『ラ=ボエーム』




              第四幕  古い外套よ

 ミミと別れたロドルフォはそれからあのアパートに戻った。そこにはムゼッタと別れたマルチェッロもいたしショナールも帰って来た。彼等はまた四人で共同生活に入ったのであった。
 生活は元に戻っただけであった。相変わらず貧しく生きている。だがその心は明らかに前とは違っていた。
 ロドルフォもマルチェッロも塞ぎがちになっていた。口数も少なくなり、ぼんやりと考え事に耽ることが多くなった。ショナールもコルリーネもそんな二人には何も言わず黙ってフォローしていた。ロドルフォ達はそんな二人の気遣いを有り難く思っていたがここは口には出さなかった。そして悶々とした日々を送っていた。
 この日もそうであった。夕方近く二人は部屋で仕事をしていた。ロドルフォはテーブルの上で原稿用紙を広げ、マルチェッロは立って絵を描いていた。見ればマルチェッロがロドルフォに語り掛けていた。
「それは本当かい!?」
「ああ」
 ロドルフォは詩を書きながら彼に答えた。
「実際に会ったから。間違いないよ」
「今度は二頭立ての馬車か」
「しかも制服を着た御者を連れてね」
「豪勢なものだ」
 マルチェッロはそれを聞いて唸っていた。
「やっぱり派手に着飾っていたんだろうな」
「紅の絹のドレスと赤いビロードでね」
「相変わらず赤が好きなんだな」
「そうだね。凄い格好だったよ」
「あいつも。相変わらずらしいな」
 マルチェッロはわざと素っ気無い感想を述べた。
「贅沢三昧だ」
「それだけかい?」
「何がだい?」
「感想は。それだけでいいのかい?」
「他にどう言えばいいんだよ」
 マルチェッロはつれない様子を見せた。
「僕達はもう終わったんだ。何を今更」
「そうか」
 ロドルフォはそんな彼を見てこれ以上言うのを止めた。
「だったらいいんだけれどね」
「僕も見たしね」
「誰をだい?」
「決まってるじゃないか」
 それを聞いたロドルフォの手が止まった。
「まさか」
「そのまさかさ」
 マルチェッロは言った。
「ミミか」
「ああ、元気だったぜ」
「本当なのかい?」
「とある貴族の息子と付き合ってる」
「そうか。ならいいんだ」
「それでいいのか?本当に」
「そうに決まってるじゃないか」
 ロドルフォは平静を装ってこう答えた。
「そうだろ?ミミは寒い部屋より暖かい部屋にいる方がいい」
「まあそうだけれどな」
「そういうことさ。僕なんかといるよりね」
(僕なんかが一緒だと。もう戻ってこなくてもいいんだ)
 そう言って壁にかけてあるあの薔薇色のボンネットを見た。
(君との思い出が心の中にあるから。それでいい)
(無理しやがって)
 マルチェッロは心の中で思ったがそれは口には出さなかった。
「だったらいいんだけれどな」
(僕だって。まあいいか)
 自分の気持ちは押し殺していた。
「ああ」
「にしてもだ」
 マルチェッロは今描いている絵を見て苦い顔になった。
「何かな。筆が乗らない」
「どうしたんだよ」
「どうしたもこうしたもないさ」
 見れば若い女を描いている。だがその女の顔がどうにも上手くいかないのだ。
(何であいつの顔になるんだよ)
 どうしてもムゼッタの顔になるのだ。
「駄目だ、調子が悪い」
「相変わらずムラッ気が強いね」
「天才にもそういう時があるのさ」
「じゃあ休むか」
「ああ」
 マルチェッロは筆を置いた。
「まあ急ぎの仕事でもないしな」
「ゆっくりしていていいのか」
「そうさ。まあ気分転換でもするか」
「といっても何もないよ」
「酒もない」
 残念なのが言葉にも出ていた。
「そろそろ夕食の時間だけれどね」
「二人が戻ってくればいいけれど」
「何時になるか」
「それまではパンくずでもかじるかい?」
「それは君だけにしてくれよ」
 絵を消す時に使うパンくずのことを言っているのだ。
「絵の具臭いのは駄目なんだ」
「じゃあインクで味付けをするか」
「インクで?」
 ロドルフォはそう言われて顔をキョトンとさせた。
「どういうことだい、それは」
「ショナールに聞いたんだがな」
「ああ」
「イタリアのナポリの方じゃそうやって料理を作ったりするらしい」
「へえ」
 ロドルフォはそれを聞いて驚きの声をあげた。
「ナポリの連中もまた変わってるな」
「インクはインクでもイカのインクだけれどな」
「いや、それでも」
「それをスパゲティとかにかけてな」
「あの細長いやつか」
 この頃ようやくスパゲティが出回りだした頃である。パスタの歴史は長いがスパゲティの歴史はその中でも比較的新しいのである。最初は手で高くあげて食べていたのだ。
「そう、それでな。フォークを使って」
「真っ黒だろうな、そのスパゲティは」
「もう腹の中までそうなるらしいぜ」
「だったらイギリス人が食べればいい」
「あの連中に食べ物のことなんてわかるものか」
「ははは、そうだよな」
 ライバルであるイギリス人の味音痴も馬鹿にしていた。
「連中にはわからないか」
「そうそう、イカどころか何を食べるかわかったものじゃない」
「何が楽しみで生きているんだか」
「さてさて。まさか文学だけとか言うんじゃないだろうしね」
「文学だってうちの方が上だし」
「それはまたどうして」
「僕がいるからさ」
 冗談で胸を張ってこう言う。
「この大詩人がいるからね」
「それはいい。じゃああの高慢なジョンブルの鼻をへし折ってやってくれ」
「勿論さ」
「おう、いるか」
 そこにショナールとコルリーネが戻って来た。
「元気そうだな」
「朝に会ったばかりじゃないか」
「そっちこそな」
 ロドルフォとマルチェッロは二人に笑ってこう返す。
「一体どうしたんだよ」
「今日は大収穫だ」
「謝肉祭だ」
「それじゃあ」
「ああ、見てくれ」
 見ればコルリーネはその腕の中に紙包みを持っていた。それを開くとにしんの塩漬けが入っていた。
「どうだ」
「これはいい」
 二人はそれを見て満足そうに頷く。
「そして僕はこれだ」
 ショナールはパンとワインを持っていた。
「どうだ、ワインなんて暫くぶりだろう」
「ああ」
「最近安いビールばっかりだったからな。奮発したんだ」
「それは何よりだ」
「さあ飲めさあ食え」
 コルリーネは他の三人に対して言う。
「そして英気を養おう」
「ああ」
 四人はテーブルに着く。そして乾杯をし食事に入った。
「ところでロドルフォ」
「何だい?」
 ロドルフォはコルリーネの言葉に顔を向けた。
「最近何かギゾーが元気みたいだね」
「彼か」
 ロドルフォはその名を聞いて顔を暗くさせた。
「政治家としての彼はね。好きになれない」
「頭が固いからか」
「ああ。まるで岩石みたいだろ」
 保守派である彼をそう酷評した。
「文化とかの論文はともかく。政治家としてはね」
「金持ちになり給え、そうすれば政治家になれる、か」
「そうそう」
「あの考えには賛同出来ないと」
「何かね、時代に合っていないだろ」
 彼はパンを食べながら言った。硬いが白パンである。
「今はもっと多くの人が政治に参加しないと」
「話題のプロレタリアートかい?」
 ショナールが口を挟んできた。
「いや、あれは」
 だがコルリーネはそれを聞いて口を尖らせた。
「止めた方がいいね」
「どうしてだい?」
「マルクスだろ?」
「ああ」
「彼の言うことは。どうにも胡散臭い」
 顔を顰めさせての言葉だった。
「そうなのか」
「僕がそう思っているだけだけれど。何か引っ掛かる」
「ふん」
「気を着けた方がいいよ。何かをどうしたらユートピアになるとかいう考えは」
「そうかね」
「下手したらあちこちに死体が転がることになるからね」
「このパリでも」
「勿論」
 コルリーネは言い切った。
「十年前みたいにね」
「それは勘弁願いたいな」
「だろ?まあ穏健にいきたいものだ」
「成程」
「ただ、飲み食いはそうはいきたくないね」
 マルチェッロはワインを飲み干して言った。
「もっとこう派手に」
「お金持ちになって」
「贅沢にね」
「いいパトロンでもいればね」
「ムゼッタみたいに」
「あいつのことはよしてくれよ」
 マルチェッロはムゼッタの名を聞いて顔を顰めさせた。
「あいつはもういないんだし」
「そうか」
「それじゃあ」
 だが噂をすれば何とやら、部屋の扉が急に開きそこからそのムゼッタが飛び込んで来た。相変わらず赤い派手で高そうな服を着ていた。
「なっ!?」
「おい、何でここに」
 ロドルフォ達はいきなりやって来たその姿を見て一斉に立ち上がった。
「私のことはいいから」
「いいからって」
「いきなり言われても」
 汗をかき、肩で息をしているムゼッタを見て驚きを収めることは容易ではなかった。彼女のこんな姿は今まで誰も見たことがなかったからだ。
「それよりもミミを」
「ミミを!?」
「ええ、何とかここまで連れて来たけれど」
「待ってくれムゼッタ」
 ミミの名を聞いてロドルフォが最初に落ち着きを取り戻した。
「今。ミミって言ったよね」
「ええ」
「ミミが。どうしたんだい?」
「彼女は子爵の息子と別れたのよ」
「どうしてだい?」
「決まってるわ、貴方と会う為よ」
 こうロドルフォに告げた。
「僕と」
「ミミの身体のこと・・・・・・知ってるわよね」
「うん」
 その為に別れることを決意したのだ。知らない筈がなかった。
「そのせいよ」
「子爵の息子に捨てられたのかい?」
「違うわ。自分から離れたのよ」
「どうしてそんなことを」
「馬鹿っ」
 ムゼッタはロドルフォの鈍さに切れた。
「貴方、詩人でしょ。そんなこともわからないの!?」
「まさか」
「ええ、そうよ」
 彼女は言った。
「貴方に会いに来たのよ、最後に」
「最後にってまさか」
「今階段のところまで連れて来たわ。私が肩に担いできたのよ」
「そうか、だからそんなに汗だくになって」
「私のことはいいって言ってるでしょ。それよりミミを」
「わかった。それじゃあ」
「うん」
 マルチェッロとショナールが迎えに行った。コルリーネはベッドを用意している。
「飲み物は何処かしら」
「ここにワインがあるけれど」
「そう。有り難いわ」
 ムゼッタはワインと聞いて顔を少し明るくさせた。
「少しでも。気付けになってくれれば」
「けれど。どうして君がミミを」
「道で倒れていたのよ」
 ムゼッタは言う。
「道で」
「ここに行く途中だったのね。たまたま通り掛かって」
「そうだったのか」
「あのままだと。多分そのまま」
「済まない」
「私はいいのよ。私なんか」
 俯いて言った。
「遊び歩いているだけだから。そんな私が何をしてもね」
「いや、そうじゃないよ」
 彼もムゼッタのことはわかっていた。
「ミミと僕の為にここに来てくれたんだよね」
「少なくともミミの為よ」
 半分はそれを認めた。
「ミミは・・・・・・放っておけないから」
「・・・・・・有り難う」
「おいロドルフォ」
 マルチェッロとショナールが部屋に戻って来た。ミミを間に挟んで担いでいる。
 ミミは両肩を担がれていた。そして蒼白となった顔でロドルフォを見た。
「ミミ・・・・・・」
「御免なさい、私」
「馬鹿だな、何を謝ることがあるんだ」
 ロドルフォはミミに駆け寄った。
「僕に、僕に会いに来てくれたんだよね」
 ミミを抱き締める。二人は抱き合った。だがミミの力はもうなくなろうとしていた。
「これが・・・・・・最後だから」
 ミミはか細い声で言った。
「最後なんかじゃない」
 ミミを、そして自分を励ますように言葉を返す。
「君は・・・・・・これからも生きるんだ」
「ロドルフォ・・・・・・」
 だが他の者にはもうわかっていた。ミミの白い、やつれた顔が何よりも物語っていた。それをどうしようもないことも彼等はわからざるを得なかった。
「ミミ」
 ムゼッタがミミにワインを差し出す。
「飲めるかしら」
「ええ、有り難う」
 ミミはそれを受け取る。そしてほんの一口だけ含んですぐに返した。
「全然飲んでいないじゃない」
「喉は渇いてないから」
「嘘よ」
 ムゼッタはそれを嘘にしたかった。
「遠慮しなくていいのよ、貴女は」
「いえ、本当よ」 
 その笑みも力ないものであった。
「だから。心配しないで」
「ミミ・・・・・・」
「ねえロドルフォ」
 今度はロドルフォに声をかけた。
「何だい?」
「悪いけれど。横になっていいかしら」
「横に」
「少し。疲れたから」
「ああ、いいよ」
 ロドルフォはこくりと頷きコルリーネが用意してくれていたベッドに横たわらせる。
 横たわったミミに布団を被せる。そしてその枕元に座った。皆二人の周りを囲んだ。
「皆。側にいてくれるのね」
「当然じゃないか」
 ロドルフォは優しい声で言った。
「君のことが好きだから。誰も君を嫌わないよ」
「・・・・・・有り難う」
 そう言った後で咳をした。血は出なかったがその咳は彼女の命を表わしていた。
「寒いかい?」
「いえ、大丈夫よ」
 ロドルフォに答える。
「暖かいから。皆がいてくれて」
「そうか」
「ええ、そうよ」
 この時でもロドルフォ達を気遣っていたのだ。
「だから。安心してくれ」
「わかったわ。ムゼッタ」
 ムゼッタに顔を向けた。
「何かしら」
「有り難う。ここまで連れて来てくれて」
「何言ってるのよ」
 顔は笑っていたが声は泣いていた。顔だけは無理して笑みを作っていたのだ。
「こんなこと。当然じゃない」
 言葉も詰まっていた。
「友達なんだから」
「友達」
「そうよ。こんなことで・・・・・・御礼なんかいいわ」
「そうなの」
「そうよ。だから気にしないで、いいわね」
「・・・・・・ええ」
 弱く微笑んでこくりと頷いた。
「それなら」
「気にしなくていいから」
「ムゼッタ」
 そんな彼女にマルチェッロが声をかけた。
「今まで誤解していた。済まない」
「・・・・・・いいのよ」
 声は泣いたままであった。
「気にしてなんかいないから」
「そうかい」
「ショナール」
 コルリーネの声は何時になく感傷的なものであった。
「ちょっと出て来る」
「どうしたんだ?」
「・・・・・・お金を作ってくる」
「お金って。君には何も」
「あるさ」
 真摯な顔で言う。
「僕の長い間の友人がいる。彼の力を借りる」
「友人って」
「彼だ」
 そう言って壁にかけてある外套を手に取った。
「彼が。助けてくれる」
「けれどそれは」
「いいんだ」
 彼は自分も身を切るつもりだった。
「年老いた外套よ、聞いてくれ」
 外套に対して語る。
「今まで一緒にいてくれて有り難う。君にはどれだけ助けられたことか」
「コルリーネ・・・・・・」
「君と一緒にいられて本当に楽しかった。君がいてくれたから僕は金とか権力とかには負けなかった。寒さにも負けはしなかった。君のおかげだ」
 だが彼は今その友人と別れようというのだ。ミミの為に。
「けれど。君と別れなければならないんだ。一人の少女の為に。・・・・・・それをわかってくれるな」
 そして最後に言った。
「さようなら。君にそれを告げよう、忠実なる友人よ」
「それじゃあ僕は」
 ショナールはロドルフォとミミを見て言った。
「暫くそっとしておいてやるか。もう」
「そうだな。皆できることをしよう」
「ああ。一緒に行くよ。君の友人は僕にとっても友人だ。一緒に別れを告げよう」
「・・・・・・有り難う」
 二人は部屋を後にした。マルチェッロはそれを黙ってみていた。
「ムゼッタ」
 彼等と同じように部屋を去ろうかと言おうとした。だがそれより先にムゼッタは言った。
「マルチェッロ」
「何だい?」
「マフラーを取って来ていいかしら」
「マフラーを」
「ええ。実は家にとても暖かいマフラーがあるの。それをここに持って来たいのだけれど」
「そうか」
「どうかしら。ミミの為に」
「いいことだね」
 心の底から頷いた。
「じゃあ僕も一緒に行っていいかな」
「貴方も」
「うん。どうかな」
「・・・・・・お願いするわ」
 マルチェッロがどうしてそんなことを言ったのかわかった。だとすればそれを受け入れなければならなかった。
「一緒に来て」
「わかったよ。それじゃ」
 二人も消えた。こうして部屋の中にいるのはミミとロドルフォだけになってしまった。
「皆、外に出たのね」
「ああ」
 ロドルフォはミミの言葉に頷いた。
「気を使ってくれたのかしら」
「口は悪いけれどいい奴等だからね」
「そうね。ムゼッタも。私をここまで連れて来てくれたし」
「派手だけれどね。人柄は凄くいいんだよ」
 優しい声で言う。
「誤解されやすいけれど」
「そうね」
「マルチェッロもそれがわかっているから」
「私もわかっているわよ」
「そうなんだ」
「だから私ムゼッタが好き」
 ミミは言った。
「けれど・・・・・・貴方はもっと好き。貴方は私の全てだから」
「ミミ・・・・・・」
 ロドルフォは両手でミミの手を握った。か細く、触れただけで折れそうであった。
「夕日ね」
「うん」
 窓の方を見て言う。
「私、また貴方と一緒に歩きたい」
「パリの街をね」
「カルチェ=ラタンで。もう一度遊びましょう」
 窓をつがいの燕が飛んでいく。
「あの燕みたいに」
「巣へ帰って行くんだよ、あの燕は」
「巣に」
「うん。近くに巣を作っていてね。そこにいるんだ」
「そうなの」
 ミミはそれを聞いて考える顔になった。
「私達も。そうなりたいわね」
「あの燕達みたいに一緒に」
「ええ。ずっと暮らせたら」
「きっとそうなるよ」
 ロドルフォはこう言ってミミを励ました。
「きっとね」
 そう言いながら立ち上がる。そして壁にかけているボンネットをミミの側に持って来た。
「これはあの時の」
「そうさ、ずっと取っていたんだ」
 ミミの顔が喜びで晴れやかになった。ロドルフォの目も本当に優しいものになる。
「君との思い出は。全部覚えてるよ」
「・・・・・・有り難う」
 ボンネットを受け取る。その目に涙が浮かんでいる。
「最初に会った時は」
「真っ暗闇の中だったね」
「私が灯かりをなくしてしまって」
「僕のところにきて」
「鍵までなくして」
「探している時に手が触れて」
「それが全てのはじまりだったわね」
「まるで昨日のことみたいだ」
 ロドルフォの目も潤んでいた。
「あの時の君の手は本当に冷たかった」
「貴方の手は。驚く程暖かかった」
「クリスマスに遊んで」
「このボンネットを・・・・・・うっ」
 また急に咳込みはじめた。
「ゴホッ、ゴホッ」
「ミミ、大丈夫かい!?」
 ロドルフォは慌てて彼女を抱き締める。
「え、ええ」
 ミミも必死にロドルフォを安心させようとする。
「大丈夫よ。だから」
「わかったよ。それじゃあ」
 ミミから離れて椅子に戻る。そこへショナール達が戻って来た。
「只今」
「お帰りなさい」
 ミミは力ない微笑で迎える。そこにムゼッタ達も戻って来た。
「ミミ、いいものを持って来たわ」
「何かしら」
「これよ」
 それに応えてマフラーを広げる。赤い大きなマフラーだった。
「これ。貴女にあげるわ」
「いいの?」
「いいのよ」
 ムゼッタは優しく微笑んでそれをよいと言った。
「けれどれってムゼッタが大事にしていたものよね」
「幾らでもあるから」
 それは事実だったが嘘も含まれていた。
「こんなマフラー。すぐに買えるわ。だから気にしないで」
「そう。それなら」
 ムゼッタは歩み寄る。そしてミミにじかに手渡した。
「いつも有り難う」
「御礼なんかいいって言ってるじゃない」
 ムゼッタももう泣きそうであった。
「私みたいな遊び人に。そんな言葉は似合わないわ」
「いいえ、私にはわかるわ」
 ミミはムゼッタを見て言った。
「貴方は。とても優しい人だから。言われる資格があるわ」
「よしてよ」
 それを聞いてまた泣きそうになる。
「柄じゃないから。本当に」
 マフラーを渡し終えるとミミに背を向ける。赤くなってきた目をみせたくなかったからだ。
「ロドルフォ」
 マルチェッロが彼に声をかける。
「お医者さんを呼んだから」
「済まないね」
「いいんだよ。ほら、これも」
 懐から何かを取り出した。
「気付け薬だよ、ミミに」
「有り難う」
「こんなことしかできないけれどな」
「いや、充分だよ」
 ロドルフォの微笑みはこの上ない優しいものとなっていた。
「ミミも。喜んでくれているから」
「ああ」
「これは誰のお金なんだい?」
「僕のだよ」
 コルリーネが答えた。
「たまたまお金があったのを思い出してね」
「そうだったのかい」
「そうだ。本当に運がよかったよ」
 外套のことは隠していた。
「僕も運がよかったからミミも」
「うん」
 ロドルフォはそれに頷く。
「きっとね」
「ああ、きっと」
 ムゼッタは窓の方に来ていた。そして言う。
「私はこんな女だけれど」
 空を見上げていた。
「神にお許しなんてできないけれど」
 自分のことは自分がよくわかっているつもりだった。遊び人で派手な女だということも。だがそれ以上に彼女もまた人間であったのだ。優しい心を持つ人間だったのだ。
「けれどミミは。ミミは違うから」
 心から祈っていた。
「どうか。助けて下さい」
 その心は純粋だった。純粋に神に祈っていた。
「なあ」
 ロドルフォは周りにいる仲間達に声をかけてきた。
「希望って言葉・・・・・・知ってるよな」
「ああ」
「それがどうかしたんだい?」
「希望は常にあるから。だから僕は」
「私の側にいてくれるのね」
「そうだよ」
 ミミの手を握って言った。
「何時でも一緒だから。安心して欲しいんだ」
「そうね、私達は何時でも一緒ね」
 ミミは弱く微笑んだ。
「ずっと・・・・・・だから」
「ミミ」
「寂しくはないわ。何処へ行っても」
「僕もだよ」
「何時でも、何時までも一緒だから」
 弱いがはっきりした声だった。
「貴方と・・・・・・私はそれだけで充分よ」
「僕だけでいいんだね?」
「ええ。だから」
 顔を正面に向けた。
「少し目を閉じさせて」
「あ、ああ」
 嫌な予感がしたがそれに従うことにした。
「ロドルフォの手、とても柔らかい」
「今の君の手だって」
 ロドルフォはそれに返した。
「最初会った時はあんなに冷たかったのに」
「貴方に暖めてもらったから。手が暖かくなって眠くなってきたわ」
「眠るんだね」
「そうよ」
 ミミは答えた。
「ほんの少しの間だけ。また目が覚めたら」
「覚めたら?」
「貴方がいてくれるから。手を暖めてくれた貴方が」
 そのままゆっくりと目を閉じた。ロドルフォはまだ手を握っている。
「また起きてくれるよね、ミミ」
「なあ」
 ショナールは重苦しい声をマルチャッロにかけた。
「わかってるよ」
 マルチェッロもまた重苦しい声で答えた。
「もう」
「ああ」
 コルリーネもそれに頷く。窓から顔を戻したムゼッタもベッドを見てわかった。
「!?どうしたんだい、皆」
 ロドルフォは皆の唯ならぬ様子に気付いた。
「どうしたんだよ、一体」
 皆の態度がよそよそおしくなったのがわかった。
「どうして僕をそんな目で。何なんだよ」
「なあロドルフォ」
 マルチェッロの声はもう泣きそうであった。
「気をしっかり持ってくれよ」
「お、おい」
 ロドルフォはそれから逃げたかっただけだった。逃げられなくても逃げたかった。だがそれは結局出来なかった。皆それがわかっていた。だからロドルフォにもあまり言えなかった。
「まさか」
「その・・・・・・」
「わかってるとは思うけれどな」
 ショナールもコルリーネも言葉を詰まらせる。
「言えないけれど」
「ムゼッタまで・・・・・・そんな・・・・・・こんな・・・・・・」
 握っているその手が急に冷たくなっていくのがわかる。そして動かないことも。
「ミミ!」
 呼び掛ける。だが返事はない。
「ミミ、ミミ!」
 だがミミは微笑んだままであった。何も返ってはこない。ロドルフォはそんなミミの手を握って泣き伏した。誰もそれに何も言えず、涙を流すだけだった。パリの片隅で小さな恋が終わった。









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