『椿姫』






  第一幕
                  出会い

 パリのとある豪華な屋敷において華やかな舞踏会が繰り広げられていた。もう真夜中だというのにそこだけは明るかった。左手に大きな暖炉が、そして右手には鏡がある。その中央には様々な料理が置かれたテーブルがあった。そのテーブルは大理石であった。
 そのテーブルの席に一人の女性が座っていた。スラリとした背の高い女性であり白い絹の豪奢なドレスを身に纏っている。その顔は面長で鼻が高く黒く長い絹の如き髪と琥珀の様に黒い目を持っている。鼻は高くそれが全体の美貌を決定的なものとしていた。その顔は白くまるで雪の様であった。化粧をしていてもそれは隠せず身体全体に何かしらけだるいものも漂わせていた。胸には赤い椿がある。
 彼女の名はヴィオレッタ=ヴァレリー。パリの社交界の花として知られている。だがそれは表立った花ではないのである。
 彼女は娼婦であるのだ。貴族や金持ち達を相手とする高級娼婦である。日本で言うならば太夫であろうか。田舎の貧しい家に生まれたがパリに出て針子をしているうちにあまり気品のよくない貴族に出会い彼によって娼婦とされたのである。その美貌と貧しい生まれであることを感じさせない生まれながらの気品と娼婦とは思えない程の慎ましやかな性格によって忽ち今の座を得たのである。今この場にいるのはそうした夜のパリの住人達であったのだ。
「やあやあ」
 その場に何人かの男達が入って来た。
「遅れて申し訳ありません」
「遅いですぞ、全く」
 背の高いフロックコートの男が彼等に対して言った。
「何をしておられたのですかな」
「いえね、ちょっと」
 男達の中の一人がそれに答えた。
「フローラの家でトランプに興じておりまして」
「ほう」
「それで遅れたのです。申し訳ありません」
「左様だったのですか」
「はい」 
 そこに当人が出て来た。赤い髪に青い目を持つ女性であった。青いドレスを身に纏っている。
「申し訳ありません、私のせいで」
「いえ」
 席に座っていたヴィオレッタがそれに答えた。
「そんなこと。構いませんわ」
「宜しいのですか?」
「はい」
 ヴィオレッタは頷いた。
「まだ夜は長いのですし。皆さん」
 そう言って席を立った。
「まずは飲みましょう」
 その手に杯を持つ。クリスタルの杯であった。そこにはシャンパンがある。
「この賑やかな宴は杯を重ねてこそ楽しめるものなのですから」
「全くです」
 客達がそれに頷いた。
「それでは飲むと致しますか」
「はい」
「お待ち下さい」
 だがそこにフローラと先程のフロックコートの男がやって来た。見ればこのフロックコートの男は中々の美男であった。髪は白く顔は彫が深く緑の目の色は深かった。まるで森の様に。
「ガストーネ男爵まで」
 ヴィオレッタは彼の名と爵位を口にした。
「一体どうされたのですか?」
「どうされたも何もありませんよ」
「全くですわ」
 フローラもそれに頷いた。
「お身体に障りますぞ。あまり飲まれると」
「これのことですか」
 ヴィオレッタはクリスタルの中にあるシャンパンを見て言った。そのシャンパンは水晶の中でシャンデリラの光を浴び色のついた光を放っていた。水晶もまたそのシャングリラの光を放ち七色に輝いていた。それ等の光がヴィオレッタの白い手を照らしていた。
「勿論ですよ」
 ガストーネは答えた。
「あまり飲み過ぎると」
「本当にどうなっても知りませんよ」
「お気持ちはわかりますが」
 ヴィオレッタはそれに応えた。
「病は気からとも申しましょう。私は今気を晴れやかなものにしたいのです」
「だから飲まれるのですか?」
「はい」
 彼女は頷いた。
「享楽に身を任せる・・・・・・。それが私にとって何よりの薬なのです」
「左様ですか」
 ガストーネもフローラもそれを聞いて哀しい顔になった。ヴィオレッタはその間にそのシャンパンを口に入れた。
「はい。人生は短いもの。特に私にとっては」
 ヴィオレッタは苦しそうな顔でそう述べた。
「ならば楽しまなくては。違うでしょうか」
「それもまた人生ですが」
 だがガストーネはそれに賛同したくはなかった。
「別の生き方もありますよ」
 そしてこう言った。ヴィオレッタにはその生き方を選んで欲しかったのである。
「別の生き方ですか」
 それを聞いて自嘲めいた笑みを浮かべた。力のない笑みであった。
「私に。娼婦の私に他にどのような生き方があると」
「ありますよ」
 フローラは言った。
「きっと。見つけたいと思いませんか」
「生憎」
 首を静かに横に振った。
「このパリで。華やかに生きていたいです」
「そうですか」
「なら仕方がありませんな。私達が言えるのはここまでです」
「男爵」
「マダム、いいですから」
 眉を顰めさせて問おうとするフローラにそう言った。そしてまた言った。
「それは置いておきまして」
「はい」
 彼は話題を変えにかかった。
「実は私に友人が一人おりまして」
「お友達ですか」
「ええ。貴女に御会いしたいと言っているのですが宜しいでしょうか」
「構いませんよ」
 ヴィオレッタはにこやかに笑ってそう答えた。
「どなたでも。私なぞに御会いしたいという方はどなたでも歓迎させて頂きます」
「わかりました。それでは」
「どなたなのですか?」
 ヴィオレッタはそれは問うた。
「男の方ですか?それとも女の方ですか?」
「男の方です」
 ガストーネはそう答えた。
「男の方」
 ヴィオレッタはそれを聞いて一瞬であるが顔を顰めさせた。娼婦である彼女にとって男とは特別なことを意味しているのである。
「宜しいですね」
「はい」
 彼女は胸にある椿を確かめてからそれに応えた。
「今日は。宜しいですわ」
「わかりました。それでは」
「はい」
 ガストーネはそれに従い後ろに姿を消した。ヴィオレッタはそれを見届けながら一人心の中で考え込んでいた。これからの夜のことを。
(今日もまた朝まで二人なのね)
 仕事のことを考えていたのだ。
(それが私の仕事なのだから。そうしないと私は)
 ここで胸が急に苦しくなった。
「うっ」
「ヴィオレッタ」
 それを見たフローラが慌てて駆け寄って来た。
「一体どうしたの!?」
「いえ、何でもないわ」
 ヴィオレッタは無理に笑って気遣うフローラに心配をかけまいとした。
「ちょっとね。お酒にあたったかしら」
「じゃあもう休んだ方が」
「大丈夫よ」
 しかしそれは断った。そしてこう言葉を返した。
「もう大丈夫だから。それより」
「ええ」
「ガストーネさんの連れて来られる方はどんな方なのかしら。楽しみね」
「そうね」
 フローラもそれに相槌を打った。
「けれどそんなに心配する程のこともないと思うわ」
「そうかしら」
「あの方が紹介して下さった方は紳士ばかりだし。今までそうだったでしょ」
「ええ、まあ」
 それは他ならぬヴィオレッタが最もよくわかっていることであった。それに頷いた。
「だから気に病む必要はないわ。それより楽しみましょう」
「飲むの?」
「違うわよ。どうして貴女はそうやってすぐにお酒に向かうのかしら」
「すぐに逃げられるからかしら」
 寂しげな笑みを浮かべこう答えた。
「お酒を飲めば。何もかも忘れられる」
「そうなの」
「他にも理由はあるけれど。けれど私にお酒は似合ってるでしょう?」
「そういう問題じゃないと思うわ」
 だが彼女はそんなヴィオレッタに対してそう忠告した。
「お酒は。貴女みたいな飲み方をしていると身体に悪いは」
「それもいいのよ」
 その寂しげな笑いがさらに深くなった。そしてまた言った。
「どうせ。私なんかには」
「どうしてそんなことを言うの?」
「悪いかしら」
 今度はその寂しげな笑みをフローラに対して向けた。整った顔をしているだけにその寂しさはさらに人々の心に滲み入るものであった。それがさらにフローラの言葉も声も圧迫していた。
「けれどね」
「貴女の言いたいことはわかっているけれど」
「それじゃあ何故」
「見て」
 ヴィオレッタは辺りを指差しながらそう言った。今彼女達の目の前では着飾った紳士や淑女達が華やかな宴に興じて
いた。誰も監督に声をかけようとはしなかった。
「わかっていても出来はしないことがあるのよ」
「そんなものが」
「あるのよ。それもすぐにわかると思うわ」
 力のない言葉をまた口に出した。
「それでもいいのよ、やっぱりね」
「そうなの」
「ええ。けれど気持ちだけは受け取っておくわ」
「有り難う。あら」
 フローラは後ろのカーテンが動いたを認めた。
「ヴィオレッタ」
「何かしら」
 そして今度は別の切り口でという形になっていた。
「男爵が戻って来られたわ」
「あら」
「ええと」
 フローラはヴィオレッタに先立ってその客人に目をやっていた。そして細かく分析を開始したのであった。
 背は高くスラリとしている。顔は気品があり全体的に若い。二十代前半といったところか。顔には若さが漂っていた。
 服はタキシードであった。その生地の下地を見ればそれだけでもうかなりのものであった。それをそつなく着こなしている。まるで普段着の様にその服を着ていた。
「立派そうな方ね」
「そうなの」
「歳は・・・・・・貴女より下だと思うわ」
「私よりも」
「それでもいいかしら」
「そうね」
 ヴィオレッタは思案しながら言葉を返した。
「私は別に構わないわ」
 様子を見る為にそう返したのであった。そうこうしている間に男爵とその青年がやって来た。
「只今戻りました」
「はい」
 ヴィオレッタは男爵にそう返した。
「彼がその青年です」
「はじめまして」
 その若者はヴィオレッタに挨拶をした。
「アルフレード=ジェルモンと呼ばれます。以後お見知りおきを」
「はい」
 ヴィオレッタはそれに頷いた。
「私は」
「ヴィオレッタ=ヴァレリーさんですね」
「え、ええ」
 名乗るより前に自分の名を言われいささか戸惑いを覚えた。
「この屋敷の主でございます」
「この若者は非常に心優しい青年でして」
 ガストーネが前に出て来た。そしてヴィオレッタに対してアルフレードをそう紹介する。
「毎日貴女のことを気にかけていたのですよ」
「私のことをですか」
「勿論ですよ。そんな顔色では。まるで雪の様ではないですか」
「これですか」
 ヴィオレッタは顔色のことを言われ困った顔を作った。
「これはもう生まれつきですので」
「そうだったのですか」
「ええ、まあ」
 ガストーネより先に驚いてそう尋ねてきたアルフレードに対してそう返す。
「ですから。あまり御心配為さらないで下さいね」
「だといいうのですが」
「御心配ですか?」
「勿論ですよ。今までこれ程美しい方は見たことがありませんし」
 世辞にしてはあまりにもストレートであった。
「心配せずにはいられません」
「お気遣いは有り難いですが」
 ヴィオレッタは言葉を返した。
「けれど私には」
「何があるのですか」
「・・・・・・私のことは御聞きになっておられるでしょう」
「無論です」
 既に何を聞かれるのかはわかっていた。静かに頷いた。
「それでは」
「いえ」
 今度はアルフレードが首を横に振った。
「ヴィオレッタさん」 
「はい」
 いきなり彼女の名を呼んできた。ヴィオレッタはそれに応えた。
「僕は貴女に御会いする為にここに来ました」
「私にですか」
「ええ」
 そしてまた頷いた。
「そのうえで言わせて頂きます。本当に大丈夫なのかどうか」
「お気遣いの結果」
 やんわりと返してきた。
「ついこの前の疲れが嘘の様に。こうしてお酒を楽しめるようにもなりました」
「それは何よりです」
 アルフレードはそれを聞いて顔を綻ばさせた。
「では僕もそれを楽しむといたしましょう」
「それでは私が」
 ヴィオレッタはそう言って一歩進み出てきた。そのうえでこう言った。
「エペになりましょう」
 ギリシア神話における青春の神である。オリンポスでの宴において神々にエクタル、すなわち不老長寿の酒を注ぐ女神なのである。
「有り難うございます」
 アルフレードは彼女に慇懃に礼を述べた。
「では僕は貴女にそのエクタルによって永遠の命が授けられることを祈ります」
「有り難うございます」
 ヴィオレッタも礼を述べた。だがどういうわけか永遠の命と聞いたところでその顔を暗くさせた。
「侯爵」
「何でしょうか」
 ここでガストーネは友人であるドビニーに声をかけてきた。
「貴方もどうですかな」
「悪くはないですな」
「貴女も」
「はい」
 フローラにも。彼女も当然のようにそれに頷いた。
「それでは皆さん宜しいでしょうか」
「はい」
 この宴に参加している全ての者がヴィオレッタの呼び掛けに応じた。
「乾杯の歌を」
「アルフレードさん」
「はい」
 ヴィオレッタはアルフレードに声をかけてきた。彼もそれに応じた。
「乾杯の音頭をとって頂けるでしょうか」
「宜しいのですか?僕で」
「ええ」
 ヴィオレッタはにこりと笑ってそれを認めた。
「どうか宜しくお願いします」
「わかりました。それでは」
 それを受けてまずは畏まった。
「いきますよ」
「はい」
 アルフレードは口を開いた。その口で乾杯の音頭を取った。歌によって。
「皆さん、杯を乾かしましょう、この美によって飾られた楽しい杯を」
「ええ!」
 皆それに応えた。
「この束の間の幸せの時を快楽に身を任せるのです。そして愛をそそのかす妖しい甘い震えの中に全てを委ねるのです」
「甘い震えの中に」
「はい。そして美しい眼差しが」
 ここでヴィオレッタを見た。
「胸に全能の力を与えてくれるでしょう」
「そう、その通り」
「快楽に全てを委ねよう。皆で」
「マドモアゼル」
 誰かがヴィオレッタに声をかけてきた。
「貴女も」
「私もですか」
「はい。是非共」
「・・・・・・・・・」
 先程のアルフレードの視線には気付いていた。今も見ている。彼女はその視線がわかっていた。そしてそれに応えるかのように再び立ち上がった。そして歌に参加してきた。
「私の楽しい時を皆さんと共に過ごすことを御許し下さい」
「勿論ですとも」
 皆喜んでそれを迎えた。
「喜びがなくしてはこの世というものは何の意味もありません。この儚い世も楽しみがなければなりません」
「そう、その通り」
「愛の喜びもまた束の間のこと、素早く飛び去ってしまいます」
「愛とは儚いもの」
「それは咲いては萎む花です」
 ヴィオレッタはここで自分の胸にある椿を見た。
「その美しさを長く楽しむことはできません。しかし今は楽しみましょう」
「貴女と共に」
「有り難うございます」
 ヴィオレッタはそれに応えた。ここでアルフレードがヴィオレッタに歩み寄り声をかけてきた。
「マドモアゼル」
「はい」
「命は何処にあるのでしょう」
「それは喜びの中にあります」
 ヴィオレッタはにこりと笑ってそう答えた。
「愛という喜びの中にこそ」
「そうなのですか」
 アルフレードはそれを聞いて考えた。ヴィオレッタを見詰めながら。それからまた言った。
「愛し合うことをまだ知らない時にはどうなるのでしょう」
「それは私にもわかりません」
 彼女はそう返した。
「私は愛を知りませんから。そして」
 ふと一瞬アルフレードから視線を離した。それからすぐに元に戻して言った。
「貴方のこともまだよく知りませんし」
「それでもいいです」
 だがアルフレードはそう返した。
「私は今までこうしたことがよくありましたから」
「まあ」
「それが私の宿命なのですよ」
 そう言いながら熱くヴィオレッタを見ていた。だがそんな二人に気付く者はここにはいなかった。歌は続いていた。
「楽しみと微笑みで全てを包み込みましょう。そこからこの楽園で新しい日が生まれるのですから」
「マドモアゼル、貴女も」
「はい」
「ムッシュも」
「わかりました」
 ヴィオレッタとアルフレードもその中に入った。そして宴はさらに盛り上がってきた。そして歌が終わったところでヴィオレッタは言った。
「皆さん」
「何でしょうか」
「ダンスを楽しみませんか。歌もあったことですし」
「ダンスですか」
 多くの者がそれを聞いてにこやかに応えた。
「はい、どうでしょうか」
「いいですね」
「それでは行きましょう」
「はい」
 ヴィオレッタも向かおうとした。だがここでその顔が急激に蒼ざめだした。
「ああっ」
 そう言ってテーブルに手を着いた。
「どうしました?」
「いえ、ちょっと」
 そう言って誤魔化そうとする。
「お酒を飲み過ぎたようで。暫くここにいて宜しいでしょうか」
「仕方ありませんから」
「それでは私達だけで」
「はい。お先に」
 こう言って客達を先に行かせた。彼女一人を残して皆舞踏の間に向かった。やがてそこから華やかな音楽が聴こえてきた。
「ふう」
 ヴィオレッタは座って一息ついた。暫くして側にあった鏡を手に取った。それで自分の顔を見た。
「何て肌の色なの」
 見てまず愕然とした。蒼白であったのだ。
「まるで雪の様。かっては赤くてかえって恥ずかしかった程だというのに」
 そう言って落胆する。そこでアルフレードが側にやって来た。
「あの」
「はい」
 それに応えて顔を彼に向けた。
「大丈夫ですか」
「ええ、まあ」
 にこりと笑顔を作ってそれに応じた。
「元気になりましたわ。お気遣い有り難うございます」
「それは何よりです。ところで」
「何でしょうか」
「いつもこうして夜遅くまで宴を開いているのですか?」
「そうですけれど」
 これは彼女の仕事でもあった。娼婦は夜の世界の住人である。だから夜にこうした場を設ける。そして客の相手もするのである。
「あえて申し上げますがお身体には」
「わかっております」
 ヴィオレッタはそう答えて頷いた。
「では何故」
「私のことは御存知でしょうか」
 彼女はそれでも問おうとするアルフレードに対してそう言った。
「それはどうなのでしょうか」
「はい・・・・・・」
 さらに問うとアルフレードは頷いた。
「勿論です。そのうえでこちらにお伺いしたのですから」
「ではもうおわかりですね」
「はい」
 だが彼はそれでも言った。
「けれど若し貴女が」
「私が・・・・・・何か」
 ヴィオレッタは顔を見上げた。
「僕のものならこのようなことは」
「させないとでも仰るのでしょうか」
「駄目でしょうか」
「面白い方ですわね」
「面白い」
「ええ。私はこの様な立場に身を置いております。そのような私に対して仰るとは」
「それが何か」
 だがアルフレードはそれにも臆しはしなかった。
「この世に貴女を愛さない者なぞおりはしません」
「誰一人としてでしょうか」
 冗談めかしてそう問うてみた。まさかとは思った。
「はい」
 しかし彼は本気で頷いたのであった。これはヴィオレッタの予想外であった。
「・・・・・・・・・」
「僕もそうですから」
「本当に面白い方だこと」
 一瞬沈黙してしまったがすぐにそう返した。
「そんなことを仰るだなんて」
「お笑いになられるのですか?」
「それが何か」
 真摯な態度のアルフレードに対してヴィオレッタのそれは何処か大人のものであった。だがその心の中はまた別であった。揺れていたのである。しかしそれは決して見せはしない。
「笑われるのですか」
「はい」
 ヴィオレッタは答えた。
「おかしいですから」
「馬鹿な。何故このようなことを聞いてお笑いになられるのか。貴女は心を持ってはおられないのですか?」
「心ならありますわよ、多分」
 彼女は言った。
「けれどどうしてその様なことをお尋ねになられるのでしょうか」
「持っていらっしゃるなら・・・・・・」
 アルフレードは沈痛な声で言った。
「その様な言葉は」
「本気で仰られているのですか?」
「僕は嘘なぞ言いません」
 アルフレードは眉を顰めてそう言い返した。
「そんなこと。どうして言えましょうか」
「では御聞きしたいですわ」
「何でしょうか」
「私を想って下さっているのは以前からでしょうか」
「はい」
 彼はまた頷いて答えた。
「一年も前から。あの公園でのことです」
 彼の目の前にその時のことが想い浮かぶ。
「パリのあの公園で。朝におられましたね」
「そうだったでしょうか」
「その朝日の中に貴女を見た時に僕の心は奪われました。そしてそれが何なのかを知るまでに多くの時がかかりました」
「何だったのでしょうか」
「恋です」
 彼は熱い声でそう述べた。
「それが恋だと知った時僕は決意しました。貴女を私の永遠の恋の相手としたいと」
「そのようなこと」
 しかしヴィオレッタはそれを拒んだ。目を閉じ顔を伏せて首を横に振った。
「私は愛を知らない女」
「まさか」
「夜の世界に愛なぞございません。あるのはただ虚飾のみ」
「いえ、それは違います」
 だがアルフレードはそれを否定した。
「人ならば。愛があります」
「それは朝の世界にだけ」
「僕は朝の世界で貴女を見たのです。貴女は夜の世界にだけいるのではありません」
「けれど」
「私の様な者は。貴方には」
「いえ、僕には貴女しかいません」
 アルフレードも引き下がろうとはしなかった。
「ですから是非」
「私は」
 それでもヴィオレッタは拒もうとする。だがアルフレードは引き下がろうとせずその手を掴もうとした。だがここで誰かが部屋に入って来た。
「マダム」
「!?」
 それはガストーネであった。舞踏の場にヴィオレッタを呼びに来たのだ。
「どうされたのですか。アルフレード君も」
「いえ、ちょっと」
 アルフレードはその場を慌てて取り繕うとする。だが慣れていないせいか不自然であった。しかしヴィオレッタのそれはごく自然なものであった。
「少しお話を」
「何のことで」
「この前のオペラ座のことで。確かワーグナーという若い作曲家の作品でしたね」
「タンホイザーでしょうか」
「はい」
 ヴィオレッタはガストーネの言葉に頷いた。
「あれはよかったですな。かなり斬新で」
「けれど不評だったそうですが」
「芸術がわからない輩も多いのです。気にしてはいられません」
「そうだったのですか」
「あの作品は歴史に残るかも知れませんぞ。あの若い作曲家も」
「ワーグナーも」
「ええ。どうやらかなり女癖が悪く浪費家でしかも尊大な人物らしいですが。それでも作品は大したものです」
 実際にワーグナーの人間性はお世辞にも褒められたものではなかた。よく反ユダヤ主義を批判されるがそれ以外にも非常に問題の多い人物であったのだ。
「面白そうな方ですね」
「身近にいて欲しいタイプではないですが。まあそうかも知れませんね」
「一度見てみたいですわね」
「ワーグナーの方をですか?それとも彼のタンホイザーを」
「両方を」
 彼女はにこやかに笑ってそう言った。
「その時は何方かと」
「エスコートさせて頂きますが」
「喜んで」
「有り難うございます。ではその時に」
「はい」
 ガストーネは一礼した。そしてまたヴィオレッタに対して言った。
「マダム、ダンスはどうされますか」
「今日は少し」
 青い顔で言った。
「申し訳ありませんが」
「仕方ありませんね。それでは」
「はい」
 こうしてガストーネは部屋から去った。そしてまたヴィオレッタとアルフレードだけになった。
「御覧になされましたか」
 今の自分とガストーネのやりとりをアルフレードに見せたうえで声をかけてきた。
「今のが私なのです」
 そしてこう言った。
「おわかりになられましたでしょうか」
「しかし」
「とりあえず恋のお話はこれで。宜しいでしょうか」
「ですが」
「ですがもなく。私にはそうしたものは縁がありませんから」
「それでも」
「仕方のない方ですね」
 根負けしたのか薄い苦笑の後少し溜息を漏らしてこう言った。
「わかりました。ではまた御会いしましょう」
「それは何時でしょうか」
「はい」
 ヴィオレッタはそれに応えるかのように自分の胸に手をやった。そしてその椿を取った。それをアルフレードに対して手渡した。
「これを」
「椿を」
 彼はその手の中に渡された赤い椿を見た。
「はい。その椿がしおれた時に」
「また御会いして宜しいのでしょうか」
「はい」
 ヴィオレッタはにこやかに笑ってそう答えた。
「御会いしましょう」
「有り難うございます」
 彼は喜びを身体全体に現わしてそう言った。
「何と幸福なことか」
「それで御聞きしたいのですが」
「はい」
 アルフレードはヴィオレッタにまた顔を向けた。
「まだ私を好きだと言えますか?」
「勿論です」
 彼は迷わずそう答えた。
「何度でも申し上げます。そして何時までもお慕い申し上げます」
「まさか」
「僕は本気です」
「一時の戯れでは」
 そう言いながら横目でアルフレードを見る。だが彼は真剣なままであった。
「先程も申し上げましたが嘘は申しません」
「では」
「はい。僕の心は貴女のものです」
「気の迷いではなくて」
「勿論です。この言葉に偽りはありません」
「左様ですか」
 しかし彼女はそれを信じた様子はなかった。だがアルフレードはそれには気付かなかった。ヴィオレッタから椿の花を贈られてそれだけで気持ちが一杯であったのだ。
「マダム」
「はい」
 アルフレードは歩み寄って来た。そしてその手を受け取った。
「今はこれで。宜しいでしょうか」
「どうぞ」
 ヴィオレッタは頷いた。するとアルフレードは彼女の手に近付きその手の平に接吻をした。別れの挨拶であった。
「それではこれで」
 彼は顔を上げてヴィオレッタに対してそう言った。
「さようなら」
「この椿の花が教えてくれた時にまた御会いしましょう」
「それまでご機嫌よう」
「はい」
 こうしてアルフレードは屋敷を後にした。彼と入れ替わるように客達がダンスホールから戻って来た。
「マダム」
「はい」
 ヴィオレッタは客達に応えた。
「もうすぐ朝ですのでこれで」
「お名残惜しいですが」
「朝なのですか、もう」
「はい」
 客達はヴィオレッタにそう教えた。
「朝陽が我々にそう教えてくれました」
「もう快楽の時間は過ぎ去ったのだと」
「早いものですね」
 ヴィオレッタはそれを聞いて残念そうにこう言った。
「時間が過ぎ去るのは。そしてお別れの時が来るのは」
「仕方ありません」
 客達はそう答えた。
「ですがまた出会いの時は訪れます」
「その時にまた御会いしましょう」
「ですね」
 彼女は気を取り直した顔を作ってそれに頷いた。
「ではまた」
「はい」
 こうして客達はそれぞれ帰って行った。ヴィオレッタは広い屋敷にただ一人となってしまった。
「朝が来たというのに」
 彼女は物憂げな顔でそう呟いた。
「私の心は夜の世界のまま。いえ、住んでいる世界さえも」
 そう言いながらゆっくりと立ち上がった。
「けれど。何故かしら」
 自身の胸を見て呟く。そこにはいつもある筈のものがない。だがそれ以上のものがあるように感じられた。
「あの人の言葉が。まるで心の中に刻み込まれているよう。こんなことははじめてだわ」 
 心が乱れていっているのを感じていた。
「真実の恋なんて。道を踏み外し、夜の世界にいる私にとっては全く縁のないものである筈なのに。どうして今こうして私の心を捉えるの?」
 自分に対して問う。だが返答はない。
「愛し、愛される」
 また呟いた。
「それは私の知らないこと。喜びなのでしょうか。それとも」
 自分に対して問うていた。
「怖れ。この空虚で何時終わるかわからない仮初めの人生。それがあの人によってどうなるのというの?」
 その心にアルフレードが宿っているのがわかった。
「愛を知ったのかしら。この私が。娼婦の私が」
 また自分自身に対して問う。
「真実の愛に。そう、あの人に教えられたのよ」
 だが思い直した。俯き顔をゆっくりと横に振った。そしてまた言った。
「いいえ」
 今まで自分の言っていたことが馬鹿馬鹿しいものに思えて仕方がなくなってきた。
「そんな筈はないわ。そんな筈が」
 不意にそう自嘲めいてそう呟いた。
「このパリで。空虚な街で。夜の世界で。私は何を求めようとしているの?」
 目を閉じ口だけで笑っていた。
「この街では、夜の世界では愛なんてないわ。あるのは快楽と享楽だけ。それに身を任せるのが私の人生なのよ」
 そう今までは思っていた。そして今もそう思おうとした。
「花から花へ。飛び歩くのが私の人生。夜の花を飛び歩くのが」
 だが飛び歩けなかった。胸が苦しいのではない。何故か足が動かなくなってしまったのだ。それは何故なのか。彼女にはわからなかった。
「愛」
 ここで屋敷の外から声がした。ヴィオレッタはその声を聞いてハッとした。
「あの声は」
 それはアルフレードのものであったのだ。だからこそ我に返ったのであった。
「愛は全ての世界に存在する」
「全ての世界に」
 ヴィオレッタはそれを聞いてまた俯いた。そして考え込んだ。
「そしてこの世をあまねく支配しているんだ」
「まさか」
 首を振ろうとする。だが今度はそれはできなかった。
「・・・・・・・・・」
 ヴィオレッタはそれを感じて沈黙してしまった。そこにアルフレードの声がまた聞こえてくる。
「神秘的で気高く、そして美しい。心に喜びを与えてくれるんだ」
 彼はヴィオレッタに花を贈られたことで舞い上がっていただけであったかも知れない。だがその言葉でもヴィオレッタの心を打つには充分であった。
「私にも愛が」
「愛は誰にも平等に与えられるんだ」
「それじゃあ」
 ヴィオレッタは顔を上げた。そして宙を見上げた。
「私も」
「愛に生きることが人生。そしてそれがこの世の全てなんだ」
「それなら」
 彼女は決心した。もう迷いはなかった。
「アルフレード、貴方と」
「愛しのヴィオレッタ、この椿が告げる時に」
「永遠に結ばれましょう」
「僕は貴女のものに」
 今二人の心は通い合った。そして二人はそれに従うのであった。





椿姫〜。
美姫 「悲恋の物語と聞いたけれど」
どうなっていくのか。
とりあえず、二人の心は通じ合ったみたいだけれど。
美姫 「この先、何が起こるのかしらね」
次回も待っています。
美姫 「それじゃ〜ね〜」



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