『マノン=レスコー』




                          第四幕  惜別


 マノンとデ=グリューは植民地に辿り着いた。しかしマノンはニューオーリンズで会ったその街の顔役に

言い寄られ彼を拒んだ。そのことが大事になりデ=グリュー共々街を出らざるを得なくなった。デ=グリュ

ーにとってみればそれはとばっちりであったがそれでも彼は付き合った、あくまで彼女と一緒にいるつもり

であった。
 広漠とした荒野。二人は今そこにいた。果てしない地平線が広がり土地の起伏と砂塵が見えるだけである

。風は吹き荒び夕陽が落ちようとしている。何も見えず何もいはしない。ボロ布のようになった服を着てい

る二人がいるだけである。
 マノンは痩せ衰えデ=グリューに支えられている。デ=グリューも苦しい顔で彼女を支えている。
「大丈夫かい?マノン」
 デ=グリューは前を進みながらマノンに声をかける。
「いえ」
 マノンはその言葉に力なく首を横に振る。
「もう私は」
「しっかりするんだ」
 弱気になる彼女に声をかける。
「いいね」
「ええ・・・・・・」
 やはり力なくそれに頷く。
「わかったわ」
「ここを越えたら別の街に辿り着くから」
「ニューオーリンズではなくて?」
「別の街だよ。そこに辿り着けば」
 彼は言う。
「やり直せるだから」
「そうね。もう少しだから」
 マノンは青い顔で応える。
「頑張るわ」
「そうしてくれ。じゃあ」
「喉が渇いたわ」
「酷い熱だ」
 マノンの頬を触って述べる。
「水を。けれど」
 辺りは荒野だ。何もありはしない。デ=グリューは一旦マノンを寝かした。そしてまた声をかける。
「何処にもない。少しいいかい?」
「お水を取って来てくれるの?」
「うん。きっとある筈だから」
 話している間にも陽は落ちていく。次第に暗闇が近付いてきていた。
「だからね」
「・・・・・・有り難う」
 横たえられたマノンはデ=グリューの方を見て小さな声で言った。
「うん。じゃあ」
 彼は水を探しに行く。マノンは一人寂しく荒野に横たわる。デ=グリューがいなくなったことに今更なが

ら深い悲しみを感じるのであった。
「荒野にたった一人。あの人がいなくなったら私は一人」
 そう呟く。
「悲しいことね。昔のことが蘇るけれどそれは全部儚い夢」
 デ=グリューとの出会いと今までのことを想う。他には何もなかった。
「あの人さえいれば私はそれで。それにずっと気付かなかったから」
 最後に残ったのは彼であった。彼以外には何もなかった。しかしそれでいいと思った。彼女は結局は常に

彼を愛していた。それが今はっきりとわかったからだ。
 そこにデ=グリューが帰って来た。とぼとぼとこちらに歩いて来る。
「駄目だったの?」
「・・・・・・うん」
 デ=グリューは力なくそれに答えた。
「御免、何もなかった」
「そう。けれど」
 マノンはその彼に対して優しい言葉を贈った。それは天使の声のように聞こえた。
「それで充分よ」
「充分ってマノン」
「貴方の最後の贈り物は。これまで私が貰ったどんなものより素晴らしかったから」
 そう述べて力なく微笑む。
「だから私も最後まで貴方を」
「何を馬鹿なことを」
 そう言ってマノンの枕元に跪き頬に触れる。さっきまで熱かった頬はもう冷たくなってきていた。それが

何なのか、すぐにわかった。
「マノン、もう君は」
「私は最後まで貴方を見て」
「駄目だ、マノン」
 デ=グリューはマノンに語り掛ける。
「もうすぐ新しい街だ。そこに辿り着いて」
「もう駄目よ。貴方はフランスに帰って」
「フランスに」
「そうよ。お金の稼ぎ方はお兄様が教えてくれたわよね」
「そうだけれど」
 しかしそれを出す気にはなれなかった。全てはマノンの為だったからだ。その彼女がいなくなれば。彼に

とっては何の意味もないものだからだ。
「それを手にして」
「君はまさか」
「もう何も見えないけれど」
 闇が覆っていた。だがそれだけが見えない理由ではなかった。
「それでも私には貴方がいるわ。心で貴方が見えているから」
「君はこのまま」
「ええ。このまま」
 デ=グリューはマノンの手を握る。あの柔らかく温かかった手は木の枝のようになっていて冷たくなって

いた。そして。
「さようなら」
 その手が彼の手から滑り落ちた。マノンはゆっくりと目を閉じる。こうして彼女は最後までデ=グリュー

を見て死んだのであった。
 デ=グリューはその場に崩れ落ちたがそこを通り掛かった商人達に救われた。彼等に新しい街に運ばれそ

こでマノンを葬った。その時彼女の白い髪だけを貰った。それを手にして一人フランスへ帰った。
 あのルアーブルの港に着くとそこにはレスコーが待っていた。彼は友人として迎えに来たのである。
「お帰り」
「来てくれたのか」
「友達じゃないか」
 それが彼の返事であった。そして見る影もなく痩せこけてしまった友を見て述べる。
「だからさ」
「有り難う」
 彼等は港で向かい合っていた。悲しい顔で。
「マノンは」
「ああ」
 レスコーはその言葉に頷く。
「最後はどんな顔だった?」
「安らかだったよ」
 デ=グリューは答える。
「とても綺麗な顔だった」
「そう。だったらいいよ」
 レスコーはそれを聞いてまた頷いた。
「それだったら」
「そしてこれを」
 彼にペンダントを一つ差し出した。
「ここにマノンがいるから」
「済まない」
「僕も持っているからね」
 レスコーに自分のペンダントを見せる。それは彼に今渡したものと全く同じものであった。
「僕はこれで彼女とずっと一緒だ」
「僕も」
「これさえあれば他には何もいらないから」
「これからどうするんだい?」
 レスコーは彼に問うた。遠くから鴎の鳴き声が聞こえる。青い空と海が二人の後ろに広がっているが二人

はそれに気付いていない。二人が今いる世界は悲しみの世界だったから。
「もう僕は誰も愛せないから。修道院に入るよ」
「そうか」
「うん。何かあったら立ち寄ってくれ」
「わかった」
 レスコーは頷く。今度はデ=グリューが彼に問うた。
「君はどうするんだい?」
「僕は軍を辞める」
 彼は言った。
「故郷に戻るよ。そこで静かに暮らす」
「そうするのかい」
「僕のせいで何もかもが駄目になってしまったから」
「いや、そうじゃないよ」
 デ=グリューは友に対して述べた。
「君は悪くない。マノンも悪くはない」
「そして君も」
「これは運命だったんだ」
 デ=グリューはそれがわかった。全てがわかった。
「僕が彼女を愛したことは。彼女が僕を愛したことは」
「全て運命なのかい」
「そう。だから」
 彼は言う。
「後悔はしないさ」
「そうか」
 彼はこの後すぐに修道院に入った。それからそこで一生を過ごすことになる。残りの人生を神に捧げたの

であった。古いフランスでの話であった。

「古いお話です」
 全てを語り終えた彼は私にそう語った。私達は修道院の白い何もない部屋で話をしていた。そこはまるで

墓場のように静まり返っている。聞こえるのは院長の低い言葉だけであった。
「全ては私の。愚かな話です」
「そうだったのですか」
「はい。しかし私は」
「後悔はしていないのですね」
 そう老修道院長に言った。
「今でも」
「はい、今でも」
 彼も私の言葉に答えてくれた。
「何があっても」
「そうですか。では貴方は幸せだったのですね」
「人はそれぞれの想いの強さには限りがあると思います」
 院長は今度は私にそう述べた。
「そしてそれを全て出せた者は」
「幸せなのですか」
「そう、幸せなのです。ですから私は」
「わかりました」
 私はそこまで聞いて頷いた。
「では貴方の幸せ、僕の心にも留まらせてもらいます」
「有り難うございます」
 院長は私のその言葉を聞いて目を細めてきた。
「ではまた。何かありましたら」
「はい、また」
「おいで下さい。マノンもいますから」
 ここで私にあのペンダントを見せてきた。
「ここに。彼女もいます」
「永遠にですね」
「そう。永遠に」
 達観と優しさが完全に調和した微笑みを私に向けてくれた。それは確かに幸福を知る者の微笑みであった

。それを見せてもらった私もまた幸福であった。今それがわかった。



マノン=レスコー   完


                             2007・2・9



今回はマノンが悪いとも言えないよな。
美姫 「迫られて断っただけだしね。でも、それにより追い出されたのね」
しかも、最後は……。
美姫 「当人たちは不幸だったなんて思ってないのね」
みたいだな。とは言え……。
美姫 「今回のお話はこれでお終いなのね」
うんうん。投稿ありがとうございました。
美姫 「ありがとうございます」



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