『さまよえるオランダ人』




                          第二幕  二人の出会い

 ある広い家の中で。娘達は暖炉を囲んで陽気に糸を紡いでいる。その中で明るく歌っていた。
「可愛い車よ元気よく回れ」
「千の糸を紡いでおくれ、可愛い車よ」
 陽気に歌うのは糸に対してだけではなかった。
「私の恋人は海にいて貞淑な乙女に想いを馳せる」
「可愛い車よ御前が風を起こせばあの人も早く帰られる」
 そう歌っていた。その中で一人の年輩の女が声を出す。半分白くなった髪に高い鼻を持つ皺のある顔が目立つ。知的な顔の女だった。
「いい感じね、皆」
 にこりと笑って周りの若い娘達に言う。
「皆よく進んでいるわね。それに」
「それに?」
「もうすぐ男達が帰って来るわよ」
 ここでこのことを話に出してみせた。
「だからここはね」
「頑張るわ」
「だからね」
「そういうことよ。あら」
 女はここで気付いた。
「ゼンタ」
 背が高く青い海の瞳に白い顔と豊かな黄金の髪の女だった。顔立ちはさながら彫刻を思わせる程である。しかしその整った顔に何か思い詰めたものを持っている。そんな美女だった。青い服がよく似合っている。
「貴女は歌わないの」
「ええ、マリーさん」
 その娘ゼンタはマリーに対して答えた。
「今はね」
「それに」
 マリーはここで別のことにも気付いた。
「糸も進んでいないじゃない」
「そうかしら」
「進んでいないわ。急がないと恋人が帰って来るわよ」
「マリーさん、何言ってるのよ」
 しかしここで娘達がマリーに対して言う。
「ゼンタはその必要がないのよ」
「急ぐ必要がないのよ」
「急ぐ必要がないの」
「だってそうじゃない」
 彼女達は笑って告げる。
「恋人は海にいないから」
「山にいるじゃない」
「山に!?ああ」
 こう言われてマリーもわかったのだった。
「そういうことね」
「ええ、そうよ。だからね」
「急ぐ必要はないのよ」
「お金の代わりに獲物ね」
 マリーも言う。
「成程、そういうことなのね」
「そうよ。わかってくれたわね」
「そういうことよ」
「だから」
「それはそうとしても」
 マリーは娘達の言葉を聞いたうえでまた言うのだった。
「ゼンタ、貴女はまた」
「また?」
「どうしてその絵ばかりを見るの?」
 ここでゼンタが見ている壁にかけられた肖像画を見る。それは暗い顔をした男の絵だった。まるで亡霊の様に沈んだ顔をしている男だった。
「この絵を。いつもいつも」
「それはマリーさんが私に教えてくれたから」
「私が!?」
「ええ」
 マリーに対してこくりと頷いてみせる。
「そうではなくて?この方を」
「この方」
 ゼンタの言葉を聞いたマリーの顔が曇る。
「子供の頃の貴女に話した海の話ね」
「ええ。さまよえるオランダ人」
 ゼンタは言うのだった。
「この方のことを」
「ゼンタ、あれはね」
「言っておくけれど」
 ここで娘達がゼンタに対して言う。
「おとぎ話なのよ」
「伝説よ」
「いえ、違うわ」
 だがゼンタは彼女達のその言葉に対して首を横に振るのだった。
「事実よ。この方は今も海を彷徨っておられて」
「何ということなの」
「呆れたわ」
 マリーも娘達の今のゼンタの言葉には声を失った。
「本当にいると思っているのね」
「まさか」
「いえ、いるわ」
 しかしゼンタは言う。
「いるのよ。きっと」
「そんなこと言って大丈夫なの?」
「エリックが」
 娘達はエリックの名前を出してきた。
「結構短気だしね」
「そうよね。この絵だって」
 彼女達は言い合う。怪訝な顔であった。
「どうなるかわからないわよ」
「そうなったらどうするの?」
「ねえマリーさん」
 ゼンタはここでマリーに声をかけてきた。
「あの歌を歌って」
「あの歌!?」
 マリーはゼンタのその言葉を聞いて声をあげた。
「あの歌を!?」
「ええ、御願い」
 まるで夢遊病者の様にせがむのだった。
「是非共」
「もう何度もよ」
 だがマリーはこう言って拒むのだった。
「私はもう」
「歌って」
 しかし彼女は断られても拒む。
「どうかあの歌を」
「そんなに言うのなら自分が歌って」
 いい加減嫌気がさしたのかマリーはゼンタに言った。
「もう覚えてるでしょ?何度も歌ってあげたから」
「私がなのね」
「ええ、私はもう糸を紡ぐわ」
 マリーは半分うんざりした顔になっていた。
「貴女がね」
「わかりました。それじゃあ」
 ゼンタは彼女の言葉を受けて立ち上がった。そして一人歌いはじめた。
「帆が血の様に赤く帆柱の真っ黒な船に会ったことはありますか。高き甲板にこの船の主、青白き男が休みなく見張っている」
 不気味な歌だった。しかし彼女は何かに取り憑かれた様に歌い続ける。
「風の唸ること、綱の鳴ること。風は矢の様に早く吹く」
 歌が続く。
「この青白い男にも何時か救いが来る。死に至るまで貞節を誓う乙女がいるのなら。貴方は何時彼女を見つけるか。早くその乙女に出会えるように」
「オランダ人なのね」
「さまよえるオランダ人」
 彼女達は知っていた。さまよえるオランダ人のその歌を。
「酷い嵐の前に彼は一つの岬を回ろうとした。彼はのろい恐れを知らぬ勇気で言った。『私は永久に止まらないと。悪魔がそれを本気にした」
 不気味な歌だった。それが続く。
「彼は呪われて海の上を休みなく彷徨う。しかし天使が教えた。彼の救いを」
 それが何であるのか。彼女はまた歌う。
「青白い男が救われるには七年ごとに陸にあがり乙女を探す。そして出会えた時にこそ救われる。救いが得られるならば彼は永遠に清められると」
「またその歌なのね」
「いい加減どれだけ聴いたのかしら」
 娘達はいい加減うんざりした顔でぼやくのだった。ゼンタはまさに夢遊病患者のそれになっていた。しかしそれでも歌を続けていく。
「貴方を救うべき乙女は私。私が救うのよ」
「ゼンタ」
 ここでマリーがゼンタに声をかける。
「何?」
「エリックよ」
 こう言うのだった。
「エリックが来たわ」
「マリー」
 ここでそのエリックが出て来た。長身で引き締まった身体に長い金髪と青い目を持っている。精悍な顔をしていているが優しげな目をしている。褐色の猟師の服を着ている。
「エリック、よく来てくれたわね」
「ゼンタがまた」
「ゼンタがどうしたんだい?」
 エリックは娘達に対して尋ねる。
「一体」
「またなのよ」
「あのオランダ人の歌よ」
 彼女達はそれをゼンタに言うのだった。
「あの歌をまた歌っているのよ」
「どうしたものかしら」
「どうしたものって」
 エリックは困った顔をしていた。どうしていいかわからない顔だった。
「もうすぐお父さんも帰って来られるのに」
「えっ、ということは」
「つまり皆も帰って来るのね」
「そうだよ」
 エリックは娘達に対して述べた。
「皆が帰って来るよ」
「嬉しい」
「皆が」
 娘達はそれを聞いて笑顔になる。笑顔になってまた言う。
「じゃあ糸を紡ぐのを早くしましょう」
「急ぎましょう」
「それから皆で楽しく酒盛りをしてね」
「楽しく陽気にね」
 娘達は笑顔で話し合い糸を紡いでいく。そうして次第に外に出ていく。マリーもまた。部屋に残ったのはゼンタとエリックだけだった。二人きりになるとエリックはゼンタに声をかけてきた。
「ねえゼンタ」
「何?」
 冷たい声でゼンタは応えてきた。
「僕は考えているんだ」
「何をなの?」
「結婚のことだよ」
 率直に述べてきたのだった。
「結婚をね。考えているんだけれど」
「結婚!?」
「そうだよ。僕の心はずっと君のもの」
 こう彼女に告げた。
「僕は貧しいけれど猟師としての幸福を持っているから。君にその全てを捧げることはできるよ。君のお父さんは許してくれるのね」
「お父様のことはわからないわ」
 ゼンタの声はやはりつれない。
「私は」
「けれどどうして君は」
 エリックはなおもゼンタに対して言ってきた。
「僕を避けるんだい?」
「避けてはいないわ。ただ」
「ただ?」
「私は行かないといけないのよ」
 そう述べるのだった。言いながら立ち上がる。
「何処に行くんだい?」
「お父様が帰って来るのよ」
 立ち上がりながらエリックに冷たく言う。
「私がお父様をお迎えしなくて誰が行くのよ」
「僕のことはどうでもいいのかい?」
「行かせて」
 エリックを振り切ろうとしてきた。しかしエリックはここで言うのだった。
「私は行かないといけないから」
「見てくれ」
 ここで彼は自分の右手を見せるのだった。見ればそこには幾つも深い傷がある。その傷をゼンタに対して向けるのだった。
「この傷。見てくれ」
「それがどうしたの?その傷が」
「僕は君の為に漁をして傷付いたんだよ。それでも君は」
「私の心を疑うの?貴方に親切にしているのに」
「それでも。君は」
 彼はそれでも言う。
「どうして僕を避けるんだい」
「避けてはいないわ」
「僕は貧しい」
 エリックはまたこのことを言うのだった。
「君のお父さんはお金が好きだ。けれど僕は君を」
「私を?」
「何があっても見続ける。生きている限り」
 苦悩だった。それを告げる。
「生きている限りなのね」
「何度も言っているじゃないか。僕の心は苦しい」
 その苦悩さえ見せる。
「だからどうしても君を」
「私は」
 ここでエリックを見る筈が。彼女はオランダ人の肖像画を見てしまった。今壁にかけられているオランダ人のその肖像画を。見てしまったのだ。
「別に」
「彼か」
 エリックもまたそのオランダ人の肖像画を見た。そして言うのだった。
「また彼を見ているんだね。さまよえるオランダ人を」
「見てはいないわ」
「嘘だ」
 エリックはすぐにそれを否定した。
「それは嘘だ。さっきだってあの歌を」
「気の毒な方なのよ」
 ゼンタは認めた。認めはしたが。
「それだから私は」
「彼は亡霊だ」
 エリックは強張った顔でゼンタに告げる。
「亡霊を好きになろうとしてもそれは何の意味もないことなんだ」
「いえ、亡霊じゃないわ」
 ゼンタはマリー達に対したようにやはりそのことを否定した。
「あの方はそうじゃないわ」
「神よ。この娘を御護り下さい」 
 エリックは半分絶望したように神に祈った。
「どうしてわかってくれないんだ」
「私はわかっているわ」
「わかっていないんだ。さまよえるオランダ人は亡霊なんだよ」
 またこのことを言う。彼も必死の顔だった。
「若し帰って来ても声をかけてはいけない。海の底に連れて行かれるだけだ」
「関係ないわ」
 やはりエリックの言葉を聞こうとはしない。
「そんなこと。私には」
「命が惜しくないのかい?」
「命なんて」
 やはりエリックにとっては絶望の言葉だった。その絶望の言葉が彼の心を苛んでいく。どうしようもないまでに。
「どうしてだ。君はオランダ人に全てを捧げるのかい?」
「ええ、そうよ」
 遂にはっきりと言い切ってみせた。
「私は。もう」
「どうしてだ。君は」
「青白い人」
 もうエリックの声を聞いてはいなかった。恍惚とした顔でオランダ人の絵を見て呟いていた。
「貴方の救いは私。和私しかいないのよ」
「もう駄目だ」
 エリックは絶望に耐えられずに遂にその場を去ろうとしだした。
「僕には」
「その時はもうすぐ」
 ゼンタは彼には目もくれず呟き続ける。
「もうすぐだから」
「そうか、ならいい」
 エリックもここに来て遂に諦めた。
「もう僕は」
 彼は肩を落として部屋を立ち去った。一人になり暫しまたオランダ人の肖像画を見ていたゼンタだがそこに。ダーラントがやって来たのだった。
「お父様」
「娘よ、久し振りだね」
 両手を広げて娘に対して言う。
「会いたかったぞ」
「私もっ」
 笑顔で父に駆け寄り抱き締める。そのうえでまた言い合うのだった。
「待っていたわ、本当に」
「ああ。ところでゼンタ」
「何?」
 父を抱き締めながら問う。
「どうかしたの?」
「うむ。実はな」
 彼はここで今部屋に入って来た者を紹介した。それは。
「彼だが」
「この方は」
「御前の旦那様になる人だよ」
「はじめまして」
 オランダ人だった。肖像画と全く同じ顔をしている。彼の姿を見てゼンタは声をあげそうになった。
「えっ・・・・・・」
「!?どうしたのだ」
「いえ、何も」
 だが言葉は何とか出さなかった。かろうじて止めたのだった。
「何もないわ」
「そうか、ならいいがな」
「ところでこの方が」
「うん、そうだ」
 にこりと笑って娘に告げる。
「この方が御前の夫になる。明日な」
「ゼンタさんですね」
「え、ええ」
 戸惑いながらオランダ人の問いに答える。
「そうですけれど」
「オランダ人です」
 彼の方から名乗ってきた。
「はじめまして」
「こちらこそ」
 ゼンタはオランダ人に対して一礼してみせた。
「宜しく御願いします」
「優しい娘です」
 娘から離れた後で彼女を右手で指し示してオランダ人に告げる。
「何かと世話を焼いてくれます」
「そうですか」
「ゼンタ、見てくれ」
 ダーラントはポケットから金の留め金を出してきた。
「それは」
「この方からの頂き物だ」
 こう娘に話す。
「これだけではないしな」
「これだけではないのね」
「そうだ。全くもって素晴らしい」
 おっとりとした声だった。しかしゼンタは父を見てはいない。オランダ人をじっと見ていた。これだけではないとはオランダ人を見ての言葉だった。
「この方は。それでですな」
「はい」
 オランダ人はダーラントの言葉に頷く。しかし目はゼンタを見ている。
「娘は優しいだけでなく貞節で」
「貞節。そうだ」
 オランダ人はその言葉に反応を示した。目の色が変わったのだ。
「この乙女なのか。私を救ってくれるのは」
「幻みたいなこと」
 ゼンタもゼンタで恍惚となっていた。
「まさかここでこの方に御会いできるなんて」
「苦しみを忘れ憧れを思い出す。暗い夜の営みより一人の女性を仰いだ」
「今日この日に私は報われるのね」
 二人の言葉が混ざり合う。
「心に燃える暗鬱の灼熱が消えていく。愛か、いやこれは」
 オランダ人は言う。
「救済への憧れか。これは」
「我が胸に萌える苦しみ、これは一体」
 ゼンタもまた。ダーラントを他所に二人の世界に入ろうとしていた。
 そして。オランダ人が一歩前に出た。そのうえでゼンタに対して問う。
「あの」
「はい」
「私で宜しいでしょうか」
 その蒼ざめた顔でゼンタに問うた。
「私で。どうなのでしょうか」
「私は父の言葉に従います」
 これがゼンタの返事であった。
「それが私の意志です」
「そうですか」
「ええ。運命が何と言おうとも」
 こうも言うのだった。
「私は従います」
「そうですか。この見知らぬ者に対して」
「そのようなことは関係ありません」
 だがゼンタはまたオランダ人に言った。
「私は。何があろうとも」
「そうですか。この苦しみに満ちた生活が終わり長きに渡って憧れていた休息が貴女の愛によって訪れるというのですね」
「それこそが私の生涯の勤めです」
 ゼンタの言葉は変わらない。
「そう信じています」
「天使が舞い降りた」
 オランダ人は呟いた。
「今ここに。これこそが救済なのだ」
「私にとって運命が舞い降りてきたのね」
 ゼンタもまた呟いていた。
「今まさに」
「ですが」
 ここでオランダ人はふと何かを思い出して。それで言うのだった。
「貴女がこれから私と共に歩む運命がどんなものか御存知だろうか」
「運命ですか」
「そう、その犠牲の大きさを知ったならば。永遠の貞節を守れなければ」
「貞節を守ることは女の聖なる務め」
 ゼンタはオランダ人の言葉に静かに答えた。
「御安心下さい。貴方に何があろうとも私は生涯貞節を誓います」
「生涯ですか」
「はい、死に至るまでの貞節を」
「私は救済を見出した」
 オランダ人はここまで聞いて空を見上げた。その顔は恍惚となっていた。
「悪魔よ不幸の星よ聞くがいい。私は永遠の貞節を見出したのだ」
「この方の船は永遠に休む。休息が今訪れる」
「さて、二人共」
 ダーラントがここで二人に声をかけてきた。
「はい」
「何、お父様」
「外に出よう」
 こう二人に提案するのだった。
「外では皆待っているぞ」
「皆が」
「そうだ」
 今度はゼンタに対して答えた。
「我々が帰って来た御祝いだ。是非楽しもう」
「そうね」
「わかりました」
 二人はその言葉に頷く。ゼンタは笑顔で、オランダ人は蒼ざめた顔で。二人は正反対な顔でそれぞれ頷いて応えるのだった。
「二人の御祝いでもある」
 ダーラントは満面の笑顔だった。
「じゃあ行くか」
「わかったわ、お父様」
「救済に」
 二人は部屋を出てそのまま外に向かう。外に向かい部屋には誰もいなくなった。ただオランダ人の肖像画が闇の中に浮かんでいるだけだった。



肖像画そっくりのオランダ人。
美姫 「ゼンタは運命みたいに感じているかもね」
だが、エリックとの話を聞いていると亡霊という言葉が出てきたけれど。
美姫 「うーん、どうなのかしら」
今回は何事もなくハッピーエンドになるのかな。
美姫 「一体、この先に何があるのかしら」
次回も待っています。
美姫 「待ってますね」



▲頂きものの部屋へ

▲SSのトップへ



▲Home          ▲戻る