『ニーベルングの指輪』

 第一夜 ワルキューレ


                             第一幕  ヴェルズングの血

 夜の吹雪の中を一人の男が駆けて来る。
 灰色の軍服に身を包んでいる。軍服は四つボタン折襟のものでありその上にカーキ色の厚いコートを着ている。ブーツは黒である。
 だがその軍服もコートもブーツもぼろぼろになっている。その姿で今吹雪の中を彷徨っている。
 金色の髪を後ろに撫で付けているが乱れている。青い目は鋭い光を発している。顔は彫が深く若々しい。鼻が高いのが印象的だ。そして背は高く引き締まった顔をしている。
「あれは」
 彼は逃げ惑うようにして進んでいたがやがて目の前に屋敷を見た。それは豪奢な屋敷であり宮殿を思わせる程だった。それでいて堅固でありさながら要塞の様でもあった。
 その屋敷から大きな一本の木が出ているのが見える。それはトネリコらしい。若者はその屋敷を見てその玄関を開け左右対称の雪に覆われた庭を越えそして樫の木の扉を開けた。
 中は大広間になっていた。暗く周りはよく見えない。その中に入ってから言うのだった。
「この屋敷が誰のものであろうとも」
 今にも倒れ込みそうな声だった。
「私はここで休まなければ」
「?あれは」
 ここで白いイブニングドレスに身を包んだ美しい女が彼の前に出て来た。ブロンドの髪を長く、腰まで伸ばし青く澄んだ瞳をしている。麗しい顔をしており鼻は高い。唇は薔薇色だ。何処となく今入って来た若者に似た顔をしていた。
「どなたなのかしら」
「水を」
 ここで彼女は若者の声を聞いたのだった。
「水を」
「気を失ってはいないのね」
 それは今の言葉でわかった。
「生きてもいるわ。それに」
 ここでその若者を見た。その姿を見て感じたことは。
「疲れ切っているようだけれど勇ましい人のようだわ」
「水を」
「ええ。わかりました」
 女は若者の言葉に頷いた。
「暫くお待ち下さい」
 一旦その場から去ってそのうえで水が入った水晶のグラスを持って来た。それを彼に差し出すのだった。
「どうぞ」
「おお、有り難い」
 若者はそのグラスを受け取るとすぐに飲みはじめた。そうしてその水を飲み終えてから女に対して穏やかな声で礼を述べるのだった。
「冷たい水が私を元気付けてくれた」
「そうですか。それは何よりです」
「疲れもずっと軽くなり勇気も出て来ました」
 こうも述べるのだった。
「それにです」
「それに?」
「私の目を喜ばせてくれるのはその美しいお姿」
 女を見ての言葉である。
「私に水を下さったのは」
「この家と私はフンディングのものです」
「フンディングといいますと」
「この辺りを収める領主です」
 それだというのである。
「あの人は貴方をお客として出迎えるでしょう。ですから」
「ですから」
「もう少しお待ち下さい」
 また彼に告げたのだった。
「もう暫くの間」
「私は剣を失った」
 見ればその通りだった。彼は剣も何も持っていない。ヘルメットでさえもだ。
「そのうえ傷ついている私を貴方の夫は迎えてくれるのですね」
「傷は深いのですか?」
「いえ」
 それは首を横に振って否定する。身体は起き上がっており己の前に座す女と向かい合いそのうえで話をしている。
「ですが楯も槍も剣も失ってしまいました」
「全てをですか」
「はい。敵の犬達に駆り立てられ嵐が私の身体を地に叩きつけ」
「今の吹雪の中を進んで来られたのですね」
「そうです」
 若者はあらためて述べた。
「ですが」
「ですが?」
「私が敵から逃れるよりも早く疲れはこの身から逃れ私の目を覆っていた夜は去り」
 こう言うのだった。
「新しい太陽が笑いかけてくれています」
「そうなのですか」
「はい、あの水のおかげで」
「それではです」
 女は彼の言葉を受けてさらに言うのだった。
「甘い蜜酒はどうでしょうか」
「酒ですか」
「ええ。宜しければ」
「だが私は」
 しかしここで彼の顔は険しいものになり。そのうえで言うのだった。
「貴女を不幸にしない為に」
「不幸にしない為に」
「私は先を急ぐことにします」 
 こう言うのである。
「ここを去り」
「誰かに追われているのですか?」
 その彼の言葉を聞いて問うのだった。
「一体誰に」
「私の逃れるところには不幸が追い掛け私の安らぐところに不幸が近付くのです」
 彼は語った。
「ですから貴女に不幸が訪れない為に」
「去られるのですか」
「そうです」
 だからだというのである。
「私は」
「いえ、ここに留まって下さい」
 だが女はその彼を引き留めようとする。
「不幸がもう住んでいるところには貴方も不幸をもたらせることはできません」
「しかし」
「私は自らをヴェーヴェルトと呼んでいます」
「ヴェーヴェルト」
 その言葉の意味は若者にもわかった。
「悲痛を護る者ですか」
「そうです。ですからここにいて下さい」
 あらためて彼に告げたのだった。
「ここで夫の帰りを」
 こう彼に告げ終えた時だった。屋敷の扉の方から声がしてきた。
「御前達はすぐに休め」
「はい」
「わかりました」
 男達の声だった。
「剣や楯を収めてな」
「わかりました、旦那様」
「それでは」
「うむ」
 そのやり取りが終わると扉が開いた。そうして漆黒の折襟の軍服にコート、それにズボンと制帽を身に着けた大柄な男が入って来た。髪も目も漆黒だ。それに顔中に濃い髭を生やしている。その男が屋敷の中に入って来てそのうえで女に対して言ってきたのだった。
「ジークリンデ」
「はい」
「そこの灰色の軍服の男は何者だ」
「旅人の様です」
 こう彼に語るのであった。
「我が夫フンディングよ」
「旅人か」
「この木の傍に倒れているのを見つけました」
 ジークリンデはまた夫に対して述べた。
「それで水を差し上げました」
「水をか」
「はい」
 こうフンディングに言うのだった。
「この疲れきった人の為にです」
「その通りです」
 若者も身体を起こして彼に告げた。
「それだけですが」
「それについては何も言わない」
 フンディングは無愛想な顔で彼に言葉を返した。
「それについてはな」
「左様ですか」
「わしの竈は神聖である。そしてこの家は君にとってもわしにとっても神聖だ」
「それはわかっているつもりです」
「ならばいい」
 若者の返答を聞いて頷くフンディングだった。
「ジークリンデ」
「はい」
 そのうえで妻に声をかけるのだった。だがここで彼は気付いた。
「むっ!?」
 まず妻の顔を見る。そのうえで若者の顔を見る。見比べてそのうえで言うのだった。
「似ているな」 
 こう言うのであった。
「その目の光まで。空似だと思うが」
「あの、それで」
 ジークリンデがここで夫に対して問うてきた。
「何をすれば」
「食事の用意をしてくれ」
 こう妻に告げるのだった。
「わしとこの客人のものをな」
「わかりました。それでは」
 ジークリンデは竈に向かった。その間にフンディングは若者をその広間にあるテーブルに座らせた。そのうえで彼も座り二人向かい合って話すのだった。
「それで客人よ」
「はい」
「君は随分と遠い道を歩いてきたのだな」
「おわかりなのですか」
「その服を見ればわかる」 
 そのぼろぼろになった軍服とコート、それにブーツを見ての言葉だ。
「馬にも乗らずここに来た。これまでに何があったのだ?」
「森や野を越えて山や谷を越え」
「道中は平穏ではなかったのだな」
「そうです。自分で来たその道すら覚えていません」
 こう語るのだった。
「ここが何処さえもわかりません」
「君を守り隠すこの屋敷はこのフンディングのものだ」
 彼は若者に告げた。
「君がここから西に行けば豊かな屋敷を持つ一族が居を構えていて私の名誉を守っている」
「貴方の一族がですか」
「そうだ。そしてだ」
 若者に対してさらに問うのであった。
「よければだが」
「はい」
「君の名前を聞きたい」
 彼の名をというのである。
「それは私の名誉になる。私を信じることができなければ妻に言えばいい」
「あの」
 ここでそのジークリンデが二人の食事を持ってやって来た。それはソーセージにザワークラフト、それとジャガイモに黒パン、それとビールであった。
「私も宜しければ」
「わかりました」
 若者はそのジークリンデの言葉を受けて頷いた。
「私はです」
「貴方は」
「フリートムントと名乗ることは許されません」
「平和を守る者か」
 フンディングはフリートムントという言葉の意味を呟いた。
「フローヴァルトと名乗りたいと思っています」
「喜びを守る者か」
 また言葉の意味を呟くフンディングだった。
「しかしヴェーヴァルトと名乗らねばなりません」
「悲痛を守る者」
 今度はジークリンデが呟いた。
「私の父はヴォルフェといいまして双子として生まれました」
「双子か」
「御父上の御名前はヴォルフェ」
 二人はまたそれを聞いて述べた。
「妹がいましたがその妹と母は私が幼い時に別れあまり覚えてはいません」
「何て悲しいこと」
 ジークリンデはそれを聞いて呟く。呟きながら何故か自身のことにも思えるのだった。
「父は戦いを好み強かったので敵も多く私を狩に連れて帰ってくると家は燃え庭の樫の大木は切られ母もまた殺されてしまっていました」
「敵にやられたな」
 フンディングはそれを聞いてすぐに察した。
「それでか」
「妹は何処にもいませんでした。ナイディングの一族にやられたのです」
「ナイディングだと」
 ここでフンディングの顔色が変わった。その一族の名前を聞いて。
「まさか」
「追われた父は私を連れて逃げ森の中で暮らし二人で戦いました。そう」
 若者はここで名乗った。
「私はヴォルフェの子、ヴェルフィングの一族です」
「ヴェーヴァルトにヴェルフィング」
 呟くフンディングの声は不吉なものだった。
「その名はわしも聞いたことがある」
「そうでしたか」
「だが会ったことはなかった」
 そしてこうも言うのだった。
「そして御父上は今は」
「はい」
 若者はさらに話すのだった。
「ナイディングの一族は我々を追ってきて森の中を彼等や野獣達と戦い逃れて生きてきました」
「戦いの中でだな」
「その通りです。その中で父を生き別れ長い間探しましたが」
 若者の話は沈痛なものになる。
「見つけたのは狼の毛皮だけでした。そして森を出て」
「彷徨っていたのか」
「人に会い友を求め妻を得ようとしました」
 人としての幸福を望んだということである。
「ですがその度に追われてきました」
「何て気の毒な」
 ジークリンデはその彼に対して同情的だった。
「そうして彷徨っておられたなんて」
「私には正しいと思えるものが人には悪しきものに思われ」
 彼はさらに言う。
「私が悪しきものに思えるものが人には正しきものに思え」
「人に受け入れられなかったのか」
「行く先々で怒りに襲われ反目を受けました」
 フンディングの言葉に答える。
「歓喜を求めると悲痛がより。ですから私はヴェーヴァルトなのです」
「ノルンは君を愛していなかったのだな」
 運命を司る三柱の女神達だ。フンディングは今彼女達の名前を出したのだった。
「そしてだ」
「そして」
「君を見知らぬ客として迎え入れた男もまた」
 他ならぬ彼自身のことである。
「君の来訪を喜んではいない」
「あなた」
 その夫に対して怪訝な顔で言うジークリンデだった。
「この方は武器を持ってはいません」
「そのようだな」
 それは彼も見ていることだった。
「どうやらな」
「何故武器を持っておられないのですか?」
 ジークリンデは怪訝な顔で彼に問うた。
「それは何故」
「それはです」
 彼はそれに応えて話しはじめた。
「ここに来る前に」
「はい」
「全て失くしてしまいました」
 こう答えるのだった。
「そう、全てをです」
「それは何故ですか?」
「悲しき娘がいました」
 こうジークリンデに対して告げる。
「その娘が私に助けを求め」
「悲しい娘ですか」
「一族に望まれない結婚を強制されていました」
「えっ・・・・・・」
 彼のその言葉を聞いてはっとした顔になったジークリンデだった。だがその顔は一瞬で消してそのうえで再び彼の話を聞くのであった。
「そうだったのですか」
「私は彼女の為に戦いました」
 そして彼はまた言った。
「敵の大群を退けました。しかし」
「しかし?」
「私が倒した中に彼女の父や兄達もいたのです」
「ふむ」
 フンディングはその話を冷静に聞いていた。
「まさかとは思うが」
「彼女はそれを見て涙を流し私を非難し」
「そしてどうなったのだ?」
「一族の者達はさらに私に襲い掛かり私はさらに戦いました」
 忌々しげな顔で語るのだった。
「その結果私は敵を再び退けましたが」
「それでどうなったのですか」
「槍も楯も粉々になってしまい」
 その時に武器を失くしたというのである。
「その横に彼女も事切れていました」
 ここまで話してそのうえでこうも言うのだった。
「何故私がフリートムントと名乗らないのかこれでおわかりでしょう」
「それはわかった」
 フンディングはここまで話を聞いたうえで頷いた。
「だが」
「だが?」
「わしも言っておこう」
 こう述べてから彼も話すのだった。
「わしは荒々しい一族のことを知っている」
「その一族とは」
「他の人々には尊いことも彼等には神聖ではなくわしも他の者も彼等を嫌悪している」
 若者を睨み返しながらの言葉だった。
「わしが先程まで出ていたのは一族の復讐の為」
「一族の」
「一族の血の償いを果たせと呼ばれたのだ」
 今も若者を睨んでいた。
「しかしその仇を見つけることはできず屋敷に戻ってみるとそこにいた」
「あなた、それでは」
「そうだ、この男だ」
 彼を睨んだまま妻に答える。
「我が家は今日は君を守ろう。今夜だけはな」
「今夜だけは」
「そうだ、今夜だけだ」
 妻に対しても若者に対しても告げた。
「明日は戦いの日だ。死者達の弔いを果たす日だ」
 こう告げて若者にさらに言うのだった。
「明日の朝に決闘をしよう。そして忠告をしておく」
「忠告とは」
「己の身は己で守れ」
 彼が武器を持っていないことをわかっていての言葉である。
「それだけだ」 
 ここまで言うと場を後にした。残ったのは若者とジークリンデだけだった。若者は項垂れた顔で呟いた。
「父上は私に剣を約束してくれた」
「剣を?」
「私は困窮の時にそれを手に入れると」
 こうジークリンデに答えるのだった。
「私は今敵の屋敷の中に剣もなくいる」
「はい」
「復讐の人質だ。その私はどうするべきか」
 そして言うのだった。
「ヴェルゼよ」
 この名を叫んだ。
「ヴェルゼよ。貴方の剣は何処なのか」
 辺りを見ての言葉だ。
「嵐の中で振り回す、心の中の怒りに任せて振り上げるべき剣は」
 それを欲しているのだった。
「それは・・・・・・むっ」
 ふと木のところに。あるものを見たのだった。
「これは一体」
「何か」
「この木の幹から煌く光は一体」
 木の幹にそれを見たのである。
「この素晴らしい光が私の心に気高い炎を宿らせる。そして」
「そして?」
「貴女の目は」
 今度はジークリンデに対して言うのである。
「輝くような眼差し、まるで太陽の輝きの様だ」
「私は日だと」
「そうだ、日だ」
 それだというのである。
「そしてこの輝きは一体」
「一つお伝えしたいことがあります」
 ここでジークリンデは若者に対して言ってきた。
「あの人の、夫の酒はです」
「あの人の酒は」
「眠り薬が入っているのです」
 こう話すのだった。
「今日は特に眠れるようにと入れていたのですが」
「そうだったのですか」
「これは僥倖です。今のうちに」
「今のうちに?」
「そうです。お逃げ下さい」
 また告げるのだった。
「夜の闇に紛れて」
「私に逃げよと」
「そしてです」
 ジークリンデの言葉は続く。
「剣もあります」
「剣が?」
「若しそれが貴方の手に入るのなら」
 こう前置きしてからの言葉だった。
「貴方を勇者の中の勇者と称えましょう」
「私を勇者と」
「そうです」 
 こうまで言うのである。
「まことの勇者だけがその剣を手に入れることができるのです」
「それではその剣は」
「お聞き下さい」
 ジークリンデの言葉がこれまで以上に真剣なものになった。
「私がこの屋敷に入れられた時のことです」
「この屋敷に」
「一族の者達が全て集まったあの日」
 彼女の一族ではない。忌々しげな顔はこうも述べていた。
「彼は盗賊の与えた女を彼女の言葉も聞かずに妻としました」
「それが貴女なのですね」
「そうです」
 同時に己の身の上も語るのであった。
「その宴において私が悲しく座っていた時に」
「その時に」
「灰色の外套を着て深い帽子を被ったその人は」
「その人は」
「片目を隠していました」
 それをというのである。
「ですがもう一つの目の輝きが全ての人に恐れを抱かせ眼差しは男達を驚かせました」
「一つの目で」
「そうです。その目は私には不思議なものを与えました」
 彼女は違うというのである。
「何か甘美な憧れに満ちた悲しみを呼び起こし」
「悲しみを」
「そして慰めも与えてくれました」
 互いに相反するものをというのである。
「彼は私を見詰め全ての人を見渡し」
「貴女をですね」
「そして手にした一本の剣をこのトネリコの木に突き刺したのです」
「それでは」
 ここで若者はわかったのだった。
「この木の幹の輝きは」
「これを幹から抜き取れる者にこの剣は与えられる」
 ジークリンデは彼に語った。
「それを」
「そしてこの剣は」
「一族の男達は皆抜こうとしましたが誰も抜けず」
 抜けなかったというのである。
「訪ねて来た客人も自らを誇る人は挑みましたが」
「それでもだったのですね」
「そうです。この通りです」
 その剣を指し示しての言葉だった。
「そして私は今わかったのです」
「何を」
「あの片目の人が誰だったのか」 
 その訪れた灰色の男のことであった。
「この剣が誰のものになるのか」
「全ておわかりになったのですね」
「そうです。今日ここで私がその人に会えるのなら」 
 若者をじっと見詰めての言葉だった。
「惨めな運命の女の下に訪れたその人に会えるのなら」
「どうされるのですか」
「最悪の苦痛にも辱めにも悩み耐えたことも心地良い復讐が消してくれます」
 ずっと若者を見ていた。話をする間。
「私の失ったものを取り返し悲しみ嘆いたことも償われるのです」
「その時にですね」
「そうです。この聖なる人を見出せたなら、この英雄をこの腕に抱けたなら」
「喜びにあふれたその人を抱くのは」
 若者もここでまた言った。
「その剣と妻が与えられる人ですね」
「その通りです」
「貴女と私を会わせてくれる聖なる誓いが我が胸に燃えています」
 彼は言うのだった。
「私が常に憧れていたものを私にいつも欠けていたものを私は貴女に見出しました」
「私にですか」
「そうです」
 ジークリンデをじっと見ていた。見ながら立ち上がる。
「貴方が恥辱と苦痛に苦しみ悩み」
「そして」
「追われる身であったとしても貴女が名誉を失ったとしても」
 語られるものは決して明るいものではない。しかしそれでも彼はそこに明らかな希望を見出している言葉を今出しているのであった。
「今や喜ばしき復讐が我等に微笑んでいるのです。聖なる悦びに身を委ね私も声を立てて笑いましょう」
 声は次第に高らかなものになっていた。
「気高きこの女性を抱き貴女の心のときめきを聞きましょう」
「あっ」
 ここでジークリンデは何かを感じ取った。
「誰か来たのですか?」
 辺りを探す顔で言うのだった。
「それとも出て行ったのですか?」
「誰も出て行ってはいません」
 若者はそうではないというのだった。
「ですが入って来たものがあります」
「入って来たものですか」
「春です」
 それだというのである。
「春が部屋の中で微笑んでいます」
「春が今ここに」
「冬の嵐は過ぎ去り快い月となりました」
 彼は語りはじめた。
「柔らかな光に包まれ春は輝いています」
「春は」
「優しい風に乗り身も軽く愛らしく」
 ジークリンデに対して語りはじめた。
「魅惑を生みながら春は揺れています。森や野を越えて春の息吹が拡がり」
 言葉は続く。
「その眼差しは全てを輝かしく照らしてくれます」
「春が」
「小鳥の楽しい歌は甘く響き快き香りを大気に満たします。暖かい血潮は美しい花となり生ある力は芽となり蕾となるのです」
「命になると」
「そうです。優しい剣でこの世を征服します」
 それこそが春だというのだ。
「我々ち春とを分かとうとする扉お冬の嵐も春には適わず春は妹の下へ飛んで行きました」
「妹ですか」
「そう。愛の下へ」
 そこだというのだ。
「愛は春を誘い寄せ私達の胸に深くその身をひそませました」
「私達の中に」
「その通りです。そして愛は楽しく光に笑いかけてくれます」
 さらに言葉を続けていく。
「花嫁である妹を兄は自由にしたのです」
「妹をですね」
「兄、即ち春は」
 兄と春が同じになっていた。
「彼女と兄とを隔てていたものは今や砕けて横たわっています。そして若い二人は今巡り合ったのです」
「その二人は」
「愛と春とは結び付けられたのです」
「その二つがですか」
「そう、今ここに」
 ジークリンデを見詰めて。最後まで言い切ったのだった。
「春がです」
「寒い冬の日々に私が憧れていた春こと貴方でした」
 ジークリンデも応えて言った。
「貴方の眼差しが私に注がれた時」
「その時に」
「私は聖なる恐れの心を以って貴方を迎え入れました。私は今まで全てに馴染めず冷たい世界に生きていました」
 それが今までの彼女だったのだ。
「私の体験する全てはそうでしたが今は」
「今は」
「貴方だけははっきりと認めることができます」
 若者だけは、というのである。
「私の目が貴方を見た時貴方は私のものでした」
「私は」
「そうです。私が胸に潜めていたものが、私の本当の存在が昼の如く明るく私の心の中に沸き起こり」
 恍惚とした顔での言葉だった。
「響く音の如く私の耳を打ちました。まるで凍てつく荒野の中ではじめて友に会った時の様に」
「いと甘き喜びよ」
 若者もまた恍惚としていた。
「いと妙なる女よ」
「貴方の傍に私を」
 ジークリンデはさらに心を寄せていた。
「そうすれば貴方の目から、その顔から流れ出す。気高く輝いているその光を」
「光を」
「そう。私の心を甘く惹き付けるその光を見ることができますから」
「貴女は春の月光の中に輝いている」
 若者の声は熱いものになっていた。
「その黄金色の波なす美しい髪は貴女自身に巻きつき」
「この髪は」
「そしてその青く澄んだ瞳は」
 己の目と同じ色のその瞳もまた。
「誤りなく見詰めそのうえで私の眼差しを歓喜に満たしてくれます」
「私には見えます」
「何がですか?」
「貴方の額にはっきりと高貴な血脈が」
 それが見えるというのである。
「奇跡の様に思われるのは今日私は貴方にはじめて出会ったのに貴方を見たことがあるからです」
「私もまた同じです」
 彼もだというのだ。
「かつて見た愛の夢を思い出します。強い憧れを以って既に貴女を見たことがあるのです」
「私は小川の水で見た自分自身を今見ています」
「貴女をですか」
「そうです。私自身をです」
 互いに言い合う。
「貴方の中に秘めた姿、それは私なのですね」
「そうだったのですね」
「その声を私により聞かせて下さい」
 ジークリンデの声もまた熱くなっていた。
「その声はかつて聞いたことがあります」
「私もまた」
「あの森の中で」
 森が出た。それは。
「あの幼い日に」
「貴方の目の中の輝きを私は見たことがあります」
 何かを思い出そうとしていた。
「あの灰色の人が私に呼び掛け悲しめる私に慰めを与えてくれた」
「あの人がですね」
「あの眼差しこそがそれです」
 ジークリンデは何かを思い出そうとしていた。
「彼の子は父を認めもう少しでその名を呼ぼうとしていた」
「私と同じように」
「そして貴方は」
 あらためて彼に問うてきた。
「貴方の御名前は本当にヴェーヴァルトなのですか?」
「いいえ」
 だが若者は今の問い掛けに首を横に振った。
「違います」
「違うのですね」
「貴女が私を愛するようになってから」
 まずはこう彼女に告げた。
「それは変わったのです」
「変わられたのですね」
「私は最高の歓喜を支配しているのですから」
「では喜んでフリートムントと名乗られては」
「いいえ」
 それもまた否定する若者だった。
「貴女が名付けて下さい」
「私がですか」
「そうです。貴女に名付けてもらいたいのです」
 ジークリンデ自身によってだというのだ。
「どうか」
「では尋ねます」
「はい」
「貴方は貴方の父をヴォルフェと呼びましたか」
「臆病な犬達には狼でした」
 それだというのである。
「ですがその目は誇らかに、貴女のそれと同じ様に」
「私と同じ様にですね」
「そうです、気高く光り輝いていたその人はヴェルゼと呼ばれていました」
「それではです」
 それを聞いてジークリンデはわかったようだった。
「貴方の御父様はヴェルゼで貴方がヴェルズングの一人なら」
「はい」
「父は貴方の為にその剣をここに残しておいたのです」
「この剣を」
「間違いありません」
 今二人はその剣を見て話をしていた。
「それでは私は名付けましょう」
「私の名を」
「いえ、思い出したその名前を」
 言うというのである。
「貴方を愛する者として。ジークムントと」
「ジークムント」
「そうです」
 それだというのである。
「それこそが貴方の名前です」」
「私はジークムント」
 今その名前を己に刻み込むのだった。
「では私はこの剣を」
「はい」
「それを握りましょう」
 今それを実際に握り締めたのだった。
「ではその剣により私は己の窮地を救います」
「はい、その時の為の剣なのですから」
「いと聖なる愛の最高の危急の時に」
 彼はまた言った。
「憧れの愛の迫る危急の時に」
「どうかその剣を」
「危急が我が胸にも絵師を賭しての行為に追い立てる」
 その言葉と共に剣の柄を握った。
「この剣の名も今わかった」
「その名前は」
「ノートゥング!」
 それだというのだ。
「尊き光よ。その刃の輝きを私に見せるのだ」
 その言葉と共に力を入れる。すると。
 抜かれた。白銀の光が今や式の中を照らし出した。まるでその剣そのものが光を出しているかの様に。今輝きを放ったのであった。
「今からヴェルズングのジークムントが御前を持つ。父は私達の剣として御前をここに残してくれたのだ」
「私達を」
「そう、だから」
 ジークムントはさらに言うのだった。
「私は今ジークリンデを妻とする」
 このこともだった。
「敵の家から救い出し春の微笑む家に赴くのだ」
「春の中に」
「ノートゥングが護る。例え私が愛の為に死のうとも」
「では私もまた」
「花嫁にして妹よ」
「夫にして兄よ」
 互いを見詰め合い言い合うのだった。
「かくてヴェルズングの血よ栄えるのだ!」
「私達と共に」
 恍惚とした声で言い合い屋敷を後にする。今運命が大きく動き出した。



偶然に出会ったのは兄妹だったとは。
美姫 「しかも、敵地も敵地である屋敷にまで逃げてきた上でだしね」
二人して逃げ出すみたいだけれど。
美姫 「無事に逃げれるかしらね」
一体どうなるのかな。
美姫 「次回も待っていますね」



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