注）この話はHeroes of Heart に登場するオリキャラ……闇舞北斗のストーリーであり、本編開始前の外伝的内容となっています。
「――お前達の申し出、受けさせてもらおう」
――１９５９年１２月１１日
下校途中で突然話題を切り出された初穂は、しかしその一言ですべてを悟ったようだった。
彼女は、それが望んでいた結果にも関わらず、少し驚いたような表情を浮かべた。
「――どういう心境の変化ですか？」
俺は腕を組み、頭の中で回想を繰り広げながら言う。
「決定的だったのはあの日だな。俺は、なにがなんでも留美の現在、そして未来を守らなければいけない」
「……なるほど」
「そのためなら、俺はいかなる悪魔の所業にも加担しよう」
「酷い言われ様ですね」
「事実だろうに」
不服そうな初穂だったが、「まぁ、いいです」と、ひとつだけ溜め息をついて、彼女はにこりと笑った。
そして、彼女は右手を差し出した。
「ようこそ闇舞北斗。〈ショッカー〉はあなたを歓迎します」
差し出された右手を握り返し、俺も作り笑いを浮かべて応対する。
握手を解くと、初穂は一転して真面目な顔になった。
「早速ですがあなたに任務です。…本当なら、すぐにでもあなたには各種テストを受けてもらい、改造手術を受けてもらいたいのですが、事態は至急を要しますので」
「やれやれ、意外と人使いが荒いんだな、〈ショッカー〉という組織は」
「上層部はこの任務を、あなたへのテストの一環として選択したようです。……まぁ、ちょっと意地悪な入社試験ですね」
「そっちから誘っておいてちゃっかりテストはあるんだな……まぁ、いいだろう。それで、その任務というのは？」
初穂は頷くと、学生鞄の中からプラスチックの四角い箱を取り出した。縦横それぞれ２５センチ、３０センチといった大きさで、厚さは４センチほどある。
彼女は、近くのベンチに腰掛けると、その箱を膝の上に置いた。
「見てください」
手招きされたので、俺は彼女の背後へと回った。
初穂の髪から淡いシャンプーの香りが判るほどまで近付くと、彼女の膝の上で、箱が２つに割れた。周りがほのかに明るくなって、初穂の手元が照らされる。
――明らかに、現代の技術では考えられないようなハイ・テクノロジーの塊が、そこにはあった。割れた２つの断面にはそれぞれ１０インチの画面（明らかにブラウン管を使ったものではない）とタイプライター盤があり、初穂がタイプライターをカタカタ動かすと、ぼんやりと光る画面に映る映像が動いた。
画面に現れたのは、いくつものパターンのグラフで表されたレポート文だった。暗号文を使っているためか、まるで要領をつかめない。
「アジア……特に日本における麻薬市場のデータです」
「麻薬？」
「〈ショッカー〉の資金源のひとつなんです」
初穂の説明によると、〈ショッカー〉は麻薬を資金源の一端として扱っているらしい。麻薬は世界中のどこにでも市場があり、買い手がいるので比較的安定した商売であるとのことだ。
とはいえ、『人類の暴走をいさめ、正しい未知へと導くこと』を理念としている〈ショッカー〉としては、人間を暴走へと走らせる麻薬が、あまりにも氾濫してもらっては困る。毒は少量なら薬になるが、多量に摂ると毒以外の何物でもないのだ。
「だから〈ショッカー〉は、市場に出回る麻薬が適切な量になるように、尽力してきました。第３、第４のアヘン戦争が起きないように」
「ところが、その努力を水の泡にするかもしれない輩が現れた？」
初穂は、コクンと頷いた。
「その相手は比較的善良でモラルの高い一般市民です。多分、本人はちょっとしたお小遣い稼ぎのつもりで麻薬に手を出したんでしょうね。問題は２つです。１つは、彼はそれなりの資産家で、さらに社会的には高い地位にある医者という立場を利用して、麻薬に手を出しているということ。もう１つは……」
「相手は比較的善良でモラルの高い一般市民であるがゆえに〈ショッカー〉の存在を知らない、ということだな？」
「はい。彼は〈ショッカー〉の存在を知らないから、麻薬市場の均衡を保とうとする〈ショッカー〉の努力も知らない。困った話です」
「まったく。――で？ その人物が扱っている麻薬の詳細なデータはあるのか？」
「勿論ですよ」
タイプライターがカタカタ鳴って、別のグラフが画面を制圧した。麻薬の種類と量、そして全体のパーセンテージが記されている、円グラフだ。
「……トルエンとモルヒネが多いな。特にモルヒネが多い。全体の７割を占めている」
「戦時中、九州上陸に備えて米軍が沖縄に貯蔵していたものをネコババしたようです」
「なるほど、オリンピック作戦用か」
俺は画面から眼を放すと、腕を組みなおし、思案した。
「大体の概要は理解した。……それで、俺は何をすればいいんだ？」
「北斗先輩には件の人物とその周辺人物の暗殺、そして麻薬ストックの処分をお願いしたいのです」
「処分？ 回収ではなく？」
「１５年近くも昔の物ですよ？ 使用期限切れの物がどれだけかるか…」
「なるほど、違いないな。……ところで、処分ということは、麻薬は本人の自宅に備蓄してあるのか？」
「はい。無用心なことに。それと、作戦には私もバックアップに着きます」
「…了解。やっこさんの自宅の見取り図と、暗殺対象の周辺人物とやらのデータは、勿論入っているんだろうな？」
「当然です」
まず画面に映し出されたのは、巨大な屋敷の見取り図だった。全面に芝生の広がっている洋館で、その気になれば侵入は容易そうである。
というより、すでに何処かで何度か入ったことのあるような―――
「ん？」
「どうしたんです？」
「……いや、何処かで見たことがあるような気がして……それより、暗殺対象のデータを」
「それは口頭でお伝えします。暗殺対象者は当人とその家族――妻１名、娘１名の計３名と、使用人６名の計１０名」
「１０人……出来なくはないが、暗殺となると厳しい人数だな。……全員やらねばいけないのか？」
「当然です。以降、そんな輩が出ないようにという、見せしめのためでもあるんですから…。私達はここまでやるんだぞ、と」
可愛い顔して、言う事はとんでもない娘である。
「――そうすると、それなりの準備が必要だな。初穂、今から言う物を揃えてほしいんだが」
「任せてください！ この世界にある者で、私達〈ショッカー〉の手に入らない物はありません。……待っててください。今、メモの用意をします」
初穂がカタカタとタイプライターを操作するのを待って、俺は言った。
「ステンＭｋⅡサブ・マシンガンのサイレンサー・モデルを１挺。弾倉は３本（９６発）で、弾薬は消音性の高い亜音速弾を用意してくれ。それから焼夷手榴弾を１ダース。うち半分は初穂に持ってもらうことになる。…あとは油だ。特別に燃えやすい物……そうだな、灯油を５ＵＳガロン（約２０Ｌ）、ポリタンクに詰めて用意。最後に自動車。これは必ず、だ。装備一式を積んでいくから、馬力の強い、頑丈なやつを用意してくれ。……あと必要な物は、俺の方で用意するから」
「わかりました。……それにしても、注文が随分明確ですね。もしかして、もう計画を立てちゃったとか？」
「……まぁな。シンプルだが、その分成功時の効果は高いはずだ」
至急を要するということだから、出来るだけ作戦行動に必要な準備期間は短いほうがいいはずだ。ここはやたら複雑で難解な作戦を立てるよりも、シンプル・イズ・ベストで行くべきだろう。
「さすがですね。よくこれだけの短時間で１０人を殺す暗殺計画を立てるなんて……」
「誉められている気がしないな」
「それだって立派な才能ですよ」
恵まれない才能だ。こんな世界でしか役に立たない才能など、正直、欲しくはなかった。
「ターゲットの顔と名前を教えてくれ。データは、あるんだろ？」
俺の質問に、初穂は頷いた。しかし、先ほどまでとは違って快諾はしなかった。
「データはあります。けど…あまり、見るのはお勧めできませんよ？」
上目遣いで、俺を気遣うように言う初穂。
――そんなに、酷いデータなのだろうか？ だとすると、相手はとんでもないサディストなのか、人間とは思えないような醜悪な面なのか……どちらにしろ、見ていて気持ちのいいものでないのは、確かだろう。
とはいえ、どんなに見たくなくても、相手の名前や顔が分からなければ、どうしようもない。
「大丈夫。多少のことには慣れているつもりだ。どんな人物が出てきても、驚かない」
覚悟は決まった。
留美のため…そして俺のためにも、必要とあればアイゼンハワー（米大統領。在１９５３～１９６１年）だって殺してみせよう。
初穂は、最後まで渋ったが、俺の決意を察してくれたのか、最後には折れてくれた。
「後悔しないでください」
そんな台詞を、最後に吐いて、彼女はタイプライターを操作した。
映像が変わり、男の顔写真と履歴が表示される。
俺は見た。そして、絶句した。
「……………………」
……なるほど、何処かで見たことのある屋敷だな、と思ったが、見覚えがあるわけだ。
画面に表示される顔は、よく知った人物のものだった。
「夕凪権兵衛…」
夕凪総合病院の委員長にして、俺の友……夕凪春香の、父親。
俺の中で、何かが瓦解していった。
Heroes of Heart外伝
～漆黒の破壊王～
―――奪われた誇り―――
第十話「救い亡き原罪・中」
――あの日、俺……闇舞北斗が初めて人を殺した日、熱くなった銃を持ちながら、冷たくなった死体を見下ろして、子供ながら（もう後戻りは出来ないな）と、思った。
それは一面的な物の見方をすれば正しく、同時に間違いでもあった。
『人を殺してしまった』という罪の意識は、知らず俺の心を苛み、そうすることでしか留美を守れなかった自分の弱さを払拭すべく、俺をさらなる戦いへと駆り立て、俺は深みに嵌まっていった。
……後戻りは、出来なかった。出来ないと、自分自身思っていた。
小島や夕凪との出会いが、俺を変えた。３人で一緒にいる時間は楽しく、居心地が良く……２人の輪の中に居られることが、たまらなく嬉しかった。
……後戻りは、出来たのだ。２人が、後戻りできることを教えてくれた。
――多くの人を殺してきた。
――多くの進むべき道を外れてきた。
我は外道。人の理の外を歩む獣。
我は修羅。人の命などなんとも思わぬ鬼。
しかし、神はそんな悪鬼羅刹にも救いの手を差し伸べてくれた。２人に、出会わせてくれたのだ。
今や俺にとって、小島獅狼と夕凪春香はなくてはならない存在になっていた。留美と同じぐらいに大切な存在となっていた。
２人の笑顔を見るのが好きだった。
２人の幸福そうな様子を見ていると、不思議と俺も幸せになってきた。
２人の悲しそうな表情を、見たくはなかった……
―――しかし、俺はやらねばならない。
プロとして…なにより留美のために……俺は彼らの笑顔を、壊さねばならない。
呪われた人差し指をトリガーにかけ、彼女と、彼女の両親と、彼女のよく知る人達を、殺す。
大切な人を守るため、大切な人達を、殺す。
苦渋の決断……とは思わない。俺はプロの暗殺者で、与えられた仕事は確実にこなす。なんら特別なことではない。いつもやっていることだ。
ターゲットにかける情けなど持ち合わせてはいない――――その、はずだった。
――８年前、故郷のあの街に置いてきぼりにしたはずの、人殺しでない、ありのままの闇舞北斗。
小島と夕凪のおかげで、今の俺のところにやってきた彼は言う。
『殺したくない。あの２人の笑顔を壊したくない』
――殺さなければならない。しかし、殺したくない。
かつて、日露戦争の最中の日本連合艦隊指令・東郷平八郎がそうであったように、俺のまたその尖鋭的矛盾に悩んでいた。しかも、悩んでいられる時間はあまりにも短かった。俺は早急に結論を出さねばならないといけなかった。
殺したくない。しかし、殺さねばならない。
頭の中でそのフレーズが何度もリフレインし、俺を悩ませる。
苦痛の、拷問の時間が無常に過ぎ、俺の判断を促させる。
気が付くと、初穂に頼んでおいた装備は揃っていた。後は、俺が決断を下すのみ。
殺したくない。しかし、殺さねばならない。
……悩んだ。狂おしいほどに悩んだ。
悩んで…悩んで…悩んで、悩んで悩み抜いて……俺は――――
――１９５９年１２月１３日
「映画のチケット？」
「ああ。先日友人から貰ったんだが……迷惑だったか？」
「え？ う、ううん、そんなことないよ！ けど……」
「闇舞、ホントに貰っていいのかよ？」
「…ああ。本当は留美と一緒に行くつもりだったんだが、俺の方で時間を作れなくてな……気が付いたら期限が迫っていた」
「あ、ホントだ」
「俺もなんとか時間を作りたかったんだが、結局無理だった。どうせこのままにしておいても無駄になるだけだし―――」
「それで、俺達にお鉢が回ってきた、と」
「そういうこと」
納得したのかそうでないのか、どうも判断に苦しむ表情を浮かべ、小島は俺の手からチケットを取った。
俺は残った１枚を夕凪に差し出す。
「来週の日曜にでも一緒に行ってくれ」
「うん、そうするよ」
あまり詮索するのもなんだと思っただろう、合点がいかないといった表情から一転して、夕凪は上品に微笑んだ。その、彼女の気遣いが、今はありがたかった。
―――これでいい。
映画のチケットというのは、我が家の経済状況を省みるに手痛い出費であるが、これで夕凪の命を、２人の笑顔を守れるのなら、安いものだ。
後は、夕凪を小島が連れ出している間に、俺が事を進めればいい。
――１９５９年１２月１８日
日曜になった。
前日に聞いた話によると、小島達は午前１１時までに家を出て、繁華街で色々と過ごした後に、映画を観に行くらしい。昼飯も、繁華街で食べてくるそうだ。
そうすると、少なく見積もって３時間、映画を見終えてからも何処かへ寄って行くと考えると、約５時間、よほどのイレギュラーがない限り、２人が戻ってくることはないと推測できる。
早朝、午前７時。
朝食を作ってラップを被せ、留美に『仕事で遅くなるから』と書置きを残し、家を出る。
アパートの駐車場には、昨夜のうちに全ての装備を積んでおいたライトバンが停まっていた。車にはあまり詳しくないので、車種は分からないが、おそらくヨーロッパ製だろう。世間の眼を気にしてか、ナンバープレートは一応付いているものの、内容はまったくの出鱈目である。
若干遠い足場に右足をかけ、俺はライトバンに乗り込んだ。俺は日本人としては大柄な部類で、欧米人の体格に合わせて設計されたシートは意外によく馴染んだ。
キーを差込み、捻って、エンジンをかける。さぁ、ドライブの始まりだ。初穂との約束の時間までにはあと２時間ほどあるから、どこかで時間を潰さねばならない。
俺は何処へ行くアテもなく、ただアクセルを踏み込んだ。
「――その傷はどうしたんですか？」
約束の時間になって、初穂と最終ミーティングを終えた俺は、いよいよ計画を決行すべく戦闘服に着替えていた。朝鮮戦争のときに、米海兵隊が使っていた軍服で、普段の学生服より格段に動きやすい。
戦闘服の具合を確かめるため、ぐっと伸びをしたり、伸脚をしたりしていたその時、初穂は俺の右掌を指差して訊いてきた。その表情は、どこか憂いを帯びている。
俺は、言われた右手を眺めた。
なるほど、たしかにまだらで小さな醜い傷痕がある。
「――もう、治っていたと思っていたんだがな……」
普通なら気付きそうもない傷痕を見つけた改造人間の観察眼に、舌を巻く。
利き手である左手ばかりに気を遣っていたせいか、久々にじっくりと見た右手は、無言の抗議を俺に訴えていた。
俺の意識は、まだ俺が暴力団に入ったばかりで、少年鉄砲玉にすらなる以前の頃まで、遡っていった。
「当時、れっきとした俺は右利きだった。俺と兄弟の杯を交わしてくれたある人物は、普段は冷静だったが、少しでも酒が入るとよく理性をなくした。そのくせ、彼は酒が大好きだった。それと同時に、彼は大変なヘビースモーカーでもあった。……生憎、その時、灰皿はなかったんだ」
意味は正確に伝わった。
「ご、ごめんなさい」
初穂は、慌てて腰を折った。
あの後、必死に訓練して左利きに矯正したのを、よく覚えている。それこそ、智の滲むような毎日だった。
俯き加減の初穂をあえて無視し、俺は着々と準備を進める。
――と、不意に初穂は、
「……世の中には悪いことがたくさん溢れています。けれど……」
初穂の言葉の意図が分からず、俺は思わず振り向く。
俺とは違って、着替えに手間のかかっている初穂は、半裸のままだった。
「良いことだって、たくさんあります。少なくとも、私にとって〈ショッカー〉との出会いは、とても良いことでした」
「……そうか」
「もう、恥ずかしいから向こう向いててください！」
「ああ」
顔を真っ赤にした初穂に言われ、俺は踵を返す。
見た目の幼さゆえ忘れてしまいがちだが、初穂は俺よりも二回りも年上で、動乱の時代を生きてきたのだ。
世間一般の観点からすれば悪以外の何者でもない〈ショッカー〉だが、それも観る人の人格によっては、正義となる。
なにもこの場にイデオロギーを持ち込むつもりはない。
この世には善もなく、悪もなく……ただ、厳然として実像と虚像から成る“存在”があるだけなのだ。
そして、俺がソレに関与しているという事実。
「終わりました。振り向いてもいいですよ」
思考の迷路に陥りかけていた時、初穂の許可が降りた。
振り向くと、普段着の下に戦闘服を着た初穂が立っていた。バックアップ用の拳銃――２５口径のベレッタ――と焼夷手榴弾６個は完全に
カモフラージュされ、外部からはまったくその存在を覗うことは出来ない。
俺は頷くと、自身の準備を再開した。
ショルダーホルスターに弾倉を装填したブローニングを納め、ＬＢＥを肩にかける。ＬＢＥには高性能のペンライトとＫバー・ナイフ、焼夷手榴弾６個とペンフレアー（万年筆型照明弾）、弾倉ポーチが２個付けられており、弾倉ポーチにはＡＫ４７の予備弾倉が２本と、ステンＭｋⅡの予備弾倉が２本収められていた。
装備の総重量は、１０キロを軽く超えていた。
「こっちも終わりだ。……初穂、時計を合わせよう」
「はい」
「作戦の開始は―――午前１１時２０分だ」
夕凪春香は巨大な姿見の前で悩んでいた。
目下、彼女を悩ませている原因は、他人から観ればさしてとるに足らぬ物で、しかし、彼女自身にとってはきわめて重要かつ優先順位の高い問題だった。
すなわち、本日のデートに着ていく服が決まらない。
最初にクローゼットの戸を開け放つことすでに３０分。昨晩も同じように服の選定に時間をかけて夜更かししてしまったのだが、未だ目立った進展はない。というのも――
「……どっちにしよう？」
つまるところ、この一点に尽きるのである。
ベッドの上には、それぞれ正反対の意匠で選択された、２つの服一式が並べられていた。一方は白のワンピースに純白のボアコート、帽子から手袋、足元まですべて白という、彼女にしては珍しく派手目のコーディネート。他方は黒のタートルネックに白のキャミソール、シンプルなデザインのスカートという、活動的な印象のコーディネートである。
実は昨晩の時点で、「これだ！」といえる服は２点まで決まっていた。
問題は、自分という存在はこの世に１人しかおらず、その２種類の服装を同時に着ていくのは不可能である、ということだ。
「……ふぅ」
長時間にわたってのにらめっこに疲れたのか、春香は小さく溜め息をつく。
一度目をつむって深呼吸をして……改めて見たら何か違った風に見えてくるかもしれない。
そんな甘い考えを胸に眼を閉じて開いてみるが、２着の変わらぬ健全な姿を眺めて、春香はまた溜め息をついた。そして、壁にかけられた時計を見た。
――午前１０時６分。
時間的にまだまだ余裕はあるが、他の準備も考えるとあまりのんびりもしていられない。
春香は、にらめっこを再開した。
（ワンちゃんのことだから、あんまり派手すぎるのは好きじゃないよね）
空手一筋に生きてきた恋人は、特殊な性癖などはなく、視覚的に篭絡するのは難しい。強いていえば、過度に派手なものや、肌が露出しているものはあまり好まないというぐらいで、恋する乙女としては服一着を選ぶのにもかなり頭を悩ませてしまう。
「それに、ワンちゃんってそういうことにはホントに鈍感だし……」
自分がどんなに冒険してお洒落をしても、まったくそれに気付いてくれない。浮気などの心配をしなくてよい分、少し寂しい。
とはいえ、彼のそうした部分も含めて、彼に惚れてしまったのはとうの自分なのだが。
（鈍感さじゃ、ヤンミといい勝負だよ）
自分と彼を結び付けてくれたお節介焼きの友人。キリスト教でいうところの“蛇”の役割を買って出た彼。
彼と、彼を慕う後輩の姿を思い浮かべて、思わず苦笑する。
――なんだ、自分と一緒じゃないか、と。
「――決めた」
どうせどんな服を着ていっても、彼らにはすべて一緒に見えるのだったら、いっそ自分な好きなほうを着ていこう。そして、最高の自分を見てもらうんだ。
お気に入りのリボンで髪を結わえ、ちょっとだけ勇気を出してセクシーな下着を着けて……
最後に、彼女はタートルネックとキャミソールを着て、意気揚々と家を出た。
服選びに時間をかけすぎて忘れてしまったのだろうか？ 肝心の、映画のチケットを机の上に置いたまま……
今後の予定を考えていたのだろうか、屋敷から出て行く夕凪は意気揚々としており、楽しそうだった。
まるで子供みたいにはしゃぐ彼女の姿をバックミラー越しに捉え、俺はわずかに苦笑する。だがすぐに表情を引き締め、俺は時計を見ながら“その時”がくるのを待っていた。
――今回、俺が立てた計画は、３つの作戦から成るいたってシンプルなものだ。
最初にバックアップの初穂が陽動と撹乱を行い、その混乱に乗じて俺が屋敷を襲撃し、出かけていった夕凪を除く人間を、サイレンサー付きの小火器で暗殺。最後に、俺が初穂に調達してもらった５ガロンの灯油を屋敷中に撒き、死体ごと麻薬を焼却処分する。
計画の成否の鍵は『迅速な行動』。
この住宅街の中、いかに周囲に気付かれないよう、素早く、かつ正確に行動することがポイントになる。
「あと１時間か……」
長いようで短く、短いようで長い微妙な時間。だが、今から迎えるこの１時間は、俺にとって永遠にも等しくなるに違いない。
なぜなら、その１時間は…俺自身の内から滲み出る、あらゆる後悔に打ちのめされながら過ごさねばならないだろうから。
長く…長く……果て無き絶望の１時間が始まってしまった。
目を閉じると、自然とあの頃の日々が走馬灯のように蘇る……
瞼の裏側に移るのは慎ましくも楽しかった日々の記憶。
だがその平穏は、ある日突然に破られた。
初穂が生まれた１９１４年という年は、第一次世界大戦が始まったと同時に、彼女の生まれた中国が日清、日露に続いて、戦争に巻き込まれた年でもあった。
当時、中国は前の２つの戦いの影響から、列強各国からの領地分割を強いられ、第一次世界大戦における当事者の１つ……ドイツは、初穂の生まれた河北省に接する山東省を植民地としていた。日英同盟を理由に、８月２２日にドイツに対して宣戦布告し、第一次世界大戦に参戦した日本は、陸軍がこの山東省の租借地・青島を攻略。１９１５年の『対華２１ヶ条要求』でドイツが山東省に持っていた権益を継承した。
第一次世界大戦自体は初穂が５歳になるのと同時に終結したが、その影響は長く中国大陸を支配することとなった。
初穂は天津の生まれだったが、天津といっても都心部の方ではなく、都心より離れた田舎の農家の娘だった。
中国の農村のほとんどは、（２００５年現在今でも）電気も水道もなく、アヒルやブタとともに暮らし、牛馬が労働と輸送の主力である。農業の大部分は人間が手作業で行い、収穫期になると村人総出で仕事をする。
決して裕福ではなかったし、時には都市部での生活に憧れることもあった。しかし、彼女はそんな生活に対して、なんら不満を抱かなかった。村の人達はみんな家族のように接してくれたし、優しい両親と多くの兄弟に囲まれ、彼女は幸せだった。
ずっとその日常が続けばいい……そう思っていた。
日常は唐突に壊れた。
１９２６年――初穂が１２歳のその日、彼女はこの世の地獄を見た。
当時、駐留する日本兵の横暴に耐え切れず、山東省から逃げ出す者は決して少なくなかった。
そうした者達は、主に近隣の省に逃亡したところを捕らえられるのがほとんどだったが、中には逃げ延び、さらに遠くの省へと逃亡する者もごく僅かだがいた。
その日、初穂が出会った男もそうしたごく僅かな例外のひとりだった。
彼は、山東省から河北省を抜け、初穂の暮らす農村にやってきた。
天津に至るまでの過程で奪ってきたのだろう、男の手には１挺の拳銃が握られていた。今にして思えば、軍隊経験者だったのだろう、銃器の扱いには慣れているようだった。
運悪く、男が始めてやってきたのは初穂の家だった。男は一家を拳銃で脅しながら、食糧を要求した。それで命が助かるならと、両親は収穫期直前で、残り僅かな食糧を男に与えた。何日も絶食していた男は、まるで食べ物を獣のように貪った。
満腹になった彼に、両親はもう帰ってくれ、と言った。
男は両親にニヤリと笑いかけると、２人に向かって拳銃を発砲した。そして、立て続けに初穂以外の兄弟を撃った。
甲高い銃声が鳴り響き、マズルフラッシュが煌く。
家族は、即死ではなかったものの、全員が瀕死の状態だった。
男は、残った初穂に血走った眼を向けた。男は、幼女愛好家だったのだ。
男は、力任せに幼い初穂を犯した。嬲り者にした。無理矢理処女膜を破り、後ろの穴まで犯した。
その頃は改造人間でもなく、わずか１２歳の少女に過ぎない初穂に、抗う術はなかった。
ちょうどその時期、農村にはひとりの男が来訪していた。ソ連からの修行僧で、初穂の隣りの家の客人だった。
隣りの家といっても、両家の間は３００メートルは離れていた。よほどの大口径でもない限り銃声を聞きつけることなど不可能なのだが、その修行僧は不思議なことに、男が立て続けに撃ったすべての銃声を聞きつけ、初穂の家に駆けつけてきた。
初穂に口で奉仕させながら、男は扉を開けて入ってきた修行僧に対して、拳銃を撃った。
次の瞬間、不思議なことが起こった。
男の放った弾丸が、空中で突如炎に包まれたかと思うと、鉛の弾丸はドロドロに溶け、床に落ちてしまったのだ。
その光景に、男はおろか初穂すら驚愕した。
修行僧は、その間隙を縫って目にも留まらぬ速さで接近すると、男の顔面に拳を叩き付けた。男は、何メートルも吹っ飛んで、首を折った。
修行僧の名は、ミスリム・シュレッガーといった。
修行僧・ミスリム・シュレッガーの口添えもあって、急遽〈ショッカー〉の医療班の処置を受けた初穂の家族は一命をとりとめた。
この時、初穂はミスリムに“あること”を懇願する。
彼女は力のない自分を悔いた。家族を守れず、あんな男に犯されてしまった自分の無力さを呪った。
彼女は力を欲した。彼女はその力を得るための手段をミスリムから聞かされた。
柏木初穂は、〈ショッカー〉の改造人間になった。
場面は変化する。
最初の兆候に気が付いたのは１０年が経ってからのことだった。
いつものように〈ショッカー〉の仕事を終え、村へ帰った彼女は愕然とした。
彼女の視界に映ったのは、変わり果ててしまった世界の姿。
彼女は、気付いてしまったのだ。自分にとっての１年が、他人にとっては数年であるということに。
――改造人間である自分は、もはや普通の人間と同じ時間を歩むことは出来ないのだ。
そのことに気付いた彼女は、村を出た。
自分より先に両親が死んでしまうのは仕方ない。しかし、自分よりはるか後に生まれた者達が先に寿命で死んでいくのには、耐えられない。
故郷のことを忘れるため、彼女はそれまで以上に任務に没頭した。
さらに十数年経って、彼女は日本へ行くこととなった。
〈ショッカー〉の次なる標的として、制圧のための下地を作るべく陣頭指揮を執ることとなったのだ。柏木初穂の名も、その時に得た名前である。
日本制圧のための前線基地の建設が軌道に乗り始めると、途端、初穂は暇になってしまった。
彼女は新たな、前線での任務を熱望したが、それまでの功労を認められて、初穂に与えられたのは通常の『新たな改造人間の素体となる人間の選定』任務であった。
さらに場面は変化する。
初めて彼を見たのは、気紛れで通い始めた中学校の教室からだった。
体育の授業でグランドを何週もしていた彼は、激しく汗を掻いていたが息は切らしていなかった。
……一目で、自分と同じ世界で生きている人間だと確信した。巧妙な偽装工作により、そんな気配は微塵も感じられなかったが、体に染み付いた硝煙の臭いまでは拭い落とすことが出来なかったのだ。念のため〈ショッカー〉の情報網を使って調べてみると、案の定だった。少しだけ、興味が湧いた。
初穂はいつも通り、改造人間の素体としてふさわしいかどうか、監視を始めた。
彼の存在を強く意識するようになったのは、いつからだったろうか？
いつの頃からか、彼以外の素体候補者の姿は目に入らなくなってしまった。
これではいけないと、何度も彼から離れようとしたが、結局出来なかった。
彼のことを観ているうちに、彼のことをもっと観ていたいと思うようになった。
彼のことを知っていくうちに、彼のことをもっと知りたいと思うようになった。
彼に惹かれている自分が分かった。
彼色に染まっていく自分が好きだった。
これが“恋”なのだと、明確に理解するのに、それほど時間はかからなかった。
理由なんてない。ただ、彼のことが愛しくて、狂おしくて……いつしか、彼と一緒に時を歩んでいきたいと思うようになっていった。
彼に変化が現れたのは、高校に上がって間もなくのことだった。
目に見えるほどに笑う回数が増え、他人と話すことが多くなった。
原因はほどなくして判明した。
小島獅狼と、夕凪春香という２人の人間の存在。
複雑な気持ちだった。
彼の笑顔を見ているのはなによりも嬉しいことだったが、その笑顔が自分に向けられたものでないと思うと腹立たしかった。そして、そんな風に彼を変えたのが自分ではなく、あの２人であるという事実が、なによりも腹立たしかった。
彼を独占したい。
あの笑顔を、声を、自分だけに向けて欲しい。
そうした時間が長く続き、ついに初穂は痺れを切らした。
彼の存在を上層部に報告し、対面の許可を申請した。
意見が通った時の、あの嬉しさといったら……歓喜あまり人を殺してしまったほどだ。
４年間……待ちに待った瞬間、初穂は歓喜に打ち震えた。
“Ｐｉｉｉｉｉ……”
あらかじめ設定したアラームの音に、初穂はそっと目を開ける。
時計を見ると定刻通り１０時５０分。そろそろ、準備を始めるべきだろう。
北斗が自分に与えてくれた仕事は陽動・撹乱工作。世間の目を絶対に夕凪邸に向かせぬよう、誘導すること。
作戦の鍵を握っているのは、普段着の下に着ている戦闘服の胸ポケットに入っている、６個の“果実”。
初穂は、自分の胸のボリュームをアップさせている６個の果実を思って、嬉しげに微笑んだ。
――この６個を自分が託されたということは、北斗から信頼されているということだ。
そう、勝手に解釈した初穂は、なんとしても仕事をやり遂げてみせると、固い決意を小さな胸に秘めていた。
「見ていてください、北斗先輩……」
ただの人間である北斗に、遠く離れた自分の姿が見えないのは分かりきったことだ。
しかし初穂は、まるで北斗に見られているような気分で行動を開始した。
闇舞留美は決して朝に弱いわけではない。
しかし、その日はたまたま前日に夜更かしをしてしまい、起床時間は１０時半を過ぎてしまっていた。
重い瞼を擦りながらリビングへ行くと、テーブルの上に、ラップを被せられた料理と北斗の字で書かれた書置きがあった。
内容を読むと……
『急な仕事が入ってしまった。
今夜は帰りが遅くなると思っておいてくれ。
夕飯までには、なんとか間に合わせる。 兄より』
……などと、書かれてある。
読み終えた瞬間、留美の意識はぱっと覚醒した。
彼女の兄のいう『仕事』、それはつまり……
「兄さん……」
兄のことだから大丈夫だとは思うが、やはり不安ではある。
留美は、悲しげに窓の外に広がる空を見上げた。
今頃兄は、この同じ空の下、何をやっているのだろうか……？
体調は崩していないだろうか？ 怪我はしていないだろうか？ 悪い人達に捕まったりしていないだろうか……？
よりにもよってこんな日に寝坊してしまったことに、少なからず後悔する。
しかし、たとえ早起きしていたところで、兄のために自分は何をしてやれるだろう？
実際のところ、何もないのだ。 何も……
「……駄目駄目！ どんどんネガティブな考えになってる！」
留美は自分を叱咤した。
とりあえず自分には何も出来ないのだから、おとなしく家で待っていよう。
それで、北斗が帰って来た時に、最高の笑顔で迎えてやればいい。
そのためにも、今は目の前のご飯を食べなくては。
「腹が減っては戦は出来ぬ……って、言うしね」
ある意味、彼女にとってそれは戦なのだろう。
兄に心配をかけないよう…兄に甘えすぎないよう……留美は、被せられたラップを取り払った。
そんな留美の様子を、息を殺して見守る者がいた。
北斗達の暮らすアパートの向かいにある、２階建ての家の、屋根の上……
完璧な保護色を用い、周囲の風景と完全に一体化している、その存在……
〈ショッカー〉の改造人間……死神カメレオン。
後に仮面ライダーと大阪の地で激突し、華々しく散る運命にある、『怪人』だ。
といっても、彼は後に仮面ライダーと戦うことになる死神カメレオンとは別人である。留美を見守る死神カメレオンは、いわばオリジナルのコピーであり、量産型であった。量産型……といっても、オリジナルとの性能差はなく、むしろ総合的なスペックはオリジナルよりも劣っている。とはいえ、常人よりもはるかに強いことには変わりない。
死神カメレオンは、ある人物の命令で留美を見張っていた。
その人物は彼を改造人間の素体として見出した人物であり、事実上、現時点における日本支部の支部長だった。その人物は今、重要な任務に就いており、手が離せない状況にあるという。
その重要な任務には、彼女が新たに見出した改造人間の素体となる人間も参加しているらしく、彼が見張っている少女は、その人間の唯一の肉親であるらしい。
よほど重要人物らしく、自分の他、『超ステルス能力』を持った『怪人』が数体、同じように見張っているという。
監視はすでに始まっている。
闇舞北斗も、闇舞留美も、もはや逃げ出せないところまで来ているのだ。
先の大戦中、首都・東京は何度も空襲に遭った。
特に酷かったのは１９４５年３月１０日と５月２５日の東京大空襲である。
２つの空襲による被害は８万人とも１０万人ともいわれ、３月から５月にかけての空襲によって、東京市街の約５０％が焼失。その影響は戦後長らく残留することとなる。
だが、その２つの大空襲すら、及びもつかない人災が、１９５４年、戦後１０年も満たない東京都を襲った。
後に人類側から『ＧＯＤＺＩＬＬＡ』の呼称を与えられることとなる、“怪獣王”の襲来である。
東京大空襲の再来、否、第３の核攻撃だった。
一夜にして、首都は壊滅状態へと叩き込まれた。
政治の中心たる国会議事堂が破壊され、発足したばかりの自衛隊はまったくと言ってよいほど役に立たなかった。
絶望に次ぐ絶望が、生き残った人々を襲った。
しかし、それでも人類は絶望の中にあって光を忘れなかった。
苦難の連続の中、人々は『首都再建』の志を胸に、尽力した。
首都は、蘇った。
たった数年という驚異的なスピードで、かつての機能を取り戻した。
――今、小島獅狼がぼんやりと佇んでいる繁華街の街並みも、そうした人々の努力が形となったものに他ならない。
獅狼は、繁華街の植え込みの前に据え置かれたベンチに、一人落ち着きなく座っていた。
しきりに時計で時間を気にしながら、視線をあちらにやったり、こちらにやったり……まるで誰かと待ち合わせをしているかのように視線を巡らせている。
実際のところ、彼はある人物と待ち合わせの約束を交わしていた。
彼の恋人……夕凪春香である。
彼女との間で取り決めた時間は午前１１時丁度。現時刻は１０時半なので、あと３０分近くも余裕がある。
「遅ェ……」
約束の時間よりも早く来たのは自分なのに、ついそんな呟きが唇から漏れてしまう。
朝、自主練習を終えて特にやることもなかったので、１５分前行動を厳守するつもりで家を出たのだが、予想以上に早く目的地についてしまったのだ。
彼は、約束の時間より５０分も前から、ベンチでじっとしていなければならない羽目となった。
「退屈……」
５０分ぐらい、どうせすぐだろうと高をくくっていた。
しかし、やはり予想以上に時が経過するのは長く、落ち着きのない自分の性格は２０分を過ぎた時点で、早くもこの状況に音を上げていた。大概の若者がそうであるように、獅狼も“ただじっと待つ”という行為が苦手だったのだ。
かといって、何処かで暇を潰そうにも、席を離れている間に春香が来るかもしれないと考えると、迂闊に動くことは出来ない。別に時間前だから、いくら待たせようが、約束の時間さえ守れば文句を言われる筋合いはないのだが、獅狼には、不必要に彼女を待たせる気は微塵もなかった。
なんだかんだで、春香のことを思いやっている彼である。
「……せめて、話し相手でもいればなぁ」
基本的に読書が苦手な彼に、短時間で書店に入って本を買う……という発想はない。
結局、獅狼は今回の仕掛け人であり、自分と春香の共通の友人を思い浮かべた。頭の中の彼と話しをすることは出来ないが、ひたすら一つの物事に集中していれば、多少の時間潰しにはなるかもしれない。
若干の罪悪感を胸に、彼はしばし思考の海に浸ることにした。
……その男の第一印象は、得体の知れない男、だった。
小島獅狼と闇舞北斗が初めて出会ったのは１年と８ヶ月のこと。
初対面の時に受けた衝撃は今なお色褪せることなく、鮮明な記憶として思い出すことが出来る。
まるでテレビに登場するヒーローのように颯爽と登場し、出会って早々に見せつけられた驚異的な運動能力。忘れようにも、忘れられるはずのないインパクト。
彼との出会いは、獅狼にそれほどの衝撃を与えていた。
知り合って１ヶ月の間に、獅狼が北斗について知ったことは決して多くはなかった。
名前も知らないような地方で生まれた。
学問に限らず各方面あらゆる分野において頭の回転が速く、行動力がある。
未成年のくせに酒豪で、二人暮しの妹にいつも窘められている。
自分と同じように武術をやっているらしいと知ったのも、丁度この時期である。
この当時、獅狼が北斗について知っていることといえばそれぐらいだった。
あまり自分のことを話したがらない彼から得た断片的な情報は、かえって彼の存在を未知のベールに包んでしまった。
とにかく得体の知れない男……それが、その時点における小島獅狼から見た、闇舞北斗という人物の人となりだった。
それが少し変わり始めてきたのは、いつからだったか……？
『得体の知れない男』は『不思議な男』になった。
さして意味は変わらない。少し、語感が優しくなっただけである。
彼との出会いからしばらく経って、獅狼は少しずつ彼の本音を知っていった。相変わらず口数は少なかったし、得体の知れないところもあったが、彼は少し……本当に少しだけであったが、本音を見せ始めてくれた。
言葉の端々から妹のことを本当に大切に思っていることが感じられた。
行動の要所々々から周囲への気配りが感じられた。
周りが何かをやろうとすると、常に『自分は関係ない』という態度をとるものの、なんだかんだで彼らを気にし、困ったときには助言をしてやる、妙なお節介焼き。
――そういえば、自分と春香を結び付けてくれたのも、彼であったか……
クスリと口元の微笑を浮かべ、その拍子に獅狼は腕時計を見てみる。
気が付くと、すでに５分が経過していた。意外と時間潰しになるものである。
これはよいばかりに、獅狼はもっと北斗のことを考えようとした。
――と、その時、
「……あ！ ワンちゃ～～～ん！！」
どこからともなく、春香の声が聞こえてきた。
視線を向けると、息を切らして走ってくる少女の姿が見える。
（こんな街中で、しかも大声でワンちゃんかよ……）
両肩を大きく落とし、獅狼は胸の内で呟くと、ゆっくりとベンチから立ち上がった。
周囲から好奇の視線やクスクスという笑い声を感じるが、気にしないでおく。
頭を抱えながら向き直ると、同時に春香が目の前に現れた。
「はあっはあっはあっ……ご、ゴメンね、ワンちゃん……遅くなっちゃって……」
春香は照れ笑いを浮かべつつも荒々しく息を吐き、獅狼に詫びの言葉を告げた。
「いや、気にするなって。早く着いちまったのは俺のせいだし、約束の時間には間に合ったんだし……」
現在の時刻は午前１０時３７分。約束の時間まではまだ２０分以上あり、十分、許容範囲内である。
「そ、そう？ それならいいんだけど……」
徐々に息も整ってきたのか、春香は少し落ち着いた様子である。
獅狼は、そんな彼女をしげしげと眺めた。頭の先から靴の先までをじっと見つめ、やがてわざとらしく視線を逸らすと、これまたわざとらしく腕時計に視線をやる。
「……それより、あと２０分も余裕あるけど、どうする？」
「う～ん…じゃあ、ちょっと早いけどお昼にしよっか？」
「賛成」
獅狼は頷くと、指先で鼻頭を掻きながら踵を返した。
ここにきて、ようやく春香もいつもと様子の違う獅狼に気付いたのか、彼女は小島の前に出て、彼の顔を見つめる。
「どうしたの、ワンちゃん？」
「何が？」
「いやさ、さっきからちょっと様子が変だから……」
「ん、そうだったか？」
「うん…」
心配そうな春香の視線を真っ向から受け止めて、獅狼は少しだけ照れたように笑った。
「大丈夫、なんでもないって」
そう言う獅狼に、しかし、春香はまだ心配そうな表情である。
そんな彼女の背中を、獅狼はポンと軽く叩いて、歩みを促した。
「ほら、この時間ならどこの店も空いてるだろうから、早く行こうぜ」
「う、うん……」
まだ納得のいかない春香だったが、ここは獅狼に促されるままになってやった。
（言えるかよ……）
先行く春香を急かしながら、獅狼は胸中で呟く。
（いつにも増して、今日の春香は綺麗だ、なんて恥ずかしいこと……言えるかってんだ……）
――鈍感男・闇舞北斗の親友・小島獅狼。
なんだかんだで彼の“鈍感ぶり”は、春香と付き合い始めたことによって少しずつ改善されていたらしい。
何筋かの冷や汗を流してまで焦る獅狼と、しぶしぶながらと、いった表情の春香の２人は、やがて冬の繁華街にまぎれていった。
北斗と初穂はそれぞれ別の場所で、同じ時を待っていた。
しきりに時計を気にする彼らの表情は険しく、特に初穂などは、物陰にじっと身を潜めたまま、微動だにしない。
彼女は、物陰からなにか外の様子をじっと覗っていた。食い入るような視線の先にあるのは林立する住宅街。彼女の視線は、主にその中の一軒に注がれていた。
一見すると、どこにでもありそうな普通の二階建て木造建築だった。この地に建てられてすでに久しいのか、年季の入ったか柱は堂々たる風格を称えている。
「もうすぐ……」
唇から漏れた呟きは、一体何を示唆するものだったのか。
いつの間にか、初穂の小さな手には１本のボールペンが握られていた。普通のボールペンとは少し違う。太さは直径２センチはあり、ノックの部分はあるのに、ペン先の出てくる穴がない。
どうやらソレはボールペンなどではなく、何かのスイッチのようだった。
時間が刻一刻と過ぎていく。
やがて時計の針が午前１１時２０分を指した時、それは２人にとって待ち侘びた瞬間だった。
“カチリッ”
プラスチックとプラスチックの擦れ合う音がし、最後にひどく機械的な音が鳴る。
スイッチは呆気なく沈んだ。
すると、初穂が見つめ続ける木造建築の中で、“ピーン”と乾いた音が鳴り響く。それは常人では聞き取れぬほど小さな音だった。いや、仮に聞き取れたところで、それが一体何の音であるか分かる人間が、今のこの国に何人いるだろう？
しかし、改造人間である初穂はその音を聞き取ることが出来たし、実戦経験豊富な彼女には、それが何の音であるかも手に取るように分かった。
やがて数秒が経って、今度は辺り一帯に大きな炸裂音が轟いた。
――焼夷手榴弾。
テルミット反応を利用して光と高熱を放ち、対象を炎で焼き尽くすという、対人よりも対物を目的とした手榴弾。
爆風で飛び散った火の粉が床という床を焼き、壁という壁を焦がしていく。
あっという間に、木造建築は炎に包まれた。
周囲の家々から、悲鳴が上がる。
焼夷手榴弾の炸裂音を聞きつけ、群衆が集まってくる。
遠くで、幾重にも重なったサイレンの音が鳴り響き、パトロール中の警官達が、血相を変えてやってくる。
あと数分もすれば、この場は消火活動に奔走する消防隊と、それに協力する警察、そして怪我人を病院に搬送するための救急隊、彼らの活躍を見守る野次馬の群れで溢れ返り、騒然とするに違いない。
北斗が初穂に依頼した陽動・撹乱の狙いとは、まさにそれだった。
焼夷手榴弾による火災は、これから時間差で、何箇所かで発生することとなる。まったく同様の火災が、それも時間差で複数起きる……対応に追われる各組織は混乱し、世間は焼夷手榴弾の炸裂音を聞いているがために、テロリストによる連続的無差別攻撃と解釈するに違いない。
やがて街は混乱と恐怖に包まれ、その隙に北斗自身は夕凪家に突入し、事を運ぶ。事とは、つまり夕凪一族の、暗殺だ。初穂に与えられた使命は、世間の目を夕凪邸から逸らし、北斗がそれら任務遂行に必要とする時間を稼ぐことだった。
重要な任務である。もし自分が失敗すれば、北斗は任務遂行はおろか、警察に捕まってしまうかもしれない。
しかし、成功すれば……その時の光景を思い浮かべて、初穂はわずかに唇を歪めた。
自分が北斗の役に立っていると実感でき、たまらなく嬉しかったのだ。
初穂は、緩む頬を必死で引き締めようとしながら、新たなボールペンを取り出した。
（次の起爆は１０分後。それまでに、設置場所に移動しないと…）
彼女は、使ってしまったボールペンタイプの信管を捨てると、物陰から立ち去ろうとした。
――と、踵を返したところで、その歩みは止まった。
彼女の目の前に、ひとりの男がいたのだ。
浮浪者と思わしき風体で、呆然と見開かれた目で、初穂の足元に転がっているボールペンを見つめている。
見た目から３０代後半といったところだろう、もしかしたら、大戦中は技術将校だったのかもしれない。ボールペンを見つめる彼の表情は、明らかにそれが何であるか、知っている者の顔だった。
男は、踵を返して駆け出そうとした。
初穂は、軽く舌打ちして、私服の下に隠した戦闘服のポケットから、小型の自動拳銃……ベレッタＭ１９１９を抜く。
サイレンサーはなかったが、このまま警察に駆け込まれるよりマシだった。
“トンットンッ……”
小口径拳銃らしい、小さな銃声が２つ。
ベレッタの２連射を頭部に受けた男は、悲鳴ひとつ上げられずうつ伏せに倒れた。即死だった。
改造人間の感覚器官からそれを悟ったのだろう。初穂は、死体の確認もせず、一目散にその場から駆け出した。
身を潜むために家々の間にいたせいか、銃声の余韻はまだ続いている。
早くこの場を立ち去らねば、無用の厄介事を抱え込んでしまうかもしれない。
そんな考えから、初穂は死体の確認も、空薬莢の回収も怠ってその場を立ち去った。
やがて初穂の姿も見えなくなり…場は、一時の静寂に包まれる。
静寂は本当に一時に過ぎなかった。
場は、徐々に大きくなっていく何かの羽音によって、その静寂を掻き乱される。
林立する家々の合間を、住民達に気付かれぬよう縦横無尽に飛来する、人。
蝙蝠男は、死体のある場所まで降り立つと、初穂の捨てた信管、空薬莢を拾い、男の死体を牙２本で咥え、持ち上げた。
驚嘆すべき顎の力。
しかし、それ以上に驚くべきは、蝙蝠男は、少なくとも６０キロはある男を咥えたまま飛び上がったという事実だった。
羽音が徐々に遠ざかり、その場に、再び静寂が訪れる。
その静寂は、今度はけたましいサイレンの音に掻き乱された。
サイレンの音は、北斗にとって初穂の陽動・撹乱作戦が始まった合図だった。
ライトバンの中でその報せを聞いた北斗は、ついにこの時がきてしまったかと、暗い面持ちで動き出した。
懐へと手を伸ばし、ショルダーホルスターに差し込まれたブローニング・ハイパワーを引き抜く。
苦悩に満ちた表情で掌の機械を一瞥すると、彼は助手席に置かれたブリーフケースから、さらに２つの機械を取り出した。
特注品のサイレンサーと、これまた特注品のスポット・ライト。
北斗のブローニングは、通常の物より若干銃身が長くなっている。この銃身もまた特注品で、その表面にはネジのような溝が彫られ、これは銃の命中精度を高めると同時に、専用のサイレンサーを装着するための役割があった。
暗殺にサイレンサーは必需品である。
例え完璧な消音効果が得られずとも、無音殺人術には欠かせない。それは、今回の主役の１挺でもある、ステンＭｋⅡも同様である。
ちなみに、スポット・ライトは念のためのアクセサリーだった。
昼間で、充分な視界が確保できているとはいえ、万が一相手がいきなり暗所に逃げ込んだ場合を想定しての、セッティングである。
サイレンサーとスポット・ライトを装備したことで、ブローニングの重量は２倍近くまで増加した。
北斗はブローニングのグリップに、優しく弾倉を挿入する。
彼はブローニングのグリップを深く握ると、親指を動かし、ついにサム・セフティを解除した。
この瞬間、北斗の頭の中のスイッチは切り替わった。
親友の肉親を暗殺せねばならないことに悩む男の表情はなりを潜め、冷徹な暗殺者『killing child』の顔が浮かび上がる。
北斗は、ライトバンのドアを開け、地面に降り立った。
肩からＬＢＥをかけた戦闘服の上にトレンチコートを着込んだ北斗は、ステンＭｋⅡサイレンサーとＡＫ４７の２挺を背負い、その手には１２月３日のあの日、吉沢刃物で店長より受け取った、あの全長１メートル以上ある巨大な木箱を抱えていた。
ライトバンの停車位置から夕凪邸の玄関までは１０メートル足らず。
北斗は、やや早足で玄関の前まで移動した。
巨大な門の奥に広大な芝生があり、その芝生の上に、これまた巨大な屋敷が建てられている。
彼はしげしげと舐めるように屋敷を眺めると、門に備え付けられたインターフォンのブザーを押した。
北斗の手の中で、ブローニング・ハイパワーのハンマーが起こされた。
小島獅狼と夕凪春香は、どういうわけか繁華街ではなく、春香の自宅へと足を運んでいた。
映画館に入る直前、春香がチケットを自宅に忘れてきてしまったことが、発覚したのだ。
「……ったく、なんでそんな重要なモンを……」
「うぅ…ゴメンねぇ……」
愚痴る獅狼だったが、その顔は本当に嫌という風ではなかった。
少し早足の春香の足元を気遣いながら、獅狼は彼女を先導する。
その先に、何が待っているとも知らず……
“バスッ”
「ああッ！」
大雑把に言ってしまうと、サイレンサーというのは、射撃の際に発生する音エネルギーを熱エネルギーに変換し、消音する装置である。この時、熱エネルギーに変換する音エネルギーは、あくまで銃声のものみで、通常のオートマチック拳銃での完全な“消音”はありえない。なぜならオートマチック拳銃は排莢の際に薬室が解放された時、音は漏れてしまうからだ。だから一般的に消音拳銃と言われるイギリス製・ニムロッド拳銃はスライドを固定し、基本的に単発で使用される。
とはいえ、その程度の音は、この広大な屋敷内では許容範囲内である。
今の射撃の際に行われた排莢が、外部に聞こえたとは到底思えない。むしろ懸念するべきは、今上がってしまった悲鳴であろう。今の悲鳴で、ただ１人残った標的が、俺の存在に気付いてしまったかも知れない。
作戦は恐いぐらいに順調に進んでいた。
サイレンサーを用いての暗殺は誰にも悟られることなく進み、夕凪邸に突入して最初の標的を殺ってから、今の使用人ですでに８人を射殺。残る標的はただ１人、夕凪の父親……夕凪権兵衛のみとなっていた。
外部への接触を絶つべくすでに電話線を断たれ、残る権兵衛氏はまさに袋のネズミだった。
２階の執務室に居る権兵衛氏にもはや逃げ道はなく、周囲に助けを呼ぶことも叶わない。
進行は順調だったが、じっくりと時間をかけていられるような余裕はなかった。こちらからでは初穂の陽動・撹乱がどれほど成功しているか分からないし、早く次の段階に進まないと夕凪が帰ってくるかもしれない。
俺は広い屋敷の中を静かに駆け、執務室へと向かった。
休日、権兵衛氏がこの部屋で昼食までデスクワークをしているのは、すでに調査済みだ。
俺は執務室の扉のドアノブに手をかけると、極力音を出さぬよう、ゆっくりと捻った。
少しだけ扉を開け、息を殺して中を覗くと、情報通り、彼はこちらに背を向け、書類仕事に没頭していた。
こちらに気付いているような気配は……ない。
狙うなら、今だ。
背凭れがあるので、万が一射撃に失敗した時のために、ステンＭｋⅡサイレンサーで狙いを定める。
当然、照準を合わせるのは氏の、頭部だ。
安全装置が解除され、射撃スイッチがセミ・オートになっていることを確認すると、俺はトリガーを１回だけ引き絞った。
こうスンナリといく仕事も珍しい。 ２０回やって、１回あるかないかぐらいの頻度ではないだろうか？
最後に夕凪権兵衛氏を殺害した俺は、目下、屋敷のどこかに保管されている麻薬の処分をすべく奔走していた。
方法はいたって簡単、焼却処分である。それも麻薬のみを、ではない。
初穂に調達してもらった灯油を屋敷中に撒き散らし、屋敷ごと、焼却する。
幸いにして屋敷には燃えやすそうな物が大量にあった。それに加えて、５ガロンもの灯油……例え在り処が分からずとも関係ない。
俺は自分自身に灯油がかからぬよう注意しながら、等間隔に、屋敷の主要な箇所に灯油をばら撒いた。
無論、夕凪家の屋敷は広大である。
５ガロン程度の油で事足りるはずもなかったが、不足分は屋敷中の油で補うことした。
さすがに金持ちだけあって、食品油ひとつとっても、良質なものを使っている。石油ストーブ用の灯油もそれは同様で、もっとも、今回はそれが仇となるわけだが。
９つの射殺体は、一箇所に集め、その衣服にたっぷりと油を染み込ませてやった。
人物はおろか、性別の判別すら出来ぬほど、燃え尽きるように。
９人が１０人に見えるほど、体がグシャグシャになってしまうように。
何度も、何度も、念入りに油を塗り込む。
最後の仕上げは焼夷手榴弾の爆発だ。
テルミット反応によって生じた熱と光は、爆風によって広範囲に飛び散り、油を伝って屋敷中に燃え移るだろう。１個の爆発で足りなかったら、２個、３個と追加していけばよい。
そうして屋敷全部が炎に包まれたら、今回の俺の仕事は終了だ。
俺は晴れて、名実ともに〈ショッカー〉の一員となれる。
俺は最後のポリタンクの取っ手を掴み、キャップをはずして中身をばら撒いた。
ばら撒くといっても、そう激しい撒き散らし方ではなく、自身に油が跳んできては本末転倒なので、静かに、染み込ませるように撒く。
夕凪家の床には上質の生地を用いた絨毯が敷かれており、面白いように油を吸い取って、広範囲に拡がった。
別に面白くもなんともなかったが、俺はいつしか灯油を撒くことに夢中になっていた。
後から考えると、この時の俺は、親友の大切なものを壊してしまったばかりで錯乱していたのかもしれない。いち早くその証拠を視界から消すために、そんな子供みたいな愚行を犯していたのだろう。
俺達のような人間にとって、必要以上に集中することがどれほど危険なことか、知っていたはずなのに。
灯油をばら撒くことに夢中になりすぎて、俺は背後から迫ってくる気配に気付かなかった。
油でグシャグシャに濡れそぼった絨毯が、足音という形で教えてくれていたにも関わらず、である。
想定するべき事態だったのだ。
世の中アクシデントやハプニングは腐るほどあり、彼女が戻ってくる理由など、いくらでもあった。
そして、彼女について彼がやって来る可能性も、多分にあったのだ。
「何…やってるの？」
「……！」
振り向くと、そこには信じられない、といった様子の夕凪と、茫然と俺を見つめる小島の姿があった。
――迂闊だった。
まさか、こんなに早く戻ってくるとは……
予想外の事態に、頭の中がパニックになることはなかったものの、無様にも歯軋りしてしまう。
だが、後悔してももう遅い。
すでに賽は投げられ、２人は、俺が灯油を撒くところを見てしまった。
もう、言い逃れは出来ない。
この俺……闇舞北斗が、表社会と完全に袂を分かつときが、とうとう来てしまったのだ。
「答えてヤンミ。何をしていたの？ お父さん達はどうしたの！？」
震える声で、再び夕凪が言う。その胸中では様々な思いが同時にくすぶっているのか、彼女の表情は困惑しているようにも見える。
俺は、ゆっくりと深呼吸をした。同時に、それは決意の証でもあった。
これ以上彼女を困惑させるわけにいかない。彼女にも明確に理解出来るよう、話してやろう。
この俺……闇舞北斗が、小島や夕凪が思っているような人間ではなく、『暗殺者』という“悪”であるということを、伝えてやろう。
俺は舌で言葉を探しながら、口を開いた。
「……話すべきことが多すぎるな。とりあえず落ち着け、夕凪」
「落ち着けるわけないでしょ！ ねぇ、答えてよヤンミ！ 答えてってば！？」
「春香、落ち着け！」
動揺する夕凪とは対称的に、小島は意外にも冷静だった。
今の俺は危険だと悟ったのだろう、今にも掴みかかろうかという勢いの夕凪を、小島は体を張って押さえ込む。背後から夕凪を抱き締める小島は、この異常事態の全容を把握すべく、視線をいたる所へと向けた。
やがてひとしきり視線を巡らした彼は、俺を見た。真剣な眼差しだった。
「闇舞、お前は一体……」
「……先に夕凪の質問に答えるか。まず、俺が何をしているかだが……灯油を撒いているところだった」
「灯油？」
「ああ。全部で５ガロン。他にも油は大量にあるが、それだけあれば、この大きな屋敷だって燃えるだろう」
小島は、特に驚かなかった。鼻先にツンとくる臭いで、すでに俺が撒いているものが灯油だと見抜いていたのだろう。もっとも、何故、俺が灯油を撒いているかまでは、分からないだろうが。
逆に驚愕する夕凪は、矢継ぎ早に次の質問を浴びせてくる。
「何でそんなことをしているの？ 何でヤンミがそんなこと……！」
「何で……か……」
まったく、何で俺はこんなことをしているんだろうな。
「証拠隠滅のため、というのが妥当だろうな」
「証拠？ 一体何の……」
「人殺しの」
『！？』
今度の発言には、夕凪はおろか、薄々は察していたであろう小島までもが、驚愕の表情を浮かべた。
俺は極力平静を装いながら、言った。
「別に驚くことはないだろう？ 夕凪、次の質問に答えてやる。お前の親父さんは、俺が殺した」
肩から下げたステンを大仰な仕草で掲げ、愕然とする２人に見せ付ける。
なるべく俺が悪人に見えるように……なるべく俺が狂っているように……芝居のかかった口調で、俺は続けた。
「ただ、死体が残ってしまってな。その処分のために、油を撒いていた」
夕凪権兵衛氏が麻薬に手を出していたということ、そしてそれを処分するために油を撒いたことは言わない。言えば夕凪のことだ、自分が麻薬から生まれた金で生かされてきたことを知って、罪の意識を覚えるに違いない。
罪人は俺一人で十分だ。わざわざ、父親の犯した罪を、彼女達に教える必要はない。
「嘘…でしょ？ ねぇ、嘘でしょヤンミ？ 嘘って言ってよヤンミ！？」
「残念だが事実だ。氏は俺も好きだったが、ある人物からの依頼でな」
「依頼って……」
「闇舞、お前は……」
俺はゆっくりと頷いた。
とうとう……とうとうこの時がきたのだ。
最も大切な友人達――明るくて、大好きで、裏社会の事情など何一つ知ってほしくなかった彼ら――に、とうとう、裏の人間である俺の正体を明かすときが……
俺は２人の顔を見た。
複雑な表情のうちから滲み出ている、恐れ、怒り、憤り、悲しみ、疑惑、嫌悪といった、負の感情。
……出来ることなら、２にはこんな顔をしてほしくはなかった。そして、そんな表情を浮かべている原因が自分にあると思うと、たまらなく胸が痛んだ。
「『killing child』という名を知っているか？」
「『killing child』――死の子供？」
「それが一体何だっていうんだよ？」
「ある男のふたつ名だ」
こともなげに言う今の俺は、２人の目にどう映っているだろうか？
親友の父を殺した、１人の狂人だろうか？ それとも殺戮の中にしか生きる意味を見出せない、戦争の犬だろうか？
――いや、どちらでもよい。
２人から見て、俺が悪魔同然の男ならば、それでいい……
「その男は裏社会という闇に身を寄せている人間だ。１０を数えるより以前から拳銃を手にし、８年の間に２００人以上を殺した、暗殺者……」
「暗殺者って……まさかヤンミ……」
大きく瞳を揺れ動かし、身を震わせる夕凪。今、自分の中で生じたその考えを信じたくないのだろう。
しかし、どれほど徹底的に否定したところで、事実は変わらない。
俺は精一杯の作り笑いの冷笑を浮かべ、静かに頷いた。
「俺は人殺しだが Murder じゃない。かといって国家に与する Soldier でもない。依頼者から金を受け取り、依頼者の傀儡となって人を、殺す。殺人代行者、Assassin 。それが、闇舞北斗の正体だ」
２人の表情に、驚愕という名の衝撃が走った。
もっとも、今やその称号はほとんど意味をなさない。今日をもって闇舞北斗はフリーの暗殺者でなく、永久的に〈ショッカー〉に従属する戦士となるのだ。
「う、そ……ヤンミが暗殺者で、お父さん達を殺したなんて、そんなの……」
「春香……」
「嘘、でしょ。 ねぇ、嘘だよね？ 嘘だって言ってよヤンミ！！」
目尻一杯に涙を溜めながらの夕凪の言葉に、ズキズキと胸が痛む。
あくまで俺を信じようとしてくれる彼女を、しかし、俺は裏切らねばならない。
俺は口元に無理矢理憫笑を浮かべた。
「嘘じゃない。依頼者の願いは夕凪権兵衛氏とその周辺人物を暗殺することだ」
「そんな……」
「同級の好でお前だけは助けてやろうと思ったんだがな……戻ってきてしまっては、仕方ない」
トレンチコートの裏地側にある、手榴弾をぶら下げるためのベルトに引っ掛けておいたブローニングを抜く。
サイレンサー着き銃口を夕凪に向け、彼女の額に照準を合わせて、ゆっくりとハンマーを起こす。
「……前に、聞かれたことがあったな。銃弾の速さ。身をもって知るといい」
「春香！」
ブローニングの射線上に、夕凪を守るため、小島が割って入ってきた。
その表情は未だ混乱に極みにあったが、なるほど、武術家として、夕凪の恋人として、今、なすべき事、自分に出来る事を心得ている。
「……お姫様を守るナイトの登場というわけか」
「闇舞、お前本気……みたいだな」
「俺はいつだって本気だ。…プロとして、クライアントの依頼は、やはりこなさなくちゃな」
人の命を奪うこと……それがさも当然のことであるかのように言ってのける俺に、小島が怒りの形相を浮かべる。
「……どうやらお前は、俺達の知っている闇舞北斗じゃねぇみたいだな」
「一年と八ヶ月もの間一緒にいて、俺の本性に気付けなかった、その節穴同然の眼を呪うんだな。……ところで小島、お前がこの場にいるのは本来ならイレギュラーな事態だ。なぜなら、クライアントからお前の射殺は依頼されていないからな。…今日、この場で見たもの、聞いた事すべてを忘れ、口外しないというのなら、助けてやらないでもないぞ？」
依頼されたのは夕凪の暗殺だけだ。もう後戻りは出来ないとはいえ、この上で、小島まで殺したくはない。
――それなのに、この男は……
「それで春香を殺すってか？ だったらそんなの願い下げだ。……俺はなにがなんでも、お前から春香を守る」
「……そうすることで、自分が死ぬかもしれないとしても、か？」
「春香のいない世界に、未練なんてない。天国だろうが、地獄だろうが、それが春香のためなら、どこへだって行ってやる！」
「ワンちゃん……」
小島の眼……良い眼だ。決心が鈍る。
親友の裏切りにあった直後だというのに、自分も死ぬかもしれないというのに、恋人を守ろうとすることに、迷いがない。
――つくづく、俺は良い友人を持ったんだな。
「……なるほど、納得のいく答えだ。なら……」
小島の決意に当てられたのかもしれない。気がつくと、俺はゆっくりとブローニングの銃口を下げていた。
……いや、それは言い訳だな。俺は心のどこかで、まだ、夕凪を……２人の幸せを壊したくないと思っているんだ。だから、『小島の決意に当てられた』なんて言い訳を理由に、銃口を降ろした。
だが、それは本当ならやってはいけないこと。
ここで躊躇い、戸惑えば、〈ショッカー〉は俺を見放すだろう。そして、口封じのためにも、俺と留美を殺そうとするに違いない。
躊躇ってはいけない。
戸惑ってはいけない。
しかし、そう思うのに、脳裏に去来するは小島達と過ごした思い出の日々……
辛かった。
決断を下さなければならないのが本当に辛かった。
出来ることなら解答は先延ばしにして、また、３人で一緒に笑い合える日々を送りたかった。
しかし、そんな時間的余裕はない。
初穂の陽動作戦がどれほど成功しているのか、俺に確かめる術はない。しかし、よくて世間の目をごまかせるのは１日が限界だろう。俺が暗殺した夕凪権兵衛氏は夕凪総合病院の医院長。社会的な地位は極めて高く、そんな人物がある日突然にいなくなったら、すぐに世間は疑念を抱く。
逡巡をしている時間は、ない。
今すぐに、決断を下さねばならない。
２人の眼には、どう映っただろう。去来する楽しかった日々の思い出を振り払うように、俺は頭を振った。
ブローニングをコート裏のベルトに引っ掛け、何かの拍子に暴発しないようサム・セフティをかけ、ハンマーをデコッキングする。
無手になった俺は、ようやく言葉を続けた。
「……武術家であるお前に免じて、俺も素手で戦おう。…ただし、いつものような練習試合と思うな。これから行うのはルールに縛られることのない、純粋な殺し合いだ」
格闘かはより強い攻撃力を持つほうの半身を前にする。
左構えの両膝はリラックスした状態でやや曲がり、足刀は相手に対して４５度の位置をキープする。
人体の急所が集中する正中線を守りつつ、重心はバランスよく、そしてリラックスして……ただし、即座に反応できるように。
リングの上ではなく、過酷な状況下での使用を前提とした、実戦の構え。
かつてない俺の殺気と闘気、そして見たことのない構えに、夕凪が不安げな表情を浮かべた。
「ワンちゃん……」
「大丈夫だって。心配すんな」
恋人の身を案じる夕凪を安心させようと、小島は軽く振り向いて笑みを浮かべる。
その隙を突いて、俺は構えもとっていない小島に襲い掛かった。
「フッ！」
爆発的呼吸とともに放つ、先手必勝の一撃。
さしもの小島も、この完全な不意打ちには、応対出来ない。
「ワンちゃん、後ろ！」
「ッ……！？」
夕凪の警告も甲斐なく、俺の拳は小島の頬にクリーンヒットした。
しかし、さすがはタフネスが自慢の小島。
日頃のインパクト・トレーニングが功をそうし、彼は普通の人間なら確実に倒れているところを必死で踏み留まり、あまつさえ反撃の拳を放ってきた。
俺はそれを余裕で躱すと、何か物言いたげな小島が口を開くよりも早く、俺は忠告する。
「言ったはずだ。これはルールのない殺し合いだと」
言葉とともにもう一撃。
型などない、実践の中で磨き抜いてきた必殺の拳。
虎が爪を立てるかの如き五指のうち、四指で作った鋭角をもって鼻先を打つ。
ピンポイントに鼻頭を打たれた相手は、同時に涙腺を刺激され、涙で視界を奪われる。
「……がッ！！」
よろめいたところで、さらにもう１発。今度は頭部から一転し、胸部心臓の位置への攻撃。
構えをとる間は与えない。なんだかんだで１０キロを超える装備の枷は長期戦に支障をもたらす。狙うなら短期決戦。流れを掴み、そのまま流れに乗って、敵を倒す。
鼻を打たれ、心臓を打たれ、肉体の構造上、視力を失った小島の脛に、踵をぶつける。
反射的に蹴られた足を引き、必然やや前傾姿勢になった小島の鳩尾に、間髪入れぬショベル・フック。
浮き上がろうとする彼の体。俺はその背中にもう一方の腕で肘を落とす。
「げッ……！！」
「ワンちゃん！」
夕凪の口から、悲鳴が上がった。
俺と小島の戦いは、低俗な殺し合いですらなかった。
俺の手による、一方的な私刑。
浮き沈み激しい肉体を、俺は思いっきり蹴り飛ばす。
俺の蹴りに応戦することも出来ず、小島の体は朽ち木の如く宙を舞った。
そして…………受け身さえとれず、油まみれの床に、落下する。
「グ……ハァッ……！！」
夕凪の元から２メートルも離れた位置に落下した小島。
タフネスが自慢の彼も、度重なる攻撃――すべて急所に炸裂――には敵わない。
苦しげに呻く彼は、防戦すら出来なかった。
力量の差は圧倒的。
勝敗の帰趨は明らか。
――だが、それでもなおこの男は……
「立ち上がるのか…愛する人のために」
ノロノロと立ち上がり、構えをとろうとする小島に、表向き憫笑を浮かべながら、内心驚嘆する。
立ち上がっただけではない。体の弱い人間ならすでに致命傷。それだけの攻撃を受けてなお小島の眼は戦意を失ってはいなかった。
「……お前に、春香はやらせねぇ……！」
「……お前には無理だ」
「なッ！？」
小島の眼には、俺の動きがどう映っただろうか？
様々な流派を学ぶうちに俺が編み出した、箭疾歩の簡易版とでもいうべき踏み込み。本家箭疾歩ほどの爆発力も、飛距離もないが、必要となる予備動作が短く、それだけ即応性に優れている。
一瞬で目の前に現れた俺に、小島はなす術がない。
胴体の急所という急所をアッパーで、フックで打たれ、沈むヤツの体。
その上で俺は小島の顎先を垂直に、アッパーカットで殴り飛ばす。
さすがに蹴りほどの威力はないが、それでも小島は何歩か後退し、顎と腹を押さえながら、床に両膝を着いた。ダメージの総量は、先刻の蹴りを放ったときよりも上なのだ。
「ハァッハァッハァッハァッ……つ、強い……」
「…限界だな。よく善戦した方だが……さすがにそのダメージではもう立てまい」
それは素直な感想だった。
あれだけ殴り、蹴れば、本人の意思に関係なく、肉体の方が限界を向かえ、悲鳴を上げる。
「ハァッハァッ……へ、ヘヘッ…オイコラ、勝手に決めつけんじゃねェよ！」
まだ立つのか……
俺は内心舌打ちをしながら、繰り出された拳を回避する。
口では強がっていても、体は嘘をつけない。拳速は遅く、回避にそれほど労は要さなかった。
「ハァッ！」
気合とともに放たれる第二撃。
目測で秒速７メートル前後。常人と比べれば大分速いが、本調子の時の小島と比べると、やはり断然遅い。
拳速が遅いということは、すなわち威力も弱いということ。たとえ体重が載っていても、この程度、躱すまでもない。
俺は五指を広げ、小島の拳を掴んだ。
「ッ……！？」
メリメリと小島の拳が悲鳴を上げる。
五指のすべてに万力を籠め、俺は小島の拳を握り潰した。
“メシャアッ！”
骨が砕けた。
「なッ……！」
小島の両眼が、驚愕に見開かれる。
まさか俺がここまでの握力を持っているとは思いもしなかったのだろう。どっこい、俺の握力はリンゴを片手で潰せるのだ。
「グ…ァァ……ハァッ……」
腕に走る激痛を堪えようと、必死に声を押し殺そうとする小島。
痛みを振り払うかのように蹴りを繰り出す彼だったが、やはり遅い。
俺はパッと拳を手放し、双拳をもって応戦した。
蹴りが俺に到達するよりも早く、双拳はその足を左右から打って受け止めた。
俺はそのまま痛みに震える小島の足を解放し、ヤツの体側へと身を捻りながら駆ける。
翻ったコートが視界を遮り、死角から小島の脇腹を蹴った。
片足に一撃を喰らい、踏ん張りの効かない小島に、踏み留まれる道理はなかった。
“バシャッ！”
倒れた果てに、小島は絨毯の上を滑るように転がった。わずかに油が飛び散り、小島の体を濡らす。
次こそは絶対に立つことは叶わない。
片手片足という牙を抜かれ、あまつさえ脇腹……肝臓を打たれたのだ。
絶対に、立てるはずが……
「……何故だ？」
「もう、いいよ……」
「…………」
「何故、立ち上がる？」
「もう、いいから……」
「…………」
「何故、立ち上がれるんだ！？」
「私のことは、もういいから！」
「馬鹿言ってるんじゃねぇよ、春香……」
力量の差は圧倒的だと見せ付けたはずだ！
絶対に勝てないと、分かっているはずだ！
「お前が何て言おうと、俺はお前を守る。闇舞がどんなに強くて、例え万に１つも勝ち目がなくても……絶対に、お前だけは……」
「獅狼……」
「小島……」
――分からない。
一体何がこの男をこんなにも駆り立てる？
夕凪への愛？
しかし、本当にそれだけで人はこんなにも強くなれるのか！？
「ウォォォォォォオオオッ！！！」
小島が吼える！
獅子の如く、狼の如く、吼える！！
「馬鹿なッ……！」
瀕死の、鳥に例えるなら片翼をもがれた状態の小島の、どこにそれほどの力が残っていたのか？
本調子の時と寸分たがわぬ拳速の一撃。
ギリギリの間合いでそれを躱し、反撃の一発を見舞う。
もはや小島には俺の一発に耐えられるほどの体力はなく、急所でもない箇所だというのに、小島は倒れた。
だが、彼は立ち上がる。
何度殴っても、何度倒しても、ヤツは立ち上がる。
立ち上がって……ヤツは戦う。立ち上がって……俺に挑みかかる。
夕凪のために……愛する人のために……
「やめて……」
もはや小島の肉体はタフなどという言葉で形容出来るレベルじゃなかった。
殴られては立ち上がり、蹴られては立ち上がる。
「もうやめて……」
死を覚悟した人間の底力？ ……いや、違う。
今までにも、刺し違えて死ぬ覚悟で挑んできた相手は何人もいた。
彼らは皆強かったが、不死身ではなかった。いつかは力尽き、いつかは倒れたものだ。
しかし、小島は倒れない。小島は力尽きない。
素手で戦っているせい？ それもあるだろうが、それにしたって異常すぎる耐久力ではないか。
「お願いだから……」
ヤツは本当に人なのか？
俺が殴り、蹴っている男は本当に人間なのか？
「お願いだからもうやめてよ！ 獅狼も！ ヤンミも！」
夕凪の悲痛な叫びも、もはや俺達には届かない。
俺達は獣になりきっていた。
生きるため、生かすために喰らい合う二匹の獣だった。
……否、俺達は獣ですらなくなろうとしていた。
「……どうやら、お互いすでに人ですらなくなっていたようだな！」
殴りながら、小島に対して叫ぶ。
「言ったろ？ どこにだって行ってやるって、よ！」
俺の拳を受けながら、小島は血と一緒に言葉を吐き出す。
「春香のためだったらどこへだって行ってやる。地獄だろうが、天の理の外だろうが……例えそうすることで、そこに住んでいる鬼になったとしても！」
ようやく合点がいった。
この男、すでに俺と同じ……
「鬼になっていたのか……」
言葉とともに放った、拳による三連撃。
先生のフィンガージャブが視力を奪い、皇族の二撃が小島の腹を激しく打つ。
反動で数歩後退し、膝を着く小島。しかし、それが限界。それ以上に彼が倒れることはなく、彼は数秒後には自分の膝を叱咤し、立ち上がった。
もはや生半可な攻撃では彼を倒すことは出来ない。
鬼であるヤツを倒すには、この拳に、己の全身全霊を籠めて、最強の一撃を放つしかない。
明心館空手、秘奥儀中の秘奥儀……吼破。
「…………」
俺の吼破・水月は中国拳法の秘儀・箭疾歩を応用した拳撃。箭疾歩は爆発的なスピードと圧倒的な飛距離を持つと同時に、相手の距離感、時間感覚を狂わせる効果を持つ特殊な踏み込みで、その発動には一種独特な予備動作が必要となる。
俺の動きから次の手を悟ったのだろう。小島もまた、一種独特な構えをとった。
「ほぅ……」
ダメージの蓄積著しいここにきて、なお微塵の隙もないその構えに、素直に感心する。
無形にして柔靭、静かな構えの中に無限の変化を秘めた、カウンター狙いの防御型。
――昨年の５月、景山高校との練習試合で見出した光明は、確かに小島の拳に宿っていた。
タフネス自慢の小島が編み出した、あらゆる攻撃に対するカウンター・パンチ。決して力みすぎることなく、柳の如くたおやかに、しなやかに……流れに身を任せ、敵を討つ。
この防御型を破るにはタイミングが重要だ。早すぎても、遅すぎてもいけない。タイミングを少しでも逃せば、軽く見積もって５００ｋｇ以上の衝撃がおれを襲うだろう。ゆうにプロボクサーが、全体重を乗せて繰り出したパンチに匹敵する威力である。まともに喰らっては、無事では済まない。
どのタイミングで仕掛ける……どのタイミングで……
「……次で決める」
鬼よ……愛する女のために鬼となった男よ……
「こい……闇舞ィッ！」
……今こそ、決着を着けよう。真の、意味での。
「獅狼ッ、ヤンミッ、ダメェッ！！」
もはや俺の耳に夕凪の言葉は届かない。
今、俺の全神経、全感覚は、髪の毛の先まで目の前の敵に集中していた。
勝利の鍵であるその瞬間を逃さぬために……
――その時、小島が信じられないような行動をとった。
動作自体はなんのことはない。ただ、目を閉じ、視界を殺しただけである。しかし、その些細な行動は実戦においてはこの上なく危険で、度し難いほどの驕慢だった。
……そう思ったのは、ほんの一瞬だった。
視覚を殺し、他の感覚を頼りに敵を迎え撃つ。なるほど、俺の吼破・水月を相手にするならば、良い手段である。
時間感覚はともかくとして、視覚を閉じれば少なくとも箭疾歩により距離感を狂わされることはない。なぜなら、対峙する相手との距離感を知覚するのに最も適した感覚は、視覚に他ならないからだ。
聴覚や触覚では相手との正確な距離を測ることは出来ない。
だからこそ、古代の中国人は視力による知覚と脳の認識がニアミスを起こすよう、箭疾歩という踏み込みを開発した。
視覚を閉じられては、箭疾歩お得意の『距離感の喪失』を１００％発揮することは叶わない。
また、視覚を閉じたことにより、より鋭敏となった他の感覚によって『時間感覚の誤認』すら、ある程度阻まれてしまう可能性がある。
重要なのはタイミングだけではなくなった。
もう１つ、『視覚を失った小島が、他の感覚器官を頼りにどれだけ動けるか』が、増えてしまった。
しかもこれに関しては、未だそんな事態に遭遇したことがないため、未知数である。推測すら出来ない。
「……ならば――」
俺は静かに息を潜め、目を閉じた。
――目には目を。歯に歯を。
視覚以外の全ての感覚が限界まで研ぎ澄まされ、ヤツと、ヤツの周りを取り巻く環境の変化を俺に伝える。
前髪をなぶる風の音。その風の通り道たる窓は、ヤツの背後にある。今までヤツしか見えていなかった俺だったが、視覚を殺して初めて観える、戦闘の大局。
漆黒の視野の中にあって、小島の姿はより鮮明に映った。聴覚が、嗅覚が、味覚が、触覚が、五感を超越した第六感が瞼の裏に情報を送り、俺の記憶がヤツの姿を再生する。
――やはり小島に隙はない。そしてそれは、ヤツ自身俺に対しても感じ取っているだろう。
もはや小細工は無用。出るタイミングを窺っていては、日が暮れてしまう。
己の全力を籠めて、乾坤一擲の一撃を放つのみ。
……俺は、大きく踏み込んだ。
「ッ……！」
俺の動きとともに空が嘶き、それを感じた小島が、動く。
防御型が無限の変化を見せ、ヤツの拳が、動き出す。
「獅狼――――――！！！」
……遠くの方から、女の声が聞こえた。
「終わりだ！ 小島獅狼――――――ッ！！！」
「闇舞北斗！ ウォォォォォォオオオッ！！！」
――吼破・水月！
―――吼破・春舞！
月が砕けて雫となり……
桜が舞い散った……
“ガシャアンッ！”
大音響とともにひび割れ、四散する窓ガラス。
窓ガラスを突破して飛び出した男……小島獅狼は、北斗の放った吼破・水月を受け広大な芝生へと転がった。
天高く光り輝く太陽を仰ぎ見る形で横たわる男は、しかし、太陽のまばゆさに目が眩むことはない。彼の意識はすでになく、その身はピクリとも動かなかった。
ただの人をして鬼になった男も、ついに気力体力ともに限界を超え、その果ての虚無の世界へと意識を飛ばしたのである。
一方、獅狼を吹っ飛ばした北斗もまた、相当なダメージを受けていた。
「グッ…フゥ……ハッ……！」
獅狼が放った起死回生のカウンター・パンチ……吼破・春舞は、不完全ながらも炸裂していたのだ。
たった１発…たった１発の拳を受けた北斗の体は、焼けるような痛みに襲われていた。
（グゥ…不完全に終わったとはいえ、このダメージか……）
恐るべきは闇舞北斗の吼破・水月か、それとも小島獅狼の鉄拳か。
獅狼のように吹っ飛ぶことはなかったものの、北斗のダメージは甚大だった。それもそのはず、獅狼が放った乾坤一擲の一撃は、万人の急所たる心臓の位置を打っていたのだ。
体内の臓腑がすべて口から出したくなるような激痛を堪え、北斗は大きく息を吐き出す。
そんな北斗を気にしながら、春香は一刻も早く獅狼の安否を確認すべく、窓へと駆け寄った。
自分の手がガラスの破片で傷付くのも構わず、窓の縁に手をかけて身を乗り出す。
広大な庭を視線で一巡し、はたして、彼の居場所は芝生が教えてくれた。
獅狼の倒れ伏している周辺の芝生は、その深緑を赤黒く塗り替えてしまっていた。本人の意識はなく、眠っているように動かない。
春香と獅狼を隔てる距離は２メートルほど。６７キロの獅狼を２メートルも飛ばした吼破・水月の威力も凄まじいが、今はそんなことに驚いている場合ではない。２メートル越しに見える獅狼のダメージは大きく、医学には素人の春香にも危険な状態であることは一目瞭然だった。
――一刻も早く病院に連れて行くか、介抱しなければ。
彼女は獅狼の元へ駆け寄ろうと縁に足をかけた。
「……動くな」
……しかし、その動きはそこで止められた。
後頭部に感じる熱い円筒状の何か――あてがわれたサイレンサーの銃口は思ったよりも太く、熱かった。
「動くな……動けば撃つ……」
しかし、春香は北斗の警告に耳を貸さず、その身を窓へと乗り出そうとする。
「動くんじゃないッ！」
北斗は、先刻の死闘で酷使し、悲鳴を上げる右腕に鞭打って、春香を引き寄せた。
暴れる春香を引きずって、窓のない壁へと押し付ける。サイレンサーの着いたブローニングの銃口は、春香の額に突きつけた。親指でサム・セフティを解除し、同時にハンマーを起こす。
「動くなと言っている！」
「撃てばいいじゃない！」
「なに！？」
警告を無視されて激昂する北斗は、しかし、次の春香の言葉を聞いて、驚愕の表情を浮かべた。
いかなることがあっても親友を殺すと今しがた心に誓った男。非情の暗殺者……『killing child』の瞳が揺れた。
春香の表情は、これより自分の命を奪おうとしている凶器と、それを操る者に向けるべきものではなかった。
人間は今生の間際になると様々な表情を浮かべる。暗殺者である北斗が今まで相対してきたそれらの表情は、常に少なからず恐怖の色が滲み出ていた。ごく稀に自らの運命を受け入れ、潔い死に顔を浮かべる者もいたが、今、春香の浮かべているのは、そうした例外も含めて、今までに北斗が見てきたそれらの表情とは決定的に異なっていた。
彼女の態度はあくまで気丈で、その瞳には涙こそ浮かんでいたが、決して恐怖の色はなかった。
「どうせわたしを撃つんだったら、早く撃ってよ！ ……けど、その代わり約束して。ワンちゃんは……獅狼だけは助けるって！」
「ッ……！」
「獅狼は言ってくれた！ わたしだけは守るって……じゃあ今度は、わたしが守る番！」
北斗の瞳が、さらに揺れ動く。
彼の心は、未だかつて受けたことのない衝撃に襲われていた。
あくまで恋人のことを互いに想い合う２人の姿勢は、北斗にとってそれほどの衝撃だったのだ。
（夕凪は、この期におよんで自分より小島の心配をしているというのか……ッ！？）
一度は固めた決意が、揺れ動く。
一度は歩もうと選んだ修羅の道筋に、突如として分岐点が現れる。
無論、留美という存在を抱えている自分にそんな選択肢は許されない。
それは分かっている。分かっているのに……
（ええい！ 考えるな！ トリガーを引け！！）
しかし、意思とは裏腹に彼の体はトリガーを引くことを拒んだ。
たった数ミリ……たった数ミリを動かすのが、これほど苦痛だったとは……
脳裏に再び、獅狼や春香達と一緒に過ごした日々の記憶が鮮明に蘇る。まるで走馬灯の如くまざまざと蘇る記憶に、北斗の心は癒され、苛立った。
だがしかし、これ以上撃つのを溜めらえば、間違いなく自分は彼女達を助けようとするだろう。
北斗は、すべての迷いを振り切るように大きく頭を振り、叫んだ。
「クソッ！ 言ったな……後悔するな！」
約束を守るつもりなど。毛頭なかった。
もはや、自分が裏社会の人間であり続けるためには、自分の顔を知る獅狼を殺さねばならない。
北斗は、トリガーを引き絞った。
“バスッ”
消された銃声が屋敷に轟き、人の崩れる音が響いた。
「く……うぅ……あぁ……ぅ……」
両膝から崩れ落ち、両腕をだらりと下げた北斗の頬には、熱い滴が伝っていた。
かつて、両親を殺された時にも流れなかった涙は、今、北斗の頬を濡らしていた。
慟哭する彼の眼前では、茫然と身を震わせる春香が立っていた。
足元に穿たれた銃痕を見、次いで泣いている彼を見て、彼女はようやく、はっと正気に戻る。
「ヤン……ミ……？」
北斗が……揺らぐことのない氷の意思を持つあの北斗が……自分を撃つのを止めた？ それに泣いている？ 今まで、決して他人に涙を見せることのなかった彼が、泣いている？
唖然とする春香を前に、北斗は嗚咽とともに小さく言葉を吐き出す。
「……るかよ……」
「え？」
「撃てるかよ！ お前を！！」
「ッ……！」
顔を上げた北斗に、春香は絶句した。
涙を流す北斗を初めて見たから……というのもある。だがそれ以上に、彼女は北斗が自分を撃つのをやめたその理由に、言葉を失った。
「撃てるものかッ、お前達を！ この街に来て、初めて出来た親友。掛け替えのない友達……そんなお前達を、この俺が、撃てるわけがない……」
その言葉で、春香はすべてを悟った。
あの映画のチケットの意味……彼は、親友である自分達の命を……幸せを守るために、一計を案じたのだ。しかしその一計は、自分が犯した些細なミスによって水泡と帰してしまった。
両親や自分の大切な人達を殺し、あまつさえ恋人に瀕死の重傷を負わせた憎むべき男……しかしその男は、自分の大切な親友……春香の心を異なった２つの感情が引き合い、惑わす。
大切な人を守るために、大切な人を、殺す……それがどれほどの苦痛であるか、春香には想像すらままならなかった。
春香は、北斗に対して何と言葉をかけてやるべきか躊躇った。
どうしていいのか分からずに途方に暮れ、子供のように泣き崩れる彼の肩にそっと手を乗せる。
しかし、北斗は差し伸べたその手を振り払った。
そして、彼は立ち上がった。
トレンチコートの裾で目元を拭い、なおも流れ出る涙に構わず、真剣な表情で春香に言った。
「……逃げろ、夕凪」
「え？」
「小島を連れて早くここから逃げろ」
先刻まで自分を殺そうとしていた男の意外な言葉に、春香は目を丸くする。
「俺の放った吼破は、小島の吼破・春舞によって不完全なまま終わった。本来の４割…いや、３割程度の威力だろう。それぐらいじゃ、小島の体には決定的なダメージとは言えない。あいつはまだ、病院に連れて行けば助かる。小島を連れて行くのが重かったら、表にあるバンを使え。俺が乗ってきたヤツだ」
「で、でも無免許……」
「そんな事を気にしている場合かッ！」
北斗はコートのポケットの中をまさぐると、ライトバンのキーを春香に渡した。
その背中を優しく押してやり、割れた窓のところまで連れて行く。
「設定は……そうだな、小島と２人で映画を観に行こうとしたら自宅に拳銃を持った暴漢が侵入していた。ソイツはどういうわけかお前の家族を全員皆殺しにし、さらにお前にまで危害を加えようとした。お前を守ろうとした小島はソイツにやられ負傷。かくいうお前もその暴漢に発砲されるも間一髪それを避け、隙を見て一撃を加えて脱出。その時撃たれた銃痕が……あれだ」
今しがた穿たれたばかりの銃痕を親指で指し、北斗は言葉を継ぐ。
「相手が気を失っている間に、お前は小島を引き摺って敷地の外へ移動。そこに犯人の使ったバンが停めてあり、たまたま鍵が付いたままだったのでそれを拝借して病院へ……こういう筋書きでどうだ？」
苦しい言い訳なのは北斗にも分かっている。鋭い警察官や医者ならば、一発で不審な点に気付くだろう。しかし、今はこれ以上の言い訳が思い浮かばないのも事実。
まして素人である春香には、その言い訳から不審な箇所を見つけることは出来なかった。彼女は北斗の用意した設定に、一も二もなく頷いた。
「よし、行け……いや待て」
北斗の言葉に、春香は再び獅狼の元へと駆け寄るのを止められた。
一体何事かと振り向くと、北斗は懐に手を伸ばしながら言う。
「手を出してみろ」
「え、あ、う、うん……」
言われた通りに両手を差し出すと、北斗は懐から取り出した水筒の仲の水を、その手にかけた。
「痛ッ……！」
ガラスの破片でできてしまった傷に水が染み、慌てて手を引っ込めそうになる。しかし、北斗が自分を治療しているのだと気付くと、彼女は引っ込めそうになった手を戻した。
「少し我慢してくれ……」
「うん」
充分に水をかけると、北斗はやはり懐から取り出した包帯を、短く千切り、長く千切り、短い方で余分な水分を拭き、長い方を彼女の両手に巻いた。
「多少はマシになるはずだ。病院に行ったら、ちゃんと処置をしてもらえ」
「うん、ありがとう」
春香は、ここにいたって北斗に笑みを浮かべた。
自分の大切な人達を殺した、憎むべき相手に向かって、感謝の言葉を述べた。
一瞬虚を衝かれたような表情になる北斗。
春香はそれを見てさらにクスリと微笑むと、窓の縁へと足をかけた。そして振り向き、言った。
「ありがと、ヤンミ。まだまだたくさん言いたい事、聞きたい事はあるけど、それはまた今度にしよ」
「そうだな……次ぎ会う時まで、お互い無事だといいが……」
与えられた任務も満足にこなせない自分に対して、〈ショッカー〉がどのような行動をとってくるか……それを想像した北斗は、暗い面持ちだった。
しかしその不安は、春香の次の言葉に払拭される。
「大丈夫！ 私達はまた会えるよ！ ……私達はまだこれから、何度でも会わなくちゃいけないんだから！」
何の根拠もない自信。
〈ショッカー〉という脅威の存在を知らぬがゆえの言葉……しかし北斗は、どうしてその言葉を信じる気持ちになった。
「ああ！ そうだな」
そして彼は、ようやく春香に笑みを浮かべた。
北斗の笑顔を見て、春香は嬉しそうに笑うと、
「……よかった。やっぱりヤンミはわたし達の知ってるヤンミだった」
「……またそれか。小島も言っていたが、お前達の知っている俺って一体何なんだよ？」
「それは、今度会った時のお楽しみってことで……それじゃ！」
「ああ！」
春香が獅狼の元へ駆け寄ろうとし、北斗が笑顔で見送ろうとしたその先に……
“トンッ！”
……一発の、小さな銃声があった。
～前話における春香と初穂の会話の正体～
「単刀直入に訊ねるけど、柏木さんはヤンミの何なの？」
「ヤンミって、北斗先輩のことですか？」
「うん、そう。――っていうか、柏木さんもヤンミのことを名前で呼ぶんだね」
「はい、一応、許可は貰いました。そうですね……私と北斗先輩は、単なる知り合いといったところでしょうか？」
「それだけ？」
「はい」
「本当にそれだけ？」
「はい、そうですよ」
「それ以上の関係になりたいと思ったことはない？」
「そ、それ以上と言いますと？」
「例えば恋人とか……」
“単位について”
本話の舞台となる１９５９年という年は、実は“メートル法”が施行された年でもあります。
ゆえに、１９５９年の時点で現役の学生だった北斗達はともかく、吉沢刃物の店長や初穂などは、“メートル”ではなく、“フィート”を使います。
判り辛い方もおらっしゃると思われるので、ここではそうした単位の一覧を掲載させていただきます。
「インチ」（ｉｎ）＝２５．４ｍｍ
元々は親指の幅から由来
「フィート」（ｆｔ）＝１２ｉｎ＝３０４．８ｍｍ
元々は足の裏の長さから由来
「ヤード」（ｙｄ）＝３ｆｔ＝９１４．４ｍｍ
元々は両手を広げた長さから由来
「グレイン」（Ｇｒ）＝０．０６４ｇ
元々は麦１粒の重さから由来
「オンス」（ｏｚ）＝２８．３５ｇ＝１６分の１ポンド
「ポンド」（ｌｂ）＝４５３．６ｇ＝７０００Ｇｒ
“柏木初穂”
生年月日：１９１４年５月１８日
身長：１４９ｃｍ
体重：不明
〈ショッカー〉のエージェントで改造人間。闇舞北斗を〈ショッカー〉の戦闘員として自主的に参加させるべく派遣された。
極端に一本気な性格で、自分が「これだ！」と、思った事に対しては、良くも悪くもひたすらにまっしぐら。容姿は改造手術を受けた時から成長がほぼストップしており、未だ中学生程度の姿。
実質的に〈ショッカー〉日本支部の支部長の役割を担っており、自身も各種戦闘・工作技術を習得しており、現時点における〈ショッカー〉日本支部内でもトップクラスの実力者。
北斗に対して、極度の恋愛感情を抱いている。
～あとがき～
前回と同じで今回も割愛。