『セビーリアの理髪師』




                          第一幕  騒動のはじまり

 十八世紀終わり頃のスペインの港町セビーリア。スペインの乾いた街並に立ち並ぶ白い家達。道の広さも長さもまちまちで家々はその道を囲むようにして建っている。その家々の間に僅かな広場がある。その広場において一人の着飾った若者がいた。
「ここでいいのだな?」
「はい」
 黒い豪奢な絹の服に白いズボンと編み上げ靴を身に着けている。黒い上着には銀で様々な刺繍が施されていてそれがみらびやかに見せている。黒い髪を奇麗にまとめて髭も剃ったその顔は黒くはっきりした彫のある目もあり実に若々しい端整なものであった。
「こちらでございます、アルマヴィーヴァ伯」
「名前は呼ばないでくれ」
 伯爵と呼ばれた彼は咎める目で青と赤の派手な服の従者に言った。
「今はな」
「失礼、それでは」
「わかってくれたらそれでいい」
 彼が謝ったのを見てそこまでで許した。穏やかでかなり高い声である。
「それでだ。用意はできているのか?」
「今できました」
 彼はそう伯爵に言う。
「もう何時でも」
「有り難うフィオレルロ」
 彼の名を呼んで礼を述べる。
「それではこれを」
「はい」
 チップを出し手渡す。フィオレルロも笑顔でそれを受け取る。
「まずはこれだ」
「後でも貰えるのですか?」
「それはこれからの働き次第」
 伯爵はくすりと笑って述べる。若々しい晴れやかな笑顔である。
「わかったな。では働いてくれよ」
「わかりました。それでは」
 彼は後ろに立つ楽師達に顔を向けて言う。
「いいですか皆さん」
「はい」
「何時でも」
 既に楽器や合唱の用意を済ませていた楽師達は彼に答える。
「演奏できます」
「さあ、今こそ」
「わかりました。では伯爵」
 フィオレルロは彼等の言葉を聞いてから伯爵に顔を戻した。
「いけます。さあ」
「わかった。それでは」
 伯爵もそれを受けて唄いはじめる。それはカヴァティーナであtった。
「東の空が微笑み美しい曙の光が差し込む。それなのに貴女はまだ目覚められないのですか?」
「貴女はまだ目覚められないのですか?」
 演奏も行われる。合唱も行われる。
「さあ愛しい人よ目を覚まして。そうして私をお救い下さい」
「私をお救い下さい」
「愛しい人よ」
「ああ、愛しい人よ」
 伯爵は合唱団と声を合わせる。そうして歌を続ける。
「悩みを和らげ苦しみから解放して下さい。貴女の笑顔で」
 見ればある白い家の二階の窓に向けて唄っている。そこに誰かがいるかのように。
「むっ」
 ここで彼は何かを見た。
「見えた」
「誰がですか?」
「彼女が」
 そうフィオレルロに述べる。
「彼女があの窓にいた。見えなかったか?」
「そうでしょうか」
 だがフィオレルロは首を傾げてそう答えるのであった。
「私には見えませんでしたが」
「そうか。ではいないのか」
 彼の言葉にいささか気落ちする。だが歌は続けた。
「しかし。それならば余計に」
「その意気です」
 フィオレルロは横から彼を応援する。主を。
「さあまた」
「うん。私が欲しいのは愛の一時」
「私が欲しいのは愛の一時」
 また合唱団と一緒に唄う。
「その甘い嬉しさに比べられるものはない」
「その甘い嬉しさに比べられるものはない」
 甘いカヴァティーナが終わった。伯爵はフィオレルロと楽師達を回りに集めた。
「今日も御苦労」
「いえいえ」
「今日も出られませんでしたね」
「時間が悪かったか?」
 伯爵はその窓を見ながら言う。じっと見据えている。
「明け方というのは」
「そうは思いませんけれどね」
 それにフィオレルロが答える。
「そろそろ起きられる時間ですし」
「そうだよな」
「なあ」
 楽師達も彼のその言葉に頷く。
「まあこんな日もあります」
「また明日ですよ」
「そうか、明日もあるか」
 伯爵は彼等の言葉を聞いてまずは気を取り直した。
「ではまた明日な。それでは今日の謝礼だ」
 財布を一つ丸ごと渡す。フィオレルロと楽師達に。
「これで美味い酒と料理でも楽しんでくれ」
「どうも」
「それでは」
 彼等は上機嫌で去って行く。これまで以上に騒がしくなっているのは機嫌をよくしたからであろうか。伯爵はそんな彼等を見送ってから一人去ろうとする。その時だった。
「ラララレーーーラ、ララララ」
「むっ!?」
 突然何処からか明るい歌声がした。ギターの音も聞こえる。
「ラララレーーーラ、ララララ」
「あの歌声は」
 伯爵は今の歌声に聞き覚えがあった。それでそちらに耳を澄ます。
「さあ街の何でも屋に道を開けてくれよ」
「あれはフィガロか」
 出て来たのは白い上着にダークブラウンの洒落たチョッキにズボンを身に着けた小粋な男であった。人懐っこい四角い顔をしており眉が細い目は穏やかで細い。黒い髪は丁寧に後ろ気味に撫でつけられている。背は高くそれも彼をかなり目立たせていた。
「そういえば理髪師になったと聞いているな」
 実は伯爵は彼を知っている。以前何年かの契約で雇っていたのだ。契約が切れた時にまた雇おうと思ったが先に理髪師に引き抜かれたのだ。頭の回転が早く器用でかなり使える男だ。
「歌の邪魔だな」
 ここで伯爵は彼に気を使った。
「暫くは」
 彼が自分を見つけて気を使って歌を止めないように物陰に隠れた。フィガロはなおも歌い続ける。
「夜が明けた店に急げ。そうして今日も楽しい人生を過ごそう」
 そう陽気に歌う。ギターを奏でながら。
「腕のいい床屋にとっては最高の人生さ。剃刀も鋏もメスも全部持っている」
 この時代理髪師は外科医や骨接ぎのようなこともしていた。あの赤青白の理髪師の看板は静脈と動脈、そして肌を表わしているという。カストラートの去勢の手術もしていたのだ。
「それで品のいい素晴らしい仕事ができる。上流階級の方々とも知り合いになれるし街の皆がおいらを慕う」
「相変わらずだな」
 伯爵はそんなフィガロの歌を聞いて呟く。
「できるようだな」
「御婦人も子供も御年寄りも娘さんも鬘に髭に」
 ここで演技をはじめる。
「フィガロ!」
「ここにおります」
 フィガロが呼んでフィガロが答える。
「鬘を」
「髭を」
「蛭を」
「はい」
「どうぞ」
「こちらです」
 一人芝居を続けながら唄う。上機嫌で。
「忙しい忙しい。けれどまた」
 また自分の名を呼んで答える。
「フィガロ!」
「こちらに」
「フィガロ!」
「こちらに。ああ、本当に何て忙しいんだ!」
 また上機嫌で叫ぶ。これも芝居だ。
「おいらは稲妻みたいに動く町の何でも屋。全く素晴らしい幸福者だよ。おいらがいなければセビーリアの娘さんは誰だって嫁にはいけないし後家さんは再婚できないしね」
「そうなのか」
 歌が終わったと見た伯爵がさっと彼の前に出て来た。
「おや、これは伯爵様」
「フィガロ、久し振りだね」
 まずはにこやかに挨拶をする。
「元気そうで何よりだ」
「いや、伯爵様も」
 フィガロはにこやかに笑って伯爵に洒落たお辞儀をする。伯爵も優雅な動作でそれに返す。
「お元気そうで何よりです」
「相変わらず何でもできるみたいだな」
「ええ、まあ私のできる限りは」
 笑って謙遜してそう述べる。
「幸せに生きておりますよ」
「ふむ。そうか」
「それでどうしてこちらに?」
 フィガロは伯爵に問い返した。
「朝早くから。まさか朝帰りとか」
「馬鹿を言え」
 フィガロの小粋なジョークに苦笑いを浮かべながら応えて言う。
「それはないさ。むしろそうなればどれだけ有り難いか」
「ではそうなることをお望みですね」
「その通りだ」
 伯爵も警戒に彼に言葉を返す。
「実はこの前とても美しい娘さんを見掛けたのだ」
「ほう」
 伯爵の言葉を聞いて楽しそうに声をあげる。わざとギターを鳴らして囃し立てにする。
「それはよいことで」
「少し前このセビーリアに引っ越してきた頑固者の医者の養女らしいんだ」
「頑固者の医者といいますと」
 それを聞いてフィガロの顔が微妙に動いた。伯爵もそれを見て彼がその頑固者の医者について知っていることを見抜いた。
「知っているのか」
「知っているも何もあれでしょ?」
 また伯爵に尋ねてきた。
「この家の」
「そう、この家だ」
 今さっき伯爵が窓に向かって歌を唄ったその家である。
「この家の娘さんだ。どうにかして一緒になりたいのだが」
「ううむ、それは運がいい」
「運がいい?私がか」
「そうです。まさにマカロニの上にチーズが落ちてきたとはこのことです」
 日本では棚から牡丹餅という意味になる。思わぬ幸福というものは何時でも何処でもあるということなのである。
「実は私はこの家の理髪師なんです」
「えっ、そうだったのか」
「しかも鬘屋であり」
 鬘に関することも理髪師の仕事だったのだ。他には。
「外科医であり植木屋であり薬剤師であり獣医でもあります」
「本当に何でも屋なんだな」
「そういうことです。つまりこの家に関しては何でも知っているんです」
「何と運がいい話だ」
 伯爵は自分で自分の幸運に感謝して言葉を漏らした。
「しかもあの娘ですよね」
「そう、あの人だ」
 伯爵は顔を前に出させて応える。
「あの人についても知っているんだね、やっぱり」
「勿論です。それではですね」
「うん」
「まずはここは」
「どうするんだい?」
「お任せ下さい。伯爵様の為なら」
 自分から協力を申し出てきた。
「一肌も二肌も脱ぎますから」
「全く運がいいことだ」
 伯爵はまた自分の幸運に感謝した。
「フィガロに会えたおかげで。上手くいきそうだ」
「しっ」
 だがここでそのフィガロに静かにするように言われた。
「お静かに」
「どうしたんだい?」
「上の窓が開きます」
 窓の上を指差して言う。その窓が。
「ここは隠れましょう」
「そうだな。それじゃあ」
「ええ」
 伯爵はフィガロの言葉に従い建物の中に隠れる。するとそれと入れ替わりに窓から一人のうら若き美女が姿を現わした。
 縮れた黒い髪を上でまとめた黒い瞳の女だった。小柄で浅黒い肌が如何にもスペインの女である。いささかふっくらとした顔は優しげでありそれでいて知的なものさえ漂っている。はっきりとした大きな目が印象的である。白い服が実によく似合っている。
「声が?」
「彼女だ」
 伯爵はその女を見上げて言った。
「彼女こそ私の女神、そして宝なんだ」
「そうだったのですか、やはり」
「うん。だが」
 ここでフィガロに言う。
「あの頑固者の医者もいるんだろうな、やっぱり」
「その頑固者の医者が出て来ましたよ」
 フィガロは上を見上げて伯爵に述べた。
「ほら」
「むっ」
 見れば白い鬘を被った恰幅のいい男がバルコニーに現われた。白い髭を丁寧にワックスで固めやたらとキザでみらびやかな服とズボンである。貴族そのものといった感じの服装と容姿であった。品も知性も確かにあるがそれ以上にユーモラスが漂う男であった。
「彼ですよね」
「そう、彼だ」
 伯爵は忌々しげにその男を見上げて答えた。
「ドン=バルトロだったな」
「そう、ドン=バルトロです」
 フィガロはまた答える。
「御用心を」
「そうだな。いや」
 伯爵は女とバルトロの動きを見ていた。バルトロは何か大袈裟な仕草で彼女に声をかける。勿体ぶっているがそれもやはりユーモラスである。
「ロジーナ」
「はい」
 彼女はバルトロに名を呼ばれて応える。少し低めだが澄んだ奇麗な声である。
「何か手に紙を持っているが。それは何かな」
「アリアです」
 ロジーナは答える。一人で唄う歌だというのだ。これをアリアと呼ぶ。
「アリアか」
「はい。無駄な用心という」
「無駄な用心」
 バルトロはそのタイトルを聞いて首を傾げさせる。傾げさせながら記憶を辿るのだった。
「どのオペラのだったかな」
「御存知ありませんか?」
「最近のものはな」
 バルトロはここでいささか機嫌の悪そうな顔を見せてきた。
「あまり知らないのだ。堕落したからな」
「そうでしょうか」
「そうだ」
 機嫌をさらに悪くした顔になって答える。
「カストラートも少ないしな。どういうわけか」
「それがいいのではないでしょうか」
「よくはない。やはりカストラートこそが」
 カストラートにやけにこだわる。この時代はまだカストラートが存在していて人気だったのだ。廃れるのはフランス革命以降である。
「ないとはな。全く啓蒙主義よ」
「あらっ」
 ここでロジーナはふと声を出した。それはバルトロにも聞こえる。
「大きな声を出すとははしたない」
「アリアを書いた紙を落としてしまったの」
 実はわざとである。彼女はもう伯爵達がいる場所を知っている。それでわざと落としたのである。これは彼女の思惑があってのことである。
「どうしましょう」
「わしが拾って来よう」
 バルトロは名乗り出てきた。
「それでいいな」
「御願いできますか?」
「無論だ」
 ここではジェントルマンになって答える。
「それではな」
「有り難うございます」
 礼を述べたが心の中では舌を出している。そうして下にいる伯爵に顔を向けた。すると目と目が合った。偶然ではなかった。
「彼女が僕を見ているな」
「間違いありませんね」
 フィガロは伯爵にそう答える。
「それでは。宜しいですね」
「ああ、迷うことはない」
 そうフィガロに答える。
「では。行くか」
「はい。それでは御供します」
 二人はロジーナの目で考えを読んですっと前に出た。そうしてバルトロがあれこれ紙を探している後ろを通って家の中に入ったのであった。
 すぐに階段を昇りバルコニーのある白い部屋に入る。女性らしい装飾が所々にある。その部屋のバルコニーの入り口に彼女はいた。
「ようこそ」
 笑顔で二人を出迎える。
「お待ちしていましたわ」
「御会いしたかったです」
 伯爵はフィガロを連れて恭しく挨拶をする。
「貴女に」
「私もです」
 ロジーナはにこやかに笑って伯爵に応えた。
「ずっと気付いていました」
「ずっとですか」
「はい。ですか機会がなくて」
 ここで悲しい顔を作って伯爵に見せてきた。
「ですが。今は」
「はい、こうして御会いできました」
 顔をあげ述べる。朗らかな顔で。
「これは神の御導きでしょう」
「そう。だからこそこの機会を上手く使いたいのです」
 ロジーナは伯爵の顔をじっと見て言うのだった。
「貴方のことを。知りたいのです」
「私のことをですか」
「そうです」
 ロジーナはまた伯爵に答える。
「宜しいですか?貴方のことを」
「どうする?」
 伯爵はロジーナの言葉を受けてフィガロに小声で囁いた。
「ここは正直に」
「いえ、ここは様子を見ましょう」
 フィガロはそう伯爵にアドバイスをした。
「様子を見るのか」
「そうです、今のところは。御身分も隠して」
「わかった」
 フィガロの言葉を受け入れて頷いた。
「ではここはそうしよう」
「はい。むっ」
 フィガロは誰かの気配を感じた。
「戻って来た!?」
「そうみたいですね」
 ロジーナも鋭い顔になって彼等に応える。
「バルトロがか」
「はい。ここは隠れましょう」
 フィガロは今度はそう助言する。
「カーテンの奥にでも。それでは」
「うん」
 二人はすぐにカーテンの中に隠れた。するとバルトロがすぐに中に入って来た。
「ロジーナ」
「見つかりましたか?」
「それはすぐにな」
 何か引っ掛かる物言いであった。ロジーナもそれに気付く。
「何かありましたか?」
「人の気配がする」
 部屋の中を見回しながら述べた。
「おかしいな。気のせいか」
「気のせいですよ」
 ロジーナは笑って彼に答える。
「どうしてこの部屋に他人が来るのか」
「それもそうか。他に来るのはバジリオ位だ」
「はい」
「今日来るしな。それに」
 部屋を去りながら呟く。丁度二人が隠れているカーテンの側を通る。
「彼女との結婚は今日中に決めてしまおう」
(何!?)
 伯爵は今の言葉にすぐに反応した。だが声には出さずバルトロが出た後でカーテンの中でフィガロに対して言うのだった。
「今日中だと。ふざけるな」
「まあ落ち着かれて」
 フィガロはまずはそんな彼を宥める。
「興奮されると周りが見えなくなりますから」
「わかっている。だがバジリオというのは誰だ?」
「ロジーナさんの音楽教師です」
 フィガロはまずはこう説明した。
「音楽教師なのか」
「かなり変てこな。口が滑って生真面目で高尚ぶっていてそれで抜けていて」
「それはまたかなり変わっているな」
「はい。それでは次に本題に戻りますが」
「それだ」
 伯爵は冷静な顔に戻って言うのだった。
「僕はやはり彼女に身分や名前を話したくはない」
「それはまたどうして」
「純粋な愛を確かめたい。身分や名前に捉われずにだ」
 真顔で言う。純粋な顔をしていた。
「駄目か?それは」
「いえ、そうでなくてはなりません」
 フィガロもまた真顔で彼に答える。
「またそうでなくては私もお助けしがいがありませんよ」
「済まないな、本当に」
 微笑んで彼に礼を述べる。
「そう言ってもらえると何よりだ」
「はい。それではですね」
 すっと今まで手に持っていたギターを出す。それと共にカーテンをめくって再び姿を現わす。
「はじめますか」
「何をだい?」
「名乗りの歌です」
 上機嫌にそう説明する。目の前には当のロジーナがいる。
「宜しいですか、御準備は」
「ああ、何時でもいい」
 伯爵はそうフィガロに答える。
「だから。さあ」
「はい。それでは」
 フィガロは伯爵の言葉を受けてギターを弾きはじめる。伯爵はイタリア風のカンツォーネを優雅に唄いはじめたのであった。
「若し貴女が私の名前を御知りになりたいのであれば」
「知りたいのであれば」
 ロジーナはその曲をじっと聴いていた。目が潤んできていた。
「是非私の唇からお聞き取り下さい。私の名はリンドーロ」
「リンドーロ様ですか」
「そう、それが私の名です」
 唄いながら答える。
「貴女を心からお慕いしていまして生涯共にいたいと思っています」
「生涯ですか」
「そうです」
 このうえない愛の告白だった。
「ですからこうしていつも朝から夜まで貴女の名を呼び続けているのです」
「そうだったのですか」
「私には何もありません」
 これは嘘だった。あえて隠しているのだ。
「ですが貴女に心を贈りましょう」
「心を」
「誠実な変わることなき愛に燃える魂はこうして朝から晩まで貴女をお慕いしているのです。その私の心を貴女に」
「私が受け取っていいのですね」
「そうです」
 彼はまた告げる。歌ではなく言葉で。歌はもう終わっていた。
「宜しいでしょうか」
「はい」
 ロジーナは天にも昇らんばかりの晴れやかな顔で彼に答えた。
「是非。お願いします」
「それでは」
 伯爵はロジーナの愛を確かめた。それで前に出ようとするがここでフィガロに呼び止められてしまった。すぐに彼に顔を向ける。
「どうしたんんだい?」
「一旦退きましょう」
 こう言うのだった。
「またそれはどうして」
「今バルトロ先生はドン=バジリオを呼びに行っています」
「それは知っているが」
「そこに私達がいればことです。下手をすれば警察沙汰です」
「警察!?警察なら」
「伯爵」
 警察なら言うことを聞くと言おうとしたところでそれをフィガロに止められた。
「それ以上は」
「おっと、そうだったね」
 言われてそれに気付く。
「それじゃあ」
「一旦戻って変装しましょう」
「変装をかい」
「そうです。あの二人を油断させるような」
 フィガロはそう提案するのだった。
「それでどうでしょうか」
「そうだな」
 伯爵は顎に手を当てて考える。それから答えるのだった。
「今ここにいるよりはいいな。じゃあそうしよう」
「はい。では一旦ここを出ましょう」
「わかった。ではセニョリータ」
 ロジーナに顔を向けて言う。
「一時お別れです。それでは」
「すぐに戻って来て下さいますので」
「当然です」
 この問いに対する答えはもう決まっていた。それで彼は答えた。
「それではほんの一時のお別れを」
「はい」
「ではこれで。ところでだ」
 伯爵はロジーナに挨拶をした後でフィガロに顔を向けて問うた。
「何に変装するんだい・それが問題だが」
「兵隊です」
 フィガロはそう答えた。
「今日連隊がこの街に着きましたね。ですから兵士に化けましょう」
「ああ、それはいいね」
 伯爵はフィガロの提案に納得したように頷いた。
「それなら怪しまれないし。それに」
「それに?」
「あそこの連隊長は僕の友人なんだ」
「それは余計にいい」
 フィガロは伯爵と連隊長の関係を聞いて笑顔を見せてきた。
「軍服が簡単に手に入りますね。それだと」
「そうだろう?じゃあ早速行くか」
「そうしてお金を忘れずに」
「うん」
 これは絶対であった。やはり金なくしては何にもできはしないからだ。こうしたところに抜け目がないのがやはりフィガロであった。
「宜しいですね」
「わかった。では金貨をどっさりとな」
「私にも幾らか」
「わかってるさ」
 人懐っこい顔を見せるフィガロに心得た笑顔で応える。
「それじゃあまずはこれで。しかし」
 部屋を出ながらちらりとロジーナを見る。まだ彼を熱い眼差しで見ている。
「何という素晴らしい恋の炎。私を焦がして私以上のものにしてみせる」
「金貨のじゃれつく音がもう聞こえる」
 フィガロもフィガロで言う。こちらはお金だった。
「何といういい音だ。それが目の前に」
「私の心に染み透る神の恵み。これこそが私を燃やし尽くして私以上のものにする」
「ポケットに落ちるその金貨。それがおいらをおいら以上のものにしてしまう」
 そんなことを呟きながら二人は消えた。そうして部屋にはロジーナ一人になったのであった。
「この心の中に一つの声が響き渡って私を傷つけた」
 一人になった彼女はうっとりとした顔で呟く。
「傷つけたのはリンドーロ。それを許す方法はただ一つ、リンドーロを私のものに」
 彼女も彼女でそれを願うのだった。心から。
「それをきっと果たすわ。バルトロおじ様は反対しても何があろうとも」
 言いながら手鏡を出す。そうしてまた言うのだった。
「私は気立てもいいし行儀もよく素直で優しくて可愛らしい。きっと望むものは手に入るわ」
 若い娘らしく朗らかな言葉であった。
「そんな私の弱みに付け込むなた蛇になってやり返すから。そうして幾らでも計略を巡らせてあの方を手に入れてみせる。そう、どんな計略でも」
 不敵な笑みだった。それは今までの朗らかな笑みとはまた違ったものだった。
「手紙を書いてそれをあの方に渡して。気持ちはお互いわかったけれど手紙も」
 この時代手紙は絶対的なものだったのだ。ラブレターの威力は絶大なものだった。
「フィガロさんにお渡しして。本当にあの方がいてよかったわ」
「ロジーナさん」
 そんなことを言っているところだった。バルコニーの下からフィガロの声がした。
「あら、もう戻って来たの」
 ロジーナは朗らかな笑顔に戻って声の方に顔を向けた。
「随分早いわね」
「おられますか?」
「はい、ここに」
 バルコニーから顔を出して応える。
「早いのね、随分」
「足を飛ばしてきました」
 フィガロは笑顔でロジーナを見上げて言った。
「おかげでへとへとですよ」
「あら。じゃあチップを弾まないといけないわね」
「その通りで」
 今度はおどけて言葉を返す。
「ではこれからは」
「もう墓場から出てもいい頃よね」
 ロジーナはふと笑ってこう言うのだった。
「そうは思わないかしら」
「それは何によってですか?」
「顔と頭で」
 くすりと笑って述べる。
「できたらいいかしら」
「では私はこれまで以上に協力させて頂きましょう」
「御願いするわ。おや」
 だがここで玄関の方を見て声をあげた。
「そうして欲しいけれど今は待って」
「どう為されました?」
「おじ様よ」
「バルトロ先生が」
 フィガロはおじ様と聞いて顔を顰めさせた。
「もう戻って来たのですか」
「隠れて」
 そうフィガロに告げる。
「また後でね」
「わかりました。それじゃあ」
「あの方も来られるのよね」
 最後に伯爵について尋ねる。
「ここにまた」
「当然です」
 フィガロは穏やかな笑顔になってロジーナに答える。
「今着替えを終えられてこちらに向かわれています」
「そう。だったらいいわ」
 ロジーナはそれを聞いてまた笑顔になった。
「じゃあまたね」
「はい」
 二人は別れる。そうしてロジーナは家の一階に向かう。そこは大広間があり大きなスペイン調の家具が置かれている。カーテンや装飾は華美でフランスっぽさが漂っている。これはこの時のスペイン王家がブルボン家だったせいであろうか。僅かに置物等にオーストリアの空気が残っているのが目に入る。
 バルトロはその大広間の中の椅子に座っていた。そうして不機嫌な顔をしていたのだった。
「全く以ってけしからん」
「おじ様、どうしたの?」
「何でもない」
 ロジーナに顔を向けて言う。
「何でもないしかしな」
「しかし?」
「あの床屋を知らないか」
「床屋って?」
「フィガロだ」
 バルトロは不機嫌さを増してそうロジーナに返した。
「フィがロは何処にいるのだ?知っているか?」
「私が?」
「そうだ。知っているか?何処にいるのか」
「昨日御会いしましたけれど」
 ここではあえて嘘をついた。彼の様子を見る為だ。
「それが何か?」
「昨日なのだな」
「ええ」
 嘘をついたまま答える。
「どうかされたのですか?」
「ならばいいのだが」
「ふん」
(本当かどうか)
 バルトロは心の中でロジーナを疑いながら彼女に応えた。
(とにかく。あの床屋は用心しないとな)
(やれやれ、疑い深いおじ様だこと)
 ロジーナもロジーナでバルトロを見ながら心の中で呟く。
(けれど見ていらっしゃい。きっと)
(わしの後妻にしよう。そうすれば財産も手に入るしな)
 お互いそんなことを考えていた。バルトロはここで鈴を鳴らした。
「ベルタ、アンブロージョ」
「はい」
「何か」
 すぐに小柄な中年の使用人が二人来た。一人は黒髪で痩せていてもう一人は赤髪で少し太めだ。どちらもスペイン女らしく浅黒めの肌をしている。
「マルチェリーナはどうした?」
 バルトロはふともう一人名前を出してきた。
「見当たらないが」
「マルチェリーナならもう別のところへ移ったじゃないですか」
「そうですよ」
 二人は口を揃えて言う。
「契約が切れて」
「おっと、そうだったか」
 バルトロはそれを言われて思い出した顔になった。
「そういえばそうだった。惜しいことをした」
「折角御子息もおられたのに」
「その方も」
「それは言うな」
 バルトロは息子の話を出されると寂しげなものを見せてきた。
「きっと何処かで生きているからな」
「左様ですか」
「それならいいですか」
「それでだ」
 ここで話を元に戻してきた。
「床屋だが」
「フィガロさんですか?」
「そうだ。あの男は今日ここに来たか?」
 真剣な顔で二人に問う。
「どうなのだ、そこは」
「さて」
 二人はその問いには首を傾げてきた。ベルタは右に、アンブロージョは左に。丁度真ん中が空く形となりバルトロはその空いたところが妙に目に入った。
「見ませんでしたが」
「私共は」
「そうか。ならいい」
 本当に知らないと見て二人に関してはそれまでとした。
「用は済んだ。仕事に戻ってくれ」
「はい」
「それでは」
 二人は自分達の仕事に戻る。それと入れ替わりに背が高く白い鬘を被った藍色の下地に銀の糸で刺繍された貴族の服を着た男が来た。顔が結構細長くそれが彼の長身をさらに際立たせている。見れば目の感じがいささかひょうきんだ。
「博士、お早うございます」
「おお、来てくれたか先生」
 バルトロは帽子を胸に置き恭しく一礼する彼に顔を向けて笑顔になった。
「いい時に」
「このドン=バジリオはいつもいい時に来るのです」
 その彼ドン=バジリオはそう言って笑ってみせてきた。
「それが私です」
「全くだ。それでだ」
 バルトロは彼の言葉に笑顔になり言葉を続けた。
「実は事情が変わった」
「事情といいますと」
「ロジーナとすぐに結婚したいのだ」
 右手を自分の顎に当てて言う。
「すぐにですか」
「今日か明日にでも。どうだ?」
「またそれは急ですな」
 バジリオはそれを聞いて目を少し見開いてみせてきた。
「どうされたのですか?」
「どうもロジーナに言い寄る男がいる」
「ほう」
 バジリオはそれを聞いて今度は目をしばたかせた。
「それはまた厄介な」
「それでだ。早めに手を打とうと思ってな」
「よいことです」
 その言葉には笑顔で応えてきた。
「では早速」
「頼めるか?」
「博士の為でしたら」
 また恭しく一礼して述べる。上品だが何処かユーモラスさのある礼だ。
「すぐにでも。ただ」
「ただ?」
「慎重に進めさせて頂きます」
 こう応えるのだった。
「宜しいでしょうか」
「その辺りは任せる」
 それに関しては問題としなかった。
「で。どうするのだね?」
「まずは作り話をします。相手は」
「何か最近この辺りをうろうろしている学生だな」
 彼は伯爵の正体を知らない。その程度にしか思ってはいない。
「あの学生ですか」
「知っているのか」
「はい。何度か見掛けたことはあります」
 バジリオも冷静な口調で述べてきた。
「あの男でしたら」
「策があるのだな」
「はい、充分に」
 また笑って述べる。
「ここは作り話をしていきましょう」
「作り話だと」
 バルトロはそれを聞いて今度は彼が目をしばたかせた。
「それでか」
「左様です。それで奴を世間の笑いものにして彼女に恥ずべき男、下らぬ男と思わせるのです。これで宜しいでしょうか」
「そうだな。ではそれで頼む」
 バルトロはそれでよしとした。
「はい」
「これは。そうだな」
 バルトロはバジリオの言葉を頭の中で反芻しながら答えた。
「中傷だな、つまりは」
「その通りです」
 バジリオもしれっとした顔で笑って答える。
「それが効果があるのか」
「あるのでございます」
 彼はそう主張する。続いて述べる。
「宜しいですか博士」
「うむ」
「中傷とはそよ風のようなもので。優しいそよ風のようなものです」
「それでは意味がないのではないのか?」
「だからよいのです」
 笑って彼にまた言う。
「吹いているのかどうかわからないからこそ。まずは軽快に優しく吹きはじめ」
「そして?」
 バジリオの口調が面白いので興味を持って問うた。
「どうなるのだ?」
「優しく囁きはじめ静かに低い声で擦り寄り」
「ふん」
「走りだして唸りだし。人々の耳の中に上手く入り込み」
「巧妙だな」
「そのまま心を支配してしまいます。そこから少しずつ大きくなりあちこちを吹き荒びます」
 そのまま言葉を続ける。
「雷鳴の如く唸り聞く者の心を驚かし遂には大砲や地震、台風の様に爆発して辺り一面に鳴り響きます。そうして中傷された者は人々の鞭の下で惨めに死ぬこととなります」
「恐ろしい」
 バルトロはまずはそれを認めた。
「実に恐ろしい威力だ、中傷というものは」
「私もされたことがありますので」
 一瞬だが苦虫を噛み潰した顔を見せた。
「よくわかっています。必要ならばこれで」
「しかしだ」
 バルトロはここで微妙な顔を見せてきた。
「しかし?」
「それだと時間がかかり過ぎる」
 彼はそう言ってきた。
「時間がですか」
「そうだ。それに君もそれを使いたいか?」
「必要とあらばですが」
 また一瞬だが苦虫を噛み潰した顔になる。
「そうか。わしは今は使いたくはない」
「時間の関係で?」
「それもある。それにどうにもあまりにも陰険だ」
 バルトロも悪人ではない。そこまでは考えてはいなかった。
「わしのやり方でいきたい。ここはあの若造を退ける方法を考えよう」
「まあお金になるのでしたら」
 バジリオは少し本音を出した。
「何でも」
「さあ、わしの部屋に」
 バジリオを誘う。
「入ってコーヒーでも飲みながら話をしよう」
「わかりました。それでは」
 二人はバルトロの部屋に入る。それと入れ替わりに家の扉からフィガロが入った。そうしてバルトロの部屋の扉を見ながら顔を顰めさせた。
「いい話を聞いた。おかげであちらの魂胆はわかった」
 まずはそれは安心した。
「しかしそう来るなら。見ていろよ」
「何を見ていろっていうの?」 
 そこにロジーナが来た。上から降りてきたのだ。
「フィガロさん、今度は」
「ああロジーナさんいいところに」
 フィガロはロジーナに顔を向けて笑顔を見せてきた。
「いいところに?」
「そうですよ。このままだとですね」
「ええ」
「私はウェディングケーキを食べることになります」
 つまり結婚式を見ることになるというのだ。
「バルトロ博士の」
「というと私とあの人の」
「そうです。それも今日か明日中に。無理にでも理由をつけて」
 おじ様と言っても血縁関係ではない。後見人だからそれが可能なのだ。
「今あの部屋で」
「あの部屋で」
 フィガロが指差したバルトロの部屋の扉を見る。扉は不気味な沈黙を守っている。
「今ドン=バジリオと相談中なんですよ」
「危ないわね」
「もうすぐリンドーロ君も戻ってきます」
 ここで伯爵の偽名を出す。
「ですから」
「わかったわ」
 ロジーナもその言葉に頷く。
「それじゃあ。もう少しね」
「はい。ですがね」
 フィガロはふとした感じで困った顔を見せてきた。これも計算している。
「何か?」
「リンドーロ君には困ったところが一つあります」
「どうかしたの?何処か悪いとか」
「心の病です」
「それは大変」
「恋の病でして」
 そういうことであった。言いながらロジーナを見やる。
「おわかりですね」
「ええ。よくね」
 ロジーナも全てを理解して笑顔で頷く。
「ある方を想って」
「それは誰かしら」
 わかったうえで尋ねる。それが心地よいからだ。相手の気持ちを再確認することが。
「よかったら教えてもらえるかしら」
「目の前に」
「目の前って?」6
「ですから私の目の前に」 
 フィガロは笑って述べる。
「そこにおられます」
「それでその方の容姿は」
「とてもお奇麗です」
 また笑って述べてきた。
「可愛らしくて利発そうな娘で」
「ふん。それで?」
「髪は黒く頬は薔薇色で」
「さらにいいわね」
 自分のことなので当然悪い気はしない。
「さらにですね」
「ええ」
「訴えるみたいな眼差しで誰もを虜にする麗しの手」
「その人の名前は?」
 これまたわかっていて問うた。
「よかったら教えて」
「それはですね」
「ええ、それは」
 さらに突っ込む。
「ロ・・・・・・」
「ロ!?」
「ロジーナ様です」
「私のことなのね」
 それを確かめてにこにこと笑う。
「嫌だわ。想われているなんて」
「ですが本当のことです」
 ロジーナをさらに喜ばせる為の言葉だった。
「リンドーロ君は貴方にぞっこんです」
「けれどあの方は今何処に」
「ですから間も無くここに」
 またそれを言う。
「ですから御安心を」
「わかったわ。けれど待ち遠しいわ」
 うきうきとした顔と声での言葉だった。
「どうなるのか」
「すぐに来られますがただ」
「ただ?今度は何かしら」
「お手紙があれば尚いいです」
 彼も手紙を所望であった。恋では当然のアイテムだからだ。
「今から書かれては」
「それならもうあるわ」
「もうですか」
「偶然ね。もう書いたのよ」
「左様ですか」
(いや、これはまた)
 ロジーナの演技に合わせたが内心彼女の素早さに舌を巻いていた。
(これは。本当に賢いな)
「これで宜しいのね」
 ロジーナは余裕に満ちた顔でフィガロに問うた。
「どうかしら」
「はい、これでもう充分です」
 フィガロも会心の笑顔で返す。
「これでね。じゃあ御願いね」
「わかりました。では」
 フィガロは素早く家を後にした。懐の中に手紙を入れて。すると彼と入れ替わりの形でバルトロが部屋から出て来たのであった。
「おじ様」
「今誰が来ていたのだ?」
「散髪屋さんが」
 ロジーナはしれっとしてこう返した。
「若しかして帰ってもらったら駄目でしたか?」
「うむ、少しな」
 ロジーナから視線を離してやや気難しい顔で答えた。
「少し聞きたいことがあった」
「何でしょうか」
「御前と何を話していたのだ?」
 ロジーナに視線を向けて問う。
「一体何を」
「別に。大したことではありませんわ」
 ロジーナはしれっとして述べる。
「些細なことですわよ」
「どんなことだ?」
 バルトロはロジーナをジロリと見据えて彼女に問うた。
「若しかしてだ」
「フランスの流行とか最近あの方が想いを寄せておられる」
「そんな娘がいたのか、あの男にも」
「スザンナさんですけれど」
 ロジーナはスザンナという名前を出してきた。
「アルマヴィーヴァ伯爵家に務めておられる」
「ああ、あの小柄な娘か」
 彼女のことはバルトロも知っている。
「ふん。フィガロは大柄だし小柄な彼女はお似合いかもな」
「そういうことだけですけれど」
「ならいいが。だが」
 ここでロジーナの目を見る。
「その手はどうしたのだ?」
「手がですか?」
「インクで汚れているではないか」
 見ればその通りだった。手紙を書いたせいなのは言うまでもない。
「どうしたのだ?」
「火傷をしまして」
 平気な顔をして誤魔化す。
「インクを薬代わりに」
「また乱暴な治療だな」
 医者である彼が顔を顰めさせずにはいられないことだった。
「ではあれか」
 今度はテーブルの上の紙を見た。一枚減っている。
「六枚あった紙が五枚に減ったのは」
「傷を拭きまして」
「それでペンも汚れているのか」
 次にはインクで汚れているペンを見やる。
「どういうことなのか」
「ペンは実はですね」
「うむ、実は」
 ロジーナを問い詰める。実は彼は薄々わかっている。ロジーナはそれを誤魔化す。
「スザンナさんに刺繍をお送りしたのですがそれで」
「それで?」
「そこで花の下地を書くのに使いました。実は怪我もそうなのです」
「あまりにも下手だな」
 そこまで聞いてこう返してきた。
「下手!?何がですね?」
「ええい、わしを騙せると思ったか」
 激昂した声でそう言ってきた。
「いいかロジーナよ」
「ええ」
「わしは医者だ、博士だ」
 そこを強調する。
「言い訳は通用せぬ。だから御前に忠告しよう」
「私にですか」
「そうだ。刺繍だの怪我だのいう言い訳は通用せぬ。火傷でも何でもな。何故紙が足りないのかのかわしは知りたいのだ。誤魔化すのならもっと上手くやることだ」
「何のことやら」
 それでもロジーナはしれっとして言い返す。
「わかりませんが」
「では言おう。今後御前が出掛ける時にはバジリオをつけよう」
「ドン=バジリオを」
「そうだ。戸口には風も入らない。御前は完全に籠の中の鳥になるのだ」
「あらあら」
「わしは騙せぬ。それはよく覚えておきなさい」
 そう宣言するのだった。そこまで言うと一旦言葉を止めた。それからまた言う。
「わかったな」
「ええ、まあ」
「わしを困らせぬことだ。それでは」
「どちらへ?」
「また部屋に戻る」
 そうロジーナに告げた。
「それだけだ」
「左様ですか」
「しかしだ」
 ここで顔を少し厳しくさせてきた。しかしどうにもユーモラスで迫力不足なのは彼がそうした怖さとは無縁の人物だからであろう。
「ではな。反省するがいい」
「はいはい」
 ロジーナはそんな彼を軽くあしらい自分の部屋に戻る。するといきなり扉を叩く音がした。丁度ロジーナと入れ替わりにベルタとアンブロージョがやって来た。
「誰ですか?」
「何の御用件ですか?」
「どなたかおられますか?」
 若い男の声だった。
「どなたか。宜しければ開けて下さい」
「そういう貴方はどなたですか?」
 今度は逆に二人の召使がその若い男に問うた。
「それがわからないと」
「お入れするわけにはいきませんよ」
「私は兵士です」
 男は二人の言葉にそう返した。
「今日こちらに来た」
「兵隊さんですか」
「そうです」
 男はまた答えた。
「怪しい者ではありません。これで宜しいでしょうか」
「あらあら、兵隊さんでしたら」
「若しかして患者さんか何かで」
 バルトロが医者なのでそう判断した。そうして扉を開けるとそこには兵士に変装した伯爵がいた。だが二人は伯爵の顔を知らなかった。そのうえ上手く化けていた。
「実はですね」
 伯爵は家に入ってから二人にまた言う。
「バロルド博士に用事がありまして」
「バロルド博士!?」
 名前を間違えられたのを聞いてすぐにバルトロが部屋から出て来た。自分のことになると異様なまでに耳が鋭いようである。
「わしの名ではないぞ、それは」
「ではベルトルドでしょうか」
「それも違う。わしはバルトロだ」
 バルトロは顔をとんでもなく不機嫌にさせて言った。
「そんな変な名前ではない」
「わかりました。違うのですね」
「左様」
 勿体ぶって伯爵が化けている兵士に述べる。
「わしはバルトロ博士だ」
「バルバロ博士ですか」
「そうでもない」
 また顔が不機嫌そのものになる。
「わしはバルトロか」
「バルトロですね。おっと」
 ようやく名前を正しく言ったところでよたってみせる。
「いけないいけない。どうもワインが効いているようだ」
「お酒は慎まれよ」
 バルトロは医者の顔になって伯爵に言うのだった。
「さもないと戦場で大変なことになろうぞ」
「そうですな。それでですね」
「まだ何か」
「これを御覧になって下さい」
 懐から一枚の紙を取り出してきた。
「これを」
「それは?」
「私の宿泊証です」
 そう述べる。
「宿泊証か」
「そうです。おわかりになられたでしょうか」
「待て、わしの家にか」
 ふとそれに気付く。
「若しかして」
「左様ですが?」
「左様ですかではないっ」
 その返答に顔を顰めさせて言葉を返す。
「いきなり言われてもだな」
「まあまあ」
「あんたに宥められる筋合いはないわ」
 そんな話をしているとロジーナがまた戻って来た。
「誰かいるの?」
「おおっ」
 伯爵はロジーナの顔を見て顔を晴れやかにさせる。
「ようやく現われたな、僕の天使よ」
「あら、兵隊さん」
 まずは伯爵の変装に気付かなかった。
「どうしてこの家に」
(あのですね)
 伯爵は小声で囁きながらロジーナに近付いてきた。
「はい」
「私ですよ」
 また小声で言ってきた。
「おわかりになられませんか?」
「って若しかして」
「はい、私です」
 にこやかに笑って言うのだった。
「リンドーロです」
「えっ、じゃあ」
「そうです。参上しました」
 相変わらずにこやかに笑っている。
「貴女の御前に」
「ロジーナ」
 バルトロは伯爵が化けた兵士がロジーナに馴れ馴れしく話し掛けていると判断して口を尖らせた顔を向けさせたのであった。
「一体何を騒いでいるのだ」
「私は別に」
「いや、騒いでいる」
 彼は強引にそう決める。
「早くここから立ち去るのだ」
「では私も」
 伯爵もそれを受けて退散しようとする。ロジーナの側へだ。バルトロはそれを見てまた言うのだった。
「何処へ行くつもりだ」
「兵営に」
「それは何処にある?」
「ここです」
 しれっとして述べる。
「先程申し上げた通りに」
「馬鹿を言ってくれる」
 バルトロはそれを聞いてまた口を尖らせた。
「だから君はここにはだな」
「ですからこれを」
 また宿泊証を見せる。
「御覧になられれば」
「そんなものは関係ないのだ」
 バルトロは面と向かって反論してきた。
「そんなものはな」
「それはまたどうして」
「わしにはそれをはねつける力がある」
 ユーモラスなまでに胸を張って言うのだった。
「宿泊免除の証がな」
「そんなものがあったのですか」
「それがあるのだ」
 そのまま胸を張っての言葉であった。
「わしの机の中でな」
「ほう、それは面白い」
 伯爵はそれを聞いても余裕綽々といった態度であった。腕を組んで笑っている。
「では見せてもらいましょうか」
「いいのだな?」
「勿論」
 その態度のまま言葉を返す。
「さあ、どうぞどうぞ」
「わかった。では後悔するなよ」
 きっと伯爵が化けた兵士を見据えての言葉であった。
「絶対にな」
「やれやれ。ロジーナ」
 伯爵は自分の部屋に帰って行くバルトロを横目にロジーナに囁いてきた。
「はい」
「まあ安心してくれ」
「どうしてですか?」
「そんなものはどうにでもなるんだ」
 また笑って言う。
「どうとでもね」
「そうなのですか」
「そうさ。まあ見ていてくれ」
 そう言葉を返す。
「これから僕がどうするのかをね」
「ええ」
「よし、これだ」
 バルトロがここで自分の部屋から全速力で戻って来た。あまりにも家の中で速く走ったのであちこちから埃が沸き起こっている。
「見つけたぞ、よく見ろ」
「何だ、こんなもの」
 伯爵はその免除証をすぐに取り上げた。
「こうしてやればいいんだ」
「むっ、何をするっ」
 何と破り捨ててしまったのだ。これで奇麗さっぱり終わってしまった。
「この通り。では僕はここに」
「おい、まだ言うのか」
 バルトロもいい加減本気で頭にきていた。元々結構そうであったが。
「では容赦しないで」
「ほう、面白い」
 伯爵は彼が怒ったのを見て柄に手をかけてみせた。
「僕は兵隊なんだがね。それでもいいかな」
「五月蝿いっ、貴族として勝負を挑むのだ」
「何も持たないのに?」
「それでもだ」
 バルトロは怒ったままであった。
「味方もいないのに」
「それは貴殿も同じこと」
 バルトロは伯爵を見据えて言い返した。
「違うかな、それは」
「それが違うんだよ」
 伯爵は余裕の笑みでバルトロに言った。
「僕の味方はね」
「味方!?そんなものは何処に」
「ほら」
 ここでロジーナに顔を向けるのだった。
「そこに」
「まあ」
「またしても戯言をっ」
 バルトロはさらに怒り狂うのだった。
「許さん、許さんぞっ」
「だから。そんなことを言ってもね」
 ここで何かを投げた。
「むっ!?」
「これは!?」
 それはバルトロに投げたと見せ掛けてロジーナに投げていた。何と手紙であった。
「あらっ、これは」
「さて、これは失敬」
 伯爵はおどけて誤魔化す。
「失敗しました」
「いえいえ」
「一体何を投げたのだ?」
「何にも」
 バルトロにはふざけた返答だった。ロジーナはその間に手紙を服の中に隠してすばやく洗濯屋のリストに交換するのだった。その間の動きが実に素早かった。
「ありませんが。では続きを」
「待てと言ってるだろうが」
 バルトロは激昂したままであった。
「さもないとだな」
「さもないと?」
「承知しないぞ」
 今度はロジーナにも顔を向けた。
「いい加減に何を出したのかをな」
「あら、仰いますこと」
 伯爵と完全に共犯関係のロジーナはしれっとして言葉を返す。
「おじ様、もっと落ち着かれて」
「わしは落ち着いているっ」
 これは本人だけがそう思っていることであった。バルトロにとって残念ながら。
「だからじゃ。さっきの手紙をだな」
「これですか?」
 出してきたのはさっきの洗濯屋のリストであった。バルトロはそれを見て目を剥く。
「何っ!?」
「これが何か」
「あっ、いや」
 これには完全に戸惑ってしまった。
「何でもない」
「おやおや、どうされたのですか?」
 その横から伯爵が彼を囃し立てる。
「そんなものが必要なのですか?」
「いや、何でもない」
 そう言うしかなかった。
「こんなものには」
「あれっ!?」
 ここで家の中にバジリオがやって来た。すぐに家の中の只ならぬ様子に気付く。
「どうされたのですかな」
「いつもこうなのよ」
 ロジーナはわざと泣いてみせた。勿論嘘泣きである。
「私に圧政を敷いて。この圧政者」
「人聞きの悪いことを言うなっ」
 圧政者と言われてはインテリゲンチャであるバルトロとしては黙ってはいられなかった。
「わしの何処が圧政者なのだ」
「だってそうじゃない」
 ムキになって言い返すロジーナであった。
「本当に。圧政者で」
「まだ言うのか」
「圧政者は許せないな」
 伯爵も参戦してきた。にこにこと笑いながら。
「成敗しなければ」
「まだ言うのか」
「そもそも暴力はだね」
 バジリオは言うまでもなくバルトロの側に参戦してきた。彼の横から言う。
「よくはないのだが」
「これは大義だ」 
 伯爵は手前勝手な理屈を出してきた。戦争の理屈である。
「それならば」
「だから待てっ」
「待ちなさいっ」
 二人は剣を抜こうとする彼を止めた。
「弁護士を呼ぶぞ」
「弁護士!?」
「そう、弁護士だ」
 バジリオが言う。強張った顔で。
「そうすれば君はだな。いや、この場合は警察か」
「待ってくれ先生」
 バジリオにバルトロが突っ込みを入れてきた。
「この場合は軍の将校の方がいいぞ」
「将校ですか」
「そうだとも。兵隊なのだからな」
「確かにそうですな」
 バジリオもバルトロのその提案に頷く。
「兵隊ならば。そちらの方が」
「しかも憲兵のだ」
 バルトロはわかっていた。
「それでいいではないか」
「わかりました。それでは」
 バジリオはそれを受けてすぐに軍の駐屯地へ向かおうとする。そこにフィガロも来た。
「また何の騒ぎで?」
「何だ、君か」
 バジリオは扉を開けると出て来た彼を見て顔を不機嫌にさせた。
「君には用はないんだがね」
「私にはあるんですよ」
 フィガロはその言葉に笑って返した。
「実はですね。ロジーナさんに」
「あら、また私」
 ロジーナが朗らかな声を立てるとバルトロが不機嫌な顔で彼女を睨む。
「何かしら」
「はい。それは」
 実はリンドーロのことである。彼がいるのを横目で見ながら暗号的に示唆する感じで言おうとするがそこでまたしても異変が起こるのだった。
「何の騒ぎだ?喧嘩か?」
「!?今度は何だ!?」
 バルトロは扉の方の声にすぐに顔を向けた。
「今から入りますが宜しいでしょうか」
「どなたですかな?」
 バルトロが扉の前に来てその声に問うた。
「宜しければ名乗って下さい」
「連隊の者ですが」
「ほう、連隊の」
「アルビーニ大尉と申します」
「おお、これはいい」
 実際に将校が来たので顔を綻ばせる。まさに渡りに舟だ。
「士官殿が来られるとは」
「何の騒ぎでしょうか」
 大尉は扉の向こうからバルトロに問うた。
「実はですね」
「はい」
「そちらの兵隊さんがいきなり上がり込んできて騒いでいるのですよ」
「何とっ」
 将校としては聞き捨てならない話であった。すぐに声色が変わる。
「それは大変だ」
「何とかして下さい」
 バルトロはここぞとばかりに言う。
「本当に困っていますから」
「わかりましたっ」
 将校も真剣な声で答える。
「それではすぐにでも」
「はい、どうぞ」
 扉を開ける。するとすぐに軍服を着た士官が多くの兵士達を連れて家の中に入って来た。
 バルトロとバジリオは彼等を見てほっと一息という顔であった。ロジーナも流石に強張った顔をしている。ところが伯爵が化けている兵士だけは平気な顔であった。
「では事情をお聞かせ下さい」
「あの兵隊がですな」
 バルトロはすぐに士官に事情を話す。
「いきなりここにやって来て泊めろと言い出すわ後見している娘に色目は使うわで」
「その通りです」
 バジリオも言う。
「それで困っているのです」
「彼に悪気はありません」
 ロジーナは伯爵を庇う。
「ですから許して下さい」
「まあ落ち着かれてね」
 フィガロが一番落ち着いていた。伯爵を除いて。
「そうすればおわかりになられるかと」
「何かよくわかりませんが」
 士官は首を捻って彼等の話を聞いていた。本当にわからなくなっていた。
「何が何なのか」
「つまりですね」
「このならず者が」
 バルトロとバジリオはまた言う。
「全て悪いのです」
「だからこそ」
「まあお待ち下さい」
 明らかに冷静さをなくしている彼等からまずは距離を置いた。それで伯爵が化けている兵士に顔を向けるのであった。それから言う。
「とにかく君には来てもらいたい」
「どちらに?」
「憲兵隊の詰所に。事情聴取だ」
「おっと、それは必要がないよ」
「!?」
「ほら」
 ここで懐からある書類を出して士官に見せた。すると士官は驚いた顔で姿勢を正して敬礼をし、兵士達もそれに続いて慌しく捧げ銃をした。それはバルトロ達にも見られた。
「何だ一体」
「何が起こったのだ」
 皆今の出来事に呆然となる。
「これは一体」
「奇跡か、それとも」
「わかりました」
 士官は緊張した面持ちで伯爵に応える。はたから見れば士官が兵士に敬礼をしているのだ。これ程おかしな光景はないと言ってよかった。
「そういうことでしたら」
「わからん、何事だ」
 バルトロとバジリオはそんな様子を見てまだ言う。
「わしは夢を見ているのか」
「どういうことかしら」
 ロジーナはロジーナで何が起こったのかわからなかった。
「将校さんの態度が急に変わるなんて」
「さて、騒ぎはまずは収まった」
 フィガロはにこにこと笑って様子を見ている。
「このまま流れに乗れるかな」
「流れはこちらのものだ」
 伯爵は今の状況に満足していた。
「よし、それじゃあ」
「何かが起こる」
 銘々それははっきりわかっていた。
「このままいけば」
「上手くいくな」
「どうなるんだ」
 だが結果への予想はそれぞれであった。何はともあれ騒ぎはまだ続くのであった。



色々と策というか、攻防があって面白いな。
美姫 「ここで身分を明かすのかしら」
うーん、だとしても無理矢理ロジーナを連れて行くのは流石に無理だろうし。
美姫 「なら、まだ何か策があるのかもね」
だな。フィガロというキャラが楽しいな。次はどんな事をして見せてくれるんだろう。
美姫 「続きが気になるわね」
うんうん。次回も待ってます。
美姫 「待ってますね〜」



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