『メリー=ウィドウ』




                          第二幕  騒ぎは大きく
「さあさあ皆さん」
 今度はハンナのパリの邸宅で。何やら皆集まっていた。
 公国の人間もいればフランス人もいる。当然ながらあの四国の四人もいた。
「ふむ、これはこれは」
 ロシア人は興味深い顔で邸宅の中を見ていた。邸宅はロシア風だ。
「いい御趣味だ。流石はグラヴァリ伯爵夫人です」
「しかも車はキャデラック」
 アメリカ人は玄関の車に対して言う。
「よい目をしておられる」
「いや、この壷は何と」
 中国人は自国の壷を見て笑みを浮かべている。
「我が国のもの」
「日本のものはありませんか?」
 日本人は少し不安げに公国のスタッフに尋ねていた。公国のスタッフは笑顔で言う。
「これなぞが」
「おお、これはいい」
 日本人は食器を見て目をその食器と同じ形にしていた。
「よくぞこれだけのものを」
「さあ皆様」
 着飾ったハンナが客人に対して言う。
「今宵が歌って騒いで。楽しく」
「ミヴェリモダーセ」 
 集められた合唱団が楽しげに歌いだした。
「ミヴェリダモーセ、ダーセ、ハイアホ!」
「これはヴィリアの歌ですの」
 ハンナはにこやかな顔で客達にこの歌を紹介する。
「ヴィリアの歌ですか」
「はい」
「さあ歌い騒ごう。さあ歌い騒ごう」
 その曲を背にハンナはさらに言う。
「昔ある森にヴィリアという妖精がいたのです。若い狩人が彼女に一目惚れをして」
「それで?」
「それで訴えたのです。こう」
「ああ、ヴィリア」
 ここでまた合唱団が歌う。
「ああヴィリア森の妖精よ、私を捕まえて御前の恋人にしておくれ」
「ヴィリアよ御前どんな魔法をかけたのだ」
 ハンナも歌いだす。
「恋の病の男は訴えました。するとヴィリアは」
「ヴィリアは!?」
「人になって生涯の伴侶となったのです。妖精から人になって」
「奇跡が起こったと」
「そう、奇跡が」
 また客人達に答える。
「そうして二人は末永く幸せになったのです」
「ヴィリアよ、森の妖精よ」
 また合唱団が歌う。
「私を御前の恋人に」
 華やかな歌が場を支配する。その中で男爵は秘書と共に宴の中をしきりに見回していた。
「閣下は来られているよな」
「はい」
 秘書は彼の言葉に応えて頷く。
「確か」
「しかしどちらに?」
「それは私も聞きたいことです」
 秘書は畏まって男爵に言ってきた。
「全世界がそれを確かめたいと思っています」
「いや、それは嘘だろう」
 流石にそれは笑って否定する。
「私達だけだよ、それは」
「その私達が困っています」
 秘書は今度はこう言ってきた。
「閣下が何処におられるのか」
「閣下はいつも急に現われたりされるからな」
 男爵は首を傾げて言う。
「いつも」
「そうだね」
 ここで誰かの声がした。
「いつもね」
「そうなのですよ・・・・・・ってこの声は」
 声がした右の方を見た。するとそこに彼がいた。
「閣下、探していましたぞ」
「僕はさっきからここにいたけれど?」
「またそのようなことを」
 顔を見合わせてそれを否定する。
「ふざけられては困ります」
「全くです。宜しいですか、閣下」
 秘書も口を尖らせて言ってきた。
「そもそも閣下は」
「実は面白い話を聞いてね」
 ダニロはここで話題を転換させてきた。
「面白い話!?」
「あのフランスの外交官」
「ああ、カミーユさん」
「そのカミーユ君が恋をしているみたいだね」
「そんなことですか」 
 男爵はそれを聞いてがっかりした顔になった。
「誰だって恋はするでしょう」
「ところが相手はどうやら人妻らしい」
「それもまたよくあることでは?」
 男爵はそれを聞いても平気な顔であった。自分のことだとは全く思わない。
「フランス人ですから。女性で美しければ誰でも」
「それは偏見ではないかい?」
「いえいえ」
 笑ってダニロの言葉に首を横に振る。
「かつては王様御自ら励んでおられたではないですか」
 国王自ら盛んに不倫をしていた、フランスでは事実だ。アンリ二世とディアヌ=ド=ポワティエもそうであるしフランソ

ワ一世も太陽王ルイ十四世もだ。フランス王は好色な王が多かった。
「そんな歴史がありますから」
「まあサルトルもデュマもね」
 そのうえ哲学者や文豪も。お盛んであった。
「フランス人はそうだね」
「そうですよ。何を今更」
 彼は笑ってダニロに言う。さらに調子に乗って言葉を続ける。
「しかし亭主は馬鹿者ですな」
 まさか自分だとは思いも寄らない。
「妻にあっさりと欺かれて。私でしたらな」
「どうするのかね?」
「ロジョンさんにお勧めします。何でしたらその人妻を自分の奥方にしなさいと」
「ほう、それは大胆な」
 ダニロもその話を面白そうに聞く。
「とんでもない背徳だね」
「背徳だからこそいいのでしょうな」
 男爵は完全に他人事で言う。
「そうすればロジョンさんは伯爵夫人に言い寄ったりしませんし」
「結局はそれなんだね」
「左様、できればですな」
「うん。何かな」
「伯爵夫人です」
 ここを強調してきた。
「そして閣下は伯爵」
「うん、それで?」
「釣り合いが取れているではありませんか」
 今度は爵位を出してきたのである。いきなりダニロに奇襲を仕掛けた形だ。
「違うでしょうか」
「そうかな」
 しかし彼はそれには惚けてみせてきた。
「僕はそうは思わないけれど」
「それは閣下がそう思われているだけで」
 男爵も強引に言葉を進める。
「実際はそうではないのでして」
「といっても何故か彼女の周りに最近よくいるね」
「よいことです」
 ダニロに対して微笑んでみせる。
「できればこのまま」
「いやいや、僕はね」
「何ですの?」
 ここにハンナがやって来た。そのうえでダニロに声をかけてきた。
「何やら楽しそうなお話。大使閣下は何をお楽しみかしら」
「お酒を楽しんでいます」
 手にしているカクテルを見せて応える。
「これは中々」
「左様ですか。それはいいことです」
「いや、美酒は実にいいものです」
 カクテルを手にまた言う。
「これさえあれば世の中は最高のものになります」
「お酒だけで満足ですか?騎士殿」
「はい、満足です」
 ハンナの声の突きをまずはかわした。
「到って」
「欲がないこと。娘達は騎士殿を品定めしてそこから何かを見つけないといけないのに」
「大変ですな、それはまた」
「女性は皆娘ですわよ」
 そっと自分も含めてきた。
「騎士殿が戻って来られればそっと捕まえて」
「そして?」
「その方を生涯の伴侶に」
「いやいや、騎士というものは気紛れです」
 じっと自分を見てきたハンナに対して頓智めいて言い返す。
「嫌ならすぐにお別れですね」
「あら、薄情な」
「人間とはそういうものです」
 彼はあえてこう言う。
「騎士もまた」
「騎士は娘を護るものではなくて?」
「それではどうすれば」
「手を差し出せば」
 ここでさっと手を差し出す。
「その手を握って下さって」
「そして?」
「護って下さるものだと存じていますが」
「ふむ。ですが奥様」
 ダニロはまたハンナに言い返す。言葉のやり取りは微妙に棘もある。
「敵ならば」
「娘が敵だとも?」
「隠れているかも知れません。そう」
 悪戯っぽくハンナを見て述べる。
「娘の仮面を被って。そして」
「そして?」
「騎士を自分のものにしてしまおうと狙っているのですよ」
「賢い娘さんですこと」
 ハンナもまたとぼけてきた。
「そんな娘さんがいたら私ならば生涯の伴侶ですわね」
「おや、娘さんが敵なのですか」
「さて」
 またしてもとぼける。
「そうであるかも知れませんしそうでないのかも」
「見抜く目が必要だと」
「そういうことですわね。さて、それでは」
 じっとダニロの目を見てきた。ダニロも彼女の目を見る。二人は目で対峙するのであった。といっても双方共目は笑って

いた。
「どちらでしょうか」
「奥様」
 しかしここでハンナを呼ぶ声がした。
「はい」
「どうぞこちらへ」
「あら、左様ですか。それでは」
「ええ」
 ダニロとは芝居めいて挨拶をして一旦別れた。ダニロは公国の若い娘達にしきりに声をかける四国の男達を背景に一人佇

む。そこにまた男爵がやって来た。
「何か色々とお話中でしたな」
「大した話ではないよ」
 ダニロは彼にそう答える。
「別にね」
「それがいけないのです。しかしまあ」
 ここで少し呆れ顔で後ろを見て四国の男達を見る。鼻の下を伸ばしている彼等を見て少し溜息をついて述べるのであった


「あの方々はまた。相変わらずですな」
「大国であればある程あれだね」
 ダニロは少しシニカルに述べる。
「欲深くなるね、何事も」
「全くです。といいますか」
 男爵も言う。
「あんなので真っ当な外交ができているのでしょうか」
「答えはもう出ているじゃないか」
 ダニロは四人に聞こえないようにして男爵に言う。
「彼等の外交を見れば」
「確かに」
 男爵もその言葉に頷く。
「見事な外交をしておりますな、全く」
「伯爵夫人も彼等には興味はないしね」
「それは何より」
「女がわからないと何もかもわからない」
 哲学めいたドンファンな言葉を述べてきた。
「当然外交もね」
「では女に溺れれば」
「よく言うじゃないか。女は遊ぶもの」
 これもまたドンファンである。といってもダニロの今の言葉には影はないが。
「だからね。今度もまた」
「左様ですか。それでは彼等はあれですな」
 相変わらずな四人を見て男爵も言う。
「外交に溺れていると」
「そういうことだね」
「言ってくれること」
 そこにハンナが戻ってきていた。そうしてダニロの得意げな言葉を聞いて顔を顰めさせて独り言を呟いていた。
「けれど。見ていらっしゃい」
 また呟いてから何気ない顔でダニロの方に来た。そのうえで彼に問う。
「閣下」
「はい」
 ダニロも平静を装って彼女に顔を向けてきた。そうしてやり取りを再会する。
「何でしょうか」
「私、実は悩みがありまして」
「悩みですと」
 そこにいた男爵が思わず身を乗り出してきた。
「それは一体」
「まあまあ」
 しかしダニロが彼を制止する。
「お悩みですか」
「そうです。実はですね」
 ここで芝居がかってわざと深刻な顔で述べる。
「あの」
 しかしその前にそっと男爵の方を見る。ダニロもそれに気付く。
「左様ですか。それでは」
 彼も男爵に顔を向ける。そのうえで言う。
「卿は少し席を外してね」
「わかりました。それでは」
「うん」
 こうして男爵は席を外し二人だけになった。周りはもうめいめいで勝手にやっているので誰も二人に顔を向けない。
騒が
しいが二人にとっては秘密の話にいい場所になっていた。
「それで。何でしょうか」
「私、実は」
 ここでダニロの顔を見る。
「結婚を考えていまして」
「ほう」
 ダニロはそれを聞いて声をあげる。
「それはどなたでしょうか」
「貴方もよく御存知の方です」
(上手く言ったものだ)
 ダニロはその言葉を聞いて内心呟く。
(確かによく知っているな)
「私もですか」
 しかし本心は隠す。そうハンナに問い返す。
「左様です。だからこそ御聞きしたいのです」
「それでは貴方の忠実な友人として」
 仮面を被って言ってきた。
「その方とのことについて御聞きしましょう」
「妬かれないのですね」
「別に」
(何故妬く必要があるんだ)
 また心の中で呟く。
(馬鹿な話だ)
(わかっている癖に)
 ハンナも心の中で呟く。
(馬脚を現わさないというのならそういう風に仕向けてあげるわ)
 そう言ってまた攻撃を仕掛ける。またダニロに言う。
「それでですね」
「はい」
「再婚前に考えていることがありますの」
 今度はこう言ってきた。
「実はこのパリをよく見回りたいのです」
「ではいい地図を差し上げましょう」
「いえ、地図ではなく」
 それは断ってきた。
「ガイドを紹介して頂きたいのですが」
「ああ、それなら簡単なことです」
 ダニロは笑って応えてきた。
「フランス人でよく御存知の方が」
「私フランスの方は」
「御嫌ですか?」
「口には出せませんが」
 嫌というわけである。勿論本音も何処となく含んでいる。
「ふむ。それでは」
「どなたですの?」
「我が国の大使館に詳しい者が幾らでも」
「それではですね」
 応えながらダニロを見てきた。
「それも閣下に教えて頂きたいのですが」
「おや、そちらまで」
「如何でしょうか」
 じっとダニロを見て問う。
「それで」
「悪くはありませんがただ」
「ただ?」
「まあ何です。ゆっくりお話しましょう」
 いいムードになったところでそれをあえてかわしてみせた。ハンナもそれを感じて内心あまり面白くはなかったがやはり
顔には出さない。
「そうですか。それでは」
「ええ」
「まあワルツでも」 
 ダニロはまた踊りに誘う。
「如何でしょうか。四分の三拍子に合わせて」
「合わせて?」
「貞節もそれだけ忘れて」
「閣下、生憎ですが私は」
 今度はハンナがかわしてみせた。ダニロの言葉が自分に向けられているのは承知だ。
「その四分の一さえ惜しいのです」
「おや、それは身持ちの固い」
「そうですのでそれはお断りします」
「では私も今回はお勧めしません」
「ええ。それでは」
「はい」
 そんなやり取りを続けていた。そんなことをしている間に邸宅の中の一室で何時の間にかカミーユと男爵夫人がこっそり
と密会していたのであった。
「奥様、ここでしたら」
「あら、何でしょうか」
 言い寄るカミーユに対して楽しげに顔を向ける。
「二人きりでお話できますね」
「けれど何故二人で?」
「お分かりだと思いますが」
 夫人ににこりと笑って述べてきた。
「もう」
「さて、私は」
 しかし男爵夫人はその問いにとぼけてみせてきた。
「何も」
「おや、そんな筈が」
「何も思いませんが。それが何か」
「またそんな意地悪を」
「意地悪ではありませんわ」
 楽しむ感じで彼から顔を背けて述べる。
「本当ですわよ。私は何もお話することはありません」
「それではですね奥様」
 しかし彼も伊達にパリの男ではない。巧に人妻の心に入り込んでいく。彼女の耳元に近付いてきてそっと囁くのであった。
「頂きたいものがあります」
「それは何ですの?」
「思い出の品を」
 彼は言う。
「何か頂きたいのですが」
「ではこれを」
 夫人はそれに応えて自分の手に持っている淡い赤の扇を差し出してきた。そこには白く字が書かれていた。
カミーユはそこに書かれている字を読んだ。
「私は貞淑な人妻です」
「そうです」
 夫人もその言葉に頷いてみせる。
「ですから」
「それではこの文字は貴女から離れました」
 こうきた。夫人もそれは読んでいる。
「これで貴女は」
「私は?」
「薔薇のつぼみが五月に咲くように愛の花が心に咲かれたのですよ」
「また御冗談を」
 またしてもその言葉を笑って否定する。
「私の心は今も」
「幸福が芽生えた筈です。これまで気付かなかった不思議な夢が。私はそれに憧れます、しかし」
「しかし」
 顔を向けたのも計算のうちであった。カミーユもそれがわかっていたのでさらに夫人に対して囁きかけるのであった。
完全に狙いが当たったのだった。
「それと共に私は去らねばなりません。私の心の春の光は翳り、蕾は枯れてしまうのです」
「何と悲しいこと」
「そうです、私の心は悲しみに覆われます」
 あえて悲観的に言う。
「ですがそれを避けることもまたできます」
「それはどうすれば」
「貴女の力が必要です」 
 じっと夫人の目を見詰めてきた。夫人も見詰め返す。
「貴女の力こそが」
「私の力ですか」
「そうです。奥様」
 彼女の両肩に手を置いてきた。ドレスから露わになっている両肩に。
「ここで私と共に」
「貴女と共に」
「共に楽しい一時を。宜しいですか?」
「それでも私は」
「貞節は先程貴女から離れられたではありませんか」
 ここで先程のことを出してきた。
「ですから貴女は」
「私はどうすれば」
「ここで私と共に」
「貴女と共に」
「楽しい一時を」
 そのまま逢引に入ろうとする。しかしここで誰かが来た。
「ふむ。ここなのか」
「あの声は」
 男爵夫人は今聞こえてきた男の声に眉を顰めさせる。他でもない、自分の夫の声だったからだ。
「いけない、このままでは」
「確かに」
 カミーユもそれに頷く。
「早く隠れなければ」
「そうですわね」
「しかし間抜けな話だな」
 男爵はここにカミーユがいることはわかっていた。しかしもう一人についてはわかってはいないままであった。
本当に彼が言う通り間抜けなことに。
「何がですか?」
「だからその人妻の夫がだよ」
 自分のことを何も気付かないまま秘書に対して言う。
「ここはパリだよ。フランス男がしたなめずりしている場所に自分の妻がいるのに警戒一つもしないなんて。
狼に餌をやるようなものさ」
「狼ですか」
「フランス男は美女と美食と美酒に関しては狼さ」
 実に欲張りな狼である、
「だから危険なんだよ。わかるかね」
「はあ」
「しかしまあ。誰なのか」
 その人妻に対して思う。
「顔を見てみたいな」
「あれ、男爵」
 ここでハンナと踊り終えたダニロがふらりとやって来た。
「どうしてここに」
「おや、閣下」
 男爵も彼に顔を向けて声をあげる。
「どうしてこちらに」
「いや、少し涼みにね」
 そう彼に答える。
「来たのだけれど一体何をしているんだい?」
「まああまり趣味のいいものじゃありません」
 自分でもそれは自覚していた。
「下世話なものです。カミーユさんが人妻に言い寄っていまして」
「ふん」
「その相手が誰か確かめてみようと。こうやって」
 扉を指差す。そこの鍵穴から覗き見るつもりなのだ。
「確かめてみます」
「確かにあまり褒められたことじゃないね」
 ダニロもそれに対してはこう言う。
「どうにも。しかし」
「はい」
「それも外交の一つだからね、弱みを握るのも」
「そういうことになります。おや」
 ここで男爵は覗き見ながら声をあげた。
「これは」
「どうかしたのかい?」
「何か何処かで見た奥方です」
「公国の誰かかな」
「そのようです。けしからんことですな」
 急に口を尖らせてきた。
「我が国の女がフランス男に篭絡されるなぞ。いや全く」
「しかも人妻だよね」
「そうです」
 上司の言葉に頷く。相変わらず鍵穴から部屋の中を覗き込みながら。
「全く以ってけしからん」
「それで誰なのかな」
「むっ、あのドレスは確か」
 ここであることに気付いた。
「あれは」
「誰のものかわかったのかい?」
「私の妻のものです。ということは」
「男爵、それは若しかして」
 ダニロは自分の前で覗き続けている男爵に対して尋ねてきた。
「卿の奥方が」
「そんな馬鹿な、こんなことが」
「けれど卿の奥方はドレスを他の人に貸すような方かい?」
「いえ」
 その言葉には首を横に振る。
「そんなことはありません」
「それでは間違いないんじゃないかな」
「しかしカミーユ氏が見えません」
「逃げたのかも」
「いや、隠れているのです」
 きっとした顔で鍵穴から顔を離して立ち上がる。そうしておもむろに扉を開けた。
するとそこにいたのは何とハンナとカミーユであったのだ。
「あれっ!?」
「これは一体」
 ダニロと男爵は部屋の中の二人を見て目を丸くさせた。
「妻は何処に」
「奥様、どうして貴女が」
「何でもありませんわ」
 ハンナは何気なくを装ってこう言ってきた。
「何でも」
「そんなわけがあるのかな」
 何故か、男爵とカミーユにはそう思えるものでダニロはハンナに不機嫌な顔を見せてきた。
「果たして」
「何が仰りたいのですか?」
「いや、別に」
 剣呑な調子でそれには答えない。
「ただね。どうも」
「言いたいことがおありでしたら仰っては?」
 ハンナもムットした顔で言い返してきた。
「お互いにとってよくありませんわよ」
「それは詭弁ですな」
 しかしダニロも負けてはいない。こう言うのだった。
「それは」
「では私の妻ではないと」
「ええ、そうです」
 男爵にカミーユが慌てて相槌を打ってきた。
「ですから」
「まあ私の妻でなければよい・・・・・・というわけでもない」
 そう言ってカミーユに顔を向けてきた。
「よいですかな」
 怖い顔で彼に言う。
「何でしょうか」
「今後こういうことがないようにして頂きたい」
「それはどういうことで?」
「奥様にお近付きになられぬよう。おわかりでしょうか」
「何だ、そんなことですか」
 しかし彼はそれを聞いて何か肩のつかえが取れたような顔を見せてきた。そのうえで男爵に対して答えるのであった。
「それでしたら」
「納得して頂けましたか」
「はい」
 にこりとして頷く。『彼女』には興味がないから当然であった。
「そういうことでしたら」
「よくぞ退いて下さった」
 男爵は何もわからずに頷く。
「おかげで私の悩みが一つ消えました」
「それは最初からなかったのでは?」
「ははは、確かに」
 別の、本当の悩みが当たっているのはこの際気付いていないからどうでもよかった。
「そうですな。それでは」
「はい、それでは」
「何もなかったということで。閣下もそれで宜しいですな」
「まあね」
 不機嫌な顔で男爵に応える。
「じゃあそういうことね」
「はい、それで」
「あなた」
 ここで平気な顔をして男爵夫人がやって来た。
「どうなさったのですか、このような場所で」
「いや、何もないよ」
 しかし男爵は呑気な顔で妻にこう応えた。
「何もね」
「左様ですか。だったら宜しいのですが」
「そう、何もなかった」
 ダニロはハンナをじっと見ながら言った。目はかなり剣呑になっている。
「何もね」
「随分棘のある物言いですこと」
「そうでしょうか。私は普通ですが」
「隠してもわかります」
 ハンナも負けじと言い返す。
「本当のことなぞ思いもしないで」
「本当のこと!?」
「ええ、そうですわ」
 ここで彼女は賭けに出た。その賭けとは。
「実はですね」
 男爵夫人に対して言ってきた。
「はい」
「何もなかったというわけではないのです」
「ちょっと奥様」
 男爵夫人はその言葉に慌ててハンナに囁いてきた。実は男爵夫人の身代わりにハンナが忍び込んでいたのである。
夫人は部屋の窓から逃げ去ってここまで来ていたのである。
「それは言わない約束の筈」
「御安心下さい、貴女のことではありません」
「本当ですか!?」
「ええ」
 にこりと笑ってそう返す。
「ですから。御任せ下さい」
「わかりました。それでは」
「はい。皆さん」
 一同に対して宣言してきた。
「お話することがあります」
「何だ!?」
「何事!?」
 それを聞いてあの四人もやって来た。酒と美女に酔い痴れてかなり恥ずかしい顔になっているがそこままやって来たのであった。
「全く以って」
「何と言うべきか」
 男爵と秘書は彼等の姿を見て囁き合う。
「意外と彼等もその祖国も籠絡させ易そうだな」
「日本はあれですけれどね」
 ここで秘書は言ってきた。
「忠実な友人だと言っておけばそれだけで見返りが凄かったですが」
「後の三国も思ったより簡単そうだな」
「全くです。ロシアは頭を下げて友好的にしていればいいですが」
「アメリカと中国は適度にあしらうことも接近することも可能だな」
「ええ。まあ小国のやり方を」
「していくとしよう」
 そんな話をしていた。ダニロはその横でじっとハンナを見ている。
「それで一体」
「私、決めました」
 高らかにこう言うのだった。
「婚約者を発表します。密会の場を見つかってはもう隠しようがありません」
「密会相手というと」
「まさか!?」
 カミーユと男爵夫人はその言葉を聞いてお互いの顔を見合う。
「僕のことかな」
「まさか」
「私の婚約者とは」
 ハンナは彼等をよそに言う。それは。
「この方です」
「えっ!?」
「何と!」
 それは何とカミーユであった。一番驚いたのは彼であった。
「僕が!?何時の間に」
「既に決まっていたではありませんか」
「そうですの!?」
「いや、全然」
 唖然とした顔で夫人に応える。
「今はじめて聞いたけれど」
「はじめて!?」
 それを聞いて最初に顔を顰めさせたのはダニロであった。
「何だそれは。幾ら何でも相手がはじめてというのは」
「何ということだ!」
「フランスに先を越されただと!」
 これに今更のように怒りだしたのは例の四国の者達であった。
「けしからん!」
「やはりフランス人はフランス人ということですな!」
「また勝手なことを」
「自分達は何なのだか」
 そこに来ていた客達は口々に呟く。
「どっちにしろ気付かないのが悪いのではないのか」
「全く。何処までも我儘な」
「そんなことはどうでもいい」
 しかし男爵は狼狽しきった顔で彼等に対して言うのだった。
「これは大変なことだぞ」
「大変なことですか」
「フランスに金を持っていかれるのだぞ」
 本音を全く隠すことなく言ってきた。
「それでよいのか。我が国は破産だぞ」
「破産って」
「幾ら何でも極端な」
「クラヴァリ伯爵家の資産はな」
 呑気な彼等に対して言い返す。狼狽しきった顔が真実味をそれだけで伝えていた。
「ルクセンブルグの国家予算レベルなのじゃぞ」
「へっ!?」
「ルクセンブルグ並!?」
「左様」
 男爵は言う。
「これでわかったじゃろう。だからじゃ」
「それを早く言って下さい!」
「それでしたら」
「ずっと前から言っておるだろうが」
 男爵はいい加減頭に来て半ば彼等を怒鳴りつけた。
「それを聞いておらんだけじゃ」
「聞くも何も」
「こんなのって」
「我が国の外務省はまともな人材がおらんのか?」
 あまりにも酷いので秘書に囁く。
「あの四国と同じレベルだぞ」
「もっと低いのでは?」
 秘書も呆れ果てて言う。
「イギリスかオーストリアに研修に行かせますか」
「そうじゃな。このフランスでも本当はいいのだが」
 どの国も欧州においては外交巧者で知られている。フランスも長い間イギリスやオーストリアと渡り合ってきている。
かつてはタレーランという性格も行いも非常に悪いが天才的な外交官も生んでいる。ナポレオンさえ手玉に取った男である。
「遊んでばかりなのかな」
「困ったことです」
「しかも。最も困ったことに」
 彼はまた言う。
「どうしたことか」
「伯爵家の財産なぞどうでもいい」
 しかしダニロは別のものを見ていた。
「しかしこれは」
「そうです、閣下」
 男爵は慌ててダニロを急かす。
「このままでは富はフランスに」
「だからそれはどうでもいいんだ」
「よくはありません」
 男爵は怒って伯爵に言い返す。
「それこそが」
「全く。カミーユさん」
「はい」
 何が何だわからないカミーユが彼女に応える。
「何でしょうか」
「本当なのでしょうか。これは」
「いえ、僕にもわからないんですがね」 
 こうした場では本来有り得ない程の非常識な返事が返って来た。
「何が何だか」
「そんなわけがあるか!」
「君は出し抜いたのだろう!」
「いや、出し抜くも何も」
 今にも掴みかからんばかりの四国の者達に対して言う。
「僕も今はじめて知ったことで。そもそも」
「では皆様」
 ハンナが強引に言ってきた。
「フランス風に。エレガントに参りましょう」
「ふん、誰が」
「全く」
 四人は真っ先に反対を述べてきた。
「そんなものの何処が面白いのか」
「願い下げですぞ」
「やはりここは我が国の」
「いやいや我が国の」
「どれにしろ同じじゃないか」
 男爵は四人の話を聞いて一人言う。
「しかしこれは」
 カミーユはまだ戸惑っている。その中で述べる。
「僕が結婚などと」
「それはどうでしょうか」
 しかしハンナはそれには悪戯っぽい笑みで返す。
「果たしてどうなるか」
「どうなるかとは?」
「何かおかしいですぞ」
「おかしくはありませんわ」
 ハンナはまた軽い調子で四人に返す。
「殿方が右と言えば女性は左へ。それがフランス風なのですから」
「左様ですか?」
「いいえ」
 カミーユは男爵夫人の問いに首を横に振る。
「初耳です」
「そうですよね。何が何だか」
「ここは落ち着こう」
 ダニロはその中で一人独白していた。
「さもないと余計にな。大変なことになる」
 そう言ってハンナに顔を向ける。冷静さを保ちながら声もかける。
「奥様」
「何でしょうか」
 しれっとして彼に返す。
「私に何か御用で?」
「ええ、勿論です」
 笑みがいささか引きつっているがそれでも言うのだった。
「御結婚の御祝いに一曲宜しいでしょうか」
「あら、曲をですか」
「ええ、歌をです」
 怒りのあまり言葉を言い間違えた。ハンナはそれを見抜いて内心とても楽しげである。
「宜しいですね」
「ええ。それでは御願いします」
「それでは」
 ダニロは一旦態度をあらためる。そうして静かになった場で歌いはじめるのであった。
ハンナとの間には相変わらず丁々発止の様子であるがそれは誰にも気付かれてはいない。
「昔あるところに王子と王女がおりました。二人は愛し合っていたのですが王子は黙ったままでありました」
「それは何故ですの?」
「さて」
 ここでのハンナの問いにはとぼけてみせる。
「それはともかくそれを恨んだ王女はとんでもなく残忍なことを思いついたのです」
「銃で撃った」
「毒饅頭を食べさせた」
「酒で酔わせて河へ」
 米中露三国の者達がそれを聞いてとんでもないことを言い出した。
「いやこれはまた恐ろしい」
「大変なことですな」
「彼等の方が恐ろしいとは思わないか?」
 男爵は彼等の言葉を聞いて秘書に囁いた。
「どう思う?」
「その通りですが彼等の耳には入りませんので」
 秘書は男爵に苦笑いでこう返してきた。
「それはまあ」
「幸せなことだ。どんな耳をしているのか」
「しかし残酷な仕打ちとなりますと」
 とりあえず物騒ではない日本の外交官が口を開いてきた。
「浮気でもされたのですか?当てつけに」
「そう、その通り」
 ダニロは彼の言葉に応える。そのうえで歌を再開させる。
「その手を他の男に与えたのです」
「何だ、そんなことか」
「到って大人しい」
「何処が残酷なのやら」
 また三国の者達が言う。男爵もそれを聞いてまた秘書に囁く。
「彼等と戦争をしたら何をされるかわからんな」
「実際に相手は恐ろしい目に遭っていますが」
 秘書は歴史を知っていた。それが答えであった。
「それこそもう」
「困った話だ」
「それで王子は我慢できなくなり叫んだのです」
「何とですか?」
 ハンナは楽しげにダニロに問う。
「一体全体」
「貴女の為さることは間違っています」
 きっとハンナを見据えて言ってきた。これで王子と王女が誰かはっきりした。
「貴女は他の女達と同じように浮気な方です」
「おやおや」
 ハンナはしれっとした様子で話を聞き流すふりをした。
「それはまた」
「しかし。王子はさらに言ったのです」
「何と」
 いい加減鈍い日本の男が尋ねてきた。何かハラハラとしている。
「何と言ったのですか、王子は」
「しかしそれを私が恨んでいると思ったら間違いだと。夢にも思わないと」
「負け惜しみだな」
「そうですね」
 男爵と秘書はそれを聞いて囁き合った。
「それ以外の何者でもありませんな」
「全くだ」
「最後に王子は言い残しました。あの人と一緒になればいい。御似合いだと。そう言い残して風と共に去ってしまったので

す」
「あら、そうですの」
 自分のことを言われているとわかっているので内心思うところがあるにしろそれを隠しているハンナであった。まるで鷹の爪のように。
「残念なことです」
「それでは私も王子に倣い」
 さっと身を翻してきた。
「これでお邪魔しましょう」
「あら、どちらへ」
 ハンナはそれに問う。ダニロはシニカルに笑ってそれに応えるのであった。
「馴染みのマキシムへ。では」
「ではって閣下」
 男爵が何とか止めようとするがダニロの動きは速かった。瞬く間にその場を後にしたのであった。
「全く。気紛れなのだから。何とかしなければなりませのね」
「そうですわね」
 張本人のハンナがそれに応えてきた。
「ここは何としても」
「あの、奥様」
 流石に今の言葉には呆れて男爵は言ってきた。
「それはですね。貴女のことなのですが」
「実はですね、私」
 彼の言葉を無視して言ってきた。聞いてはいない。
「そのお話の本当の最後を知っているのです」
「別れで終わりではなかったのですの?」
「はい」
 にこりと笑って男爵夫人に答える。
「その結末が書かれている本はパリのある場所にあります」
「それは一体!?」
「何処なんだ!?」
「そもそも話がずれてきていないかな」
 四国の者に混じって完全に蚊帳の外に置かれてしまっていたカミーユが呟く。
「僕のことは一体」
「貴方のことはなかったことにしましょう」
 男爵はさりげなく無茶苦茶な提案をしてきた。
「それで如何でしょうか」
「如何も何も僕にも何が何だか」
「さあ皆さん」
 ハンナは彼をよそにその場にいる一同に声をかける。
「マキシムへ。いざ」
「畏まりました」
「それでは」
 何はともあれお祭り騒ぎの場はマキシムへ移ることとなった。これはこれで大騒動となるのであった。
しかし楽しい大騒動でもあるのだった。



うーん、どうなるんだろうか、これ。
美姫 「本当に結末はどうなるのかしら」
いやー、予想し辛いけれど今回は悲しい結末じゃないとの事だし。
美姫 「そうなってくると……」
どうなるのか、次回を待ってます。
美姫 「待ってますね〜」



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