『セビーリアの理髪師』




                          第二幕  大騒ぎの結末は

 とりあえず騒ぎは終わった。兵隊達もバルトロが思うところの胡散臭い兵隊も去った。ロジーナは二階に戻りバジリオとフィガロはシェスタに向かった。バルトロは一人家に残りあれこれ考えに耽っていた。
「あまりにもおかしい」
 部屋の中をうろうろとしながら呟く。
「あの兵隊は何者なのだ」
 考えるのはやはり彼のことであった。
「将校が敬礼をするとは」
 そのことがまずおかしかった。将校と兵士の差は言うまでもなく圧倒的なのだ。それでどうして敬礼なぞするのか。そのことをまず思った。
「しかもだ」
 ここでもう一つの謎が出て来た。
「何故だ?ロジーナを知っているようだ」
 そこにも気付いた。
「何故だ?はじめて会ったというのに。何故知っている」
 謎は思えば理に合わないものばかりだ。その謎について考えれば考える程わからなくなってくる。ここでその謎をさらに引っ掻き回す人物がやって来た。
「バルトロ博士、バルトロ博士」
「はい」
 扉をノックする音と声に挨拶をする。
「どなたでしょうか」
「音楽教師ですが」
「音楽教師!?」
 その言葉を聞いて目をしばたかせる。
「ドン=バジリオは?」
「いえ、急病で来られなくて」
 都合のいい嘘が出て来た。だがそれについてはバルトロは何も知らない。知っている筈もないことであった。
「それで私が代理出来ました。宜しいでしょうか」
「ええ、構いません」
 バルトロは何もわからないままそれに応えた。そうして扉を開ける。するとそこからバジリオと殆ど同じ服を着た伯爵が入って来た。だがバルトロは服装と変装のせいで彼が先程散々騒ぎまくり彼に謎を置いていった兵士だとは一見では思いも寄らない。
「はじめまして」
 その音楽教師は恭しく上品に一礼した。
「お元気なようで」
「有り難うございます」
 バルトロも上品に返礼する。それから彼の顔を見た。今顔をじっくりと見てあることに気付いたのであった。
「おや?」
「何か?」
「いえ、何も」
 ふと気付いたがそれはまずは言葉には出さなかった。しかしその間も彼の顔を見続けている。
(おかしい、この顔は何処かで見たか?)
 記憶に引っ掛かるものを感じたのである。
(だとすれば誰だろう。何処の誰か)
(気付いてもわかりはしないだろうな)
 伯爵は伯爵で心の中で呟いていた。
(私のことはな。気付いても別の変装で)
「ご機嫌よう」
「いやいや」
 また挨拶をするがバルトロはいぶかしむものだった。だがそれを出すのは顔だけであり決して声には出さないのであった。顔に出ているが。
「それでですね」
「はい。何か」
「お元気でしょうか」
「ええ、まあ」
(同じことばかり言うな。おかしい音楽教師だ) 
 また心の中で呟く。
(そもそも。何者なのか)
「それでですね」
「はい」
 また伯爵が化けている音楽教師に応える。しつこいので少しうんざりしてきている。
「御身体の方は」
「だから元気です」
 また同じような質問なのでさらにうんざりしてきた。
「ですから。それよりもですな」
「何でしょうか」
 今度はバルトロが問うた。
「貴方の御名前は。何というのでしょうか」
「私の名前ですか」
「ええ、代理といえど」
 伯爵が化けている音楽教師を胡散臭いものを見る目で眺めながら言うのだった。
「知っておきたいので。どなたでしょうか」
「はい、私の名前は」
「貴方の御名前は」
「ドン=アロンソです」
 適当に名乗った。
「それが私の名です。バジリオ先生の弟子です」
「ドン=バジリオに!?」
 バルトロはその話を聞いて首を傾げさせた。それと共に記憶を辿る。
「彼に弟子がいたかな」
「それがいたのですよ」
 伯爵はしれっとしてそう述べる。
「私という素晴らしい弟子が」
「わかりました。しかしですな」
 バルトロはまた疑問を呈してきた。
「彼は今何処に」
「シェスタです」
 これは事実である。ラテンの習慣であり誰もが守っている。今守っていないのはあれこれ考えているバルトロとこれまたあれこれ動き回っている伯爵だけだったりする。
「ですから」
「しかしそれ位で代理を立てるのは」
「実はですね」
 芝居で深刻な顔を作って言うのだった。
「御病気でもありまして」
「病気!?急にか」
「どうも風邪のようです」
 これまた嘘である。何処までも適当な嘘をつく。
「それで」
「それはいかんな」
 バルトロはそれを聞いてすぐに医者の顔になった。生真面目な表情で述べる。
「すぐに様子を見に行こう」
「いや、それには及びません」
 今のバルトロの言葉は予想していなかったので内心結構焦っていた。だがそれはどうにかこうにか隠すことには成功した。少なくとも顔には出さなかった。
「それ程悪くはないので」
「そうか」
(胡散臭いな)
 バルトロもいい加減伯爵が化けているこの音楽教師を本気でそう認識しだした。
(どうにもこうにも)
「だが行こう」
「ですからそれには及びません」
「わしは医者だぞ」
 遂に権威を出してきた。医者という言葉は実に強い。
「そのわしが言ってるのだ。だからこそ」
「ですからそれには及ばないと。そもそも」
「そもそも。何だ?」
 迂闊にも今の伯爵の言葉に気を取られた。すると伯爵はここぞとばかりに静かな攻勢に出るのだった。
「私は別の用事でもこちらに参りました。そのことについてもお話させて下さい」
「それは一体何だ?」
(またしても出まかせか)
 バルトロはまたしても心の中でそう思った。
(この若い狐が。もう誤魔化されんぞ)
「それではですな」
 じろりと彼を見据えながら問うた。
「その御用件をお話下さい」
「はい」
 伯爵が化けている音楽教師はそれに応えて述べる。聞こえないような極めて小さい、蚊の鳴くような声で。
「・・・・・・というわけです」
「何とっ!?」
 全然聞こえなかったので思わず問うた。
「今何と言われた」
「ですから・・・・・・と」
 またしても小声で言う。
「おわかりでしょうか」
「全然わからん」
 完全にバジリオのことを忘れて彼に言い返す。
「何が何なのか」
「ですからロジーナさんのことです」
 彼が乗ってきたところで本題を出した。全ては予定通りである。バルトロもロジーナの名が出るとついつい身を乗り出してしまった。
「ロジーナだと」
「そうです、ロジーナさんです」
 彼はまた答える。
「あの方のことですが」
「何かあったのか!?」
「いえ、些細なことです」
 バルトロが乗ってきたのを見ながら笑みを隠して言う。
「実に些細なことなので言おうか言うまいか考えていたのですが」
「是非言ってくれ」
 バルトロは本当に身を乗り出して言った。
「ロジーナのことを。さあ」
「それでは。宜しいのですね」
「無論」
 また答える。
「早く、今すぐに」
「わかりました。実はですね」
「うむ」
 身を乗り出したまま伯爵が化けているその音楽教師の話を聞くのだった。完全に彼の術中に陥っているとも知らずに。完全に伯爵の勝ちであった。
「リンドーロ・・・・・・でしたっけ」
「あいつがか」
 バルトロの表情が一変した。怒ったものになる。
「彼にあてたロジーナさんの手紙を持って来ました」
「そんな話は早く言ってくれっ」
 バルトロは激昂して彼に言った。
「何故今まで言わなかったのだ」
「ですから些細なことですので」
「全然些細ではないわっ」
 少なくとも彼には。
「あるのか、今それは」
「私の懐の中に」
 これは事実だ。何しろこれが今の彼の策略のメインだからだ。
「ありますが。では」
「すぐに見せてくれ」
 そう伯爵が化けている音楽教師に言う。
「すぐにな。いいな」
「わかりました。それでは」
 それを受けて懐から手紙を差し出した。バルトロはそれを見るとすぐにひったくるようにして受け取りその中を貪るようにして読みはじめた。まずは筆跡であるが。
「間違いない」
 その筆跡を見て言う。
「ロジーナの字だな」
「それでですね」
「それで。今度は?」
「アルマヴィーヴァ伯爵を御存知でしょうか」
 自分の名前をさりげなく出してきた。
「ああ、彼なら知っている」
 バルトロもその言葉に頷く。手紙を読みながら。
「その彼がどうしたのだ?」
「実は彼がロジーナさんを狙っています」
「何っ!?」
「それで何かとうろうろしているようなのですよ」
「それはまことか」
「私は嘘は申しません」
(嘘だがね)
(嘘だな)
 それは二人共嘘だとわかっていたがあえて口には出さない。
「ですから信じて下さい」
「わかった。ではすぐにロジーナを呼ぼう」
「ロジーナさんをですか」
「本人に知らせるべきだ、こうした話は」
 彼は真顔で述べる。
「だからこそだ。いいな」
「そうですね。いいかと」
 心の中では思うところがあったがそれは今は隠した。
「それではどうぞ」
「うむ。流石はドン=バジリオの弟子」
 これは完全にお世辞である。伯爵もそれはわかっている。
「感謝する。ではな」
「はい、有り難うございます」
 バルトロはすぐに二階の階段を登りロジーナのところに向かった。伯爵はそれを見ながら一人呟くのであった。
「まあ仕方ないな、今は」
 ロジーナの手紙をバルトロに渡したことを言う。実は事前に結構迷っていたのだ。彼にとってはかなり思い切った策略だったのだ。
「後は彼女に僕の計画を話して、と。それで行こう」
「ささ、ロジーナ」
 すぐにバルトロはロジーナの手を引いて戻って来た。どうやらシェスタをしていた彼女は今一つ浮かない顔をしていた。
「早く来なさい。今日の音楽の先生だよ」
「今日の!?」
 何か変な言葉に階段を降りながら首を傾げさせる。
「バジリオ先生ではないの?」
「どうも風邪らしい」
 伯爵が化けた音楽教師の言葉をそのまま述べる。
「それで今日はだな」
「ええ」
「ドン=アロンソ先生が来られている」
「ドン=アロンソ!?」
 ロジーナも聞きなれない名に目をしばたかせる。
「どなたなの、それは」
「何だ、知らないのか」
 自分も知らないのは内緒である。
「ドン=バジリオの弟子でな」
「バジリオ先生の」
 ロジーナはそれを聞いて今度は首を傾げさせた。さらに聞かないことだったからだ。
「弟子なのですの?」
「うむ、若いが素晴らしい方だ」
 そう述べる。
「わかったら早く。さあ」
「わかりましたわ。では」
 階段を完全に下りて一階に来た。すると彼がいた。
「まあ」
「どうも」
 伯爵はあえて恭しく一礼する。
「ドン=アロンソです」
「はじめまして」
 ロジーナもスカートの裾を掴んで恭しく一礼する。上品に見えるがそこには上品よりもおどけたものがあった。だがそれはバルトロにはわからない。
「ロジーナですわ」
「はい。それではですね」
 ここで彼はにこやかに言う。部屋の隅にハープシコードを見つけるとそれを出してきた。
「早速レッスンをはじめますが曲はどれが得意ですか?」
「無駄な用心のロンドを」
 ロジーナはにこやかに笑って答える。
「それを御願いしますわ」
「ではおじ様」
 ロジーナはここですっかり手持ちぶたさになっていたバルトロに声をかけた。
「今からはじめますので」
「うむ、わかった」
 紳士でありたいと考えるバルトロはその言葉に素直に従った。そうして彼が立ち去ると伯爵は本当の顔を見せてロジーナに近付くのだった。
「では。いいかな」
「ええ」
 殆ど恋人同士の顔になっている。その顔で言葉を交えている。
「ロンドを」
「無用心のロンドだったわね」
「いや、ここは変えよう」
 だが伯爵はこう提案してきた。
「貴女に相応しい歌に」
「私に!?それは一体」
「そうだね。情熱的なものがいいね」
 伯爵はにこりと笑って述べた。
「激しい愛の炎が燃える心にはっていうのはどうかな」
「ああ、あのアリアね」
 そのアリアはロジーナも知っていた。それもよく。
「じゃああのアリアを」
「うん。それじゃあ」
 伯爵は上手にハーブを弾きはじめる。そうしてロジーナはそれに乗って歌いはじめたのであった。
「激しい愛の炎が燃える心に対してはどんな横暴な力も残酷な力も無力です。如何なる攻撃に対しても愛は常に勝つもの」
 演奏は続く。それに合わせてロジーナの歌も続く。
「ああ私の愛しい方」
 ここで伯爵を見る。伯爵もその視線を受けて微笑む。
「若し貴方がそれを御存知なら私をお救い下さい」
「ううむ、素晴らしい」
 歌が終わった。伯爵はハーブを止めてロジーナを褒め称える。
「これは私が教える必要はないかも」
「あらあら」
 ロジーナはその褒め言葉におどけてみせる。
「そんなお世辞を仰っても何もありませんわよ」
「いや、これがあるのですよ」
 しかし伯爵はこう述べる。
「貴女の笑顔が見られます」
「あら、お世辞を」
「では最後をもう一度だけ」
 その笑顔を見る為のもう一度だった。ロジーナもそれに乗る。
「では」
「ええ。愛しい方、どうか私をお救いになられうっとりとさせて下さい」
「ううむ、お見事」
 伯爵はまた彼を褒め称える。
「やはり。そうでなければ」
「はい。歌はこうでなくては」
「いやいや」
 しかしそれに異議を呈するものが出て来た。バルトロが今自分の部屋から出て来たのである。そうして二人に対して言うのであった。
「その曲は少し」
「御気に召されませんか?」
「いいことはいいですな」
 そう伯爵が化けている音楽教師に述べる。
「だが。わしの若い時の曲とは全然違って」
「はあ」
「モーツァルトの流れですかな」
 彼は言う。
「それから出て来たような曲ですな」
「モーツァルトは天才ですよ」
 伯爵は穏やかな笑みと共にそう述べる。
「オペラではまさに端役なしですしどの曲も」
「まるで天使の歌声のようだ」
 バルトロも言う。
「そう仰りたいのですな」
「その通りです。あれだけの天才は今まで出ませんでしたし今後も」
「しかしですな」
 バルトロはここぞとばかりにまたしても異議を呈した。
「アリアにしろグルックの方が」
「宜しいのですか」
「モンテヴェルディは御存知でしょうか」
「名前だけは」
 実は伯爵はその名を詳しくは知らない。目が少し泳いでしまった。
「ベルコレージ。若くして亡くなってしまって」
「はあ」
「彼等の素晴らしい曲が好きなのです。所謂ルネサンスにバロックが」
「先生のお好みですか」
「とりわけカストラートです」
 バルトロの言葉がうっとりとしてきた。
「ファルネッリは素晴らしかったそうですが」
 伝説的カストラートである。歌唱力だけでなく容姿も素晴らしかったと言われている。スペイン国王の相談役でもあったのだ。
「近頃の啓蒙主義者はカストラートを好ましく思っていないようで」
「モーツァルトもカストラートの曲を作曲していますが?」
「いや、それでも」
 違うのだとバルトロは言う。
「あの御仁はソプラノやテノールにどちらかといえば力が」
「まあそうですね」
 それは伯爵も認める。実際にモーツァルトはソプラノの為に超絶的なコロトゥーラテクニックを使ったソプラノを残している。そちらの方が遥かに有名であるのだ。
「台本も。モーツァルトのものはどうも軽やかで」
「重厚に?」
「そう、ヘンデルのジュリアス=シーザーのように」
 そのカストラートが表題役、つまりタイトルロールを歌う役だ。英雄はカストラートこそが歌う時代だったのだ。バルトロはその時代を懐かしんでいるのである。
「歌うのです。こうして」
 一部を歌いはじめる。そこにフィガロも扉からやって来て真似をする。見ればその仕草がそっくりである。本当の親子の様に。
「おやフィガロ君」
 あまりにもフィガロの動きがいいのでバルトロは機嫌をよくしてフィガロに声をかけた。
「いいねえ、筋がいい」
「いえいえ」
 フィガロはその言葉に笑って応える。
「それはまあ」
「ところで君はどうしてここに」
「だって今日じゃないですか」 
 笑ったままバルトロに述べる。
「今日ですよ」
「はて、今日」
 バルトロはその言葉に首を傾げさせる。
「何かあったかのう?」
「お髭を剃る日じゃないですか」
「おお、そうだったか」
 言われてやっと思い出す。しかしバルトロはここで左手で拒むのだった。
「悪いが今日はいい」
「またそれはどうして」
「気分ではないので」
「ではかなり先になりますが」
 フィガロはそう前置きしてきた。
「それでも宜しいですか?」
「そんなに先になるのか」
「何しろ忙しいので」
 これは本当のことであった。実際に紙を出してバルトロに説明する。
「今日この街に来られた士官の方々の髭剃りや侯爵夫人の鬘に伯爵の若様の散髪、弁護士さんには下剤をお渡ししてと。明日だけでこれだけです」
「随分繁盛しているな」
「おかげさまで」
 この言葉にはにんまりと笑って言葉を返す。
「ですから今日を逃されると」
「では仕方がないか」
「サービスしておきますよ」
「そうだな。では頼もう」
 少し考えてからそう答えた。
「それで。タオルを出してきてくれ」
「はい」
 バルトロはここで懐から鍵束を取り出したがすぐに引っ込めてしまった。フィガロはそれを見てバルトロに尋ねるのであった。
「何か?」
「わしが取って来る」
 何かに気付いてそう述べた。
「左様ですか」
「うむ。そういうことだ」
(ふうむ)
 フィガロは今まで鍵束を持っていたバルトロの手を見ながら考えた。そうして心の中で呟くのであった。
(あの鍵束が手に入れば大きいな)
 そう呟きそっとロジーナに囁く。
「あのですね」
「はい」
「あの鍵束の中に鎧戸のはありますか?」
「ええ」
 ロジーナはフィガロのその問いに囁きで答えた。
「確か一番新しいのです」
「そうですか」
 フィガロはまたバルトロの手を見て応えた。
「それなら」
「待てよ」
 バルトロはここでまた気が変わった。そのうえでフィガロに声をかける。
「フィガロ君」
「何でしょうか」
「やはり君に頼めるかな」
「宜しいのですか?」
「うむ。何かな」
 伯爵が化けている音楽教師とロジーナを見ての言葉である。二人の間に微妙な空気を読み取ったからこその言葉であった。
「気になることができてな」
「そうですか。それでは」
「頼むぞ。それではな」
「有り難うございます」
 フィガロは鍵束を受け取るとそのまま部屋から消えた。そうしてバルトロは今度は伯爵が化けている音楽教師のところにそっと寄って囁くのだった。フィガロを見ながら。
「あの散髪屋をどう思われますか?」
「といいますと」
「いえね、怪しいですよね」
 横目でフィガロを見ながら言う。
「若しかしてあいつが伯爵とロジーナの手引きを」
「可能性はありますな」
 伯爵はここぞとばかりにバルトロを不安にさせる為にこう囁いた。
「どうにも」
「そうですか、やはり」
「御気をつけを」
 ここぞとばかりにまた言う。
「詐欺師かも知れませんから」
「わかりました。ではそのように」
 こう言ったところで家の奥からとんでもない物音がした。バルトロはその物音を聞いて思わず叫ぶのだった。
「今度は一体何だ!?」
 その声と共に家の奥に向かう。伯爵とロジーナはまた二人きりになったのであった。
「フィガロがまたやってくれたようです」
「はい」
 二人は見詰め合って頷き合う。それはまさに恋人同士の姿であった。
「こうして私達はまた」
「一緒に」
「全く以って」
 ところが。そのバルトロが戻って来た。フィガロを連れて。
「今度はこんなことをしてくれるとは。困ったことだ」
「いやあ、すいません」
 フィガロは涼しい顔絵で彼に応える。
「失敗しました」
「失敗したではないだろう」
 バルトロは半分泣いた声でフィガロに言う。
「お皿を六枚にコップが八つ、土鍋を一つ」
「日本だとそのまま井戸の下ですな」
「何だそれは」
 変なことを聞いて眉を顰めさせる。
「日本にそんな話があるのか?」
「そうらしいです」
 笑ってそう返す。
「幽霊の話で」
「怪談はいい。これは弁償ものだぞ」
「すいません。では今日の髭剃りは無料で」
「そうしてもらわないと困る」
 それでも安いと思ったがここは度量を見せることにしたバルトロだった。
「是非な。それで許すから」
「有り難き幸せ」
 そう言いながら伯爵にバルコニーの鎧戸の鍵をそっと手渡す。それからこっそりと言うのだった。
「これです」
「これがあの窓の鍵か」
「そうです。何とか手に入れました」
「うん、有り難う」
「しかし。大変でしたよ」
 少し苦笑いを浮かべてみせた。
「大変!?じゃあさっきのは」
「いや、あれは芝居です」
 それはそうだったのだ。
「バルトロ先生をそっちに向かわせる為の」
「成程、そうだったのか」
「それでですね」
 フィガロはまた言う。
「これでとっておきのカードを手に入れましたし」
「後は動くだけか」
「はい。宜しいですか?」
「うん、それじゃあ」
 頷き合う。二人は今会心の笑みを浮かべていたがそれは一瞬のことだった。何とここでとんでもない人物が家の中にやって来たからだ。
「どうも、遅れまして」
 バジリオだ。帽子を取って深々と一礼して家の中に入る。皆そんな彼の姿を見て思わず声をあげそうになった。驚いているどころか凍り付いている者すらいる。
「何でここに」
「しまった」
「困ったことになったぞ」
 ロジーナと伯爵、フィガロはそう呟いて困惑する。戻って来ていたバルトロは目を顰めさせていた。
「風邪ではなかったのか?」
「風邪!?」
 バルトロのその言葉を聞いたバジリオは目をしばたかせる。
「誰がですか?それでしたら先生の専門分野では?」
「では看て宜しいですかな」
「ええ、どうぞ」
「では貴方を」
 バルトロはここでバジリオに言う。するとバジリオはまたしても目を丸くさせるのだった。
「私ですか」
「違いますか?」
「いや、全然」
 首を横に振って述べる。
「この通り全く以って元気です」
「あれ、おかしいな」
 話が矛盾しているので彼は首を捻った。
「何が何だか」
「あの、先生」
 咄嗟にフィガロが動く。
「じゃあ髭を」
「おっと、そうだった」
 言われてそちらを思い出す。
「それじゃあ頼むよ」
「はい、今すぐ」
「ではロジーナさん」
 何も知らないバジリオはいつものようにロジーナに声をかける。
「レッスンを」
「それはもう終わりました」
 伯爵が化けている音楽教師が慌てて彼に告げる。
「ですから貴方はもう」
「あれ、君は」
 見慣れない顔なので今度は彼を見て目を丸くさせるバジリオであった。
「誰かな」
「それは後で。とにかくですね」
 必死に取り繕う。
「終わりましたから」
「はあ」
「あの」
 伯爵はすぐにバルトロにも告げた。
「彼にはすぐに帰ってもらいましょう」
「またどうして」
「手紙のことです」 
 顔を顰めさせて述べる。
「それのことで何も知らない彼が迂闊な行動に出たら大変です」
「アルマヴィーヴァ伯爵の耳に入るか」
「そうです、ですから」
 そう嘘をつく。
「ここは彼には」
「わかった。しかしだ」
 フィガロが髭剃りの用意をする横でまた言う。
「先生」
「はい」 
 バジリオに対して声をかける。バジリオもそれに応える。
「熱がおありとのことですが」
「熱ですか」
「はい。御機嫌は如何ですか?」
「私は別に」
「ややっ、これは大変だ」
 医者のようなこともやっているフィガロがバジリオの顔を見て声をあげる。
「この顔色は。麻疹のものだ」
「麻疹!?私が」
「そうです。ですからここは」
 バルトロを差し置いて必死に言う。
「お休みになられては」
「そうですわ、先生」
 ロジーナもフィガロに加わる。
「ここは是非」
「何が何だか」
「薬代ですっ」
 伯爵が化けている音楽教師は彼に財布を握らせた。
「ですからすぐに」
「そうですね」
 何か話に飲み込まれたバルトロも何となくそんな気になってバジリオに告げる。
「お休みになられた方が宜しいかと」
「この財布を持って」
「その通り」
 伯爵がその言葉にうん、うんと頷く。
「ささ、もう」
「よくわかりませんが皆さんが仰るのなら」
 財布はかなり重かった。それを手の中で感じて上機嫌の彼は皆の言葉を受け入れることにした。麻疹ではないつもりだが金を貰ったからそれで満足していたのだ。
「今日はこれで」
「ゆっくりとお休み下さい」
 フィガロはやけに恭しく彼に言う。
「ごゆっくり」
「今日はそのまま」
「お休みになられて」
 続いてロジーナと伯爵も。フィガロに合わせて。
「先生、気をつけられよ」
 バルトロは医者としての言葉だった。
「麻疹は命に関わりますからな」
「それは存じておりますが」
 そもそもバジリオは麻疹ではないので一連の言葉に懐疑的だった。
「まあ今日は英気を養ってきます」
「それもいいですな」
 フィガロはいい加減に返す。
「それではさようなら」
「はい、さようなら」
 バジリオは一礼して家を後にする。そうするとフィガロ達はようやく安堵の息を漏らした。まずはフィガロがバルトロに対して言うのだった。
「ではお髭を」
「うん、頼むよ」
 二人でまた部屋に入る。こうして伯爵とロジーナはまたしても二人になったのであった。
「どうなるかと思ったわ」
 ロジーナはほっと胸を撫で下ろして言う。
「いきなり来るんだから」
「こっちも参ったよ」
 伯爵も彼女と同じ表情でそう述べる。
「けれど。これで危機は去った」
「ええ」
 ロジーナは彼の言葉に頷く。
「それでいいものが手に入ったよ」
「いいものって?」
「これさ」
 先程フィガロにもらったバルコニーの鍵を見せる。
「鍵!?」
「そう、君の部屋のバルコニーのね」
 伯爵は満面に笑みを浮かべて言う。
「これで何時でも君に会える」
「じゃあもう」
「そうさ、僕達は勝利を収めるんだ」
「待ってるわ」
 ロジーナは熱いまなざしで恋人を見て言う。8
「何時でも」
「そうだね、もう何時でもいいんだ」
 伯爵も言う。
「勝負はついたんだから」
「あの、ちょっと」
 この時だった。いきなりバルトロが部屋から出て来たのだ。髭はまだ剃りかけだ。後ろからフィガロが慌てて追い掛けて来る。
「ちょっと待って下さいよ」
「我慢ができんのだ」
 バルトロは焦りきった顔で彼に言う。
「我慢できないってもうすぐですよ」
「もうすぐでもそれでもだ」
 その焦りがさらに強くなっていた。
「もれたらどうするのだ」
「けれどですね」
「とにかく今は我慢ができん」
 そう言って自分の部屋を出る。するとそこで伯爵とロジーナが甘い話をしていたのである。それでトイレに行きたいという気持ちは完全に消え去りかわりに怒りがこみあげる結果となったのであった。人の身体とは実に不思議にできているものである。
「今夜ね」
「そうさ、今夜さ」
 二人はバルトロに気付かず見詰め合い話をしていた。
「今夜行くから。いいね」
「ええ、待っているわ」
「今夜だと」
 バルトロはそこまで聞いて言うのだった。
「あっ」
「しまった」
「しまったではない。もう遅いぞ」
 慌てて自分の方を振り向いてきた二人に対して言う。
「何もかもな。さて、どう弁明するのかね?」
「弁明とは」
「何のことか」
「だから誤魔化しても無駄だと言っているのだ」
 怒りをさらに含ませた言葉であった。
「さあ、弁護士を呼ぼうかそれとも」
「待って下さいよ」
 後ろからフィガロがバルトロを抑えようとする。
「そんなに怒らないで」
「では一つだけ言おう」
 三人に対しての言葉だった。
「今すぐわしの目の前から消えろ。いいな」
「伯爵」
 フィガロはその言葉を聞いて伯爵に囁いた。
「今は」
「仕方がないか」
「はい。幾らでも挽回は利きますので」
「わかった。それじゃあ」
 二人は撤退しロジーナもすぐに部屋から消えた。バルトロも一旦家を出てバジリオを呼びに行く。暫く二人の女中が掃除をしていたがすぐにバルトロとバジリオが戻って来たのであった。
「もういいぞ」
「それじゃあ」
「これで」
 ベルタ達は引っ込む。そうしてバルトロはバジリオとテーブルに向かい合って座り何があったのかを事細かに説明するのであった。
「では知らないのか」
「全く何も」
 バルトロはバジリオに答える。
「今はじめて聞きました」
「ドン=アロンソ。では一体誰なのか」
「それは私が聞きたいです」
 バジリオは困惑した顔で言葉を返すのだった。
「全く以って」
「ううむ」
「それにですね」
 バジリオは言葉を続ける。
「私はそのドン=アロンソなる人物の素性を警戒しております」
「わしもだ」
 二人は深刻な顔で言葉を交える。
「誰なのか」
「あのリンドーロではないですか?いや」
 ここでバジリオの推理が動いた。眉を顰めさせたところから知恵が出て来た。
「彼こそ。伯爵なのかも」
「アルマヴィーヴァ伯爵か」
「そうです。そうであれば大変なことです」
「そうだな」
 そう話している外で雨音が聞こえてきた。それもかなりの音である。
「雨ですな」
「そうだ。急がなくては」
 バルトロは焦った顔で述べる。
「今のうちに公証人を呼んで」
「ロジーナさんと結婚されるのですか?」
「そうだ。駄目か?」
「それは難しいかと」
 バジリオは外の方に顔を向けて答える。
「この雨ですから。嵐ではないですか」
「しかしだ」
「それにですね」
 バジリオは言葉を続ける。
「公証人さんは今日は駄目ですよ」
「どうしてだ?」
「フィガロさんのところに御用があるんですよ」
 バジリオはそう述べる。
「フィガロの!?」
「何でもフィガロさんの姪御さんが結婚されるそうで」
「馬鹿な、そんなことは有り得ない」
 バルトロはそれをすぐに否定した。
「あいつに姪はいないぞ」
「何とっ」
 バジリオはそれを聞いて口を大きくさせてしまった。その細長い顔がそれによりさらに細長く見える。まるで茄子のようになってしまっている。
「初耳ですぞ、それは」
「いや、まさか」
 ここでバルトロの推理も働いた。珍しいことに。
「その姪というのはまさか」
「ロジーナさん」
 二人はすぐに気付いた。気付いて愕然となる。
「大変ですよ、それ」
「そう思うな、早いうちに手を打たないと」
 彼等は言い合う。
「これはいかん、先生」
「はい」
 バジリオはバルトロの言葉を受け取る。
「すぐに行ってくれ、いいか」
「わかりました」
 力強く頷いた。
「それではすぐにでも」
「わしもわしで手を打とう」
「何か切り札があるのですな?」
「うむ、この手の中にある」
 不敵ににやりと笑って答える。
「任せておいてくれ。では先生は」
「わかりました。外に出ますので」
「雨の中済まないな」
「報酬は弾んで下さい」
 バジリオはにこりと笑ってそう返した。
「嵐の分は」
「わかった。いつもの倍だ」
「有り難うございます」
 そんな話をしてすぐに立ち去る。バルトロは一人になるとすぐに部屋の鐘を鳴らした。そうしてロジーナを呼ぶのだった。
「ロジーナ、来なさい」
「はい」
 ロジーナはすぐに降りてきた。バルトロは立ち上がって彼女に顔を向ける。その顔は異様なまでににこにこ、いやにやにやしたものであった。
「御前に渡したいものがあるのだ」
「何でしょうか」
「うむ、これだ」
 ここで先程あの怪しげな音楽教師から貰った手紙をロジーナに手渡す。ロジーナはその手紙を見て怪訝な顔になった。バルトロはその顔を見ながら言葉を続ける。
「その手紙はな」
「ええ」
 先程受け取ったそれはロジーナがリンドーロに渡したものである。それをどうしてバルトロが持っているのかが大きな謎であった。彼女にとって。
「あの音楽教師と床屋は食わせ物だ」
「またどうしてですの?」
「その手紙でわからないか。あの二人は御前を裏切ったのだよ」
「そうだ。だからこそそれがわしの手に渡り御前の手に渡る」
 そう語る。そうしてさらに言葉を続ける。
「全てはな。あの二人は御前を騙していた」
「私を!?」
「この手紙をアルマヴィーヴァ伯爵に渡すつもりだったのだ。それをわしが取り上げたのだよ。他ならぬ御前の為にね」
 これは嘘だったがロジーナにはそれはわからない。彼にとって都合のいいことに。
「嘘っ、そんな」
「わしは嘘は言わない。医者だぞ」
 この言葉は嘘である。
「わかるな。御前は伯爵に売られるところだった」
「あの二人・・・・・・」
 ロジーナはその言葉を信じて怒りに震える。
「許さない、こうなったら」
「どうするつもりなのだね?」
「復讐です」
 一言であった。
「それ以外にありません」
「そうか。では協力しよう」
「いえ」
 だがその申し出は断るロジーナであった。
「私一人で。何しろ今夜ここに来ますので」
「むむっ、そこまで計画していたのか」
 その用意周到さにバルトロも閉口する。
「ますますもって許せん」
「しかしそれは全て逆手に取られる宿命」
 怒りに震える声で言い切る。
「この私によって。ですから」
「では任せてよいな」
「是非共」
 やはりきっぱりとして言い切る。
「ここは私により」
 そう言い残し自分の部屋に戻る。バルトロは自分のすることがなくなってどうにもこうにも手持ちぶたさになったがとりあえず上手くいきそうだとわかり安心して部屋に戻ったのであった。
 その夜。伯爵とフィガロは嵐の中を進むのだった。二人の外套は完全に濡れそぼっている。もうそれだけで大変だがそれでも進む。フィガロの手にはランタンがある。
「もうすぐだね」
「ええ、そうですね」
 フィガロは自分の後ろにいる伯爵にそう言葉を返す。
「いよいよですよ」
「もうすぐあの人に」
 そう思うだけで心が昂ぶる。
「さあもうすぐだ」
「ほら、着きました」
 ロジーナの家のバルコニーのすぐ下に来た。
「ここですよ。では」
「灯りが頼りにならないのが残念だね」
「仕方ないですよ、雨ですから」
 そう言葉を返す。話をしながらフィガロはバルコニーにロープをかけてそのまま上にあがる。そうして伯爵も上がり二人はバルコニーのところにまで来たのであった。
「けれどまあ。ロジーナさんは御存知ですし」
「そうだな。それじゃあ」
「ほら、御覧下さい」
 バルコニーが開いた。ロジーナが姿を現わす。
「ロジーナさんが」
「おお、ロジーナ」
「帰って」
 ロジーナは怒った声でそう言うのだった。
「不埒な人よ、もう二度と」
「不埒!?私がかい」
 伯爵は話がわからず目を丸くさせる。
「それはまたどうして」
「誤魔化すというの?」
 さらに言葉の怒気を強くさせてきた。
「そうやって私を騙すのね、この悪党」
「これは一体どうしたことなんだ?」
「さて」
 フィガロにもわからない。伯爵の言葉に首を横に振る。
「何が何なのか」
「貴方は私の恋人を装ってアルマヴィーヴァ伯爵に私を売るつもりなのですね」
「アルマヴィーヴァ伯爵に!?私が!?」
「話は聞きました。もう騙されません」
「馬鹿な、そんなことは有り得ない」
 伯爵は今のロジーナの言葉に笑って返した。
「それだけはね」
「まだ白を切るのね」
「いや、切る必要もないことだね」
 伯爵はそれも否定する。
「全く以って」
「何故そう言えるのかしら」
「何故なら私がそうだからだよ」
 伯爵は笑って答える。
「えっ!?」
「だから私がそうなんだよ」
 伯爵はまた答えた。
「私がアルマヴィーヴァ伯なんだ。今まで隠していたけれど」
「嘘、それじゃあ」
「はい、そういうことです」
 フィガロもにこりと笑って伯爵の横からロジーナに言う。
「伯爵様は御身分を隠してロジーナ様のところに参ったのですよ」
「それじゃあ結局は私の」
「誤解はこれで解けたね」
 伯爵は笑顔でロジーナに告げる。
「リンドーロは私で」
「アルマヴィーヴァ伯爵は貴方で」
「全ては誤解でしかなかったんだ」
 二人は笑顔で言い合う。
「さて、それじゃあ」
「ええ」
 二人は話を続ける。
「この幸福を二人で噛み締めて」
「そうして永遠に」
「さて、これでよしだね」
 フィガロは笑顔で言い合う二人を見て自分も笑う。にこやかな笑みであった。
「おいらのキューピットもいつもの冴えがあるっと」
「それでロジーナよ」
「ええ」
 二人はフィガロさえ目に入らず話を続ける。恍惚とした中で。
「これからは貴女をこう呼びたい」
「何て?」
「妻と」
 ストレートなプロポーズだった。
「貴女のことを妻と。それでいいかい?」
「ええいいわ」
 ロジーナもその言葉をこの上ない晴れやかな笑顔で受け止めた。
「是非共」
「それじゃあ御二人共」
 フィガロは恍惚となっている二人にまた声をかけた。
「決まりですね。楽しみは後で永遠にできますから」
「そうね」
「それじゃあ」
 二人は彼の言葉に頷く。そうしてバルコニーから出ようとするが嵐がとてつもない勢いになっていてとてもではないが出て行けない。ここは様子を見ることにした。
「困ったな」
「ええ」
 ロジーナは伯爵の言葉に頷く。流石に何時までもロジーナの部屋にいるわけにはいかない。
 その時だった。下からバルトロとバジリオの話し声が聞こえてきた。彼等の声を聞いて伯爵達はいよいよ切羽詰った顔になった。
「これは大変だ」
「どうしようかしら」
「いや、お待ち下さい」
 だがここでフィガロが言うのだった。
「待つって何が?」
「若しおじ様達がこの部屋に来たら」
「どうももう一人いるようですね」
 フィガロの耳はいい。彼等の話し声を聞き逃さなかったのだ。
「もう一人」
「それは一体」
「公証人です」
 フィガロは言う。
「結婚の」
「じゃあ大変じゃないか」
「そうよ。このままだと私は」
「ですから」
 フィガロはすました顔で二人に述べた。
「私の知っている公証人でございます」
「というと」
「まさか」
「ええ、そのまさかですよ」
 すました顔のまま述べる。
「私達ので。というわけでここは堂々としていればいいのです」
「堂々と」
「左様。では降りましょうか」
 二人はフィガロに言われてロジーナの部屋を後にする。そうして下にいるバルトロ達と会うのだった。見ればやはりバルトロとバジリオの他に公証人もいた。役人のような格好をして何やら二人と話をしていた。バルトロは伯爵とフィガロがいるのを見て血相を変えた。
「何故ここにっ」
「まあまあ」
「まあまあではないっ」
 そうフィガロに言い返す。
「君達、いい加減にしないと本当に警察を」
「公証人さん」
 フィガロは怒り狂う彼をよそに公証人に声をかける。
「私の頼んでいたお話の用意は出来ていますね」
「ええ、既に」
「お話?」
 バジリオは公証人がフィガロに応えたのを見て目をしばたかせる。
「一体何の話しなんだ?」
「では宜しく御願いしますね」
「はい、アルマヴィーヴァ伯爵とロジーナさんの婚姻を」
「ちょっと待て」
 バルトロは今の言葉に血相をさらに違う色に変えた。さながらカメレオンの肌の色をそのまま顔の色にしたようにめまぐるしく変わる。
「何時の間にそんな話が」
「既に進めていました」
「そんな話は聞いていないぞ」
 バルトロは唖然とした顔で言う。
「何時の間にそんな話が」
「水面下で」
「ということはわしは一敗地にまみれたのか」
「わしも」
「いや、中々苦労しました」
 フィガロは笑って二人にまた言った。
「ここまでこじつけるのは。本当にね」
「しかしだ。伯爵は何処だ?」
「そもそもここにいるのか」
「目の前にいるよ」
 その伯爵が今名乗り出た。
「リンドーロでもあり兵士でもあり音楽教師でもありその実態は」
「伯爵というわけかっ」
「まさかと思ったが」
「けれど。これで全ては明らかになった」
「ええ、愛もまた」
 ロジーナはにこりと笑って伯爵に言うのだった。
「ここに実ったわ」
「さあ御二人さん」
 フィガロはにこやかに笑ってバルトロとバジリオに声をかけた。
「ここは観念して」
「致し方あるまい」
「こうなっては」 
 二人は憮然としてフィガロの言葉に頷いた。頷くしかなかった。
「祝いましょう」
「二人の幸せをだな」
「そしてこれからの貴方達の幸せも」
「ふん、では今度は子供でも捜すわ」
「子供を?」
 フィガロはバルトロのその言葉に目をしばたかせる。
「それはどなたでしょうか」
「以前内縁の妻との間にできた子だ。それでも探そう」
「宜しければ協力させて頂きますが」
「君の力だけはいらぬわ。自分でやる」
「全く。今度はこうはいかないぞ」
「さてさて。では伯爵、ロジーナさん」
 フィガロはバルトロとバジリオの言葉を巧みに受け流し伯爵とロジーナに顔を向けた。二人はまたしても恍惚として顔を見詰め合っていた。
「これからは永遠に」
「うん、永遠に」
「愛と誠を」
 二人はそれぞれ言う。この時はそれを信じていた。
「誠実でひたむきな愛こそが実るのです。この世で最も強いのは」
「愛と」
「誠ね」
「そうです。それでは皆さんその二つに対して」
 フィガロはにこやかに述べる。
「祝福を」
「今ここに」
 女中達も公証人もバルトロもバジリオもそれぞれの顔と声でその二つを祝う。何はともあれここではその二つが見事に実り勝利を収めたのであった。


セビーリアの理髪師   完



                          2007・9・16



いや、一時はバルトロがやり返すかと思ったけれど。
美姫 「運はロジーナたちに味方したって所かしら」
今回はドタバタした感じを受けたけれど、楽しいお話でした。
美姫 「本当ね。面白かったです」
投稿ありがとうございました。
美姫 「それでは」



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