『皇帝ティートの慈悲』




                         第一幕  複雑な思惑

 ローマ帝国は決して一つの思惑でのみ成り立っていた国家ではない。その中には絶えず様々な思惑が存在しせめぎ合ってきていた。それはティート帝の時代も同じであった。
 豪奢な大理石の宮殿にその美女はいた。白い見事な服に身を包んだ黒髪の美女だ。目は黒く髪と共にその気性の強さを示しているようであった。
 顔つきも確かに整っているがその美貌はヘカテの美貌と言うべきか。険のある美貌だった。その美貌で今細い繊細な顔立ちをした若者と対していたのであった。
「ではセストよ」
 彼女はまずその若者の名を呼んだ。セストと呼ばれた若者は頼りない顔をしてそこに立っている。顔立ちはいいがやはり繊細で中性的な印象を与えるものだ。黄金色の服と青いマントは立派であるがそれに着られているという印象は拭えない。茶色の癖のある鳥の巣を思わせる髪もまたその印象を強くさせることを助長させていた。
「貴方はまたあのことを仰るのですね」
「いけませんか」
 セストは頼りない顔で彼女に言葉を返した。
「それは」
「レントゥーロを私達の側に引き込み」
「はい」
 まずはこう話される。
「そしてカンピドーリオに火を放ちそれに乗じて乱を起こすと」
「その通りです」
 セストは美女にまた答えた。
「いけませんか
「何度も聞きました」
 美女はまずはその腹立たしさを隠そうともしなかった。
「それこそ幾度もですよ」
「ですが」
「陛下が私の目の前でベレニーチェに対して分別を失い」
 そのことを考えるだけで忌まわしいようであった。その目の光がさらに剣呑なものになってきているのがそれの何よりの証拠であった。
「その為に私は私自身に相応しい場所を失うなとどは」
「ですがヴィッテリアよ」
 セストはここではじめて彼女の名を呼んだ。
「何ですか?」
「よくお考え下さい。陛下ですよ」
「それが何か」
 ヴィッテリアは剣呑な目を彼にも向けてきた。
「ありますか?」
「陛下を危めるなどと。それは決して」
「では言いましょう」
 ヴィッテリアは己を咎めてきたセストに対してその傲然とした態度で以って応えてきた。それはまさに復讐の女神のそれであった。
「その偉大な慈悲深い英雄が」
「はい」
「英雄の父が私の父から皇帝の座を奪ったのですよ。そして私を欺き惑わし」
「それは」
「違うというのですか?」
 反論を許さない問い掛けであった。
「それは」
「いえ、それは」
「その通りですね。さらに」
 セストの反論を封じたうえで言葉を続けるのだった。
「この気高いローマの七つの丘に忌まわしいベレニーチェを呼び戻す。国を追われた異邦の女をです」
「皇女様」
 セストはここでは彼女をあえてこう呼んだ。その荒らぶる気持ちを抑えさせる為であろうか。
「貴女様は嫉妬しておられる」
「私が?」
「如何にも」
 何とか毅然とした態度を崩さずに出した言葉であった。彼とても必死であった。
「ですからそれを抑えられて」
「では質問を変えましょう」
 多少の忌々しさを抑えつつここでは話を変えてきた。
「セストよ」
「何でしょうか」
 またもや彼の名を呼びそれに応えさせた。
「貴方は私を手に入れるつもりはないのですね」
「それは・・・・・・」
「答えなさい」
 戸惑いは許さなかった。答えることを強要する言葉だった。
「どう思っているのですか」
「それは」
「答えるのです」
 やはり質問を変えない。あくまで答えさせるつもりだった。そしてセストはそれに抗することはできなかった。苦しい顔で俯きつつ述べたのだった。
「私は貴女様を信じます」
「それが答えなのですね」
「その通りです」
 今それを自分でも認めたセストであった。
「ですから何なりとお命じ下さい。お決め下さい」
「何なりとですね」
「その通りです。貴女様は私の運命です」
 こうまで言うセストだった。
「私は貴女様の為でしたら何でもしましょう」
「言いましたね」
「はい」
 今それもはっきり認めたのだった。
「はっきりと今」
「わかりました。それでは私も言いましょう」
 ヴィッテリアもまたそれを受けて言うのだった。そこには皇族たるに相応しい倣岸さがあった。気品よりもそれが勝っていたのだった。
「私は太陽が沈む前に」
「この太陽が沈む前に」
「そうです」
 まずはそれを言い切ってみせた。
「あの恥ずべき男が消えることを望んでいます」
「そうですか」
「先程も言いました」
 これは彼女にとっては絶対の真実だった。
「あの男は簒奪者」
「簒奪者・・・・・・」
「本来ならこの偉大なローマは私のもの」
 これが真実であるのだ。あくまで彼女にとっては。
「それを取り返すことこそが望みです」
「では私は」
「行きなさい」
 冷然とした態度で言葉を告げた。
「今すぐに」
「わかりました。ですが」
「まだ何かあるのですか?」
「御願いがあります」
 顔をあげてじっとヴィッテリアを見ての言葉だった。
「私から。せめて」
「せめて?」
「その甘い眼差しをお与え下さい」
 切実な顔になって言った言葉だった。
「せめて。それだけでも」
「それは」
「御願いです」
 躊躇いを見せたヴィッテリアに対してさらに懇願した。
「一度だけでも。どうか」
「私は」
 ここでヴィッテリアは思うのだった。己の中にあるその倣岸さと冷然さ、そして恨みの深さを。それを感じるとやはりよいものは感じないのだった。
(間違っている)
 このことは自覚していたのだった。その自覚が今セストから顔を背けさせた。
(セストを利用して。こんなことをするのは)
(私は愚かだ)
 そしてセストもこう思っていたのだった。彼は俯いてそれを思うのだった。
(陛下を害するなぞ。そんなことは)
(陛下に怨みはない筈)
(あの様な素晴らしい方を)
 それぞれティートという皇帝についてはよく知っていたのだ。彼等にとって彼は親友でもあるのだ。それだけかけがえのない存在に対して害意を抱いている自分達に対して嫌悪という感情を抱かずにはいられなかったのである。
(害するなぞと)
(私は何と罪深い)
 そう考えている時だった。今度は部屋に赤い髪をした長身の若者がやって来た。銀色の服に赤いマント、精悍な顔立ちはセストとは正反対であった。
「セスト、ここにいたか」
「アンニオ」
 まずは二人はお互いの顔を見てその名を言い合ったのだった。
「急いでくれ。陛下がお呼びだ」
「陛下がか」
「そうだ。行こう」
「う、うん」
「行くのです、セストよ」
 ヴィッテリアはこれまで想っていた感情を消し去ってセストに告げた。
「陛下はベレニーチェとばかり御会いですから拝謁できる時は貴重ですよ」
「ヴィッテリア様」
 アンニオは今のヴィッテリアの言葉にははっきりと不快を覚えたようであった。その精悍な顔にその色をあからさまに見せてきていた。
「貴女様は陛下を誤解しておられます」
「そうでしょうか」
「陛下はお優しいお方」
 彼はまずはこう言った。これはヴィッテリア達と同じ評価だった。
「そして我等の英雄ではないですか。この偉大なるローマを統べておられる」
「まあそうでしょうけれど」
「それにです」
 彼はさらに言葉を付け加えてきた。
「それに?」
「ベレニーチェ様は今ローマにはおられません」
「ローマにはいない」
「そうです」
 アンニオはこのことをヴィッテリアにはっきりとした言葉で伝えたのであった。ヴィッテリア自身もそれを聞いて目を動かさずにはいられなかった。
「あの方の御命令でローマを発たれました」
「まさか。それは」
「本当です」
 答えるアンニオの言葉の強さがそれが真実だと教えていた。
「今ローマはそのことで泣いています」
「貴方はそれを見ていたのですね」
「その通りです」
 またしてもはっきりとした声で答えてみせるアンニオであった。
「私はあの方がローマを去られる崇高な別離の場所にいましたので」
(希望が)
 ヴィッテリアの心に光が差し込んだ。
(これなら私も)
「セスト」
 そしてすぐにセストに囁くのだった。
「何でしょうか」
「すぐにことを中止するのです」
 こうセストに囁いていた。
「よいですね」
「止めるのですか」
「今はその時ではありません」
 今のアンニオの言葉を聞いての判断であるのは言うまでもない。ここでは彼女は政治的な判断を下したと言える。
「ですから。よいですね」
「私は貴女様の命じられるままに」
「ならばそうするのです」
 これで決めさせたのであった。
「よいですね」
「わかりました。ですが」
「何ですか?」
「私は貴女様の視線が欲しい」
 思い詰めた顔での言葉だった。
「せめて。その優しい視線が」
「それが何か」
「せめてです」
 言葉が切実なものになっていた。
「それだけでも。どうしてこの様な苦痛を」
「そこまで言うのなら」
 ヴィッテリアはセストのその言葉を受けて彼女が持っている生まれながらの傲然さを露わにして声を出すのであった。その声は。
「私の気に入られないのなら貴方のその疑念を捨てるのです」
「私の疑念を」
「そう。そして私を悩ませないこと」
 セストにとってはあまりにも残酷な言葉であった。だがヴィッテリアはそれを承知のうえで言葉を出していた。目は完全にセストを見下ろしていた。
「この様な煩わしい疑いでただひたすら信じる者は真心を約束されます」
「真心を」
「そう。そして常に欺かれることを怖れる者は背信を誘い込むでしょう」
 このことを傲然と言い放ち終えるとその場を去った。後にはセストとアンニオが残った。アンニオは打ちひしがれるセストに優しく声をかけるのだった。
「なあセスト」
「何だい?アンニオ」
「行こう、今から」
「行くと言っても何処に行くんだい?」
「僕を幸せにする為だよ」
 彼は微笑んでセストに告げた。
「その為にね」
「君を幸せにする為に」
「そう。君は僕の愛にセルヴィリアを約束してくれた」
 このことを今彼に述べた。
「もうそれで充分だ。このことを君が陛下に願い出てくれればもう」
「アンニオ」
 セストはここでそのアンニオに思い詰めた声をかけた。
「何だい、友よ」
「君の友情は忘れない。だからこそ僕は」
「来てくれるんだね」
「喜んで」
 彼に対してはその真摯な友情を見せるのだった。
「だから行こう。今から」
「うん、いつも共に二人で」
 それを言い合いつつ部屋を後にしたのだった。
 カンピドーリオの神殿。厳かなその神殿の階段の前に多くの民衆が集まっていた。神殿の上には元老院の議員達や属州の総督達、将軍達が並んでいる。彼等が誰を待っているのかは最早言うまでもなかった。
「ローマを守護する偉大なる神々よ」
 民衆達は神殿を見上げて高らかに言う。
「我等が皇帝ティートに正義と力を与え給え」
「そして我等の世に名誉を」
 その声が終わると神殿から厳かかつ豪奢な紫の衣と緋色のマントを羽織った男が姿を現わした。髪の毛は前後で短く切り顔は彫が深く男らしい眉に目を持っている。だがその目は実に優しげで穏やかな光を放っていた。多くの将校を従える彼こそローマ皇帝ティートその人であった。彼は今元老院の議員達や将軍達を左右に置き民衆の前に姿を現わしたのであった。
「陛下」
 そのうちの一人が彼に一礼してから声をかけた。
「我々元老院は貴方様を祖国の父と任命します」
「私を祖国の父にか」
「はい、そうです」
 そのことをあらためて彼に告げた。
「元老院がことを決めるようになってこれ以上に正義に適ったことはないでしょう」
「確かに」
「その通りです」
 他の議員達もそれに続くのだった。
「この神殿もまた貴方のものに」
「そして申し上げましょう」
 彼等はさらにティートを崇めて言うのだった。
「ローマの全てが貴方を御護りすることを」
「今ここに」
「陛下」
 また議員が一人前に出て来た。議長であるブブリオだ。厳格そうな顔をした老人だった。
「ブブリオか」
「さあ是非我等の想いをお受け下さい」
「受けてよいのだな」
「是非」
 このことをあらためて告げる。
「お受け取り下さい」
「では言おう」
 その言葉を聞いてからティートは民衆に顔を向けた。そうして厳かな様子で告げるのであった。
「ローマの市民達よ、今ヴェーズヴィオの山が焼け付く流れを吹き出している」
「何っ、あの山がか」
「何と恐ろしい」
 ローマの市民達も議員達もそれを聞いて大いに驚いた。
「辺りの畑を町々を焼き尽くし」
「地獄か」
「逃げ延びた者は家をなくし餓えに怯えている。今諸君等の力をそれに使いたいのだ」
「我々の力を」
「そう。だからだ」
 ティートはさらに言う。
「諸君等の私への愛情をそれに使わせて頂けないだろうか」
「何と、何と素晴らしい御心」
「まさに偉大なるローマの主」
 この言葉こそ彼等を最も感動させるものであった。
「これこそ真の英雄」
「素晴らしき皇帝」
「では諸君」 
 ここまで告げたうえで皆にさらに伝えた。
「今からそれに力を尽くしてくれ。いいな」
「はっ、それでは」
「今より」
 皆それを受けてそれぞれの仕事場に戻る。今ティートの言葉が彼等を打ったのだった。それの結果に他ならなかった。
「セスト、アンニオ」
「はっ」
「陛下、何でしょうか」
 二人はティートの言葉に従い彼の元に跪いた。ティートはあらためて彼を見る。
「今ここに残っているのは我等のみ」
「はい、それは」
「確かに」 
 神殿の前には誰もいない。彼はそれも考えて皆を行かせたのであった。ティートの顔からはそれまでの厳かさは消え温厚な顔になっていた。
「セスト」
 アンニオはその中でセストにそっと囁いた。
「何だい?」
「今いるのは僕達だけだ」
 彼はそのことを言うのだった。
「だから話してくれないか」
「それは」
「二人共聞いて欲しい」
 セストがアンニオに何か言う前にティートが二人に対して言ってきた。
「!?何か」
「何でしょうか、陛下」
「辛かった」
 嘆息しつつの言葉であった。
「彼女が去ったことは私にとっては非常に辛かった」
「彼女ですか」
「そう、ベレニーチェ」
 その名が出た。
「別れは辛いものだった。しかし」
「しかし」
「彼女は私の妻になりたい。そしてローマの者達もそれを望んでいる」
「彼女がですか」
「そう、彼女だ」
 その彼女が誰かはもう言うまでもなかった。少なくとも二人は思ったのだった。
「では私は選ぼう。彼女を。皇帝は愛よりも国を選らばなければならないから」
「それは」
「いや、その通りだ」
 慰めようとしたアンニオの言葉を退けた。
「だが友情は選びたい。だから」
「だから」
「セスト」
 ここで何故かティートは彼の名を呼ぶのだった。
「君の妹を」
「セルヴィリアを」
「そうだ。彼女を私の妻に」
「何と・・・・・・」
 今度はアンニオが打ちひしがれてしまった。今この瞬間に彼は絶望に陥った。
「何という恐ろしい運命なのだ」
「どう思うか」
「それは」
「セスト」
 また彼の名を呼んで問う。
「これについては。どう思うんだい?」
「陛下」
 彼に代わってアンニオが答えに出た。何とかその沈痛な心を隠して。
「私にはわかります。それは」
「それは」
「帝国の為には非常によい決断です」
 己を押し殺しての言葉であった。何とか。
「私はその御考えを何処までも護りましょう」
「アンニオ、それは」
「セスト」
 彼を気遣うセストだったが彼はそれを言わせなかった。
「彼女はまさにローマを護るに相応しい。だからこそ」
「いいというのだね」
「その通りです」
 あらためてティートに答えてみせた。
「ですから是非共」
「わかった。それではだ」
 ティートは彼の言葉を受けて満足した顔で頷いた。しかしその心は見えてはいなかった。
「彼女に伝えてくれ」
「はい」
 沈痛さを押し殺した顔で頷くアンニオだった。
「アンニオ、そなたが」
「わかりました」
「そしてセストよ」
「ええ」
 今度はセストに声をかけた。彼は無表情でそれを受けた。
「君は今は私と一緒にいてくれ」
「陛下と共にですか」
「君は私の無二の親友」
 少なくとも彼はそう信じていたし事実であった。だが今その親友の心が揺れ動いていることもまた知らなかったのであった。
「だからこれからも私と共に」
「陛下、御言葉ですが」
 先程のヴィッテリアとの話を思い出しそれを胸にしての言葉だった。
「私はそこまでの者ではありませぬ」
「謙遜なのか?」
「いえ、違います」
 それは否定した。
「私はそれを受ける資格がないのです」
「そんなことはない」
 彼はすぐにそれを否定した。
「君こそは私の」
「ですが陛下」
「いや、言おう」
 しかし彼はあえて言うのであった。その誇りと共に語りだした。
「この帝位には何があるか?至高の冠のほかには苦悩と忍従があるだけだ」
 それがまさに皇帝であるというのだ。
「私にあるのはそれだけだ。その僅かな幸せまでなくしたならばどうなる?虐げられてきた者達、友人達を助け功や徳のある者達に幸福を授ける喜びまで奪われては」
「それは」
「そうだろう?せめてそれだけは私に与えてくれ」
 彼は友人達に語るのだった。
「それだけは。頼む」
「はい。それでは」
 セストは止むを得なく頷いたといった様子でそれに頷くしかなかった。
「陛下の思し召しのままに」
「頼む。それだけはな」
「はい」
「ではここを去ろう」
 セストに対して声をかけた。
「また別の為すべきことがある。だからこそな」
「畏まりました。それでは」
「アンニオ」
 ティートは去る間際に彼にも声をかけた。
「君も私達と共に」
「いえ、私は」
 しかし彼はティートのこの申し出は断るのだった。厳かに頭を垂れ、己の心を隠して応えていた。
「ここで少しやるべきことがありますから」
「やるべきことが」
「はい。ですから」
 彼は言うのであった。
「是非セストと共にお向かい下さい。是非」
「そうか。やるべきことがあるのなら仕方がないな」
「では陛下」
 アンニオの心を知っているセストがそっとティートに声をかけた。ティートに気付かれないようにして。
「我々だけで行きましょう」
「そうだな。無理強いもよくない」
「その通りです。ですから」
「うむ。それではまたな」
「はい」
 こうしてティートはセストを連れて神殿の前を後にした。神殿の前の厳かな柱が立ち並ぶ前にアンニオは一人たたずんでいた。その中で呟くのだった。
「仕方ない」
 まずはこうだった。
「甘い思いを断ち切るのも運命だ。私は私の恋を諦めよう」
 顔を俯けさせて言う。何とか己の心を殺そうとしていた。
「愛情を尊敬に変えて・・・・・・むっ!?」
 何とか己を殺そうとしていたその時だった。淡い赤の服を着た黄金色の髪のまだ少女の幼さが残る金髪の美しい女が彼のところに来たのだった。
「セルヴィリア」
 アンニオはその美女の名を呟いた。
「どうして彼女が。それにこんなに美しく」
「アンニオ」
 その美女セルヴィリアは彼のところに来て優しい声をかけてきた。
「ここにいらしたのね」
「君・・・・・・いや貴女は」
「貴女!?私が」
「そうだ」
 沈痛な顔を彼女にも見せまいとする。あくまで心だけに収めようとしていた。
「貴女は選ばれたのだから」
「私が選ばれた!?何にでしょうか」
「何にではない」
 ここでは言葉を訂正した。
「誰に、です」
「誰に!?話が見えないのですが」
「皇帝に選ばれたのです」
 どうしても沈痛なものを隠せなかった。それは無理だった。
「貴女が。私はそのことを貴女に伝える役目を仰せつかっていたのです」
「馬鹿な、そんなことが」
 セルヴィリアは最初はその話を信じていないようであった。
「私が后ですか!?皇帝陛下の」
「その通りです。貴女様こそ」
 今にも死にそうな顔でセルヴィリアに語っていた。
「あの方に。そしてローマに相応しい方だということなのです」
「一体何が何なのか」
「お別れです」
 ここまで話すといたたまれなくなったのか姿を消そうとするアンニオだった。
「もうこれで。お別れです」
「そんな、そんなことが」
「お別れです」
「駄目です」
 やっと事情を飲み込めた。だからといってそれを受け入れることができず必死に彼を止めるのだった。セルヴィリアにとっても受け入れられないことだったから。
「私は。そんなことは」
「僕が最初に愛して」
 セルヴィリアの方を振り向きその沈痛な顔で語るのだった。
「最後に愛した人」
「それは私も同じです」
 セルヴィリアは今にも泣きそうな顔でアンニオに語る。
「貴方が最初で最後でした」
「僕はその言葉だけでも」
「貴方だけが」
 向かい合って言葉を交あわせていた。辛い、苦しい顔で。
「愛しているのに」
「どうしてこの様な運命が」
「想いは消せないのに」
 アンニオの言葉だ。
「それなのにどうして」
「貴方の心と私の心が重なり合わない」
 セルヴィリアも言う。
「この様な苦しみが私達を襲うなんて」
「惨い運命よ」
「呪わしい世よ」
 二人は同時に声をあげた。嘆きの声を。
「どうしてこの様なことが」
「私達を襲うのでしょうか」
 二人の嘆きが神殿の前で交あわされる。だがそれも終わらざるを得ずアンニオは去りセルヴィリアは皇帝の宮殿のティートの部屋にいた。ローマの皇帝のものにしては質素でこれといった装飾もなくただ執務の為の机や椅子があるだけの場所でセルヴィリアはティートと会っていたのであった。
 まず口を開いたのはセルヴィリアであった。
「陛下」
「何か」
「私はあることをお話する為にここに参りました」
 思い詰めた顔でティートに述べるのだった。
「今まさにここに」
「一体何の話を」
「私を陛下のお后にと考えておられるのですね」
「そうだ」
 セルヴィリアの問いに対してすぐに答えた。
「君を私の后に迎えたいのだ。それは駄目か」
「ではお話しましょう」
 意を決した顔になった。そこには死への覚悟すらあった。ローマ皇帝に対して今から自分が言うことを考えればそれは当然のことであったからだ。
「私にはその資格はありません」
「それはどういうことなのだ」
「私は陛下を愛しています」
 まずはこう述べた。慎重に言葉を選んでいた。
「それは事実です」
「ではどうして」
「その愛は皇帝陛下に捧げる愛です」
 これが彼女の答えであった。
「私は既に。ある方を愛しています」
「ある方を!?」
「そうです」
 毅然として。今にも死ぬような顔でまた答えた。
「陛下もよく御存知の方をです」
「それは一体」
「アンニオです」
 遂に名前を告げた。
「アンニオを。愛しています」
「彼をカ」
「私は彼を忘れることができる充分な力を持ってはいません」
 続いてこうも述べたのだった。
「そして」
「そして?」
「例え皇后になろうともあの方への想いは変りません」
「どうしてもか」
「罪になることはわかっています」
 覚悟についても言及した。
「ですが。全てを正直に申し上げようと思い」
「今ここにというわけだったのか」
「その通りです」
 覚悟を決めてこくりと頷いた。
「ですから。私は」
「そうか。ならばいい」
「えっ!?」
「いいと言ったのだよ」
 驚くセルヴィリアに対して優しい声と目で語っていた。
「君のその心は受け取った」
「では。私は」
「アンニオのところに行くのだ」
 そしてあらためてこうも告げた。
「君が愛する者の所へ。行くのだ」
「ですが陛下、私は」
「愛を偽ること」
 今度ティートが言ったのはこれであった。
「それこそが最大の罪なのだから」
「愛を偽ることが最大の罪」
「そしてもう一つ最大の罪がある」
 彼はまた言った。
「愛を引き離す罪だ」
「それもですか」
「私はこの二つの罪を決して許しはしない」
 皇帝の言葉である。
「断じて。だからこそ君はアンニオの所に行くのだ」
「ですが陛下。それでは」
「私は他の者の愛を壊すことはない」
 言葉は少し変っていたが心は同じだった。
「決して。だからこそだ」
「陛下・・・・・・」
「尊い絆はこれからも増えるべきだ」
 今度は二人を褒め称える言葉を口に出した。
「君達の様に。それでは」
「それでは」
「行くのだ」
 またアンニオの所に行くように勧めた。
「私はここにいる。だから」
「宜しいのですね」
「私の。皇帝の言葉だ」
 だからこそ。絶対の言葉だというのである。
「信じてくれ。だから」
「わかりました。それでは」
 心の奥底から熱いものを感じつつティートに対して頭を垂れて述べた。
「陛下、これで」
「二人で永遠に」
「有り難うございます」
 セルヴィリアは去りティートは一人になった。すると彼は一人呟くのだった。
「素晴らしい。あの愛こそが素晴らしい」
 二人のことを想い呟いていた。
「それがローマの栄光を支える。私の周りにもさらに多くのこの気高き素晴らしい心があらんことを」
 これは彼の祈りの言葉であった。
「そうすればローマの栄光は永遠のものとなる。私もまた今の様な重い苦しみを味あうことはないだろうに。欺瞞と隠された真実を見極める為に苦しむことも」
 最後にこう祈り場を後にした。この頃ヴィッテリアはセストを側に置き憤怒に震えていた。
「あの娘が后にですか」
「はい」
「何ということ」
 怒りに震えながらの言葉だった。セストはそれを聞くだけしかできない。
「恥ずべき恥辱、何故あの娘を」
「ヴィッテリア様」
「それでセスト殿」
 怒りに震えるその顔をセストに向けて問うてきた。
「手筈はどうなっていますか」
「まだ何も」
 首を横に振ってヴィッテリアに答えた。
「何もしていません」
「何も?よくそれで私の前に」
「貴女様は中止せよと言われたと記憶していますが」
「確かに」
 ヴィッテリアもそれは認めた。だが。
「しかし」
「しかし?」
「知っている筈です。私への新たな恥辱を」
「セルヴィリアのことでしょうか」
「そうです。一度はあの方を愛したというのに」
 ティートのことである。
「彼は貴方が私の心を得るのを妨げました」
「あの方が」
「そうです。若し彼が生きていれば後悔するでしょう」
 巧に己へのセストの気持ちを利用して彼を煽ってきた。
「若しです」
「若し」
「私がまたあの方を愛するようになれば」
「その時は」
「貴方が栄光や野望、愛といったものに動かされないのなら」
 話はさらに続けられる。
「恋敵が私の愛を奪ったことを見過ごすのなら貴方は誰よりもいくじなしで卑劣な者です」
「何故私をそこまで」
 ヴィッテリアに責められ顔を青くさせるセストだった。
「私は。貴女を」
「では見せるのです」
 冷然とセストに告げた。
「貴方のその心を」
「私の心と仰いますか」
「如何にも」
 言葉はさらに冷然としたものになっていくのだった。
「では早く行くのです」
 ヴィッテリアの言葉は冷たいままだった。
「早く。さあ」
「行きましょう。ですが」
 だがここで。セストは言うのだった。
「ヴィッテリア様」
「何か?」
「私に再び心をお許し下さい」
 思い詰めた顔でヴィッテリアに告げたのだった。
「私は貴女のもっとも気に入るようになり貴女の望まれることをしますので」
「私の望むこと」
「そうです」
 言葉は本気だった。
「今貴女の為に行きます」
「私の為になのですね」
「その通りです」
 思い詰めた言葉が続く。
「その眼差しだけに私は全てを捧げます。ですから」
「そうですか。それでは」
 セストの想いは知っているが聞くだけだった。
「行くのです。何度も言わせないことです」
「では・・・・・・」
 一礼して場を後にした。すると彼と入れ替わりにアンニオとプブリオがヴィッテリアのところに来たのだった。丁度彼女は考えごとをしていた。
「ティート帝よ」
 まずはティートのことを呟いた。
「貴方はお知りになられるでしょう。私を愛さなかったことでどれだけ後悔するのか。天界において。未来永劫後悔することになるでしょう」
「ヴィッテリア様」
「こちらでしたか」
「むっ!?」
 二人の声に顔をそちらに向ける。ここでようやくアンニオとプブリオに気付くのだった。
「貴方達は」
「お急ぎ下さい」
「今すぐに」
「何かありましたか?」
「陛下がお呼びです」
 アンニオが彼女に告げた。
「ですから。今すぐに」
「私を。何故」
「陛下は貴女を選ばれたのです」
 今度告げたのはプブリオであった。みれば顔には満面の笑みがある。
「おめでとうございます」
「御祝いの言葉とは。一体」
「御存知ないのですか?」
「さて。何を」
 まだ彼女は気付かないのだった。怪訝な顔を浮かべたままである。
「わからないのですが。どうも」
「ですから陛下が選ばれたのです」
「若しかして私をですか?」
「そう、そのまさかです」
 アンニオもまた満面に笑みを浮かべていた。
「ですから。早く」
「お急ぎを」
「陛下が私を選ばれた」
 ヴィッテリアにとってはまさに青天の霹靂だった。呆然とさえしている。
「何ということでしょうか」
「貴女のお美しさと聡明さ」
「そして血筋」
 二人はそれを理由に挙げた。
「陛下はそれ等で選ばれたのです」
「ですから。おめでとうございます」
「有り難き幸せ。しかし」
 ここでヴィッテリアは。大変なことを思い出したのであった。
(セスト)
 他ならぬ彼のことをであった。自身がその想いを利用し行かせた彼のことを。
(行ってしまった。恐ろしいことになる)
「皇后様」
 二人はもう彼女をこう呼んでいた。無論彼女の心中は気付いていない。
(忌まわしい我が怒りよ)
 今になって後悔するヴィッテリアだった。
(無分別な激情よ。この二つのせいで)
「さあ、お急ぎを」
「幸福の場へ。しかし」
 ここでプブリオが思い悩む顔になっているヴィッテリアに気付いた。
「見よ、あの御顔を」
「はい」
 気付いていない二人は彼女が大きな喜びにより混乱していると思っているのだった。だからこそ二人で彼女を見て笑みを浮かべているのだ。
「大きな喜びは人を混乱させるな」
「そうですな。あまりにも幸福になり過ぎて」
(不安と苦痛がこんなにも大きく。ここまで恐怖を抱いたことは)
「ではお后様」
 気付いていない二人の言葉は相変わらずであった。
「お急ぎを」
「お待ちしていますので」
「わかりました」 
 何とか応えるヴィッテリアであった。
「お待ち下さい。それでは」
「ええ」
 こうしてヴィッテリアは今はじめて己の所業に後悔を覚えるのだった。だがそれは残念なことに遅きに達したものであった。最早舞台は動いていたのだから。
 カンピドーリオの丘。緑と神殿に飾られたこの丘においてセストは激しく身悶えし悩んでいた。
「何という苦しさ。裏切りの罪を犯すことがこんなに苦しいなんて」
 ティートのことを想い今息を荒くさせていた。
「どうすればいいんだ。陛下を殺めるなぞ」
 ここでティートの顔が脳裏に浮かぶ。
「あれだけの偉大で心優しい方を。そして無二の友人を。私は殺めるというのか」
 逃げたかった。しかし。
「ヴィッテリア、貴女もいる。私はどうすれば」
 もう目の前の神殿は燃えはじめていた。
「手遅れだ。もう」
「セスト」
 ここでアンニオが丘にやって来たのだった。彼の部下の兵士達も一緒である。
「武器の音や兵士の声。もう終わりか」
「ここで何をしているのだ?」
「その声はアンニオかい?」
「うん、その通りだ」
 彼は明朗に友人に返事を返した。
「僕だが。君は何故ここに」
「僕は・・・・・・この世で最も恥ずべき男だ」
 こう言ってアンニオから顔を離す。
「だから。気にしないでくれ」
「一体何を言っているんだ」
 これはアンニオには全くわからない言葉であった。彼と話をしながら首を傾げさえする。
「君は。どうかしたのか」
「僕は」
「アンニオ様」
 ここでさらに。セルヴィリアまで来たのだった。
「この騒ぎは。何と恐ろしい」
「どうして君がここに?」
「騒ぎを聞いてです」
 素直にこうアンニオに答えるのであった。
「それにしてもこの火事は」
「今部下達が収めてくれている」
 アンニオの連れて来た兵士達が果敢に動いていた。彼等の水とハンマーが炎を消し建物を壊しこれ以上火が起こることを防いでいた。
「どうやら大事には至らないだろう」
「そうだと宜しいのですが」
「うん、まずは安心だ」
「ですが」
 しかしセルヴィリアの顔が曇った。
「この火事は」
「?何か思うところがあるのかい?」
「はい」
 思い詰めたような顔をアンニオに向けて答えるのだった。
「これはまさか」
「おかしいというのか」
「そうです。謀略では?」 
 見抜いていたのだった。彼女は。
「誰かが引き起こしたのかも知れません」
「誰か、か」
 プブリオも来ていた。丁度今彼女の話を聞いて顔を顰めさせていた。
「それこそが問題だな」
「プブリオ様」
「セルヴィリアさん」
 彼はもう政治家の顔になっていた。元老院を預かる男の顔に。
「陰謀ですか」
「私はそう思うのですが」
「ふむ」
 彼はセルヴィリアの言葉を聞いて顔をさらに顰めさせた。
「確かに。これは考えてみれば」
「それでです」
 陰謀と聞いてアンニオも顔色を変えた。その顔で話に入って来たのだ。
「その首謀者は。誰が」
「まさか」
 またセルヴィリアの勘が動いた。
「あの方では」
「あの方!?」
「まさか」
 それを聞いて二人にもわかったのだった。
「今ここにいる筈がない男」
「だとすると」
「ここにはいないのね・・・・・・」
 丘にもう一人姿を現わした。ヴィッテリアである。狼狽した顔で辺りを見回しつつ姿を現わしたのである。従者の一人も連れてはいない。
「セストは。何処に」
「待て、そしてだ」
 プブリオはそのヴィッテリアには気付かずにここでまた不吉なことを思うのだった。
「誰を狙っていたのだ?」
「誰をですか」
「そう、誰をだ」
 アンニオに対して告げる。
「誰が誰を。それが問題なのだが」
「探すのですね」
 セルヴィリアは暗い顔で二人に問うた。
「それが誰かを」
「探さねばならない」
 プブリオの言葉はあくまで政治家としてのものだった。
「必ずな。誰かを」
「幸い私の兵達がいます」
 アンニオはここで部下達のことを出した。
「彼等の力を借しましょう」
「頼めるか」
「是非」
 己の正義感に基いての言葉であった。軍人である彼は。
「お任せ下さい。及ばずながら私も」
「期待させてもらう。むっ」
 セストはふらふらと彼等のところに戻って来たのだった。目は虚ろなものになっている。
「セスト」
「何かおかしいな」
 ヴィッテリアとアンニオはそれぞれ彼を見て言う。だが彼はそれには気付かずその虚ろな目で彷徨うように歩きながら言うのだった。
「何処へ隠れるか。だが裏切り者を隠してくれる場所は何処にもないのか」
「セスト」
 その彼に優しい声をかけてきたのは親友であるアンニオであった。
「どうしたんだい?今の君はおかしいぞ」
「アンニオ」
「落ち着くんだ」
 言葉だけでなく目も顔も優しいものになっている。
「どういう事情かわからないけれど今は」
「アンニオ・・・・・・」
「さあ、どうしたんだい?君は」
「罪を犯した」
 今度は俯いて言うのだった。
「僕はこの上ない大罪を犯してしまったんだ。あの方を」
「あの方を!?」
「まさか」
「言ってはいけません」
 ヴィッテリアは必死の形相でセストの前に出て彼を止めた。
「それ以上は」
「いえ、僕は己の罪を償います」
 今度ばかりは彼もヴィッテリアの言葉には従わなかった。恋よりも良心が勝ったのだろうか。
「この身一つで」
「セスト・・・・・・」
「言いましょう、皆さんに」
 覚悟を決めて顔をあげた。そうして今一同に告げるのだった。
「僕の犯した罪を」
 こうして彼は己の罪を告白したのだった。その罪は己だけのものとしながら。今そのことを告白したのであった。ただ一人の罪であるとして。



ちょっとややこしい展開に。
美姫 「こういうのも面白いわよね」
ああ。恋と親友の狭間で揺れ悩むセストか。
美姫 「どうやらヴィッテリアの事は隠して罪を告白したみたいだけれど」
一体どんな事になるんだろう。
美姫 「続きを待っていますね」
待ってます。



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