――聖ヨト暦三三〇年、アソクの月、赤、ふたつの日、夜。
絶対的に優勢な立場から始まった勝負のはずだった。
二体のスピリットを含めてこちらの戦力はゆうに三五人。それに対し敵の戦力はエトランジェが混ざっているとはいえたった四人。地の利もこちらにあり、その上で人質をとっている立場の自分達が敗北するなどありえないはずだった。
しかし、だとしたら、今、自分の目の前で展開しているこの光景は、どうしたことだろう。
黒装束達の頭目、ラキオス国内に潜伏しているバーンライトのスパイ全てを統括する立場にあるその男は、慄然とした眼差しで大混戦に陥っている戦場を見つめていた。
すでに部下の半数以上が死傷し、対エトランジェ用の切り札であった二体のスピリットも消滅してしまった。人質は極めて初期の段階で奪還され、あるはずの地の利もまるで利用できずに混戦に陥ってしまっている。同士討ちの危険性があるため弓矢の類は使えず、最初、こちら側にあったアドバンテージはすべて失ってしまった。
――なんということだ……。
最初に奇襲を受けたその瞬間から、自分達の計画は狂ってしまった。
勝てるはずの戦いには敗北の兆しが見え始め、二十年をかけて構築したスパイ網は崩壊しようとしていた。
あの、最初の奇襲さえなければ……こんなことにはならなかった。
『クソッ!』
面当ての僅かな隙間から、吐き捨てるような憤りが漏れた。
戦況不利と見た男は、そろりそろりと後ずさり、石段の側まで近付くやたっと踵を返した。
この上は本国と連絡を取って、次なる指示を仰がなければ。敵は独自の判断で動いて行動するには、あまりにも強すぎる。
脱兎の如く駆け出し、あっという間に五十段を下って中腹まで下りた頭目の背中に、怒声一喝が炸裂した。
『待てぇいッ!!』
『――――――ッ!』
地鳴りのような足音が、頭目の背中を追ってきた。
振り向かずとも、追っ手の正体は分かった。耳に覚えのある声だったからだ。記憶力が良くなくてはスパイの頭目は務まらない。
頭目は走りながら懐に素早く手を差し入れ、小さく黒いものを後方へとばら撒いた。
日本の忍者が使ったとされる、撒き菱にも似た足止めのための武器だ。男が撒いたのは菱の実ではなく、“コハの実”という針葉樹の実を硬く乾燥させた物で、その効果は菱の実の撒き菱と変わりない。
追いかけてくる敵の足音が止まった。
面当ての仮面の下、頭目の男は企みが成功したことに酷薄な笑みを浮かべると、そのまま後ろを振り返ることなく全力で足を動かした。
九十四段をすべて下ったその背後で、一度だけ足音が鳴った。
頭目の頭上を何か黒いものが飛んでいったかと思うと、ドスン、と大きな地響きを立てて、男の進行方向に突如として六尺豊かな大男が降り立った。
慌てて急停止した頭目の顔面に、鋭い鉄拳が叩き込まれた。
金属の面当てがいとも容易く砕け散り、頭目の男は傾斜の緩やかな石段の上に背中を打ちつけた。
自分の撒いたコハの実が要所々々に突き刺さって、体中に激痛が走った。
『う、ううっ……』
『逃がさねぇぞ』
驚異的な身体能力で四十段近い石段をたった一度の跳躍ですべて跳びこし、あまつさえ男の目の前に着地してみせたその男は、獲物を前にした猛禽のような鋭い眼差しを自分に向けていた。
剥き出しになった素顔に、冷徹な知性と闘争本能を宿した視線が痛かった。
二十年以上もの間、バーンライトの密偵としていくつもの修羅場を潜り抜けてきた男の額に、じんわりと冷や汗が浮かぶ。
自分よりふた回り以上年下と思わしき少年の、たったひと睨みによって、頭目の男は動くことを封じられてしまった。
『戦況不利と見るやひとりだけ離脱。駄目だと思うぞ、そんなんじゃ。もう少し粘るか、全員に撤退命令を下さないと。リットベルグ中将も言っている。いつから将校が兵士より先に逃げていいことになったのかね? …ってよ。そんな指揮官じゃ、今に誰も着いてこなくなる』
異世界からのエトランジェは、狩人の眼でそう言った。
永遠のアセリア
-The Spirit of Eternity Sword Another-
第一章「有限世界の妖精たち」
Episode11「騎士―U」
シンの目の前で、また一人、黒装束の同胞が血煙を上げて倒れ伏した。
瞬時に二人の仲間を討ち取り、シンへと迫る痩躯の影は、その顔に静かな怒りをたたえていた。
『クルバンさん……!』
『シン、この瞬間を待ちかねていたぞ』
すでに幾合もの攻撃を受け止めたラウンド・シールドは砕け散り、チェイン・メイルも所々がほつれ始めている。
肩を上下させるグリゼフの息は荒く、すでに五人は斬ったロング・ソードは、どれほどの血と脂で切れ味を落としているか分からなかった。
『ロバートを背後から斬ったそうだな』
『それがどうしたというんですっ』
『許さん!』
『今のあなたのその剣で、それが可能だとでも!?』
叫ぶと同時に、シンは斬りかかった。
応じて、グリゼフは赤く染まった刃を打ち込んでいった。
赤と白。
二条の光線が激突した。
グリゼフの五体に、いささかも余計な力みはない。
無二の朋輩を殺された恨みに燃えてはいても、その動き、太刀筋は冷静そのものだった。
対するシンは、肩に力を入れすぎている。
これでは、最初から勝負になるはずもあるまい。
合わせた刃をそのままに、グリゼフは静かに告げた。
『ロバート達の無念、しかと思い知れ』
鍔迫り合いの果てに弾き返された次の瞬間、シンは血煙を上げながらのけぞった。
グリゼフの怒りの一刀が、許さぬ怨敵を袈裟がけに斬り倒した。
『そ、そんな…こんなところで……』
『真正面から斬ってやっただけでも、有難く思え』
断末魔の吐息をこぼして、シンは動かなくなった。
六人目の敵にして、決して許せぬ怨敵を斬った愛刀は、刃こぼれも酷く、血と脂の浮きも著しい。
――こ奴のを拝借するか…。
鈍らと化した愛剣を、今は研いでやる暇はない。戦いはまだ、終わっていないのだ。
斃したシンの手からロング・ソードを奪い取ろうとしたその瞬間、グリゼフの耳朶を、甲高い悲鳴が打った。
振り向くと、モーリーンと姉弟の前に、三人の黒装束が殺到している。
瞬時にモーリーンが二人を斬り倒すが、残る一人はモーリーンが二人目を斬っているその間に、容赦なく罪なく、力なき少年少女に襲い掛かった。
『この外道めがッ!!』
グリゼフは赤い剣を投げた。
グリゼフのいる位置から駆け出したのでは、とてもではないが間に合わない。
正確に投擲されたロング・ソードは卑劣な黒装束の背中に突き刺さると、一瞬にしてその命を絶った。
前のめりに倒れた男の死を確認したグリゼフは、今度こそシンの手からロング・ソードを奪おうとして、腹部に、激痛が走るのを感じた。
『うぬ…ぐっ……』
飛来してきたのは一本の矢だった。
高速で襲来した矢が鎖帷子を易々と貫通し、グリゼフの右脇腹に深々と突き刺さっていた。
『ど、どこだ……!?』
思わず膝を着きそうになるのを寸前のところでこらえ、グリゼフは辺りを見回した。
矢の入射角から飛んできた方向を推測し、そちらを向くと、そこには見慣れた顔の男が、倒れた弓兵の弓矢を手に、こちらを睨んでいた。
『カイル……!』
鮮血とともに、怨念の声がその名を呼んだ。
カイル・ロートマイルは狡猾にも拝殿の奥に身を潜めながら、矢を射っていた。
グリゼフはすでに息絶えたシンの手からロング・ソードを奪い取ると、もう一人の怨敵に向かって突進した。
駆け抜ける男の脳裏に、尋常ならざる立ち会いの果てに破れた朋輩の顔が、今は亡き師の顔が浮かんでは消えた。
――ガストン先生…みんな……私に力を貸してくれ!
石畳の表面に、点々と赤い雫が流れる。
灼熱の痛みは、いつしか感じなくなっていた。
カイルが、二本目の矢を射った。
グリゼフは構わずに突き進んだ。
カイルの放った二本目の矢が高速を保持したままグリゼフの右胸に命中し、突き抜けた。
次の瞬間、胸に穿たれたその穴から大量の血飛沫が起こった。
どうやら右側の肺が破裂してしまったらしい。
明らかな致命傷だったが、グリゼフはなおも走るのをやめなかった。
『ガァイルゥゥ―――――――!!』
血を吐き、絶叫しながら、ついにグリゼフはかつての朋輩、今や裏切り者の怨敵を追いつめた。
拝殿の正面玄関へと続く十三段を隔てて、高所のカイルと低所のグリゼフが睨み合った。
『斬り捨てる前に…聞いておこう。何故、我らを裏切ってバーンライトの軍門に下った?』
『決まっている。俺達の人生を台無しにしやがったリリアナ・ヨゴウに、そして俺のプライドに泥を塗りやがったあのエトランジェに復讐するためだ。あんた達のやり方じゃあの二人を斬ることはできないと思った。だから、シンの口車に乗ってやったんだ』
咳き込みながらのグリゼフの問いに、カイルは吐き捨てるように言った。
『ガストン・シュピーゲイルの道場に通えば、どんな身分の低い者でも騎士として仕官の道が開けると聞いて道場に通っていた。それなのに、リリアナの野郎は俺の将来をぶち壊しにしやがった』
『だから、貴様は八年もの間、我々と行動をともにし続けてきたのか……?』
『そうだ』
『愚かな…』
侮蔑も露わな口調のグリゼフの視界は、焦点が合わず、おぼろに揺れていた。大きく肩で息を吐きながら、呼吸を整えるのに必死だった。
『己の立身出世のために、騎士の称号はあるのではないわ』
『ぬかせッ!』
カイルは弓を捨てるとすかさずロング・ソードを抜き放ち、大きく頭上に振りかぶった。
グリゼフのかすむ視界の中で、カイルが夜空に舞い上がった。高い跳躍だった。
グリゼフは緩慢な動作で頭上を振り仰ぐと、ゆったりとした動きで腰を沈め、ロング・ソードを両手に立てた。
グリゼフは最後の力を振り絞って身体を起こすと、両刃の剣の切っ先を凄まじい刃風とともに落ちてくるカイルの内股に突き上げた。カイルの死角だった。
カイルの剣が頭上に振り上げられ、グリゼフの額を断ち割ろうとした。
カイルの口から名伏し難い絶叫が迸り、ロング・ソードが振り下ろされた。
グリゼフは己のロング・ソードにかかった巨大な力に押し潰されて腰砕けになった。
それが、カイルの刀勢を殺いだ。
カイルの剣がぶれてグリゼフの額を掠めた。
グリゼフの剣は、無防備なカイルの内股を深々と断ち切っていた。
やがてカイルの唇から物悲しい声が漏れた。そして背を丸めて長身がゆっくりと拝殿へと続く石段を転がり落ちていった。
◇
石段の上から聞こえてくる闘争の音は、次第にその勢いを弱めていった。
終わりの時が近付いているのを悟った柳也は、石段に叩きつけた男の胸倉を掴むと、その身体を持ち上げた。
『此度の戦い、お前達の負けだ』
『ぐぅッ…エトランジェ、貴様さえいなければ……ッ!』
『自分の指揮能力の低さを他人のせいにしてるんじゃねぇよ』
柳也は辛辣に言い放った。
『戦いの基本は奇襲だろうが。予想外の事態に対して動揺することなく、いかに迅速かつ柔軟に対応するかで、指揮官の実力が決まるってもんだ。この世界の人間はそんなことも知らないのか?』
『シン如きの、口車に乗った我らが愚かだった……』
『だから他人のせいにすんじゃねぇっての』
柳也は持ち上げた身体を放り投げた。
それほど力は入れていない。しかし、神剣の力を発動させた柳也の怪力は凄まじく、軽い腕のひと振りで黒い流星は十メートル近く飛んでいった。
月明かりの下、柳也は同田貫の豪剣を凶悪に光らせながら倒れ伏す彼に歩み寄った。
仰向けにして寝かせ、面当てをはずすと、柳也は狩人の眼差しのまま言った。
『安心しろ。お前は殺さない。お前には、色々と聞きたいことがある』
状況から見てこの男がバーンライト・スパイ部隊の隊長格であることは明らかだ。だとすれば、この男から得られる情報は貴重かつ重要なものとなる。この場で斬り捨てるよりも、生かして尋問にかけた方が得策だ。
そこまで考えたところで、柳也は愕然となった。
いつの間に自分は、こんな冷たい計算が瞬時にできるようになってしまったのか。
しかも、いつから自分はそれを不思議に思わなくなってしまったのか。
いつから自分は、ほとんど抵抗もなく、「殺す」なんて言葉を口に出せるようになってしまったのか。
途端に黙りこくってしまった柳也に、素顔の黒装束は爛々と憎しみに光る双眸をぶつけた。
『化け物め……!!』
一瞬の隙を衝いた男が、懐から短刀を抜いて柳也に斬りかかった。
柳也は驚異の反射神経でそれを避けるも、黒装束が起き上がることを許してしまった。
――さっさと気を失わせておくべきだったか……!
またしても冷たい計算と後悔が頭の中をよぎる。
しかし、もう柳也はそのことを疑問に思わなくなっていた。
人を斬る決意を固めた彼の中から、迷いや躊躇いは一瞬にして消え去った。
駆け引きや算段は頭の中から吹き飛び、柳也の身体は自然と剣者としての反応を取っていた。
左手を主とし、右手を従とする剣術の要訣に沿った手の内で二尺四寸八分の豪剣を握り、横一文字に薙ぎ払う。
刀身はオーラフォトンの輝きを失っており、鈍い鍛鉄の煌きが、夜気を切り裂いた。
黒装束の手の中にあった短刀が、二寸ほどを残して真っ二つに切断され、黒装束の尻が地面に落ちる。
だが頭目の男はなおも抵抗をやめなかった。
彼は懐中より忍者が使う棒手裏剣のように細長く、先の尖った木の棒を取り出すと、音もなく投擲した。
しかし、所詮は不自然な姿勢からの、しかもびりびりと痺れたままの手から放った、勢いの乗らぬ投擲だ。そもそも、この手の投擲武器や射出武器はある程度の距離を隔ててこそ真価を発揮するものである。刀剣の間合いの内に入った時点で、その利点はすべて失われてしまっている。
柳也は体さばきだけでそれを避けると、左斜め上へと斬り上げた。
重い金属音が鳴り響き、鎖帷子に守られた男の胸板から血飛沫が散った。
肉薄していた柳也の顔が、あっという間に朱に染まる。
『がああッ!!』
『ッ! しま……ッ!?』
豪剣を振り抜いて、柳也は後悔した。
殺さないと自ら宣言したというのに、これでは間違いなく致命傷だ。
と、刀を振るったその両手首が、万力のような強い力で掴まれる。
断末魔の瞬間を迎えようとする頭目が振り絞った、最期の力だった。
『貴様のような…怪物を、野放しにしておいては……いずれ我らの国は…いや、わが祖国のみならず、この世界は食われてしまう。そうなる前に、貴様…だけはぁ、この一命を賭してでも!』
『勝手なことをぬかすんじゃねぇッ!!』
黒装束が、柳也に斬られた胸元をはだけて見せた。
着衣状に結われた鉄の環の他に、着火装置と連結した導火の存在が見て取れる。その導火線は、自決用のエーテル爆薬と結ばれているに違いなかった。
黒装束は一見すると軽装で、どこにも爆薬を隠しているようには見えない。
しかし、爆薬を衣服などに浸しこむ技術はそう難しいことではない。柳也達の世界でも、大した設備も技術力を持たないテロリストが衣服などにプラスチック爆弾を浸し込み、検閲を抜けた後、油断しているところに自爆テロを行うというケースがままある。
頭目が着火装置を起動させた。
たちまち、導火線に火が灯り、死へのカウントダウンが始まった。
――冗談じゃない…!
柳也は左腕の筋力を集中的に強化した。
急激な細胞の強化に伴って全身に激痛が走ったが、構っている場合ではなかった。
柳也は左手を同田貫の柄から離すと、力任せに振るって拘束を解いた。
たちまち、その手が左腰の脇差に伸び、一尺五寸五分の刀身が世に解き放たれた。
柳也は素早く狙いを定めると、柄を握る力も程々に、無銘の業物を突き出した。
意識はなく、本能だけで動いていた。
火の点いた導火線が断ち切られ、続いて鎖帷子を噛んで、肉を喰らった。
人を刺したのだという感覚は、後からやってきた。
確かな手応えが、柳也の喉を、ゴクリ、と鳴らした。
初めて、人を斬った。
初めて、人を刺した。
その感慨に浸る間もなく、男の口から、ごぼり、と大量の鮮血があふれ出し、その首が静かに折れた。
男の沈黙、そして一向にやってこない爆発の瞬間に、柳也はようやく自分が生きていることを実感した。
生きているという喜びが、静かに全身を駆け抜けていった。
男の身体から脇差を抜く。
勢いよく血煙が噴き出し、柳也の全身を薄化粧で染めた。
右手首に絡んだ手は、一向に力が衰えなかった。
◇
柳也が再び石段を上りきると、すでに前庭での戦いは終了していた。
人々から忘れ去られた神殿の石畳には三十五人分の血が染み込み、人々の知らぬところで三十四の命が散っていった。
人質の無事な様子を確認した柳也は、深々と安堵の溜め息をついた。
作戦の立案者たる柳也ではあったが、実のところ彼自身は、作戦の成功に少なからず不安を抱いていた。柳也の提示した勝利への鍵は、あくまで現代世界において通用した戦術の要訣であり、有限世界の戦いにおいても有効であるかどうかは、多分に博打的な要素が強かったからだ。
加えて今回の作戦は、柳也にとって初めての実戦でもあった。単に剣を振るうだけの戦いならば何度も経験している。しかし、明確な目的と目標に沿った作戦行動を取るのは、今日が初めてのことだった。
――…なんにせよ、無事に上手くいってよかった……。
柳也は今更ながら額に浮かんできた冷や汗と一緒に、べっとりと纏わりつく返り血を拭いながら戦闘を終えたリリアナ達のもとへと歩み寄った。
しかし、数歩歩いて、その場に漂う剣呑な空気に気が付いた彼は足を止めた。
どこか負傷したのか、腹の辺りを抱えながら、玉のような脂汗を額に浮かべたグリゼフが、血振りとともにロング・ソードの切っ先をリリアナに向けている。
苦痛に悶えるその表情には、決死の覚悟が窺えた。
『リリアナ・ヨゴウ…! 今、一度…私と立ち会え!』
ゴホリ、と咳き込むと同時に吐き出される、多量の鮮血と覚悟の言葉。
なんとグリゼフは、激戦を終えて気力体力ともに疲弊し、その上負傷した身体で、リリアナに勝負を挑もうとしていた。
『この命の炎…もはやそう長くはもつまい。ならば、せめて最期は騎士として……一人の、男として、尋常な立ち会いの中で死にたいのだ』
『……よかろう』
グリゼフの嘆願に、リリアナは剣をもって応えた。
血振りをすませ、一度は鞘に収まったファルシオンが、再び獲物を求めて月光の下、鈍く輝く。
その場にいる誰もが息を飲み、静寂の“時”が、場に訪れる。
すべての音が消失した世界の中で、ただ、グリゼフの荒い息遣いだけが響いていた。
柳也は、二人の戦いを止めようとは思わなかった。
平和な時代の、平和な国に生まれたとはいえ、柳也には異世界に生きるグリゼフの気持ちが、我が事のように理解できた。
仮にこの戦いに横から手を出したとしたら、それは一人の男の生き様を、全否定することになる。そしてそれは、柳也にとって己自身を否定するようなものだ。
止めようという気は欠片も起こらず、そもそも止めようとしたところで止められるはずがなかった。
柳也に、グリゼフの誇りを傷つけられるはずがなかった。
荒い息のグリゼフは、半身でロング・ソードを正眼に構えた。
対するリリアナは、ファルシオンを地擦りに、グリゼフの出方を窺う。
先に仕掛けたのはグリゼフだった。
傷ついた身体での足運びは拙く、そして太刀筋は鈍い。しかし、力強い一撃だった。
リリアナは真っ向からの面打ちを余裕で避けた。
『ええいっ! どこだ、リリアナ? どこにいる!?』
勢い余ってリリアナのはるか後方へと歩を進めたグリゼフは、虚空に向かって刃を振るった。
すでにグリゼフの視力は完全に失われているようだった。
『ここだ、クルバン・グリゼフ!』
リリアナが大声で己を誇示した。
グリゼフが振り向き、必殺の突きの構えを取った。
リリアナはグリゼフに対して背を向けた。
眼の見えぬグリゼフが真っ直ぐ突進した。
背を向けたリリアナが回転の遠心力を載せて、必殺のリープアタックを放った。
重い金属音が鳴り響き、ロング・ソードの刀身が根元から六寸余りのところで折れた。
ファルシオンの返す刃が、グリゼフの鎖帷子を斬り上げた。
血煙が舞い躍り、男の口から絶叫が迸った。
重装のモーリーンが、側らの子ども達には見せまいとマントを翻す。
柳也は、ただ黙って男の最期を見届けるばかりだ。
グリゼフの身体から、どっと力が抜け落ちた。ガクリ、と膝をつき、前のめりに倒れていく。
倒れ伏す直前、視力を失ったグリゼフと、柳也の目が合った。
目の見えないグリゼフが、柳也を向いて笑いかけた。
グリゼフの顔が、柳也の視界から消えた。
柳也の視界に、兜に覆われたグリゼフの頭だけが映じていた。
柳也の頬を、何か熱いものが流れた。
涙、だった。
壮絶なる騎士の最期に、柳也は我知らず涙を流していた。
ついに倒れ伏し、沈黙した男に、柳也は背筋を、しゃん、と伸ばすと、右手を挙手した。
偉大なる騎士を見送る、涙の敬礼だった。
作戦名“ドラゴン・アタック”作戦。
味方戦力四名。内、エトランジェ一名。
敵戦力三十七名。内、スピリット二名。
敵陣営被害、死者三十一名、負傷者四名、消滅二名。
味方陣営被害、死者一名、負傷者二名。
それが、此度の事件の、顛末だった。
◇
グリゼフを斃したリリアナは、無表情のままファルシオンの血振りをすませると、今一度、愛刀を鞘に納めようとして、失敗した。
死闘の最中、気付かぬうちに刃が曲がってしまったらしい。
どんなに頑張っても納められぬ曲刀を見つめながら浅い溜め息をつくと、リリアナは諦めてファルシオンを布でくるむだけに留めた。
『……終わったな』
一段落ついたところを見計らって、背後から柳也が語りかけた。
偉大なる騎士の最期に立ち会ったばかりのリリアナは、弟子の言葉に無言で頷いた。
さしものラキオス剣術指南役も、相次ぐ激戦に気力体力ともに憔悴しきっているらしい。柳也に背を向けた男の顔色は、明らかに疲弊の兆しを見せ始めている。
『…とはいえ、ようやくこれで終わりだ』
子ども達を守りながらの戦いで、自分もまたいくらかの傷を負ったモーリーンが、朗らかな笑みを見せる。
ラキオス剣術指南役という立場にあるリリアナにはまだ仕事が残っているとはいえ、モーリーンの言う通り事件自体は終息を迎えた。あとは人質となった子ども達を家族のもとへと連れて帰り、捕虜を王城へと連れて行けば、ようやくベッドで眠ることができる。国王への事後報告をまとめるのは、その後でも構わないだろう。
ファルシオンをマントの切れ端でくるんだリリアナは、ようやく気を抜いた顔で後ろを振り返った。
すでに柳也は自分が峰打ちで気絶させた四人のうち、二人を両脇に抱えて、帰り支度をすませている。
そんな柳也の恰好に、ふと疑問を覚えたリリアナは声をかけた。
『お前は……』
リリアナは、全身に返り血を浴びた柳也に、三白眼で鋭い眼差しを向けた。
『……斬ったのか?』
スピリットの肉体は、すべて例外なくマナで構成されている。
そしてスピリットが死を迎える時には、所有する神剣が内包していたマナが解放されると同時に、スピリット自身の肉体もまたマナ本来の姿へと還元される。
ゆえにスピリットを斬っても、返り血は残らない。
スピリットからも血は流れるが、肉体の外に流れ出た血液は、すぐにマナの霧へと還る。
リリアナの問いに、朱に染まった剣士は静かに首肯した。
『ああ…。連中の頭目を、斬った』
『……そうか』
リリアナは表情の奥に隠された少年の真意を探るように、食い入るように柳也の顔を見つめた。
初めて人を斬ったというわりには、柳也の様子は落ち着いており、いささか平然としすぎているような気すらする。
自分が初めて人を斬った時などは、これは剣者が通るべき運命なのだと自分を納得させながら、恐怖からくる震えをなんとかこらえていたものだが。単に肝が据わっているだけなのか、それとも表情に出さないだけで、内心では恐怖に打ち震えているのか。
『……初めて人を斬った感想は?』
リリアナは自分でも無粋な質問だな、と思いながら、柳也に問うた。
『そうだな……』
柳也は、しばし考え込んでから、
『……悪くはない』
と、凄絶な笑みとともに答えた。
『リュウヤ…お前は……』
『さ、いつまでもこんなところにいないで、早いとこ、行こうぜ。あの子達の親御さんも、きっと心配しているよ』
絶句するリリアナをよそに、柳也は捕虜の二人を軽々と担ぎながら、石段を下り始めた。
子ども達二人を連れ、捕虜の一人を担いで、モーリーンもその後を追う。
ひとり神殿の境内に取り残されたリリアナは、気を失っている捕虜以外に生者なき空間で、恐ろしげに身を震わせた。
――…あの異世界からの少年が、この国に……いや、この世界に、平和をもたらすか、戦乱をもたらすか……。
近い将来に訪れるであろう、希望と絶望を孕んだ鉛色の未来。
それを想像するリリアナの耳元で、くすくす、くすくす、と風の囁きが聞こえた。
聞こえたような、気がした。
◇
――聖ヨト暦三三〇年、アソクの月、赤、みっつの日、昼。
ドラゴン・アタック作戦が成功裏に終わった翌日、柳也とモーリーンは王城の一室へと呼び出された。
剣術指南役兼スピリット隊の訓練師という役職上、国王への報告書を書かねばならないリリアナに、調書を取るからと言われて呼び出されたのだ。
招かれた部屋は王城の居住区の一画にあり、そこはラキオスの剣術指南役のためだけに用意されたリリアナの私室兼執務室だった。柳也達に与えられた私室と同じ程度のスペースながら、内装は武人のリリアナらしく簡素にまとめられており、実際よりも広く見える。
調書を取るといっても、それは現代世界の警察が行うようなちゃんとした取調べではなく、事件の細部の照合と、問題の事実確認だけの簡単なものだった。
事件の概要に関しては、リリアナ自身が事件の渦中にいたこともあってすでにほぼまとめられており、二人に対する取調べは、報告書作成上の形式的なものに過ぎない。
『……こんなところか』
形ばかりの取調べを小一時間ばかり行って、リリアナは疲れきった顔色で紙面には知らせる筆の運びを止めた。
騎士のたしなみとして字の読み書きは一通り習得しているリリアナだが、その筆運びはどうにも拙い。
どうやらラキオスの剣術の達人は、習字に関してはあまり芳しくないようだ。
乱筆が並ぶ調書から目線をはずすと、リリアナは大きく伸びをした。
慣れない作業に疲れた背中は、剣の達人というよりはどこにでもいるサラリーマンといった風情だ。もっとも、産業形態の未熟な有限世界のこと、サラリーマンと呼ばれる人種がこの世界にいるかどうか、柳也はまだ知らなかったが。
パキパキ、と肩を鳴らす師の背中に、柳也はねぎらいの言葉をかけてやる。
『お疲れさん』
『ああ、まったくだ』
弟子のいたわりの言葉に、リリアナは重たそうな瞼をこすりながら振り向いた。
『己の腕を買ってくれるのは誉れ高いことだが、剣術指南役なんて役職に就くと、こうした作業までも纏わりついてくるから敵わん』
『ヨゴウ殿は物書きは苦手か?』
『自慢ではないが、幼少の頃、通っていた筆学所での成績は下から数えた方が早かった』
『…本当に剣一本でここまで上り詰めた人生なんだな』
柳也は感心した様子で言った。
『ああ…。いかな苦難の道のりも、この剣の腕一つで切り拓いてきた。今となっては、剣の道は私の人生そのものだ』
リリアナは得意げに笑った。
調書を取り終えたリリアナは、『茶を淹れるから少し付き合え』と、二人を誘った。
電気ポットならぬエーテル・ポットにより温かいまま保存された茶がカップに注がれ、執務室のデスクとは別に置かれたテーブルの上に並べられる。
それまで事務用のデスクに腰掛けていたリリアナは、ある意味で、昨夜の死闘よりも過酷な作業から解放されたことを示すかのように、テーブル脇のソファへと腰を下ろした。
いつになく疲れきった様子のリリアナに苦笑しつつ、柳也はカップを口元へと運んだ。
時間を経てなお芳醇な香りが、柳也の鼻腔をくすぐる。さすがに士官だけあって良い茶葉を使っている。もっとも、根が貧乏性の柳也には、茶葉の品質などあまり関係のないことだったが。
三人はしばらくの間、ティーカップを片手に剣術談義に花を咲かせた。
住む世界は違えど、三人は同じ剣の道を志す男達。話のタネは一時間や二時間では到底、尽きるはずもない。
話題がお互いの世界における剣術の話ともなれば、その過熱ぶりたるや談笑というよりは議論の様相を呈してくる。
柳也にとって、また有限世界の剣士達にとって、それは至福の時間だった。
『ところで……』
白熱する剣術談義がひと段落終えたのを見計らって、リリアナが話題を変えた。
『今日、お前達をこの部屋に呼んだのは他でもない』
柳也とモーリーンは目を丸くした。
『お前達をこの部屋に呼んだのは調書を書くためでもあるが、それ以上に、モーリーンに聞きたいことがあったからだ』
『…私に?』
リリアナに名指しされて、モーリーンの顔が、さっ、と引き締まった。
事件の早期解決という利害が一致したために一時休戦を結んだとはいえ、リリアナとモーリーンは敵同士だ。事件が無事に解決した今、二人が休戦状態を続ける理由はない。
リリアナは今、この場でモーリーンに対して休戦の破棄を宣言するつもりなのか……柳也が固唾を飲んで見守る中、リリアナは淡々と口を開いた。
『お前の今後について訊ねておきたい。…これから、どうするつもりだ?』
『……』
リリアナの遠慮のない問いに、モーリーンは沈黙した。
ガストン・シュピーゲイルの仇討ちのためラキオスに入国した七人は、モーリーンを除いて全員が死亡した。うち三名は卑劣なる裏切りによって惨殺され、うち二名はその裏切りの果てに死んでいった。そして最後に残った男は、尋常なる立ち会いの果てに、満足げに死んでいった。ただひとり、モーリーンだけが生き残ってしまった。
今やこの命は、ガストン先生の仇討ちのためだけに使うわけにはいかなくなってしまった。今やこの命には、死んでいった四人の同胞の魂さえもが宿っているのだ。
今の自分とリリアナの実力差は明らかだ。
勝機のない戦いに挑んで、むざむざこの命を散らせるわけにはいかなかった。
『昨夜の死闘の最中にも、ガストン先生の仇討ちのことを忘れたことは一秒とてなかった』
『ならば、今から私と戦うか……?』
『いや……』
モーリーンは静かに首を横に振った。
『今の私の実力では、リリアナ・ヨゴウには勝てん。仲間達が生かしてくれたこの命、無駄に失うわけにはいかぬ』
『では……』
『しばらくは、この国に滞在することにした』
モーリーンは白い歯を光らせて微笑んだ。
今日にいたるまで、八年もの長きにわたって祖国を離れて武者修行の日々に明け暮れたのだ。今更、この国に留まるのを躊躇する必要はなかった。
『この国で修行を積み、貴様を研究し、私の腕が上がり、貴様の弱点を見出した時、改めて師の仇討ちは果たさせてもらおう』
『…アテはあるのか?』
『ない。宿場と職に関しては、これから探すつもりだ』
『だったら、いっそのことラキオス軍に入隊しちまえよ』
隣で成り行きを見守っていた柳也が、あっけからんと言った。
モーリーンにもリリアナにも、さすがにその発想はなかったようで、唖然として柳也を見る。
『入隊しちまえよ……とはいうがな、サムライ、この国の正規軍には、この国の人間でしか入れぬのだ』
呆れた口調で告げるリリアナに、柳也は平然と言った。
『だったら、身分を偽って入隊すればいい。ゴフ殿ほどの腕前なら、ちょっとくらい素性が怪しくとも、実力に免じて目をつむってもらえるだろう』
『身分を偽るとはいうが、そんな簡単にできることでもあるまい』
『そんなの、やってみなくちゃ分からないだろう? ……ちなみに、簡単にできることなのか?』
『…できないことはないが……』
リリアナは眉根を寄せた難しい顔で腕を組み、思案にふける。
ラキオス剣術指南役という自分の立場をもってすれば、目の前の男一人の身分素性を偽るくらいはたしかに可能だろう。
『しかしなあ……』
『ゴフ殿は、どうだ? この国の兵隊をやることに対して、抵抗はあるか?』
『ない……といえば嘘になる』
腐っても自分はマロリガンの騎士だ。己の主はガルガリン領のウェイガン卿ただひとりであり、自分の剣はマロリガンの国民のためにある。それが他国の軍隊にて兵役に就くなど、主や民に対する裏切りも同然だろう。
とはいえ、柳也の申し出は確かに魅力的だ。
ラキオスの正規軍に入隊できれば、少なくとも衣食住の心配はしなくてすむし、リリアナの剣技を間近で研究する機会も他よりは多いだろう。功績次第では、一度は諦めた騎士の身分に、再び返り咲くことができるかもしれない。
別にモーリーンは名誉や金のために騎士になったわけではない。
すべては己のため、そして民のため。純粋な愛国心ゆえに、騎士を目指し、そしてなったのだ。大切なのは己の心であり、騎士という称号そのものではない。
しかしそれでも、正式な騎士という称号に未練があるのもまた、否定できない事実だった。
『しかし、この国の兵になるのは絶対に嫌だ、とも言えぬ』
『されど……』と、モーリーンはまた前言を撤回するかのように続けた。
『二君に仕えぬのが騎士の矜持だ』
『何も、あの王に仕える必要はないと思うけどな』
柳也の頭の中で、ルーグゥ・ダイ・ラキオス王が、あの値踏みするような眼差しで笑っていた。
思い出しただけで、不愉快な気持ちにさせられるあの目線だった。
――ごめんなさい、お母様。僕はまだあの王様に優しくなれるほど、器の大きな男子になりえておりません…。
胸の内で何度も亡き母に謝りながら、柳也は苦い表情で笑った。
『そもそも、ゴフ殿の主は誰なんだ?』
『マロリガン・ガルガリン領主、ウェイガン卿だ』
『……マロリガンって、議会制だよな?』
『そうだが…ウェイガン卿は貴族であると同時に、ガルガリンの知事を務めておられる。しかし知事という役職名を嫌い、昔ながらの領主という役職名を名乗っておられるのだ』
『なるほど』
『私がお仕えするお方はウェイガン卿ただひとりのみ。私の剣は民のためにある』
『その剣を、ラキオスの民のためにも使ってはくれないか?』
『お前は……』
モーリーンは射るような眼差しで柳也を見つめた。
柳也も、表情こそ笑っていたが計算高い猛禽の眼差しでモーリーンを見つめた。
『……何故、そこまで私をラキオスに引き入れようとする?』
『簡単なことさ。ゴフ殿ほどの剣士を迎え入れることができれば、それはラキオスにとって大きな戦力アップに繋がる。あなたほどの実力者なら、ラキオス・スピリット隊の訓練士として採用される可能性だってある。……それに、俺はまだゴフ殿とはサシで戦ってないからな。俺もひとりの剣士として、ゴフ殿と手合わせがしたい』
柳也は、満面の笑みとともに答えた。下心を隠すことなく伝えた表裏のない返答に、すぐ側で様子を窺っているリリアナが絶句する。
柳也とモーリーンは、しばし無言で見つめ合った。
沈黙のうちに静かに時が流れていった。
やがて柳也の言葉を本心からのものと認めたか、モーリーンが深い吐息とともに言葉を紡いだ。
『……分かった。この身に備えし技の数々、この国の民のために振るおう』
『この国の民のためだけ…っていうのはちょっと困るなあ』
『ん?』
『俺との手合わせの件も、ちゃんと考えておいてくれよ』
『…気が向けば、そのうちに』
モーリーンは穏やかに笑うと首肯した。
彼は、まさかモーリーンが柳也の申し出を受け入れるとは思いもしなかったリリアナに向き直ると、途端に真顔に戻って言った。
『ただし、条件がある。私にとってリリアナ・ヨゴウがガストン先生の仇であることに変わりはない。ラキオスの兵になったとしても、私は貴様を狙い続ける。その旨は承知しておけ。
それから、もし、ルーグゥ・ダイ・ラキオス王の野望が肥大化し、わが祖国に牙を剥くようなことがあらば、その時は……』
『勿論、ゴフ殿の意志で辞めてもらって構わないさ。……それぐらいの融通は、利かせてくれるだろ?』
『ううむ…』
柳也の言葉に、リリアナは唸った。
モーリーンほどの剣士がラキオスに参入してくれるのであれば、リリアナとしてもこれ以上の朗報はない。彼の参入は、きっと将来のラキオスのためになるだろう。
リリアナはしばし黙考した後、重々しい口調で言った。
『……分かった。近日中に必要な書類一式を揃えておく』
『しばらく偽りの身分を名乗るとあれば、これは不要の品だな』
モーリーンが懐をまさぐって、五枚の書状を取り出した。
マロリガン政府発行の通行手形だ。モーリーン自身の分と、散っていた彼の仲間の分、合わせて五枚が、モーリーンの手から、リリアナの手へと握り渡される。
『しばらく預かっていてくれ』
『…よいのか? 大事なものだろう?』
『今後、偽りの身分を称するのであれば、むしろ過去の痕跡は不要。誰かに見られでもして、苦しい言い訳をするよりは、初めから別の場所に保管しておいた方がよい。…ただし、預けておくだけだ』
『承知した。確かに、預からせていただこう』
『しばらくは城下の宿に泊まる。宿の名前は……』
その後、いくつかの確認事項を話し合って、その日の集いは解散となった。
密談の内容にもようやく一区切りがつき、時間的にもちょうど良い時分だったからだ。
この後も事務作業があるリリアナとは別として、柳也とモーリーンはこの後、早くも立ち会い稽古の約束を結んでいた。今から訓練所に向かえば、夕食までに二時間は打ち合うことができる。
自然と勇み足になる柳也に、ようやく歳相応な幼さを感じられたモーリーンは、僅かに苦笑した。
『ああ、最後にひとつ訊きたいのだが…』
ドアを開けて外に出ようとした直前、モーリーンの背中に、リリアナが声をかけた。
『偽名のことだが、何か希望の名前はあるか?』
『そうだな……』
モーリーンは首だけ傾けて振り返ると、少し考えてから口を開いた。
『今は散り散りになってしまったんだが…ガストン先生の下で、一緒に薫陶を捧げていた兄弟子の名前はどうだろう?』
『どういった名だ?』
『セラス・セッカだ』
リリアナは不要な紙面にその名前を走り書きすると、『分かった』とばかりに頷いた。
かくして、ラキオス軍に剣士“セラス・セッカ”の名が登録されるにいたった。
◇
――聖ヨト暦三三〇年、アソクの月、緑、ひとつの日。
有限世界での一年は、現代世界での一年と同じように十二ヶ月からなる。
しかし、一ヶ月の日数は総じて二十日で、一週間は五日間というのがこの世界での常識だった。つまり、この世界での一年は三六五日ではなく、二四〇日となる。
ラキオス王城では毎週、週始めの日に定例会が行われる。
偉大なる聖ヨト王の血の名の下に、王政を採用しているラキオスではあったが、王がひとりで政治の何もかもを執り行うなど物理的に無理な話だ。定例会では、各部署の責任者から昨日までの一週間の成果報告を王が受ける日であり、今日からの一週間の方針を細かく決める日だった。
ラキオスの政治的重役を担う多くは、大なり小なり、ラキオス王と何らかの血縁関係を結んでいた。古代中国の周王朝や、大英帝国時代のイギリスと同じである。自分の周囲を身内で固めることで、強い政治基盤を築くことができる。
まして有限世界においては、マナという土地が内包する生命力が何よりも重要視される。より多くのマナを含む土地ほど価値を増し、その土地を分配することが政治形態の基本となる。つまり、土地を主従の仲立ちにした封建制度だ。中国の周王朝も、大英帝国も、政治の基本は土地にあった(大英帝国の場合は、厳密にいえば封建制ではないが、植民地という形で土地を欲した)。
重職に就いている者のほとんどがラキオス王の身内となれば、定例会は、極端な表現をしてしまうと大規模な家族会議も同然だった。
ラキオス王との血縁が濃い者ほど発言力は強くなり、逆に薄い者ほど、実際の社会的地位はどうあれ、会議の場における発言力は弱くなる。まったく血の繋がりがない者などは、ほとんど空気のような存在だ。
そんな身内親族達ばかりが肩を並べる中、ラキオス王との血の繋がりのないリリアナの存在は稀少だった。
ラキオスの剣術指南役であるリリアナは、ラキオス軍の中でもそれなりの地位にあり、王族の集まる定例会への参加を特別に許されていた。もっとも、今日にいたるまでの会合の中で、実際にリリアナが発言した回数は片手で数えるほどしかない。発言権がないというわけではなく、彼が言おうとした大概の事は、彼の優秀な上司が言ってくれるからだ。
リリアナの直属の上司の名前はルーグゥ・ダイ・レスティーナ。ラキオス王の一人娘であり、この国の軍事に関しての舵取りを任された立場にある人物だ。
柳也達の世界の常識に照らし合わせれば成人もしていないような少女だが、その頭脳は若くして明晰で、判断力と決断力にも長けている。その若さゆえにまだまだ経験の不足が目立っているが、誰もが認める優秀な政治家の一人だった。
リリアナは政治の世界には興味がない。
しかし、その彼ですらレスティーナの卓越した政治手腕には注目していた。
彼がこの定例会に毎回欠かさず出席しているのは、その優秀さゆえに敵も多い彼女の護衛という意味合いがある。
しかし、今日の出席に限っては、護衛とは別にリリアナにも出席しなければならない理由があった。まだ直属の上司であるレスティーナにしか話していない、バーンライト王国のスパイとの一件に関して、報告せねばならなかったからだ。
定例会は滞りなく進み、いよいよ、リリアナが報告する順番が回ってきた。
事件の概要に関してはレスティーナの口から報告される形となるが、事件の細部や、詳細なブリーフィングについては、彼自身が行うことになっている。
レスティーナはまず先週のバーンライトの動きに関する報告書を読み上げ、それから、スピリット達の訓練状況について簡単に述べた。
ラキオスと国境線を共有している東のバーンライト王国は、古くからラキオスに対して侵略の意図を隠さないでいるため、現在、同国はラキオスの第一位仮想敵国として認識されている。土地の保有するマナの多寡が何よりも優先される世界だから、領土問題は深刻だ。国境線付近で行われる小競り合いは毎度のこととはいえ、同国の動きは、ラキオスの政治に関わる者であれば誰もが無視できぬものだった。そして、その動きに対抗するためのスピリット部隊の訓練状況も、軽い気持ちで聞き流せるものではない。
特に、各部署への予算配分を任されている会計士の目は真剣だ。
予算配分の最終決定権はラキオス王にあるとはいえ、その王に必要経費の試算を耳打ちするのは彼の仕事なのだ。
先週五日間におけるバーンライトの動静は、先月や、先々月の同じ週と比べると、大分おとなしいものといえた。情報部の分析によると、『現在、かの国では軍の大幅な再編がなされており、その関係で身動きが取れないのではないか』、とのことだ。特に、ラキオスの国境線に最も近いリーザリオに拠点を構える、第三軍の増強が著しいという。リモドアの第二軍から、相当数のスピリットが送られているらしい。
◇
ここで少し本筋を離れて、バーンライト王国という国について簡単に説明しよう。
バーンライト王国は大陸の最北に位置するラキオスから見て、東南に隣接する王政国家だ。
三角形型の国土の二辺を巨大な山脈で囲まれ、そのうち東から北へと伸びるラジード山脈から採掘される鉱物資源は、同国の主要産業の一つとなっている。首都サモドアの他に都市と呼べる街を二つ持ち、総人口は約九万人。ただし、現代世界ほど洗練された戸籍謄本が存在しない世界だから、少なくとも三十パーセントの誤差を見込まねばならない。
国土面積は北方五国の中で最小ながら、マナに富んだ肥沃な土地を多く有し、特に首都サモドア近辺などは、その地域一帯だけで、ラキオスの全国土を合わせた際の約七九パーセントにも及ぶマナを保有していた。
しかしながら、マナに飛んだ肥沃な土地を持っているにも拘わらず、バーンライトは裕福とはいえない国だった。なぜならバーンライト王国は、北方五国のみならず、大陸全土を見回しても、最もエーテル技術の発達が遅れた国だったからだ。それも、一部分だけが遅れているとか、逆にその分野においては他国と比較しても傑出した技術力を持っているというわけではない。バーンライト王国は、全体としてエーテル技術の後進国だったのだ。
エーテル技術の程度が高いか低いかは、軍事・経済に限らず、その国のあらゆる面に影響する。どれほど多くのマナを持っていたところで、それを万能エネルギーであるエーテルに変換する技術がなければ、意味がない。
バーンライトの主要産業である鉱物資源の採掘も、エーテル技術の低さゆえに自国では満足に加工することができず、もっぱら他国に輸出し、加工されたものを今度は輸入するという形態を取っていた。植民地時代のインドと同じだ。インドで生産された綿は宗主国のイギリスへ安い値段で売り渡され、そこで加工された衣服が、今度はインドで高値で売られた。このサイクルの中では、インドは永遠に豊かになることはない。
植民地時代のインドは、イギリスの軍事力に頼った支配体制のため、産業の自由化が、したくてもできなかった。
バーンライトの場合は、技術的な制限を受けて、産業の自由化が、したくてもできなかった。
この状況と対照的なのが、西北のラキオスだった。
ラキオスは国土が保有するマナの量自体は北方五国の中でも最少だが、それを効率良くエーテル化できる技術力があった。
かつての聖ヨト王国発祥の地にして、エーテル技術誕生の地でもあるラキオスの技術力は、客観的に見ても極めて高い水準にあり、それは北方五国のみならず、大陸全土でも第三位に相当するものがあった。
マナはあるが技術力に乏しいバーンライト王国と、マナはないが技術力に富んだラキオス王国。両者のこの関係は、古くからの変わらぬ光景だった。
ラキオスとバーンライトの間にある領土問題は、そもそもここに端を発する。
技術力に乏しいバーンライトが、手っ取り早く高度なエーテル技術を欲しようとすれば、必然、それはラキオスへの領土侵攻に繋がる。すなわち、国土ごとラキオスの技術力を奪ってしまえ、という考え方だ。
他方、マナに乏しいラキオスが、より多くのマナを求めるとなれば、他国への侵攻以外に方策はない。
この両者が睨み合った時、現在まで長きにわたって続いている、両国間の領土問題が起こった。
互いに相手の領土を欲し、相手の享受する豊かさを欲した両国の、果ての見えぬ闘争はもう数十年続いていた。
現在もなおラキオスへの侵攻の意図を捨てていないバーンライト王国軍は、三個軍から構成される。それぞれ首都サモドアに常駐する第一軍と、ラジード山脈のすぐ西側にあるリモドアの第二軍、そしてラキオスの国境線に最も近いリーザリオの第三軍だ。
軍といっても、有限世界における戦争の主役たるスピリットの数は人間に比べると絶対的に少ないため、現代世界における“軍”ほど大規模なものではない。現代世界における軍は、一般的に数個“軍団”からなり、また軍団は数個“師団”からなる。しかし有限世界においては一国が百体以上のスピリットを持つこと自体珍しく、“軍団”や“師団”といった編成はなかった。軍の下に、いきなり大隊という単位があり、その下にスピリット三名の定数から構成される小隊が何個かあるだけだ。無論、大隊本部はない。
軍隊の編成というのは往々にして例外だらけだが、バーンライト王国軍の場合は、一個軍の基幹戦力はスピリットが十〜三十名。これに、同盟国であるダーツィ大公国から派遣された外人部隊が、各軍に配属されている。
バーンライト王国は大陸最強の神聖サーギオス帝国傘下の国家で、同国からの軍事支援、同じく帝国傘下のダーツィ大公国の援助によって、小国ながら強力なスピリット部隊を持つことで知られていた。
バーンライトよりも高い技術力を持っているはずのラキオスが、なかなかこの国に攻め込めない理由の一つには、この二大国からの軍事支援があるためだ。
客観的に観てもラキオスの軍事力は、バーンライト王国のそれに決して劣っていない。
しかし、公国と帝国からの軍事支援を勘定に入れた同国の軍事力は、ラキオスはおろか、現在、北方五国最強のイースペリアでさえ、迂闊に手の出せないものだった。
とはいえ、両国からの支援はもっぱら軍事にのみ限られ、エーテル技術力の向上を促す援助に関しては一切行われていない。
ダーツィ大公国の主要産業の一つには、バーンライトから輸出される鉱物資源の加工が挙げられる。またサーギオス帝国にとっても、安価な値段で原材料を輸入できるバーンライトという国は、都合の良い商売相手だ。しかしそれらの産業も、バーンライトが自国で製品を加工できるだけの技術を獲得してしまえば、成立しなくなってしまう。
両国の本音としては、バーンライト王国に高い技術力を持たせたくはなかった。
つまるところバーンライトという国は、二大国の思惑の中でのみその存続を許された、哀れな小国にすぎなかった。
◇
リーザリオの第三軍の増強が著しいというレスティーナの報告は、会議に出席していた面々の表情を硬くさせた。
リーザリオの第三軍といえば、ラキオスとバーンライトとの間で本格的に戦端が開かれた暁には、最初の障害として突破せねばならぬ敵であるから無理もない。
月に四度は展開される国境線沿いの小競り合いも、多くは第三軍から派遣されたスピリット部隊との突発的戦闘がほとんどなのだ。
第三軍の戦力増強は、ラキオスの国防に関係する第一級の重要事項だった。
『……情報部では、第三軍の増強は近い将来に何か大きな軍事行動を取るための準備ではないか、と分析しています』
『その大きな軍事行動が何なのかはまだ、検討はついていないのですか?』
レスティーナの凛とした声に、しわがれた老人の声がかぶさった。
今年で七十歳になる、交通大臣の発言だ。いざバーンライトがこの国を攻めるとなれば、程度の差はあれど国土の荒廃は必至だ。これまで交通整備にかけてきた投資がすべて無駄になるやもしれぬとあって、その言葉からは彼の必死さが滲み出ているようだった。
レスティーナは老人を一瞥すると、交通大臣というよりは、会議に出席している全員に声をかけるように、涼しげな眼差しを流した。
『現在、情報部が最も確率の高いものとして睨んでいるのが、第三軍によるエルスサーオの占領作戦です』
『その可能性はむしろ低いのではないですか?』
口を開いたのは、通産大臣のダグラス・スカイホークだ。五六歳と政治家としてはまだ若く、ルーグゥ・ダイ・ラキオス王の懐刀と知られる切れ者である。現代世界でいうところのマキャベリズムに近い考え方をしており、周囲からは“風見鶏”の渾名で呼ばれていた。ただし、この風見鶏は自分で乗る風を生み出そうとする。
『第三軍の強化がどの程度進んでいるかは知らないが、エルスサーオの防備が首都に次いで強固なものであることを知らぬバーンライト国民はいない。なにせ、わが国で最もリーザリオに近い都市ですからね。となると、対エルスサーオ戦は城攻めも同然です。バーンライトが本気でエルスサーオを攻めようと思うのなら、第二軍と合体して、大兵力をもって征くのがセオリーでしょう。しかし、第二軍からは一部の部隊が第三軍と合流しているだけで、全部が合流、あるいは合体しているわけではない。バーンライトの指揮官がいくら無能でも、中途半端な戦力では、エルスサーオを陥落させられないことくらい、分かっているでしょう』
『…リモドアから第二軍の全戦力を動かさないのは、リーザリオにまだその受け入れ態勢が整っていないからというだけでは?』
七十歳の交通大臣が控えめな口調で言った。
五十六歳の通産大臣は、『でしたら、そもそも第二軍の移動などさせぬでしょう』と、反論した。
『戦時中の部隊移動ならともかく、平時の部隊移動で、受け入れ態勢が整っていないというのはまずありえないことです。最初に受け入れ態勢を整えてから、部隊を移動させる。移動開始と同時にその態勢の整備を開始するなど、あってはならないことでしょう。コストとエネルギーの無駄遣いです』
『経済屋らしい発想だな』
白髭の下、ルーグゥ・ダイ・ラキオスの唇が冷笑に釣り上がった。
『ダグラス通産大臣の言うことにも一理ある。…レスティーナよ、情報部の分析で次に確率が高いのは何だ?』
『…第三軍の精鋭部隊による、リクディウスの魔龍の討伐作戦です』
議会が、第三軍増強の報告を受けた直後よりも、にわかに色めきたった。
ざわざわと喧騒がやかましい中、ラキオス王はほとんど表情を変えぬままレスティーナに訊ねた。
『リクディウスの魔龍を討った際に、解放されるであろうマナを狙ってか』
『はい…。リクディウス山脈に到達するためには、わが国の領土を通過しなければなりませんし、なにより龍自体が強力です。中途半端な戦力では返り討ちに遭うことは必至です。第三軍の増強は、龍を討つための特別部隊を編成するためだと思われます』
『……第二軍からの援軍は、その間リーザリオの防御を空っぽにしないため、というわけですか』
ダグラス通産大臣は『全面戦争よりそちらの方がずっと可能性が高そうだ』と、皮肉に続けた。たしかに、持久力に乏しい小国同士の争いとはいえ、決定力に欠けるバーンライトがそれを獲得せぬまま攻めてくるとは考えにくい。
反対にラキオス側には、今やエトランジェという切り札がある。
ドラゴン・アタック作戦にまつわる一件からも、バーンライト王国がすでにラキオスのエトランジェのことを知っているのは間違いない。
エトランジェに対抗するための切り札として、リクディウス山脈に眠っているといわれる高純度のマナ結晶体をバーンライトが求めたとしても、おかしくはない。
『情報部を総括する立場にあり、国防大臣でもあられますレスティーナ様個人としては、どうお考えですか?』
通産大臣の切れ目の双眸がレスティーナに冷たい視線を向けた。
ダグラス・スカイホークは国家の利益になるのであれば、たとえそれがどのような手段であっても迷いなく実行するだけの行動力と決断力を持つ男だった。逆に国家に不利益を生じさせる存在であれば、たとえそれが王族であっても容赦のない弁舌を向ける。
レスティーナの隣に座るリリアナは、ダグラスの視線に篭められた意図をはっきりと読み取っていた。
レスティーナは誰もが認める優秀な政治家だが、いかんせん若い。経験の少なさだけはどうしようもなく、ダグラスは、そんなレスティーナが政治家としてどの段階にあるか、品定めを行おうとしているのだ。
そして無論そのことは、リリアナの聡明な上司も理解していた。
『…私個人の意見としては、第三軍の戦力増強はリクディウスの魔龍討伐作戦に備えての事、と考えています』
レスティーナは慎重に言葉を選びながら言った。
ダグラスの前で不用意な発言をしたがために、ラキオスの政治の舞台から去った人間は少なくない。たとえそれが王族であっても、だ。
『…その根拠は?』
『ダグラス通産大臣がおっしゃられた通り、他の都市に比べても強力な守りを備えたエルスサーオを、バーンライトが中途半端な戦力で落とそうだなどと企んでいるとは思えません。それに先頃、似たような動きがありましたから』
『……それはどういう意味ですかな?』
『バーンライトがリクディウスの魔龍を討とうとする理由には、決定力に欠けるかの国が、切り札の一つとしてリクディウス山脈に封印されている膨大なマナを狙ってのことと考えられます。これはおそらく、わが国のエトランジェに対抗する目的でのことでしょう』
『すでにバーンライトはわが国に召還されたエトランジェ達に関する情報を得ているとでも?』
『ええ。…それを証明する出来事が、つい先日、起きましたので』
レスティーナの発言に、通産大臣のみならず、ラキオス王までもが驚きの表情を浮かべた。いまだ報告を受けていない新しい情報だけに、無理もない。
平静な顔をしていたのは発言した当人と、その隣に座るリリアナぐらいのものだ。
レスティーナは驚愕する面々とは真逆に、冷静な口調で言った。
『バーンライト王国は自国にとって大きな脅威となりうるエトランジェの存在に対抗するための切り札を求めると同時に、早期の段階での脅威の排除を行おうとしていたようです』
『どういう意味だ、レスティーナ?』
ラキオス王が、動揺も露わな口調で訊ねた。
『この件に関しましては、私ではなくリリアナ・ヨゴウが報告いたします』
レスティーナに名を呼ばれ、リリアナは立ち上がった。
決して明るいとはいえないニュースの後に報告する立場になってしまったリリアナの表情が硬いのも、無理はない。
剣を持たせれば一騎当千のこの男も、口を武器にした戦いでは人並みの凡人に過ぎなかった。とはいえ、誇り高い騎士としての意地か、居並ぶ面々を相手にしても、リリアナはいささかも気後れすることはなかった。
リリアナはレスティーナの補佐官が出席者に報告書を配り終えるのを待ってから、口を開いた。
『……そもそもの起こりは、まだ私が武者修行をしていた頃に遡ります』
リリアナは先のドラゴン・アタック作戦に関連するすべてについて語った。
諸国を回遊していた時代に斬った一人の武人のこと。その仇討ちに燃える七人の弟子のこと。バーンライト王国のスパイ部隊。卑劣なる裏切りによって散った三名の貴い命。若きエトランジェが企てた作戦。その作戦の過程。凄絶な死闘の果てに斬り捨てた一人の勇者……。
いつしか、会合の場は、しぃん、と静まり返っていた。
淡々と私情を排除して語るリリアナの声だけが、虚しく響いていた。
『……以上が、今回起こったバーンライト諜報部との非正規戦の経過です。我々はこの作戦が正規の軍事行動ではないと知った上で、エトランジェ・リュウヤの提案でドラゴン・アタック作戦と名付けました』
『生き残ったもう一人のマロリガンの剣士はどうなったのです? 今の報告の中には、それに関する情報が不足しているように思いましたが…』
ダグラスが僅かに震えた声を出した。
カミソリのような冷徹さと切れ者で知られる通産大臣だったが、自分達の預かり知らぬところで展開された小さな戦争に、声ばかりか身震いすら起こしていた。
リリアナはダグラスが感じているであろう驚きと戦慄に、同情した。
いくら切れ者で知られる男であっても、ダグラスは所詮、文官だ。リアルな戦闘体験を語ってやれば戦慄に身を震わせることになるのは、容易に想像ができていた。
『……最後に生き残ったマロリガンの剣士、モーリーン・ゴフは、ドラゴン・アタック作戦の後、行方知らずとなりました。まさか外国人の彼を軍の宿舎に泊めるわけにもいかなかったので、民間の宿を手配したのですが…翌朝、調書を取るために足を運んだ時には、もう宿を発っておりました』
リリアナはいかにも無念といった感じで告げた。下手な演技で、ちょっと勘の良い者であればすぐに彼の言っていることが嘘であると気付いただろう。
しかし、場に漂う沈鬱な空気が、リリアナの演技をごまかした。
それでも、レスティーナはリリアナの嘘がばれる前に、素早く口を挟んだ。
『リリアナ・ヨゴウとエトランジェ・リュウヤが取った独断専行を、私は事件後ドラゴン・アタック作戦として正式に認めました。
この特殊作戦の成功によって得られた成果は、大きく二つあったと、戦略研究室では分析しています。詳細は報告書に譲りますが、一つには、わが国に潜伏していたバーンライトのスパイ網に大きな打撃を与えたと思われることです。
もう一つの成果としては、エトランジェ・リュウヤの能力が、本格的な戦闘の前に実戦でプルーフができたことです』
今回の作戦を立案したのは歴戦の騎士達ではなく、異世界からの来訪者だった。作戦成功の鍵だった特殊音響閃光手榴弾にしても、異世界からやって来たエトランジェだったからこそ再現できた代物だった。
しかも、リリアナの報告によればリュウヤは戦士としても卓越した戦力を有しているという。
優秀な戦士として、また優れた戦術家としての能力が確認できたことは、これからの運用を考える上で大きなプラス要素となるだろう。
『ふぅむ…あのエトランジェか……』
ラキオス王は複雑に感嘆した。
あのエトランジェには会ったその日から驚かされてばかりだが、今回の驚愕はまた一段と大きなものだった。しかし、それは不快感を催すものではない。むしろ、爽快な気分にさせてくれる驚きだ。
エトランジェにも拘わらず王族の強制力が効かず、また伝説の四神剣以外の永遠神剣を持って現れた。それだけでも驚きの連続だというのに、召還されて早々、かのエトランジェはラキオスにとって大きく貢献する働きぶりを示してくれた。しかも、件の男は戦士としてのみならず、戦術家としての利用価値もあるという。
――これは天の采配か……。
思えば、その兆候はエトランジェが召還される以前からあった。
古くから国境をはさんでの小競り合いを繰り返してきたラキオスとバーンライトだが、互いに保有していたスピリットが少数だったこともあり、これまではどちらも決定的な勝利をものにするまでには至らなかった。所詮、技術力に勝る、マナの保有量で勝るといっても、それが直接的な戦力に結びつくには、やはりどうしてもスピリットの数が必要だった。
しかし、ついに均衡が破られたのである。
ラキオスに三名のエトランジェが召還される十年前、優秀なラキオスの技術者は他国に先駆けてより効率的かつ小型のエーテル変換施設の開発に成功した。またそれと前後して、ラキオスの領内で次々と新しいスピリットが発見された。これらの新発見のスピリット達は、十年が経った現在では基礎訓練を終えて、続々と戦力化されつつあった。
そんな矢先に、召還された三名のエトランジェ達。一人は伝説の四神剣のひと振りである〈求め〉の契約者で、もう一人は即戦力の可能性を秘めた予想外の剣士。
古い文献によれば、かつて大陸を支配していた聖ヨト王国の四王子の元に、〈求め〉、〈誓い〉、〈空虚〉、〈因果〉なる強力な永遠神剣を手にした四人のエトランジェが出現したとされている。
王子達は、王位継承を巡った壮絶な戦いを繰り広げ……最終的に王国は分裂し、来訪者達は姿を消した。
二人のエトランジェの出現は、まさに伝説の再来を意味するものであった。
いや、伝説の再来などではない。今回、出現したエトランジェは〈求め〉の契約者だけでなく、すでに永遠神剣の力を使いこなせているエトランジェがもう一人いる。
これは偉大なる大地がラキオス王国に味方している証拠であり、自分は大陸を征服するべく運命づけられて生まれたのだと王に確信させるのに十分な材料だった。
『サクラザカ・リュウヤか……』
何気なしにその名前を呟いてみる。
規格外の存在にして、予想外のエトランジェ。
王族の強制力が効かぬ代わりに、すでに実戦において圧倒的な実力を証明してみせた男。絶対の服従が認めぬ分、危険だが、現時点で最も有能な戦力。
この男の使い方一つで、次なる戦いの結果は大きく左右されるかもしれない。
『いずれは、直接対決せねばならぬな…』
『……陛下?』
ダグラスが怪訝な視線をラキオス王に向ける。
ラキオス王は、狂気の瞳で不敵に笑った。
『一度、一対一で、腹の探り合いをしてみるかのう』
◇
――聖ヨト暦三三〇年アソクの月、赤、みっつの日、早朝。
『……連絡ではもうそろそろだと思うけど……』
バーンライト王国軍第三軍に所属するオデット・レッドスピリットは、日の出を迎えてから一向に人影の見えない宿舎への道のりを見つめながら、溜め息混じりに呟いた。
まだ十代も前半といった顔立ちの、幼い少女だ。一五〇センチに届くか届かないかの小柄な後ろ姿を普段寝泊りしている屋敷に方に向け、真紅の眼差しを玄関とは、反対方向に向けている。
愛用の永遠神剣は二連の鉄板といった形状で、炎のような刀身を地面へ、そして天空へと伸ばしている。片手持ちの柄の長さはちょうどオデットの細腕の長さと同じくらいだ。
オデットは第三軍の主力を担う部隊の一員だったが、彼女はバーンライト王国軍の正式軍籍を持っていなかった。
彼女は同盟国ダーツィ大公国からバーンライトへと派遣された外人部隊のスピリットで、彼女の軍籍は今でもダーツィ大公国軍にしかない。現在、バーンライトの第三軍にはオデットを含めて十二名の外人部隊が常駐しており、彼女達十二名は第三軍の基幹戦力といえた。第三軍には他にバーンライト正規軍のスピリット十九名がいるが、外人部隊の十二名は全員で彼女達の二倍以上の活躍ができた。
オデット達外人部隊に求められた仕事は、主に二つ。一つはその量的な戦力はともかく、質的に大陸最弱の部類に入るバーンライトのスピリットを鍛えることであり、もう一つの役割は王国の戦力を補完することだった。ダーツィはリーザリオ以外にもバーンライト王国軍の全軍に自国の戦力を送り、その数はバーンライト王国軍主戦力の五四%にも及んでいた。またその戦力は、ダーツィ大公国の主戦力の三九%でもあった。
いくら同盟関係にあるとはいえ、ダーツィ大公国が自軍の四割近い戦力をバーンライトに送る背景には当然ながらそれなりの理由がある。
現在、ダーツィ大公国はその国境線を三ヶ国と共有している。ダーツィを中心に見て北のバーンライトと西のイースペリア、そして南の神聖サーギオス帝国だ。
この三ヶ国のうちバーンライトとサーギオスとは、ダーツィ大公国は同盟関係にあった。しかし残るイースペリアはバーンライトと敵対関係にあるラキオスと同盟関係にあり、ダーツィとも敵対関係を結んでいる国でもあった。
北のラキオス、西のイースペリア、北西のサルドバルトの王政三国家は、大陸最強のサーギオス帝国に対抗して、古くから“龍の魂同盟”という軍事同盟を結んでいた。そもそも、ダーツィとバーンライトの同盟関係は、この“龍の魂同盟”に対抗するための意味合いが大きい。
イースペリアはこの同盟の中でも特に強力な軍事力を持つ国家で、現政権には覇権国家としての性格こそないものの、ダーツィにとって決して侮れる存在ではなかった。また同盟の中で次に強力な軍事力を持つラキオスも、総合力ではイースペリアに劣るとはいえ、一部のエーテル技術力やスピリットの実力には目を見張るものがある。こちらも、イースペリアと同様、侮ってよい相手ではなかった。
とはいえ、ダーツィとラキオスの間にはバーンライトという衝撃緩和材があった。
このワンクッションを挟んでいたおかげで、ダーツィは強国二国に包囲されるという最悪の事態だけは免れられ、聖ヨト分裂時代から現在まで、長らく独立を保ち続けてきたのだった。
無論、ダーツィがこれまで他国の侵略から自国の領土を守り続けられたのは、それだけが理由ではない。強国に周辺を囲まれながら、今日にいたるまでダーツィがその政治形態を変えることなく生き延びてこられたのは、人々の努力によるところが大きい。しかし、それを踏まえたとしても、ダーツィにとってバーンライト王国が実に都合の良い位置にある事実には変わらなかった。
だから、もし、バーンライトがラキオスに負けるか、ダーツィや帝国を裏切って“龍の魂同盟”側に寝返るなどした場合、北からの侵攻を受け止める盾がなくなって、ダーツィは三方のうち二方を、直接敵国と接することになってしまう。
北方五国第二位の戦力を持つダーツィだったが、帝国の支援なしに、イースペリアとラキオスを相手にして両面作戦を展開するだけの体力はなかった。
ダーツィ大公国にとって、バーンライト王国の国防問題は、同時に自国の国防にも関係する重要な死活問題だった。
ゆえにダーツィは、西のイースペリアに対抗できるだけの戦力を国内に残しながら、バーンライトが敗北しないための戦力を送る必要があった。また、派遣する戦力には、万が一バーンライトが裏切った際に、すぐにこれを制圧できるだけの戦闘力が求められた。これが、自国の総戦力の四十%近い外人部隊派遣の所以である。
ダーツィは、何も盟友バーンライトに思いやりで軍隊を差し向けたわけではない。
ダーツィは、あくまで自国の国防のために、外人部隊を編成したにすぎなかった。そしてダーツィは、そのために国内最強のスピリット部隊すら外人部隊に組み込んでいた。
オデットが所属するスピリット部隊もまた、そうした精鋭部隊の一つだった。
今でこそ外人部隊として祖国を離れてはいるが、本国に帰れば真っ先に首都防衛の任務に当てられるような、いわばエリート部隊の出身である。もっとも、エリート部隊といったところでその実体は人ではないスピリットで構成された部隊だ。特別、色のつけられた手当が支給されているとか、勲章が与えられるとか、そうした恩賞はない。
しかし、オデットは自分がそんな最精鋭の部隊に所属していることを誇りに感じていた。
オデット自身は正規の軍籍を得てまだ二年にすぎないが、それ以前までに受けた教育によって公国への忠誠心は骨の髄まで浸透していたし、なにより彼女にとって、その部隊に所属することは特別な意味を持っていた。
オデットの所属するスピリット部隊の隊長は――バーンライトに派遣されたダーツィの外人部隊すべてを総括する立場にあるそのスピリットは、彼女にとって憧憬の対象だったからだ。
まだ正規の軍籍を持たず、訓練生だった頃から、オデットは彼女に憧れていた。
その彼女と同じ部隊に配属され、肩を並べて一緒に戦えると知った時、オデットは天にも昇る気持ちで浮かれたものだ。
ダーツィ大公国のスピリットで唯一、大公から上位のスピリットにのみ名乗ることを許された“アウステート(戦闘者)”の称号を与えられ、訓練生時代のオデットの教官でもあった、青のスピリット。強さと美しさ、そして不屈の心をその身に宿した、気高き剣の妖精。
特別任務で敵地後方へと潜伏することになり、ここ半年ほど第三軍を離れていた彼女が、本日帰還するとの連絡を昨晩受けたオデットは、昨夜は興奮のあまりよく眠ることができなかった。
ベッドの上に身を沈めても、頭から毛布を被っても、どうにも意識が覚醒してしまって、瞼を閉じてじっとしていることができなかったのだ。
明日、あの人が帰ってくる……半年ぶりの再会に思いを馳せ、ひとり眠れぬ夜を過ごした少女は、今朝、徹夜明けの身だった。しかし、自分でも驚くほど意識は明瞭だった。多少、瞼を重く感じていたが、日の出を迎えてから数時間、オデットにはまだまだ余裕があった。
部屋の中でじっと待っていられなくなった彼女は、宿舎の外で上官の帰りを待つことにした。
できることなら、宿舎にいるどのスピリットよりも先に、自分が彼女を出迎えてあげたかった。
任務で疲れているであろう彼女の前に立って、「お帰りなさい」と言ってあげたかった。
『ねぇ、〈鼓動〉…宿舎以外に神剣の気配、まだ感じない?』
生まれた時から手にしていたという紅の刀身に己の姿を映し出し、小さな声で話しかける。
永遠神剣第八位〈鼓動〉。オデットの無二のパートナーは、無口な性格で自分から話しかけてくることは滅多になかったが、こちらからの言葉にはいつも律儀に応えてくれた。
今朝も〈鼓動〉は、オデットの問いかけに対して硬質な声音のイメージとともに返答した。
【…オデットが探している神剣の気配は、まだ感じられぬ。この近辺にある神剣の気配で、今のところ目立っているものは我らと、館にいる他のスピリットのものだけだ】
『そっか…』
【それに、そなたの上官は神剣の気配を隠すのが格段に上手い。その存在を探知することは、高位の神剣の力をもってしても容易なことではない】
『そうなんだよねぇ…』
オデットは複雑に溜め息をついた。
そもそも、彼女の上司はその神剣の取り扱いの上手さを認められて、敵地後方での特別任務などに回されてしまったのだ。
ラキオス領内で神剣の気配を消す技術習得のための、特別訓練が始まったのは半年ほど前のことだった。威力偵察に出たがラキオスの哨戒線に引っかかり、肝心の情報を持ち帰ることなく倒されてしまうスピリットの多さに、バーンライトの上層部が業を煮やしたのが、そもそもの発端である。
一般的にスピリットは永遠神剣が内包するマナの量が増えれば増えるほど、より強力な力を引き出せるようになっていく。しかし、単にマナの量を増やしただけでは、逆に取り込んだ膨大なマナの波動がその存在の感知を容易にし、敵からの被発見率を高めることになってしまう。
真に強力なスピリットを育成するつもりならば、神剣の持つマナの流れを自在に制御する術を身につけさせる必要があった。
しかしバーンライト王国軍には、このコントロールの技術が不完全なスピリットが多かった。常に剣の全力を引き出し、一度に発揮できるすべてのマナを投入して戦おうとするのが、バーンライトのスピリット達だ。要するに、無駄が多すぎる。隠密行動最優先の偵察任務で、常にマナを全力放出し続けていれば、発見されるのも当然だったろう。
そうした自軍の現状を憂いたバーンライトの軍上層部が、ダーツィの外人部隊に教えを乞うたのも無理もない。
もともと外人部隊には、そうした教導隊としての側面もある。
かくしてバーンライトの第一〜三軍に派遣された外人部隊の中で、特に優秀な三体のスピリットが、ラキオス領内での特殊訓練を担当することになった。
わざわざ危険を冒してまで敵地で訓練を行う最大の利点は、訓練を終了したスピリットが出来次第、すぐに現地での情報収集や撹乱工作に使えることにある。それに予め敵国の領内に多数のスピリットを潜伏させておけば、いざ開戦となった時に即戦力として利用することができる。経験豊富な外人部隊も一緒に潜伏させておけば、その効果は倍増だ。
――たしかに、あの人の実力が正等に、高く評価されるのは嬉しいけど……。
そのせいで半年もあえなくなるというのは、オデットにとって苦痛以外の何物でもなかった。
オデットはまたひとつ溜め息をついた。
形の良い唇から吹く風にさらされて、〈鼓動〉の刀身が少しだけ曇った。
そのとき、何かに気付いたのか、刀身に映る自分の姿を見つめていた少女の視線が、上空へと向けられた。
少女の紅い瞳が見据える先、白い空に、ポツンと、一つの黒点がまるで異物のように浮き出ている。野鳥ではない。野鳥なら群れをなしているはずし、鳥にしてはやけに大きい。無論、有限世界に金属の翼を持った航空機があるはずもなく、そもそもその飛行には騒音が伴っていなかった。
【オデット……】
自分からは滅多に話しかけてこない〈鼓動〉が、静かながらも妙な存在感を持った声のイメージを頭の中に送ってくる。
オデットは静かに頷くと、じっと天空を仰ぎ見た。
心なしかその表情は、嬉しげに輝いている。
空に浮かぶ黒点は、ゆっくりとこちらに近付いてきた。
やがてその影は小さな点から形をなし始め、背中から翼を生やした天使の姿がオデットの視界に映じた。右手に神の教えを阻む悪魔を討つための片手半剣を持ち、邪悪な竜の攻撃から身を守るための甲冑を身に纏った、完全武装の戦女神の偉容だ。
背中にいただいた双翼は巨大で、片翼だけで自身の身の丈と同じくらいはあるだろう。
純白の翼がはためくその都度、羽毛の合間から水色のマナの輝きがきらきらと舞い散っては、朝の透明な大気に溶けていく。
悠々たるその飛翔は圧倒的に力強く、そして幻想的に美しかった。
オデットはその光景に思わず目を奪われ、美しさのあまり彼女が言葉を失っている間に、青の妖精はゆっくりと赤の妖精のもとへと降下を始めた。
翼のはためく音が徐々に小さくなっていき、風の鳴る音が冗長に長引いていく。
ダーツィ大公国軍旗にも縫われている三本の鉤爪のシンボルを刻んだ鎧の放つ鈍い光沢が、オデットの視界で狂奔した。
手の中で、〈鼓動〉が、りぃぃん、と鈴鳴りの音とともに震えた。
灼炎の刀身とは対照的な、ラピスラズリの原石の群青色の刀身を持つバスタードソードが、静穏に輝いていた。
齢はオデットよりも、三、四歳は年上か。整った顔立ちの美少女だった。涼しげに整った細い眉の下、煌々と水色の輝きを宿した瞳が、真っ直ぐにレッドスピリットの少女の真紅の瞳を見つめている。
オデットにとって、半年ぶりの上司との再会だった。
ブルースピリットの爪先が大地に触れ、オデットの手前、数メートルで着地した。
曇りのない、純白がまぶしいウィング・ハイロゥを折り畳むと、少女はオデットの方へと歩み寄る。
瞳の輝きと同じか、それ以上に艶やかな蒼い髪が涼風になびき、手櫛で梳いた前髪の下に、少女は穏やかな微笑を浮かべていた。
『あ…えっと……』
こちらへと歩いてくる彼女に、かけるべき言葉が見つからずにオデットは戸惑う。
言いたい事がたくさんあったはずなのに。話したい事がたくさんあったはずなのに――。そんな諸々の思考は、彼女の無事な姿を見た瞬間、いっぺんに吹き飛んでしまった。
空っぽの頭の中に残ったのは、半年ぶりの再会に対する、喜びだけだった。
やがて少女の小さな胸いっぱいに広がった喜びの感情は、彼女の身体をはじくように突き動かした。
『アイリスお姉さま!』
オデットは地面に〈鼓動〉を突き刺すと、軽やかな足取りで地面を蹴った。
ダーツィ大公国軍制式の戦闘服に身を包んだ小柄な身体が勢いよく躍動し、分厚い胸当てに覆われた少女の胸へと飛び込む。
指先に触れる、金属の冷たくて硬い感触。
同時に、ふわっ、と花のようにやわらかく、甘い匂いが鼻腔をくすぐって、オデットは不思議と安心した気持ちになる。
目の前の青い少女は、少し驚いた表情を浮かべたが、すぐにもとの穏やかな微笑を口元にたたえると、優しい眼差しでオデットを見下ろした。ブルースピリットの少女とオデットでは僅かに赤い髪の少女の背の方が低く、アクアマリンの目線は自然と下げられる。一方、見上げるルビーの瞳は炎のような情熱を宿していた。
オデットの腰に、篭手に覆われた腕が回された。
抜き身のバスタードソードを持っていない左手が、細腕からは想像もできないほどの力強さで小柄なオデットを抱き寄せる。
敵国領土の真っ只中で、いくつもの修羅場を潜り抜けてきたのだろう。指先が撫でる冷たい鎧には無数の傷痕が刻まれており、この半年間の彼女の苦労の程が窺えた。
見れば、見上げる少女の頬は薄く汚れ、顔には消耗の色が濃く漂っている。おそらく、ラキオスとの国境線を越えてから、ほとんど休まずにリーザリオまで飛び続けてきたのだろう。実際には違うだろうが、それが一刻も早く自分の顔を見るためだと思うと、オデットの胸は苦しいほどに熱くなった。
オデットは再会に潤む赤い眼差しを上へと向けながら、熱っぽい吐息を紡いだ。
『お帰りなさい、アイリスお姉さま…』
『ああ…。今、帰ったよ』
男っぽい口調ながら、清流のように耳に透き通る綺麗な声。
半年前、別れの折に最後に聞いた時と変わらぬ凛とした声。
すぐ側で囁かれた帰還を告げる言葉が、オデットにはなんだか嬉しくて、彼女はブルースピリットの胸当てに押し当てていた両手を、その背中へと回した。
『半年間、お疲れ様でした』
『ありがとう。わたしのいない間に、何か変わったことはあった?』
『何か…なんて、あるわけないじゃないですか。第三軍には、わたしがいるんですよ?』
『ふふっ…そうだったな』
得意げに笑うオデットの唇が、何の宣告もなしに塞がれる。
突然、迫ってきた上官の顔にオデットは一瞬、驚いた表情を浮かべるも、さしたる抵抗もなく目を閉じ、熱いキスを受け入れた。
小鳥が戯れるような軽い口づけから始まって、次第に深く、互いの唇を求め合う。
炎の微熱と清水の冷たさが溶け合い、しばらくした後、離れた。
睫毛の長いオデットの瞼が静かに開き、陶酔した瞳の輝きが外に漏れた。
見上げるその先では、アクアマリンの瞳がオデットの心を見透かすように余裕の眼差しを落としている。
『今夜は、オデットの部屋で寝てもいいか?』
『だ、駄目ですよ。アイリスお姉さま、今日は帰ってきたばかりで疲れてるでしょ』
『ああ…。けれど、疲れているからこそ、オデットと一緒に眠りたいんだ。オデットと一緒なら、安心して眠れるから』
そう言って、上官のブルースピリットはもう一度オデットの唇に自分の唇を重ねた。
二度目の口づけも、オデットは拒まなかった。
『……今夜、行ってもいい?』
再び二人の唇が離れた時、オデットは顔を真っ赤にしながら、静かに頷いた。
鎧を着込んだダーツィの“アウステート”……アイリス・ブルースピリットは、端正な美貌に柔らかな笑みを浮かべると、最後にもう一度、目下の少女の唇を奪った。
余談。
事件の解決後、柳也と悠人は私室を別にされた。
『ユートさまの貞操は私が守ります!』
『だから俺はノーマルだと言っているだろうがーー!!』
『?』
何も知らぬは悠人ばかりなり。
『アセリア、エスペリアは何て言っているんだ?』
『……リュウヤがユートの尻を狙っているって話』
知ってしまったら、もう後戻りはできない。
お下品やねぇ(苦笑)。
タハ乱暴「……こうして柳也と悠人はプライベートを獲得したのだった」
北斗「……なにッ!? 今回までの三話はそのためだけのものだったのか!?」
タハ乱暴「いやあ、原作エロゲーだしさ。やっぱり主人公個室にしとかないと夜の生活が描写できないじゃん?」
柳也「……書くつもりなのか?」
北斗「許さん! 許さんぞ! そんな掲載先に迷惑のかかるようなことは!!」
柳也「いや、もう、すでにすんごく迷惑かけているような気もするけどな……さて、永遠のアセリアAnother、EPISODE-11、お読みいただきありがとうございました!」
タハ乱暴「今回のお話は三話にわたって続いたオリジナル編の最終話でした。原作にないオリジナル・エピソードだけに、冒険的要素の強い三編でしたが、お楽しみいただけましたでしょうか?」
柳也「原作好きな読者の方々にはつまらないだったかもしれませんが、それでもお付き合いいただけたのなら、この桜坂柳也、これ以上に勝る喜びはございません!」
北斗「……しかし、目上の人間相手に失礼な態度だな、君は」
柳也「うぐっ、い、いいじゃないか。その分、読者の皆さんにはちゃんと敬語使ってるし……」
北斗「似合わないからやめなさい。……ところで、先回のあとがき中に不適切な表現があったことをここでお詫びさせていただきます」
柳也「不適切な表現?」
タハ乱暴「ほら、柳也が悠人を襲うとか、襲わないとか」
柳也「ああ……」
北斗「あれは正確には、柳也に襲われる悠人をエスペリアが守って好感度アップ、という表現にするべきでした」
柳也「好感度って……そういえば、この話、悠人は誰とくっつくんだ?」
タハ乱暴「それは、まあ……ほら、今後のお楽しみということで」
柳也「むぅ…。じゃあ、せめて俺の相手が誰なのかを……」
北斗「それも、今後のお楽しみということで勘弁しておけ」
柳也「なら、せめて現時点におけるエスペリアの中の俺の好感度を教えろ! 俺はボインちゃんが大好きなんだ!」
タハ乱暴「それは……いいけど、後悔しない?」
柳也「え? 後悔?」
タハ乱暴「うん。ひどいよ、君の好感度」
柳也「……見るのが怖いからやめとく」
色々とあったけれど、とりあえずは無事に解決と言えなくもないかな。
美姫 「一応、新たな戦力も仲間入りしたしね」
まあ、敵討ちとかは諦めていないみたいだけれどな。
ともあれ、ラキオスの王様が何かするかもしれないな。
美姫 「柳也と一対一での会談でもするのかしらね」
さてさて、これからもどうなっていくのか目が離せない所。
美姫 「次回も楽しみにしてますね」
ではでは。