『ニーベルングの指輪』

 第三夜 神々の黄昏


                             第三幕  終焉

 河に彼女達がいた。あの乙女達がである。
「かつては暗い河の底も明るかった」
「そう、あの黄金によって」
「けれど今は」
「暗いまま」
 こう嘆いているのだった。
「深みにあるあの星はもう」
「私達の元にはない」
 そうして。
「ヴァイアラーーラーーーー」
「ヴァイアラーーラーーーー」
「ライアーーーーー」
 彼女達の叫び声も出す。
「どうか私達に再びあの指輪を」
「あの黄金を」
「どうか私達に」
「ジークフリート」
 この名前も出て来た。
「彼をここに」
「そして指輪を戻してくれるのなら」
「私たちはそれで望みはありません」
「他には」
「あれは」
 ここでヴォークリンデが言ってきた。
「角笛の音が」
「そうね、あれは」
「間違いなく」
「ジークフリートの」
 それだと言うヴォークリンデだった。
「あれこそは」
「そうね」
 ヴェルグンデも言う。
「あの勇士の」
「間違いないわ」
「あれは」
「彼と話がしたいわ」
 フロースヒルデも言った。
「どうすればいいのか」
「まずいな」
 ここでそのジークフリートが述べるのだった。
「アルプに惑わされ獲物の行方を見失ったぞ」
「来たわね、ここに」
「そうね」
「好都合だわ」
「何処にいるのか」
 彼はラインの乙女達に気付かないまま河のところに来た。乙女達はその彼に対してすぐに声をかけたのである。
「ジークフリート」
「どうかここに」
「ここに来て」
「んっ!?」
 ジークフリートもその声を受けて顔を河に向ける。するとだった。
 そこに乙女達がいた。河から顔を出して彼を見てきているのだった。手さえ振って愛想をよくしている感じである。
「何を探しているの?」
「見たところ弓を持っているけれど」
「狩りで獲物をかしら」
「ああ、そうだ」
 その光り輝く弓を手にして述べるジークフリートだった。
「それでなんだが」
「それで獣なのね」
「彼を探してなのね」
「そういうことなの」
「君達は知らないかい?」
 こう乙女達に問うのだった。
「一匹の熊を。君達の友人ならその獣は追わないが」
「一つ聞いていいかしら」
 ヴォークリンデがその彼に言ってきた。
「そのことを」
「そのこととは?」
「その獣を貴方にあげたら御礼はあるかしら」
「御礼か」
「ええ、それは?」
「私は今はまだ獣を一匹も獲っていない」
 こう返すジークフリートだった。
「それで何も持っていないのだが」
「その手の指輪は」
 ヴェルグンデはそれを指し示してきた。
「どうかしら」
「指輪を?」
「そう、それは」
「どうかしら」
「これはだ」
 しかしだった。ジークフリートは乙女達の言葉にまずは眉をしかめさせた。そうしてそのうえで答えるのだった。
「大蛇まで倒したものだが」
「大蛇を」
「それは知ってるわ」
「あの巨人が姿を変えた大蛇ね」
「だからだ」
 また言う彼だった。
「熊一匹の代償としてはだ」
「嫌だというの?」
「それで」
「それにだ」
 ジークフリートはさらに言うのだった。
「これを君達にに与えたら妻も寂しがるだろう」
「あら、奥さんが怖いの」
「そんなに」
「怖くはない」
 それは否定するのだった。
「だが妻を悲しませることはしたくないからだ」
「だからだというの」
「それで」
「やっぱり惜しいのね」
 乙女達はその彼にさらに言うのだった。
「それならそうと言えばいいのに」
「そうよ。わかりやすいのに」
「全く」
 それぞれ言い終えると河の中に入った。ジークフリートはそれを見届けてからふと気が変わってそれで言うのだった。
「私も吝嗇ではない」
 それは自分でも気をつけていることだった。
「それなら。今度出て来たら」
 その指輪を渡すつもりだった。しかしであった。
 乙女達は出て来ない。そうして河の中から声がするのだた。
「勇士よ、その指輪は必ず」
「貴方に災いをもたらすわ」
「だからその時は」
「私達がその呪いから貴方を救いましょう」
「勝手に言っておくことだ」
 ジークフリートは呪いについては戯言と思っていた。
「折角渡そうというのに」
「ジークフリート、気をつけるのよ」
「必ず」
「いいわね」
 こう言うのである。
「大きな不幸から」
「何故ならその指輪は」
「私達が護っていた黄金から作られたもの」
「ラインの黄金から」
「ラインの黄金!?」
 ジークフリートはそれを聞いて首を傾げさせた。
「それからか」
「それから恥辱の中で指輪を作った男」
「その男の呪いが」
「貴方にも」
「私にもだというのだ」
「そうだ」
 まさにその通りだというのだ。
「貴方に殺された大蛇の様に」
「その通り」
「全く同じ様に」
「何かそれを聞いていると」
 またジークフリートの気が変わったのだった。
「指輪を渡そうとは思えなくなったな」
「若し呪いを受けたくないのなら」
「滅びたくないのなら」
「その指輪を」
 乙女達はさらに話していく。
「ライン河へ」
「私達の河の中へ」
「その指輪を」
「私に脅しは効かない」
 恐れを知らないジークフリートだからこその言葉だった。
「そんなものはだ」
「これは本当のことよ」
「呪いのことは」
「私達は今は嘘を言っていないわ」
 河の中からまた話すのだった。
「だから指輪を」
「それを」
「私の剣はあらゆるものを断ち切る」
 だがジークフリートはその河の中の彼女達に告げるのだった。
「どんな呪いであってもノルンの糸も」
「運命もまた」
「断ち切るというのね」
「その剣で」
「そうだ」
 まさしくその通りだというのである。
「このノートゥングでだ」
「その剣で」
「全てを」
「かつてあの大蛇も私にそのことを告げた」 
 そのことを忘れたことはなかった。彼にしてもだ。
「この指輪を手に入れれば世界も手に入れられるという」
「それも知っているのなら」
「どうしてまだ」
「手放さないというの?」
「恋の喜びさえあればいい」
 それこそがジークフリートの望むものであるのだ。
「私は貴女達にこれを返してもよかった」
「それなら是非すぐに」
「今その指輪を」
「私達に」
「私は脅しは嫌いだ」
 これはジークフリートの心だった。彼はそれを嫌っているのである。
「そんなことを言うのなら私は返しはしない」
「愚かなこと」
「それで貴方も」
「破滅するというのね」
 乙女達はここで遂に彼を諦めた。
「わかっているようでわかっていない」
「何もかも」
「誓いさえも」
「誓い?馬鹿な」
 ジークフリートはその言葉には眉を顰めさせた。
「私は誓いは破らない」
「誓いをしながらそれを守らない」
「神秘の文字を知りながら解こうとしない」
「何もわかってはいない」
 こう言っていく乙女達だった。
「いと高き宝を持ちながら」
「それを捨てたのに気付かない」
「呪いは真実だというのに」
 そしてさらに言ってきた。
「さようならジークフリート」
「今日のうちにも全てが終わる」
「貴方だけでなく」
「私ではなく」
 ジークフリートにはさらにわからないことだった。
「誰が滅ぶというのか」
「彼女がその指輪を受け継ぎ」
「そして私達のところに」
「いよいよ」
 こう言っていくのだった。そうして。
「ヴァイアラーーラーーーー」
「ヴァイアラーーラーーーー」
「ライアーーーー」
 またその声をあげて河の底に消えていく。そうしてだった。
 ジークフリートは一人になった。そのうえで河から顔を離して言うのだった。
「水の中でも陸の上でも女達は同じなのか」
 あのブリュンヒルテのことも同時に考えるのだった。
「お世辞を信じない時は脅し文句を並べ反抗すると罵られる」
 彼女達とブリュンヒルテについて同時に考えて続けていた。
「しかし」
 だがここで別の女のことも考えて呟く。
「グートルーネは。彼女は裏切れない」
 こう言うのだった。そうしてその場を去ろうとする。ここでハーゲンの声が遠くから聞こえてきたのである。
「ホイホーーーー!」
「ハーゲンの声だな」
「ホイホーーー!」
「ホホーーーー!」
 同時にギービヒの家臣達の声も聞こえてきたのだった。ジークフリートもそれに応えて角笛を吹いてから言うのであった。
「ここだ、私はここにいるぞ」
「そうか、そこだったのか」
「わかった」
「ここはいい場所だ」
 こうやって来た彼等に告げる。ハーゲン達だけでなくグンターも共にいる。ジークフリートはその彼等に対して告げていく。
「涼しく心地よい場所だ」
「そうか、それならばだ」
 ハーゲンが彼のところに来て応える。彼が先頭でありその後ろにグンターと他の家臣達が来ている。
 彼等はジークフリートのところまで来てだ。また言うのだった。
「ここで休むとしよう」
「そして食事を」
「まずは飲もう」
「酒を」
 言いながら酒も出してきた。そうしてまずはそれを飲み一息つくのだった。そのうえでハーゲンがジークフリートに問うてきた。
「それでだ」
「何だ?」
「貴方は何の獲物を得たのか」
 そのことを彼に問うのである。
「一体何を」
「残念だが」
 ジークフリートは申し訳のない顔で彼に応えるしかなかった。
「私は今日はまだ」
「獲っていないのか」
「申し訳ない」
「また何故だ?」
 ハーゲンは彼にさらに問うた。
「獣より速く駆けることのできる貴方が」
「水鳥達に出会った」
 乙女達をこう表現するのだった。
「そして彼女達をだ」
「捕らえようとしたのか」
「しかし彼女達の言葉を聞いて」
「そういえばだ」
 グンターが彼の今の言葉を聞いてあることを言ってきた。
「君は鳥や動物の言葉がわかるのだったな」
「そうだ、わかる」
 それはその通りだという。
「私はだ」
「そうだったな、それは」
「ところでだ」
 ここで話を変えてきたジークフリートだった。
「いいか?」
「どうしたのだ?」
「喉が渇いたのだが」
 それだというのである。
「それで水か酒を欲しいのだが」
「では酒だな」
「済まない」
 こう言ってである。ハーゲンが酒を持って来るのを見届けた。彼はすぐに杯の中に入っているその葡萄酒を出してきたのであった。
「葡萄酒でいいな」
「有り難う」
 こう彼に礼を述べる。
「それでは早速飲ませてもらう」
「それでだ」
 ハーゲンはここで親しげに彼に声をかけるのだった。
「聞きたいことがあるのだが」
「私にか」
「そうだ。君の過去のことだ」
 それをだというのだ。
「聞きたいのだが」
「そうか。それならだ」
「話してくれるか」
「喜んで」
 微笑んでハーゲンに応えてだった。そうして話しはじめた。
 まずはだ。森の中のことだった。
「かつてミーメという男がいた」
「ニーベルング族のか」
「そうだ、あの一族のだ」
 ここでジークフリートの顔が歪む。
「嫌な奴だった」
「そこまでか」
「小ずるい奴だった」
 彼にしてみればそうだったのだ。
「けしからん下心で私を育て」
「そして?」
「どうするつもりだったのか」
「私を森の中で宝を護っている大蛇に向かわせるつもりだったのだ」
 このことも話すのだった。
「そのうえであらゆることを教えてくれた」
「とはいっても」
「恩には感じていないのだな」
「そうだ、感じたことなぞ一度もない」
 そのことも家臣達に話した。
「大嫌いだった」
「そうか、やはりな」
「それは」
「その通りだ。感じたことなぞない」
 また言うジークフリートだった。
「全くだ」
「そしてだ」
 ジークフリートの言葉は続く。
「弟子は彼のできなかったことを成し遂げたのだ」
「成し遂げたのか」
「それは何なのだ?」
「砕かれた鉄の破片から剣を鍛えあげたのだ」
 ここでその剣ノートゥングを誇らしげに出してみせた。
「父の武器を私が鍛えなおしそのうえで私が大蛇を倒した」
「君一人でか」
「そうだ、一人でだ」
 まさにそうだと話すのであった。
「あのファフナーをだ」
「一人で」
「まさに大蛇を」
「そして」
 ここでだった。ジークフリートの言葉の響きが変わった。
「ここからの話はよく聞いて欲しい」
「というと」
「どういうことなのだ?」
「私はその大蛇の血を浴びたのだ」
 話されたのはこのことだった。
「それを浴びあまりの熱さに私の指は火傷をした」
「そこまで熱い血なのか」
「大蛇の血は」
「それを舐めるとだった」
 話はそこが最も重要なのだった。
「小鳥達にさえずりが聞こえるようになった」
「それでか」
「大蛇の血を舐めて」
「その通りだ。木の上の小鳥達がさえずっていた」
 それから話す言葉こそがだった。
「ニーベルングの宝はいよいよジークフリートのものとなると」
「そうさえずっていたのか」
「小鳥達が」
「その通りだ。そして」
 さらに話していく。
「隠れ兜が見つかればいい。最後に指輪も」
「指輪!?」
「指輪を」
「小鳥達は言っていた」
 そしてだった。
「指輪は私をこの世界の支配者にしてくれると」
「それで指輪と兜を手に入れたのだな」
「そうだ」
 まさしくその通りだとハーゲンに答える・
「そうして兜と指輪を手に入れ」
「それでか」
「その二つを」
「そしてだ」
 さらに話す彼だった。
「ミーメを信じてはいけない。私の命を狙っていると」
「その言葉も真実だったのだな」
「その通りだった」
 言葉に忌々しげなものが戻っていた。
「あの男は自分からそれを曝け出した。だから私は斬ったのだ」
「ミーメを」
「それによってか」
「そして小鳥はさらに言った」
「何と」
「それで」
 家臣達はその話を待ち遠しくなっていた。話をさらにせがむのだった。
「言ったのですか?」
「どうしたさえずりを」
「後は山に行くべきだと」
「山に」
「そこにですか」
「そうだ、山にだ」 
 まさにそこにだというのである。
「炎に囲まれた中に」
「炎だと!?」
 それを聞いたグンターが眉をしかめさせた。
「炎といえばまさか」
「ローゲの炎だった」
 だがジークフリートはグンターのそれにもハーゲンの目が光り彼の背に密かに近付いていることにも気付いていなかった。
 そうしてだった。その話をさらに聞くのだった。誰もが。
「その炎を乗り越えて」
「乗り越えて」
「そうして?」
「その中に入れば」 
 そうなればというのである。
「一人の乙女がいると」
「炎の中の乙女か」
 それを聞くとさらに動揺するグンターだった。
「それこそはまさに」
「そう、ブリュンヒルテ」
 この名前も出るのだった。
「彼女が私のものになると」
「そしてだ」
 周りはここまで聞いて唖然となるがハーゲンは後ろから彼に問うた。当然その右手には槍が存在している。銀色の輝きを放ってだ。
「その小鳥の忠告を聞いたか」
「その通りだ」
 こう答えてさらにだった。
「私はその山に向かい」
「まさか」
「そうして」
「燃え盛る炎を越えてそこで彼女に会った」
「間違いない」
 グンターはここまで聞いて確信した。
「彼女こそは」
「その眠る美女は武装していた。しかし兜を脱がせるとだ」
 その名をまた出すのだった。
「ブリュンヒルテがいた。彼女は私の接吻で目を覚ました」
「全ては事実なのか」
 グンターは呆然となっていた。
「それでは」
「そうして私達は夫婦となった」
 ここで木立の中から烏が来た。二羽である。それがジークフリートの頭上で輪を描きそのうえで去るのだった。
 ハーゲンはその烏達を見届けてから言った。
「烏達が告げた」
「烏が?」
「何を」
「ヴォータンの烏達がだ」
 こう家臣達に言うのである。
「私に裁きを与えよとだ!」
 その言葉と共にジークフリートの背に槍を突き刺した。一瞬だった。
 ジークフリートはそれをかわすことができなかった。そのまま受けてしまった。身体をのけぞらせ硬直する。
 ハーゲンが槍を抜くとそこから鮮血がほとぼしり出る。誰もがそれを見て驚いて声をあげた。
「ハーゲン!」
「何故だ!」
「何故彼を!」
 グンターは止めようとしたが間に合わなかった。全ては一瞬だった。
「本当にやったのか」
「貴方の為だ」
 こう嘯くのだった。
「全ては」
「しかしだ」
「全ては終わった」
 話はこれで終わらせた。そしてジークフリートは。
 彼は動きを止めていた。だがやがて口を開いて言うのだった。
「ブリュンヒルテ」
 その名前を出すのだった。
「聖なる花嫁よ。目覚めよ、瞳を開けよ」
「あの方のことを」
「また」
 その死の間際の中の言葉を聞きながら皆言う。
「では本当にか」
「愛しているのか」
「誰が御前をその恐ろしいまどろみの中へやったのか」
「目覚めさせた時のことだな」
 それはグンターもわかった。
「その時のことか」
「グンター様」
「ここは」
「最後まで言わせてやるのだ」
 家臣達は止めをというのだが彼はそれを許さなかった。
「決してだ。いいな」
「ではこのまま」
「いいのですか」
「それが彼の望みだ」
 読み取って。そうしてだった。
「だからだ。いいな」
「わかりました」
「それでは」
「私は来た」
 また言う彼だった。
「そして御前をこの口付けで目覚めさせる」
 言葉は続く。
「そして」
「そして?」
「今度は何と」
「新妻の為にその戒めを断ち切り御前の微笑を受け」
 その時のことが彼の瞼に浮かんでいた。
「瞳よ永遠に開け、息吹は快く、そのブリュンヒルテが私に」
 ここまで言って倒れ伏した。グンターはそれを見届けてからだ。
 周りの者達に顔を向けて。厳かに告げた。
「いいな」
「はい」
「全ては終わりました」
「宮殿に戻る」
 こうしてだった。彼等はグンターに命じられるままジークフリートを運んでいくのだった。ハーゲンは今は沈黙していた。その顔には笑みもなくただ黙っているだけであった。
 ギービヒ家の宮殿の庭。そこにグートルーネが出ていた。
 夜になっているその庭の中に出た彼女にだ。宮殿の女達が声をかけてきた。
「グートルーネ様」
「どうして庭に」
「何かあったのですか?」
「胸騒ぎがするの」
 だからだというのだ。その暗鬱な顔でだ。
「何かが起きそうで」
「何かとは?」
「一体何が」
「あの人の身に何が」
 こう言うのである。
「何かが起こったのかしら。不吉な気がするの」
「それは気のせいです」
「御気になさらずに」
 侍女達はそのグートルーネを宥めるのだった。
「ですからお屋敷の中に戻られて」
「それであの方を待ちましょう」
「嫌な夢を見たし」
 しかしグートルーネはまだ顔を曇らせている。
「だから」
「夢とは」
「どんな夢ですか?」
「ブリュンヒルテ様の笑い声が聞こえて」
 こう話すのだった。
「あの方がそうして火の中に」
「あの方がですか」
「火の中に」
「そうです。あの夢は一体」
「ホイホーーー!ホイホーーー!」
 ここでハーゲンの声がしたのだった。
「起きろ、誰もが起きるのだ」
「あの声は」
「ハーゲン様の」
「燈火を掲げよ、明るく火を焚くのだ」
 ハーゲンの声が宮殿に次第に近付いてきていた。
「狩りの獲物を運んできたぞ」
「帰って来ました」
「あの方も」
「いえ」
 しかしだった。グートルーネはここでも不吉な顔のままで言うのだった。「角笛が聴こえなかったわ」
「角笛?」
「それがですか」
「そうです。それが聴こえませんでした」
 そうだというのである。庭に宮殿に残っている家臣達や女達も出て来た。そのうえで帰って来た彼等を迎えるのだった。
「何故なの?それは」
「それは」
「けれどあの方は」
「グートルーネよ」
 ハーゲンが来た。そのうえで彼女に告げるのだった。
「ジークフリートを迎えるのだ」
「あの方をですか」
「そうだ、勇士が帰って来たのだぞ」
「けれどハーゲン」
 グートルーネは曇った顔のままハーゲンに言葉を返した。
「ジークフリートの角笛は」
「青ざめた勇士はもう角笛を吹かない」
「えっ!?」
 それを聞いてであった。グートルーネの顔はさらに曇る。そうして彼に問うのだった。
「では後ろのあの人達は何を」
 グートルーネは兄と家臣達が沈痛な顔で何かを運んで来るのを見ながらハーゲンに問うた。
「何を運んで来るというのです?」
「猪に後ろからやられたのだ」
 ハーゲンはそういうことにしたのだった。
「それによって御前の夫は」
「そんな、あの方が・・・・・・」
「グートルーネ」
 グンターは妹に優しい声で告げてきた。
「落ち着くのだ、ここは」
「そんな、そんな筈がないわ」
 グートルーネはすぐに事情を察した。これは勘で、である。
「あの方がそんな。猪に背を向ける筈もないし」
「それはだ」
「近付いてきても振り向ける。それなら」
 ここまで考えてである。答えを出したのである。
「貴方達があの方を」
「私ではない」
 グンターは己の罪から逃れた。そうせねば耐えられなかったのだ。
「その言葉を私に向かって言うな」
「ではまさか」
「そうだ、ハーゲンだ」
 ハーゲンを指差して言うのだった。
「彼こそその呪わしい猪だ」
「ハーゲンこそが」
「そうだ、この男が彼をだ」
「それで私を恨むというのか?」
「不安と不幸が永遠に御前を捉えるのだ」
「そう言うがだ」
 ハーゲンは反撃に出た。
「あの男は偽の誓いをしたのだ」
「それはそうだが」
「そして私の槍に誓っていた」
 ハーゲンは自分のその槍を前に突き出して語る。
「その誓いの通りにしただけだ」
「それで私の夫を」
「そしてだ」
 ハーゲンはさらに言ってきた。
「神聖なる獲物の権利を手に入れたのだ」
「神聖な獲物だと?」
「そうだ」
 まさにその通りだというのである。こうグンターに返すのだった。
「ジークフリートの手の中にあるその指輪を貰おう」
「それは違う」
 グンターもここでは強気になった。毅然として彼に言い返す。
「その指輪は御前のものではない」
「では誰のものだというのだ」
「指輪はグートルーネのものだ」
 そうだというのである。
「彼の妻だったグートルーネのものだ」
「諸君に問う」
 ハーゲンは周囲に顔を見回してから彼等に問うた。
「指輪は私のものだな」
「いや、それは」
「どうなのか」 
 しかしであった。彼等はその言葉には目を伏せた。賛成できないというのだ。
「やはりその指輪は」
「グートルーネのものではないのか」
「彼の妻だった」
「確かに」
「くっ、それではだ」
 ハーゲンは一歩前に出た。そのうえでジークフリートに向かおうとする。その前にだ。
 グンターが出て来てだった。彼の前に立ちはだかって言うのだ。
「グートルーネのものに手を触れるというのか」
「だとしたらどうするのだ?」
「それは許さん」
 ここで彼は剣を抜いた。ハーゲンは槍を手にしたままだ。
「アルプの子よ、下がれ!」
「黙れ!」
 しかしここでハーゲンは叫ぶ。
「そのアルプのものをアルプの子が要求するのだ!」
「何だと!?」
「指輪は私のものだ!」
 グンターが指輪のことを聞いて驚いているところに槍を突き出した。グンターは家臣達が二人の間に入るより先に胸を貫かれた。そうしてその場に背中から倒れてしまった。
「グンター様!」
「何ということを!」
「指輪だ!」
 ハーゲンは庭の中央に置かれているジークフリートの亡骸に駆け寄りその指輪を奪おうとする。するとそのジークフリートの亡骸がだ。
 不意に指輪をしている左手を上に突き出してきたのだ。仰向けになっている彼の亡骸がである。
「なっ!?」
「亡骸が!?」
「何故」
「生きている、いや違う」
 ハーゲンはそのジークフリートの亡骸の前で立ち止まってしまった。そのうえで言うのだった。
「死んでいる。しかしこれは」
「全ては終わろうとしています」
 そうしてだった。庭にだ。今ブリュンヒルテが出て来たのだ。その姿はこれまでとは違っていた。神であることを取り戻した様に神々しいものだった。
 その彼女が来てだ。そうして告げるのだった。
「貴方達の嘆きも今は何の意味もありません。私は今復讐の為にここに来ました」
「復讐に」
「何の復讐に」
「貴方達全てに裏切られたその復讐にです」
 こう言いながらだ。ジークフリートの亡骸の枕元に来たのである。そしてまた言うのであった。
「気高い英雄の死に相応しい嘆きの声は私の耳には聞こえません」
「貴女が来たことで」
 グートルーネは恨みに満ちた目で彼女を見ながら責めてきた。
「あの方も兄上も」
「哀れな女よ、黙るのです」
 しかしブリュンヒルテは彼女を一瞥してこう言うだけだった。最早彼女のことなぞ何でもなかった。今のブリュンヒルテにはだ。
「貴女は彼の妻ではありませんでした」
「では私は」
「ジークフリートの妻は私」
 このことをはっきりと告げた。
「ジークフリートが貴女に会う前に私に永遠の契りを誓っていたのだか
「では私は本当に」
 それを聞いてだった。グートルーネはその場に崩れ落ちてしまった。
 家の女達が彼女を何とか立たせようとする。しかしだった。
「私は全て踊らされていただけ。ハーゲンによって」
 そのまま崩れ落ち動かなくなってしまった。ブリュンヒルテはもう彼女を見ておらず厳かに告げるのだった。その厳粛な面持ちで。
「ラインの岸辺に大いなる薪を積み上げるのです」
「薪を」
「それをですか」
「そうです。そして勇士の亡骸をそこに」
 誰もが言われるままだった。ジークフリートの亡骸をそこに置いて薪を積んでいく。ブリュンヒルテはそれを見ながらさらに命じるのだった。
「グラーネを」
「グラーネ?」
「彼の馬です」
 それをだというのだ。
「かつては私が乗っていたその馬を」
「ではその馬に乗られて」
「ここを去られるのですか」
「そう、この世を」
 この場ではなかった。この世である。ハーゲンはこの間身動き一つできなかった。完全にブリュンヒルテの神性の前に人形となっていた。
 そうしてだった。ブリュンヒルテはさらに言うのであった。
「私はその馬で彼の後を追い勇士のいと聖なる誉れを分かちたいのです」
「それが貴女の望みなのですか」
「そうです。そして」
 言葉は続く。
「彼の光は日光の様に私に明るく輝きます」
 今度はジークフリートを見て言っていた。
「私を裏切った無二の清き人、私を欺き友に信義を尽くした人」
 ジークフリートのことに他ならなかった。今彼は薪の中に横たえられている。そして薪はその周りに次々に積まれていっている。
 そうしてだった。ブリュンヒルテはそれをさらに見ながらだった。
「このうえなき貞節を尽くした信頼すべき妻を剣で隔てた人。貴方以上に誓いを重んじた者はなく忠実に約束を守った者はなく」
 紛れもなくジークフリートのことだった。
「貴方以上に純真に愛した人もなかった。ですが」
 薪の山の中のジークフリートを見ながらさらに言っていく。
「貴方以上に全ての誓い、約束、誠ある愛を偽った人もいない」 
 だがそれは今は愛しみと共の言葉だった。
「どうしてそうなったのか。神聖な誓いを守るべき神々よ」
 今度は上を見上げての言葉だった。ヴァルハラをだ。
「貴方達のまなざしを私の限りなき苦しみに注ぎその永劫の罪を悟って下さい」
 彼等を責める言葉である。
「ヴォータン、我が嘆きを聞いて下さい」
「ヴォータンに」
「それを」
「貴方が切に望んだ彼の最も勇敢な行いを彼が行ったというのに」
 ヴォータンを見上げながら言っていく。
「貴方は自身の陥るべき呪いに彼を陥れたのです」 
 次の言葉は。
「一人の女が知を得る為に無二の清き人は裏切りを行わなければならなかった、貴方が何を欲しているのか私が何を知っているのかとお尋ねですか」
 ヴォータンを責め続ける。
「私は全てを知っています。私は全ての束縛から放たれたのです、そして貴方の烏の羽ばたきも聞こえました」
 ヴォータンの僕であるその烏だ。
「貴方達が待ち焦がれている便りを彼等に託します。神々よ」
 ジークフリートを覆うその薪に手をかざすとであった。その中から指輪が出て来た。それを自身の手に持ってまた言った。
「さあ私の相続すべきものを私自身のものとした」
 そうしてである。
「この呪わしく恐ろしい指輪を手にしたがすぐに手放しましょう」
「馬鹿な。その指輪は」
 ハーゲンはそれを聞いて顔を青くさせた。
「私の」
「ラインの乙女達よ、貴女達が熱望しているそれを返しましょう。私の灰の中からそれを持って行くのです、私を燃やす火、ローゲが」
 その神が遂に出て来た。
「彼が指輪の呪いを解いてくれます。貴女達はその指輪を溶かし輝かしい黄金に戻し清らかに守るのです」
 そうせよと。彼女達にも告げた。
「奪われた故に災いをもたらしたその指輪を」
 夜の空に烏を見た。その彼等にも言うのであった。
「烏達よ、全て伝えるのです。全てを」
 さらに言っていく。
「今全てが終わると。炎の神ローゲ、私の古い友人よ」
 ローゲが長い間己を守っており実質的にジークフリートを導いてくれたことへの感謝への言葉だ。それを話しながらだった。
「私は今誇らかなるヴァルハラを貴方に任せます。そして私自身も」
 彼女はその手に火を持っていた。そのうえで薪の前に進み出てそこにそれを放ち。烏達を見ながら火が自らを赤く照らすのを感じていた。
 そこにグラーネが連れられてきた。彼女をいとしげに撫でてからであった。
「グラーネ、今から私達は私達の行くべき場所に行きます」
 こう告げるのである。
「これから永遠に。貴女も愛したあの人の場所へ」
 ジークフリートは最早炎の中に包まれている。その炎を見てである。
「ローゲが私達を導いてくれます。私達を永遠の契りに」
 最早それまでだった。グラーネに乗り彼女をいななかせて。
「グラーネ、最後の挨拶を」
 そして彼女もまた。
「ジークフリート、見て下さい。貴方の妻が歓喜に溢れて今挨拶をするのです!」
 そのままグラーネを炎の中に飛び込ませた。彼女もその中に消えてしまった。炎は天に伸びていく。
 そこに洪水が来て人々はそれから逃げる。その中にあの乙女達がいた。
 そしてその手に指輪が渡ろうとする。ハーゲンはそれを見て咄嗟に動き叫んだ。
「指輪に近付くな!」
 しかしだった。彼は乙女達に水の奥に引き込まれて消えてしまった。青い世界の中で今乙女達はその指輪を手にし永遠の喜びを味わう。指輪は輝き続け静かにラインの中へと消えていく。誰も辿り着くことのできないその中にだ。
 炎はさらにあがっていく。そしてまずはヴァルハラに向かわんと天を駆けるアルベリヒの軍勢に襲い掛かり彼等を全て焼き尽くしてしまった。
 それからヴァルハラも包み込んだ。神々はそこから逃げようとするがヴォータンは己の玉座から立ち上がり両手を掲げそれを受けた。ヴァルハラもまた炎の中に消え去った。
 ローゲは全てを焼き尽くすとそのまま何処かに去ってしまった。指輪をその手に戻した乙女達は青い水の中で輪舞を舞いながらその奥へ消えていく。残ったのは人間達だった。神々は去り彼等の時代がはじまろうとしていた。その彼等の時代がだ。


神々の黄昏   完


舞台祝典劇ニーベルングの指輪   完


                          2010・2・3



ハーゲンは色々と策を巡らせたけれど、結局指輪は手に入れられなかったか。
美姫 「無事にライン川に戻ったみたいね」
ジークフリートも倒れ、神々も滅びたという終わりだったんだ。
美姫 「神々が滅びたと言う結末だけは知っていたけれど、こういうお話だったのね」
だな。投稿ありがとうございました。
美姫 「ありがとうございました〜」



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