『メフィストーフェレ』




                               第四幕  ファウストの死

 青く澄んだ美しい川である。その周りは草木、それに様々な色の花に包まれ優しい青色の月の光に照らされている。その川の中に小舟があった。
 小舟の中に美しい男女がいる。そして共にいる青い髪の川の精霊達に囲まれながら手と手を取り合ってそのうえで愛の言葉を紡いでいた。
「エレナ」
「パンタリス」
 男と女は見詰めあいながらそれぞれの名前を呼んだ。
「動きを止めた月が優しい青い光で照らし」
「香油がかぐわしい香りを起こし」
「そして今精霊達が共にいて」
 その共にいる精霊達のことも言う。
「そして白鳥達も」
「ええ、白鳥達も」
 見れば小舟の周りに白鳥達が来ていた。囲む様にして泳いでいる。
「そしてその中で私達は」
「ここで歌い」
「清らな中で」
 パンタリスが周りをうっとりとした顔で見て言った。
「精霊達よ」
「川の精霊達よ」
 エレナも言う。
「歌を」
「セレナーデを」
 その彼等を遠くから見ている者達がいた。ファウストとメフィストである。ファウストは愛の中にいる彼等を見てそのうえでメフィストに対して言うのだった。
「あれは」
「御存知だと思いますが」
「パンタリスとエレナか」
「はい」
 まさにその通りだというのである。
「あのトロイアのです」
「そうだな。あの二人がここに」
「人の世では結ばれなかった二人ですが」
「しかしこの世界では」
「ああして永遠の愛を楽しんでいるのです」
 言いながらその手に黄金の林檎を出してみせた。それをファウストに差し出して言うのであった。
「如何ですか?」
「そのトロイアの黄金の林檎か」
「はい、この林檎は絶品ですが」
「かつて神々が食べた林檎を」
「如何ですか?」
 そのことを尋ねるのである。
「宜しければ」
「それなら」
 その林檎を受け取ってである。食べてみるとであった。普通の林檎よりもさらに美味かった。ファウストは林檎を食べながら二人を見続けていた。
「菫の花が咲き乱れ」
「精霊達が歌い」
 二人はその恍惚の中で言葉を交えさせている。
「この月の中で」
「永遠に」
「さて」
 メフィストは二人を見ながらファウストに声をかけてきた。
「この世界はです」
「神話の世界だね」
「そうです。如何でしょう」
「夢の中にいるようだ」
 ファウストは素直に己の感情を述べた。
「ここにいることは」
「そうですね。そして」
「そして?」
「これは忠告になります」
 こう前置きしての言葉である。
「それも賢明な」
「賢明な?」
「私達二人は今にいますが」
「うん」
「それでも自分達の運をそれぞれ別方向で見ています」
 そうだというのである。
「このことを忠告させて頂きます」
「別のものをか」
「しかし」
 ここでメフィストは顔を顰めさせて言うのであった。
「ここはです」
「ここは?」
「今一つ合いません」
 こう言うのである。
「どうも」
「どうもですか」
「そうです。ブロッケンで魔女達と共にいるとです」
「その方が君の性に合っているのかい」
「私は神聖ローマの風土が合っていますね」
 そちらの方だという。彼の言葉である。
「はっきり言いまして」
「帝国の方がかい」
「イタリアもそうですがギリシアには馴染みがありません」
「縁がないのかい」
「やはり帝国です」
 そこだというのである。
「どうもです」
「そこなのかい」
「ですから」
 さらに言う彼だった。
「ここの香りも好きにはなりません」
「花や香油の香りも」
「あのハルツ山のごつごつとした匂いに刺激の強いタールや樹脂の匂いの方がです」
「ああした香りの方がいいのかい?」
「博士は違いますか?」
「私はこの方がいい」
 そうだというのである。
「イタリアも好きだが」
「帝国の人間はイタリアが好きですね」
「それは否定しないよ」
 はっきりと答えたファウストだった。
「正直なところね」
「イタリアのあの晴れやかな空も爽やかな風も好きではありません」
「帝国のあの寒く暗い世界がいいのかい」
「そうなのですよ。私が」
「そんなにいいものか」
 ファウストにはわからない話だった。それで首を傾げさせていた。その彼のところにである。
「ようこそ」
「魔神ね」
「北の国の」
 川の精霊達が二人のところに来た。そのうえで声をかけてきたのである。
「そこから来たのね」
「ようこそ」
「そちらの奇麗な方は」
「ファウスト博士という」
 メフィストはやや勿体ぶった口調で精霊達に彼を紹介した。
「帝国の高名な学者だ。
「学者さんなのね」
「見たところ立派な方だけれど」
「そう、そしてだ」
「そして?」
 メフィストは精霊達に対して問う。
「エレナ王妃は何処かな」
「王妃様だったら」
「パンタリス様と一緒にいるけれど」
「あれ?」
 小舟の方を見るとだった。彼女はいなかった。パンタリスもである。
「どちらに?」
「どちらに行かれたのかしら」
「私はここに」
 するとそこにであった。そのエレナが出て来たのであった。優雅な微笑みを浮かべてそのうえでファウストの前に来ていた。
「凛々しい方ですね」
「この娘達にも話したが」
 メフィストは今度はそのエレナにファウストを説明しだした。
「この方はファウストといって帝国の有名な学者で」
「では頭の方も」
「最高の頭脳を持っておられる」
 こう紹介するのだった。
「それは私が保障する」
「伝説の美女エレナが」
 ファウストはそのエレナを見ながら話していた。
「今私の前に」
「如何でしょうか」
 メフィストは恭しくファウストに問うてきた。
「彼女は」
「何と美しい」
 こう答える彼だった。エレナの顔を見て恍惚となっている。
「まるで月の様だ」
「今空にある青い月の様に」
「そう、その通りだ」 
 エレナを見ながらメフィストの言葉に答える。
「神話にある以上の美しさだ」
「有り難うございます」
 エレナはファウストのその言葉を受けて優雅に微笑んできた。
「そのお言葉受けさせて頂きます」
「それはどうも」
「そして」
「そして?」
「ここで私は言いましょう」
 エレナを見ながらの言葉である。
「貴女に対して」
「私に対して」
「そう、貴女に対してです」
 こう言ってからであった。
「永遠の美の理想を現わす貴女に対して」
「そこまで仰って下さるとは」
「一人の男が今貴女を見ています」
 そうしているというのである。
「そして」
「そして?」
「その目を見せて下さい」
 こうも言ってみせたのである。
「その目をです」
「私の目を」
「月の如く清らかに美しく太陽の様に激しい」
 それがエレナの目だというのである。
「その目をです」
「では私もまた貴女に」
「私は忘れるべきなのか」 
 しかしここでファウストはふと呟いた。
「彼女のことを。もう」
「それでは私達は今は」
「愛がここでもまた」
「生まれようとしているのね」
 その二人を見た川の精霊達はこう言うのだった。
「新たな愛が」
「ここで」
(私は)
 今度は心の中で呟くファウストだた。
(マルゲリータを)
「ふむ、どうやら」
 メフィストはその彼を見て呟いた。
「これは今一つだな」
「私は」
 ここでまた言うファウストだった。
「貴女を美しいと思っています」
「はい」
「ですが」
 ここで、あった。言うのであった。
「それでもです」
「どうかされたのですか?」
「今は貴女をそう思うだけです」
 それだけだというのである。
「美しいと」
「それで充分でないのですか?」
「いえ、そうではありません」
 その言葉は何処か醒めている。
「私は貴女を愛する気持ちはありません」
「それはこれからでは?」
「いえ、ですが」
 ですが、というのである。
「私はそれでも」
「愛して下さらないのですか?」
「やはりな」
 今の彼の言葉を聞いて納得しているが残念な顔で呟くメフィストだった。
「これでは」
「ですから今はここで」
「ここで?」
「宴を楽しみましょう」
 そうするだけだというのである。
「それを」
「宴をですか。愛ではなく」
「はい、宴です」
 あくまでそれだというのである。
「宴をです」
「わかりました」
 エレナは残念そうだったがそれでも頷いた。
「それでは私もまた」
「宴を楽しんで下さいますね」
「はい、それで」
「では私達も」
「まずはお酒を用意して」
「そして御馳走を」
 ニンフ達はその周りで口々に言っていく。
「そうしましょう」
「今ここで」
「そして私達も」
「今はそれしかないな」
 メフィストも妥協であったが決断を下した。そのうえでの言葉である。
「それでは博士」
「うん」
「宴を開きましょう」
 こうファウストに対して告げるのだった。
「それで宜しいでしょうか」
「わかった」
 そしてファウストもそれでいいとしたのであった。
「それじゃあ今から」
「先程は黄金の林檎を出しましたが」
 そのことも話す。
「今度はです」
「何だというのだい?」
「黄金酒にそれと幾ら食べても尽きることのない肉に」
 そうしたものを出すという。
「あとは黄金の葡萄で如何でしょうか」
「神の食べる御馳走をか」
「そうです、ギリシアの神々の御馳走をです」
 それをだというのである。
「それで如何でしょうか」
「わかったよ。それじゃあ」
「はい、それでは」
 それに頷いてであった。こうして話を決めてだった。
 メフィストが右手の親指と人差し指を鳴らすとそれで美酒が入った杯と肉が置かれた皿が出て来た。それに葡萄もだ。どれもオリハルコンの皿である。
 その上の美酒と馳走を一同で食べていく。しかしファウストの顔は何処か空虚でありメフィストもそれを察して難しい顔をしていた。何かが決定的に変わってきていた。
 ファウストの書斎である。彼はその自分の書斎の机に座って物思いに耽っている。そしてその後ろにはメフィストが立っていた。相変わらず赤いタキシードに赤いバイオリンケースを背負ってキザな出で立ちである。
「巡れ巡れ」
 メフィストは立ちながら言っていた。
「尊大な思考よ」
「私はだ」
 ファウストはメフィストに背を向けながら述べていた。
「多くの世界を回ってきた」
「その通りです」
 メフィストも彼の言葉に応えて述べる。
「実に多くの世界を」
「そうだ。しかしだ」
「しかし?」
「この世の幻想も見た」
 それもだという。
「そして飛び行く欲望の髪を捕まえてきた」
「愛の歌よ」
 メフィストもここで言う。
「魅惑と栄光の記憶よ。あの誇り高い魂を滅びへと連れ込むのだ」
「多くのものを見てきた」
「博士」
 ファウストに対してさらに言ってきた。
「それでなのですが」
「うん、一体」
 ファウストは物思いに耽ったままだ。彼の方を見ようとせず背を向けたままである。
「何なんだい?」
「貴方は欲し楽しまれましたね」
「そうだったな」
 昔を懐かしむ言葉を出しはした。
「思えば」
「しかしまだ言っておられませんね」
「何をだい?」
「あの言葉をです」 
 それをだというのである。
「過ぎ行く瞬間に向かって」
「その言葉は」
「止まれ、御前は美しい」
 この言葉であった。
「この言葉をです」
「私はあらゆる人間の神秘を味わったが」
 ファウストの言葉には明らかに『だが』があった。
「現実も理想も乙女の愛も」
「まさに全てをです」
「だが現実は苦しみであり理想は夢だった」
 そうであったと。遠いものを見ながら語るのであった。
「人生の最後のそのまた最後の時に踏み込んで」
「それからは?」
「つまり夢の中で魂は既に喜びに浸っている」
「ではあの言葉は」
「しかしだ」
 また言葉を暗転させるのだった。光から闇へ。
「無限の広がりを持つ静かな世界の王」
「それが貴方だと」
「私は豊かな実りを産む人々にだ」
 その彼等に思いを馳せてである。
「この命を捧げたい」
「そうしたことをして何になるのですか?」
「私は賢明な規律と共に多くの人々や羊達、そして家や畑や町が生まれ出ることを望む」
「創造ですか」
 それについては何の意味も持たない、メフィストは悪魔としてそれを否定しようとした。実際にその言葉にはシニカルなものを含ませてきていた。
「そうしたものはです」
「意味がないというのだな、君は」
「全ては美しい破壊の後にあるのです」
 こう言うのである。
「既成のものを全て壊してです」
「壊すことはない」
 ファウストは前を見ながら述べた。
「それはだ」
「ないというのですか?」
「そう、ないんだ」
 あくまでこう言うのだった。
「この夢が私の生涯の聖なる歌であり最後の希求であることを」
「どうだというのですか?」
「それを望んでいるのだ」
 これこそが今のファウストの望みであった。
「私は私の夢が人生の聖なる歌であることを望んでいる」
「嫌な予感がする」
 メフィストはそれを聞いて首を捻りだした。暗い顔になってである。
「まさかとは思うが」
「これは」
 ファウストは上を見上げた。
「光が見える」
「やはりか?」
 その彼を見て顔を顰めさせるメフィストだった。
「ここで善を見るのか?」
「光り輝く丘の上に輝かしい人達がいる」
「まさにそれだ」
「空に賛歌が聞こえる」
「悪魔の歌では間違いなくない」
 確信せざるを得ない言葉だった。
「それでは」
「かくも輝かしい黎明の聖なる光の中で」
 ファウストは上を見上げながら恍惚としだしていた。
「至福を感じている。私は自分の中で気高い言葉に尽くせぬ時を感じている」
「用心しなければ」
 メフィストはいよいよ身構えていた。
「善と悪、どちらが勝つかわからない」
「私はあの中に」
「博士」
 悪魔はすぐに彼に後ろから声をかけた。
「宜しいでしょうか」
「何だい?」
 ここでも彼には顔を向けないのだった。
「今一体何を」
「お好きな場所へ」
 旅を勧めてきたのである。
「どちらに行かれますか?トルコですか?それとも東のヒーナですか?」
「あの国にか」
「そう、あの国です」
 中国のことである。中国のドイツ語読みがヒーナなのである。
「あの国に今から」
「いや、今はいい」
「あの国程豊かな国はありませんよ」
「いや、それはいい」
 そう言うしかないファウストだった。
「それはもう」
「いいのですか」
「今の私は」
 彼がこう言うとであった。すると。
 上からである。声がしてきたのであった。
「幸いなるかな」
「我等の主よ」
「天使に聖人達よ」
「そしてこの世の主達よ」
「やはり来たか」
 その声と上から降り注ぐ光を受けていよいよ眉を顰めさせるメフィストであった。
「ここで」
「さあ、今こそ祝福を」
「我等の主よ」
「博士」
 メフィストは書斎の中を一変させてみせた。緑と紅の世界であり緑の草原の中に淡い紅のもやが漂い香りは薔薇のものである。実際に周りには薔薇が咲き誇っている。
 そして近くに青い海が見えそこから濃い青の髪の半裸の美女達が来ていた。悪魔はそれを見せたうえでファウストに囁くのであった。
「御覧になって下さい」
「何をだい?」
「この美しい世界を」
 彼が今出した世界をだというのだ。
「この世界をです」
「いや、今の私は」
「愛の歌を聴くのです」
 その美女達の愛の歌をである。実際に彼女達は艶かしい身体で艶やかな歌を歌っていた。
「かつて貴方が楽しまれたものを」
「そう、かつてだ」
「今もです」
 そうだというのである。
「ですからこの世界へ」
「主よ」
「聖人達の主よ」
 また天使達の声が聞こえてきた。そして彼等もまた姿を現わしてきた。今地上は悪魔が出した美の世界があり天はその天使達が輪になってそのうえで光の中で歌っていた。そしてファウストはそれを見てである。
「止まれ」
「止まれ!?」
「御前は美しい」
 ついに言ったのである。
「御前は美しい」
「馬鹿な」
 ファウストの見ているものを確かめてだ。メフィストは唖然として呟いた。
「何故だ、何故こんなことが」
「そう、御前は美しい」
 また言うファウストだった。
「永遠に」
「翼のある黄金の天使達の主よ」
「輝かしい主よ」
「そうなのだ」
 ここでファウストは手を伸ばした。そのうえでそこにある福音の書を取ってだ。そのうえでそれを手に持って。
「これこそが私の砦なのだ」
「あれだけの快楽を味わいながらもだというのか」
「慈悲深い神よ」
 ファウストはその書を手に言うのだった。
「私を貴方の下へ」
「全ては終わったというのか」
 メフィストも今の状況を認めるしかなくなってきていた。
「まさか」
「聖なるかな、聖なるかな」
「永遠の宇宙の調和よ」
「そう、調和なのだ」
 ファウストは輝く彼等の歌声を聴きながら呟く。
「全ては。創造と調和と」
「破壊を否定するというのか。その美しいものを」
「私は賛歌を愛する」
 彼が次に愛すると言ったものはこれだった。
「そう、それをだ」
「さあ、祝福を」
「これで」
 天使達はあるものをファウストに降り注いできた。それは黄金や青の羽根達であり紅や白の薔薇の花びら達である。そうしたものを降り注がせてきたのである。
 ファウストはそれを静かに受けている。メフィストはもう観念するしかなかった。
「思えばこれも運命なのか」
 その羽根と薔薇の花びらを受けるファウストを忌々しげに見ながらの言葉である。
「全ては」
「私は今からそこへ」
 ファウストは上を見上げたまま静かに微笑んでそのうえでゆっくりと崩れ落ちた。その顔は穏やかであり満ち足りたものであった。
 その彼をだ。降り立った天使達が輪になって囲んで、である。
「さあ、今から救いを」
「この魂を」
「神秘の愛の中で」
 彼を見ながらの言葉である。既に書斎ではなかった。天の宮殿の中であった。
「聖なる光に包んで」
「今静かに」
「忌々しいが認めるしかない」
 メフィストは達観した顔になって呟いた。
「彼は救われたのだ。ではファウスト博士」
 最後に彼を見てだ。優しい微笑みを向けてである。
「最後の審判の後で天界で御会いしましょう。また貴方と共にあらゆる場所を巡りあらゆるものを見て楽しみたいものです」
 こう言ってその端麗な動作で優雅に一礼してである。天使達に囲まれ光に照らされている彼を見送るのであった。


メフィストーフェレ   完


                          2010・1・28



メフィストは契約通りにいかなかったという事か。
美姫 「ファウストは天に行ったみたいだものね」
ファウストの方がこれを分かっていて契約した訳じゃないみたいだし、仕方ないと言えば仕方ないのか。
美姫 「でも、こういう話だったのね」
だな。投稿ありがとうございました。
美姫 「ありがとうございます」



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