『タンホイザー』




                          第三幕  恩寵は与えられ

 タンホイザーがローマへ向かって長い時が経っていた。その間エリザベートは来る日も来る日も祈り続けていた。それはこの時も同じであった。
「姫はまた祈っておられるのか」
「そうだ」
 騎士達がその緑の谷に集っていた。谷は広く左右に開けている。緑の草が拡がり花々も見える。白や桃の小さな花々が咲き谷には青い花や白い岩が見える。落ち着き清らかな場所であった。
「ここで今日も。彼の為に」
「そうか、今日もだな」
「そうだ、今日もだ」
 ヴォルフラムがビテロルフに対して答える。騎士達はヴォルフラムを中心として集い一人跪き祈りを捧げているエリザベートを遠くに見ていた。エリザベートは一人祈り続けている。
「今日も祈っておられるのだ」
「そして彼は今は」
「もうすぐらしい」
 ヴォルフラムは今度はラインマルの問いに答えた。
「今巡礼達が戻って来ている」
「そうか、やっとか」
「そう、やっとだ」
 ヴァルターの言葉にも答える。
「やっとな。戻って来たのだ」
「では彼もまた」
「姫の祈りも」
 ハインリヒもまたエリザベートを見ていた。
「通じるのだろうか」
「わからない。だが遂に戻って来たのだ」
 ヴォルフラムがわかっているのはこのことだった。
「この時が来た。それは間違いないのだ」
「聖者達よ」
「神よ」
 彼等は天の存在に対して声を送った。ここではエリザベートと同じであった。その見るものは。
「どうか彼女の声を聞いて欲しい」
「恩寵を」
「故郷よ、我等は喜びて汝を見る。美しき草原に」
「この声は」
 巡礼達の声だった。この声を聞いてエリザベートは顔をあげたのだった。
「巡礼の」
 そして立ち上がり言う。
「あの方々が戻って来られた」
「信心深い歌だ」
「うむ」
 騎士達もこの言葉に頷くのだった。彼等もまた巡礼の歌を聞いていた。そのうえで語る。
「恩寵が救済を告げる歌」
「その歌が今」
「神に逆らわず巡礼を終えた今」
 巡礼達の歌がさらに続く。
「懺悔と悔恨により主の許しを得たり」
「どうか神よ」
 エリザベートは切ない声で呟く。
「あの方を。どうか」
「天よ」
「どうか御聞き下さい」
 騎士達も祈るのだった。
「彼女の祈りを」
「どうか。その御心に」
「我が歌は主の為に響く」
 巡礼達の歌がさらに続けられていく。
「恩寵の救済は我々に与えられ彼は何時か天国に平和に行く」
「地獄と死とは彼の恐れにあらず」
「故に我が命の限り神を讃えん」
「あの方は」
 エリザベートは巡礼達を見ていた。しかしそこには彼はいなかった。彼はいない。エリザベートはそれを見てまた跪いた。そうして深い祈りを捧げるのであった。
「マリア様。どうか我が祈りを」
「また祈っている」
「彼の為に」
 騎士達は遠くから彼女を見守っている。巡礼達は遠くへ消えていっていた。
「私は貴女に訴えます。私の命を捧げ」
「命を」
「そこまで」
「御身の至高の世界に天使の如く。今心より祈ります」
 祈りつつ言うのだった。
「若し愚かしい妄想に囚われ私の心が神から外れるのなら。若し罪ある欲望や醜い欲が私の心を満たすなら私は千の苦痛に身を沈めこの欲望を心の中で殺しましょう」
「姫・・・・・・」
「ですが全ての過ちを償うことができないのならば」
 祈りはさらに彼女の口から出される。
「どうぞ私を慈悲深くお召し下さい。私が貴女の下僕として検挙に近付けますように。貴女の恵みに満ちた恩愛により彼の罪の為祈ることができますように」
 最後にこう告げて深い祈りに入る。それが終わってから立ち上がった時にゆっくりと騎士達が彼女に歩み寄るのだった。
「姫」
「貴方達もここに」
「はい」
 厳かな声で彼女に答える。
「我々もまた」
「共に」
「祈って頂けるのですか?」
「宜しければ」
 その厳かな声でまた述べるのだった。
「どうかここで」
「我々も」
「私は」
 だがエリザベートはここで穏やかに顔を下に向けた。そうして静かに首を横に振るのだった。静かだがそれでも確かな動きであった。
「後はマリア様の御前で」
「左様ですか」
「申し訳ありません」
 こう述べてまた頭を垂れるのであった。
「私はこれで」
「わかりました」
「それでは」
 騎士達は彼女の言葉を受けて静かに身を止まらせた。エリザベートは静かに去りその白い姿を谷から消した。谷の中を夕闇が包み込み空には星が見えようとしている。騎士達はその中の一つの星を見ていた。
「死の予感がする」 
 ヴォルフラムが歌いはじめた。
「それが夕闇となり大地を多い黒き衣で谷を被せる」
「この谷を」
「かの嘲弄を貪る魂は夜闇と恐怖を恐れている。その時御前は現われる」
 今ヴォルフラムはその星を見ていた。夕星を。
「御前の柔らかな光は遠くより送られその輝きは夜の薄闇を照らし森からの道を優しく示す。ああ、我が優しの夕星よ」
 夕星は静かに優しい光をヴォルフラム、そして騎士達に見せて輝きを与えている。ヴォルフラムはその輝きを見つつさらに歌っていく。
「私は御前にいつも快く挨拶を送った。あの方が御前の下を通る時彼を裏切らぬ心で挨拶を送ってくれ。あの方が天使となるべく。あの方が地上の谷より姿を消すまで」
「夕星よ」
 騎士達もヴォルフラムに続いて言う。
「どうかその日まで」
「あの方を導いてくれ」
 五人で祈るのであった。この祈りが終わったその時に。遠くからぼろを纏い杖を頼りに歩く男が見えてきた。遠目でよくはわからないがあちこちが破れてしまったマントを羽織っているのがわかる。
「あれは一体」
「巡礼の者か」
「おそらくはな」
 それに遅れて来た者かと思い声をかけるのであった。
「誰か」
「寂しく還る貴方は誰か」
「私が誰かか」
 その巡礼者から声を返って来た。
「私は君達をよく知っているが」
「その声は」
「まさか」
「そう、私は」
 声の主は静かに答えてきた。
「タンホイザー。戻って来たのか」
「ここに」
「罪は償ったのか?」
「それは」
 彼は騎士達の問いに項垂れるだけであった。
「どうしてここに」
「安心してくれ」
 ヴォルフラムに対して答えてきた。
「私は君達を捜しているのではないのだ」
「違うというのか」
「そう、私が捜しているのは」
 顔を見上げて言うのだった。
「あの道だ。かつて私が容易く見つけることができたあの道を」
「あの道!?」
「それは一体」
「女神の泉」
 こう騎士達に答えてきた。
「そこへの道を」
「馬鹿を言え」
 ヴォルフラムが彼の言葉を遮った。
「君の行く道はそこではない筈だ」
「そうだ」
 ハインリヒも言う。
「君はローマに行くべきだ。また」
「いや、行ったのだろう?」
 ヴァルターはこのことを彼に問うた。
「ローマに。確かに」
「ローマのことは言わないでくれ」
 しかし彼はこう言葉を返すだけであった。
「もう。私には」
「聖祭には出たのだろう?」
 ラインマルが問うのは祭のことであった。
「ならば」
「それも聞かないでくれ」
 これもまた遮るタンホイザーであった。
「私には」
「では君はどうしてここに」
 ヴォルフラムはタンホイザーの側に来て彼に直接問うた。
「来たというのだ。よかったら話してくれ」
「そうだ、是非共」
「我々に話してくれ」
「何故そんなことを言う」
 タンホイザーはここで騎士達に対して問うた。
「君達は私の敵ではなかったのだ」
「敵!?違う」
「そうだ」
 すぐに騎士達はそれを否定した。
「何故我々が君の敵なのだ」
「我々は君の友人だぞ」
「友人か」
 その言葉がタンホイザーの心に響いた。
「私を友人だと言ってくれるのだな」
「何度でも言う」
「だから。君をここで」
「そうか。私を仲間と」
 騎士達の言葉を聞き今タンホイザーの心が動くのだった。
「言ってくれるのだな」
「常に競い合ってきたではないか」
「それでどうしてそんなことを」
「わかった」
 タンホイザーは彼等の言葉を聞いているうちに意を決した顔になった。そうしてそのうえで話をはじめた。彼のこれまでの話を。ローマでの話を。
「私は今までどの様な懺悔者も感じなかった程の心を以ってローマへ向かった。一人の天使を傲慢なる者から不遜の罪を取り払ってくれたのだから」
「それはわかっている」
「だからこそ君は」
「そして」
 タンホイザーはさらに歌う。
「その天使の為に謙虚に懺悔し拒まれた救済を請い彼女の涙に応えようと決意していた」
「だからこそローマに行ったのだろう?」
「違うのか?君は」
「私の傍に重圧に耐えかねた巡礼者が道を辿るのを見ても私の心に比べれば容易であった」
「容易だったのだな」
「そう、容易だった」 
 また騎士達に述べる。
「彼等の足が牧場の柔らかい土を踏む時私は裸の足で茨や石を求め彼等が泉で石を潤す時私は太陽の灼熱を浴びた」
「苦難を自らも止めたか」
「これだけではなかった」
 歌が続けられる。
「彼等が敬虔に天に祈る時神を讃え血を流し宿屋で疲れを癒す時雪と氷の中にいた。イタリアの優しき山野からも自然の美からも目を閉じた。苦痛を自ら受けたのだ」
「充分ではないのか?」
「それでローマに行けば」
「ローマの聖なる場所に至り聖域のしきいに座して祈った。朝が来て鐘が鳴り天の歌を響かせた」
「天のか」
「やがて激しい歓喜の声があがり」
 巡礼者達の声である。
「多くの者がその恩恵と救済を得た」
「では君はどうだったのだ?」
「そう、君は」
「私もあの方を仰いだ。幾千もの人に恩寵を与えられ罪を除かれたあの方の御前に。そして頭を地につけ我が罪、悪しき快楽の罪と懺悔のいやささりし渇望についても申し上げた」
「そしてどうなったのだ?」
「君は」
「これだ」
 彼等に杖を指し示して騎士達に告げた。
「これがその返答だった」
「杖が!?」
「それは一体」
「あの方は仰った。ヴェーヌスベルグに留まった罪はこの杖が新緑に飾られることがないのと同じように地獄の熱き刻印から救われることはないと」
「駄目だったのか」
「そう、許されなかった」
 項垂れて歌う。
「私には最早救いはなく恩寵の歌も忌々しく響く。だから」
「だから。何だ?」
「何だというのだ」
「私は求める」
 彼は叫ぶ。
「あの泉への道を。愛の女神の場所を」
「馬鹿を言え、はやまるな」
「そうだ、思い止まれ」
 騎士達は彼の左右を取り囲んで必死に制止する。
「君にはまだ希望がある」
「それを忘れるな」
「希望だと」
 絶望に覆われた顔で彼等の顔を見返すのだった。
「私に希望があるというのか。この杖に」
「それは」
 こう問われると言葉を失うしかなかった。
「だが。しかしだ」
「君はここで求めれば」
「愛欲の女神よ」
 タンホイザーはまた呼びだした。
「どうか私を貴女の場所へ。ヴェーヌスベルグに」
「な、何だ!?」
「何だこの光は」
 ビテロルフとヴァルターが周りを見て驚きの声をあげる。
「薄く明るい光が」
「しかもこの霧は」
 薔薇色の霧であった。香りまである。タンホイザーはこの光と霧を見ていよいよ顔をあげた。
「この光と霧なのだ、これだ」
「!?まさか」
「この光と霧こぞが」
 ラインマルとハインリヒはその二つの中で顔を蒼白にさせていた。
「呪わしきあの場所への」
「誘いだというのか」
「この優しい香りこそが。私が今行くべき場所」
 タンホイザーは虚ろな声で語る。
「さあ、君達にも見える筈だ」
「み、見ろ!」
 ヴォルフラムがここで辺りを見回して仲間達に叫ぶ。
「あの女達は」
「まさかあれは」
「恐ろしい。この世に真にあったのか」
「あれこそニンフ達」 
 タンホイザーは虚ろな声で騎士達に語る。
「水の乙女達に海の乙女達が」
「異教の精霊が」
「ここに出て来たのか」
「春の国ヴェーヌスベルク。永遠の愛欲の泉」
「来ると思っていたわ」
 ここであの神が姿を現わしてきた。妖艶な姿を見せて。今タンホイザーの前に浮かび上がってきたのだ。
「不貞の人。あの神に許されなかったのね」
「如何にも」
 暗い顔でヴェーヌスに語る。
「私はもう。この世にはいられなくなった」
「言った筈。あの神は貴方を救いはしないと」
「そうだった。愛欲の女神を」
 ヴェーヌスを見て言う。
「愛欲の女神よ。貴女の世界に再び」
「いかん、このままでは」
「タンホイザー」
 騎士達は必死に彼を呼び止める。
「駄目だ、ここに留まるのだ」
「何としても」
「永遠に喜びの泉に満たされるように」
 騎士達が呼び止めるその間にもヴェーヌスはタンホイザーを誘う。
「さあ今度こそ永遠に」
「我が救済は貴女の下にこそ」
「そう。だから」
「だから駄目だと言っている」
「思い出すのだ、苦難を」
 騎士達はもうタンホイザーとヴェーヌスの間に立っていた。そのうえで彼を止めていた。
「敬虔を思い出すのだ」
「行ってはならない」
「快楽だ」
 それでもタンホイザーの虚ろな言葉が出される。
「私にはそれこそが」
「さあ、ここへ」
 またヴェーヌスが誘う。
「ここに来るのです。さあ」
「いけない、行ってはならない」
 ヴォルフラムはとりわけ強くタンホイザーを止める。
「君は。何があっても」
「私を捨ててくれ!」
「駄目だ!」
「誰が捨てるものか!」
 騎士達は自分達を振り捨てようとするタンホイザーをなおも止める。
「君の様な罪を犯した者も」
「恩恵は与えられるべきなのだ」
「救いが」
「救いなぞもう」
 タンホイザーは騎士達の言葉を拒み続ける。そのうえで差し出されたヴェーヌスの手に向かおうとする。しかしここでヴォルフラムが言った。
「天使が君の為に地上にいるのだ」
「天使!?」
「そう、天使だ」
 彼はタンホイザーに言う。
「天使が祝福を君に与えるのだ」
「そうだ、天使が」
「タンホイザー、君を」
 他の騎士達もタンホイザーに告げる。するとタンホイザーは自然にこの名を口にするのであった。
「エリザベート」
「そう、姫だ」
「姫が君の為に祈っているのだ」
「全てを捧げて」
「私の為に」
 それを聞いたタンホイザーの動きは完全に止まった。最早一歩も動かない。
「姫が。エリザベートが」
 薔薇色の霧が次第に晴れていく。それのかわりに明るい光が見えて来る。それは無数の松明の光であった。タンホイザーも騎士達もその光が何なのかすぐにわかった。
「敬虔なる受難の娘より魂の救済が与えられた」
「タンホイザー」
 ヴォルフラムがその光から放たれる無数の声を後ろにまたタンホイザーの名を呼んだ。
「天使は君の為に神の玉座に訴え出た」
「そして」
「タンホイザーよ」
「それは聞き届けられた」
「君は救われたのだ」
 ビテロルフもヴァルターもラインマルもハインリヒもヴォルフラムに続く。今彼はここに救われたのだった。一人の天使によって。
「エリザベート、貴女は」
「もう一人の私が私を消した」
 ヴェーヌスの姿が消えていく。その中で彼女の声だけが聞こえる。
「これでもう」
「天使は彼女の聖なる報い」
 また声が聴こえてくる。先頭にはヘルマンがおり棺が運ばれている。そこに彼女がいた。
「天なる喜びの勝利」
「聴こえるな」
「あの声が」
 騎士達がここでもまたタンホイザーに問う。
「聖なる声が」
「君の耳にも」
「聴こえる」
 タンホイザーは今はっきりと言った。
「声が。天使を祝福する声が」
「清き人は聖なるかな。聖なる群れに加わりて永遠なる神の前に立てリ」
「彼女は罪人の為に泣き天の救済を請い願い」
「その罪人は救われる」
「聖なるエリザベートよ」
 タンホイザーは静かに言った。
「我が為に祈ってくれ」
 最後まで言うと膝をつき前から倒れた。そのまま動かなくなった。その彼を多くの者達が囲んでいく。そこにはヘルマンと騎士達もいた。
 一人の巡礼がそこにいた。彼はその手に杖を持っていた。タンホイザーが先程まで持っていたあの杖だ。見れば今それに新緑の葉が生え茂っていた。
「救済は世に下された。それは夜の聖なる時に起こり主は奇蹟により自らを示し給うた」
「騎士が持っていた枯れたる杖は主が新緑で飾られた」
 タンホイザーを囲む全ての者達が主と彼の救済を讃えていく。
「地獄の烙印を持つ罪人はこうして救済を新たに受ける」
「この奇蹟を通して恩恵を見出せし者の名を呼び伝えよ」
 そして言われる。
「神は全ての世の上にありその憐れみは嘲りではない」
「恩寵の救済は懺悔者に与えられた。今より彼は天の平和に入る!」
 ヘルマンと騎士達が跪き祈る。タンホイザーはその中央で祝福を受けている。救済を与えられた彼は今エリザベートのいる天へと向かっていたのだった。祝福を受けた世界に。


タンホイザー   完


                           2008・9・8



エリザベートによって救われたという事なんだろうけれど。
美姫 「少し物悲しいわね」
だな。赦しを得る事が出来ても、とか思ってしまうな。
美姫 「これでこのお話は終わりなのね」
投稿ありがとうございました。
美姫 「ありがとうございました」



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