『サロメ』




          第二幕  恍惚

 二人共整っているが品性が感じられない顔をしている。二人共冠を被っていることから王と王妃であることがわかる。王はヘロデ、好色で貪欲な王である。王妃はヘロデア、やはり好色で節度のない女であった。彼等はローマの贅沢を楽しみ民のことも神のことも考えない。そうした者達であった。
「よく戻ってきた」
 ヘロデはサロメの姿を認めて顔を綻ばせてきた。彼女のと王の前に道は開いておりその左右に着飾りながらも腐敗した者達が惚けた顔で蹲っていた。
「何処に行っておった?」
「月の下に」
 サロメはそうヘロデ王に告げた。
「涼みに」
「左様か。それでは今度は宴を楽しむのじゃ」
 そうサロメに告げる。
「よいな。これ」
 左右の者に声をかける。
「サロメに酒を。そして馳走を」
「畏まりました」
「それでは」
 側に控える者達がそれに応える。すぐに酒と馳走を持って来た。
「ささ、サロメよ」
 王はまた彼女に声をかけた。
「そんな離れた場所におらずにな。もっと」
「陛下」
 ここで彼の横にいる王妃がきっとした顔で声をかけてきた。
「何じゃ?」
「あまり見られぬように」
 彼女はそう王に言ってきた。
「宜しいですね」
「別に見てはおらぬが」
 そう述べて誤魔化しながら周りを見回す。窓の外の月に気付いた。
「見よ」
 月を指差す。
「何かを探しているようじゃ」
「月がですか」
「そうじゃ。そうは見えぬか?」
「いえ」
 王妃は王のその言葉を否定してきた。
「見えはしません」
「何故じゃ」
「月は月です」
 冷たくそう述べた。
「違いますか?」
「風情がないのう。月が恋人を探して彷徨っているようだというのに」
「詩的ではあります。しかしそれだけです」
 王妃はまた述べた。
「それ以外の何でもありません」
「ローマでは詩が愛されておるぞ」
「それはよいことです」
 しかしまだ王はまだ未練を残している。目を泳がせながらサロメを見るのであった。

「サロメよ」
「はい」
 サロメは王に応える。その好色そうな目には気付いてはいるがあえて言いはしない。受け流すだけであった。
「座るがよい。ナラボート殿」
 客人扱いなので殿と呼んでいる。
「サロメに席を」
「わかりました」
 ナラボートはそれに応える。応えながらサロメに顔を向けてきた。
「さあ、こちらへ」
「わかったわ」
 サロメはそれに従い席につく。王はその彼女にまだ熱いねっとりとした目を向けながらまた王妃にとってはいささか面白くないことを述べるのであった。
「大きな音が聞こえるな」
「幻聴ではないですか?」
「いや、違う」
 しかし王は王妃に対して言う。
「風の音、いや違うな」
 言いながら何処か不吉なものも感じないではない。その中で述べる。
「羽ばたきかのう。天使・・・・・・それも厳しい天使じゃ」
 ヘブライの天使達は厳格であり容赦ない。自ら剣を手にして人を殺め世界を破壊していくのである。それはまるで破壊の化身である。
「聞こえぬか」
「聞こえませぬ」
 王妃の言葉はやはり素っ気無い。
「それよりもサロメ」
 今度は実の娘に声をかけた。
「疲れたであろう?」
 彼女にあえて優しい言葉をかける。顔も穏やかなものにさせていた。
「だから。下がって休むがいい」
「待て」
 だが王はそれを止める。
「まだ早い。疲れてはおらぬのではないのか?」
「いえ」
 しかし王妃はそんな彼に平然と言い返す。彼に対しては澄ました顔になる。
「それは違います」
「違っているのはそなただ」
 王も負けじと述べる。
「見よ。サロメは」
「御覧になられてはなりません」
「何故そう言う」
「陛下の御為です」
 冷たい声で述べる。高山の氷のように冷たい声で。
「それだけです」
「疲れていればそれはそれですべきことがある」
 そう言うと側の者に声をかけてきた。
「果物を持って参れ」
「わかりました」
 声をかけられた者はそれに応える。そして暫くして葡萄やオレンジが運ばれてきた。王はそれをサロメの前に置かせたうえでまた声をかけてきた。
「さあサロメ、食べるがいい」
「果物をですか」
「うむ、ここでな」
 サロメが食べる姿を見るつもりだったのだ。
「その口でな。よいか」
「お腹がすいていません」
「何と」
 王はそれを聞いて声をあげてきた。
「そんな筈が」
「まことでございます」
 しかしサロメは述べる。
「ですから」
「そんな筈が。だが食べてみよ」
 無理をして言ってきた。
「そなたの口でな。その紅く小さな口で」
「ですが」
「ほら、御覧なさい」
 王妃は言う。
「サロメは疲れているのです。ですから」
「ううむ」
「時は来た」
 ここでヨカナーンの声がした。
「いよいよ御子が来られるのだ」
「あの男ね」
 王妃はその声の方に顔を向けて険を浮かべてきた。
「忌々しい」
「そなたのことを言っているのではない」
 王はそう言って妃を落ち着かせる。
「そうであろう?」
「いえ」
 しかし王妃はその言葉に首を横に振る。
「言っていますわ、いつも」
「それはだな」
「私を忌まわしい淫猥な女だと。いつも言っていますわ」
「しかし」
「私は予言は信じておりませぬ」
 きっとした声で言ってきた。
「未来のことは誰にもわかりませぬ。あの男は私に対して悪口を言っているだけなのです」
「聞き流せ」
 王はそう述べる。
「よいな」
「貴方はあの男を恐れておられますね」
 王妃は不機嫌な顔を今度は王に向けてきた。そのうえでまた言う。
「だからこそ」
「恐れてはいない」
 そう返す。
「恐れてはな」
「嘘です」
「王は誰も恐れぬ」
「ではローマは」
 王妃のその言葉に眉をピクリと動かしてきた。嫌な気配になっていた。
「どうなのですか?」
「陛下は立派な御方じゃ」
 ローマに膝を屈していることはヘブライの者にとって屈辱なのである。王妃はあえてそれを言葉に出して王を挑発してきたのだ。だが王はそれを何とか抑えて返してきたのだ。
「いえ」
 だがここで中年の司祭の一人が王の前に出て来て申し上げてきた。
「陛下、それは違います」
「違うのか」
「はい、あの者はまやかしです」
 彼は言う。
「神を最後に見たのは預言者エリアが最後です。ですから」
「その通りです」
 別の若いヘブライ人も言ってきた。
「あの者が見たのは神の影だったのでしょう」
「いや、それはどうですかな」
 しかしそこで別の年老いた司祭が言う。
「神は決して姿を隠されはしないもの。神はあらゆるところにおられるもの」
「それは違いますな」
 最初の司祭が述べてきた。
「貴方の仰ることは間違っておられます」
「どう違うのかのう」
 年老いた司祭は中年の司祭に顔を顰めさせたまま問う。
「わしの言っていることが」
「神は我等のところだけにおられます。違いますか」
「そうですな」
 別のやたらと長い髭のヘブライ人が述べる。
「神は」
「いや、それはどうかな」
 しかしそれに中年の司祭が異を述べる。
「それは」
「違うというのか」
「はい、ですから」
「お止めなさい」
 王妃は彼等の話を止めさせてきた。
「これ以上話をしてもいつもの堂々巡りなのだから」
「ううむ」
 王は王で難しい顔をしていた。王としてこの議論を無闇に止めさせるわけにはいかなかったのだ。ヘブライの者にとって神は何よりも重要なものであるからだ。
「預言もよいが」
 彼は誰にも聞こえない声で呟く。
「その預言者も何人も出ておるしな。何かと難しい」
「その日は来たぞ」
 またヨカナーンの声がする。
「御子の足音が山々に聞こえるぞ」
「御子とは何じゃ?」
「皇帝陛下のことでは?」
 ナラボートは事情をよくわからないまま述べてきた。シリア人である彼にとってはそもそもヘブライ人達の神がどうしたその力がどうしただのいった議論はよくわからないものである。それ以上に御子といった存在は訳がわからないものであった。
「確か称号にそうしたものの一つが」
「左様か。いや」
 だが王はここに今一つ引っ掛かるものを感じていた。
「違うのではないのか?」
「違いますか?」
「陛下はこのエルサレムへは来られぬ」
 王はそう述べた。
「昨日親書を受け取ったがそれは」
「どうでしたか?」
「そんなことは書いてはいなかった」
「そうなのですか」
「うむ」
 王は答える。
「それにじゃ。陛下は健康を害されていてここまでは来られぬし」
「それはないか」
「ではそれは」
 またユダヤ人達が出て来た。
「やはりあの預言の救世主」
「まさか」
 彼等は早速話に入る。
「あれは偽りでは」
「いや、偽りではない」
「左様、実際に預言に残されているではないか」
「その預言は誰のじゃ?」
「何処の馬の骨なのじゃ?」
 彼等はまた口々に言い合う。
「しっかりと言え」
「誰なのじゃ」
「あの御方じゃ」
 中の一人がここで言う。
「あの水を葡萄酒に変えられ手を乗せるだけで病を治されると話にある」
「治されるのは盲人では?」
 また妙な議論に入っていく。
「天使と話されたのでは?」
「またはじまったわ」
 王妃はそんな彼等のやり取りを聞いてうんざりとした顔で溜息をつく。
「どうしてこうも」
「天使はおられる。だからこそ」
「ふむ。それはエリアの言葉だったかな」
「モーゼではないのか?」
「しかしそれならば」
「その御子とは」
「何か起ころうとしているのか」
 王はそれを聞いてどうにも複雑な顔を見せていた。
「そうだとすれば何か」
「奇跡だけではないであろう」
 また誰かが言う。
「それだけでは」
「死者を生き返らせるのもまた」
「まさか」
「幾ら何でもそれは」
「まずい話じゃな」
 王は死者を生き返らせるのに顔を暗くさせてきた。
「死者が生き返るとなると摂理が乱れる。それだけは」
「淫らな女よ」
「また」
 王妃はヨカナーンの言葉に顔を顰めさせる。
「また言うのね」
「金色の目と瞼を持つバビロンの娘よ」
 バビロンの淫婦のことである。これはヨハネの黙示録にあるが実際はヘブライを苦しめたローマを指し示していると言われている。だがヨカナーンはこれを王妃への言葉に使っているのである。
「裁きは近いぞ。覚悟はいいな」
「あの声を黙らせなさい」
 王妃はそう周りの者に黙らせる。
「剣で貫き盾で押し潰すのだ」
「戯言です」
「陛下」
 きっとしてまた王に顔を向けてきた。
「あの言葉を」
「そなたのことではない」
 王はまた王妃を宥めてきた。
「だからな」
「いえ」
 しかし王妃はそれで納得しようとしない。
「違います、ですから」
「止めさせよというのか?」
「その通りです」
 声が次第に強くなってきていた。
「ですから」
「それでものう」
 王の態度は煮え切らない。
「まあ飲め」
 煮え切らないまま話を変えてきた。
「葡萄酒を」
「はい」
 周りの者がそれに応える。すぐに王妃に杯が持って来られる。
「ローマにおられる陛下にも乾杯しようぞ」
「ええ。しかし」
「しかし?」
 またヨカナーンの話かと顔を曇らせる。
「サロメです」
「サロメが如何致した?」
「諦められて下さい」
 声が峻厳なものに戻っていた。
「宜しいですね」
「しかしじゃ」
 王はここでサロメの顔を見た。
「あれ程蒼ざめた顔は見たことがない」
「何故蒼ざめたからといって気にかけられるのですか?」
「そなたはおかしいとは思わないのか?」
 そう妻に問う。
「あの娘を見て」
「いえ」
 しかし王妃の言葉は王にとって素っ気無いものであった。
「別に。それより」
「それより?」
「あの男です」
 彼女の心はまたあの男に向けられた。
「見てみたいと思いませんか。あの男が言っている日を」
「どんな日だったかな」
「月が血の様に赤くなり、星が熟れた無花果の様に落ちる日です」
 そう述べてきた。
「本当にそんな日が来るのかどうか」
「さてな」
 またその言葉に答えようとはしない。
「わしは知らぬな」
「あの男は酔っているのです」
 王妃は険のある顔でそう述べた。
「酔っ払いに過ぎません」
「神の酒だ」
 王はその言葉を聞いてこう返す。
「神の酒に酔っておられるのだ」
「それは一体どんな酒なのでしょう」
 王妃はその言葉に皮肉な笑みを浮かべてきた。
「私は知りませんが」
「だがあるのじゃ」
 言いながら目を泳がせる。
「あの方はそれを常に飲まれておられるのだ」
 またサロメに目をやる。ここで彼女に対して言った。
「サロメ」
「はい」
 サロメは彼の言葉に応えて顔を向けてきた。
「何でしょうか」
「踊ってくれぬか」
「踊りですか」
「そうじゃ、そなたの舞を見てみたくなったのじゃ」
 そうサロメに声をかける。その目はやはり妙な熱を帯びていた。
「どうじゃ?今ここで」
「気が乗りませぬ」
 サロメは畏まってそう述べた。
「申し訳ありませんが」
「そう言わずにだ」
「サロメも嫌がっているではありませんか」
 王妃が横から入ってきた。
「ですから」
「しかしじゃ」
 それでも王はサロメに対する執心を見せる。
「宴の余興にな」
「おかしいな」
 ナラボートがそれを見て彼の側にいるあの二人の兵士達に声をかけた。
「陛下の御様子は」
「ナラボート殿もそう思われますか」
「我々もです」
 二人の兵士も怪訝な顔で彼に応える。
「やはりこれは」
「不吉なものが」
「そうだな。陛下といい王女様といい」
「恐ろしいことが」
「蛆に食われるべき悪徳」
 またしてもヨカナーンの声が聞こえてきた。
「その悪徳を犯した者が紫と緋色の衣を着て玉座につく」
「貴方のことですわね」
 王妃がその言葉を聞いて王に囁いてきた。
「これは」
「いや」
 しかし王はそれを否定する。そこにまたヨカナーンの声がする。
「その手に神を冒涜する黄金色の杯を持って」
「むう」
 ここで自分の杯を見る。その黄金の杯だ。
「それにより裁かれる。主の天使に打ち砕かれ」
「御聞きになられましたね」
 また王妃が言ってきた。
「貴方を中傷しています」
「いや、あれはわしのことではない」
 王はまたしても王妃の言葉を否定した。
「あれはわしの敵であるカパドシアの王のことだ」
「あの王の」
「そうじゃ」
 こう強弁してきた。カパドキアとはヘブライの隣にある国であり彼等とは敵対していた。ヘロデ王はローマ皇帝に頼んで彼を罰してくれるようしてもらっているところなのだ。
「ローマ皇帝が裁かれる」
 彼はこう述べる。
「あの男はな。そのことじゃ」
「そうでしょうか」
「そうじゃ」
 またしても強弁する。
「陛下はあの者をローマに呼び出すということじゃ。おそらく裁きを受けるであろうな」

「そうであれば宜しいですが」
 王妃はシニカルに返した。
「カルタゴみたいにならないことを祈りますわ」
「戯言を」
 カルタゴはかつてローマと三度争った。最後の戦いの前はローマにとって最も忠実な都市となっていた。だがその経済的発展を見た大カトーの演説によりローマに警戒され遂にはローマに滅ぼされたのである。カルタゴの悲劇は他の者達にとっては他人事ではない。かつてカルタゴのあった場所はもう何もないのだから。カルタゴ人達は多くは殺され残りは奴隷となった。街は跡形もなく消されているのだ。
 ローマは脅威を滅ぼすのに手段を選ばない。王はそれを知っている。しかしあえて見ようとはしていないだけなのだ。それ程までにローマを恐れていたのだ。
「そんなことがあろう筈がない」
「だといいですがね」
 しかし王妃の言葉の調子は相変わらずであった。王は不快なままであった。
「そのローマの方をもてなす為にも」
 話を強引に摩り替えてきた。
「サロメよ、舞ってくれぬか」
「しかし」
「どうしてもじゃ」
 彼は言う。
「望みのものは何でも取らそう」
「今の私に望みのものなぞ」
 だがここで。またしてもヨカナーンが言ったのだ。
「聞くのだ」
「ヨカナーン」
 さっきから聞こえていたあの言葉がまた。その言葉が今彼女の心に宿った。
「御子と裁きが来られる足音を。だからこそ」
「陛下」
 彼女はその言葉を耳にすると急に王に顔を向けてきた。
「どうしたのじゃ?」
「何を下さるのでしょうか」
「何でもじゃ」
 王は彼の権威を以ってそう答えた。
「そなたの欲しいものはな」
「何でもですね」
「うむ」
 満面に笑みを浮かべて答える。遂に受けてくれたかと思ったからだ。
「何でもな。領土の半分でもよいぞ」
「まずいな」
「ああ」
 兵士達は王のこの軽率な約束にまた不吉なものを感じた。
「このままでは」
「しかし我等ではもう」
 この流れを止められない。それは感じていた。
 不吉な空気が退廃した宴の中に漂う。しかしそれに気付いている者は僅かであった。

 ナラボートも何も言えない。彼は友人達に言うだけであった。
「見守るしかないか」
「ですね」
「残念ながら」
 サロメは立ち上がった。優美な姿で王に問う。
「では陛下」
「うむ」
「お止めなさい」
 王妃が娘に言ってきた。
「踊るのは」
「まあいいではないか」
 しかし王がそれを止める。
「サロメが踊ると申しているのじゃぞ。邪魔をしてはならぬ」
「何と都合のいい」
「世の中とはそうしたものじゃ」
 しれっとして返す。
「何事もな。機会があれば乗る」
 彼のやり方であった。丁度今がその時だっただけなのだ。
「よいのですね」
 サロメはまた王に問うた。
「何でも下さると」
「誓おう」
 またしても軽々しく返した。彼女の真意を知らずに。
「何でもな」
「わかりました」
 サロメはその言葉を聞き微笑んだ。その笑みは妖しく、闇の中に舞う蝶のようであった。
「誓われましたね」
「今な」
 またそれを認めた。
「誓ったぞ。これでよいのだな」
「はい」
 にこりと笑って頷く。これで決まりであった。
「わかりました。それでは」
「そなたの舞が見られるのならな」
 王はまだ気付いてはいなかった。
「何でもやるぞ」
「本当ですね」
「わしも王じゃ」
 はっきり言ってきた。
「言ったことは守る」
「よいのですね」
「よい」
 断言した。この時は迷いはなかった。
「わかったな」
「わかりました」
 サロメはその言葉に妖しく微笑む。
「それでは」
「サロメ」
 王妃が彼女を咎めてきた。
「止めておくのじゃ」
「いえ」
 しかしサロメは急に母に対して聞き分けのない様子になっていた。
「踊ります」
「うむ。しかし」
 王も何かに気付いた。
「妙じゃのう。胸騒ぎがしてきたぞ」
「胸騒ぎ」
 王妃が王のその言葉に顔を向けてきた、
「そうじゃ。これはな」
「これは」
「黒い鳥の羽ばたきじゃな。これは」
「まさか」
「いや、見えるし聞こえる」
 王はそう応える。
「そんな筈がないのに。どういうことなのじゃ?これは」
「気のせいでありましょう」
「気のせいではない」
 王妃のその言葉を否定した。
「これは確かに」
「そうでしょうか」
「身を切るような風・・・・・・冷たい、いや」
 感覚が狂っている。それもわかった。
「熱い。どうしれじゃ」
「陛下」
 そこにナラボートがすっと進み出てきた。
「ナラボート」
「これを」
 一輪の赤い花を差し出してきた。
「花か」
「はい、どうでしょうか」
「済まぬな。じゃが」
「何か」
「やけに赤いのう。どうしてそこまで赤いのじゃ?」
「御気に召されませんか?」
「いや、そうではない」
 それは一旦は否定する。
「そうではないが」
「何か」
「美しいが血のように赤いな」
 花を見て告げる。
「何か印象に残る。嫌にな」
「それでは」
「いや、もらおう」
 ナラボートの申し出を受けることにした。
「よいか」
「はい、それでは」
 花を受け取る。無理をして機嫌のいい顔を見せてきた。
「見るもの全てに象徴を見つけるのもな」
 王はこうも言った。
「よくはないな」
「御言葉ですが」
 ナラボートは申し出てきた。
「それは」
「違うのはわかっている。どうにもな」
 花を受け取りながら述べる。
「済まぬ。明るい席じゃな」
「はい」
「ではサロメよ」
 あらためてサロメに目をやる。
「よいな」
「はい。それでは」
 畏まって一礼する。そうして応える。
「準備を」
「うむ、わしとて王だ」
 その誇りはあった。
「カパドシアのあの王は嘯いてばかりおるがわしは違う。何があろうとも自分の言葉の奴隷となり約束は守るぞ」
 これだけは事実であった。彼も王としての誇りがあるのだ。
「では行くがいい」
 そうサロメに告げる。
「すぐにな」
「わかりました」
 サロメはそれに頷く。静かだが妖しい笑顔で姿を消すのであった。
 一旦は姿を消したサロメ。しかし王の不吉な気持ちは変わらなかった。
「まだ何か」
「やはり妙じゃ」
 王妃に答える。
「この感触。胸騒ぎが止まらぬ」
「ではどうぞ」
 杯を差し出してきた。
「飲まれれば変わります」
「気分転換をせよと申すのか」
「何を困られることがあります?」
 そう王に問う。
「不安なものは何もないというのに」
「いや」
 しかしその言葉に首を横に振る。
「あれを見よ」
 そう述べて窓を見やる。
「赤い月じゃ。おかしいとは思わぬか?」
「さて」
「先程まで白かったというのにじゃ」
 しかしこれは違っていた。赤い月に見えているのは王だけである。他の者達は皆白い月に見えていたのである。それが違っていたのだ。
「あの赤い月を見ているとどうにもな」
「御気にされ過ぎなだけです」
「そなたは何も見ても同じじゃな」
 思わずそう呟いた。
「困ったことじゃ」
「困ったことにはならぬでしょう」
 王妃はうっすらと笑みを浮かべてきた。
「あの男がここにいるのよりは遥かにましです」
「またそれか」
 その言葉に顔を苦くさせる。
「どうしてもか」
「どうしてもです。何があろうとも」
「諦めよ」
 王はそう告げた。
「気にせずにな」
「それは陛下もです」
 またしてもサロメのことに言葉を及ばせてきた。
「おわかりですか?」
「わからぬな」
 憮然とした顔でとぼける。
「どうにも」
「陛下」
 しかしここで従者がやって来て王に告げてきた。
「王女様の御用意ができました」
「おお、いよいよか」
 その言葉に顔を綻ばせる。しかし。
「いや」
 急にその綻んだ顔を暗くさせてきた。
「待て」
「どう為されました?」
「いやな」
 自分だけに聞こえるような言葉で呟いた。
「どうにも。やはり」
 述べながら手にしている酒を飲む。
「どうするべきか」
「御義父上」
 しかしそこにサロメがやって来た。素足で身体の上に七枚のヴェールをまとっている。

「サロメか」
「はい」
 サロメはヴェールの向こうで妖しく笑っていた。
「宜しいですね」
「うむ」
 難しい顔をして答える。
「では踊るがいい。いいな」
「わかりました。それでは」
「音楽を奏でよ」
 王は躊躇いながらもそう周りの者に命じた。
「そして場を開けよ。よいな」
「はっ」
「わかりました」
 周りの者がそれに答える。そして今サロメの舞がはじまった。
 煽情的な曲の中でサロメは舞いはじめた。小柄で細い身体を舞わせている。
 踊りながら時として身体を寝かせ起き上がらせ。その中で一枚一枚ヴェールを脱いでいく。脱ぎながらその身体を露わにしていく。現われるその身体は華奢で柳のように細いが絹よりも細かった。その身体で舞っていく。
 また一枚、そして一枚。ヴェールを脱ぐ度にその身体が見えていく。そして最後の曲が終わった時には。その白い身体を全て見せていたのであった。
「ううむ」
 王はその姿を見て唸る。
「素晴らしい。見事な舞であったぞ」
 そうサロメに告げる。
「有り難き御言葉」
 サロメは周りの者に一枚のヴェールをかけられていた。それを羽織ながら王に応える。

「では褒美を取らそう」
 言ったところでサロメの目を見た。見れば何か恐ろしい欲望を抱いているように見えた。
 それに怯む。しかし王としての約束が彼を動かす。彼は問うたのであった。
「何じゃ?」
「まずは銀の大皿を」
「皿をか」
「はい」
 畏まって答えてきた。
「まずはそれを頂きとうございます」
「わかった。ではまずはそれじゃな」
「ええ」
「よし、皿じゃ」
 王はそれを受けて周りの者達に言い伝える。
「銀の大皿を。一つ持って参れ」
「わかりました」
 周りの者達はそれに応える。そして暫くして皿を持って来たのであった。
「これで御座いますね」
「これじゃな、サロメ」
「そうです」
 皿を見て何故かうっとりと笑う。王はそれも見たがやはり胸騒ぎが増すばかりで収まりはしない。
「それで御座います」
「わかった。では次は何じゃ」
 王はまたサロメに問うた。
「申してみよ。どんな馳走が欲しいのじゃ?」
「首を」
「首じゃと」
「左様でございます」
 サロメは述べる。
「それを頂きとうございます」
「わからぬな」
 王はその言葉に首を傾げる。何が何なのかわらないといった顔であった。
「首とは」
「ヨカナーンの首を」
「何っ」
 その言葉に思わず言葉を失った。
「今何と申した」
「ヨカナーンの首を」
 妖しく笑ってまた述べる。
「是非共」
「ならぬ」
 王は血相を変えて言う。
「それだけは」
「いえ、陛下」
 しかしそこで王妃が横から言うのであった。
「よいではありませんか。サロメ」
 にこやかな声で娘に対して述べる。
「よくぞ申した。何というよい娘じゃ」
「そなたがそそのかしたのか」
 王妃をきっと見据えて問う。
「そなたが」
「母上の御言葉ではありません」
 サロメは立ち上がってそう王に返す。その顔も身体も毅然としたものと妖しいものがある。その二つに魔性を漂わせていた。
「あくまで私の楽しみの為に」
「馬鹿な」
 王はその言葉を遮ろうとする。
「何故だ。何故ヨカナーンの首を」
「誓ったではありませんか」
「確かにそうじゃ」
 それは王も認める。
「しかしじゃ。それでも」
 王はそれを何とか否定しようとする。
「他のものでは」
「何故拒まれるのですか?」
 王妃は王のその言葉を阻もうとする。
「誓われたではありませんか」
「それでもじゃ」
 王はそれでも言う。
「それだけはならん。何があってもじゃ」
「また無粋な」
「違う」
 その顔には王としての威厳はなかった。ただひたすらそのことを拒もうとする、そうした顔であった。
「他のものではどうじゃ?」
 その必死の顔でサロメに対して言う。
「男の首なぞ何になろうか」
「いえ」
「エメラルドではどうじゃ」
 拒むサロメにカードを出してきた。
「ローマ皇帝より頂いたものじゃ。眩く翠に輝く美しいエメラルドをやろう。それでどうじゃ?」
「そのようなものはいりませぬ」
 サロメはそれも拒む。
「では孔雀でどうじゃ」
 次のカードを出してきた。
「白い身体と黄金色の嘴、そして紫の脚を持っておる。その白い孔雀をどうじゃ」
「いえ」
 だがそれも拒む。
「ヨカナーンの首を」
 またサロメは言った。
「それを」
「それではのう」
 慌ててまたカードを切り出してきた。
「銀の糸でつなぎ黄金の網にかけられた真珠のネックレスじゃ。どうじゃ?」
「そんなものには何の価値もありませぬ」
 やはりサロメはそれも否定する。
「ヨカナーンの首を」
「アメジストはどうじゃ?それともトルコ石か」
 必死に自分が持っている宝物を出す。しかしそれは何の効果もなかった。
 サロメの言葉は変わらない。あくまでヨカナーンの首を願うのであった。王はいよいよ持っている豊富なカードをなくしてきた。
「王位をやろうか」
「何とっ」
「陛下、それは」
 周りの者もこれには言葉を失う。
「それだけはなりませぬ」
「許されぬことです」
 ヘブライでは女は蔑まされている。その女が王になるということは考えられないことだ。それをあえて言ったところに王の苦しみがあった。
「それをやろう。だからこそ」
「王位もいりませぬ」
「おやおや」
 王妃は遂に最後のカードが失われたのを見てまた笑う。
「これはこれは」
「私が欲しいのはただ一つです」
 そして言うのであった。
「ヨカナーンの首を」
「他には何もいらぬか」
「いりませぬ」
 その言葉も定まっていた。
「ですから」
「わかった」
 項垂れた顔で述べた。
「それをやろう。よいのだな」
「有り難き幸せ」
 目を細めて笑う。
「それではすぐに」
「わかりました」
 側に控えていた一人である大柄な男がそれに応えた。
「それでは」
「うむ」
 王は沈んだ顔で答える。
「頼むぞ」
「はい」
 男は巨大な剣を兵士達から受け取り強張った顔で宴の場を後にした。その後ろを従者達が銀の大皿を手について行くのであった。
「もうすぐね」
 サロメは彼等を見て目を細めるのであった。その細まった目には黒く妖しい光があった。まるで蝶を誘い込むかのような光であった。黒いだけでなく紫苑の色もそこにあった。
「ヨカナーンが私のところへ」
 ここで何かが落ちる音がした。
「落ちたわね」
「落ちたか」
 サロメと王は同時に声をあげた。
「ヨカナーンの首が」
「恐ろしい罪じゃ」
 サロメは勝ち誇った笑みを浮かべ王は沈んでいる。その顔でそれぞれ言ったのであった。
「そなたのせいじゃ」
 王は王妃の顔を見て述べた。
「そなたのせいで娘は」
「よく御覧下さい」
 王妃は狼狽しきった王に対して返す。
「あれこそはサロメの願い。違いますか?」
「違うというのか」
「そうです」
 王妃は述べる。
「娘の顔を」
 見ればその顔はそれまでのサロメの顔とは異なっていた。少女の顔から女の顔になってしまっていたのだ。
「これでよいのです」
 そこに男と従者が戻って来た。従者の手には大皿がある。そして上にはヨカナーンの首が。
 銀の皿に赤い血が滴り蒼白となったヨカナーンの首がある。目を閉じ何も語らない。何も見ずにそこにあった。
「来たわね」
 サロメはヨカナーンの首を見て述べた。
「やっと私のところに」
 その首がある皿を手に持っている。皿の上のヨカナーンの首を見て妖しく笑う。
「口付けをしてあげるわ」
 だがヨカナーンは何も語らない。黙って目を閉じているだけである。
「けれど私を見ないのね。それは何故?」
 しかしそれでもヨカナーンは語らない。サロメはそんな彼にまた言うのだった。
「けれどもう貴方は私の手の中にあるわ。決して離れはしない」
 恍惚とした声であった。その声で述べ続ける。
「それだけでいいのかも知れないわ。けれど」
 彼女はさらに言う。
「私は貴方だけがいればいいのよ。それだけで」
「何と恐ろしい話じゃ」
 王はヨカナーンの首をその両手に持って笑みを浮かべるサロメを見て言う。
「これが罪でなくて何と言うのじゃ」
「さて」
 しかし王妃はそれを見ても平気である。
「してどうされるのですか?」
「どうせよとは」
「殺されますか?」
 王に問うてきた。
「私もサロメも」
「殺せたら既にそうしておる」
 彼は忌々しげにそう返した。
「既にな」
「ではそうなさいませ」
 笑いながら王妃はまた言った。
「私共を」
「勝手にせい。しかし」
 王は言う。
「わしも御前も裁きを受ける。それは覚悟しておけ」
「裁きなぞ今更」
 正面を見て妖艶に笑っていた。サロメとはまた違った魔性の美であった。かつて彼はこの美に誘われ兄王を殺しその玉座を奪った。今その罪を思い出していた。
「何になりましょうか。人は全て罪を犯すものではないですか」
「構わぬと申すのだな」
「左様です」
 王妃は平然と述べる。
「愉しみの末に裁きを受けるのならば喜んで」
「では好きにせよ。わしは去る」
「何処へ?」
「何処でもよい」
 立ち上がってそう言い捨てた。
「だがここへは二度とは来ぬ」
「好きになさいませ」
 王妃はまた冷たい言葉をかけた。王を見ようとはしない。
「ですが」
「まだ言うのか」
「隠しても全ては残っております。それはお忘れなきよう」
「くっ」
 王は何も言えなかった。そのまま部屋を後にする。
 他の者もそれに続き灯りが消えていく。ナラボートも兵士達もそれを見ていたがやがて王に続いた。後に残るは王妃とサロメだけであった。
「サロメ」
 王妃は暗くなった部屋の王妃の座で一人座ってサロメを見ていた。
「そなたは女になった。それを覚えておくのじゃ」
 彼女はその言葉を聞いてはいなかった。ただヨカナーンの首をその手に抱いて笑っているだけであった。その笑みは狂気の笑みであった。しかしそれと共にこの世のものとは思えぬ美を映し出していたのであった。


サロメ   完


              2007・3・8



いや、普通に怖いんですが。
美姫 「手に入れる為にまさかねぇ」
これもまた執念という事だろうか。
美姫 「凄いお話だったわね」
ああ。ちょっと驚きのラストだった。
美姫 「投稿ありがとうございました」
ました〜。



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