな素敵な時間をプレゼントしてくれて……。それから」

 ケティは照れ臭そうにはにかんだ。

「私のことを、そんなにも考えてくれて」

 心臓を、万力のような力でいきなり締めつけられたような苦しさを感じた。

 一瞬、自分の内心を見透かされたかと思った才人の表情が強張る。と同時に、彼は間近に迫ったなんとも爽やかなはにかみに思わず見惚れた。食い入るように、彼女の顔を見つめる。

 己の表情の変化をどう捉えたか、ケティはちょっと困った顔をして、「やっぱり、ギーシュさまの真似は私には出来ませんね」と、溜め息をついた。









 二時間ほど庭園内で思い思いの時間を過ごした一同は、最後にローズティーの香りを楽しんでダンジュウ卿の薔薇園を後にした。

 薔薇園をたっぷり満喫したため、すでに時刻はティータイムをすぎている。

 夜までには魔法学院に帰りたいことを考えると、足を運べるのはあと一箇所だけだろう。次なる目的地へとみなを先導するギーシュは、少しだけ歩調を早めた。

「引ったくりよー!」

 一同の右脇に見える十字路の方から、年老いた女の悲鳴が聞こえてきた。

 反射的に柳也は仲間達を一瞥すると、躊躇なく、「ちょっと行ってくる」と、呟いて右手を挙げた。

 まるで、ちょっと近くのコンビニまで、とばかりの様子に一同が苦笑する中、機敏に駆けだした男の背中はあっという間に遠ざかっていった。

 十字路に差し掛かると、折しも、風呂敷包みを抱えた若い男が向かって右側の通りから飛び出してきたところだった。このままだと柳也と衝突してしまう位置関係。避けられない勢い。柳也は咄嗟に半歩身を退いた。

「うわっ」

 引ったくり犯の口から、悲鳴が上がった。

 柳也の丸太のように頑丈な右足が、足払い放ったのだ。いかに手慣れた常習犯といえ、狙い澄ました正確な一打をぶつけられてはたまらない。前進の勢いはそのままに、すっ転びそうになってしまう。

 地面に顔を打ち付けそうになった寸前、若者の腕を、柳也は、ぐい、と引き上げた。勿論、関節をきっちり逆に極めて拘束するのは忘れない。男の口から、また悲鳴が上がった。

 風呂敷包みはと見れば、無事、柳也の左脇に抱え込まれている。

 一瞬の早業を目の当たりにした通行人達が思わず足を止め、拍手喝采したのも当然だろう。

 のんびり歩いてくるルイズ達と、息を切らした老婆が柳也のもとに到着したのはほぼ同時のことだった。

 齢は七十と少しか。どうやら平民の生まれらしく、着ているブラウスとスカートは生地を自ら裁断して縫い合わせたものと思われた。ほどよく使い込まれた感があり、見映えは決してよくないが、家庭の臭いがしてなんとも落ち着いた気持ちにさせてくれる。

 老婆の息子なのか、隣では中年の男が彼女の腰をさすっていた。見覚えのある顔だった。柳也の表情が、おや、と変化する。

 向こうも柳也達を見て相手が誰だか気づいたらしい。彼は驚いた表情を浮かべると、やがて、はっ、となって深々と腰を折った。

 引ったくり犯を押さえたまま、柳也はにこやかに話しかけた。

「よお、店長。久しぶりだな」

「お久しぶりです、兄さん方。お手を煩わせてしまったみたいですみません」

 恐縮しきった様子でまた頭を下げたのは、なんとデルフリンガーを売っていた武具屋の店主だった。どうやら仕事を休んで母と買い物にやって来た帰り道を、この界隈を縄張りとする小悪党に襲われたらしい。

 店主の顔を見たルイズらは、あのときの……、と偶然の再会に驚いた。

 唯一、デルフリンガー取引の場に立ち会っていないマチルダだけが怪訝な顔をする。ギーシュが苦笑しながら、「後で説明します」と、言った。

 柳也は店主の隣で引ったくり犯とやって来た貴族らを交互に見比べる老婆を見た。やや垂れ気味の目尻は優しい印象だが、瞳には不安げな色が浮かんでいた。貴族の手を煩わせてしまった。意地の悪い貴族だったらどうしよう。どんな咎めを受けることやら。そんなことでも、考えているのか。

 柳也はこれ以上彼女の心を刺激しないよう、努めて明るい笑顔を意識しながら、風呂敷包みを差し出した。

 強面に浮かぶ人懐っこい笑みがまぶしい。

「あいよ、お婆さん。盗まれた包みは、これで間違いないかい?」

「へ、へえ。間違いねぇです」

 不安と怯えから硬直している老婆に代わって、店主が頷いた。

 風呂敷包みを受け取ると、また何度も頭を下げる。

「ありがとうございやす、兄さん方」

 ふと、店主の視線が柳也の腰元でとまった。怪訝な表情が髭面に浮かぶ。

 何を思ったのか察した柳也は、苦い表情で応じた。

「以前、お前さんの店で買った数打ち物なら、使い潰した」

 マチルダと使い魔の契約を交わす以前、愛刀・同田貫をファンタズマゴリアに置いてきた柳也は、代わりの刀を目の前の男の店で購入した。大量生産の数打ち物は、先の破壊の杖事件の際にへし折れ、使い物にならなくなってしまった。

「そうでしたか……」

 柳也から刀を失った経緯を簡単に聞かされた店主は、腕の中の風呂敷包みに目線を落とし、しばしその場で考え込んだ。

 やがて顔を上げた彼は、柳也達の顔を見回して訊ねた。

「兄さん方、これから少し、お時間ありますかね?」









 荷物を取り返してくれたことへのお礼がしたい。

 武具屋の店主はそう言って、一行にブルドンネ街にある自身の店に立ち寄ってほしい旨を告げた。

 柳也達は初め、これから行かねばならない場所がある、と言って店主の申し出を断ろうとした。しかし、礼の内容を聞いて彼らは答えを翻した。店主は柳也の顔を見て、「兄さんに、一振り都合してさしあげたいんです」と、言ったのである。

 店主の申し出を聞かされた柳也は絶句した。

 引ったくり犯を捕まえたことに対する謝礼が刀一振りとは……。太っ腹にもほどがある。この世界でまともな剣を手に入れるようと思ったら、どんなに安物でも新金貨が二〇〇枚は必要だ、とかつて自分達に講釈したのはこの男だ。店主がどんな剣を自分に渡そうと考えているか知らないが、明らかに釣り合いが取れていない。

 断るべきだ。

 しかし、柳也が口を開くよりも先に、店主は彼に言った。

「この風呂敷の中には、甥への出世祝いの品が入っているんです。漁師の三男坊が、今度貴族のお屋敷で専属コックとして奉公するっていうんで、おっ母と二人、ない知恵を必死に絞って選んだ大切なプレゼントです。兄さんはそいつを取り返してくれた。剣の一振りぐらい、安いもんです」

 よほどその甥が可愛がっているらしく、店主の顔には柔和な笑みが浮かんでいた。

 「それに……」と、閂に差した脇差を示して言う。

「兄さんもその短い一振りだけじゃ、腰が寂しいでしょう」

「まあ、な……」

 柳也は曖昧に苦笑しながら、アルビオンにおけるワルドとの一戦のことを思い出した。

 あの戦いで己は実質一敗地にまみれた。ウェールズの命をもってなんとか糊口をしのいだが、あれほどの苦戦の原因には、敵の強さもさることながら、わが手に同田貫がなかったことも大きかった、と柳也は自己分析していた。モーガン・ガドウェインとの一騎打ちの中で同田貫を失わなければ、あれほど一方的な戦闘展開にはならなかったはずだ、と。

 マチルダと主と仰ぐことで、自分はこの世界でも再び同田貫を振るえるようになった。しかし、“錬金”に適した素材が常に身の周りあるとは限らないし、また常にマチルダが側にいるとも限らない。一人で行動しているときや、“錬金”の魔法が使えないときに戦闘を余儀なくされた場合に備えを考えると、やはり刀は欲しかった。

 柳也はみなを振り返ると、ギーシュとケティに向けて深々と頭を垂れた。

 今回のトリスタニア観光の立案者たる二人は、一瞬残念そうな表情を浮かべたが、やがて肩をすくめて、寂しげに笑った。

「……また今度来るときに、案内しますよ」

「……申し訳ない。それから、ウレーシェ」

 ギーシュの言葉に、柳也は嬉しげに微笑んだ。

 

 

 久しぶりに足を運んだ武具屋は、以前にも増して雑然と物であふれていた。以前、デルフリンガーを買いにやって来たときよりも、明らかに商品の量が増えている。これだけの在庫を揃えるには、さぞ大金が必要だったろうと思っていると、

「実は先日、知り合いの同業者が廃業しましてね」

 店内を見回す柳也達に、店主の男はニヤリと笑って言った。

「抱え持っていた不良在庫を大量に、それもわりと手頃な値段で仕入れることが出来たんでさあ」

「なるほど。……もしかして、俺にくれる剣というのも?」

 店主の言に、ピン、ときた柳也は思ったことをそのまま口にした。店主が頷く。

「当たりです」

「ちょっと! あんた、不良品を掴ませるつもり?」

 八重咲の白薔薇を髪に差したルイズが顔を真っ赤にして店主を睨んだ。不良在庫という言葉から、状態の良くない鈍刀を押しつけられると思ったのだ。

 ルイズのきつい眼差しに、店主はちょっとむっとした顔になった。

「恩人にそんななまくらをお渡しするわけないでしょう! ……不良在庫とはいっても、兄さんに渡そうと思っている剣は、質も状態も上等な逸品でさあ」

「……それでも、前の店では売れ残った品だろう?」

 それまで黙って店主とルイズのやり取りを眺めていたマチルダが口を開いた。伊達眼鏡の奥でひっそりとたたずむ琥珀色の双眸が、親父の顔を鋭く見据える。

「質は上等、状態も良好。それなのに、前の店では売れ残った。その理由は何だい?」

 何か買い手を寄せつけないいわくでもあるのか。それとも、名刀の類ゆえに高値を付けざるをえず、ために買い手がつかないのか。

 前者だとしたらそんな怪しい剣を相棒に持たせるわけにはいかないし、後者だとすれば変なところで気を遣うこの男のこと、値段を聞いて仰天し、遠慮するに違いない。

「いわくと言えばいわく。というのも、いままでにその剣を十全に使いこなせた人間がいないんですよ。前の店でも、その優美な姿から人気は高かったんですが、いざ買ってはみたものの、自分では使いこなせぬ、と買っては返品され、買っては返品されを繰り返していたそうです。……ま、何はともあれ、まずは現物を見てやってください」

 店主はそう言うと、店の奥から細長い木箱を抱えてやって来た。

 蓋を開けて油紙を取り払うと、見事な黒鞘の拵えをした細身の刀剣が出てきた。

 一目見た瞬間、柳也はその姿に心を奪われた。思わず息を呑み、大振りの双眸が見開かれる。これは、まさか……。

 驚愕は、柳也だけの感情ではなかった。その一振りが姿を露わにした途端、才人達もみな一様に、茫然とした眼差しを優美なるシルエットに注いだ。

「嘘、だろ……」

「だが、これはどう見ても……」

 才人とギーシュが揃って顔を見合わせ、ついで柳也に視線を向ける。

 柳也は内心の動揺を押し殺しながら、努めて平坦な口調で、店主に訊ねた。

「……剣身を見ても?」

「へい。どうぞ」

 店主の許可を得た柳也は、中ほどで僅かに絞られた立鼓をとった柄を握ると、鞘を払った。

 現れたのは、片刃でほっそりとした印象の剣身だった。浅く反っていて、切っ先が鋭い。柳也は鋭い眼差しで二尺三寸二分の剣身を舐めるように見つめた。

「……店主」

「へい」

「数ある不良在庫の中から、なぜ、この剣を俺に?」

「そいつは、兄さんの方がよくご存知でしょう?」

 店主は愛想よく微笑むと、柳也の腰元に視線をやった。無銘の脇差一尺四寸五分を納めた庄内拵えの鞘が、静かにたたずんでいた。

「その剣を買い取ったとき、すぐに兄さんのことを思いだしました。より正確に言えば、兄さんの腰に差したそいつをね。長さは違うが、兄さんの剣と、その剣はよく似ている。きっと兄さんなら、いままで誰も使いこなすことが出来なかったその剣を、十全に扱えると思ったんです」

 柳也は改めてその剣身を見つめた。

 腰に差した脇差。そしていまは手元にない相棒・同田貫によく似たくろがねを、じっくりと見回した。初め見たときの衝撃はもはや胸の内になく、柳也は一人の剣者として、これから相棒となるかもしれぬ刃を検めた。

 店主が柳也に贈りたいと申し出た剣は、まごうことなき日本刀だった。反りの浅い寛文新刀。先に細身と記したが、それはこの世界の一般的な刀剣と比べた場合の話で、日本刀として見た場合、重ねの分厚い、武骨極まりない造りをしていた。実戦の場で頼もしい造り込みは、得物には何にも増して頑丈さを求める柳也の嗜好と合致している。

 どうしてこんな物がハルケギニアに存在するのか。

 しかし、柳也は胸中にて生じた疑問を口にしなかった。

 それよりも彼には気になることがあった。

 手の内の日本刀は、一見して業物と分かる凄絶な覇気を纏っていた。沸出来の具の目乱刃の刀身は、あの長曽根虎徹の作刀に通じるものを感じさせる。

 もしかしたら名高い名刀の類かもしれない。是非、銘を検めたかった。

「茎を見ても、いいか?」

「承知しました」

 店主は二つ返事で請け合うと、柳也の手から抜き身の刀を受け取った。

 目釘穴に当て木をし、木槌で軽く叩いて抜いていく。目釘の数は二つ。鍔元と柄頭の二箇所で刀身を留めているのは、いくさ場で用いることを前提とした拵えの証左だった。

「どうぞ、ご覧ください」

「拝見させてもらおう」

 目釘を抜き取り、作法通りに峰を向けて渡された刀身を、柳也は厳かに捧げ持った。

 こちらも刀剣鑑賞の定法に従って、まずは全体の姿と刃文を検分する。

 二尺三寸二分のいわゆる定寸刀だ。父の形見の同田貫に比べると、一寸と五分短い。しかし刀身そのものは肥後の豪剣に負けぬ伸びやかなもので、幅広の刀身に刻まれた刃文は、あの正宗を筆頭する相州伝の作風を彷彿とさせた。

 無言のまま、じっくり拝見した上で今度は銘に視線をやる。

 柄をはずした茎の差表、すなわち帯刀したとき自分の体の外側に来る面に、『近江守法城寺橘正弘』の銘が見出された。

「初代正弘か……!」

 柳也の口から、思わず呻き声が漏れ出た。

 滝川三郎太夫こと正弘は、江戸時代前期の承応四年頃から寛文一一年頃まで活躍したとされる、武蔵国の刀工だ。江戸法城寺派の主座の立場にあった人物で、後世の研究者や好事家からは、子の二代目正弘と区別するために、初代正弘と呼ばれることが多い。試刀家山野勘十郎久英の試し銘入りの作が多く残っており、その切れ味は抜群。首切り役人の山田浅右衛門が文政一三年に出版した『古今鍛冶備考』にも、業物、と認定されている。その作風は長曽根虎徹に影響を与えたとまでいわれ、江戸前期を代表する名工の一人として、歴史に名を残していた。

 ――同田貫と同格か、それ以上の名刀だ!

 この一振りを腰に差すことが出来れば、どんなに頼もしいことか。しかし同時に、柳也は正弘を腰に差す自分の姿を思い浮かべて恐ろしくも思った。

 正宗の刀も持人による、とは刀剣を由来とする古いことわざの一つだ。

 はたして自分は、この名刀を使いこなすことが出来るだろうか。早く実戦の場でこの業物を思う存分振り回したいという好奇心と不安とで、柳也の表情は自然複雑なものとなった。

「店主」

「はい」

「見事な逸品だ。ありがたく頂戴する……。ただ、これほどの名刀を対価なしに受け取るのはこちらも忍びない」

 柳也は正弘の刀身を店主に返すと、不敵に微笑んだ。

「まったく釣り合いは取れんだろうが、手入れ道具一式と、研ぎ石を買いたい。……それともう一つ、頼みがある」

「なんでしょう?」

「前にこの剣を売っていたという店の店主だが、もしまた会うことがあれば、どうやってこの剣を手に入れたか訊いておいてくれないか?」

「そいつは構いませんが……。理由をお聞きしても」

「なに、大したことじゃない。ちょっと出自が気になっただけだ」

 柳也と店主のやりとりを聞いていた才人達の顔が、等しく強張った。

 ハルケギニアに存在するはずのない業物。その出自を知ることで、元の世界に帰還するための手掛かりが得られやしないかと、柳也は考えたのだ。

「わかりやした。今度会ったときにでも、訊いておきます」

 店主は、それ以上は深く事情を訊かずに頷いた。

 その返答に、柳也は満足そうに頷いた。









 アルビオン、ワルドの屋敷の地下室――――――。

 異界の言語による詠唱が始まって、すでに半日が経とうとしていた。

 魔法陣が描かれた床に愛刀を突き立てるウィリアムの顔には、濃い疲労の色が浮かんでいる。額では玉のような大粒の汗が噴出し、相棒の永遠神剣を握る手は、手首が僅かに震えていた。時空間操作魔法、オープン・ゲート。その発動のために必要な半日にも及ぶ儀式は、ウィリアムの気力と体力、そしてなにより、原始生命力たるマナを著しく消耗させていた。総身から靄のように噴き出す黄金色の霧は、汗の蒸発にしては量が多すぎる。文字通りわが身を、命を削って神剣魔法を発動させようとしているのだ。男の声が淡々と狭い空間に響く度、屋敷の地下室を時空の隔たりさえも無視するよう指向性を持たされたマナが満たしていった。

 ――それにしてもなんという集中力なのか……!

 かたわらで付き添うワルドは友人の額に浮かぶ脂汗をハンカチで拭いながら、硬い表情で息を呑んだ。

 一語発音する度にマナを著しく消耗する呪文詠唱。それを半日近く、ぶっ続けで行っている。しかし、ウィリアムの口から流れる言の葉は、一度として詰まったり途切れたり、言い間違えたりすることがなかった。

 ――神剣魔法オープン・ゲート。……ウィリアムは、これまでに何人もの神剣士が詠唱中に死んでいったと口にしたが……。

 オープン・ゲートの発動には、莫大な量のマナが必要となる。目の前の男は、詠唱半ばでマナが尽きて死んでいった仲間をこれまでに何人も見てきた、と言った。しかしワルドは、死んでいった中には詠唱の途中で集中を切らしたがために命を落とした者もいるのではないか、と思った。

 半日近くもの間詠唱を続けた結果、屋敷の地下室は、神剣士の自分をして胴震いを感じるほどの膨大なマナで満たされていた。炎と変えれば数千、いや数万人の命を一瞬にして奪えるほどの途方もない量のマナだ。いまウィリアムがちょっとでも集中を切らせば、この空間を満たすマナは暴走し爆発。ロンデニウムの街は、跡形もなく吹き飛んでしまうことだろう。

 ――おそらく、死んだ仲間達の中には、詠唱中に集中力が切れてマナの暴走に巻き込まれた者もいるのだろう。

 疲弊した身でありながら、なおもこれほどのマナを絶えずコントロールし続けるウィリアムの集中力には脱帽するばかりだった。

 これが数百の神剣士を統率する立場にある者の力かと、驚嘆せずにはいられない。

 そのとき、地下室の床に描かれた魔法陣が、ひときわ強く輝いた。

 網膜を焼く光線が幾何学図形から幾条も溢れ、暗い地下室を快晴の真昼のごとく照らし出した。

 耳の奥で、陶器の割れるような音が響く。

 部屋に満ちる莫大なエネルギーが、きつね色に輝く魔法陣の中心へと一気に吸い込まれていくのを感じた。まるで竜巻の中心地にいるかのような暴力の感覚が、ワルドの全身をなぶる。

 呻き声が、唇から漏れ出た。

 魔法陣は、ウィリアムが室内に充満させたマナだけでなく、己の肉体を形作る生命力さえも貪欲に奪おうとした。

 見えない略奪者の魔の手が、ワルドの身体をばらばらに分解してマナを掠め取ろうと殴打する。

「……気を強く持て!」

 いつの間にか、かたわらのウィリアムは呪文の詠唱をやめていた。

 彼は蒼白の顔に険しい表情を浮かべると、まばゆい魔法陣の中央を鋭く見据えたまま、ワルドを叱咤した。

「下っ腹に力を入れてその場に踏ん張れ。気を張っていないと、テメェの抱え持っているマナ、全部持っていかれるぞ!」

 マナをすべて奪われる。神剣士にとって、その意味するところは死だ。

 ワルドは友人にして先輩神剣士のアドバイスに従い、足腰に力を篭めた。〈隷属〉が内に抱えているマナ、自らの肉体を形作るマナ。そのすべては自分のものだ。自分自身にそう言い聞かせながら、奥歯を噛み締めて吸引に抵抗する。少しずつ、体が楽になっていった。

「さっきも言った通り、オープン・ゲートの魔法は、発動にも、維持にも莫大なマナが必要だ。魔法に使えそうなマナが側にあったら、魔法陣は容赦なく奪っていくぞ」

「なるほど、な……それで、〈門〉は……!?」

「いま、開く」

 ウィリアムが言葉短く告げた直後、魔法陣の中心に、まばゆい金色の、光の柱が屹立した。

 稲妻が迸る、マナの柱だ。

 空間を満たすあまりにも高密度のマナは可視化し、ワルドの眼球細胞をことごとく焼こうとした。彼は思わず目を閉じ、右手を目の前にかざした。

 自ら視界を閉ざしたワルドだったが、他の感覚は周囲の変化を鋭敏に感じ取っていた。

 空間的にも、時間的にも大きく離れた二つの世界。それを無理矢理に繋ぐ、〈門〉という自然現象。さらにそれを人為的に引き起こすための神剣魔法。光の柱から滲み出た精霊光は空間にひずみを生じさせ、別の次元から吹き込む風が、瞑目するワルドの頬を撫でた。

 と同時に、ワルドはこの場に、自分達以外の永遠神剣の気配が、突如としていくつも出現するのを知覚した。全部で数は一二。そのうち一つは、とてつもなく巨大なマナの気配を孕んでいる。

 ――来たかッ!

 ミニオンと呼ばれる人工生命体。

 異界より招聘された、ウィリアムの私兵達。いったいいかなる者どもなのか。

 ワルドの疑問は、ほどなくして氷解した。

 瞼を閉じていてなお白く鮮烈な光芒がぱたりと消え、彼は目を何度かしばたたいた後、下界を見下ろす猛禽の如き鋭い眼差しを前へと向けた。

 思わず、息を呑んだ。

 男の本能を狂わせる美貌の戦乙女達が、そこにいた。

 全員が灰色を基調とした揃いの戦装束を身に纏い、手には各々の永遠神剣を握っている。

 青、赤、緑、漆黒……。四色の瞳は真っ直ぐウィリアムの顔を見つめ、彼女達はその場に平伏した。

 ウィリアムは立ち上がって〈金剛〉を鞘に納めると、一人の女に視線を向けた。ワルドがひときわ強力なマナを感じた娘だった。

「マーイヤ……」

「……はい」

 顔を上げたのは、一二人の中でも特に小柄な娘だった。身の丈は童女と大差なく、体つきはちゃんとご飯を食べているのか心配になってしまうほど華奢だ。

 顔立ちもまた幼い。目尻がやや釣り上がった双眸は小鹿のように大振りで愛らしく、一文字に結ばれた唇は芽吹きかけのつぼみのように可憐だ。両サイドで結った髪は菖蒲の花のように鮮やかな青をたたえ、少女が顔を動かす度に細い肩の上を滑った。ウィリアムを見つめ返す瞳の色もまた、鮮烈な青。

 跪く際に床に置いた永遠神剣は、刀身だけで少女の身の丈ほどもある長大な、鉈のような姿をしていた。刃長だけでなく、身幅も、厚みも尋常な寸法ではない。ざっと見積もって、一五キログラムは下らぬだろう得物だが、目の前の少女は先ほど、こいつを苦もなく携えていた。華奢な彼女のいったいどこに、そんな膂力の源があるのか。

「マーイヤ・ブルーミニオン以下ミニオン一一名、招聘に応じ只今参上いたしました」

 マーイヤと名乗った少女は到着を宣言すると、再び頭を垂れた。鈴の鳴るような、耳に心地よい声だった。

 ウィリアムは頷いて、

「この世界に関する知識は?」

と、訊ねた。

「通り一遍にすぎませんが、頭に叩き込んであります」

「すぐにでも動ける、か。そいつは重畳」

 ウィリアムは不敵な冷笑を浮かべると、かたわらのワルドを示した。

「ジャン・ジャック・ワルドだ。この世界における、俺の協力者だ。こいつの言うことは、お前達もなるべく聞いてやれ」

 マーイヤをはじめ、平伏するミニオン達が揃って頷いたのを認めて、ウィリアムはワルドを振り向いた。右手を顔の前に掲げ、友人に向けて拝むような仕草を取る。

「……というわけだから、あと、頼むわ」

 いったい、どういう意味だ。

 言葉を口にする暇は、なかった。

 言い終えると同時にウィリアムの体が、ぐらり、と揺れ、あっと思ったときにはもう、後ろに倒れ始めていた。慌てて背中に腕を回し、抱きとめる。重い。全身が脱力し、ワルドの両手に身を委ねていた。

「……悪い。さすがに少し、疲れた。ちょっとだけ、休ませてくれ」

 見ればワルドを見上げるその顔からは生気が欠落していた。オープン・ゲートの魔法は、第五位の神剣士たるこの男をして自力では立っていられないほどの途方もない疲労を強いていたのだ。意識を研ぎ澄ませてみると、腕の中の友人からはほとんどマナを感じられなかった。

「ミニオンどもは、好きに使ってくれて構わない。威力偵察の件、頼むぜ」

 苦しげな表情ながらも必死に冷笑を浮かべて、ウィリアムはワルドの胸を叩いた。

 ワルドは力強く頷くと、了解の返事を耳元で囁く。

 赤毛の神剣士は、安堵の溜め息をついて、瞑目した。

 ワルドはウィリアムを抱いたまま、平伏するミニオン達を見た。

「……聞いていたな?」

「はい」

 一二人を代表して、マーイヤが応じた。どうやら彼女が、この顔ぶれのリーダー格らしい。

 ワルドは頷き、「最初の命令を下す」と、言い放った。

「二階にある奥から三番目の部屋が、ウィリアムの私室だ。運んでやれ」



<あとがき>

 この柳也、実は〈決意〉に意識を半分飲み込まれていないだろうか……。

 ども、皆さん、おはこんばんちはっす。今回、薔薇園という舞台装置を作っておきながら、実は本人、その手のテーマパークにほとんど足を運んだことのないタハ乱暴でございます。今回の話は、いかがでしたでしょうか?

 敵方のウィリアムがひーこら言っている他方で、我らが主人公の充実っぷり……。釘宮ボイスとデートしやがった上に刀まで……。くそっ。柳也爆発しろ。粉微塵に吹き飛んでしまえばいい!

 次回もお付き合いいただければ幸いです。

 ではでは〜




観光の予定は途中で切り上げになったけれど。
美姫 「代わりに失った武器の補充が出来たわね」
にしても、確かに決意に飲み込まれてそうな事を柳也が。
美姫 「でも、本当に飲み込まれていたら、あんな言葉だけで済んだどうか」
流石に決意でもそこまでは……うん、完全に否定できないかも。
美姫 「でしょう。さて、サイトたちが休日を満喫している一方で」
ウィリアムは必死に戦力増強中ね。
美姫 「危うい所だったけれど、ゲートを開いたし」
益々、柳也たちが不利になるような。
美姫 「さてさて、どうなっていくかしらね」
次回も待ってます。
美姫 「待ってますね」



▲頂きものの部屋へ

▲SSのトップへ



▲Home          ▲戻る