『椿姫』




              第二幕 田舎家にて


 椿の花が教える時にアルフレードはヴィオレッタの元に行った。そしてそこでヴィオレッタは彼を受け入れた。そして二人の交際がはじまったのであった。
 ヴィオレッタは娼婦を止めアルフレードと二人でパリを離れた。そしてパリの郊外にある森の中に小さな家を設けそこに二人で住むようになったのであった。
 庭と窓のあるささやかながら綺麗な家であった。その中から赤と薄い茶色の狩猟服を着たアルフレードが出て来た。
「夢みたいだ、本当に」
 その手に持つ猟銃を見詰めながら言った。
「彼女が僕と一緒に暮らしてくれるなんて。その夢の生活がここではじまってもう三ヶ月になる」
 うっとりとした様子で言う。
「パリにいた時の彼女じゃない。この静かな場所に満足してくれている彼女が僕の側にいてくれる。パリでの優雅な生活や賛辞の声よりも僕を選んでくれたんだ」
 彼は今自分の幸せを心の奥底から感謝していた。
「僕の若い情熱も穏やかな微笑みで包み込んでくれている。もう過去はいらない」
 今度は過去を否定した。彼女の過去を。
「今と未来さえあれば。他には何にもいらないんだ」
 もう彼女のこと意外は考えられなくなってしまっていた。だがそれこそが彼の望みであったのだ。他のことには思いが浮かびはしなかった。だがそういったことについても考えなければならない時が来るものである。
「おや」
 見ればヴィオレッタの召使が屋敷にやって来ていた。身軽な旅行服であった。
「君は一体」
「旦那様」
「ここ暫く姿を見掛けなかったけれど。どうしたんだい?」
「パリに行っておりまして」
 彼女はそう答えた。
「パリに」
 アルフレードはそれを聞いて首を傾げた。
「どうしてまたそこに」
「奥様に言われまして」
「ヴィオレッタにかい」
「はい。お金を作るようにと言われまして」
「お金を。一体何の為に?」
「ここでの生活を送る為だそうです」
「ここでの」
 アルフレードはそれを聞いて考え込んだ。
「そういえばここで暮らすようになってもう三ヶ月が経つけれど」
「はい」
「僕はプロヴァンスの実家から仕送りがある。けれどヴィオレッタはそれを受け取ってはいないね」
「そうですね」
「では彼女はどうやってお金を作っていたんだい?あの仕事はもう止めてしまったし」
「ものを売って」
 召使はそう答えた。
「ものを」
「はい。馬や馬車を。その他にも多くのものをお売りになって」
「何だって。まさかそうやって」
「はい。御主人様はそうやってここでの暮らしの為のお金を作られていたのですよ」
「知らなかった。彼女がそうやってお金を作っていただなんて」
「御主人様に言われていまして」
「何と」
「旦那様には決して言わないようにと。そう言われていました」
「そうだったのか。それでどれだけのお金を」
「一〇〇〇程」
「それだけなんだね」
「はい」
 召使はアルフレードの問いに頷いた。
「よし、それ位ならどうとでもなる」
 彼はそう言って顔を引き締めさせた。
「今からパリに行ってくるよ。日が暮れるまでには戻る」
「わかりました」
「ただ内容はヴィオレッタには秘密でね。いいね」
「ええ」
「それじゃあすぐに行って来る。ヴィオレッタに宜しく言っておいてくれ」
 彼はそう言い残して屋敷の中に戻ると正装になって何処かへと向かった。その行く先はもう言うまでもないことであった。
 彼が出発して暫く経ってヴィオレッタが屋敷から出て来た。彼女は召使の姿を認めると家の前にある屋外用の椅子とテーブルに招き寄せた。樫の木で出来ていた。
「お金はどうなったかしら」
「今作って参りました」
「そう。御苦労様」 
 ヴィオレッタはそれを聞いて満足そうに頷いた。
「それでアルフレードは?急に姿が見えなくあったけれど」
「旦那様がパリに向かわれました」
「あら、パリに」
 ヴィオレッタはそれを聞いて意外そうな声をあげた。
「また珍しいわね。どういう風の吹き回しかしら」
「そこまでは存じませんが」
 彼女はアルフレードとの約束を守りそう言って誤魔化した。
「日が暮れる前には帰られるということですので。御安心下さい」
「そうなの」
「はい。後は」
「すいません」
 そこで小奇麗な身なりの男が二人のところへやって来た。
「ヴィオレッタ=ヴァレリーさんの別荘はこちらでしょうか」
「別荘ではありませんが」
 ヴィオレッタはその男に答えてゆっくりと立ち上がった。
「今はここに正式に住んでおりますので」
「そうだったのですか」
「そして何か」
「いえ」
 男は畏まってから応えた。
「まずはお手紙を。先程ポストに入っておりました」
「有り難うございます。何通でしょうか」
「二通程」
「どんなものでしょうか」
「詳しくはこちらに」
「はい」
 ヴィオレッタはそれを受け取った。そしてまずは上の手紙を読みはじめた。
「あら」
 ヴィオレッタはそれを見て明るい声をあげた。
「どうされたのですか」
「フローラからの手紙よ」
 ヴィオレッタは嬉しそうに召使に対してそう述べた。
「私の新しい家を見つけたから。今晩の舞踏会に誘って来ているのよ」
「どうされますか?」
「気持ちは有り難いのだけれど」
 彼女は目を閉じて口元に笑みを浮かべながら首を横に振った。
「今はね。そうしたことには興味がなくなったのよ」
「左様でございますか」
「今はここでアルフレードと二人で暮らしていることが。何よりも幸せだから」
「わかりました。それでは」
「ええ。お断りするわ」
「そしてもう一通ですが」
 男がここで声をかけてきた。
「これね」
「はい」
「何なのかしら」
 ヴィオレッタは呟きながら手紙の封を切った。そして読みはじめた。
「あら」
「どうされたのですか?」
 召使がまたヴィオレッタに対して問うた。
「今日来られるのね」
「どなたがでしょうか」
「お待ちしていた方よ」
 ヴィオレッタは彼女に対してそう答えた。
「やっと来られるのね。それは何時かしら」
「もう少しかかります」
 男がそれに応えた。
「もう少しなの」
「はい。旦那様は歩いて来られていますので」
 彼はそう言った。
「執事である私は先に馬で来ましたが。もう少しお待ち下さい」
「わかりました。それでは待たせて頂きます」
「はい」
 男はそれを聞いてその場を後にした。ヴィオレッタは召使も下がらせその場に一人となった。そして椅子の上に座り込んだ。白い服が樫の木の褐色の上に映える。それはまるで白い椿の様であった。
「あの」
 初老の男の声がした。
「はい」
 ヴィオレッタはそれを受けて声をあげた。
「どなたでしょうか」
 そうは言いながらも誰なのかは内心わかってはいた。だがあえてこう言ったのである。
「どうも」
 見れば品のいい紳士であった。清潔な正装で服装を整えている。その色はシックに黒で統一されている。そしてシャツは白であった。見ればネクタイも地味な色であり黒い靴も油が塗られている。
 そしてシルクハットの下の顔は丸眼鏡をかけ、白い顎鬚と口髭を短く切り揃えている。その顔は何処かアルフレードを思わせるものがあったが顔立ちは彼よりさらに理知的な趣があった。
「こんにちは」
 彼はシルクハットを脱ぎヴィオレッタに対して挨拶をした。見れば白い頭はもう髪の毛がかなり薄くなっていた。
「ヴィオレッタ=ヴァレリーさんですね」
 男は彼女にそう尋ねてきた。
「はい」
 ヴィオレッタはそれに頷いた。それからまた尋ねた。
「貴方は」
「私はジェルモンと申します」
「ジェルモン」
 ヴィオレッタはその名を聞いてその整った顔を強張らせた。
「まさか貴方は」
「はい」
 彼はそれに頷いた。
「私はアルフレードの父でございます」
「そうでしたか」
 沈痛な顔になった。だが態度までは崩さない。冷静さを何とか保ちながら彼を向かい合った。
「そして今日は一体どのような事情でこちらに」
「息子のことで」
 彼はヴィオレッタを見据えながらそう言った。
「あれは世間知らずな男でして」
「そうなのですか」
「詰まらない女に惑わされ、道を踏み外そうとしている。嘆かわしいことです」
「そえは誰のことでしょうか」
 その整った眉を顰めさせて彼に問うた。
「あえて申しますまい」
「お話はそれだけですか」
 キッとしてそう問う。
「それでしたらもうお話することはありませんが」
「いえ、私の方はあります」
 ジェルモンは引き下がることなくそう言い返した。
「アルフレードの為にも」
「彼の為にもですか」
「そう。本当に愚かな男でして。自分の財産をその怪しげな女に貢ごうとしていると聞いては。放ってはおけません」
「あの方からはそのようなものを受け取ってはおりません」
「一切ですか」
「一切です」
 毅然としてそう返す。
「そうですか」
 彼は一端目を閉じた。そしてまた開いてこう言った。
「果たしてその御言葉が信じられるでしょうか」
「私が信用できないと」
「あえて言わせて頂きましょう」
 彼は臆するところがなかった。
「貴女の様な立場の方を信用するというのは。無理があるのではないでしょうか」
「失礼な」
「失礼かどうかという問題ではありません」
 ジェルモンはなおも言った。
「それが貴女達の仕事なのですから。違いますか」
「確かに私の前の仕事はそうでした」
 顔を俯け苦しそうにそう言った。
「ですが今の私は。あの仕事は止めました」
「では何故」
 彼は尚も問うた。
「これだけの立派な邸宅が」
 後ろにある邸宅を見ながらそう言う。確かに小さいながらも綺麗にまとまった邸宅であった。
「信用なされないのですね」
「それは無理というものです」
「わかりました」
 彼女は覚悟を決めた。そしてジェルモンを見据えてこう言った。そして家の玄関の前の鈴を鳴らした。すぐにあの召使がやって来た。
「何か」
「あれを持って来てくれるかしら」
 彼女に顔を向けてこう言った。
「あれを」
「すぐにね」
「わかりました」
 彼女は一旦姿を消した。そして暫くして何かの封筒を持って戻って来た。
「どうぞ」
「有り難う」
 彼女を下がらせた。そしてあらためてジェルモンと向かい合った。
「これを」
 そう言ってその封筒をジェルモンに差し出す。
「これは」
「そこに私の誠意があります」
 彼女はそう言った。
「私の誠意が」
「誠意ですか」
 言葉には含ませなかったもののそこには何処かシニカルな色合いがあった。
「そのようなものが」
「御覧になって下さい」
 ヴィオレッタは多くは言わなかった。そう述べただけであった。
「是非共」
「わかりました」
 この時までジェルモンは彼女を全く信用してはいなかった。これは彼が特に偏見を持った人物だからなのではない。あくまで世間の常識というものに沿った考えで述べているだけであったのだ。
 封筒を開けた。そしてその中にあるものに目を通す。それを見るうちに彼の顔がそれまでの落ち着いた、だが冷たいものから驚愕のそれに一変していった。
「これは一体・・・・・・」
「・・・・・・・・・」
「貴女はまさか」
 ヴィオレッタは答えようとはしない。それが何よりの答えであった。
「何故そこまでして」
「愛故です」
 彼女は沈痛な顔でそう言った。
「私の過去のことも確かにあります」
「・・・・・・・・・」
「ですが今は。彼の為に全てを捧げたいのです」
「しかしそれでは」
「構いません」
 目を閉じ首を横に振った。
「過去の愛を知らず、束の間の宴にのみ生きていた私に愛を教えてくれた方なのですから。何を迷うことがありましょう」
「そうなのですか」
「おわかりになって頂けたでしょうか」
「充分です」
 封筒の中に書類を入れた。そしてテーブルの上にそれを置いてからまた言った。
「ですが私はそれでも」
「わかっております」 
 その目に全てを悟った諦めの色が浮かんだ。
「それも私には感じられていました」
「そうだったのですか」
「私の様な者には。愛という幸福は」
「そのうえでお話したいのです」
 ジェルモンもまた沈痛な顔になっていた。言いたくはなかったがどうしても言わずにはいられなかったのだ。
「アルフレードのことと」
「はい」
「その妹のことで」
「妹、彼に」
「神は私に二人の子供を与えて下さいました。一人はアルフレード、そしてもう一人は」
「娘さんですね」
「そうです。私にとってはかえがえのない存在です」
 彼は静かに言葉を選びながらそう言った。
「もうすぐ他の者の妻となります。ですがその時に」
「アルフレードのことが噂になれば」
「おわかりでしょう。ですから」
「わかりました」
 ヴィオレッタは静かに頷いた。
「それでは暫くの間」
 彼女は苦渋の決断を下した。
「アルフレードから」
「いえ」
 だがジェルモンはまだ言った。
「私がお願いしているのはそんなことではありません」
「まさか」
 それを聞いたヴィオレッタの顔色が一変した。
「貴方はまさかそれを私に」
「はい」
 ジェルモンは頷いた。
「お願いできますか」
「何と恐ろしいことを」
 彼女はそう言ってそれを拒絶しようとした。
「私が彼をどれだけ思っているのか。御存知になられた筈です」
「それでもです」
 彼は言った。
「私にはあの人だけしかいないのです」
 彼女は必死にそれを拒もうとする。
「あの人が私にとってはもう全てだというのに」
「それでもです」
 ジェルモンも引き下がることはなかった。
「私はもう長くはないのです」
「それもわかります」
 ジェルモンは答えた。
「そのお顔を見れば」
「やはり」
「胸を患っていられますね」
「はい」
 ヴィオレッタはそれを認めた。
「もう長い間。立つのも辛い程に」
「やはり」
「血こそ吐きはしませんが。次第に命の灯が弱くなっていくのがわかります」
 結核であった。この時代は死の病であった。ヴィオレッタの胸の病はこれだったのである。だからこそ彼女はアルフレードに全てを捧げようとしていたのだ。
「その残り僅かな私の命を彼に捧げようというのに」
「犠牲は大きいのもわかっています」
 ジェルモンの顔も次第に苦しいものとなってきた。
「ですが」
「アルフレードのことですか」
「はい」
 彼は息子のことであることも認めた。
「あれはまだ若いのです」
「しかし」
「息子のこれからのことも」
 彼はやはり父親であった。父親とは世界の権威、それも良識という存在の権威であるのだ。そうでなければならない。そしてジェルモンはその化身として今ヴィオレッタの前に立っていたのであった。
「今はいいでしょう」
 彼はその良識と分別のうえに立って話をはじめた。
「ですが時が過ぎ去ったならば」
「それは」
 ヴィオレッタはそれを拒絶しようとする。だがジェルモンはそれを許そうとはしない。
「甘い感情も過去のものとなり。そして」
「それ以上は」
「おわかりになられたでしょう。でしたら」
「それでも」
 ヴィオレッタはアルフレードと別れたくはなかった。
「私はこれからもアルフレードと」
「それが出来ないのです」
 ジェルモンはあくまでこの世界の良識という観点から言った。
「本当に。おわかりになられませんか」
「私の過去は消えないのでしょうか」
「はい」
 このうえなく冷酷な言葉であった。彼女にとってこれ程冷たい言葉があったであろうか。
「残念ながら」
「ああ!」
「私の息子と娘の為に」
「死ねというのですか!」
「そうではありません」
「けれどそれは同じことです!」
「神がそう申されているのです」
「では神も私を」
 彼女もまた神を信じていた。その神の言葉だと聞かされた時ヴィオレッタの目の前はさらに暗くなってしまった。絶望の暗闇であった。
「私を許しては下さらないというのでしょうか」
「そういうことになります」
 ジェルモンも言いたくはなかった。だが彼はアルフレードとその妹、すなわち子供達の為にあえてこう言ったのである。
「ですが貴女は二人にとって天使となります」
「何故」
「二人を救われるからです。貴女が身を引かれることによって」
「私が身を引くことによって」
「はい」
「それしかないのですか」
「さっきから申し上げている通りです」
 ヴィオレッタはこらえていた。目の前の暗黒が全てを覆うのに耐えることに。だがそれでも決断をしなければならなかったのだ。それもわかっていた。
「さあ」
「・・・・・・わかりました」
 心の奥底から搾り出すようにしてこう言った。
「アルフレードに伝えて下さい」
「宜しいのですね」
「ええ」
 蒼白になりながらもこう述べた。
「そしてお嬢様に」
「わかりました」
「幸福と共に不幸があるということを」
「宜しいのですね」
「私の様な者には」
 泣きそうになるがそれは必死に堪えていた。泣くわけにはいかなかったのだ。
「こうなるしかなかったのでしょう」
「仕方のないことなのです」
 ジェルモンはまた言った。
「この世の中というものの創りがそうなのですから」
「今程それを恨めしいと思ったことはありません」
 目を閉じ、首を横に振ってこう言う。
「けれど道を踏み外してしまった者には。夜の世界の者には。所詮愛なぞというものは適わぬものなのでしょう」
 そう思うしかなかった。そう思わないと心が壊れそうであったのだ。ヴィオレッタも一人の女性であった。
「では彼には」
「はい」
「何をすればよいでしょうか」
「愛していないと仰れば」
「それは駄目です」
 首を横に振ってそれは否定した。
「あの人は信じはしないです」
「ではここを去られれば」
「それもまた」
 これもまた否定した。
「彼は私を探すでしょう」
「ではどうすれば」
「私に考えがあります」
 沈んだ声で言った。
「これでしたら」
「では貴女にお任せします」
「有り難うございます」
 ジェルモンも辛かった。心が潰れそうであった。しかし子供達への想いが彼を支えていたのであった。こうした意味で今二人は互いに愛を争わせていたのだ。そしてジェルモンが勝った。彼だけならばこうはならなかったであろう。しかし彼は子供達の為にあえて鬼となっていたのであった。全てを犠牲にする哀しい鬼であった。
「けれどあの人は私を恨まれるでしょう」
「アルフレードが」
「はい。人とはそういうものです」
 彼女は言った。
「何も告げないで去られると。疑いが生じますから」
「あれには私が伝えておきましょう」
「宜しいのですか?」
「せめてこれ位は」
 彼は自分の言っていることもしようとしていることもわかっていた。だからこそこの役を買って出たのだ。また出ずにはいられなかったのだ。
「私の役目です」
「有り難うございます。けれど」
 それでもヴィオレッタの顔は晴れはしなかった。
「私はもう」
「貴女には何と申し上げてよいかわかりませんが」
 ジェルモンは言った。
「またよいことが。神がおられる限り」
「神ですか」
 ヴィオレッタは神の名を聞いてまた哀しい顔になった。
「神は私の様な者を救われはしません」
「それは」
 だがジェルモンにこれを否定することはできなかった。キリスト教の世界において夜の世界とは忌むべきものである。彼が今ここに来たのもヴィオレッタが夜の世界の住人だからである。神は昼の世界にこそ存在しているのである。夜の世界には存在してはいない。
「ですが貴方だけには知って頂きたいのです」
「このことをですか」
「はい。アルフレードの為に、そしてあの人の為に身を引いたことを」
「わかりました」
「私はあの人の為に生きてきたということを」
「わかりました」
 ジェルモンはまた頷いた。
「本当に。何と申し上げてよいか」
「これが私の運命なのですから」
 ヴィオレッタはもう達観していた。
「夜の世界の中でしか生きられない。そして夜の中に死ぬ。それが私の運命なのです」
「夜ですか」
「一旦入ると出ることはかなわない世界です」
 目を伏せて言う。
「絶対に。今それがわかりました」
「申し訳ありません」
「貴方が謝れられることはありません」
 それはわかっていた。おそらく昼の世界にいる者なら皆こうしたであろうからだ。夜の世界の住人ではない。神のいる世界にいるのだから。
「誰でも」
「では」
「はい。さようなら」
 これはジェルモンにだけ言ったのではなかった。無論アルフレードにだけ言ったのでもない。彼女が見出した安住の地、そして昼の世界、未来にも告げたのであった。
「永遠に」
「お元気で」
「はい」
 二人は別れた。ジェルモンは帰って行く。
「暫くこの辺りにおります」
「何故でしょうか」
「あれに伝えなければならないでしょう」
「あっ」
 そうであった。アルフレードには伝えておかなければならないのだ。
「貴女が去った後で。伝えておきます」
「かたじけないです」
「いいのです。私はこの為に来たのですから」
 最初の偏見はもうなかった。昼の世界の住人としての偏見はもうなかった。だがそれでも彼は護らなければならないものがあったのだ。それに逆らうことはできなかった。
「それでは」
「はい」
 ジェルモンは姿を消した。ヴィオレッタはそれを見届けた後で屋敷の中に戻った。それから暫くして召使を連れて玄関に姿を現わした。
「それじゃあお願いね」
「はい」
 召使は彼女に対して頷いた。
「けれど・・・・・・宜しいのですか?」
「いいの」
 ヴィオレッタは力のない笑みを浮かべながらそう言った。
「この手紙を送られたならば」
「もう決めたのよ」
 召使の言葉を振り払うようにして言う。
「だから・・・・・・貴女はもう気にしないで」
「わかりました。それでは」
「お願いね」
「はい」
 召使は出ようとする。その手には一通の手紙がある。だがここでアルフレードの姿が見えた。
「只今」
「アルフレード」
 ヴィオレッタは彼の姿を認めて驚きの声をあげた。
「早かったのね」
「用事が早く終わってね」
 彼はそう答えた。
「君にもいい話だと思うよ。それはすぐにわかるよ」
「そうなの」
「うん。ところでどうしたんだい?」
「何が?」
「いや、顔が随分青いからさ。気分でも悪いの?」
「ええ、それは」
 それを言われて内心かなり狼狽した。気付かれたのでは、とも思った。だがそれはあえて隠したうえで答えた。
「ちょっと。風邪をひいたらしくて」
「頭が痛いのかい」
「いえ、それはないけれど」
 どうやら気付いた様子はない。それに安堵しつつ演技を続ける。
「何か。身体がだるくて」
「それはいけないね」
 アルフレードは何も疑わずこう声をかけてきた。
「じゃあ休んだ方がいいよ」
「有り難う。けれど今は」
「何か事情があるようだけれど無理はしないでくれ」
 心配して気遣う。
「君が病気になれば僕も心が塞ぐ。君は僕の全てなんだから」
「私が」
 ヴィオレッタはそれを聞いてアルフレードの顔をみやった。
「貴方の全てなのね」
「そうさ。最初に会った時からそうだった。だから無理はしないでくれ、いいね」
「ええ、有り難う」
 心の奥底から嬉しかった。だがそれでももうしなければならなかったのだ。それが彼女の心を一層締め付けた。
「ところで一つ話しておきたいことがあるんだ」
「何かしら」
「この前僕に一通の手紙が来たよね」
「少し前のあれかしら」
 そう言えば思い当たるふしがあった。
「そう、それなんだけれど」
「何の手紙だったのかしら」
「僕の父からの手紙でね」
「御父様の!?」
「!?」
 ヴィオレッタが突然驚きの声をあげたのでアルフレードは怪訝そうな顔をした。
「どうしたの?」
「えっ!?」
「そんなに驚いて。確か僕の父のことは何も知らない筈だけれど」
「ま、まあそうだけれど」
 ヴィオレッタはまた誤魔化した。誤魔化さねば成らない自分自身が嫌であった。
「それでどんな内容だったのかしら」
「手紙のこと?」
「ええ。何て書いてあったのかしら」
「君との交際のことだよ」
「そうだったの」
 内容はわかった。もう聞くまでもないことであった。
「随分と厳しいことが書いてあったよ。けれど気にすることはないよ」
「どうしてかしら」
「父はわかっていないんだ、君のことを」
 彼はかなり楽天的であった。
「けれど一度会ったら変わると思うよ」
「一度会ったら」
「そうさ、きっとね」
 彼は甘かった。若さ故の甘さであった。だがそれには気付かない。若さ故に。
「アルフレード」
 ヴィオレッタはそんな彼に対して言った。
「何だい?」
「いえ」
 言おうとしたが止めた。
「実はね」
 だがそれでも言おうとする。
「うん。どうしたんだい?」
「少しここを離れたいのだけれど」
 やっと言えたがそれは誤魔化しの言葉であった。
「いいよ。何処へ?」
「少しね。それじゃあ」
 アルフレードを見た。一瞬であったが確かに見た。二度と忘れないように。
「さようなら」
 そう言ってそこから去った。そしてそこから永遠に姿を消したのであった。
「どうしたんだろう」
 アルフレードは首を傾げながらもそれが何故かよくわからなかった。
「あんなに悲しそうに。悲しむ理由なんてないのに」
 やはり彼は何もわかってはいなかった。これは時として勇気になる。無知故の勇気だ。
「まあいいか。少し休もう」
 そう言ってそこにあるテーブルに座った。そして本を読みはじめた。読みながら父も待つことにしたのだ。
 ふと思うところがあって懐から懐中時計を取り出す。見ればもういい時間であった。
「今日はもう来ないのかな」
 時間を見ながらそう呟いた。
「まあいいか。明日もあるし」
 ここで誰かがやって来るのが見えた。庭の方だった。
「?あれかな」
 アルフレードはそれが父であるかと思った。だがここで別の方向から声がした。
「こんにちは」
「はい」
 彼は立ち上がってそちらに声を送った。
「アルフレード=ジェルモンさんはおられますか?」
「僕ですけれど」
 それに応えながら玄関の方に歩いて行く。
「どうしたのですか?」
「郵便です」
 見れば郵便職員であった。彼に一通の手紙を差し出していた。
「これを」
「これは」
「先程頂いたのですよ。とある貴婦人から。丁度馬車をお乗りになっておられまして」
「馬車で」
「ええ。パリに向かわれる途中でした。そこで御会いして頼まれたのですよ」
「また運がいいね」
「おかげさまで。チップも貰いましたし」
「それは何より。じゃあ僕も」
 彼もそれに感じるところがあって懐から財布を取り出した。そして金貨を彼に渡した。
「少ないけれどこれを」
「有り難うございます」
 彼はそれを受け取って満足そうに頷いた。
「それではこれで」
「うん」
 郵便局員は立ち去った。アルフレードはあらためてテーブルの側の椅子に座り手紙の封を切った。まずは名前を見た。
「!?」
 何とそれはヴィオレッタからの手紙であった。彼はまずそれをいぶかしんだ。
「どうして彼女から」
 今さっきまで共にいたというのに。それがどうしてなのか不思議で仕方なかった。
 読みはじめる。最初は何が書いてあるのかわからなかった。だが次第に理解できてきた。
「な・・・・・・」
 それは別れの手紙であった。読んでいるうちに驚愕の色が身体全体を覆った。アルフレードはその絶望に耐え切れずまたしても立ち上がった。
「嘘だ、そんな・・・・・・」
 蒼白となり呻く。だが手紙に書いてあることは変わらない。それが彼の心をさらに乱した。
「ヴィオレッタが僕を。そんな・・・・・・」
 ここで玄関にまた誰かが姿を現わした。それはすっとアルフレードの方にやって来た。
「アルフレード」
「お父さん」
 見ればそれはジェルモンであった。アルフレードは父に顔を向けた。
「来られていたんですか」
「御前のことが気になってな」
 彼は沈痛な顔でそう答えた。
「御前に何が起こったのかはわかっている」
 彼は優しい声で息子に対してこう言った。
「だからこそ聞いて欲しい。いいか」
「僕にかい?」
「そうだ」
 彼は言った。
「御前はパリに出るまでずっと私達と一緒にいた。故郷のプロヴァンスに」
「うん」
 彼は椅子に座った。そして落胆したまま父の話を聞く。
「それは覚えているだろうか。あの優しい海と陸を」
「忘れる筈ないじゃないか」
 彼は弱い声で父にそう述べた。
「今までずっと住んでいたのに」
「そうだろう。ではあの太陽も覚えているな」
「うん」
 アルフレードはまた頷いた。
「あのプロヴァンスにこそ御前の居場所があるのだよ。あの地こそが御前の安住の地なんだ」
「パリじゃなくて」
「そう。そしてここでもない」
 彼ははっきりと言った。
「ここにいては御前も道に迷うところだった。だがそうはならなかった」
「お父さんのせいで?」
「違う」
 それには首を横に振った。
「神の御導きなんだ。全ては」
「僕は神により今の仕打ちを受けているんだね」
「何故そんなことを言う。御前がパリに出た時から我が家は変わった」
「そうだったの」
 声にはもう魂が宿ってはいなかった。虚ろな声となっていた。
「家は悲しみに閉ざされた。そして御前の話を聞く度に私は辛かった。心配でならなかったのだ」
「そしてここまで来たんだね」
「来てよかった。御前は救われたんだ」
「どうしてそんなことが言えるのさ」
 彼は首を横に振ってこう言った。
「僕は。全てを失ったというのに」
「御前は何も失ってはいない」
 これは慰めではなかった。真実であった。
「全てを失ってしまった人は別にいる。その人は御前の為に犠牲になったのだよ」
「嘘だ」
 彼はそれを否定した。
「そんな筈がない。そんな筈が」
「いや、本当のことなのだよ」
 この上なく優しい声であった。顔も。それは息子を愛する父親のものであった。
「全ては。そして御前は」
「僕は認めない」
 そう言ってまた首を横に振った。
「こんなこと。認められる筈がないじゃないか」
「何を言っているんだ」
 ジェルモンは立ち上がったアルフレードに対して言った。
「聞き分けられないか。私の言葉が」
「お父さんの言葉じゃないんだ」
 彼は父の言葉とは別のことを見ていたのだ。
「ヴィオレッタが何処に行ったのかはもうわかっているんだ」
 彼女のことはわかっているつもりであった。何もわかっていなくてもわかっているつもりであったのだ。
「パリなんだね、そこの夜会にいるんだね」
 夜の世界の女は必ずそこにいる。一度そこに顔を出したならばわかることであった。
「何を考えているんだ、アルフレード」
 彼は息子に対して問うた。
「決まっている、行ってやるんだ」
 彼はそう言って玄関に向かった。
「見ていろ、この侮辱」
 怒りで身体を震わせながら言う。
「必ず晴らしてやる!」
「あっ、待つんだ!」
 だが父の制止は間に合わなかった。アルフレードは馬に乗りパリに向かった。道はもう暗くなりはじめていた。夜の世界が訪れようとしていたのであった。





無理矢理引き離されたというのに。
美姫 「愛しい人から恨まれるなんて、可哀想ね」
うぅぅ、やりきれないな。これからどうなるんだろう。
美姫 「続きが気になるわね」
ああ、どうなってしまうのかな。
次回も待っています。
美姫 「待ってますね」
ではでは。



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