『ニーベルングの指輪』

 第一夜 ワルキューレ


                              第二幕  混迷

 ヴァルハラの一際高いビルの屋上に彼はいた。その白いスーツで槍を持って。そのうえで呼んでいた。
「我が娘よ!ブリュンヒルテよ!」
 こう呼び掛けていた。右目のないその顔で。
「今こそ馬の手綱を引き締めるのだ」
「御父様!」
 その時天に乙女が現われた。白馬に乗り白い羽根の兜を被っている。兜からは豊かな金髪が溢れて出ており輝く光を放っている。白い顔に凛とした美貌をみせている。目は青くそれはまさに蒼星だった。黒い皮の服とコート、ズボンもブーツも黒だ。黒い服に身を包み右手には槍、左には水晶を思わせる透き通った楯を持っている。その武装した乙女が今その男の下に降り立ち高らかに叫んでみせたのであった。
「ホヨトーーーホーーーー!ホヨトーーーホーーーー!」
「やがて激しい戦いがはじまる」
 その男ヴォータンはその乙女、ブリュンヒルテにさらに告げる。
「戦場に赴くのだ」
「勝利をもたらすその相手は」
「ヴェルズングだ」
 彼等だというのである。
「フンディングではない」
「彼はヴァルハラには」
「来る資格がない」
 一言で言い捨ててしまった。
「それではすぐに行くのだ」
「はい。そして父上」
 今度はブリュンヒルテが楽しそうに笑いながら彼に告げてきた。
「父上も戦の用意を」
「私もだというのか」
「はい。激しい嵐に向かわれるのです」
 そう彼に告げるのだった。
「奥方がこちらに向かって来られています」
「あれがか」
 妻と聞いてその顔を不機嫌なものにさせるヴォータンだった。
「あれが来たのか」
「今牡羊の馬車に乗り慌しく」
「忌々しいことだ」
 ヴォータンは苦い顔で言い捨てた。
「全くもって」
「では私はこれで」 
 ブリュンヒルテは敬礼をしてみせた。優雅な敬礼であった。
「勇敢な男達の戦場に向かいます」
「行くがいい」
 ヴォータンはこの言葉で娘の敬礼に応えた。
「それではな」
「はい。ホヨトーーーホーーーー!」
 またここで叫ぶのだった。
「ハイアハーーーーー!ハイアハーーーー!」
 こう叫びながら馬に乗り天高く駆け去っていく。のこったヴォータンの後ろに今そのフリッカが来たのだった。
「何の用だ」
「何の用かではありません」 
 フリッカはいきなり不吉な顔で夫に告げた。
「私はある願いを聞き入れました」
「人間達のか」
「そうです。フンディングの名は御存知ですね」
「取るに足らない男だ」
 ヴォータンにとってみればまさにそうだった。
「あの男がどうした」
「彼は私に復讐を願ったのです」
「復讐をか」
「そうです」
 その不吉な顔で語るのだった。
「私は夫婦の徳を守るのが務めです」
「それはもう知っている」
 何を今更といった言葉だった。
「そしてどうしたのだ」
「厚かましく夫を辱めるその破廉恥な行いと罰すると」
 フリッカは言うのである。
「私は彼に強く約束しました」
「春が愛を以って結びつけた二人が何をしたというのだ」
 己の左斜め後ろに来た妻に対して告げた。
「愛の魔力が二人を魅了した。愛の力がしたことを誰が私に償うのだ」
「よくもそんなことが言えますね」
 今の夫の言葉にきっとした顔になった。
「夫婦の聖なる誓いが破られたこの私の嘆きは」
「どうしたというのだ」
「御存知なにのですか」
「愛なくして結ばれたことではないか」 
 ヴォータンはフンディングとジークリンデの仲をこう言い捨てた。
「それでどうだというのだ」
「どうだと?」
「わしはそれを神聖だとは思わない」
 しれっとして言ってみせる。
「そんなものが何だというのだ」
「あの二人は兄妹です」
 フリッカの忌々しげな言葉はさらに続く。
「兄が妹を抱くなど。その様なことが何時あったのですか」
「それは今だ」
 ヴォータンはここでもしれっとしたものだった。
「今起こったではないか」
「よくそんなことが言えますね」
「御前が祝福すればそれでいい」 
 ヴォータンの言葉は続く。
「それだけでだ。御前ががな」
「貴方がもうけられたあのヴェルズングの一族」
 フリッカの言葉はさらに忌々しげなものになる。
「人間の女との間にもうけられたあの一族だけでなく」
「あの者達だけでなくか」
「エルダとの間にもうけられたあの娘達も」
 彼女達もだというのだ。
「ワルキューレ。特にあの娘」
「ブリュンヒルテか」
「あの娘達に私への忠誠を誓わせましたが」
「当然のことだ」
「貴方の数多い私への裏切りの結果を」
 夫の不実をなじり批判する言葉だった。
「それを貴方は祝福しろと仰るのですか」
「今は英雄が必要なのだ」
「英雄が?」
「そうだ」
 こうその妻に返すのだった。
「神の保護から離れその掟に捉われない人間がだ」
「人間なのですか、それは」
「神々が働きかける必要のない人間がだ」
 それが必要だというのである。
「我々が為し得ないことができるのだ」
「その様な言葉」
 フリッカは夫のその言葉を打ち消した。
「何の意味があるのですか」
「何の意味かとは」
「そうです」 
 こう夫に言い返すのだった。
「神々が為し得ないことを人がすると」
「そうだ」
「人間の英雄がですか」
「そう言っているのだ」
「神々の恩寵があってこその英雄ではありませんか」
 フリッカは神として言い返すのだった。
「それでどうしてその様なことを」
「御前は人間を認めないのか」
「そうではありません」 
 彼女にはそんなつもりはなかった。あくまで。
「誰が人間達に命を与え力を与えたのか」
「我々だ」
「そうです、特に貴方の保護と鼓舞によりです」
 それによりだというのだ。
「女神である私の前で貴方が褒め称える人間達も貴方の加護によって英雄になれるのではありませんか」
「それはその通りだ」
「では何故」
 フリッカにはさらにわからないことだった。
「その様なことを仰るのですか。少なくとも」
「何だというのだ?」
「ヴェルズングの者達は許してはなりません」
 これは譲らないフリッカだった。
「決して」
「決してか」
「そうです。何があろうとも」
 フリッカはあくまで言うのである。
「彼等の中に貴方達を見ます」
「私をか」
「あの様な無道な振る舞いはです」
「彼は激しい苦難の中で育った」
 ジークムントのことである。
「わしの保護なぞ受けたことはないぞ」
「それならです」
 フリッカも引き下がらない。
「今日も保護をすることはお止め下さい」
「何だと?」
「貴方が与えたあの剣」
「ノートゥングか」
「あの剣を取り上げるのです」
「馬鹿を言え」
 彼にとってはそんなことは聞き入れられないことだった。
「あれは彼が危急に際して自ら得たものだ」
「その危急の運命も剣も貴方が作ったものではありませんか」
 妻の目は誤魔化せなかった。
「私の目は誤魔化せません」
「見ているというのか」
「そうです。貴方の謀もまた」
 見ているというのである。
「自由を失った男は高貴な男とは争いません」
「高貴な男とはか」
「そうです。罪人を罰するのは意志の自由な人です」
 それだというのだ。
「貴方の力に逆らって戦うことは私もします」
「御前もだというのか」
「ですがジークムントは奴隷として滅ぼすばかりです」
 なおも言うのだった。
「貴方を主人としてその心のまま動く者にどうして私が従うのですか」
「従えとは言っていない」
「いえ、言っています」
 二人の対立はさらに深いものになっていく。そして激しく。
「最も卑しい者達の辱めを許しあつかましい者達を増長させ自由な人を嘲笑し」
「そんなことはないぞ」
「しています。だからこそ私は要求します」
「何をだ」
「ヴェルズングから手を引くことを」
 それこそが彼女の要求であった、
「あの者達からです」
「彼に自らの道を歩かせるのだ」
「では仇討ちをしようとする者が彼に戦いを挑んだ時に」
「どうせよというのだ」
「味方をされないことです」
 言葉に棘が加わっていた。
「決して」
「では誓おう」
 忌々しげな顔と声ではあった。しかしそれでも言わざるを得なかった。
「それをな」
「私の目を見て下さい」
 顔を背けようとするヴォータンに告げてきた。
「欺瞞を考えずに。ワルキューレ達も彼を守らないことを」
「ワルキューレ達は自由に動く」
「それも偽りです」
 それもわかっているフリッカだった。
「彼女達は貴方の忠実な娘達です」
「くっ・・・・・・」
「ジークムントの勝利を禁じて下さい」
「彼が敗れる運命にすることはできない」
 ヴォータンはそれだけは退くつもりはなかった。劣勢だが受けていた。
「彼はわしの剣を見出したからだ」
「では剣から魔力を取り上げるのです」
「魔力をだと」
「あの剣にはルーン文字が描かれていますね」
「そこまで知っていたのか」
「勿論です」
 フリッカとて愚かではない。そういうことだった。
「あの魔力を取り上げ砕けるようにするのです」
「それによりか」
「敵を妨げないようにするのです」
「何故そこまでしなければならないのだ」
「不実を許さない為に」
 それこそが彼女の正義であったのだ。夫婦の徳を守ることこそがだ。
「ですから」
「ハイヤハーーーーー!」
 ここであの叫び声が聞こえてきた。
「ホヨトーーーホーーーー!ホヨトーーーホーーーー!」
「来ましたわ」
 フリッカはその叫び声を聞いてまた夫に告げてきた。
「貴方の勇敢な娘が」
「ジークムントのところへ行くように呼んだのだ」
「貴方の妻の誓いを守らなければなりません」
 フリッカはここで釘を刺す様に述べてきた。
「さもなければ私達は嘲笑われ力を失い」
「滅亡するというのか」
「そうです」
 そうなるというのである。
「私達の為でもあります」
「我等の為にも」
「ヴェルズングは倒れるべきなのです」
 彼等のその栄光の為でもあるというのだ。
「だからこそ今誓いを」
「わかった。では誓おう」
 彼は止むを得なく答えた。
「今ここで」
「それではです」
 フリッカはここまで聞いてようやく頷いたのだった。
「御願いしますね」
「わかった」
「それでは」
 ここまで話してようやく立ち去るフリッカだった。彼女が姿を消すとヴォータンの横にブリュンヒルテが降り立ったのであった。
「あまりよくなったようですね」
「聞いていたのか」
「御父様のお顔から窺えることよ」
 だからわかると答えるブリュンヒルテだった。
「それはね」
「わかるか」
「義母様はとりあえず満足されているようだけれど」
「わしは自分自身の絆に囚われている」
 ヴォータンの声は苦いものだった。
「全ての者の中で最も不自由だ」
「どうされたのですか、一体」
 怪訝な顔で父に問うた。
「そこまで沈まれて」
「聖なる恥辱、恥ずべき悲嘆」
 ヴォータンは嘆いていた。
「神々の危機だ」
「私達のですか」
「そうだ、危機だ」
 それだというのだ。
「今はまさに」
「危機とは」
 ブリュンヒルテにはわからないことだった。
「一体何故」
「いや、言うにはだ」
 しかしヴォータンはここで止まるのだった。
「あまりにも辛いことだ」
「私は父上の娘です」
 ブリュンヒルテはそのヴォータンに真剣な顔で告げた。
「ですからお教え下さい。どうか」
「わしが誰にも告げないことはそのまま告げられなければいい」
「いいというのですか」
「だからだ」
 ここでこうも言うのだった。
「わしが自分に相談しているつもりで話そう」
「そのことをですね」
「青春の愛の歓楽がわしの前から消えた時」
 それは遥かな昔のことであった。
「わしは激しい欲望にかられ権力を欲し世界を手に入れた。そして不実も行った」
「私が生まれる前ですか」
「ローゲと共に様々なことを行った。権力を得ても愛を忘れはしなかった」
「愛をですか」
「夜が生んだアルプ、アルベリヒが愛をのろいラインの輝く黄金とそれがもたらす無限の権力を手に入れようとした」
 それもまた過去のことだった。
「あの指輪を謀によって手に入れたがラインの乙女達には返さなかった」
「それはどうしてですか?」
「その黄金でわしは巨人達が築いたヴァルハラへの支払いを済ませその城から世界を治めたのだ」
「それがこのヴァルハラだと」
「そうだ、この城がだ」
 天に浮かぶこの巨大な城こそがだというのだ。
「その中でわしに指輪を持つなと告げたエルダと会いそのうえであの者も妻とした」
「それが私達が生まれた」
「そうだ。それがはじまりなのだ」
 その時がだというのだ。
「その時に御前が生まれたのだ。御前達がだ」
「それでだったのですか」
「御前達ワルキューレにより神々の終末を、黄昏を避けようとした」
 神の長としてのことである。
「敵に対して戦う為に御前達に英雄達を集めさせているのだ。黄昏を避ける為にだ」
「では私はこれからも」
 ブリュンヒルテはさらに父に告げてきた。
「御父様の為に、神々の為に。それで何が不安なのですか」
「それはだ」
「それは?」
「エルダがだ」
「御母様がですか」
「そうだ。わしに告げたことだ」
 それだというのである。
「巨人達もいる」
「あの者達が」
「そしてあの者達がだ」
 声がさらに暗いものになった。
「あの者達がいるのだ」
「それは一体」
「夜の世界の者達だ」
 彼等だというのだ。
「あの者達が来るのだ」
「あの者達が」
「アルベリヒの軍勢が」
 あの男の名前を憂いと共に出した。
「ニーベルングは激しい怒りを以ってわしを恨んでいる」
「指輪を奪われたことを」
「そうだ。それを恨んでいるのだ」
 やはりこのことだった。このことをおいて他にはなかった。
「だが夜の軍勢は恐れてはいない」
「それはですか」
「エインヘリャル達がいる」
 ここでこの者達の名前を出したのだった。
「御前達が集めてくれた英雄達がな」
「はい」
 ブリュンヒルテはここで己に顔を向けてきたヴォータンに対して頷いた。
「彼等がですね」
「そして御前達もいる」
「私達が」
「ワルキューレもいる。夜の軍勢に敗れることはない」
「では何の憂いもないのでは」
「しかしだ」
 だがここでヴォータンの顔も声もまた曇ってしまった。
「あの男が再び指輪を手に入れれば」
「その時は」
「ヴァルハラは終わりだ。愛を呪うあの男は指輪の魔力を意のままにできるのだ」
「意のままに」
「何もかもができるのだ」
 彼は苦い顔で言った。
「その指輪は今巨人族の男が持っているのだ」
「巨人族、それは確か」
「あのファフナーだ。兄であるファゾルトと争いそれを殺し手に入れた指輪を守っているのだ」
「その指輪を」
「あの指輪は取り返さなければならない」
 ヴォータンの顔には決意もあった。
「しかしだ」
「しかし?」
「あれは契約によって支払ったもの。わしの手出しできるものではないのだ」
 天を仰いだ。その天にありながらさらに上をだ。
「契約によりこの世の主となったわしが今ではその契約の奴隷だ」
「契約の」
「そのわしが出来ないことをただ一人の者が為し得る」
「その者は」
「その英雄はわしが少しも助ける必要のない者だ。神の恩寵なしに意識せず命令を受けず」  
 彼は言う。
「わしに許されていない行為さえあえて行いわしの希望と同じことだけを望む者だ」
「その英雄がなのですね」
「神に逆らいそのうえでわしの為に戦うことを辞さない」
 神に逆らいながら神の為にというのだ。
「友にして敵とも言うべきこの男をどう見出すべきだったか」
「それは」
「わしの庇護を要せずそれでいて自らの誇りを持ち」
 言葉を続けていく。
「わしの最大の信頼を受けるべきその男をだ」
「それは今いるのでしょうか」
「今神は危急の時だ。自らが行った全てを永遠に嫌悪する。そのわしが望む世界は」
 また天を見上げる。
「その別の世界を見出すことはできない。その自由なる男でさえ自ら作らなければならないのだ」
「ですが御父様」
 ここでまた問うブリュンヒルテだった。
「ヴェルズングたるジークムントは自ら行動するのではないのですか」
「わしはあの者と共に森を彷徨った」
「はい」
 今度言ったのはそのことだった。
「その通りです」
「わしは神々の忠告に逆らいあの男を大胆に育てた」
 彼は言うのだった。
「彼を神々の復讐から守るのは剣だ。だが」
「だが?」
「この様な謀で以ってわしは自分自身を欺こうとしたのか。フリッカはすぐに気付いた」
「義母様は」
「フリッカは全てを読み取ってしまう。そしてわしは逆らうことができないのだ」
「それでは」
 ここまで聞いてブリュンヒルテも怪訝な顔になってしまった。 
 そしてそのうえで。彼女は父である嵐の神に対して問うた。
「ジークムントから勝利を」
「指輪は得なければならない」
 彼は言った。
「それの為に愛を捨てなければならない。愛しい者を捨てなければならない」
「愛を」
「そう、愛をだ」 
 捨てるというのである。
「信頼する者を欺いて」
「そうして愛を捨てて」
「傲慢な栄華よ、誇らかなる屈辱の神々しい華麗さも去ってしまうのだ」
 己さえ否定していた。
「わしが建てたものも潰えるのだ。今欲しいものは」
「それは」
「終末だ」
 遂には破滅さえ望むのだった。
「それをもたらそうとアルベリヒは企てを仕込んだ」
「企てを?」
「エルダはわしに告げた」
 そのブリュンヒルテの母でもある古の大地の女神がだ。
「愛を捨てた者が子を創り出す時には」
「愛を捨てた者がどのようにして」
 これはブリュンヒルテには理解出来ないことだった。
「その様なことが」
「己の種を女の中にそのまま入れるのだ」
 それだというのである。
「そうすれば愛も欲も感じなくともそれが可能になる」
「まさか。そんなことが」
「あの男はその術を持っている」
 アルベリヒならば、というのである。
「ニーベルングにるいて聞いたのだ。アルベリヒは一人の人の女にその種を授け子を創り出そうとしているのだ」
「その術で」
「そしてその男がだ」
 ヴォータンの声はその忌々しさに粗いものになった。
「神が身の終末をもたらす。指輪を手に入れてな」
「その指輪を」
「生まれ出るニーベルングの息子よ」
 そのアルベリヒの子への忌々しげな言葉だった。
「我が祝福を受けるのだ」
「アルプの子に祝福を」
「わしが心の奥底から嫌うものを御前に遺産として贈ろう。神々の虚ろなこの栄光を御前がその欲望で全て食い尽くしてしまうがいいのだ」
「私は一体」
 父の絶望を聞いて問い返さずにはいられなかった。
「何をすれば」
「フリッカの言う通りだ」
「義母様の」
「そうだ。彼女の名誉と誓いを守るのだ」 
 それだというのである。
「彼女が選んだものはわしが選んだものだ」
「それこそが」
「わしは自由を手に入れることはできない」
 それはどうしてもなのだった。何があろうとも。
「御前はフリッカの奴隷の為に戦うのだ」
「その言葉は取り消して下さい」
 ブリュンヒルテはそれを聞いてまた言い返さずにはいられなかった。
「父上、貴方は」
「何だというのだ?」
「ジークムントを愛しています」
 このことを告げるのだった。
「貴方の為に私は」
「何をするというのだ?」
「ヴェルズングの血を守ります」
「ならぬ」
 ヴォータンはこう言うしかなかった。
「御前はフンディングを勝たせよ」
「あの男を?」
「そうだ。御前の勇気をかき集め懸命に戦うのだ」
 そうせよと。言うしかなかった。
「ジークムントは勝利の剣を振りかざす。御前が怖気付いたなら神の願いは適わない」
「ですが父上」
 それでもブリュンヒルテは言う。彼女も必死だった。
「気高い心を持ち貴方にとっても大切なその人を」
「それが誰だというのだ?」
「あの英雄を」
 あえて誰とは言わないのだった。
「あの人を葬れというのは私には」
「出過ぎたことを言うな!」
 ヴォータンの語気がまた荒いものになった。
「わしに逆らうのか!?」
「それは」
「御前はわしに従う以外に何ができるのだ」
 こうは言っても言葉は忌々しげなままであった。
「わしは御前と話した」
「はい」
「だが叱られることはないのだ」
 このことを告げるのであった。
「わしの怒りが御前の上に落ちれば」
「そうなれば」
「御前の勇気も何の役にも立ちはしない」
 これは脅しではなかった。本気だった。
「わしの胸に潜めているこの怒りが露わになればわしに笑みと歓楽を与えた世界も恐怖と後輩に覆されるのだ。怒りの当たる者には禍だ」
 それだというのだ。
「だからだ。わしの命じるようにしろ」
「御父様の命じられるままに」
「そうだ」
 そうしろというのだ。
「ジークムントを葬れ。それがワルキューレの果たすべきことだ」
 ここまで告げて姿を消した。荒々しげにその場を後にする。ブリュンヒルテはその彼を見送るだけしかできなかった。そうしてから呟くのみだった。
「あの様な御父様は見たことがない」
 こう呟くのだった。
「悦びを以って戦う時はあれだけ軽いのに今持っている槍も楯も」
 その二つを寂しい顔で見てまた呟く。
「これだけ重いなんて。哀れなヴェルズングよ」
 その一族のこともまた呟くのだった。
「強い悲しみの中に私は忠節ある者達を不実にも捨てなければならないなんて」
 こう言って姿を消すのだった。その戦場に赴く為に。
 ジークムントとジークリンデは逃げていた。二人で荒野をただひたすら駆けていく。兄はその中で疲れ切ってしまった妹に対して言うのだった。
「もう休むのだ」
「いえ、私はまだ」
「いや、休むのだ」
 こうジークリンデに言うのだった。彼女が何と言ってもだ。
「さもないと御前は呼び止めても走ろうとする。休まなければ身体は」
「いえ、駆けなければ」
 ジークリンデはあくまでジークムントの言葉を聞こうとしないのだった。
「そうでなければ追手が迫って来ます」
「だが私がいる」
 自分がいるというのである。
「御前の夫である私が剣を持って」
「けれどそれでも追手が」
 そしてここで。角笛の音が聴こえてきたのだった。ジークリンデはその音を聴いてびくりとなってそのうえでまたジークムントに対して告げた。
「あの音が」
「間違いない、あれは」
「そうです。フンディングの」
 二人にはそのことがすぐにわかったのだった。
「一族の者達や犬達を集めて来ています」
「しかし私がいる。だから」
「犬の吠声も聴こえてきて」
 それも聴こえてきたのであった。
「あの犬達が貴方を」
「そんなことはない」
 ジークムントは彼女の今の言葉を否定した。
「それは絶対にだ。有り得ない」
「そう仰るのですか」
「そうだ。有り得ない」
 彼にとってはそんなことは万に一つも有り得ないことだった。だからこう妹に対して答えることができたのだ。荒涼たる荒野の中でだ。
「私には」
「では貴方は」
「今は休むのだ」
「今は」
「そうだ。休むのだ」
 あくまでこう告げるのだった。
「いいな」
「・・・・・・ええ」
 ここで遂に頷く妹だった。そうして静かに横たわり目を閉じた。ジークムントはその彼女の傍らに立つ。その彼の傍に姿を現したのは。
「貴女は?」
「ジークムントよ」
 その黒い服の乙女は優しい声で彼に告げてきた。
「貴方はもうすぐ私に従わなければなりません」
「貴女にですか」
「そうです」
 こう告げるのだった。
「私にです」
「それは何故ですか?」
 ジークムントは怪訝な顔で彼女に問わずにはいられなかった。
「何故貴女に。それに貴女は一体」
「私はブリュンヒルテ」
「ブリュンヒルテ。それでは」
「私のことは知っているようですね」
「ワルキューレの一人」
 神々のことは彼も知っているのだった。
「そうですね」
「はい。死の運命を受けた者だけが私達を見ることができます」
「それでは私は」
「はい。私の姿を見ました、ですから」
「ヴァルハラに行くのですか」
「そこに戦死した気高い英雄達が集っています」
 それこそがエインヘリャルというのである。
「貴方もまたそこに」
「そこには父もいるのでしょうか」
「ヴェルズングはそこに自分の父を見出すでしょう」
 ここでも優しい声だった。
「貴方は」
「ではそこには一人の女は」
 そのことも問うジークムントだった。
「いるのでしょうか」
「ワルキューレ達がいます」
 つまり他ならぬ自分達のことであるというのだ。
「貴方達と共にいます」
「ですがジークリンデは」
 ジークムントは今度はかなり具体的に問うたのだった。
「花嫁である妹は兄に従って行くのでしょうか。そこで私は彼女と」
「いえ、まだです」
 それはまだだというのだった。
「彼女はまだこの世に留まります」
「そうですか」
 それを聞いてもだった。ジークフリートは項垂れることはなかった。ただそれを聞くだけであった。
 そしてそのうえで。再びブリュンヒルテに対して告げるのだった。
「それではです」
「はい」
「私はヴァルハラには行きません」
 こう言うのだった。
「ヴェルはルにも主であるヴォータンにも父上にもお伝え下さい。全ての者達に」
「ですが貴方はもう私を見ました」 
 ブリュンヒルテの声が悲しいものになった。
「ですからもう」
「ジークリンデが喜びと悲しみで生きる世界に」
 そのブリュンヒルテに対しての言葉だ。
「ジークムントも留まりたいのです。貴女の眼差しはまだ私に死をもたらしません。私をヴァルハラに連れて行くことはまだないのです」
「貴方が生きている限り貴方を強いるものはありません」
 ブリュンヒルテも引かなかった。引くわけにはいかなかった。
「しかし死がその貴方を誘っているのです。ですから私はここに来たのです」
「私に死を与えに」
「そう。貴方はある戦士に倒されます」
「それではです」
 ジークムントは問う内容を変えてきたのだった。
「私を倒すその戦士は一体」
「フンディングです」
 彼だというのである。
「彼が貴方を倒します」
「馬鹿な」  
 ジークムントはその言葉をすぐに否定した。
「私を倒せるにはあの男より強い力が必要です」
「それは」
「だからあの男では無理です」
 今の彼にはそれがはっきりとわかっていたのだ。
「この私には」
「ですがもう決められたことです」
「いえ、この剣があります」
 ジークムントは今も手に持っているその剣を見せたのだった。鞘にも入れられていないその剣は白銀の光をおのずから出しているかの様に輝いている。
「これを作ったその人が私の勝利を知っています」
「その人がですね」
 ブリュンヒルテはそれを聞いて悲しい顔にならざるを得なかった。
「貴方にその剣を」
「だから私はあの男に倒されることはありません」
 彼は断言さえしてみせた。
「決してです」
「いえ、違います」
 ブリュンヒルテはその悲しい顔で彼に返すしかなかった。
「その剣を作ったその人がです」
「父上が」
「そうです。今や貴方の死を知っています」
 こう告げるのである。
「彼が剣の霊験を奪うのです」
「馬鹿な」 
 ジークムントはその言葉を否定した。否定せざるを得なかった。
「そんなことはありません」
「いえ、ですが本当なのです」
「本当だと」
「そうです」
 ブリュンヒルテの悲しい顔はそのままであった。
「貴方はヴァルハラで永遠の喜びを得たいと思わないのですか」
「いいえ」
 毅然として首を横に振るだけだった。
「そんなものは全く」
「ではこの人だけが全てだと」
「そうです」
 二人は今度はジークリンデを見ていた。そのうえでの言葉だった。
「このジークリンデだけが」
「苦しみ疲れきった」
 ブリュンヒルテはジークリンデも悲しい目で見て告げた。
「この人だけが」
「貴女は確かに若く美しく輝いている」
 それはジークムントも認めることだった。
「だが」
「だが?」
「冷たい人だ」
 冷然とした声で告げるのだった。
「その貴女の言葉は聞きません。ヴァルハラの虚ろな幸福のこともです」
「冷たくともです」
 ブリュンヒルテはその彼の言葉をあえて受けた上でまた言うのだった。
「ジークリンデのことは任せて下さい」
「ジークリンデを?」
「そうです」
「この人は私が守ります」
 何かを決めた顔であった。
「ですから貴方は」
「いえ、私はこの人を守ります」
 しかしジークムントの言葉は変わらないのだった。
「何があろうともです」
「変わらないのですか」
「そうです」
 彼の考えもまた。どうしても変わらないのだった。
「私だけがこの人を守ることができるのですから」
「ヴェルズング。狂える人よ」
 ブリュンヒルテは今まさに折れようとしていた。
「私の言葉を聞いて下さい」
「貴女の言葉を」
「そうです」
 切実なその顔での言葉だった。
「何があっても。聞いて下さい」
「私に聞けとは」
「ジークリンデは私が守ります」
 このことをあくまで告げるのだった。
「その私がです。守ります」
「この剣を授けてくれた父は私を見捨てた」
 ジークムントはそのブリュンヒルテの言葉を聞かず剣を見るのだった。
「この剣が私を裏切り敵を滅ぼさないならば」
「どうされるのというのです?」
「私を滅ぼすのだ」
 言いながら己の首に剣をやるのだった。
「御前に微笑んでいる二つの命を奪うのだ、ノートゥングよ」
「止めるのです」
 ブリュンヒルテは声で彼の動きを止めた。
「それは止めるのです」
「止めよと」
「そうです」
 また言うのだった。
「ジークリンデもジークムントも」
「どうせよと」
「生きていて下さい」
「私に生きよと」
「そうです」
 全てを決意した顔だった。迷うことのない。
「私は貴方に祝福と勝利を与えます」
「その二つをですね」
「さあ、その剣を振りかざすのです」
 今それを彼に告げるのだった。
「貴方は私が守りましょう。ですから」
「ですから?」
「さようなら」
 こう告げたのだった。
「聖なる英雄よ。また戦いの場で会いましょう」
 ここまで告げて今はジークムントの前から姿を消した。ジークムントは再びジークリンデと二人になった。その中で呟くのだった。
「ワルキューレが告げたことは」
 そのブリュンヒルテのことである。
「喜ばしい慰めだろうか。そうであれば」
 ジークリンデを見るのだった。
「この今は死んだように見える人も幸福な夢が慰めているのだろうか。それなら」
 そしてまた言うのであった。
「戦いが終わり平和が喜ばせるまで眠っているのだ。そして」 
 顔を向ける。角笛の方に。
「私は向かおう。ノートゥングと共にだ」
「ヴェーヴァルトよ!」
 フンディングの声が聞こえてきた。
「何処だヴェーヴァルトよ」
「私はここだ」
 ジークムントも彼に応えて言う。
「ここにいるぞ」
「そこにいたのか」
「そうだ、私はここだ」
 こう大声で告げるのだった。
「ここにいるぞ」
「あの声は」
 ここで起き上がったジークリンデだった。声を聞いて。
「まさか遂に」
「そこか!」
 フンディングも姿を現した。出て来たのは彼一人だった。
「そこにいたのか恥知らずな男よ」
「私が恥知らずだというのか」
「そうだ」
 右手の槍で彼を指し示しての言葉だった。
「よくも逃げてくれたものだ」
「私はもう逃げることはしない」
 ジークムントは剣を前に出して言うのだった。
「貴様からはな」
「では来るのだ」
 フンディングも引こうとはしなかった。
「わしも一人だ。これで不満はないだろう」
「如何にも」
 ジークムントもまた彼と対して告げた。
「あのトネリコの木から抜き取った剣で貴様を倒す」
「何っ、あの木からか!?」
「そうだ、あの木からだ」
 彼は言うのであった。
「その剣で今貴様を倒そう」
「くっ・・・・・・」
「そうです、ジークムントよ」
 ブリュンヒルテがここで姿を現して彼に告げた。
「今こそ勝利を!」
「ならぬ!」
 しかしだった。ここで嵐そのものの声が響いた。
「この槍を恐れよ!剣よ砕けよ!」
 こう叫び彼が槍を一閃するとだった。それだけでジークムントが持つ剣は砕けてしまったのだった。
「なっ、剣が・・・・・・」
「今だ!」
 フンディングはその機会を逃さなかった。槍を突き出したのだ。
「うぐうっ・・・・・・」
 槍はジークムントの胸を貫いた。彼は槍が抜き取られるとその胸から鮮血を噴出しながら背中からゆっくりと倒れていく。そしてその中で呟くのだった。
「ジークリンデ・・・・・・」
「いけない!」
 ジークムントが事切れたのを見て。ブリュンヒルテはすぐに呆然としているジークリンデを抱きかかえて連れて行くのであった。
「貴女はこっちに!」
「貴女は!?」
「話は後で!」
 今はそれを言う余裕はなかった。素早く彼女を連れて父の前から立ち去ったのだった。
「おのれ、逃げ去ったか」
 ヴォータンはその彼女が逃げ去った方を見て忌々しげに呟いた。そして次にその顔のままでフンディングを見やる。そのうえで宣告したのだった。
「行け、奴隷よ!」
 呆然とする彼に告げた。
「フリッカの下にな。ヴォータンは務めを果たしたとな!」
 右手に持つその槍を突きつけるともうそれだけで倒れてしまい動けなくなったフンディングだった。ヴォータンは彼の亡骸に一瞥もせずさらに忌々しげに呟いた。
「ブリュンヒルテ。許すことはできない、主神に逆らったことは・・・・・・!」
 こう呟きすぐにブリュンヒルテが逃げ去った方に向かった。その動きは憤怒そのものだった。



ブリュンヒルテが逆らったものの、
美姫 「ジークムントは倒れたわね」
ジークリンデを連れて去ったけれど、ヴォータンはどうするつもりなのか。
美姫 「かなり気になるわね」
ああ。一体、どうなっていくんだろう。
美姫 「次回も待っていますね」
ではでは。



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