――不明、夜。


 夜が、静かに明けようとしていた――――。

 洋館の一室に通された柳也は、ひたすらに窓の外を見つめ続けていた。

 そうしたかったというよりも、それ以外にすることがなかったからだ。

 案内された部屋は整理整頓が行き届いているというよりも物自体が少なく、必要最低限の家具しか置かれていない。暇潰しの道具なんて何一つ持ち合わせていなかったし、鍛錬をしようにも今はあまり気が乗らなかった。

 ――なぁ、〈決意〉……。

【なんだ?】

 心の中で〈決意〉に呼びかける。返事は、すぐに返ってきた。

 満天の星空と穏やかな朝の日差しの入り乱れた不思議な色の空を見上げながらも、〈決意〉とのコンタクトは絶やさずにいた。昨日今日の付き合いでしかない相棒は、自分の呼びかけによく答えてくれている。

 ――ここ、どこなんだろうな?

【……さてな。少なくとも、主のいた世界ではないようだが】

 第七位の神剣が持ちうる情報は限られている。すでに何度目になるかわからない質問に対する〈決意〉の最初の返答がそれだった。ようするに、何も分からないということだ。

 すでに何時間も繰り返している不毛なやり取りに溜め息をこぼし、柳也は疲れた視線で空を見上げた。

 ありえない光景が、柳也の視線の先で広がっていた。

 夜空に輝く星々は柳也の知識にあるどの正座の形も取っておらず、太陽と月の位置関係からして滅茶苦茶だった。なんとなれば、朝と夜の境目である今の時間帯に、北から太陽が昇り始めているのだから。

 あの光のトンネルのような空間の中から、この星の姿を見ていた時点ですでに薄々は気が付いていた。しかし、心のどこかでその現実を否定したがっていたのもまた事実だった。だが、こうして冷静に夜空を見上げていると、どうしてもその現実を肯定せざるをえない。

 狂った星々の位置関係。翼を持った少女達の存在。耳慣れぬ言語。空に浮かぶ島々。見たこともない形状の大陸。春同然の過ごしやすさ。そしてなにより、自分はこの大地に降ってきたという事実。これらの材料が示し出す答えは、ひとつしかない。つまりそれは……ここが、地球ではないということだ。

 ――お空の上に島が浮かんでいるようなファンタジーな世界が、地球であってたまるか。

 仮にあの雲の向こうにあった島がラピュタだったとしても、それでは星々の位置関係や大陸の形状までは説明できない。ドッキリにしては、出来すぎている。

 いちばんすっきりする答えは、これは実は夢なのだというものだが、降下の時の衝撃や、メダリオとの戦いで受けた痛みは本物だった。

 背後でノックの音が鳴った。

 しかし実際にはそのずっと前から、床の軋む音で柳也はその接近に気付いていた。拡大化した今の聴覚は、数十メートル先の地面に落ちた針の音すら聞き取れる。

 柳也は身体ごとドアの方に振り向こうと、座っていた椅子を動かした。

「ん。どうぞ」

 その言葉を理解することはできなくとも、意味するところは分かったはずだ。

 柳也の返答から間を置かずして、部屋のドアが静かに開けられた。

『失礼いたします』

 入ってきたのはメイド服の少女だった。

 しずしずとした仕草で上品にお辞儀をし、静かな足取りで部屋に入ってくる。

 だが柳也は、この可憐な少女の仕草や動作、ひとつひとつに、洗練された鋭さがあるのを感じていた。舞を踊るような優雅さではない。もっと殺伐とした……そう、柳也達武芸者が放つ鋭さだ。

『まだ、起きていらしたのですか?』

 相変わらず彼女達が話す言語は分からない。しかし、表情やボディランゲージで、ある程度の意思疎通はできていた。

 今のは、こんなもう夜が明けようという時間帯になっても起きている柳也に、「どうして寝ないのか?」、「まだ起きているのか?」といった言葉をかけているのだろう。

 柳也は相手を安心させるよう穏やかに微笑むと、互いに言葉の分からぬ少女に、そっと自分の隣を指差した。

 柳也の指差すその先には洋風のベッドがあり、そこには今、悠人が眠っていた。

「まだ、彼のことが心配だから」

 白い少女に連れられてこの洋館に入ってからも、悠人は昏々と眠り続けるばかりで、目を覚ます気配は一向にない。相当な疲労が溜まっていたのか、寝言も寝返りもない。貪るような眠りだった。

 柳也は悠人をベッドに寝かしつけてから、もう何時間も彼の寝顔を見つめ続けていた。

「友達なんだ。だから、せめてこいつが目、覚ますまでは起きているつもりだよ」

 微妙なニュアンスは伝わらずとも、とりあえず悠人のことが気になるから起きているという意味が伝われば問題ない。

 柳也は、できることなら悠人の目覚めには第一に自分が立ち会いたいと思っていた。

 友人として純粋に悠人の身体を心配していたからだが、それとは別に、この地球ではないどこかの――少なくともまだ人類が発見していない、地球人に匹敵する高等な知的生命体が住む未知の――惑星に、なぜ彼がいるのか、訊かなければならなかったからだ。

 もし、彼がこの星について何らかの情報を持っているならば最良だ。何の情報も持っていなかったとしても、悠人が自分と同じように突然この惑星に飛ばされた(・・・・・)のだとしたら、彼と協力して現状を打開する手段を探すことができるかもしれない。

 ――高嶺がどうしてこの場所にいるのか。どうやってこの星に来たのか。まずはその確認をしないとな……。

 とにかく現状では分からない事だらけなのだ。有力な情報源とおぼしき目の前の少女とは、そもそも言葉が通じない。となれば、残る情報源はすぐ側で眠っている悠人だけだ。

 ――それに……。

 気がかりな事は、まだ、ある。

 自分があの光の柱に飲み込まれた時、一緒に側にいた、瞬のことだ。

 あの光の柱に飲まれたことによって、今、自分がこの星にいると仮定すれば、あの時近くにいた瞬もこの星のどこかにいるということなる。あるいは、この星とはまったく異なった別の惑星にでも飛ばされたか……。

「ッ……!」

 最悪の想像が頭の中によぎって、柳也の身体が大きく震えた。

 同じこの星にいるのなら、まだ人間が生存できる環境なだけマシだ。だが、地球人の肉体では決して適応できない環境の星や、そもそも星どころか宇宙空間そのものに放り出されていたとしたら……考えるだけで、恐ろしかった。

「……瞬、お前は今、どこにいる……?」

 眠り続ける悠人の世話を、甲斐々々しくも手際よく進める少女を見つめながら、柳也は母国の言語を紡いだ。

 彼は脳裏に浮かぶ最悪の想像を振り払うように頭を振ったが、不安はいつまで経っても拭えなかった。






永遠のアセリア

-The Spirit of Eternity Sword Another-

第一章「有限世界の妖精たち」

Episode05「そこはドリームのようなバスルームだった」





 ――不明、朝。


 完全に、夜が明けた。

 まるまる一夜を悠人の隣で過ごした柳也は、窓辺から注ぐ透明な輝きにわずかに眩しそうに目を細めながら、相変わらず手際の良いメイド服の少女の、介抱の様子を見つめていた。

 昨晩から彼女は柳也と同じように一睡もせず、一晩中悠人のために冷たいタオルを用意したり、寝汗を吸い込んだ毛布やらシーツを取り替えたりしていた。部屋に訪れた回数はすでに片手では足りず、もうすぐ両手の指も全部を使い切らそうとしている。

 ――甲斐甲斐しいよなぁ……うん。これぞ本物のメイドさんだ!

 見知らぬ未知の惑星に放り出されたというのに、もう現実を受け入れ、余裕すら取り戻しつつある柳也は、十個目のパンを齧りながら思った。

 椅子に座っていた彼の前には小さな円形のテーブルが置かれ、その上には簡単な料理が並べられている。メイド服の少女が、一晩中起きていた柳也のためにと用意してくれたものだ。

 ――ちょっと硬いパンだが、俺の顎にはちょうどいい。

 異星の文化など知る由もない柳也だったから、並べられた料理の数々を見て最初は不安を覚えたものだが、どうやらこの星の人々は外見だけでなく味覚の感覚も地球人と似ているようで、出された料理はどれも美味だった。

 全体的に洋食的傾向が強く、和食派の柳也には少々物足りなかったが、贅沢は言っていられないし、言ったところで言葉は通じない。

 ちなみに最初に少女が用意した料理にはパンが四個しかなかったのだが、柳也のあまりに旺盛な食欲に急遽十個が用意されていた。しかし、それでも柳也のペースは衰えることを知らず、バスケットで運ばれてきた焼き立てのパンは、まだ温もりを残す最後の十個目も柳也の胃の中へと収まろうとしていた。

 ――ん〜……これぐらいでやめとくか。まだ、腹三分目ぐらいだけど。

 小麦の粉がついた指先を舐めて、柳也はあくびをひとつ。

 この少年はもうこの異常な環境に慣れ始めているらしい。

「ん…ご馳走様でした」

 すべての料理を平らげて、最後に出されたミルクを飲み干した柳也は、両手を合わせて日本式に食事を終了した。

 言葉以上にこの種の細かな文化的行動は、初見の相手にはなかなか伝わりにくいものだが、満足した様子の柳也の表情と、手を合わせると同時に頭を下げるという動作から、その行動の意味を理解したのだろう。メイド服の少女は笑みを浮かべた。

『お口に合ったようでよかったです』

 少女自身、言葉の通じない相手が自分達と同じ嗜好の味覚を持っているのか、不安だったようだ。笑みの中にどこか安堵したような雰囲気があるのは、おそらく柳也の見間違いではない。

『お食事が終わりましたら、こちらの服にお着替え下さい』

 食器を重ねる柳也に、少女が何か声をかける。

 言葉は当然分からない。そんなことはお互いとうに承知の上だったから、自然とコミュニケーションにはボディランゲージが多くなる。

 少女の指差す先には、新しくパンを持ってきた際に一緒に抱えていた衣服があった。彼女は中世時代のヨーロッパの庶民が着ていたような服を指差してから、一度自分の服を脱ぐような動作を取った後、今度は服を着る動きをする。

 ――服を脱いで、着る。新しく着るのは……なるほど、そういうことか。

 言われて、柳也は改めて自分の恰好を見渡した。

 そういえばメダリオ、タキオス、黒い翼の少女らとの常軌を逸した激戦に次ぐ激戦、高度数十万メートルからのパラシュートなしの降下で、学生服は見るも無残なほどズタズタに引き裂かれ、泥だらけになっている。

 どうやら少女は、そんな自分の悲惨な状態を見て、気を利かせてくれたらしい。

 服の汚れに気が付くと、無性に風呂が恋しくなってきた。しかし、さすがにそれを求めるのは贅沢すぎるし、図々しいというものだ。そもそも、この純洋風の館に、日本文化が生み出した至高の楽園といっても過言ではない波打つ湯船があるとも限らない。シャワーがあれば良い方だろう。

 柳也は椅子から立ち上がると、少女のもとへと歩いていった。

 悠人の看病のために、急遽用意された簡易テーブルの上に積まれたそれを手に取って確かめる。一見したところ、サイズに問題はなさそうだが…。

「これは……」

 柳也は目を丸くした。

 着替えにと畳んで用意された衣服のいちばん下には、大き目のタオルが置かれていた。繊維のきめ細かさといい、手触りといい、柳也の知るバスタオルに近い。

『たくさん汗をおかきになっているようですから』

 少女がまた何か口にした。

 相変わらず言葉の意味は分からない。しかし、手にしたバスタオルから彼女が何を言っているのかは手に取るように分かった。

『お体も大分汚れているようですし、お湯を沸かしておきました』

「……ありがとう」

 柳也は深々と腰を折った。

 言語も分からない見ず知らずの惑星で、初めて触れた人の優しさに、彼はただただ感謝した。

 悠人の容態を気にしつつ、少女は椅子を立つと部屋の扉を開け、柳也を手招きする。

 柳也は、用意された衣服と愛刀のふた振りをつかんで入口へと近づいた。

 少女の案内に従うまま、柳也は朝の日差しと不思議な照明器具に照らされた長い廊下を歩き、階段を下る。横切る部屋の戸は全てきっちりと閉められており、この館の住人の几帳面な性格を窺わせた。

『こちらになります』

 部屋を出てから十幾つ目かになる扉の前で、少女が立ち止まった。

 隣の部屋の扉との感覚からかなり広い一室のようだ。どうやらこの扉の向こう側に、柳也が今いちばん欲しているものはあるらしい。

 少女が扉を開けて部屋の中へと入る。

 柳也もその背中を追って後に続いた。

 板戸一枚隔てた向こう側は、まるで旅館か銭湯の中を思わせる脱衣所となっていた。柳也の背丈より少しだけ低い棚には脱いだ衣服を入れるための木編みの籠があり、すぐ側には鏡台と一体化した洗面台がある。実際の浴室へと続く扉はガラス張りで、脱衣所とその向こう側とでは湿度に大きな差があるのか、ガラスには露がびっしりと湧いていた。

 ――これはひょっとしたらひょっとするかも…。

 良くてシャワーが借りられれば幸いと思っていたが、曇りガラスの扉の、開いた僅かな隙間から漏れる湯気に否が応にも期待は高まっていく。

 三階建ての棚には一段につき籠が六つもあり、一度に大勢が入れるだけの広さがあることを想像させた。

 そしてその柳也の想像は、次の瞬間現実のものとなった。

 柳也はふらふらと誘われるように脱衣所の戸を開けた。

「ははっ……!」

 世界有数の風呂好き民族・日本人のひとりである柳也の表情が、自然と輝くのも無理はない。

 ガラス張りの扉の向こうには、一流ホテルの大浴場とはいわないまでも、普段柳也が通う近所の銭湯と同じぐらいの巨大な浴槽があった。

 それだけではない。浴室は壁も床も天井も、何から何にいたるまで板張りで造られており、それは柳也にとっても馴染み深い古式豊かな日本風呂を思わせた。そういえば、床や壁の手触りも、どことなくヒノキに似ている気がする。

「ヒノキ風呂かぁ…」

 純洋風の館の中にあってある意味、異質ですらある空間に、柳也は思わず笑みを浮かべた。

 ちゃぽんっ、と浴槽に近付いた柳也は、透明な湯の中に小指の先を突っ込んだ。

 ちょうど良い湯加減の温もりが、彼の小指の血管を揉み解した。

「これはこれは……」

 浸かっただけで七五日は長生きできそうな湯……とまではいかないが、十日ぐらいは長生きできそうな極楽の湯だった。

 柳也は小指を湯船から抜くと、改めで背後に控える少女に礼を言った。

「……本当にありがとう。実はここ二日、湯に浸かっていなかったんだ。まさかこんなところで極楽に浸れるとは」

 己の幸運のなせる業か、それとも日頃の行いが善かったからか。あるいは神仏のおかげかもしれない。これからは心を入れ替えて毎週日曜日には教会に行くのも良いかもしれない。この星に教会があればの話だが。

 一度、服を脱ぎに脱衣所に戻ると、メイド服の少女が新しいバスタオルの位置や石鹸の位置などを教えてくれた。これは言葉が理解できなくても、バスタオルや石鹸のある場所さえ見せてもらえばよいのでラクだった。

 全ての説明が終わると、少女はエプロンのポケットから手持ちの小さなベルを取り出した。

『…その他に何か分からないことや御用がございましたら、このベルを鳴らしてくださいませ』

 ベルが少女の手の中で何度か鳴った。小さな外見のわりに比較的大きな、耳通りの良い音がする。

 何か用事の際にはベルを鳴らしてくれ……という意味だろうか。

 ――まぁ、いい。間違えたら間違えたでその時だ。

 柳也は目を白黒させながらとりあえずベルを受け取った。

 持ち手の部分を指でつまんで、試しに軽く振って鳴らしてみる。

 洋式のベルというよりは東洋の鈴を思わせるその音色を、柳也の返答と解釈したのか、少女は優しげな笑みを浮かべて辞去の礼をした。

 見ていて気持ちの良い綺麗な動作で踵を返し、脱衣所から出ていく。

 パタン、と脱衣所と廊下を繋ぐ扉が閉まって、部屋の中には柳也ひとりが取り残された。

 彼はもう一度無言で、これ以上の出入りの気配のない扉に向かって深々と腰を折ってから、ようやく上着に手をかけた。

 心なしか顔が嬉しそうに緩んでいる。

「それじゃあ、贅沢に朝風呂と洒落こみますかね」

 普段の自分の生活では考えられないような豪勢な行い。

 近所にある銭湯は、料金は安いが朝早くにはまだやっていない。早朝から開店している店の料金設定は、桜坂家の経済事情からするとちょっと手の届かない高額だ。

 このように朝早くから風呂に入るなど、中学の修学旅行以来ではないだろうか……小さな幸せを噛み締めつつ、柳也は全裸になると脇差をつかんでガラス張りの扉を全開した。




 ――うぅ……俺、どうしたんだっけ?

 最初に頭の中に浮き出た疑問がそれだった。

 どういうわけか頭がまったく働かない。たしかに自分は決して朝に強いとはいえない性質だが、それでも目覚めの最中にはいつももっとスッキリとしている。

 それが今日は霞がかかったように思考がはたらかず、そればかり体もほとんどいうことを聞かない。

 ――なんだ…? …体が、動かない…。あ…バイト、そろそろじゃなかったけ…?

 頭の中が相当混乱しているようで、思考が上手くまとまらなかった。

 そうこうしているうちに、痺れてはいるものの身体の感覚が戻り始めてくる。だが指一本を動かすのにも僅かに痛みが走る状態に、高嶺悠人は内心で眉をひそめた。

 ――なんだよ…疲れてるのかな。それに変な夢をみていたような…。

 たしかにここ最近は学校でもバイト先でも忙しい毎日を送っていた。放課後には文化祭で公演する劇の稽古という慣れない労働を行っていたし、バイト先のコンビニでは自給の良い早朝と深夜のシフトを増やして数週間前よりも多く労働時間を取っていた。明らかに過重労働であることは自分でも自覚していたし、ただ台詞を読みあげるだけと高をくくっていた劇の稽古は、思いのほか体力と精神力の両方を消費する作業だった。

 しかし、それにしたってこの疲弊ぶりは、酷すぎやしないだろうか。

 やっとの思いで寝返りをうつも、たったそれだけの動作で悲鳴をあげる全身に、悠人は我ながら驚愕する。

 自分の身体だけではない。

 自分の寝ているベッドの調子も何かおかしい。

 いつもよりも少し堅いような気がするベッドは、心なしか毛布もゴワゴワとしていて、妙に肌触りが悪かった。

 ――あとで干さないとダメかな…?

 “ふわ…”と、そのとき、突然、額を柔らかな手で撫でられた。

「佳織…もうすぐ……起きるって」

 いつものように最愛の義妹が起こしにきてくれたと思った悠人は、絞り出すようにして声を発して、喉すらも痛みを訴えていることにようやく気が付いた。

 風邪でも引いてしまったのだろうか。声を張り上げる作業ばかりしていたから、弱っていたところを悪い菌にやられたのかもしれない。

 ――なんだよ、ノドも痛いじゃんか…。

 心の中で毒づきながら、悠人は少しずつ瞼を開いた。

 相当長い間眠っていたのか、作業を忘れていた目はなかなか焦点が合わせてくれない。

 何度か瞬きを繰り返して、ようやくぼんやりとしていた視界が少しずつはっきりとしてきた。薄っすらと人の輪郭が見えてくる。どうやら女の子のようだが…。

「ごめん、佳織……俺、なんだか調子が悪いみたいで…さ」

 てっきり義理の妹が起こしにきてくれたものだと思い込んでいる悠人は、力のない声で弁解を始めた。

 ――ああ、こんな声じゃ佳織を心配させちまう……。

 根が心配性の義妹のことを思いながら、そんな声しか出せない根性なしの自分を恨めしく思う。

 せめて元気な顔だけは見せてやろうと、悠人は大きく目を開き、満面の笑みを浮かべようとして……その表情が、驚きに彩られた。

 輪郭が、はっきりとする。

 ――佳織じゃ……ない?

 違う。

 ベッドの横に座っていた少女は佳織ではなかった。

 ブラウンの髪に、今にも吸い込まれそうな緑色の瞳。整った顔立ちに不安そうな表情を浮かべて、こちらを見ている。

 ――目…珍しい色だなぁ。はぁ……見たことないけど、綺麗な子だな……。

 思わず見惚れてしまう悠人。

 しかし、それも無理もないことだ。目の前の少女は、それほどに美しい。

 悠人の周りにも、可愛いと思える娘は何人かいる。しかし、美しい娘というのは初めてではないだろうか。

 今日子や小鳥、佳織達とは違ったタイプの娘との接近に、悠人は内なる胸の鼓動を高まらせていた。

「ラスト、ソロノーハティン、ヤァ、ウズカァ?」

 しかし、淡い思いとともに鼓動する心臓の高鳴りは、そこで途切れてしまう。

 聞いていて耳に心地良い、綺麗な声で少女が語りかけてきた。耳慣れない言葉で。

「えっ? えっ?」

 見知らぬ女の子に、謎の外国語。

 目覚めたばかりで、まだぼんやりとしている頭には、少し……いや、かなり難解な状況だった。




 柳也がその鍛えられた裸身を湯船に投じると、波打つ洪水が僅かに浴槽から漏れた。

 乾いた肌に心地良い、熱い湯に身を浸していると、柳也は思わずお決まりの文句をこぼす。

「ふひ〜…極楽、極楽」

 しみじみとした口調とともに吐息が、広い浴室に余韻をもって響き渡る。

【主よ、なにやら年寄りじみているようなのは我の気のせいか?】

「うるせぇ。年寄りのどこが悪い。今の俺たちがあるのはその年寄りのおかげだ。年寄りを馬鹿にすんな」

 内から響く〈決意〉の声にも、上機嫌で答える。

 体内寄生型の永遠神剣である〈決意〉は、文字通り柳也の血であり、肉であり、骨であり、臓器でもある。柳也が得る快感はそのまま〈決意〉の快感でもあり、熱い湯船に浸ることで柳也の血行が良くなれば、〈決意〉も上機嫌になる。

 己の内から聞こえてくる不思議な声は、いつになく饒舌だった。

【とはいえ、確かにこの心地良さはたまらんな。主がそのように感慨にふけるのも分かる。……浸かっているだけで、七十五日は長生きいたそう】

「……お前の方が爺じゃねぇか」

 苦笑しながら、柳也は熱い湯で顔を洗う。

 開ききった毛穴から、溜まっていた疲れが抜けていくようだった。

「【極楽、極楽……】」

 体内の剣と、その主の声が同時に重なる。

 もっとも、〈決意〉の声は柳也以外には聞こえないので、浴室に響いたのは柳也ひとりの声のみだったが。

 ――とと、和むのはこれぐらいにしておくか。

 あまりに心地の良い湯加減に、つい置かれている立場を忘れてしまった。

 いかんいかんと頭を振り、一昼夜を通しての徹夜にいい加減休息を求めている頭をなんとかなだめすかして、柳也はぼんやりと天井を見つめながら考える。

 ――まずは状況を整理しよう。

 警察官だった亡き父や柊園長に何度となく言い聞かされてきたこと。何か問題にぶち当たったら、まずは物事を整理する。試験の答案と一緒だ。その問題を解決するためには、問題のことをよく知らなければならない。

 この場合、問題とは現在自分の置かれているこの状況だ。

 現状で分かっていることをひとつひとつ分解し、何が問題なのか整理しなければ。

 ――第一に、ここがどこなのか。

 少なくとも日本でないことだけは確かだ。この世界で目覚めてから今までに言葉を交わしたのは三人いるが、そのいずれもが耳慣れない言語を用いていた。また、星々の位置関係や、空を降下した自分の体験を基に考えると地球ですらない可能性が高い

 ――第二に、どうして俺がここにいるのか。

 自分がこんなところで風呂に浸かっているのは、十中八九あの光の柱に飲み込まれたからに違いない。あの金色の光柱に飲み込まれた瞬間、世界は色彩をなくし、閃光だけが繚乱する不思議な空間に飛ばされた。そしてその空間から落ちたせいで、今、自分はここにいる。

 逆説的に考えればもう一度あの光の柱を通れば元の世界に戻れる可能性が高いが、そう都合よく事が運ぶとは限らないし、そもそもあの光の柱が自然現象の産物なのか、故意に作り出されたものなのかすら分からない。もし後者の方であれば、その方法を模索すれば問題解決の糸口が見えてくるはずだ。しかし仮に前者の場合だったとして、さらにその現象が起こるのが数百年に一度とかいうような代物だったとしたら、元居た世界への帰還は絶望的に近い。

 気になるのは、メダリオやタキオスが口にしていた『門』の存在だが……あの光の柱が、彼らの言っていた『門』だと決め付けるには、まだ情報が不足しすぎている。

「ははっ…我ながら順応力が高いよな」

 早くも、すっかり光の柱や異なる惑星という考え方を受け入れてしまっている自分に、柳也は思わず苦笑する。

 普通に考えれば自分でも眉にべっとりと唾をつけたくなるような考え方ばかりだ。それを信じられるのは、ひとえに己の体内に生きる相棒の存在によるところが大きいだろう。

 ――第三に、どうすればこの星から地球へ帰れるのか。

 これに関しては今のところなんとも言えない。ベストなのはもう一度あの光の柱が出現してくれることだが、そもそも光の柱の正体が分からない現状では、下手な期待を持つのはやめておいた方が良いだろう。

 もしかしたら悠人があの光の柱の正体に関する何らかの情報を持っているかもしれないから、すべては友人の寝起き待ちだ。

 ――第四に、その高嶺がなぜこの世界にいるのか。

 これも悠人に事情を聞くまでなんとも言えないが、あの光の柱に飲み込まれたせいで自分がこの世界にいる可能性が高い以上、悠人も同じような目に遭った可能性は極めて高い。

 しかし、あの光の柱が自分の前に出現した時、己の側に悠人の姿はなかった。つまり、あの光の柱が発生した時間帯、悠人は自分達とは別の場所にいたということだ。

 それなのに彼がこの星にいるということは、その別の場所にも同じ光の柱が出現したという可能性を示唆している。

 あるいは、時間差で出現した光の柱に飲み込まれてしまったか……。

 どちらにせよ、これも悠人が目覚めたら絶対に訊かなくてはならない事だった。

 もし、他の場所にも光の柱が出現していたとしたら、あと何人が飲み込まれて、この世界に放り込まれたのか、知る必要性がある。

 ――第五に、俺と一緒にあの場所にいた瞬の存在……。

 今、自分の頭を最も悩ませている問題。自分のすぐ側にいた親友が、あの光の柱に巻き込まれなかったはずがない。

 これに関しては……今はまだ、柳也にはどうすることもできない。そもそも本当に瞬がこの星にきているかどうかすら分からないのだ。

 万が一、巻き込まれていなかったとしても、あの場所にはタキオスとメダリオという、圧倒的な強さを持った怪物ふたりがいた。自分や瞬を殺す目的でやってきた風ではなかったが、安心はできない。かといって助けにいこうにも、帰る方法が分からないのではどすることもできない。

 ――無事でいてくれよ、瞬…。

 今の柳也にできることといえば、ただただ親友の無事を祈ることしかなかった。

 己の無力さが不甲斐なくて、悔しくて、柳也は悲しかった。

 ――第、六に……。

 瞬のことは気になるが、今は彼のことを心配しているばかりではいけない。

 親友のためにも、今は自分がしっかりしなければ。

 第六の問題は、自分と瞬を襲った謎の存在……メダリオとタキオスの存在について。

 その正体や目的からして不明な二人組だが、実際に戦って分かるその強大な戦闘力も果ては未知数だ。今にして思えば彼らが持っていた剣もまた、おそらく永遠神剣だったような気がする。

 永遠神剣が持つ強大な力を、通常の兵器で再現することは可能だ。今や人類は地球を何遍も破壊できるほどの核を保有している。しかし、一度死んだ人間を生き返らせるような芸当は、未だ人類の科学をもってしても実現できてはいない。

 メダリオは自分を一度は殺し、そして生き返らせた。そしてその際に自分の肉体にマナを注ぎ、強化した。少なくともメダリオの持っていた双剣が通常の兵器の範疇外の武器であることは、間違いない。

 正体不明、目的不明、その戦力の潜在能力も未知数と、たったこれだけの要素ですら脅威だというのに、その上彼らもまた光の柱の側にいた。彼らがこの星にいる可能性はかなり高く、どこかで鉢合わせた暁には、今度こそ命はないだろう。

 はたして、彼らはいったい何者なのか? 何の目的で自分や瞬を襲ったのか? 彼らの言う『門』とは? あの光の柱との関係は? 柳也の悩みのタネは尽きなかった。

 ――第七に、言葉の問題……。

 ある意味で、他のすべての問題よりもいちばん切実な問題だった。

 ここが異星である以上、地球人の言語が通じないのは当たり前のことだが、それでも言語的コミュニケーションが交わせないというのは切実だ。今のところはボディランゲージでなんとかなっているが、それにしたって限界はあるし、何よりもどかしい。

 ゆくゆくはあのメイド服の少女とも、複雑な議論を交わさねばならないだろう。複雑な情報交換の際に、通用するのがノンバーバル・コミュニケーションのみというのは、はなはだ不味い。

 言語の問題も、いずれは解決せねばならない問題だった。

「そして、最後に……」

 柳也は複雑な表情を浮かべて露の滴る天井を見つめた。

 浴室で反響するその声は、呻くような苦々しさを滲ませていた。

「あの白い翼の少女、黒い翼の少女、タキオス、メダリオ、そして俺……みんな、永遠神剣を持っている」

【そしておそらくはあの紺碧の瞳を持つ娘もそうだ。あの娘からもまた、神剣を持つ者特有のマナの波動を感じた】

「ああ。それに向こうも気付いていると思う。ただ、俺らの場合、〈決意〉が体内寄生型だから、かなり戸惑っていると思うけどな。普通に考えれば、同田貫を神剣と勘違いするだろうが……とと、今、問題なのはそこじゃなかった」

 永遠神剣という言葉を、初めて耳にしたのはまだ昨日今日のことだ。それなのに、すでに自分は己の体内にある〈決意〉も含めて、五本もの神剣を確認している。うち二本はこの世界に来てから確認し、うちひと振りの所有者とは実際に戦いすらした。また、〈決意〉の言う通りあのメイド服の少女からも永遠神剣の気配を感じるから、実質的にはこの世界に来てから、自分は少なくとも三本以上の神剣が存在を感知しているといことになる。

「出来すぎたシナリオだ。ご都合主義にも程がある……っていう現状は、この際どうでもいい。問題なのは、この星にはまだ数多くの永遠神剣が存在する可能性が、極めて高いということだ」

 その事実が、自分達にとって吉と運ぶか、凶となりうるか。

 昨夕から立て続けに見せ付けられた永遠神剣の圧倒的な力。

 もし、この世界にまだ多くの永遠神剣が存在し、その所有者もまた大勢いるとしたら、その所有者らとの関係がこの先の自分達の未来を大きく左右する可能性は高い。

 〈決意〉から得た情報によれば永遠神剣には第七位とか、第六位というような位階があり、一般には数字が小さいほど持っている力や知識も高いという。上位の神剣の持ち主であれば、あの光の柱についても何か情報を持っているかもしれない。

 昨夜、自分の前に颯爽と現れた、白い翼の少女。

 今も眠り続ける悠人の看病をしているはずのメイド服の少女。

 永遠神剣を持つ二人の娘達と、なんとか円滑なコミュニケーションを取りたいところだが……つまるところそれは、第七の問題をどうにかしなければならないということでもあった。

「こちらの言語を憶えてもらうか、こちらから相手の言語を学ばないと、まともに話しもできないもんなぁ…。なあ〈決意〉、お前の力でなんとかできないか?」

【無茶を言うでない。それに、仮に我の力であの娘らの言語を介したところで、それでは文字までは読めぬ】

「文字……ねぇ。文明を築いているってことは、常識的に考えれば文字もあるはずだけど……勉強するべきことが、あまりにも多すぎる」
 
 柳也は苛立たしげに頭を掻き毟った。

 熱湯に浸りながらの難解な思考に湯疲れしたか、彼は流しに腰を下ろそうと湯船から立ち上がった。若侍の、発達した肉の鎧を湯気のヴェールが包み込む。

 前隠しの手拭いはない。メイド服の少女から渡されたのはバスタオルと着替えの衣服の他に身体を洗うための糠袋だけで、前を隠せるような布切れはなかった。

 もっとも、柳也は近所の銭湯に行っても前を隠さずに平気で風呂に入るような手合いでもあった。しらかば学園にいたころは兄弟達と風呂に入る機会も多く、その中には年頃の娘すらいた。今更、人に見られて恥ずかしいと思うような気はしない。最低限のマナーとして前を隠して入りはするが、それだって基本的に手拭いは頭の上に置くものと心得ている。しかも今朝は貸切り。ゆらゆらと揺れる逸物を晒すのに、気兼ねはまったくなかった。

 ざぶざぶ、と豪快に湯を掻き分け前へと進む。

 しかし、ふと、流しに腰を下ろす前に、その歩みが止まった。

 曇りガラスの扉の向こうに、人影を見出したからだ。

 ――悠人が目覚めたか?

 だとしたら吉報だ。

 柳也は友の無事を喜ぶように満面の笑みを浮かべた。

 ガラガラ、とガラス戸が開かれ、湯気に包まれて小柄な人影が浴室へと入ってくる。

 柳也は、

「おはよう、高嶺!」

と、喜色満面の笑みで言葉を紡いで、次の瞬間、表情を漂白させた。

「……」

『……』

 視線と視線が、ぶつかり合う。

 入ってきたのは、悠人ではなかった。

 腰どころか小ぶりな尻のあたりまで届いている水色のロングヘア。すらりとした長い手足。中世的な細腰。透き通るような白い肌は瑞々しく、まさに珠の肌といっても過言ではない。少女であることを示すように、胸には小ぶりの膨らみがあり、その先端で二つの乳首が淡く色づいている。

 昨夜、森の中で出会った白い翼の少女が、服を脱ぎ、鎧を脱ぎ、剣を手放した状態で……つまるところ裸で、そこに立っていた。

 柳也に見られても、特に裸身を隠す素振りは見せない。逆に見せ付ける意図もなく、この場にいる謎の男に無遠慮な視線を向けている。

「……七四のAと見た!」

 柳也は、パチン、と指を鳴らして叫んだ。

 しかし起死回生の渾身のギャグも、言葉が通用しなくては意味がない。

 少女は水色の眼差しで柳也を頭のてっぺんから足のつま先まで、舐めるように見回し、やがてその視線を六つに割れた腹筋よりさらに下……無機質な言葉でいえば生殖器、いやらしさを極力廃した言葉で表せば股間部、生物学的観点からいえば陰茎部、エログロでナンセンスな表現を用いた場合はチ○ポと呼ばれる器官に、集中させた。

「……いやん♪」

 可愛らしく言ってみても、何も状況は変わらない。

 何の関心も反応もなく、ただただ見つめているだけというのが、余計に性質が悪い。

 柳也にとって拷問のような時間が、無限に等しい時間、続く。

 ――なぁ、〈決意〉……

【なんだ、主よ?】

 ――もう一つ、整理するべき問題を見つけたよ。どうすれば、この嬉しい状況を長引かせられると思う?

 柳也は深々と溜め息をついた。

 自分が見られることに関してはあまり羞恥心を感じない柳也だが、彼も決して男を捨てたわけではない。桜坂柳也も人の子だ。それも若い男の子だ。

 そんな彼の目の前に、裸の娘がひとり。無防備に、立っている。

 柳也は大きく息を吸い込むと、洋館全体を揺るがすような声で叫んだ。

「なんてドリームのようなバスルームなんだぁッ!!」

【主よ……】

 〈決意〉から、呆れたような声が聞こえてきた。




「ふへはぁ〜…良い湯だった」
 
 柳也は、火照った身体を着慣れぬ衣服で包み、妙に満足のいった表情で脱衣所の扉を閉めた。

「目の保養にもなったし……これで下着さえ用意されていれば完璧だったんだけどなぁ」

 メイド服の少女が用意してくれた衣類の中に、残念ながら下着は含まれていなかった。即席で褌を作ろうにも、長い布がないのでどうしようもない。

 ――いや、あるにはあるんだけどね…。

 柳也はズボンを留めているベルト代わりの帯を見た。下着代わりにするには手触りが少々ごわごわとしすぎているが、丈の長さに問題ない。

 ただ、この帯で褌を作ると、今度はズボンを留める物がなくなってしまうから却下だ。

 学制服と同様に、大小のふた振りを佩くのに用いていた革のベルトはズタズタに引き裂かれており、脱衣所でズボンを脱いだ瞬間に天国へと旅立ってしまった。商店街で二本千円で買った、すでに老年にさしかかっていたベルトだったが、もう三年近く愛用している品だった。

 脱衣所を出た柳也は、そのまま悠人が寝ているはずの部屋に戻ろうとして、ふと朝の日差しが差し込むようになっても煌々と床を照らし続けている照明器具が気になって足を止めた。

 一見したところ地球にある照明器具と大した変わりはない。しかし、電気を使っているわけではなさそうだ。発している光からマナの波動を感じるのは、気のせいだろうか。

 ――この世界の文明レベルについても、後々考えないといけないな…。

 照明器具の精度からして、文明レベルはかなり高いように思える。しかしそれは所詮地球人の常識にすぎない。早合点は禁物だ。

 柳也はとりあえず照明のことは頭の外へと放り出して、階段を上った。

 と、そこでちょうど階段から降りてくるメイド服の少女と出くわした。

「ん……?」

 柳也は小首を傾げた。

 少女は、さっき柳也を風呂場へ案内した時よりも、見るからに穏やかな表情をしている。もしかして、悠人に何かあったのだろうか。

 軽く会釈してくる少女に、柳也は口を開いた。

「高嶺に何かあったのか?」

『たった今、目を覚まされました』

 相変わらず意味の通じない虚しい会話。

 しかし、決して実のない問答ではない。

 言葉の意味は分からずとも、少女の明るい表情からは何か良いことが起きたのだと想起させられる。

『それでは、失礼します』

 少女はもう一度会釈すると、柳也の横を素通りしていった。

 柳也は、少女の身に起きた何か良い事とは、悠人に関係する事ではないかと思った。

 斯様に思えばこそ、部屋路を急ぐその足が速まるのも、無理もないことだった。




「おおっ! 目が覚めたみたいだな、マイフレンド」

 部屋の扉を開けて悠人が起きていることに気付いた柳也は、歓声をあげた。

 一方の悠人は、突然の柳也の登場に目を丸くし、信じられないといった表情を浮かべて顔を上げた。

「……桜坂?」

「ああ、桜坂柳也だ。……なんだ、なんだ? そんな死人を見たような顔をして」

「いや、だって…お前……」

「まぁ、言いたいことは大体分かるけどな」

 柳也は屈託のない表情で笑うと、窓際の椅子をベッドの側まで引っ張って腰掛けた。

 混乱しているのを隠そうともしない悠人に、彼はなるべく相手の感情を刺激しないよう、やんわりとした笑みを浮かべる。

 柳也には友人の混乱のほどが、手に取るように理解できた。この時点で彼は、あの光の柱の出現は悠人の手によるものではないと確信した。もしあの光の柱を悠人が故意に呼び出したのだとしたら、彼が混乱しているのは解せない。

「…どうして、お前がここにいる……?」

「あ〜…それは俺の質問でもあるんだがな。とりあえず、俺の知っている事を全部話す。質問は、その後にしてくれや」

 混乱しているのは柳也もまた一緒だ。悠人がこの状況に対してまだ何も分かっていないように、自分もこの状況について理解していることは少ない。

 しかし今目覚めたばかりの悠人とでは、自分の方が少しばかり冷静でいる。ここは自分がしっかりせねばと、柳也はある種の義務感にも似た心持ちで自分の知っていることを話した。

 ただし、これ以上余計な混乱を与えないためにも、永遠神剣やメダリオ達の存在、空を飛ぶ浮き島のことなどは話さないでおいた。それらの情報は、もっと落ち着いた頃でないと解禁できない。通常、正確な情報を伝えることは冷静な判断を生むために行う行為だが、その情報を与えすぎることで逆に混乱を深めるようなら、ある程度の制限した方が良い。

 ――少なくとも現状を認識して、今後どうするかの判断を下せるぐらい冷静さを取り戻すまで待たないとな…。

 柳也は、永遠神剣やメダリオ達の存在、自分がこの世界にやってくる過程において見てきた光景などに関する事柄は極力廃し、悠人に説明した。

「……とりあえずそんな感じだな。現状で分かっていることは、今、俺達がいる場所は日本ではないという事。もしかしたら地球ですらないかもしれない。当然、言葉も通じないし、文化的な違いもかなりあるようだ。

 それから、少なくとも俺がこの世界に来ることになった直接的な原因は、あの……といっても、分からないか。とりあえず、その光の柱が原因である可能性がかなり高いこと。この辺りのことは、後で高嶺からも話を聞いて、情報のすりあわせをしようや。

 あとは……この館にはドリームのようなバスルームがあるということぐらいだな」

 柳也は、最後の部分だけ無駄にニヒルな口調で言った。

「……ドリームのようなバスルーム?」

「ああ…。俺達日本人からしてみれば、たまらないバスルームだった」

 ちなみに風呂場で垣間見た天国のような光景に関しては、情報制限をかけておいた。

 柳也はひと通りの説明を終えると、改まった口調で悠人に話しかけた。

「現状、理解できたか?」

「…あんまり。ここが日本じゃないってことはわかったけど」

「それだけ分かっていれば十分だ」

 むしろ起き抜けの頭でこんな突拍子もない話を理解できたのだから、優秀な方だといえよう。どうやら高嶺悠人の環境適応力に対して、自分は認識を改める必要がありそうだ。

 長々とした話を一気に話して、喉が渇いてしまった。

 柳也は悠人の了解を得ると、テーブルの上の水差しからグラスに自分と悠人の分の水を移し、友人に手渡した。

 一口分を口に含み、舌の根が湿り気を帯びるのを待ってから、彼は悠人に切り出した。

「……さて、俺から話せるのは、まぁ…そんなところだ。高嶺は、何か憶えている事はないか? この屋敷で目を覚ますまでの間に、何でもいいんだか……」

「……多分、俺も桜坂が見た光の柱に、飲み込まれたと思う」

 悠人は、舌で次の言葉を探すように、ゆっくりと話し出した。

「……俺達は、学校の帰りに、神社に寄ったんだ。ほら、文化祭が近いだろ? 俺達のクラスの出し物は演劇に決まって、その練習で今日子と、光陰と……それから、先に神社で待っていた佳織の四人で、神木神社の境内にいた」

「岬と、碧と佳織ちゃん……?」

 嫌な予感がした。あの光の柱に飲み込まれて今、自分達はここにいる。だとすると、その現場にいた三人もまた……。

「神社に集まった俺達のところに、そこで、神社の巫女さんがやってきたんだ」

「神木神社の巫女さん……ってことは、時深さんか?」

「あ、ああ…。知り合いなのか?」

「ん? まぁ、な……」

 柳也は言葉を濁した。友人の口から出た意外な人物の名前に、一瞬、思考停止状態になってしまう。まさか悠人の口から時深の名前を聞こうとは……世間は狭いものだ。それにしても、あの光の柱の出現した現場に、彼女もいたとは……段々、話がキナ臭くなってきた。

「俺はみんなに時深のことを紹介しようとしたんだ。そうしたら、時深は妙に真剣な顔で……持っていた剣を、俺に見せつけた」

「剣……?」

「ああ。たしか儀礼用って言ってたけど……」

「……」

 柳也は眉をひそめた。
 悠人が時深のことを呼び捨てで呼んでいることも気になったが、それ以上に彼女が持っていた儀礼用の剣という言葉が気になったからだ。

 剣と聞いて、柳也は最近、すぐにその単語を思い浮かべてしまう種類の“剣”がある。時深が悠人に見せ付けた剣、それはもしや……

「そしたら、なんか急に頭痛がして……時深が、『門』が来るって言ったんだ」

「『門』……」

 メダリオとタキオスも言っていた言葉を、時深も知っていた。

 どうやら彼女が自分に大小の拵を託したのは、偶然ではなかったらしい。彼女の感じた直感とやらが本物の霊能力かどうなのかはさておいて、あの巫女服の少女がメダリオやタキオスと少なからず関係していることは、ほぼ間違いないだろう。

 そしてメダリオやタキオスが永遠神剣を手にしていた以上、悠人が見たという儀礼用の剣も、おそらくは永遠神剣だ。

 柳也は、自然と自分の表情が強張っていくのを自覚した。

 自分達が何か、とんでもない陰謀の渦に巻き込まれたような気がしてならなかった。

 幸いにも未だ衰弱している悠人が柳也の表情の変化に気付くことはなかったが、雰囲気で微妙な変化の気配を感じ取ったのだろう。

 悠人は突然黙ってしまった柳也に、怪訝な眼差しを向けた。

「……どうした?」

「ん? ああ、いや…なんでもない。…それでその後はどうなったんだ?」

「……頭痛が酷くなって、多分、お前が言ってた光の柱と、同じものが現れた」

「そして、飲み込まれたと……その間、意識は?」

「なかった…と、思う。気が付いたら、森の中だったから」

「森の中?」

「ああ…それで、その森の中で……」

 悠人の言葉が、そこで止まった。

 いったい件の森の中でどんな出来事があったのか、つい半日前の記憶を追想するその顔が、見る見るうちに赤くなっていく。耳まで火照って紅潮を始めた友人の様子に、柳也は小首を傾げた。

「……森の中で、何があったんだ?」

「……よく、憶えていない」

 ――…嘘だな。

 柳也は直感した。

 悠人の表情の変化から何かあったのは明らかだったし、柳也自身も下半身丸出しで白い翼の少女に抱えられていた彼の姿を目撃している。普通に考えて、用を足す以外に男が性器を露出しているといえばアレ以外に考えられないが…。

 ――まぁ、無理に聞き出すのもなんだしな。

 柳也は内心で溜め息をつくと、そう結論づけた。

 とりあえず、当面は森の中で悠人の身に“何か”が起こった。具体的な内容はともかくとして、今はその事実があったということだけ憶えておけば問題ないだろう。

 柳也は頭の中で悠人の話を整理しながら、自分の体験と照らし合わせて言った。

「高嶺の話と俺の体験を合わせると、やっぱりあの光の柱が出入り口だった可能性が高いな。……となると、ちと厄介な事態かもしれん」

「…どういうことだよ?」

 柳也は難しい表情で答えた。

「あの光の柱が出現した時、俺の側には瞬が、悠人の側には岬と碧、それから佳織ちゃんが居た。そして、俺達がこの場所に居るのはあの光の柱に飲み込まれた可能性が高い以上……」

 それから先のことは、はっきりとした言葉にせずとも悠人にも理解できた。

 見る見るうちに悠人の表情が青ざめていき、彼は大きく目を見開いた後……大きく取り乱した。

「か、佳織を探さないと……!!」

 ベッドから飛び起きようとする悠人。しかし、弱りきった身体でその行動は自殺行為に等しい。背中に、腰に、腕に、足に走る強烈な激痛に、悠人の身体は無理矢理ベッドに縛り付けられてしまう。

 手の中のグラスが宙を舞い、飛散した水が真っ白なシーツを汚した。

 柳也は慌ててフォローに入ろうと悠人に手を伸ばした。剣術の鍛錬で日常的に肉体を酷使している柳也にも経験があるから分かるが、極限まで弱りきった肉体を急に動かすのは毒だ。

 柳也に身体を支えられ、なんとか起き上がった悠人は、今度はベッドから降りようと身体を動かした。

 さすがに柳也も友人のこの強行は看過できず、

「落ち着け、高嶺!」

と、腕に力を篭め、悠人の身体を押さえつけた。

「離せ! 早く、佳織を探さないと…佳織のところに行かないと……!」

「冷静になれ! 高嶺悠人。探すといっても、どうやって探すというんだ!? 人に訊ねようにも言葉が分からない。虱潰しに探そうにも、地理が分からないではどうしようもないだろうが!?」

 わめき散らし、暴れる悠人を柳也は羽交い絞めにし、耳元で怒鳴った。

「お前が佳織ちゃんのことを心配に思う気持ちはよく分かる! だが、今は佳織ちゃんのためにも冷静になれ。今、自分のするべき事を考えろ!!!」

「……」

 直心影流二段剣士の、腹の底から、心の底からの絶叫。

 館全体を震わせているのではないかと思うほどの巨大な怒声に、悠人の頭は次第に冷静さを取り戻していった。

 自分の拘束に抵抗を示す力が弱まったのに気付いた柳也は、ここぞとばかりに言葉を投げかける。

「第一、お前、今の体力で、どれだけ歩けると思っている? 佳織ちゃんを探すことに関しては俺も賛成だ。けど、まずは自分の身体のこと、それから周りの環境について考えろ」

 抵抗の力が完全になくなったのを見取って、柳也は拘束を解いた。

 自分を押さえつけると同時に支える力を失って、悠人の身体がゆっくりとベッドの皺を深くしていく。

 ほっ、と安堵の息をついた柳也は、悠人を見下ろして言った。

「……ちょっとは、頭冷えたかよ?」

「……すまん」

 重い響きの声。

 柳也は、それとは対照的に軽薄なテンポの、優しい声音で答えた。

「いいって。とりあえず落ち着いたなら、それでいい。…俺からも、申し訳なかったな。思慮の足らない発言だった。高嶺が、どんだけ佳織ちゃんのことを大切に想っているか、知りながら、考えがいたらなかった」

 柳也は悠人を支えるために立ち上がった拍子に倒してしまった椅子を起こし、腰掛けた。

 そして彼は、今後の行動について悠人に意見を求めた。

「さしあたって高嶺の課題は、少しでも体力を取り戻すこと。五体満足の俺の課題は、少しでもこの世界に関する情報を集めること。そして俺達二人の共通の課題は、現状をよく知り、問題を整理することだな」

 背後で、ドンドンッ、と激しいノックの音が鳴った。ドアの向こう側から、あのメイド服の少女の焦ったような声が聞こえる。おそらくは先の柳也の怒声に驚いて、何があったのかと駆けつけてきたのだろう。

 柳也は、これは言い訳が大変だぞと頭を掻き毟りながら、溜め息をついた。

 なにせ相手とは、言葉が通じないのだ。そも意思の疎通が困難なこの状況で、言い訳をしろという方が難しいだろう。
 
 柳也は深い溜め息をついて、返事も待たずに開く扉を見ていた。




 ――悠人が目覚めて三日後。


「二九六、九七、九八……」

「……」

「二九九、三百! ……ふぅ〜、ヒンズースクワット二セット終了っと」

「……いつも思うんだけどよ」

「ん?」

「毎日、よく続くよな」

 未だ満足に身体を動かすことも困難な悠人は、ついたった今しがた一セット三百回の腕立て伏せ、腹筋運動、ヒンズースクワットをそれぞれ二セットずつ終えたばかりの柳也に、恨めしげな視線を向けた。

「しかもこの後、柔軟体操まであるし…」

「そういわれてもなぁ…。これでも、日本にいた頃よりも回数減らしているんだぜ?」

「……とてもそうは思えないんだが?」

「ここは部屋が狭いからな。激しい運動はできないし、素振りもできない。それに五体満足といっても自由行動が許されているのは館の中だけだ。走り込みもできない。体力が落ちない程度に体動かすのが精一杯だよ。……それに、いざという時のために体力も温存しておきたい」

 柳也は汗でしっとりと濡れた服の上着を脱ぐと窓の方へと歩いていき、開け放たれた窓から身を乗り出して上着を絞った。

 春同然の陽気の中、狭い――それでも、コーポ扶桑の部屋よりは何倍も広い――部屋に閉じこもってずっと身体を動かし続けてきた成果が、塩気の混じった滝となって洋館の二階から落ちていく。

 柳也はもう一度きつく絞った上着をタオル代わりに身体を拭いつつ、

「……とりあえず、今日はあの女の子の洗濯に付き添って、少しだけ館の外に出てみた」

「何か収穫は?」

「これといっては…」

 柳也は首を横に振った。

「少なくとも周辺に人が住んでいる気配はなかった。けど、遠目にだが一応、人の手による建造物らしきものは見かけた」

「本当か? いったい、どんな建物だったんだよ!?」

「城だ」

「城……」

 悠人はもっと柳也の話をよく聞こうと身を乗り出して、顔をしかめた。ここ三日で体力はかなり戻ってきているが、それでも本調子には程遠い。

 柳也は「無理するなよ」と、一声かけてから、洋館の庭から遠目に見えた白亜の建造物について、感想を述べた。

「少なくとも、俺達の常識の範疇でいえば、あれは城と呼ばれる構造物だ。……城っていっても、日本式の城じゃあなかった。中国式とも違う。やっぱり、俺が着ているこの服みたく中世ヨーロッパ風な感じだった。距離が距離だったから、堀があるかどうかとか、建築素材は何かとかまでは分からなかったが、ぱっと見、人の気配はあったように思う。建物の中から煙が出ていたからな」

 政治の中枢機関として機能しているかどうかはさすがに分からなかったが、この世界にもまた城があるということは、絶対的な権力者たる王の存在を示唆している。あくまで、柳也達地球人の常識で考えればだが、あながち間違っているとも言い切れないだろう。

 黒い翼の少女、白い翼の少女、メイド服の少女。柳也がこれまで出会ってきた彼女達は、みな地球人と同じシルエットをしていた。味覚や、その他の感覚器官にも大きな差はないようで、おそらく内臓の位置も同じだろう。少なくとも外見からは、柳也と彼女達の間に、生物学上の大きな差異があるようには思えない。

 また、柳也達とメイド服の少女とでは、精神構造に大きな差があるようにも思えない。

 生物学的にも地球人と近く、精神構造にもほとんど違いがないのであれば、細かい部分は異なっても、そう大きな文化的差分は少ないのではないか。

 ――…やばい。考え方がどんどんSFチックになっている。

 SF的拡散思考は、時に正解を導き出すことも多いが、時に誇大妄想を誘発する危険性も孕んでいる。

 柳也はいかんいかんと頭を振ると、早くも彼の話を信じ始めている悠人に注釈した。

「…あくまで、俺達の常識でいえば、だからな。あれが王様の住んでいる城かどうかは現時点では分からん」

「でも、少なくとも、この洋館以外にも人の住んでいる場所があった。そしてそこは中世ヨーロッパ風の建築物だった…って、ことは分かったんだろ?」

「まぁ、な…」

 実はそこがいちばんの問題なのだが……柳也は、口から出かかった言葉を飲み込むことで、自分を抑えた。

 おもむろに部屋の天井を見る。天井には、朝も夜も自分達を照らし続ける不思議な照明器がひとつ、当たり前のようにぶら下がっている。

 自分の着ている服。それから洋館の造り。白亜の城。これらの要素は、たしかにこの星の文化レベルを示す材料となりうるが、だとしたらこの照明はいったいどう考えれば良いのだろう。

 もし、この星の文化レベルが本当に中世ヨーロッパ程度であれば、この電気を使わない照明の存在は明らかに異質だ。ランプや松明のように火を使っているわけでもなく、さりとて最初から光を発生する物質で作られているわけでもない。スイッチひとつで明るさを切り替えられ、それでいて電気を使っている気配のない照明……進んだ科学文明を持つ柳也達の時代ですら実用化されていない代物は、中世時代レベルの文化の中にあって明らかに傑出している。

 無論、この星の現在の文化レベルの到達点が、中世ヨーロッパ程度だと決め付けるのはまだ早計だ。洋館の造りは所有者の趣味の一言で片付けられるし、そもそも城のような建造物は政治の中枢機関が存在する場所として長持ちするように建築される。補修工事を繰り返しているとはいえ、日本の国会議事堂などその一例に過ぎない。

 しかし、自分の着ているこの服……金属を使ったベルトもなく、プラスチックのボタンもなく、ただ布の生地と糸のみで構成された服は、どう考えても中世ヨーロッパ時代の庶民服にしか思えない。はたして、この服もまたこの洋館の主の趣味で用意されたものなのか…。

 改めて考えると、あの巨大な大浴場もまた異質な空間である。洋館の中に和風の風呂があるとい点も異質だが、あれだけの広い浴槽を満たす大量の湯を、如何なる手段で沸かしているのか。時代を遡って古い時代にも、湯を沸かすシステムはいくらでもあった。しかし、あの巨大な浴槽の湯を維持するためには、かなり大規模な装置が必要ではないだろうか。それなのに、洋館にボイラー室のような設備がある気配はない。

 ――なんていうか、ちぐはぐすぎるんだよなぁ。

 この世界に来て、まだ僅か四日目。

 しかし柳也は、早くもこの世界の異常さに気付きつつあった。




『どけっ!』

『まだ安静にしていなければならない状態です』

『うるさい! 陛下がお呼びなのだ! スピリットごときが、我々の仕事の邪魔をするなっ!』

 トレーニングを終えた柳也が風呂場へと向かって、部屋には悠人ひとりが残された。

 動けない身体ではすることもなく、ベッドの上で暇を持て余していた悠人は、唐突に聞こえてきた怒声に目を丸くした。

 声は廊下から聞こえ、悠人が寝ている部屋の中にまでドアを突き破らんばかりの声量で入ってくる。

 相変わらず意味は分からなかったが、どうやらただ事ではない気配に何事かと身構えた直後、扉が勢いよく開かれ、数人の男が部屋に飛び込んできた。テレビゲームなどで見かける、ファンタジー世界の兵隊のような恰好をしている。

『貴様っ! 早く起きろ。陛下がお呼びだ』

 ――なっ、なんだ?

 何を言っているかは分からないが、やけに殺気立っていることぐらいは悠人も理解できる。

 悠人は、事態を飲み込めぬまま茫然とその顔を眺めていた。

『起きろと言っている!』

 苛立った口調で、兵士のひとりが悠人の胸倉を掴み、強引にベッドから引き摺り下ろそうとした。

 手荒い兵士の暴行に顔をしかめる悠人。ドアの向こう側で押し問答をしていたらしいメイド服の少女が、悲鳴をあげた。

『お待ちください! その方は、こちらの言葉がわからないのです』

 少女は悲痛な表情で兵士たちに訴えかける。

『だからどうしたというのだ。解らないならば体で解らせてやるまでだ』

『やめてくださいませっ!』

 兵士たちの蛮行を止めようと、手を抑える少女。

 だが次の瞬間、兵士達はあからさまな嫌悪の表情を浮かべるや、大慌てでそれを振りほどいた。

『離せ! 汚らわしい手で触れるな!』

『キャッ!』

『チッ!』

 すかさず、背後から別の兵士が持っていた棒を振り下ろした。

 悠人の目の前で火花が散り、全身が重くなって力が入らなくなる。

 日々過酷な肉体労働で日銭を稼いでいる悠人は、同年代の若者と比べても体力面で秀でている。しかし、弱りきった体に背後からの不意打ちは、容赦なかった。

 たまらず、悠人は声にならない悲鳴を漏らす。

「〜〜ッ!」

 再び兵士はそのまま悠人の胸倉を荒々しく掴むと、無理矢理に起き上がらせた。

 全身に激痛が走り、思わず、悠人の口から呻き声が漏れた。

『あ、あの…まだその方は体が…』

『うるさいと言っているだろう!』

 苛立たしげに兵士達は、強引に悠人をベッドから引っ張り出そうとする。

 ズキリと、体が激しく痛んだ。急に立ち上がらされたショックで、立ち眩みで目の前がチカチカする。

「おい! 何をやっている!?」

 そのとき、ここ三日でずいぶんと聞き慣れてしまった男の声が、悠人の耳膜を打った。悠人にはその声の持ち主が、まるで救いの神のように思えた。

「さくら、ざか……!」

 兵士達が一斉に振り向き、ドアのところで立つ柳也に殺気だった視線を向ける。

『報告にあったもうひとりのエトランジェか…』

 兵士のひとりが、何か言った。柳也にも悠人にも、相変わらず意味は分からない。

 だがやってきたばかりの柳也にも、男達が悠人やメイド服の少女に危害を加え、場に剣呑な空気が漂っていることぐらいは容易に理解できた。

「高嶺、状況、説明できるか?」

 油断なく男達を睨みつけながら、柳也は悠人に訊ねた。

 兵士に胸倉を掴まれたままの状態で、悠人は苦しげに首を横に振った。

『おとなしく我々に従って着いてこい!』

 兵士のひとりが、叫びながら柳也に掴みかかろうと突進する。躊躇いのない行動だ。お世辞にも俊敏には程遠い動きだが、それなりに訓練された者の動きだ。

 悠人達の目の前から、柳也の姿が消えた。

 メイド服の少女だけが、柳也の動きを目で追っていた。

 肩を掴もうと前に伸ばした兵士の両腕を軽やかに避け、柳也はすれ違いざまに相手の鳩尾に向かって鉄拳を叩き込む。確かな手応え。そのまま前進しつつ、あまりの俊敏な動きについていけない兵士の顎に向けて、掌底を放つ。顎の砕ける嫌な音。手加減はしたが、これで二週間はまともに物も食べられないだろう。

 あっという間にふたりを片付けた柳也は、次に悠人の胸倉を掴む兵士に向かって、振り向くと同時に諸手突きを放った。日々十六キロの振棒を振るい続けた直心影流二段剣士の、凶悪なふたつの拳は兵士の胸板を正確に捉え、男の体を少し離れた壁にまで吹き飛ばす。

「〜〜ッ!!」

 先刻、悠人が漏らしたのと同じ悲鳴と呻きを、今度は兵士がこぼすこととなった。いや、明らかに悠人が放ったものよりも大きな痛みによる苦悶が、兵士の口を利けなくさせていた。

 ベッドに倒れこむ悠人を支え、柳也は彼の耳元で囁く。

「…大丈夫か?」

「あ、ああ……」

 悠人の返事に、とりあえず安堵の吐息を漏らす。一見したところ外傷は後頭部を殴られた一箇所のみで、それも致命傷ではない。

 安堵の直後には、友人に、しかも病人に対する男達の非道に対する怒りが湧いてきた。

 柳也が大振りの双眸を烈火のごとく燃やしつつ、兵士達に鋭い刃のような視線を向けた。

 他方、悠人は驚きの眼差しで目の前に広がる光景を見つめていた。佳織の話で隣に立つ友人が剣道か何かをやっていることは知っていたが、まさかこれほど強いとは……南洋の豹のように俊敏で、しなやかで、力強い一連の動作を、悠人はつむじ風が舞ったようにしか見えなかった。

 驚愕の視線を向けるのは、悠人ばかりではない。

 一瞬の間に三人もの仲間を倒されて、残った兵士はあからさまな驚きと、怯えの混じった視線で、柳也を見ていた。その視線が帯に差した大小の刀にいった瞬間、兵士達の表情は驚愕の色を失い、完全な怯えの表情へと変わった。

 嫌な沈黙の対峙が、僅かな数秒、続く。

 肌に纏わりつく嫌な空気を、最初に破ったのはメイド服の少女だった。

『お待ちください!』

 少女は悠人達と兵士の間に割って入る。

『ここは病人のいる部屋です! もう暴力を振るうのはやめてください。…あなた方の仕事は、この方々を王宮へ連れて行くこと。暴力を振るうことではないはずです!』

 少女の、訴えかけるような言葉に、怯える兵士達の間にさらなる動揺が走った。

 にわかにざわめき立つ部屋の空気。ひとりは油断のない視線で、ひとりは茫然とした眼差しで、右も左も分からない地球人二人は、事の成り行きを見守っているしかない。

 少女は悠人達の方を振り向くと、申し訳なさそうな表情で頭を下げた。

『申し訳ございません。黙ってこの方々に従ってはいただけないでしょうか?』

「……なんだ?」

「何、言ってるか分かるか?」

「いや、全然」

 何を言っているかはさっぱり分からない。やはり言葉によるコミュニケーションが取れないというのは、予想以上に深刻な問題だ。

 柳也は相変わらず射抜くような眼差しで少女を、そして立ちすくむ兵士達を見回した。

 メイド服の少女は頭を下げたまま顔を上げようとせず、兵士達はなぜか悔しそうな表情でこちらの様子を窺っている。恐怖に支配されたその表情にはもはや殺気だった様子はなく、柳也に挑んでくる素振りもない。

 とりあえず身の安全だけは確保されたことを理解した柳也は、握った拳を解いた。

 しかし、腰の二刀はいつでも抜けるよう、左手を鞘に添えておく。

「この子が謝罪しているのは明らかだが……」

「それなら、何でこいつらは立ち去らないんだよ?」

「知るか。…そもそも、何でこいつらはここに来たんだ? なにやら高嶺の胸倉を掴んでいたところにやって来たから、状況がさっぱり掴めん」

 兵士達がこの部屋にやってきた目的。それさえ分かれば、この状況の説明もつくが……。

「胸倉を掴む。後頭部を棍棒で殴る。他に何かされたか?」

「ベッドから引きずり出された」

「引きずり出す……どこかに連れ出そうとしたってことか」

 柳也はひとり合点がいった様子で頷いた。

 ――こいつらは高嶺をベッドから引っ張り出そうとした。つまり、どこかに連れ出そうとしたんだ。そしてやつらのひとりは、俺に掴みかかろうとした。殴りかかるんじゃなく、俺を捕まえようとした。高嶺だけじゃなく、俺もこの部屋から連れ出そうとした……?

 柳也は、鞘に添えた左手をそっと離した。

 彼は自分に抵抗する意志がないことを示すように、両手を挙げて、ホールドアップの姿勢を取った。

 柳也の取ったポーズに、兵士達が目を丸くする。

 ベッドに腰掛ける悠人は怪訝な視線を向けた。

「桜坂……?」

「こいつらはおそらく、俺達をどこかに連れて行こうという腹積もりなんだろう。あの女の子のおかげで、どうにか実力行使は諦めてくれたみたいだけど、まだ連れ出す気は満々みたいだ。統一化された服装に、連携の取れた動き。誰か上に立つ存在に命令されてるんだろうな。

 そして、女の子の方はずっと頭を下げ続けている。これが意味することは、多分、黙ってこいつらに従えってことだろうよ」

「……こいつらにか?」

 悠人は不快感を露わにした眼差しで兵士達を見た。

 柳也はそんな悠人の態度に、これから自分の取ろうとする行動を思い浮かべて苦笑いを浮かべた。

「俺は着いていくつもりだ」

「桜坂!?」

 柳也の発言に、悠人は素っ頓狂な声を出した。

 驚く悠人に構わず、柳也は言葉を紡ぎ出す。

「コミュニケーションが満足に取れない現状を顧みると、下手な行動で相手を刺激するのははなはだ不味い。取り返しのつかない事態になる前に、素直に従っておいた方が良いだろう。…それに、このままこの部屋に留まっていても、有力な情報は得られそうにないしな」

 この三日間で得た情報といえばここが日本ではないことを示す材料と、この世界の文化レベルを推察させるほんの僅かなものだけだ。

「ここでこいつらに逆らってこの館を逃げ出したところで、右も左も分からない状況だ。今後も生きていけるかどうかすら保証はない。そして、その場合においても得られる情報なんざ高が知れているだろうな。いっそ、ここは虎穴に入ってみるとするか…」

 柳也はにっこりと笑いかけた。

 一見すると屈託のない笑顔だが、その裏には自分の大切なものを傷つける相手に対しては容赦のない獣の顔があるのを、悠人は先の攻防で知っていた。

「高嶺はどうする? なんなら、高嶺はこの部屋に残っても……」

「いや、俺も行くよ」

 悠人の返答は素早かった。

 そこには覚悟を決めた少年の顔があった。

「俺もいい加減この部屋にいるのには飽き飽きしていたところさ。俺も行くよ」

「…そうか。……肩、貸そうか?」

「ああ。悪い」

 柳也に支えられながら、悠人はゆっくりとベッドから立ち上がった。

 やがて柳也に支えられたまま悠人もまたホールドアップのポーズを取り、そこでようやく兵士達も二人に抵抗する意志がないことを認めた。

『ありがとうございます』

 少女が顔を上げて言った。その表情には感謝の色があった。

 晴れやかな美人の笑みは、たとえそれがどんな状況であっても心を癒してくれる。

 柳也はなんとなくくすぐったい気持ちで、愛想笑いを浮かべた。

『こ、来い!』

 年長と思われる兵士が言った。その背中には、鳩尾を殴られてそのまま立ち上がる気力すら失って呻く別な兵士が背負われている。

 五体満足な兵士のみが自力で歩き出し、負傷した三人は他の兵士に助けられながら歩き出した。

「それにしても桜坂…お前……実は強かったんだな」

「直心影流を舐めんなよ!」

 軽口を叩きつつ、悠人と柳也は兵士達の背中を追った。



<あとがき>

柳也「眼福、眼福♪」

タハ乱暴「つ、ついに柳也が犯罪に……!」

柳也「おいおい、人聞きの悪いこと言うんじゃねぇよ。俺はべつに風呂場を覗き見したわけでもなけりゃ、アセリアに手を出したわけでもないぜ?」

北斗「うむ。堂々と風呂に入って、美少女と鉢合わせただけだな」

柳也「そして見つめ合う二人は互いに引き寄せられ、いつしか本当の恋に……」

タハ乱暴「目覚めない、目覚めない。……はい、永遠のアセリアAnother EPISODE05、お読みいただきありがとうございました!」

北斗「今回の話からついに柳也達とアセリア達との交流が本格的に始まったな」

タハ乱暴「うむ。今回は前話がスピーディーな内容だったから、ちょっとペースを遅めて、見せ場を次回に設けることにした」

北斗「その代わりにエスペリアや悠人との絡みをじっくりと書いたわけだ」

タハ乱暴「原作においてもエスペリアの存在は、序盤の右も左も分からない頃のエトランジェにとって重要だからな。その出会いから仲良くなっていくまでの過程は、本作でもじっくりゆっくり書くべきと判断した。だから次回以降もエスペリアに関してはじっくりゆっくりいくよ。悠人については…まぁ、原作主人公だし」

柳也「二次創作で原作主人公をないがしろにしちゃかんよなあ」

北斗「そして次回はいよいよお姫様登場か」

柳也「また恋の花咲く話になりそうだぜ」

北斗「貴様はあと何人に惚れれば気が済むんだ……」




うーん、役得だな柳也。
美姫 「ああ、ついに犯罪に手を染めてしまったのね」
おーい。
美姫 「冗談はさておき」
目が本気だったような……。
美姫 「いよいよ本格的に動き出したわね」
さてさて、これからどうなるのかな。
美姫 「次回も待ってますね〜」



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