――聖ヨト暦三三〇年、シーレの月、黒、ひとつの日、昼。
 
 

 桜坂柳也とヘリオン・黒スピリットの二人が、クライス・フッドを名乗るダグラス通産大臣の密偵から通行手形と身分証を受け取って四時間後。

 駿馬ウセハ号に跨ってサモドアを目指す二人は、バーンライトの王都まで、南にあと十キロメートルほどの地点に到達した。

 ここから先の道中は、馬で行くと目立ちすぎる。

 モニモの森でフッドからそうアドバイスを受けた柳也達は、近くの岩場の陰に杭を打ち、ウセハ号をそこに繋ぎ止めていくことにした。

 サモドア山脈に近いサモドア周辺の地形はアップ・ダウンが激しく、ちょっと探せば身を隠すのに適した死角がいくらでも見つかった。

 柳也達は手頃な岩場を選ぶと、そこに杭を打ち込んだ。

 地面に杭を打ち込んだ後、柳也は岩肌に白い顔料で文字を刻んだ。ダグラスの密偵達の間で使われている暗号文だ。解読法を知らない人間には、いくつもの幾何学模様が何の法則性もなく並んでいるようにしか見えない。

 暗号文は、ダグラスの密偵達にウセハ号の回収を依頼したメッセージだった。

 ウセハ号は王国軍の通信隊から借り受けた軍馬だった。柳也達にはこの馬を通信隊に返す義務と責任があった。

 柳也は背嚢の中から携帯エーテル燃料を取り出すと火を点けた。たちまち、細い白煙が糸のように天へと昇る。狼煙だ。柳也はウセハ号の回収ポイントを知らせる通信手段に、煙を使ったのだった。

 煙を使って遠くの仲間と意思疎通を図る技術は、一般的には古代の中国が発祥といわれる。わが国では、八世紀初めに成立した『日本書紀』に、“烽(トブヒ)”の名でその記述が認められる。狼煙、あるいは烽火と書かれたそれらの通信は、気象条件次第では数キロメートル間での意思の伝達を可能とした。煙をリレーすれば、情報の伝達距離はさらに伸びる。欠点は主に二つ。

 第一の欠点は、ものが煙だけに天候の影響を大きく受けてしまうことだ。そして第二の欠点は、基本的に煙の有無だけで情報を伝えるため、伝達出来る情報量に限りがあること。

 このうち後者の欠点については、今回の打ち上げではまったく問題にならない。今回の狼煙で伝えたい内容は「ウセハ号はここにいるぞ」というただ一つのメッセージだ。狼煙を発見した密偵の誰かが、ここまで来てくれればいい。

 また、幸いにして本日は快晴。風は微風といった程度。白煙が極端に乱れる心配はなく、まさに狼煙を打ち上げるには最適な日和だった。

 余談だが、のろしを、狼煙と書くのは、燃料に煙が多く出る狼の糞を使っていたことに由来している。もっとも、先述の『日本書紀』には、“烽”の燃料にはヨモギやワラといった植物性の物を使う、という記述がある。動物の糞を燃料に使うのは、大陸の文化なのだ。このことから、日本における狼煙の文化は、独自の起源を持っているのではないか、とする説もある。

 閑話休題。

 狼煙を打ち上げた柳也は、蒼空に溶けていく白煙を満足そうに見上げていた。

 これで、自分達がこの場を離れた後も、通産大臣子飼いの私兵達がウセハ号を回収してくれるだろう。

 柳也は次いで、杭に手綱を結んだウセハ号を見た。

 栗色の鼻っ面を撫でてやる。

「よく頑張ってくれたな」

 リモドアを出発してからここまでで、ウセハ号が踏破した距離はおよそ九〇キロメートル。その道程は、決して平坦な道のりばかりではなかった。ぐねぐね、と曲がりくねった森の中。ランドマークを一つも見つけられない大平原。荒れた野。アップ・ダウンの激しい丘陵地帯。それらすべての地形を、この優駿は、人間二人を乗せた状態で走りきってくれた。

 柳也は何度も、「ありがとう、ありがとう」と感謝の言葉を口にした。

 ウセハ号が、どんなもんだい、とばかりに、鼻息を荒くした。

 まるでこちらの言葉が分かっているかのような反応に、柳也は苦笑して、トラウザーズのポケットの中をまさぐった。

「こいつはご褒美だ」

 取り出したのは大粒のキャラメルだった。リモドアを発つ前に、疲労回復用にエスペリアが持たせてくれた物だ。

 普通、軍隊ではこういう疲労回復の甘味にはエネルギー価の高いチョコレートが適当だが、有限世界にはカカオがない。ゆえに一般的には、キャラメルが選ばれた。

 馬は甘い物が大好きだ。

 自分の口に合わせて大粒に作ってくれたミルクキャラメルを、柳也はウセハ号の舌に乗せた。

 馬は表情豊かな動物だ。

 ウセハ号は、優しい顔をしてキャラメルを頬張った。

 柳也はウセハ号の馬体を何度も撫でさすった。

「……それじゃあ、行くか」

 持ってきた飼葉をすべてぶちまけて、柳也は岩の側で、青い顔をしてうずくまるヘリオンに声をかけた。

 結局、彼女は今回の作戦中に乗り物酔いを克服出来なかった。

 柳也の言葉にも、「うぅぅ……は、はい」と、弱々しい声で応じるのがやっとという様子だ。

 ――これがまた、自分で手綱を握れば、少しは変わってくるんだろうが……。

 もっとも、スピリットが差別されるいまの世の中では、それはまず叶わないだろうが。

 柳也はヘリオンを立たせると、背中をさすりながら岩場から歩き出した。同行者の黒スピリットがこんな状態だから、二人分の背嚢を背負った。

 二人の背中に向かって、ウセハ号が嘶く。

 まるで任務の成功を確信しているかのような雄々しい叫びに、柳也達の背中は励まされた。

 目指すサモドアは、もう、すぐそこだった。

 

 

 

永遠のアセリア

-The Spirit of Eternity Sword Another Story “Twin Edge of Protection”-

第二章「蠢く野心」

Episode48「サモドア」

 

 

 

――聖ヨト暦三三〇年、シーレの月、黒、ひとつの日、昼。
 
 

 桜坂柳也とヘリオンの二人がサモドアの検問所に到着したのは、午後四時のことだった。

 高地に立つサモドアの街を、ぐるり、と囲む城壁は、平たい巨石を積み上げた立派な代物で、高さも七、八メートル近くあった。しかしその石はすべて水平に積み重なっており、強い衝撃には弱そうだな、というのが、柳也の第一印象だった

 柳也とヘリオンは、北側の城壁に設けられた城門で検問を受けた。

 検問所には、人の出入りを厳しく睨む番兵達が一個小隊常駐していた。戦時下とあって、検問所は特に兵が増員されているのだろう。全員が、槍と鎧で武装していた。

 柳也とヘリオンは、彼らにフッドから渡された通行手形と、身分証を提示した。

「リモドアの薬売り……リチャード・ギアと、サリー・ケラーマンか」

 兵士の一人がにわかに殺気だった様子で、通行手形と身分証、そして柳也達の顔へと交互に視線を移動させた。

 向けられた厳しい視線に対して、柳也は内心の緊張を必死に隠しながらにこやかな笑みを向けた。

 昨晩、ネネから聞いた話によれば、リモドア陥落の情報はまだサモドアへは伝わっていないらしい。ラキオスのリモドア侵攻は、それほどにスピーディな作戦だったようだ。ゆえに、柳也が用意した「サモドアの薬問屋に用があってやって来た」という言い分には、それなりの説得力があるはずだった。

 とはいえ、油断は出来ない。何がきっかけで正体がばれてしまうかは分からないのだ。決してボロは出すまい、と柳也は丹田に気を篭めた。

 といっても、特別何をするというわけではない。心がけるのは普通の態度。適度に不審がられない、普通の対応だ。

 古来より、敵地に潜入するスパイの鉄則は目立たないこと。普通の態度こそが、その鉄則に相応しい。

 他方、柳也の隣に並んで立つヘリオンは、ガチガチ、に固まり、萎縮していた。緊張しているのが丸分かりだ。柳也と同様ボロを出すまい、と意識しているようだが、意識のしすぎで、かえって不自然な態度となっていた。少なくとも、柳也の望む普通の態度ではない。

 番兵が、ぎょろり、と爬虫類を連想させる視線を柳也に向けてきた。

「身分証によれば、リチャードさん、あんたの年齢は三三ということだが……随分若く見えるな?」

 番兵は柳也に疑いの眼差しを向けた。

 柳也は内心でフッドに怒鳴った。いくら入手が難しかったからといっても、何もそんな年齢の人物の身分証を調達してこなくてもよいだろうに。

 三三歳と、二十歳前の自分とでは、年齢差がありすぎる。

「……これでも、若作りに苦労しているんだ」

 柳也はいかにも疲れた表情を装って言った。

「女の子にモテたいからな。少しでも自分を若く見せようと、色々と無理をしているんだ」

「サリーさんの方は、二八歳ということだが?」

「こ、ここここれでも、若作りに苦労しているんでぎゅ!」

「…………」

 柳也は盛大に溜め息をついた。自分と同じ言い訳、あまつさえ舌を噛むとは。

 番兵が胡散臭そうな視線を黒髪の少女に向ける。

 ヘリオンの額に、舌の痛みと緊張から冷や汗が浮かんだ。

 神剣の作用で強化された嗅覚に、かすかな血の臭いが触れる。どうやら、舌を噛んだ拍子に口内を少し切ってしまったらしい。

 不味いな、と柳也は思った。よもやヘリオンがこうもあがり症だったとは。

 柳也は慌てて、しかし極力平静を装いながら、番兵とヘリオンの間に割り込んだ。

「な、もういいだろう? それに、レディに年齢のことを訊くのは、紳士のすることじゃないぜ?」

「……まぁ、いいだろう」

 番兵は得心のいかぬ様子だったが、渋々頷いた。

「身分証も、通行手形も本物に間違いないしな。……その顔でリチャード・ギアを名乗っているのが、かなり不満では、あるが……。サモドアへようこそ、ご両人。こちらへは仕事で来ているとのことだが、ゆっくりしていってくれ。……もっとも、いまは戦時下ゆえ、、そうのん気なことは言っていられないが」

 検問を担当した兵がそう言うと、彼の背後で槍を担いでいた兵達が、穂先を地面に向けた。

「ご苦労さん」と、労いの言葉をかけて、柳也は検問所の門を潜った。

 記念すべき、敵国王都に刻む第一歩だった。

 

 

――同日、昼。
 
 

 王都サモドアは、サモドア山脈を背負う形で、山脈のふもとに築かれた城塞都市だった。

 もともとは聖ヨト王国の領土だった時代に、山脈で採掘された鉄鉱石などの集積地として整備されたのを起源としている。確認されている街の人口は約四万人。

 検問所のチェックをクリアした柳也とヘリオンの二人がまず足を運んだのは、サモドア経済の中心たる商業地区だった。

「まずは、腹ごしらえをしていこうぜ」というのが、商業地区へと足を向ける柳也の言い分だった。

 柳也もヘリオンも、サモドアに到着した時点でかなり腹を空かせていた。早朝にリモドアを発ってからここまで、二人はまともな食事の時間を設けていなかった。僅かに、何回か挟んだ小休止の時間を使って間食をしたくらいだ。長時間に渡る馬の旅と、敵国領土の上を歩いているという緊張とで気力と体力を著しく消耗させている二人に、その程度の食事はあってないようなものだった。

「……リュウヤさま、ここはサモドアですよ? 敵国の王都なんですよ?」

 腹ごしらえをしていこう、と言った柳也に、ヘリオンは茫然とした声で言った。

 いま、自分達が立っているのは敵国の王都、いわば敵軍の本拠地だ。自分はいつ正体がばれてしまうかビクビクしているというのに、この男はなんと豪胆なのか。感心を通り越して、呆れた感情さえ抱いてしまう。

 しかし、ヘリオンの言葉を、柳也はかぶりを振って否定した。

「豪胆とは違うな。実を言うと俺もヘリオンと一緒で、いつ正体がバレるか内心ビクビクしているんだ。俺は基本的に臆病者だよ。……臆病者だから、少し、この街を歩こうと思ったんだ」

「腹ごしらえは口実さ」と、柳也は付け加えて苦笑した。

「この街を見て、敵のことを知って、少しでも安心出来る材料を探そうとしているんだ」

 まごうことなき、桜坂柳也の本音だった。

 己は決して心の強い人間ではない。敵地に潜入するに際して、恐怖を感じぬはずがない。

 ただ、その恐怖どう向き合っていくか、恐怖とどう付き合っていくか、恐怖に対してどんな行動を取るか、そのあたりを心得ているだけだ。

 モニモの森でフッドから伝えられた、〈隠六番〉との合流の時刻まではまだ余裕がある。

 柳也とヘリオンは、商業地区の通りを並んで歩いた。

「これが、バーンライトの王都の姿か……」

 都市部の景観をしげしげと眺めながら、柳也は低く呟いた。足を動かすと同時に、油断のない視線を辺りに巡らせる。

「……なんというか、ラキオスと比べると、寂しい街だな」

 柳也の呟きに、隣を歩くヘリオンも頷いた。

 同じ王都とはいえ、サモドアの街並みはラキオスと比べると明らかに見劣りした。

 文化の源流が同じため、建ち並ぶ家々の建築様式に大きな差異はない。ラキオスの街と同様、木造か、あるいは石造りの建物が区画に沿って建ち並んでいた。しかし、いずれの建物もその規模は小さく、家の壁は薄そうだった。

 街は異様に見通しが良かった。全体として高い建物がないからだ。時折、目を見張るような巨大な洋館を見つけたりもするが、ほとんどは小ぢんまりとした家屋ばかりだ。木造建築といっても、板で壁や天井を作っただけの、ほとんど物置のような家まである。路上生活者も少なくない。

 インフラもあまり整ってはいないようだった。

 ラキオスの街は大概の通りに煉瓦を敷いて整備していたが、サモドアの街は大通りでさえ剥き出しの地面を晒していた。そんな大通りでさえ、掃除は行き届いていない様子だった。

 高地の生活には欠かせない井戸の整備すら不十分な有り様だった。井戸はいくつかの区画ごとに一個設けられているのが見受けられたが、まともに機能しているのは十個あって七つか八つ、というような状況だった。近くに有力な水源を持たないサモドアで、井戸が整備されていないというのは、柳也には致命的に思えた。

 ラキオスと比べて、バーンライトという国の経済基盤は脆弱だ。エーテル技術の水準も低い。そうした事情が国民の生活水準を低くしているのだろう。

 柳也とヘリオンは、商業地区の中でも特に商売盛んな市場へと足を踏み入れた。

 横丁に人があふれ、出入りが激しかった。ものの煮える美味そうな匂いが、腹を空かした二人の鼻腔をくすぐる。掛け声や、呼び込みらしい叫びも聞こえてきた。

 いわゆる露店や、小屋掛けが横丁の両側に並んでいた。ありとあらゆるものが売られている様子だった。

 最初に柳也の目が留まったのは大きな鍋だった。何か得体の知れない臓物らしきものをぶっ込み、ぐつぐつ、煮込んでいる。強烈な匂いの源らしかった。

 視線を隣の小屋に移すと、何やら怪しげな髭を生やした怪しげな男が、怪しげな装いで店頭に立ち、怪しげな壷を並べ、楽しげに客と会話している。色んな意味で怪しかった。

 さらに視線を隣の屋台に移す。屋台では焼き串を売っていた。野菜と肉を交互に刺した串を、軽く火で炙って香辛料を振りかけただけ、という素朴な味付けだった。やはり、何の肉かは不明だ。訊きたいような気もするし、訊かない方が精神衛生上は良いような気もする。

 柳也の視線は焼き串屋の屋台に釘付けになった。

 彼は懐具合を確かめた。ダグラスから当座の軍資金として渡された百万ルシルは、いまだ九割以上が手元に残っていた。

「よし。ヘリオン、あれを食べようぜ」

「あれって……もしかして、鍋の方ですか?」

 ヘリオンが泣きそうな顔をして見上げてきた。

 軍人に好き嫌いは禁物だが、さすがにあの鍋は柳也も遠慮したい。

 柳也は苦笑しながら、「二つ隣の焼き串だよ」と、言った。

「名将ナポレオン曰く、腹が減っては戦は出来ぬ、だ。肉食おうぜ、肉」

 柳也は早速、焼き串と飲み物を買った。飲み物は山羊の乳で、皮袋の中にたっぷり一クォート入っていた。

 柳也とヘリオンは焼き串を片手に大通りをぶらぶら歩いた。

 素朴な味付けの焼き串は、かえってそれが焼きたての肉の旨味を引き立て、二人の舌を十分に唸らせる味わいだった。何の肉か不明というのが、やはり少しだけ引っかかったが。

「……そういえばリュウヤさま」

「ん?」

「この串のお支払いですけど、お金なんてよく持っていましたね?」

 現在のラキオス王国の制度では、スピリットやエトランジェは原則現金を持てない仕組みになっている。スピリットが買い物をする場合は、軍の請求書にサインをしてもらい、その請求書を軍の会計係に提出する、というプロセスを踏む必要がある。会計係が請求書を受理して、初めて商店に代金が支払われるのだ。

 スピリットやエトランジェに給料の支給がないのは、こうした制度の存在があった。

 ヘリオンの質問に、柳也は「セッカ殿に借りたんだよ」と、はぐらかした。

 自分とダグラス大臣、そしてラキオス王の密なる同盟関係を知られてはならない。

「今回のサンダーボルト作戦を話したら、快く貸してくれたんだ。サモドアではきっと、何かと物入りになるだろうから、って」

「え? でも、返すアテは……」

 繰り返して書くが、スピリットやエトランジェに給料は入らない。

 カネを入手する手段がなければ、借金を返済することも出来ない。

「出世払いでいいってさ」

 柳也はヘリオンに軽くウィンクして見せた。実際、あの男ならそれぐらいのことは言ってくれそうだ。

 柳也は最後の筋の塊を奥歯で咀嚼し、口の中を満たす肉汁の旨味を存分に堪能した。

 皮袋に口を付け、山羊のミルクを流し込む。やや生臭い乳が、喉の奥を滑っていった。

 柳也は唇を拭って、皮袋をヘリオンに渡した。

 ヘリオンも、串に刺された最後の肉を頬張っているところだった。

 柳也の視線は、自然と彼女の唇へ吸い込まれていった。肉の脂に濡れ、グロスを塗ったように輝いている。とても魅力的な唇だった。最後の肉を飲み下し、喉が、こくん、と鳴る。

 その音に、はっ、とした。

 いかんいかん、と小さくかぶりを振る。ヘリオンはまだ子どもだぞ。何を唇に見惚れていたのか。

 最後の肉を食べ終えたヘリオンは、口の中を拭おうと皮袋の飲み口に唇を近づけ、やがて寸前で止めた。

 何かに気が付いたように、飲み口と柳也の顔を交互に見比べる。その頬は、心なしか紅潮しているように見えた。

「どうした、ヘリオン?」

「いえ、あの、その……あのあのあの……!」

 何やら動揺した様子で、ヘリオンは、もじもじ、と要領の得ない返事を紡いだ。

 真っ赤な顔をして、チラチラ、と自分の顔色を覗ってくる。

 その視線は、自分の顔全体を捉えているというよりは、特定の部位を見ているように思われた。柳也はヘリオンの視線の先に、自分の唇があることに気付いた。

 その瞬間、柳也の疑念は氷解した。

 ――ああ。そういうことか……。

 ヘリオンが皮袋に口付けるの躊躇う理由が、なんとなくだが察せられた。

 どうやら相手の唇に注目していたのは、自分だけではなかったらしい。

 今朝、ハリオンと抱き合っていた時の反応もそうだが、なんとも初心な娘だ。

 ――まぁ、そんなところも可愛いお師匠様だが。

 柳也は苦笑をこぼして、その後もたっぷり五分は皮袋の飲み口を見つめて悩むヘリオンの姿を愉快そうに眺めた。

 焼き串を食べた後も、二人は市場の様々な店に顔を出しては、歩きながらでも食べられるような料理をちょくちょくつまんでいった。

 ファンタズマゴリアでしか堪能できない味もあれば、バーンライトならではの名物料理なども頬張った。有限世界にもジャンボフランクフルトがあった事実には、かなり驚いた。パン屋で食パンを買って、サンドウィッチを作ってやると、ヘリオンも店員も尊敬の眼差しで自分を見てきた。どうやらこの世界には、まだサンドウィッチ伯爵のような考え方の持ち主は現われていないらしい。

「俺達の世界に、その昔サンドウィッチ伯爵という貴族がいてな」

 揚げたてのベーコンとレタスを挟んだサンドウィッチを頬張りながら、柳也はヘリオンに出身世界のあまりにも有名なエピソードを話した。

「彼は三度の飯よりもカードゲームが大好きな人物でな、特にトランプというカードゲームが好きだった。そのトランプ遊びをしながらでも、片手で食べられる料理はないかとサンドウィッチを作ったんだ。パンに色々な物を挟めば、ナイフやフォークで両手を塞がずとも、野菜や肉をいっぺんに摂ることが出来るからな」

「はぁ〜、横着な方だったんですね」

 あんまりといえばあんまりなヘリオンの感想に、柳也は苦笑を浮かべながら続ける。

「まぁな。でも、その横着者の、楽をしたい、っていう考え方から生まれたこいつは、いまじゃ世界中で食べられているんだ」

 順調に腹を満たしていく二人の視界には、やがて飯処以外にも様々な業種の店が目立つようになっていった。

 サモドアの街を歩き、サモドアの住人に触れ、サモドアの空気を吸っているうちに、二人の心は少しずつではあるが余裕を取り戻していった。その余裕が、二人の視野を広げ、それまで目に留まらなかった店々を視界に映じさせた。

「お?」

「あれ?」

 不意に、まったく同じタイミングで、二人の足が止まった。

 横丁の表通りからはずれた裏路地の方に、何やら人だかりが出来ている。

 いったい何の騒ぎだろう、と気になって、柳也は耳目に意識を集中した。感覚器官の強化が得意な〈戦友〉に命じて、特に耳膜の感度を高めた。

 耳朶を撫でるのはいくつもの男の声。「さあ、張った!」というテノールを合図に、右だ、いや左だ、とがなり声が一斉に響く。

 ははあ、と柳也は得心した様子で頷いた。どうやらあの集団は、青空賭博をしているらしい。

 ――こんな日の高いうちから公道で、こんなにも公然とギャンブルに興じているとは……凄い国だな。

 バーンライトではギャンブルを規制する法律がないのだろうか。あるいは、法律自体は整備されているが、国民から娯楽を取り上げるわけにはいかない、と官憲は見てみぬふりをしているのかもしれない。

 柳也は喧騒に誘われるようにそちらへと歩いていった。サンダーボルト作戦の戦勝祈願を兼ねて、少し運試しといこうか。

 隣を歩くヘリオンが、「か、賭け事はいけませんよ」と、小声で制止の言葉を投げかけた。ラキオスではギャンブルは法律によって禁止されている。

 柳也は冷笑を浮かべて、「ちょっとだけだよ」と、言って、足取りを緩めようとはしなかった。男という生き物は本質的に、賭け事という遊びが大好きなのだ。

 人だかりの中心では、白無垢の長袖シャツを着た若い男がテーブルの上に長方形型の箱を三つ横に並べていた。箱はすべて共通デザインで、煙草の箱くらいの大きさがあった。

 男はまず真ん中の箱を手に取ると、中にコインを一枚入れて、箱を振って見せた。カラカラ、という音が鳴る。男は箱を元の位置に戻すと、他の箱と位置をシャッフルし始めた。どうやらこの博打は、あのコインの入った箱を当てるゲームらしい。古典的な博打の一つだ。

 男がシャッフルを止め、「さあ、張った」と合図をした。

 一見したところ、件の箱は柳也達から見て右側に移動したように見えたが……。

「ええと、右ですよね……?」

 ヘリオンが男の手元を覗きながら呟いた。

 なんのかんのと言って、普段見ることのない人間達の営みに興味津々の様子だ。

 柳也は苦笑しながら言う。

「そう思わすところがプロのテクニックだな。たぶん左か、中だろう」

 あるいは、そう考える心理の盲点を突き、あえて右に本命の箱を置くか。

 この種のゲームは古典的なだけに奥深い。イカサマのテクニックも十分に研究されている。

 柳也はとりあえずこのゲームには参加せず、様子を窺うことにした。孫子曰く、敵を知り、己を知れば百戦危うからず、だ。まずは相手の出方を窺おう。

 柳也の予想通り、箱の所在については左か、中央かで意見が分かれた。あえて右を選ぼうとする輩もいるが、そういった連中は少数派だ。柳也同様、今回のゲームは見送る判断を下した人間もいる。

 結局、人気は左と真ん中で半分に分かれた。大穴狙いで右の箱に張る者は僅かに二人。これでもし右の箱だったら、参加者の人数から考えても相当な金額があの二人とデューラーの懐に納まることになる。

 はたして、男はまず右手で左の箱を持ち、振った。音がしない。落胆の声。

 ついで、右手で中の箱を振る。やはり音はしない。歓声の声が二人分。

 最後に、左手で右の箱を持って振った。カラカラ、という音。柳也の双眸が鋭く輝き、男がニンマリと微笑む。

「はい。いまのゲームはこちらのお二人さんの勝ちぃ〜」

「……ヘリオン、一回離れよう」

 柳也はヘリオンを顎でしゃくると、表通りへと出た。

 口ではギャンブルはいけないと言いながらも、その実、興味津々だったヘリオンが言う。

「どうしたんですか、リュウヤさま?」

「俺は絶対に勝てない勝負をするつもりはないからな」

「絶対に勝てない?」

「あれはイカサマだ」

 柳也は小声でヘリオンに言った。

「最初の二箱は右手で振って、最後の一箱だけを左手で振った。一見、各々の箱を取りやすい方の手で掴んだように思えるが、たぶん、左手には何か細工がある」

 ディーラーの男は長袖の服を着ていた。おそらく、あの袖の裏側には、マッチ箱くらいの大きさの箱が手首に結び付けた状態で隠されているはずだ。その中には、コインが入っているに違いない。

「最初にコインを入れた箱には、たぶん、下に穴が開いているんだろう。コインを入れたと思わせておいて、その実、素早く抜き取っていたわけだ。これでテーブルの上には空箱が三つ。客の張り具合を見て、いちばん儲かる箱を左手で振れば……ほれ、どう張ってもあの男が儲かる仕組みだ」

 柳也が言うと、ヘリオンは途端眦を吊り上げ、険を帯びた表情を浮かべた。

 ヘリオンは正義感の強い娘だ。相手がイカサマをしていると知って、ストレートに憤懣を口にする。

「な、なんて卑怯な……」

「べつに、卑怯でも何でもないだろ。ことギャンブルに関して、イカサマは、見抜けないマヌケの方が悪いのさ」

 博打は高度な数学と心理学とを応用した一種の戦いだ。そう考えると、イカサマは戦術の一つの形といえる。あそこにいる客達は、イカサマという相手の戦術に気付かず、敗北したのだ。敗軍の将が相手の卑劣をなじることが許されないように、あの客達も文句は言えない。

 柳也は言いながら、近くに店を構える露天商から、マッチ箱くらいの箱を買った。一緒に細い紐も買い、トラウザーズの裾を捲くって、足首に結びつける。箱の中には、硬貨を一枚入れた。

 ――相手がイカサマという戦術を使ってくるなら、こっちもイカサマ戦術で応じてやろうじゃないか。

 ギャンブルとは、テーブルの上を戦場にした戦いだ。こと戦いとなれば自然と魂が燃えてしまうのが桜坂柳也という男。柳也は好戦的な冷笑を浮かべ、再び博徒達の群れへと突入してった。

 

 

 結論から言えば、コイン探しのゲームは柳也の勝ちに終わった。

 両親の死後、この男が送ってきた人生は、決して順風なものではなかった。人間の持つ黒い側面というのも、数限りなく目にしてきた。そんな柳也だったから、騙し合いの場となれば相手を全力で叩き潰すことに躊躇いはなかった。

 足に仕込んだコインケースで一儲けした柳也は、因縁をつけられないうちにその場を離れ、横丁の表通りへと戻った。その懐は、ホクホク、と暖かい。

 往来を喜色満面の様子で歩く柳也に、隣を進むヘリオンが気まずそうに言う。

「なんだか、悪い気がしますね。去り際のあの人の顔、酷いことになってましたよ?」 「相手もプロの博徒だ。こんな日もあるさ、くらいに構えてもらわないと」

 柳也は肩をすくめて言った。

 それから、口調をちゃかした調子から改めて言う。

「さて、そろそろ〈隠六番〉との合流時刻だな」

「そうですね。もうだいぶ日も落ちてきましたし……あ」

 不意に、隣を歩くヘリオンの足が止まった。

 同時に、その視点も。

 怪訝に思いながら柳也が後ろを向くと、そこには若い男が小屋掛けの店を構えていた。店の奥に、色鮮やかな反物と、糸車の姿が見える。どうやら売り物は、あの布らしい。

 エーテル技術の存在があるとはいえ、有限世界の文明レベルは中世時代のヨーロッパの水準だ。当然、産業革命を迎えていないから、ちゃんと製品化された衣服というのはどうしても高くつく。大多数の庶民は、生地の状態で布を買って自ら衣服を縫い繕うのが一般的だった。ゆえに、こうして布のまま売る店というのも、この世界では珍しくはない。

 ヘリオンの目線は、店の奥に積み重なった反物ではなく、店先のカウンターの上へと向けられていた。そこには、生地の余り布を利用して作ったと思しきリボンが無造作に箱に詰められていた。奥の糸車で編んだ物のようだ。

 どうやらヘリオンは、箱の中のリボンのどれかに一目惚れしたらしかった。戦うためのスピリットとはいえ、彼女達も年頃の女の子だ。おしゃれには気を遣いたいだろうし、特にヘリオンは自身の長い黒髪を自慢としている。自慢の髪に合いそうな色合いのリボンが視界に入れば、そちらに視線が向いてしまうのも無理なきことだった。

 現代日本人の柳也の感覚からいうと、リボンというのはおしゃれとするにはあまりにもささやかな装身具ではある。

 しかし、そんなささやかな装身具でさえ、スピリットの身では手に入れるのも一苦労なのが現状だ。なんといっても現金を持ち歩けないというのは痛い。人間社会における経済活動のほぼ半分をするなと言われているも同然ではないか。

 ――そう考えると、いまの俺の立場というのは相当に恵まれているよなぁ。

 ダグラスとの関係は決して公には出来ぬものだが、少なくとも彼からは活動資金として現金を渡されている。このカネを、自分はある程度自由に使うことが出来る。それだけでも、いまの自分の立場というのはかなり恵まれているといえた。

「……ヘリオン師匠」

 柳也は居合いの稽古をつけてもらっている時と同じ口調で、目の前の少女に話しかけた。

 突然弟子としての立場で話しかけられたヘリオンは、きょとん、とした様子で柳也を見る。

「一目惚れなされたのは、どの品ですか?」

「え?」

「ははあ、こちらですかな? それともこちらかな?」

 柳也は小屋に近付くと、店員の男に断りを入れてから、箱に手を伸ばした。

 箱の中のリボンはどれもシンプルな作りながら、しっかり、とした手触りをしていた。色染めは相当な職人が担当したらしく、むららしいむらがまったく見て取れない。

 店主が愛想良く微笑みかけてくる。

「おや、そちらのお嬢さんへのプレゼントですか?」

「ええ。そうです。……何かお勧めはありますか?」

「黒を引き立てるには昔から白か黄色、あるいは空色と相場と決まっておりますが……」

 店主はにっこり笑ってヘリオンを見た。

「そちらのお嬢さんは、すでに心に決めた品があるようだ」

「そうらしいですね。というわけでヘリオン師匠、どちらの品をお望みですか?」

「え? え?」

 話の展開にまるで着いていけていないヘリオンは、驚いた顔で柳也と店主の顔を見比べた。

「早く教えてくださらないと、こちらで決めてしまいますよ?」

「え? あ、あ! はい。ええと……」

 いまだ事情を飲み込めぬまま柳也に急かされたヘリオンは、思わず箱の中に手を伸ばした。

 はたして、掴んだのは白無垢のリボンだった。両サイドにレース編みが施されており、可愛らしい意匠をしている。

 リボンを掴んでから、ヘリオンは、はっ、として柳也を見た。

 ようやく現在自分が置かれている状況を理解したらしい。慌てて断ろうとしたその時、柳也は、にっこり、笑って店主に言った。

「これ、ペアでいただけるか?」

「あいよ」

 店主は威勢よく言って、白いリボンを二本手に取り、紙袋に入れた。

 柳也は先刻ギャンブルで巻き上げた硬貨をカウンターの上に広げた。店主が提示した代金の倍の値段を払う。

 気前の良い客を前にして、店主は相好を崩した。

「こいつはサービスだ」と、柳也が頼んだリボンとは別に、黒いリボンのペアを紙袋に入れる。

「こいつのワンポイントは、黒地に一本、白のラインが入っていることなんだ。黒っていっても、どっちかつうと淡い色合いをしているから、彼女さんの髪にもきっと似合いますぜ」

「か、かかか彼女ぉ!?」

「応。ありがたくもらっていくよ」

 柳也は内心舌打ちしながら、愛想良く紙袋を受け取った。

 隣ではヘリオンが顔を赤くして何やら、わたわた、という形容がしっくりくる動揺を見せている。どうやらこの手のからかいに、まったくといってよいほど免疫がないらしい。

 せっかく、良い具合に肩の力が抜けてきたと思っていたのに……。店主の気を利かせた言い回しが、かえって仇となった様子だ。

 柳也はヘリオンの手を取った。

 突然、手を握られて、ヘリオンはさらに激しく動揺する。

 柳也は「行きますよ、ヘリオン師匠」と呟いて、市場を離れていった。

 いい加減、〈隠六番〉との待ち合わせの場所に行かなければならない。

 密偵のクライス・フッドから指定された場所は、市内のとある公園だった。公園と言っても芝生が手入れされているだけの広場で、特に目を引くような物は何もない。ベンチと、雨を凌ぐための屋根が何箇所かに設けられているだけだ。

 ヘリオンを公園まで引っ張ってきた柳也は、適当なベンチを見繕って腰を下ろした。

 四人がけのゆったりとしたベンチで、背もたれはない。柳也は自分の隣をヘリオンに薦めた。

「あの、ええっと……し、失礼します」

 ヘリオンはいまだ紅潮した頬のまま、おずおず、と柳也の隣に腰を下ろした。

 その膝の上に、柳也は先ほど買った紙袋を置いてやった。

 ヘリオンが、戸惑いの眼差しを柳也に向ける。自分と同じ漆黒の瞳は、どうしてこんなことをするのか、と無言のうちに疑問を呈していた。

「不肖の弟子から師匠へのプレゼントです」

 ヘリオンの視線での問いかけに、柳也は莞爾と微笑んで言った。

 ヘリオンはなおも戸惑いがちに自分と、膝の上の紙袋を交互に見る。

 何事にも控えめで、あまり我を出さない性格のヘリオンのことだ。このプレゼントにしても、自分に悪い、と思っているのだろう。

 柳也は目の前の少女が何か言うよりも先に、彼女の退路を防ぐべく言葉を続けた。

「まぁ、いつもの稽古の授業料とでも思って下さい。貰ってくれないと、俺が困ってしまいます」

「え? で、でも……」

「……欲しかったんだろう?」

 柳也は口調を改めて言った。

 ヘリオンに居合を教わる身の弟子としてではなく、STFの副隊長としてでもなく、桜坂柳也一個人として、ヘリオンに言った。

「俺の懐具合とかは気にするな。どうせ、賭け事で巻き上げたカネだ。それに……」

 柳也は呟いて、屈託のない笑顔を浮かべた。

「どうせなら俺も、そのリボンを着けたヘリオンを見てみたいしな」

 身贔屓を抜きにしても、目の前の少女はかなりの美人だ。その彼女の可憐な姿を見たいと思う気持ちは、まごうことなき柳也の本心だった。

 

 

 ヘリオン・黒スピリットが、この男から何かを贈られるのは、これで二度目になる。

 一度目の時はまだこの男と知り合ったばかり頃、STFの訓練が本格化し始めた最初の夜のことだった。

 あの日、正規の訓練で疲れた身体に鞭打って自主稽古に励んでいたヘリオンが部屋に戻ると、そこでは嬉しいプレゼントが待っていた。どうやら自分の自主鍛錬の現場を見たらしい柳也が、疲労回復にと手作りのお菓子を差し入れてくれたのだ。

 スピリットとしてごくごく自然にいまの境遇を受け入れていた彼女は、生まれて初めて人間から贈られたプレゼントに喜び、彼に……桜坂柳也という男に興味を抱いた。

 彼のことをもっと知りたい、と思うようになり、やがてその考えは柳也への弟子入りという行動に繋がった。

 そして今回、彼の人柄に触れ、彼の人となりを知った上での柳也からのプレゼントを、ヘリオンは嬉しく思った。

 箱の中に乱雑に入れられたリボンを見た時、可愛い、と思った。次いで、自分もこんなのを付けてみたい、と憧れた。しかし、自分はスピリットだ、と思い直した。スピリットの自分が、こんな可愛いらしいリボンを身に付けられるはずがない。そう思った矢先の、柳也の発言だった。嬉しくないはずがなかった。ましてやそれが尊敬する剣士からのプレゼントとなれば、喜びはひとしおだった。

 しかし同時に、ヘリオンは柳也がプレゼントしてくれると言ったのを聞いて、胸の痛みを覚えた。

 自然と脳裏に思い浮かんでしまったのは今朝の光景。リモドアを発つ直前に、柳也とハリオンが交わした、熱い抱擁の様子だった。

 互いの背中に腕を回し、頬を寄せ合う二人を、ヘリオンは顔を真っ赤にして眺めていた。

 柳也を見つめるハリオンの眼差しは熱っぽく、潤みを帯びていた。

 ハリオンを見つめる柳也の眼差しにも、炭火のように優しい炎が灯っていた。

 視線を絡め合う二人の姿は、ヘリオンの目にはまるで恋人同士のように映じた。二人が、仲睦まじいカップルのように見えてならなかった。

 あの光景が頭の中に思い浮かんだ途端、ヘリオンはなぜだか分からないが不快な感情を覚えた。

 嬉しいはずなのに。

 柳也から贈り物を貰って、嬉しいはずなのに。

 膝の上に置かれた紙袋を見て。ハリオンとの抱擁の様子が思い浮かんで。もしかしたら柳也は、誰にでもこういうことをしているのではないか、と考えてしまった。

 桜坂柳也の、美人と見れば誰彼構わず口説きに掛かる女好きの悪癖を知らない者は、STFにはいない。

 柳也が他の女の子に……例えばハリオンにプレゼントをする光景を想像して、嫌だな、と思った。

 嫌だな、と思ってしまった。

 そんな風に考えてしまう自分に気が付いて、ヘリオンは愕然とした。

 これでは……。

 これではまるで自分が、目の前の男に……。

 ヘリオンは途端、顔を赤くした。

 頭の中で、先ほど小屋掛けの店主が口にした「彼女」というフレーズが幾度となく再生された。

 駄目だ、駄目だ、とかぶりを振る。そんなことはありえない。あってはならない。スピリットが誰かを好きになるだなんて、そんな……相手に、迷惑というものだ。

 スピリットの自分が、男の人を好きになるなんて……。

 ――で、でも、もしそうだとしたら……。

 自分の気持ちが、もしそうだとしたら、一つ、気になることがあった。

 女好きで知られる目の前の男には、特定の恋人として噂されている人物がいた。情報部に所属するリリィ・フェンネスその人だ。本人達に直接確認したわけではないが、少なくとも柳也とは付き合いの長い悠人は、彼女が友人の恋人だと考えていたし、ヘリオンら第二詰め所のスピリット達も、そうではないかと睨んでいた。

 実際、柳也を訪ねて第二詰め所にやって来たリリィを、ヘリオン達は何度も出迎えていた。

 柳也に会いにやって来たリリィは、無表情ながらとても活き活きしているように感じられ、自分達の上官と会うことがよっぽど楽しいのだ、とヘリオン達に確信させた。そんな彼女を自室へと迎え入れる柳也の表情も心なしか嬉しげで、その顔を見る度に、ああ、この二人はいま幸せなんだ、とヘリオン達は思ったものだ。

 しかし、今朝のハリオンとの抱擁を見た時、疑念が生じた。

 いくら戦友の無事を祈るボディランゲージとはいえ、恋人のいる身の上の男が、普通、ああも熱い抱擁を異性の部下と交わせるものだろうか。

 普通はもっと、節度を守った控えめなものになるまいか。

 はたして、柳也とリリィは、本当に自分達が噂するような関係なのか。

 ――リュウヤさまとリリィさまは、本当に恋人同士なのかな……?

 かといって柳也とハリオンが恋仲にあるとは、ヘリオンにはどうしても思えなかった。確たる理由はないが、自分とて女だ。こと恋愛沙汰には鋭敏な女としての第六感が、二人は恋人同士ではない、と告げていた。

 そもそも、恋人になったらなったで、ハリオンが自分達にそのことを隠すはずがない。仲間想いの彼女のことだ。もし本当に柳也と恋仲になったとしたら、真っ先に自分達に報告してくれることだろう。

 それがないということは、やはり二人はまだ恋人同士ではないのだろう。

 ――なら、リュウヤさまが本当に好きなのは、誰なんだろう……?

 柳也とリリィが恋人同士でないとして。

 またハリオンとも恋愛関係にはないとして。

 はたして、目の前のこの男は、いったい誰が好きなのか。彼が本当に好きなのは、いったい誰なのか。いやそもそも、自分の上官には心から愛する異性がいるのか。

 自分にプレゼントをくれた柳也。

 リリィとの恋人関係が噂されている柳也。

 ハリオンと熱烈な抱擁を交わしていた柳也。

 女好きの柳也。

 それらのことを考えてしまうと、膝の上のプレゼントも素直に受け取ることが出来なかった。

 素直な気持ちで、喜ぶことが出来なかった。

 

 

――同日、夕方。
 
 

 午後六時半。

 敵国王都の空は、茜色に燃えていた。

 サモドア山脈に遮られながら降り注ぐ陽の光に照らされて、公園の芝生が黄金色に輝いている。山間を吹き抜ける風に草花がそよぐ光景は、まるで地面を焔がのたうっているかのように映じた。

 夜の娯楽が少ない有限世界では、一般的に夜の訪れが早い。

 まだ陽が沈みきっていない時間帯にも拘らず、公園からは次第に人の気配が遠ざかり、いつしかその場には、ベンチに並んで腰掛ける柳也とヘリオンだけが取り残されていた。

 二人がベンチに腰を下ろして、すでに四半刻が経過していた。

 待ち人の〈隠六番〉は、いまだやって来る気配を見せない。

 約束の時刻はとうに過ぎていた。とはいえ、相手は正確な計時機能を持った時計を持たないファンタズマゴリア在住の人間だ。多少の遅れは仕方あるまい。

 〈隠六番〉を待つ間、柳也はヘリオンとの談笑で時間を潰していたが、やがてそのヘリオンも、いつからか自分の言葉に対する返事が単調になっていた。

 見ると、瞼が重たげな様子だ。

 無理もない。今日は朝が早かったし、リモドアを発ってからからここまでずっと緊張の連続で、まともに身体を休める暇がなかった。しかもその道中の大半は馬に乗っての旅路だった。馬に乗ること自体初めてのヘリオンには、多大なストレスを強いたことだろう。

「ヘリオン、眠いんだったら、少し眠ってもいいぞ?」

「ふぇ? で、でも……」

 自分が眠ってしまっては、迷惑が掛からないか?

 視線でそう問いかけてくるヘリオンに、柳也は莞爾と微笑んだ。

「心配無用だ。合流予定の情報員が来たら起こしてやる。……長旅で疲れているだろう? 座って眠るのが難しければ、膝枕してやるから」

 柳也は自分の膝を示しながら言った。

 異性の部下に膝を貸すことに、何ら躊躇いのない様子だ。

 しらかば学園という特殊な環境で育った柳也は、こうした体を張ってのコミュニケーションに慣れていた。膝枕は、現代世界にいた頃、血の繋がらない弟や妹達によくしてやったし、また自分が幼かった頃には、同じく血の繋がらない兄や姉達にしてもらったこともあった。

 しらかば学園の兄弟達は、血縁関係こそないとはいえ、同じ境遇の同志、家族のような存在だ。家族に甘え、甘えられるのは、彼にとって当たり前のことだった。

 柳也の言葉に、ヘリオンの黒炭色の瞳が驚きから僅かに見開かれた。夕陽に照らされているせいか、柳也の目には白い頬に朱色が差しているように映じた。

 柳也は屈託のない微笑を口元にたたえて続けた。

「もっとも、男の膝だ。寝心地は保証しないがな」

「ひ、膝枕って……そんなの……そんなの、まるで……」

「余計なことは気にするなよ」

 今朝、ハリオンとの抱擁を見て顔を真っ赤にしていたヘリオンの様子を思い出しながら、柳也は言った。

「まるで……」という呟きの先に続く言葉が容易に想像出来て、思わず苦笑してしまう。

 しかし、あまり笑ってばかりもいられない。初心なところが可愛らしいお師匠様だが、あまり恥ずかしがりやすぎるのもこの場合は困る。羞恥が勝って身体を壊されてはたまらない。

「これは命令だ。いまは、身体を休めることを優先しろ」

「うう……はいぃ……」

 ヘリオンは不承不承、なおも恥ずかしそうに身をよじりながら、小さく頷いた。

 まるで繊細なガラス細工を扱うかのような手つきで膝の上の荷物をどけ、ゆっくりと身体を傾ける。

「そ、それじゃ、失礼します」

「べつに恐縮する必要はないと思うが」

 柳也はまた苦笑をこぼした。

 膝の上に、暖かな重み。

 自分と同じ漆黒の髪、西洋人形のように可憐な顔立ちが、眼下に映じた。

 山脈を吹き抜ける風が、見上げるヘリオンの黒髪と、見下ろす柳也の黒髪を揺らした。

 ――お? こうして改めて見てみると……意外に睫毛が長いな。

 素直に、綺麗だと感じた。

 小鹿のように大振りな黒曜石の瞳も。愛らしい唇も。筋の通った鼻も。きめ細やかな肌も……。

 いまはそういう時ではない。いかんいかん、と思いながらも、どうしても眼下の顔の造作に見惚れてしまう。視線が下に落ちてしまう。

 自然と、ヘリオンの頭に手が伸びた。かつてしらかば学園の弟達によくそうしてやったように、慣れた手つきで髪を撫でる。細い繊維が指の間を通り抜ける感触が、なんとも心地良かった。まるで絹を撫でているかのような手触りだ。化学があまり発達していない有限世界では髪に優しいシャンプーやリンスは望めないはずだが、ヘリオンの黒髪はよく手入れされているようだった。どうやら、髪が女の命なのはどこの世界でも一緒らしい。

 柳也は親指の腹をヘリオンの眉間に寄せた。

 額から鼻梁へと、弱い力で撫でさする。

 幼い子どもを寝かしつける親のように、絶妙な力加減を心がけた。

「あ、あの……お、重くないですか?」

 ヘリオンの羞恥の眼差しが自分を見上げた。

「それは俺に対する暴言か? 俺はヘリオン一人支えられないほど、ヤワな男じゃないぞ。だから、余計なことは考えず、黙って俺に体重預けてろ」

 眉間を縦になぞる親指は止めず、柳也は言った。

 自分を見上げてくるヘリオンの視線が、段々と眠たげなものになっていく。

 瞼を開けているのにも、たいへんなエネルギーを必要としている様子だった。本格的に休息が必要かもしれない。

「なんなら、子守唄でも歌ってやろうか?」

 名案が浮かんだ、とばかりに、柳也は顔を輝かせ言った。

 自身が美声の持ち主だと信じて疑わない柳也だった。

 上官の壊滅的な音楽センスを知るヘリオンは、「そ、それだけはご勘弁を」と、呟いた。弱々しい声だった。

 柳也は一瞬だけ残念そうな表情を浮かべて、すぐに微笑を唇にたたえて、甘いテノールで呟いた。

「おやすみ、ヘリオン」

 額を撫でる少女の瞼は、静かに閉じられていた。

 

 

 ヘリオンが自分の膝の上で眠り始めてから、十五分が経過しただろうか。

 水平線の彼方へと夕陽が沈み、いよいよ辺りが暗くなってきた時分、柳也の強化された耳膜を、不意に足音が撫でた。

 自分達以外に人気のなくなった公園に、どうやら立ち寄る者が現われたらしい。

 スタッカートのような足音だった。靴底か、爪先の部分に鉄板を仕込んでいるようだ。キックのときにさぞ威力を発揮するだろう。そのような靴を履いている人物が只者とは思えないが、はたして、相手はいったい何者なのか。合流を予定している〈隠六番〉なのか。

 足音は背後から聞こえてきた。段々と、自分達のベンチに近付いてくる。

 柳也は膝の上のヘリオンを起こさぬよう注意を払いつつ、左腰から提げたナイフの柄に手を添えた。

 いま座っているベンチに背もたれはない。いざという時はナイフを投擲して相手を怯ませ、その隙に背嚢から同田貫を取り出して反撃する腹積もりだった。

 やがて足音が止まった。

 自分の背後から僅か一メートルの距離で。

 柳也はヘリオンの黒髪を撫でながら、冷たい吐息を吐き出した。紡ぐ言葉は勿論、昨晩ネネ・アグライアと取り決めた、合言葉の上の句だ。

「国境の長いトンネルを抜けると……」

「……雪国だった」

 背後より耳朶を撫でる、女の声。

 川端康成の小説『雪国』の有名な書き出しを完結させたその声に、柳也は聞き覚えがあった。あまりにも、耳に馴染んだ声だった。

 はっ、と表情を硬化させた彼は、慌てて背後を振り向いた。

 瞠目。黒檀色の双眸が大きく見開かれ、予期せぬ再会に、驚きから思わず言葉を失ってしまった。

 背後に立っていた女は、柳也のよく知る人物だった。

 どんなに距離が離れていたとしても、またどんなに会えない時間が長引いたとしても、その声を、その顔の造作を、忘れるはずがない。何度もベッドで体を重ね合った仲の相手だ。何度も、互いの温もりを貪り合った仲の相手だ。

「り、リリィ……!」

「お久しぶりです、リュウヤ様」

 ダグラス・スカイホークの密偵、リリィ・フェンネス。ダグラス通産大臣の愛娘にして、自分とラキオス王達とを繋ぐ連絡役を務める女。自分がこの世界で始めて情を交わした女。

 何十日かぶりに会った彼女は、茫然とする自分に冷笑を向けた。

 唐突な再会に声の出ない己の様子に気を良くしたか、リリィの微笑みはまるで悪戯を成功させた子どものようだった。ベッドの上以外では珍しい、彼女のありのままの表情だった。

 久しぶりに見た彼女の笑みに、柳也は唖然とする自分を叱咤した。

 違うだろう、桜坂柳也。こういう時に浮かべるべき顔は、こんな間抜けなものではないはずだ。こういう再会の場に相応しいのは、笑顔に決まっている。

 柳也は莞爾と微笑んだ。

 ラキオス王国の正式な使者としてサモドア王城に軟禁状態にあるはずの彼女が、なぜ、ここにいるのか。合流予定の〈隠六番〉はどうしたのか。

 そういった疑問は、胸の内に生じた次の瞬間には、もう泡のように消えてなくなっていた。

 ただ歓喜が。

 大切な人の無事を喜ぶ、人間の、原始の本能からの感情が。

 熱情が、柳也の胸の奥で唸りを上げていた。

 その熱流が、彼に満面の笑みを浮かべさせた。

「ああ。久しぶりだな、リリィ……元気そうで、ほっ、とした」

 心からの安堵が、唇からこぼれた。

 ネネからの報告で軟禁状態にある彼女が無事なことは分かっていた。しかし、実際に自分の目で彼女の壮健な様子を見て、ようやく安心出来た。

 ナイフの柄から手を離し、柳也は両腕を広げた。

 彼の膝の上には、いまだヘリオンの頭がある。

 ベンチから立てない柳也の前へと回りこんだリリィは、彼の厚い胸に飛び込んだ。

 リリィは、何も言わなかった。

 ただただ、柳也の胸にしがみついた。

 柳也はそんな彼女の艶やかな栗色の髪を、幾度も優しく撫でた。

 男の胸に顔を押し付けるリリィの表情は、穏やかに笑っていた。

 この鋼を思わせる厚い胸。頑丈な二本の腕。間違いない。自分のよく知る、桜坂柳也の体だ。この強靭な感触を、どれほど恋しがったことか。

 柳也の手が、そっと彼女の顎に伸びた。

 リリィが顔を上げ、熱の篭もった眼差しで柳也の顔を見つめた。

「……いいか?」

「いちいち訊ねないでください。……あなたの、思った通りにして」

 拗ねたような口調を紡いだリリィの唇に、柳也は自分の唇を押し付けた。

 忘れようはずのない感触。

 忘れようはずのない温もり。

 離したくなかった。

 離れたくなかった。

 柳也の手が、自然と女の細い背中に回った。

 リリィの手も、男の背中に回った。

 二人の唇がこすれあい、頭上で野鳥が囀った。

 そよ風が、二人の頬を撫でた。

 

 

 唇を離したリリィの第一声は、「隣、いいですか?」だった。

 あれほど情熱的な口付けを交わしていたのが嘘だったかのように、自分の顔を覗きこむ彼女は、いつものように能面の顔を見せていた。有能な密偵としての顔だ。

 柳也も表情を引き締めると、左隣に置いていた背嚢を地面へとどかした。リリィがそこに腰掛ける。

 柳也はさらにヘリオンを起こそうとして、彼女に止められた。

「疲れているようですし、いま少し寝かせておきましょう」

「……部下への配慮、感謝する」

 柳也はSTF隊の副隊長としての立場からリリィに謝辞を述べた。

 隣に腰掛けたリリィの話は、軟禁状態にあるはずの彼女がなぜこの場にいるのか、件の〈隠六番〉はどうしたのか、という柳也の疑問を晴らすことから始まった。

「〈隠六番〉はいまサモドア城にいます」

 リリィはまず謎多き〈隠六番〉の所在について告白した。

「彼はいま、私の代わりに、軟禁状態になってもらっています」

「どういうことだ?」

「つまり……」

 リリィの説明によれば、真相は次のようなものだった。

 ネネ・アグライアからの連絡でサンダーボルト作戦のことを知った〈隠六番〉は、自分とヘリオンがサモドアにやって来ることを軟禁状態のリリィに伝えたらしい。その上で彼は、リリィに化けた自分と本物の彼女とが入れ代わることを提案したという。変装術のプロフェッショナルである〈隠六番〉にとって、同僚の密偵に変装することは容易い。自の代わりに柳也達と接触してきてくれ、と言った彼の提案を、リリィは喜んで受け入れた。

 かくして、現在王城の一室で軟禁状態にあるのは〈隠六番〉が変装した偽者で、目の前にいるリリィこそが本物という、奇妙な状況が出来上がったという。

「〈隠六番〉は、私とリュウヤ様に気を遣ってくれたんです。私がリュウヤ様に会いたいと思っていること知った彼は、自分から今回の提案をしてくれました」

 聞くところによれば、自分とリリィがただならぬ関係にあることは、ダグラスの密偵達の間では有名な話らしい。当事者たる柳也にはいまだ恋人同士という自覚はないが、少なくとも周囲の人間は自分達の関係をそう睨んでいるらしかった。

 自分が〈隠六番〉の代わりにやって来たことを告げたリリィは、続いて、サモドア山脈入りを目指す柳也に、山脈の現状を伝えた。

「迅雷作戦の実施に当たって、一部の鉱山労働者を除く民間人は、原則サモドア山脈への入山を禁止されました。特に山道は完全に軍の管理下に置かれ、軍人以外の立ち入りを禁じられています」

「当然の措置だな」

 リリィの説明に、柳也は得心した様子で頷いた。

 民間人の存在が作戦遂行の邪魔にならないよう配慮するのは、軍事作戦では当然なされるべき努力だ。

 柳也は続けて訊ねる。

「軍以外の立ち入りが禁じられているということは、逆に言えば、バーンライト王国の軍人を装うことが出来れば、山脈への入山はぐっと実現性が出てくる、ということだな?」

「はい。そこで今回、〈隠六番〉が柳也様とこの黒スピリット用の軍服を用意しました」

 リリィは柳也の膝の上で安らかな寝息を立てるヘリオンを見て言った。

 若干、自分を見る彼女の視線が刺々しいのは、柳也の気のせいか。

「……リュウヤ様の膝枕。私だって、まだなのに」

「は?」

「いえ。何でもありません」

 小声で何か呟いたリリィの声が聞き取れず、柳也は怪訝な顔をした。

 神剣士の優れた聴覚でも拾い上げられない囁きとはこれいかに。

 リリィの話は続く。

「お二人にはバーンライト王国軍の兵士とスピリットに成りすまして、サモドア山脈に入山してもらいます。筋書きとしては、任務のための入山、という形式になる予定です。そのために必要な命令書の偽造は、〈隠六番〉が今夜中に進めるとのことです。決行は明日の朝。それまでリュウヤ様達は、こちらの宿で待機していて下さい」

 リリィは懐から折りたたんだ紙片を取り出すと、柳也に手渡した。

 小さな紙片には、『幾千の夜』と聖ヨト語でメモが記されていた。

「この公園から南の区画にある宿です。すでに二人分の予約は取っていますから。……明日の朝になったら、〈隠六番〉がお二人迎えに行きます」

「分かった。……リリィは、明日は?」

 ふと気になった柳也は彼女に訊ねた。

 今夜は軟禁状態にあるところを〈隠六番〉に代わってもらったという彼女だが、明日はいったいどうしているのか。

「私は、いつも通りですよ」

 リリィは能面の表情のまま、しかし少しだけ寂しげな口調で囁いた。

「サモドアの宮殿の一室で、囚われのお姫様です」

 普段の彼女らしからぬ、諧謔を含んだ言葉。それは敵軍本拠地の王城で、何日も軟禁状態にあったストレスがそうさせたのか。それとも、目の前に自分がいるから、そうしてくれたのか。

 もし後者なら嬉しい限りだが、と苦笑する柳也に、リリィは「〈隠六番〉から頼まれていた連絡事項は以上です」と、いつもの無機質な声で言った。

 しかし、彼女の話は、それで終わらなかった。

 リリィは静かに、ひんやりとした声音で、舌先を滑らした。心なしか、自分を見つめる眼差しも、どこか冷たい印象が感じられた。

「ここからは、私の話です」

「ん?」

 リュウヤは思わず小首を傾げた。

 やはり、自分を見る彼女の視線から、冷たいものを感じたのは気のせいではない。見れば、リリィの眼差しからは、自分のことを責めるような意図が感じられた。はて、自分は彼女から斯様な視線を向けられるようなことをしただろうか。したとしたら、それはいつの出来事か。それはいったい、どんな出来事か。

 まるで見当の付かない柳也は訝しげに目の前の少女を見た。

 リリィは、淡々とした口調で言った。

「さっき、キスした時……」

「うん?」

「私でも、この黒スピリットでもない、別な女の匂いがしました」

 瞬間、柳也の表情が硬化した。

 健康的に日焼けした褐色の顔から一気に血の気が引いていき、急激に、喉の渇きを覚えた。

 脳裏にフラッシュ・バックする、今朝のハリオンとの抱擁の様子。あの時感じた女の温もりを、ふくよかな肉の感触を、そして心地の良い花の匂いを思い出して、柳也は顔面を蒼白にした。あの時に、匂いが移ったというのか!?

 そう思い至った途端、柳也は己の心臓がかつてない勢いで激しく脈打つのを自覚した。

 米神から滴る、一滴の汗。

 痙攣に引き攣る唇の端。

 六尺豊かな巨躯が肩身を狭くし、明らかに動揺した黒炭色の眼差しが、隣に座る女を見た。

「…………さ、さあて、な、ななな何のことかなぁ?」

 長い沈黙を挟んだ後、柳也は唾を飲み込んで、言った。かつてない渇きを訴える喉を必死に動かして吐き出した声は、ひどく掠れていた。

 なぜだか分からないが、いまのリリィからは異様な気迫が感じられた。

 アイリスと戦った時以上の緊張感が、柳也の背骨を貫いていた。

 頭の中で、相棒の神剣達が最大級の警告音を激しく打ち鳴らす。

 〈決意〉が、〈戦友〉が、いま自分の身は生命の危機に晒されている、と訴えかけている。

【主よ、だから浮気はいかんとあれほど……!】

 ――お前、そんなこと、いつ言ったぁ!?

 違う。自分とリリィは恋人同士でも何でもないのだから、あれは浮気ではない。自分が気に病む必要はないはずだ。しかしそんな理屈は、本能が鳴らす警鐘の前に吹き飛んだ。

 とにかく、真実を知られてはならない。今朝あったこと、転じて、リーザリオで過ごしたあの夜の出来事を、彼女にだけは知られてはならない。

 しかし、必死に真実を隠そうとする柳也の努力は報われなかった。

 続くリリィの言葉は、彼にとってあまりも無慈悲な宣告だった。

「隠さなくてもいいんですよ」

 にべもない返事。

 能面の表情が崩れ、リリィの美貌に、にっこりと上品な微笑みが浮かぶ。思わず、微笑み返したくなるような微笑だ。しかし、いまはその笑顔が恐ろしかった。

「〈隠五番〉……ネネの姉さんから、全部聞いていますから。あの緑スピリットと、今朝、抱き合ったそうですね?」

「ね、姉さん?」

「はい。……〈隠五番〉は、私の密偵の師匠なんです。プライベートでも仲良くさせてもらっています」

 初耳だった。

 聞けば、実父ダグラスの力になりたいと密偵を志したリリィに、スパイとしての基本的な技術を叩き込んだのがネネだという。十近く歳の離れた二人だったが、ネネはリリィのことを妹のように扱い、リリィもまた先輩の密偵を姉のように慕って、訓練に励んだという。

「ちなみにネネの実際の歳っていくつなんだ?」

「今年で二六です」

「あ、やっぱりそうなんだ」

 柳也はかつてリーザリオに駐屯していた頃に立ち寄った娼館で紹介されていたネネの年齢を思い出した。まさかあの表記が本当だったとは。

 そういえばあの娼館での出来事も、リリィには秘匿せねばなるまい。

 ハリオンとの抱擁がばれただけて斯様に冷たい視線を向けられるようでは、娼婦を抱こうとしていた事実が知れ渡った暁にはどうなることやら。

「あ、ですから勿論、リュウヤ様がリーザリオで娼館に立ち寄ったことも知っていますので。そこで姉さんを指名したことも」

「…………」

 柳也は思わず絶句した。

 彼が絶対に秘匿せねばと思っていた事実は、すでに細大漏らさず彼女に伝わっているらしかった。

 きりきり、とした痛みが、胃の辺りから込み上げてくる。

 生まれてこの方一度も大きな病気を経験したことがないのが、柳也の数少ない自慢の一つだ。その病気知らずの胃腸が、珍しく痛みを訴えてきた。

 急速に込み上げてきた居心地の悪さに、柳也はベンチの上で身じろぎした。

 ――ということは、あれか? 自分は、ネネの大切な妹分に手を出した男で、リリィの大切な姉貴分に手を出しかけた男と?

 なるほど、そう考えればリリィの自分を見つめる視線が刺々しいのも頷ける。

 姉と妹の両方に手を出した男。まるで昼ドラみたいな展開ではないか。

【姉と妹の二人に手を出すなんて……ご主人様ってば鬼畜ですねぇ?】

「あ、あのぉ……リリィさん? もしかして、怒ってらっしゃいます?」

 頭の中で鳴り響いた〈戦友〉の声を無視し、柳也は腰の引けた口調で訊ねた。

 本音を言えばいますぐにでもこの場から逃げ出したい気分だったが、膝の上にヘリオンがいる現状ではそうしようもない。

 あるいは、リリィがヘリオンを起こさずにいたのはこのためだったか。相手から逃げ道を奪った上で言葉の暴力を振るうとは……なんという策士家だろう。

 はたして有限世界の孔明様は、抑揚に欠けた口調で、やんわりと答える。

「いいえー。べつにー。私は別にリュウヤ様の恋人でも何でもありませんからねー。リュウヤ様がどこで、どんな女性を抱かれようと、一向に構いませんよー」

 吐き出された言葉は、自分を糾弾するものではなかった。

 しかし、自分を見つめる冷たい眼差しは、明らかに己を責めていた。

 病気知らずの胃腸が、どんどん激しくなる痛みに悲鳴を上げる。じわじわと効いてくる、ボディブローのような鈍痛だった。

 柳也は苦悶から表情をしかめた。

 今後女を抱く度に斯様に腹の痛い思いをせねばならぬのかと思うと、気が重かった。

 いっそ口汚く罵られた方が、まだましだったかもしれない。少なくとも心労はいまよりも軽いはずだった。

「……リリィさんや、そろそろ、苛めるのを止めてはくれまいか?」

 柳也はほとほと疲れきった口調でリリィに懇願した。

 今日のこの僅かな時間だけで、三年は寿命が縮まった気分だった。

 柳也の切々とした訴えに、リリィは一瞬不満げな表情を浮かべた。まだまだ苛め足りない様子だった。しかし、隣に座る男の情けない顔を見て少しは溜飲を下げたか、彼女は仕方がない、とばかりに溜め息をついた。

「……特にリュウヤ様を苛めているつもりはありませんが、そうおっしゃるのなら、仕方ありませんね。分かりました。この話題はここまでにします。ですが、次の質問には答えてください」

 リリィが口調を真剣なものに改めて言った。

 語気に宿る憂いの感情を感じ取り、柳也も自然と背筋を伸ばした。

「何だ?」

「リーザリオで起こった事は、〈隠六番〉や姉さんからすべて聞きました。アイリス・青スピリットと戦ったこと。それから、リュウヤ様の身に起こったこと」

「…………」

 何のことを言っているのか、すぐに分かった。

 あの、異形の右腕のことだ。すべてを聞いている、ということは、自分があの右腕のことで悩んでいるのも知っているのだろう。

 リリィは痛ましげな視線を自分に向けた。気遣いの言葉が耳朶をくすぐる。

「その……大丈夫、ですか?」

 何に対する問いかけなのか、これもすぐに分かった。

 あの右腕のことで苦悩している自分の心への問いかけだ。恐怖と不安とで自分の心が押し潰されやしないか、心配してくれているのだろう。

 柳也は思わずにやけ面になった。

 あの右腕のことではみんなに心配を掛けてしまっている。申し訳なく思う反面、仲間達の気遣いが嬉しかった。

「大丈夫かどうかなんて、分からないさ」

 柳也は莞爾と微笑んで言った。

 リリィが不安げな表情を浮かべる。

 柳也は構わずに続けた。

「なにせ、こんな事態は初めてだからな。いまは大丈夫だが、恐怖と不安とでいずれ気が狂う可能性は十分にある。発狂はせずとも、心を病む可能性だってある。絶対に大丈夫だ、なんて保証は出来ないさ。

 ……けど、まぁ、なんとか付き合っていこう、とは思っているよ。恐怖も不安も、一緒に抱え込んで、なんとかやっていこう、とは考えている」

 「絶対に大丈夫」などとは、口が裂けても言えない。

 正直に言って、あの右腕に関しては先のことがまったく予想出来ない。

 単にあの時だけの現象なのか、今後も起こる事態なのか。表面化していないだけで、自分の肉体はすでに異形になってしまっているのか。何気なくこうしている間にも、じわじわと進行しているのか。そういった事が何も分からぬまま、今日までを過ごしてきた。

 不安は、無論ある。恐くないわけがない。

 だが、それはみんなそうなのだ。人間誰しも生きている限り、大なり小なりの不安を抱えているものだ。自分の場合は、ちょっとばかりスケールが大きいだけのことにすぎない。

 柳也は、自分のいまの気持ちを素直に告げた。淀みのない口調だった。

 しばしの沈黙を挟んだ。

 この男にしては珍しい、自信のない言葉に、リリィは憂いを帯びた視線を向けた。

 小さな溜め息が、唇から漏れる。自分を偽らないのはこの男の美徳だが、あまり正直すぎるのも困ったものだ。聞いているこっちが、不安になってしまう。目の前のこの男のことが、放っておけなくなってしまう。

「……何かあったら、言ってください。私では頼りないかもしれませんが、それでも、出来ることがあるかもしれませんから」

「……ありがとう」

 万感の想いを載せて呟いた言葉に、柳也は満面の笑みを浮かべて頷いた。

 異形への不安を抱えている男には似つかわしい、屈託のない笑みだった。

 

 

――同日、夜。
 
 

 いくら〈隠六番〉が変装術の達人といっても、いつまでもリリィ本人が王城にいないのははなはだ不味い。何かのきっかけで、彼女に変装した〈隠六番〉の正体がばれてしまう可能性は十分ある。

 王城に戻らなければならないリリィと別れた後、柳也はヘリオンを起こして夕食をとった後、指定された宿を探した。

 目的の宿はすぐに見つかった。

 『幾千の夜』などという小洒落た名前とは裏腹に、粗末な木賃宿だ。昔読んだ『白鯨』の小説に出てきたような古い切妻屋根の洋館で、四階建てだった。

 店の中に入る。カウンターには、腰の曲がり始めた初老の男がいた。どうやら店主のようだ。太い眉に鷲鼻、頬に刻んだ刀傷という、険を帯びた面魂に、愛想の良い笑みを浮かべていた。

「予約していたギアですが」

 部屋の予約などの段取りは、すべてダグラスの密偵達が付けてくれているはずだった。

 偽名を名乗った柳也達を、店主の老爺は三階の部屋へと案内した。三〇二号室。十畳ほほどの部屋にベッドが一つと、ソファが一つ置かれていた。宿の外観や内装の粗末さに反して、ベッドだけがやたらと大きい。このことから、体を休めるための宿というよりは、柳也達の世界におけるアミューズメント・ホテルの印象が強かった。

「……これって、もしかしなくても相部屋か?」

 柳也は渋面を作って宿の店主に訊ねた。

 どう視線を巡らせても、室内にはベッドが一つしかない。このままだと、本当に『白鯨』の小説の冒頭部とそっくり同じ状況になりそうだ。あの小説の出だしは、海を目指した主人公が宿で見知らぬ黒人と同衾するという展開だった。

 ヘリオンは早くも顔を赤くし、わたわた、と慌て始めている。

 店主の老爺は怪訝な顔をして答えた。

「前もってご予約いただいたのは一部屋だったはずですが」

 ダグラスの密偵達が一部屋しか用意しなかったのは、単に気が利かないのか、それとも若い男女のカップルということで気を遣った結果なのか。もし後者だとしたら、余計な気遣いだと、柳也は内心溜め息をついた。

 店主の老爺は続けて言う。

「……いまからでも二部屋に変更しますか?」

 二部屋なら料金を余分に取れる。にこやかな笑みを浮かべる老爺に、柳也はかぶりを振った。

 ダグラスから渡された軍資金にはまだ余裕があったが、節約出来るところは節約しておきたい。

 結局、三〇二号室一部屋に宿泊することにした柳也達は早速、本日の寝床のことで揉めた。部屋にはベッドが一つしかない。いくら余裕のあるサイズといっても、さすがに同衾は不味い。倫理的に。そして道徳的に。

【べつに良いではないかぁ〜。我としては、ヘリオンはなかなか良い幼女であるから、何の問題もないぞぅ】

 ――お前の存在が最大の問題だ!

 頭の中で響く〈決意〉のたるみきった声に、柳也は胸の内で怒鳴った。

 脳の其処彼処から伝わってくる嬉々とした感情イメージに、またぞろ胃が痛くなってきた。

 柳也はヘリオンに別々で寝ることを提案した。幸い、部屋にはベッドの他にソファがある。また背嚢には、山中での行軍に備えて用意した、厚手の毛布が二枚入っていた。寝具には困らない。

 サモドアにやって来てからというもの、顔を赤くしたり、青くしたりと忙しい初心なお師匠様は、柳也の提案に頷いた。

 彼女は背嚢から毛布を取り出すとソファに寝転がろうとした。

「こら、待て」

 柳也は慌てて彼女の行動を制止した。

 不思議そうに見上げてくるヘリオン。

 柳也は憮然とした表情でベッドを示した。

「どこで寝ようとしている。ヘリオンはこっちだ」

「え? で、でも……」

「でも、じゃない。……もしかしなくても、俺が上官でエトランジェだからってことで、遠慮しているのか? だとしたら、そんな遠慮は無用だ」

 上司と部下、そしてエトランジェとスピリットという以前に、自分とヘリオンは男と女だ。男女同権が叫ばれる世の中でアナクロな考えかもしれないが、こういう場合、男は女に無条件でベッドを譲るべきではあるまいか。

 柳也は有無を言わさぬ毅然とした態度でヘリオンから毛布を取り上げた。

 ソファに寝転がり、毛布をかぶる。

 公園でのヘリオンとのやり取りではないが、疲れていたのは自分も一緒らしい。すぐに、睡魔が襲ってきた。

 ちょうどいい、と思った。

 自分が先に寝てしまえば、ヘリオンも安心して眠れるだろう。

 「おやすみ」と、静かに呟いた柳也は、そのまま眠気に身を委ねた。

 

 

――同時刻。
 
 

 バーンライト王国軍第三軍副将バクシー・アミュレットが、市街地南部の宿“幾千の夜”に足を運んだのは、午後九時のことだった。

 軍服ではなく私服姿での訪問だった。

 アミューズメント・ホテルに足を運んでいるにも拘らず、彼の隣にパートナーの女性の姿はない。どうやら、相手の女性とは部屋の方で待ち合わせの約束をしているらしかった。

 バクシーが宿の玄関をくぐると、ちょうど店の奥の階段から店主が降りてきた。

 初老の店主の姿を認めたバクシーは、早速声をかけた。

「予約していたアミュレットですが」

「ああ。はい。伺っておりますよ」

 店主はカウンターの席に戻ると、台帳を調べながら頷いた。

「三〇一号室をご予約のアミュレット様ですね。お連れの方はもうお待ちです」

 店主は商売っ気たっぷりに愛想よく微笑んで、バクシーを予約した部屋へと案内した。

 一歩進むごとに、ぎしぎし、と軋む廊下を歩いて、部屋の前に到着する。

 三階の三〇一号室。

 バクシーがドアノブに手をかけると、ふいに老爺が声を潜めて話しかけてきた。

「部屋に入る前に、一つお願いがあります。実は今日、隣の部屋にも別なお客様がいましてね。それが二十歳前後の若いカップルなんですよ」

「ああ……」

 バクシーは得心した様子で頷いた。チラリ、と隣の部屋のドアを一瞥する。若いカップルということは、今頃、お楽しみの真っ最中だろう。二十歳前後という年齢を鑑みれば、初めての夜という可能性もある。

「それは邪魔しちゃいけないな。分かった。なるべく煩くしないようにするよ」

「お願いします。では、お客様方もごゆっくり」

 店主は含みのある微笑を浮かべると、深々と腰を折った。

 踵を返し、また、ぎしぎし、とやかましい廊下を歩いていく。

 そんな後ろ姿を見送って、バクシーは改めて部屋の戸を開けた。

 埃っぽい臭いが、彼の鼻を刺激した。

 古びたエーテル・ランプの灯火が、弱々しく室内を照らしている。

 十畳ほほどの部屋にはベッドが一つと、ソファが一つ置かれていた。そのソファに、見知った顔が座っていた。

 日焼けした細面の顔。いくらか高い鷲鼻。見慣れた軍服姿ではなく、今日はブラウンのジャケットを羽織った私服姿だった。

「約束の刻限ちょうどに来たつもりでしたが……お待たせしてしまったようですね」

 バクシーは軽い会釈とともに謝罪の言葉を口にした。

 ソファの人物が、かぶりを振って言う。

「いえ。こちらこそ、このような場所にお呼びたてしてすみません」

 バクシーの耳朶を、甘いテノールの謝罪が撫でていった。男の声だ。アミューズメント・ホテルの一室で、バクシーが待ち合わせていたのは、女性ではなくなんと男性だった。

 キャシアス・ゴート、二九歳。

 バクシーとは古い付き合いの友人で、ゴートの姓からも分かるように、亡きトティラ将軍の忘れ形見の一人だった。将軍の長男坊。王国第一軍の歩兵部隊で大隊長を務める軍人でもあり、今晩、バクシーを“幾先の夜”に呼び出した張本人でもあった。

 といっても、その用件は男同士の情事に耽ることではない。バクシーに男色の趣味はないし、キャシアスにいたってはすでに家庭のある身だった。

 キャシアスがバクシーを呼び出した用件……それは、数日前に歩兵大隊長が第三軍の副司令に持ちかけた、とある相談について話し合うことだった。話し合いの場にアミューズメント・ホテルを選んだのは、話の内容を余人に知られるわけにはいかなかったからだ。つまり、彼らはこの部屋を密談の場にしたかったのだ。

 聖ヨト暦三三〇年、シーレの月、赤、みっつの日。

 リーザリオが陥落し、今後の戦略方針を決めるためサモドアに赴いたバクシーに、キャシアスから、これから会えないか、と面談の申し出があった。

 トティラ将軍とは二十年来の付き合いになる彼にとって、年下の歩兵大隊長は同僚であり、同じ年月付き合ってきた大切な友人だった。

 特に断る理由もなく、久しぶりに友の顔を見たく思ったバクシーは、キャシアスの申し出を喜んで受け入れた。

「バクシーさんを信頼して、お話があります」

 王城内のキャシアスの部屋に足を運んだバクシーは、そこで友人から思わぬ相談を持ちかけられた。

 話の内容は、王国の将来に関わる重大事についての相談だった。

 いま、王国軍の内部で、大変な事態が密かに進行している。このまま放っておけば、王国の存続が危うくなるかもしれぬほどの重大事だ。その進行を食い止めるために、自分に協力してほしい。

 キャシアスの相談に対して、バクシーは即答を避けた。友人の話はあまりにも突飛で、到底、信じられる内容ではなかったからだ。

 バクシーはキャシアスの言う事態の進行について、自分の方でも調べてみるから、協力に応じるか否かはその結果を待ってほしい、と答えた。

 キャシアスも自分が突拍子もない話を持ちかけている自覚があったのか、彼はバクシーの言葉に頷いた。

 その日から今日までの九日間、バクシーは軍務の合間を縫って、キャシアスの口にした事柄について調査を進めた。

 トティラ将軍の後継者としてのコネクションをフルに活用して情報を集めた彼は、やがて信じられない結果と、そこから導き出される信じ難い結論と遭遇した。

 そんな。まさか。ありえない。

 辿りついた考察に驚嘆したバクシーは、今度は自分からキャシアスと連絡を取った。

 はたしてキャシアスは、今日のこの時間、安宿の一室での密談を求めた。

「王城や自宅では、監視の恐れがあります。民間の、それもアミューズメント・ホテルなら、“奴”の目を欺くことも容易でしょう」

 キャシアスのもっともな言い分に、バクシーは応じた。

 そしていま、バクシーは数日ぶりに友人との再会を果たした。

「それでバクシーさん」

 バクシーがベッドに腰掛けたのを認めて、ソファのキャシアスは口を開いた。

 将軍の血よりもサラ夫人の血統を濃く継いだらしい甘いマスクに、憂いの表情が浮かんでいる。

「調査の結果は、どうでした?」

「キャシアス君、君の言う通りだったよ」

 バクシーは硬い声で言った。その声音からは、彼の感じている深い懊悩と、暗い絶望がひしひしと感じられた。

「あの男……ウィリアム・マクダネルが情報部長官になった六年前から、情報部関係者達の間で、密かにドラッグが流行り始めている。それだけじゃない。同じく六年前から、王国政府の役人達の間でキスシマが流行り始めている」

 バクシーの口にしたキスシマとは、聖ヨト語で梅毒スピロヘータを意味する単語だった。数ある性病の中でも、特に感染力の高い病気の一つだ。

「私が調べた限り、すでに一三人が感染している。その中には、閣僚の名前もあった。政府の高級官僚達が中心になって秘匿回春クラブを作り、あるルートから高級コール・ガールを買っているらしい……という噂は以前からあったが、どうやら事実みたいだ。しかも、そのクラブに女性を売っているのが……」

「わが国の情報部関係者ですね? しかもそいつらはみな、いま言ったドラッグに手を染めている疑いのある人間」

 バクシーは険しい面持ちで頷いた。

 情報部と役人達の間でそれぞれ流行するドラッグと梅毒の病。その結果起きるのは、情報部と王国政府の弱体化だ。そしてその腐敗は、迅雷作戦の発案者、ウィリアム・マクダネルが情報部長官になってから起こり始めた現象。はたして、この事実がその事実が意味することは――――――

 バクシーは苦々しげに呟いた。

「キャシアス君、君の話は本当だった。あの男は……ウィリアム・マクダネルは……バーンライト王国を、意図的に弱体化させようとしている。それどころかあの男は、この戦争でラキオスを勝たせようとしている!」

 ラキオスの勝利。それはすなわち、バーンライトという国家の滅亡を意味する。

 腐った林檎、どころではない。まさしく、獅子身中の虫。あろうことか、情報部の長たる人物は、バーンライト王国の敵だった。

 九日前、キャシアスはバクシーに、情報部長官は意図的にラキオスの援護をしている、というショッキングな事実を告げた。その時はバクシーも、いくら迅雷作戦などの諸作戦の原案を考えた彼でも、さすがにそれはあるまい、と思った。

 しかし、キャシアスからドラッグのことと梅毒のことを示唆されて、その二件について調査を進めるうちに、認識を改めねばならなくなった。

「あの男はドラッグをばら撒くことで、まず情報部の弱体化を図り、次に薬に嵌まった情報部関係者を作って売春組織を作った。そうして王国政府内の回春クラブに、キスシマに感染した女ばかりを売り、役人達の間に、性病を感染させた。病気に感染した役人達は、以後情報部の言う事を聞かざるをえなくなる。そしてその情報部の頂点に立つのが、あのウィリアム・マクダネルだ」

 かくして、役人達は情報部長官の発言に逆らえなくなった。

 加えて、ウィリアム・マクダネルはラフォス王妃の愛人だ。王妃をけしかけて提案した彼の案が通らない事態は、およそありえなくなった。どんな無理な案も、通るようになってしまった。

 情報部の弱体化。

 王国政府中枢の弱体化と、その私物化。

 新型エーテル装置奪取作戦。

 リクディウスの魔龍討伐作戦。

 そして、今回の迅雷作戦。

 ――間違いない。あの男は、この戦争でラキオスを勝たせようとしている!

 分からないのは動機だ。

 バクシーが調べた限り、ウィリアム・マクダネルの経歴に不審な点は見られない。生粋のバーンライト国民で、王国現政府に対して何か恨みがある様子もない。そもそも、情報部に所属するようになった時点で、彼の人格・経歴は、徹底的に調査されているはずなのだ。

 にも拘らず、彼が敵国を後押しするのは、いったい何故なのか。

「あの男は、なぜ、バーンライトの弱体化を図り、ラキオスの後押しをするんだろう? バーンライトがなくなって困るのは、彼とて一緒だろうに」

「情報部長官がラキオスのスパイ、あるいは協力者という可能性は低いでしょう。そもそも、ウィリアム・マクダネルが情報部に入った時、身辺の調査は徹底的に行われているはずです」

 キャシアスはそこで一旦言葉を区切ると、難しい顔で言った。

「これは完全に僕の推測ですが、ラキオスのために情報部や王国政府を弱体化させたのではない、と思うのです。あの男がバーンライトを滅ぼそうとするのは、ラキオスのためではなく、もっと別な目的のためじゃないか、と僕は考えています。……その別な目的が何なのかは、想像もつきませんが」

「動機がどうあれ」

 バクシーが重たげに口を開いた。

 その表情には王国の未来を憂う暗い感情と、決然とした意志の輝きがあった。

「情報部長官の目的が明らかな以上、黙って座視するわけにはいかないね」

「ではバクシーさん、僕に協力してくれるんですね?」

「ああ」

 バクシーは年下の歩兵大隊長に莞爾と微笑んだ。 「あの男は狡猾だ。君の話によれば、あの男の凶行に気が付いているのは、いまのところ私と、君の二人だけだ。私達が、あの男の暴走を止めるしかない」

「いちばん良いのは、あの男がドラッグをばら撒いている証拠か、裏で売春組織を操っている明確な証拠を掴めることですが」

 そうすれば公的権力に訴えて、あの男を失脚させることが出来る。しかし、バクシーが口にしたようにあの男は狡猾だ。この二つの件にあの男が関わっている物証は、いまのところ何一つない。状況証拠だけでは、彼を失脚させるほどの材料にはならない。

 難しい表情で溜め息をついたキャシアスは、やがて躊躇いがちに口を開いた。

「確実にあの男を失脚させられるだけの物証がない以上、やはり、乱暴な手段を取るしかありません」

「……やはり、そうせざるをえないか」

 バクシーは深々と溜め息をついた。

 キャシアスが頷く。

「ウィリアム・マクダネルを暗殺する。これ以外に、方法はありません」

 

 

――聖ヨト暦三三〇年、シーレの月、黒、ふたつの日、早朝。
 
 

 翌早朝、ホテル“幾千の夜”の三〇二号室を、バーンライト王国軍の軍服に身を包んだ若い男が訪ねた。

 ノックの音に扉を開けた柳也は、敵国軍人を前にしても慌てることなく、

「国境の長いトンネルを抜けると……」

と、呟いた。

 対する若い兵士は淀みのない口調で、「雪国だった」と、答えた。

 柳也は目の前の男に右手を差し出した。相手も右手を伸ばし、固い握手を交わす。

「ダグラス閣下の密偵、〈隠六番〉だ」

「桜坂柳也だ。よろしく頼む。……ちなみに、その姿の時の名前は?」

「ハンフリー・ボガード」

「……そろそろ怒っていいかな、俺?」

 真顔で答えた〈隠六番〉に、柳也は米神を、ひくひく、させながら呟いた。

 リチャード・ギアに、サリー・ケリーマン。そしてハンフリー・ボガード。ハリウッド映画のファンに怒られそうな偽名ばかりだ。ヘリオンの偽名がキャメロン・ディアスでなくて、本当によかったと思った。

 さておき、柳也は〈隠六番〉ことハンフリー・ボガードを部屋へと迎え入れた。

 部屋に入るなり、彼は柳也とヘリオンにバーンライト王国軍の軍服と、スピリット用戦闘服を投げ渡した。

 ラキオス軍の軍服と比べると、ごわごわ、とした手触り。どうやらベースに麻を使っているらしい。ちなみに、ラキオスの軍服にはコットンが使われていた。

「まずはこれに着替えろ。お前達二人には、これからバーンライト王国軍の兵士と、スピリットになってもらう」

「了解」

 柳也は早速着替えを始めた。

それまで着ていた服を手早く脱ぎ、敵国軍隊の軍服を着る。着替えを終えた後は腰周り、肩周りの具合を確かめた。着慣れたM-43フィールド・ジャケットに比べるとやや動き辛く感じたが、まぁ、許容範囲だろう。

「……うん。問題ない」

 軍服の着心地に満足いった柳也は冷笑を浮かべると、〈隠六番〉を連れて部屋を出た。さっきから自分の裸を見て、わたわた、しっ放しだったヘリオンに、一人で着替える時間を与えるための配慮だ。

 部屋の外に出た柳也と〈隠六番〉は、壁に背中を預けてヘリオンを待った。一般に女の着替えは長いというが、はてさて、今回はどの程度待たされるのか。

「いまのうちにサモドア山脈入山の手はずを確認しておこうか」

 待っている間、手持ち無沙汰の柳也は、隣に立つ男に小声で言った。

「王国軍の軍人に成りすまし、任務を装って入山する、という計画だそうだが、その任務っていうのは?」

「これだ」

 〈隠六番〉は懐から羊皮紙の巻物を取り出して柳也に差し出した。

 手にとって広げてみると、なんとそれはアイデス・ギィ・バーンライト王の名で書かれた命令書だった。勿論、偽造書類だが、よもや国王の名前を使って命令書を作成しようとは……なんとも大胆不敵な男だ。

「逆にその方がばれにくい」

 〈隠六番〉は平然と言い切った。

「敵も、王国軍の内部にスパイがいることは想像しても、まさかそのスパイが、国王陛下の筆跡を真似て公文書を偽造するとは想像しない。あまりにも恐れ知らずの行為だからな」

「そこが逆に盲点になるってわけか」

 柳也は感心しながら、命令書に目線を落とした。

 偽造文書には、急遽迅雷作戦に合流することとなった黒スピリット一体とそのお目付け役の兵士一名に、サモドア山道の使用許可を認める旨が書かれていた。勿論、この黒スピリット一体とお目付け役の兵士一名とは、ヘリオンと柳也のことだ。

「……山岳大隊との合流を最優先とし、この黒スピリットには行軍中の神剣の解放を許可する、か」

「お前が当初考えていた作戦は、山脈入山後、ある程度サモドアと距離を取ってから神剣の力を解放する、というプランだったな? しかし、この命令書を使えば、サモドアとそう距離を取らずとも、一振だけなら神剣の力を解放することが可能だ」

 サモドアからある程度距離を取ってから神剣の力を解放する。これは無論、敵の神剣レーダーを恐れてのことだったが、〈隠六番〉の言う通り、この命令書があれば入山後すぐに神剣の力を堂々と使うことが出来る。なんといってもバーンライト国王のお墨付きだ。ウイング・ハイロゥを広げたヘリオンが自分を抱えて飛んでもいいし、逆に〈決意〉か〈戦友〉の力で足腰を強化した自分が、彼女をおぶって走ってもいい。

「まさしく魔法のパスポートだな」

「いい表現だな。だが、個人的には、チケット、という比喩の方が好きだ」

 〈隠六番〉が笑って言った。

 フッドから聞いた話によれば、目の前の男は変装術の達人で、老若男女問わずどんなキャラクターにもなりきってしまうそうだが、はたして、いまの発言は本音か、それともキャラを装っての言葉なのか。

「もう一つ確認したいことがある。リモドア陥落の件は、第一軍には?」

「すでに伝わっている。昨日の夜、判明した。リモドアからの定時連絡がいつまで経っても来ない。そこで第一軍から調査員を送ったところ、リモドア陥落の事実が明らかになった。……あまり猶予はないぞ、リチャード・ギア?」

 〈隠六番〉は含みのある口調で言った。

 リチャード・ギアとサリー・ケラーマンを名乗る二人がリモドアからやって来たのが昨日。そしてリモドアの陥落が判明したのも昨日。怪しまれる要素は、それだけでも十分だ。

 ――こいつはヘリオンが着替えたらすぐにでも行動する必要があるな。

 肝要なのは迅速で、無駄のない行動だ。ヘリオンが着替えを終えたら、すぐにこの宿を出発することにしよう。

 

 

――同日、朝。
 
 

 城塞都市サモドアを、ぐるり、と囲む城壁には、昨日柳也達が通過した北門の他に、東西の二箇所にも門が設けられていた。

 このうち西の門はサモドア山道へ通じており、平時から王国軍の厳重な管理下にあった。

 午前七時。

 幾千の夜を後にした柳也とヘリオンは、〈隠六番〉の先導の下、城壁西門へと向かった。

 ともに装いはバーンライト王国軍の所属を示す軍服姿。

 西門を警護する番兵らは、特にこちらを訝しがる様子もなく、淡々とした事務的な所作で、門を潜ろうとする柳也達を呼び止めた。

 柳也達は揃って番兵らに敬礼した。

 相手も敬礼したのを認めて、柳也は懐中より〈隠六番〉が用意した偽の命令書を取り出し、彼らに渡した。

「山岳大隊にこの黒スピリットを合流させるよう、陛下より命令されている。こちらの兵は、見送りだ」

「……うむ。たしかに。門の通行を許可する」

 番兵は羊皮紙の命令書を柳也に返却すると、城門を顎でしゃくった。柳也とヘリオンに速やかな通行を求めるジェスチャーだ。

 柳也は頷くと、〈隠六番〉に向き直った。

「見送り、感謝する」

「道中事故のないよう、武運を祈っている」

 あらかじめ取り決められたやりとりを交わし、柳也と〈隠六番〉は抱擁した。演出だ。二人の素性を知らぬ第三者の目には、戦友の無事を祈り合う美しい友情の光景と映じることだろう。

 やがて抱擁を解いた柳也は、途端不機嫌そうな表情を作り、ヘリオンの肩を乱暴に叩いた。

「行くぞ、スピリット」

「……はい」

 高圧的な柳也の口調。そして、無表情に頷くヘリオン。勿論、これも演出だ。スピリット一体のためになんでわざわざこの俺が……と、不機嫌な感情を口調に織り込むことで、番兵達から同情の視線を集める。

 憐憫の眼差しを背中に感じながら、柳也はヘリオンを促した。

 乱暴に叩いたヘリオンの肩は、小さく震えていた。

 いよいよサンダーボルト作戦も本番とあって、緊張している様子だった。無理もない。これから始まるのは、たった二人で敵地を横断するという強行軍だ。

 加えて、ヘリオンはまだお世辞にも実戦経験豊富なスピリットとは言い難い。

 ――気楽にいこうぜ……って、言っても、リラックス出来るはずないよなぁ。ここはやっぱり……。

「まぁ、自分らしくいこうぜ」

 柳也は蚊の鳴くような声で囁いた。

 人間の聴覚では決して拾えぬ音域の声。しかし、スピリットの耳膜であれば、聞き取れる声。

 やがて、ヘリオンが小さくだが頷いたのを確認して、柳也はニヤリと笑った。

 敵国軍隊制式のシューズを履いた足で、前へと進む。

 記念すべき、サモドア山道入山の第一歩だった。

 

 

 アイリス・青スピリットがその光景を目撃出来たのは、多分に運によるものが大きかった。

 あるいは、彼女自身の第六感が知らせた、虫の知らせだったかもしれない。

 サモドアでの任務に着任して以来、アイリスら元第三軍の外人部隊三人の直属の上官となった感のあるバクシーの姿が、昨晩から見られない。

 そのことに気が付いたアイリス達が、各々分担して彼を探し始めたのが今朝のこと。やがて王城の何処にもバクシーの姿が見つからないことから、上官は城内にはいないのではないか、とオディールからの提言が挙がった。アイリスらは城の外を探すことにした。

 といっても、サモドアの市街は広い。バクシーが足を運びそうな場所の見当をつけ、ある程度範囲を絞る必要があった。

 いくつかの候補地を挙げたアイリスらは、公平にくじ引きでそれぞれの担当場所を決めた。

 はたして、アイリスが捜索を担当することになったのは、西の城門と市街地南部にある彼の実家周辺の二箇所だった。

 アイリスは真っ先に西の城門へと向かった。

 城門の方を優先した理由は特にない。

 ただなんとなく……本当にただなんとなく、西の城門に行けば何かあるような気がしたのだ。

 はたして、西の城門にはバクシーはいなかった。

 だが、西の城門で、アイリスは驚くべき光景を目撃した。

 バーンライト王国軍の軍服に身を包んだ兵士同士の抱擁。互いの無事を祈り合う、戦友達のありふれた日常。軍隊においてはあまりにもありふれた、何の変哲もないその光景に、しかしアイリスは目線を奪われた。

 抱擁を交わす兵士の一人に、見覚えがあったからだ。

 戦場で二度会い見え、二度刃を交わした。そして二度とも、引き分けた。

 守護の双刃のリュウヤ。

 ダーツィ最強のアウステートの称号を持つ自分が、二度も戦って唯一命を奪えなかった男。

 他人の空似か。いや、違う。

 間違いない。

 自分があの男の顔を、間違えるはずがない!

 ――いったい、なぜ、ここに!?

 互いに再戦を誓った敵は、我が軍の軍服を身に纏い、我が軍の兵士と硬い抱擁を交わしていた。バーンライトの王都で。あの男にとっては敵本拠地の真っ只中で。

 いったいこれは、どういうことなのか。

 自分の目の前で、いったい何が起こっているのか。

 困惑するアイリスをよそに、宿敵の男は見慣れぬ黒スピリットを伴ってサモドア山道へと入っていった。彼女が判断に迷っている間に、どんどん背中が遠ざかっていく。

 アイリスは即座に踵を返した。

 あの男が本当に守護の双刃であれ、他人の空似であれ、怪しい人間がサモドア山道へ入ったことに間違いはない。しかしスピリットの自分に、不審者だからといってあの男を捕縛する権限はない。明らかに敵だという証拠がなければ、スピリットは何の手出しも出来ない。

 この上は一刻も早くバクシーを探して、自分もサモドア山道へ入山する許可を得、追撃を仕掛けねば。

 アイリスはバクシーの実家へと続く道のりを走りながら歯噛みした。

 宿敵を前にして何も出来ない自分が。

 スピリットに生まれた自分の身が。

 呪わしく、疎ましく、悔しくてならなかった。

 


<あとがき>

タハ乱暴「太平洋戦争で一躍有名になったマッカーサー元帥だけどさ」

柳也「おう」

タハ乱暴「あの人が言っていたじゃない? いまだ硝煙の立ち昇る戦史を学ぶも大事だけど、埃にまみれてもなお燦然と輝く戦史を学ぶ方がより重要だ、って。それとはまた違うけど、たまには古いゲームでもってことで、押入れの中に眠っていた『信長の野望』を引っ張り出してやったわけよ。そしたらこれがえらい面白い、面白い! んでな、引っ張り出したのは『信長の野望 革新』だったんだけど、あれ、2005年発売のゲームじゃん?」

柳也「ああ」

タハ乱暴「昔登録したオリジナル武将の中に、こんな奴がいたんだ」

 

桜坂柳也
統率:90 武勇:84 知力:85 政治:65

 

柳也「……おい、これって」

タハ乱暴「うん。勿論、アセリアAnother書き始める以前に作ったデータよ。これ見て、よくよく考えればお前とも長い付き合いだなぁ、って」

柳也「さよか。……はい。のっけからこんなんですんません。読者の皆様、今回もアセリアAnotherをお読みいただきありがとうございました! 今回の話はいかがだったでしょうか?」

北斗「今回の話のメインは、ヘリオンとのデートイベントか。……やれやれ、若い二人はお盛んなことだ。作戦行動中にも拘らず、そんなデート気分などと!」

柳也「いや、あんたに言われたくはないよ、このロリコン・サイボーグ」

タハ乱暴「うん。北斗はかつて作戦行動中に、バネッサの尻を撫でたり撫でなかったり……」

北斗「撫でとらんわ! ……任務中は」

柳也「任務後には撫でたんかッ。このロリコン・サイボーグ!」

北斗「ロリコン言うな! バネッサはちゃんと成人した女性だ。そりゃあ、見た目はあれだが……。その点、今回のヒロインのヘリオン君は、見た目も、設定年齢も問題があるだろう!」

タハ乱暴「いやま、アセリアに登場するヒロインの皆さんは、リアルに考えると不味い年齢ばかりですがね……ウルカなんて、あの世界の世間的には七歳だし」

柳也「聖ヨト暦三二三年発見で、物語のスタート三三〇年だもんな。うん。七歳だ。……そうやって考えると、アセリアは三〇九年誕生&発見だから、物語開始時点で二一歳か。さり気なく、俺より年上だな。まぁ、ファンタズマゴリアの一年は二四〇日間だけど」

北斗「そういえば、今回の話でも最後の方に登場したが、アイリスの設定年齢はいくつなんだ? バーンライト編における、主人公のライバル・ポジションのキャラだ。その辺りの設定も作っておいた方がいいと思うんだが?」

タハ乱暴「んう? いや、正直に言うと、あんま具体的な数字は考えてない。アイリスは、人格と物語中の役割の設定始めにありきで作ったキャラだから。始めに年齢ありきで、キャラを作ってないのよ。一応、柳也やアセリアと同年代くらい、エスペリアよりは下ってくらいには考えているけど」

北斗「オディールは? 彼女はアイリスの元上官で、彼女の師という設定だっただろう?」

タハ乱暴「エスペリアよりもやや上ってくらいかな? ちなみにオデットはニムと同じくらい」

柳也「ニムと……」

北斗「同じ、くらい……」

タハ乱暴「…………」

三人「…………」

三人「…………」

三人「…………あ…………」

三人「あのロリコン・スピリットめぇぇ〜〜〜!!」

 

 

アイリス「わたしはロリコンじゃないぞ!」

オディール「えっ!?」

アイリス「おい、こら、ちょっと待て、オディール! なぜ、そこでそんな意外そうな顔をする?!」

オディール「……読者の皆様、今回も永遠のアセリアAnotherをお読みいただき、ありがとうございました」

アイリス「無視か! 無視なのか!?」

オディール「次回もお付き合いいただければ幸いです。ではでは〜」

アイリス「ではでは〜……って、オディール! 待て。まだ話は終わっていない……」

 

 

バクシー「よかったですね? オディールに手を出さなくて。手を出していたら、年齢差的にロリコン扱いでしたよ?」

トティラ「…………いいのか、このような終わりで?」

 

 

 

<おまけ>

 

 袁紹軍の勇将、高覧将軍を打ち破ったジョニー軍は、戦死者・行方不明者・獲得した捕虜の数を集計した後、進軍を再開した。

 一方、敗残兵約一万三〇〇〇の帰還と同時に高覧将軍戦死の報を知った袁紹軍は、このままでは易京城内の公孫賛軍と挟み撃ちされてしまうと、あろうことか全軍を後退させ、易京城から距離を取った。

 この結果、ジョニー軍は悠々易京城に到着。頼もしい援軍との合流に、城内の公孫賛軍は勇気付けられた。

 易京城に到着したジョニー軍を、最初に出迎えたのは公孫賛軍の客将・趙雲だった。

「久しぶりですな、ジョニー殿」

「おう、子龍殿。反董卓連合以来ですなぁ。お変わりのないようで、安心しました」

「そちらもご壮健のようで」

「伯珪殿は?」

「司令部に定めた玉座の間で、全軍の総指揮を執っておられます」

「では、そちらに行きましょう」

 柳也は軍の代表として朱里と鈴々の二人を連れ、玉座の間へと足を運んだ。

 はたして、僕達の大好きな伯珪ちゃんは、ジョニー軍の勇将達を笑顔で出迎えてくれた。

「おお、サクラザカ……久しぶりだな。元気だったか?」

「おう。元気々々。体の丈夫さと顔の良さだけがとりえの男だからな」

「いや、顔はないだろ」

「はぐぉう!」

 再会を果たして早々、ジョニーは心に深い傷を負った。

 ジョニーのガラスハートが粉々に砕け散った後、早速、軍議が始まった。

 司会進行役は、伯珪の従妹の公孫範が務める。

 彼女はまず、袁紹軍と公孫賛軍、そしてジョニー軍の戦力を分析していった。

「度重なる突撃の失敗と、ジョニー軍との戦闘の結果、総兵力十万を誇った袁紹軍は、いまや歩兵六万九〇〇〇、騎兵六六〇〇にまで痩せ細っています。一方、我が軍は、今日まで篭城戦の方針を採っていたことも手伝って、いまだ歩兵二万五〇〇〇、騎兵三〇〇〇の戦力を擁しています。そして、本日駆けつけていただけましたジョニー軍が、歩兵約二万、騎兵約六〇〇といったところです。

 整理しますと、袁紹軍の歩兵が六万九〇〇〇に対して、我が連合は四万五〇〇〇。騎兵部隊は六六〇〇に対し三六〇〇です」

「敵軍はなおも我が方より強大なり、か」

 両軍のデータの洗い出しを終えるなり、趙雲が芳しくない面持ちで呟いた。これまでなんとか味方の被害を最小に抑え、かつ敵への損害を最大にするべく努めてきたつもりだったが、袁紹はいまだそれほどの戦力を有しているのか。

「とはいえ、まったく絶望的というほどの戦力差でもない」

 趙雲の言葉に覆い被せるように呟いたのは柳也だった。

「俺が生まれた天の世界では、過去に兵力三万で一〇万の大軍とぶつかり、勝った戦例がある。それに比べれば袁紹軍の総兵力七万五六〇〇など、兵力差は僅か一・五倍程度に過ぎん。要は、いかに敵を分断し、各個撃破するか、だ。……朱里、大軍を、しかも自軍よりも兵力優勢な敵を相手にする場合、重要なことは?」

「は、はひ! え、ええと……敵の全部と一度に戦わないことです」

 突然話を振られた朱里が、やや慌てながら必死に言葉を並べ立てる。

 柳也は自軍の誇るはわわ軍師様の回答に満足げに頷くと、居並ぶ英傑達を見回して不敵な笑みを見せた。

「その通りだ。……さて諸君、作戦を考えよう」

 

 

 ジョニー・公孫賛連合軍が対袁紹軍との作戦を練る同時刻。

 一旦、易京城から間合を取った袁紹軍本陣では、総大将・袁紹の高らかな笑い声が響いていた。

「おーっほっほっほっ、とうとう……とうとうこの日がやって来ましたわ! あの男……あの不細工男、ジョニー・サクラザカに反董卓連合の時の借りをお返しする日が! ああ! あの屈辱の日から苦節云十年……この日をどれだけ待ちわびたことか!」

「いやいやいや、云十年も経ってませんて。そんな待ってたらあたしらもジョニーの奴も爺さん婆さんですって」

 ひとり自分の世界に浸っては悦楽を覚えている袁紹の隣では、袁紹軍の二枚看板の一人、文醜が呆れた溜め息をついていた。ジョニー軍への雪辱戦を前に心奮えるのは彼女もまた同様だったが、さすがに袁紹のこの発言には突っ込まずにはいられなかった。

「うぅ〜、文ちゃんも姫も、遊んでないで真面目に作戦考えてくださいよ〜」

 そんな二人に冷たい眼差しを向けながら、もう一人の看板娘こと顔良将軍は唇を尖らせた。

 白馬将軍公孫賛の勇名と、ジョニー軍の強さは、ともに緒戦の敗北で骨身に染みている。その両軍が連合を組んだのだ。これまでのような、兵力にものをいわせた力押し一辺倒の戦術で打倒することは難しいだろう。何か有効な作戦を考えねばならないが、肝心の総大将がこれでは……。

「うぅぅ〜、儁乂ちゃん、何か良い案、ある?」

 先のジョニー軍との戦闘で高覧将軍が戦死したいま、袁紹軍での地位は顔良、文醜に次ぐ張コウに、苦労人将軍は訊ねた。

 張コウは「そう、ねぇ……」と、少し考え込んだ後、この軍議の席にあって、初めて建設的な意見を述べた。

「敵の布陣や、敵がどんな地形で勝負を挑んでくるのかがまだ分からないから何とも言えないけど、兵力ではこちらが勝っているんだし、基本は正面から攻め立てて敵を圧迫、抵抗の弱い箇所を発見次第、そこに戦力を集中投入する、という方針でよいと思う」

「一点集中?」

「ええ。もし、敵がその方面に戦力を集中させたら、今度は兵を引き抜いた箇所を打撃すればいいんだし。……あと、これは提案じゃなくて、お願いなんだけど」

 張コウの発言に、顔良が怪訝な表情を浮かべる。

「連合を組んでいるといっても、ジョニー軍と公孫賛軍は、常日頃から共同で訓練を行っているわけじゃない。一糸乱れぬ連携や、阿吽の呼吸が必要な作戦は取らないと思うの。多分、両軍は基本的な作戦方針を定めた後は、独立して軍を動かしてくると思う。その際、ジョニー軍を相手取る部隊の指揮を、私に執らせてほしい」

「……もしかして、高覧さん?」

 目の前の同僚が先の戦闘で戦死した高覧将軍に好意を抱いていたことを、顔良は知っていた。言葉短く仇討ちのためか、と訊ねると、はたして、張コウは迷いのない所作で頷いた。

「帰ってきた兵の報告によれば、高覧を討ち取ったのはジョニー軍の関羽だって話じゃない。私は、彼の仇を取りたい。……いいえ、取ってみせる」

 決然と呟いた張コウの双眸には、復讐の炎が滾っていた。

 どこまでも熱く、途方もなく激しい、怨念の炎だった。

 

 

 あくる朝、ジョニー・公孫賛連合軍と袁紹軍は、易京城南の大平野にて対峙していた。両軍ともに敵との決戦を覚悟しての構えで、平原には双方が動員出来た全戦力が集まっていた。

 連合軍の布陣は、まず公孫賛伯珪麾下の歩兵部隊一万五〇〇〇が中央軍を担当する。その左翼側に着くのが公孫範麾下の歩兵部隊一万で、右翼側は勿論、ジョニー軍の各部隊が担当していた。

 右翼を務めるジョニー軍・各部隊の配置は、まず程遠志のアニキ麾下の重装歩兵隊七〇〇〇が左半分を担当し、右半分を管亥隊が担当していた。両部隊の背後には、高昇隊と柳也が直接指揮する本隊が着き、正面二隊の援護射撃を担当する。張飛隊と華雄将軍麾下の騎兵隊五六〇騎はさらにその後方に位置し、この両隊には予備兵力としての役割が与えられていた。

 なお、管亥隊と張飛隊は、先の戦闘による人員の損耗が激しかったため、本隊と高昇隊から兵を引き抜き、それぞれ四六〇〇、四五〇〇の兵力を保有していた。本隊、高昇隊は、それぞれ一〇〇〇と三〇〇〇。

 ジョニー・公孫賛連合軍の前衛を務めるのは、公孫賛自慢の白馬騎兵隊三〇〇〇で、これを指揮する張遼将軍は、部隊を一〇〇〇ずつの三隊に分けて、中央軍、両翼軍の前方に展開させた。

 他方、袁紹軍は、中央軍に文醜・顔良の両将軍が指揮を執る歩兵部隊二万、その両翼にも歩兵部隊二万を置き、さらにその両端に騎兵部隊を各三三〇〇ずつ配置するという、極めてオーソドックスな布陣で展開した。これら六万六〇〇〇の背後には、袁紹麾下の本隊九〇〇〇が控え、援護射撃の弓兵隊と、予備兵力としての役割を担当した。

 大平原に集った双方の総兵力は合計約一二万四〇〇〇。この大軍同士の激突の末の勝者は、はたして……?

 いまここに、後に易京の戦いと呼ばれる一大決戦の火蓋が、切って落とされようとしていた。

 


無事に侵入し、更に地位を変えて更に侵入。
美姫 「柳也は兎も角、ヘリオンはかなり緊張してたわね」
だな。にしても、前々から怪しかったウィリアム。
美姫 「今回、色々と出てきたわね」
だな。一枚岩じゃない感じだったが、更に酷い状況になっているかもな。
美姫 「今の所は、目的もよく分からないしね」
いやー、色々な人たちの思惑が交錯していて本当に楽しい。
美姫 「次回も待ち遠しいです」
それでは、次回も待っています。



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