『こうもり』




            第二幕 謎のハンガリーの美女

 白く磨き抜かれた床には何やらキリル文字が描かれている。天井にはギリシア神話から様々な絵が描かれそれは壁にもある。柱には女神の彫刻が為されカーテンは白いシルクである。そうした豪奢な宴の場に着飾った紳士淑女達がいて朗らかに笑っていた。その中にアデーレもいた。
 見れば髪を綺麗に整えて化粧もしている。ドレスは赤い見事なものだ。その姿で誰かを探していた。
「あっ、いたいた」
 青いドレスに黒い髪に青い目のアデーレにそっくりの女性に声をかける。顔はそっくりだがよく見れば青いドレスの女性は痩せている。そこが違っていた。
「姉さん」
「アデーレ!?」
 姉のイーダであった。彼女はアデーレを見てその目を顰めさせた。
「貴女、どうしてここに」
「どうしてって」
 姉の言葉に思わず引いた。
「姉さんが呼んだんじゃない」
「私知らないわよ」
「えっ!?」
 意外な言葉が出て来た。
「そんなの」
「そんなのって手紙くれたじゃない」
「私そんなの書いてないわよ」
 イーダはまた言った。
「全然」
「どうなってるのよ」
「いえ、それは私の言葉よ」
 イーダはそう言い返す。
「何がどうなってるのか」
「話が見えないんだけれど」
 アデーレもそれは同じであった。だから言うのだ。
「まあいいわ」
 だが流石はアデーレの姉であった。ここは機転を利かすことにした。
「貴女は女優ね。いいわね」
「女優なのね」
「そう、わかったわね」
「わかったわ。私は女優」
「それで公爵様に紹介するから」
「公爵様というと」
「オルロフスキー公爵よ」
 イーダは述べた。
「わかったわね。上手くやりなさいよ」
「わかったわ」
 真剣な顔で頷いてきた。
「任せて。そういうのは得意だから」
「期待しているわよ」
 同じ顔の人間が向かい合って話す様はまるで鏡のようであった。だがイーダの方が痩せているし髪と目の色が違うのでそれはわかる。だが実に奇妙な絵画に見えるのであった。
「で、公爵様は」
「あの方」
 スラリとした長身をタキシードに包んだ美男子であった。茶色の髪と目に朗らかな笑顔をしている。変わっているのはタキシードの上にマントを羽織っているのだ。黒い絹のやけに大きなマントであった。
「また変わった人ね」
「ロシアでも変人で有名らしいわよ」
「やっぱり」
 さりげなくとんでもないことを話している。
「けれど気前のいい人だから安心して」
「お酒が好きみたいね」
 見ればグラスを手から離さない。
「ロシア人だからね」
「成程」
 またしても身も蓋もない話であった。その公爵はグラスを手にファルケ博士と話をしていた。
「ほう、芝居ですか」 
 公爵はその端整な顔からは想像もできない低い女の声を出していた。しかしその外見は紛れもなく美男子である。どうやら声だけがそうであるらしい。それがやけにミステリアスであった。
「はい、そうです」
 博士はそれに応える。
「大晦日の。冗談芝居です」
「冗談芝居」
「作用、題名はこうもりの復讐です」
「面白そうですね」
 公爵はタイトルだけを聞いてもう期待を抱いていた。
「何か」
「ええ。もう女優が一人見えていますし」
「女優ですか」
「ほら、あちらに」
 そこに都合よくアデーレがイーダに連れられてやって来た。そして公爵の前で恭しく挨拶をする。
「お久し振りです、公爵様」
 まずはイーダが挨拶をしてきた。
「そして博士も」
「はい」
 公爵はにこりと笑って彼女に応えた。
「フロイライン、今日もお美しい」
 博士は彼女ににこやかに声をかける。同時にアデーレを見ていた。
(おやおや)
 見ながら心の中で呟く。
(いい具合に化けているな)
 だがそれはあくまで心の中だ。口に出しては言わなかった。
「今日は何の御用で」
「妹・・・・・・いえ、友人を紹介したいと思いまして」
 イーダは述べる。
「妹さんを」
 博士は思わず言ったがすぐにそれは打ち消された。
「いえ、友人です」
「おっと、そうでしたな」
 イーダに笑って返す。
「失礼、私の聞き間違いでした」
「いえいえ」
「ちょっと姉さん」
「何?」
「ばれそうだったじゃない」
「御免御免」
 アデーレに囁いて謝る。そして話は本題に入った。
「それでですね」
「ええ」
 公爵がにこやかにイーダに応える。
「こちらが新進女優のオルガ嬢です」
「オルガさんですか」
「はじめまして」
 オルガに化けたアデーレは優雅な仕草で挨拶をする。意外とさまになっている。
「またお美しい。素晴らしい女優になられるでしょう」
「有り難うございます」
 アデーレは礼を述べる。公爵はさらに言う。
「私は女優さんが好きでしてね」
「そうなのですか」
「後でじっくりとお話しましょう。それでは」
「はい。それではまた」
 二人は公爵の前から姿を消した。博士はそれを見届けてから公爵に囁いてきた。
「あのオルガ嬢ですが」
「はい」
 説明は続く。
「実は今宵の舞台の主役の家のメイドなのですよ」
「そうなのですか」
 公爵にとっては意外な事実であった。面白そうに博士の話を聞いている。
「そうです。あれで賢い娘でして」
「成程」
「彼女はこれからも上手く動いてくれますよ。御期待あれ」
「わかりました。では楽しみにさせて頂きます」
「はい、どうぞ」
「殿下」
 ここで華麗な制服を着た従者が公爵のところにやって来た。どうやらこの公爵はロマノフ家に縁のある者らしい。今殿下と呼ばれたからだ。
「ルナール侯爵が来られました」
「ルナール侯爵!?」
 公爵はその名を聞いて首を傾げさせた。
「ルナール侯爵かね」
「はい」
 従者はまた応える。二人はロシア語で話をしているが博士はその意味がわかっていた。
「誰かな」
「公爵」
 ここで博士は公爵にそっと囁いてきた。
「その主役ですよ」
 悪戯っぽく笑って述べた。
「彼がですか」
「はい、ですから御安心下さい」
「わかりました。では」
 最後はロシア語に変えて従者に顔を向けてきた。
「お通ししてくれ」
「わかりました」
 ここのやり取りはロシア語である。従者はドイツ語はわからないがロシア語はわかっていた。
「面白そうですな」
「面白くなります」
 博士の返事は自信たっぷりといった感じであった。
「御期待あれ」
「ではでは」
「御主人様」
 すぐに従者は戻って来た。かなり早い。
「侯爵様です」
「はじめまして、侯爵」
 本当は伯爵の侯爵はフランス式の礼で公爵に挨拶をしてきた。
「ルナールであります」
「フランスの方ですな」
「はい
(顔はオーストリアだけれどね)
 博士は彼を見て内心ほくそ笑んでいる。しかしそれを口には出さない。
「オルロフスキーと申します」
 今度は公爵は一礼してから述べた。
「ロシアの方ですね」
「はい」
 公爵は伯爵の言葉に頷く。
「遊びに参りまして」
「遊びにですか」
「ええ。何しろペテルブルグはあまりにも寒くて」
 ここで苦笑いを浮かべてきた。
「お客様がおいで下さらないのです。寒さを嫌がって」
「お客様がですか」
「はい、私はですね」
「ええ」
 公爵は話をはじめてきた。
「お客様を招くのが趣味なのです」
「お客様をですか」
「そうです、皆様には朝まで楽しんで頂きたい」
 立ち上がったままだったのをいいことにそのまま辺りを見回す。そして客達に対して述べる。
「私はそれでいいのです。それを見たいのです」
「公爵御自身は」
「私は退屈でもお客様が喜んでくれるのなら」
「何と心の広い」
「ロシア人の心はあくまで広いのです」
 これは確かに本当のことだ。ロシア人は気が長くて心が広いのが取り柄だた。悪いふうに出ればやる気のないことは徹底して手を抜くが。
「とにかく飲んで下さい。私が飲むよりも多く」
「公爵よりもですか」
「そうです。高価なお酒を好きなだけ」
「何とまあ」
 ロシア人といえば無類の酒好きである。酒がなくなれば暴動が起こるとまで言われている。言うまでもなく公爵もロシア人だ。その彼よりも飲んで欲しいとは。
「遠慮はいりません。それどころか遠慮されるのは嫌いなのです」
「そうなのですか」
「そうです。そうして楽しんで頂くのが」
「実に素晴らしい」
 伯爵はその話を聞いて心から関心していた。
「そこまでおおらかな方だとは」
「殿下」
 そこにアデーレがやって来た。グラスを片手ににこにこしている。
「やあオルガさん」
「楽しませてもらってますわ。おかげさまで」
「はい、もっと楽しんで下さい」
 公爵はそれに応えてにこやかに言う。
「もっと飲んで歌って」
「わかりました。あら」
「おや」
 ここでアデーレと伯爵は同時にお互いに気付いた。
「あれはアデーレかな」
「御主人様で。成程ね」
 これで何故伯爵が礼装を着て楽しそうにしていたのかがわかった。成程、と頷く。
「そういうことだったの」
「オルガ」
 そこにイーダもやって来た。
「もっと飲みましょうよ」
「そうね」
「違うのかな」
 伯爵はイーダの声を聞いて思い違いかとも思った。
「似てるけれど」
「侯爵」
 いいタイミングで博士が伯爵とアデーレ達の間に入って来た。実は狙っていたのだ。
「紹介します。バレリーナのイーダさんと女優のオルガさんです」
「はじめまして」
「どうも」
 二人は可愛らしく挨拶をする。
「そしてこちらがルナール侯爵。フランスの方ですぞ」
「あら、フランスの」
 アデーレはそれを聞いてわざとらしく声をあげる。
「それはまた」
「はい、侯爵です」
 彼は述べる。
「いつも侯爵ですか?」
「ええ。それが何か?」
「いえ」
 アデーレは悪戯っぽく笑いながらそれに返す。
「何でもありませんわ」
「そうですか。しかし」
「しかし?」
「似ていますな、実に」
 彼は言う。
「そっくりだ」
「誰がですか?」
 アデーレはにこやかに笑いながらそれに問う。
「貴女が」
「私がですか」
「そうなのです」
 伯爵は述べる。
「全くもって」
「誰にですの?」
「私の家のメイドに」
「あら、それはまた」
 アデーレは結構わざとらしい演技を見せてきた。伯爵をからかうかのように。
「殿下、御聞きになられましたか?」
「ええ」
 公爵もそれに応えてきた。グラス片手に上機嫌に笑ってきた。
「確かに。これは愉快です」
「本当に」
「皆さん、御聞きになられましたか」
 彼は客達に対して声をかけてきた。
「おや」
「どうされたのですか?」
「こちらのルナール侯爵がですね」
 彼は集まってきた客達に対して今の話を言うのであった。
「仰ったのですよ。こちらのオルガさんが御自分の家のメイドにそっくりだと」
「おや、それは」
「また面白い」
「そうですね。面白いですがエレガントとは言い難いですな」
「むっ」
 流石にロマノフ家の縁者に言われては黙るしかない。何しろハプスブルク家に匹敵する欧州きっての名門である。それでは伯爵では太刀打ちできない。それに今は楽しい宴の場、ここは笑われるのがいい、それを自分も楽しむのがいいと伯爵も理解した。そこはやはりウィーンの男であった。
「確かにこれは失礼をしました」
「そうです」
 公爵が彼に言う。
「しかし本当にそっくりだ」
「では侯爵様」
 アデーレはにこやかに笑いながら彼に声をかけてきた。足取りも軽く。
「私からも言わせて頂くことがありますわ」
「それは一体」
「ご忠告です。よく御覧になられるよう」
「人をですか」
「そう、色々な人を。宜しいですわね」
「はあ」
「この上品な手を」
 絹の手袋に包まれた手を見せる。当然ながら手袋もレンタルである。
「この華奢な足も」
 からかうように膝まで見せる。これははったりで中々肉付きがいい。
「都の言葉遣いも細い腰もメイドのものでしょうか」
「いえ、それは」
 おかしいと思いながらも頷く。
「全くもって」
「そうですわね」
 そして今度は気取ったポーズを取ってきた。
「横顔だってそうでございましょう?そこを御覧になって頂けないと」
「全くもって申し訳ない」
「本当におかしな間違い。どういうことかしら」
「そうですわ。御気をつけ遊ばせ」
 こうしてアデーレにからかわれる。宴は伯爵を道化として盛り上がることになった。
「やれやれ」
「まあまあ一杯」
 そこに博士がやって来て声をかける。
「よくあることさ、気にするな」
「そうだね。まあ気を取り直して」
「うん」
 二人は美酒と美食を楽しむ。そこでまた従者が公爵のところにやって来た。
「殿下」
「何だね」
 またロシア語で言葉を交わした。
「お客様です」
「今度はどなた?」
「シュヴァリエ=シャグラン様です」
「シュヴァリエ=シャグラン」
「男性の方です。どうされますか?」
「お通しして」
 伯爵の時と同じやり取りであった。
「いいね」
「わかりました」
「博士」
 それからドイツ語で博士に声をかけた。それがオーストリア訛りなのが結構芸が細かかった。
「御聞きしたいことがあるのですが」
「はい」
「じゃあまた後でね」
「うん、これで失礼」
 博士は伯爵と別れて公爵のところに来た。そして話を聞く。
「シュヴァリエ=シャグランという方を御存知ですか?」
「ええ、勿論」
 彼はにこやかに笑って答えてきた。
「お芝居の登場人物の一人です」
「ほう」
「実は刑務所長のフランクさんなのですよ」
「そうなのですか」 
 何か話が大掛かりになってきていた。公爵は彼の話を聞いて思った。
「やあやあ」
「お連れしました」
 そこにその所長がやって来た。アルフレートを刑務所に入れてすぐにやって来たようである。
「はじめまして、公爵」
 そして公爵に挨拶をした。
「シャグランと申します」
「はじめまして、シャグランさん」
 公爵も彼に挨拶を返した。
「フランスの方ですね」
「はい」
 そうなりきっていた。
「左様です」
「そうですか。実はもう一人フランスの方がおられまして」
「そうなのですか」
「はい。こちらに」
「まずい」
 指し示された伯爵は思わず困ってしまった。
「どうしようか、フランス語で話し掛けられたら」
 彼はフランス語を知らない。だから困るのだ。なおロシアの宮廷ではフランス語を使っている。これはピョートル大帝からである。エカテリーナ二世は大のフランス文化好きであった。ロシアの特徴として西欧文化と言えばフランス文化であり国が落ち着くとフランスに接近する傾向がある。これは地政学的な要因もある。
「大丈夫だよ」
 しかしそんな伯爵に博士が声をかけてきた。
「安心しておき給え」
「暢気に言うね」
「彼はドイツ語が話せるから」
 じつはドイツ語しか話せないのは内緒だ。
「安心し給え」
「だといいんだがね」
 伯爵はそれを言われても半信半疑であった。
「まあ信じよう」
「友人を信じないで誰を信じるんだね?」
「それもそうだね」
 とりあえずは信じることにした。
「それじゃあ」
「うん。ではその時はね。安心しておくんだ」
「では安心しておくよ。しかし」
「しかし?」
「本当に変わった宴だ」
 彼は今それを実感していた。
「この街は色々な国から人が集まるけれどそれ以上に思えるよ」
「そういう運命なんだろうね」
「運命!?」
「そう、運命なんだよ」
 博士は思わせぶりに笑って述べる。
「君がここに来たのもね。運命さ」
「そうなのかね」
「まあ運命を楽しむことだ」
 そのうえで博士は言った。
「いいね」
「わかったよ」
「一人美女をお招きしているしね」
「美女を」
 それを聞いた伯爵の目の色が一変した。
「美女をかい」
「うん、ハンガリーのさる旧家の伯爵夫人でね」
「僕の妻と同じか」
「まあ違うのは生まれた場所だけだね」
 そう言って伯爵夫人である彼の妻に例えてきた。これまた思わせぶりに。
「ただ、事情があってね」
「ふん」
「仮面を着けているんだ」
「仮面を!?ということは」
 伯爵はそれを聞いて述べた。
「やんごとない事情のようだね」
「まあそれはね。聞かないで欲しい」
「わかったよ。じゃあ」
 伯爵はその言葉に頷いた。
「そうさせてもらうよ」
「うん。じゃあ呼んで来るから」
 彼と一旦別れた。
「じゃあね」
「期待しているよ」
 そのまま暫し宴を楽しむ。そしてそこに仮面を被った白いドレスの貴夫人が現われた。よく見れば誰あろう、奥方であった。何かあるようであった。
「ようこそ」
「お招き頂いて」
「アデーレ嬢にも誘われたそうで」
「はい。それで元々こちらにお伺いするつもりでしたが」
 歌理は宴の場でこっそりと話をしている。誰もそれに気付きはしない。
「ところでお手紙のことは」
「ええ」
 博士はその言葉に頷いた。
「主人ですね」
「あそこにいますよ」
 指差すと本当にそこにいた。
「本当でしたのね」
 夫の姿を見て顔を顰めさせる。仮面なのでわからないだけだ。
「全く。何を考えているのでしょう」
「では私はこれで」
 博士はここで別れることにした。
「お任せしますね」
「はい」
 こうして伯爵は気付かないうちに妻と宴の場で会うこととなった。知らないのは夫だけである。
「さてと」
 彼は懐の銀の懐中時計を出して眺めていた。
「いつも通りこれで」
 彼は懐中時計をかけて女性に勝負をかけるのが常なのだ。それで勝って陥落させる。それが彼のやり方であるのだ。オーストリア貴族らしいと言えばらしいだろうか。
「侯爵様」
「何か」
 そのハンガリーの夫人から声をかけられて上機嫌で応える。
「その時計は」
「何、大したことはありません」
 彼は含み笑いを浮かべて彼女に言う。
「些細な時計ですので」
「そうなのですか」
「欲しいのですか?」
「いえ、それは」
「宜しければ差し上げますが」
 彼は勝負に出た。
「如何でしょうか」
「そうですわね」
(何としても手に入れないと)
 奥方はまた口と心で別のことを言い出した。
(浮気の証拠になるわね)
(さて、まずはこれでいい) 
 伯爵も伯爵で心の中で言う。
(いつも通りいけばいいな)
(刑務所に行ったと思っていたらこんな所で、見ていらっしゃい)
 二人はそれぞれ心の中で言っている。しかしそれを聞くことはできない。
 口では全く違う。それぞれ言い合う。
「奥様」
「はい」
 しかもエレガントに。だが丁々発止だ。
「宜しければ」
「何でしょうか」
「その仮面を」
「駄目ですわ」
 にこりと笑ってそれに返す。
「それだけは」
 わざとハンガリー訛りで言う。これも芝居であった。
(本当にわからないのね。見ていらっしゃい)
(さてと)
 伯爵は伯爵で考えている。
(どうやって口説いていくかだな、問題は)
「その仮面ですが」
 伯爵はその中で奥方とは知らずに声をかける。
「やはりハンガリーのものでしょうか」
「いえ、こちらのものです」
「そうなのですか」
「はい」
 奥方は答える。
「如何でしょうか」
「お似合いですよ」
 彼は笑みを浮かべて答える。
「実に」
「それならば安心しました」
「しかし」
「しかし?」
「いえ、いいです」
 焦るところであった。仮面の下に興味があるなどとは決して言ってはならない軽率な言葉である。これは心の中に仕舞い込んだのであった。
「何でもありません」
「そうですか」
(意外と慎重ね)
 奥方はそんな彼を見て思った。
(結構手強いかも)
(これだけの美人だ)
 彼の好みであった。実は自分の妻とも恋愛結婚だったことを忘れている。実は結婚の話が出た時に彼女の絵と実際にこっそりと見た素顔を見てすぐに惚れ込んだのである。そのことをこの時は完全に忘れていたのだ。
(ゆっくりとね)
「それでですね」
 ゆっくりと勝負に出て来た。
「何でしょうか」
「これですが」
「あら」
 出してきたのはさっきの時計であった。あえて奥方に見せびらかせる。
「この時計ですが」
「あらためて見ると本当に綺麗ですね」
「そうでしょう。この時計はそれだけではないのです」
「といいますと」
「実はですね」
 彼は言う。
「時間も正確なのですよ」
「そうなのですか」
(さて、どうするつもりかしら)
 時計を使ってどうするのかと探りだした。
(これを使って)
「数えてみましょう」
「数える」
「はい」
 伯爵はにこやかに笑って言ってきた。
「数えるのですよ。この時計の時間を」
「どうやってですか?」
「まず貴女は御自身の心臓の鼓動を数えて下さい」
 彼はこう言ってきた。
「私はこの時計の時間を数えます。それでどちらの時間が正確なのか確かめましょう」
「そうしてその時計がどれだけ正確か見るのですね」
「そういうことです」
 彼は述べた。
「これでどうでしょうか」
「いいですわ、それでは」
 彼女は笑みを浮かべてそれに応えてきた。
 数えてみる。暫くして伯爵が言ってきた。
「三百ですな」
「あら」
 だが奥方はそれを聞いておかしそうに笑ってきた。
「私は三百一ですが」
「何と」
「私の勝ちなのでしょうか」
「馬鹿な、この時計が」
「私が嘘を言うと思われるのですか?」
「い、いえ」
 美女に言われると弱い。ついついそれを否定してしまう。
「そのようなことは」
「そうですわね。それじゃあ」
「はい。では」
 時計を差し出す。こうして時計は奥方の手に渡った。
(嘘も方便ね)
 奥方は心の中でペロリと舌を出す。
(こういうのは)
(参った)
 それに対して伯爵は困った顔になっていた。
(まさか取られるとは。どうしようか)
 しかし考えている暇はなかった。そこに公爵がやって来たのだ。
「ハンガリーから来られたそうで」
「はい」
 にこりと笑って彼に応える。ここでもハンガリー訛りのドイツ語である。
「左様です」
「それではお願いがあるのですが」
「何でしょうか」
「実は私は音楽も好きでして」
 彼は述べる。
「ハンガリーの曲もまた。それでですね」
「歌を聴かれたいのですか?」
「宜しいですか?」
「勿論です」
 にこりと笑って言葉を返してきた。
「そういうことでしたら」
「それは有り難い」
 公爵はその言葉を聞いて笑みを浮かべる。
「それでしたら」
「はい。それでは」
 彼女は優雅に準備を整えた。それから口を開くのであった。
「故郷の調べは憧れを呼び覚まし私の目に涙を溢れさせる。懐かしき故郷の歌を聴けは心は故郷に戻る」
「ふむ」
 伯爵はそれを聞いて呟いた。
「ドイツ語ですがそもそもはハンガリー語だったのでしょうな」
「おそらくはそうでしょうね」
 公爵がそれに応える。
「それをわざわざドイツ語に変えてくれているのかと」
「有り難いことです」
「我が祖国ハンガリーよ。麗しき故郷は明るき陽光に照らされ森は緑濃く野は笑う」
 ドイツ語で歌い続ける。実は奥方はハンガリーの生まれなのでこの歌は押さない頃から知っているのである。
「故郷の思い出と面影は我が心を満たす。愛しき面影よ、私は何時までもあなたにこの思いを捧げます」
 さらに歌を続ける。
「ハンガリーの血を受けたこの胸は火と燃える。さあ踊ろう明るいチャルダッシュの響き。小麦色の肌と黒い瞳の娘さん達と一緒に」
「ほう」
 公爵はハンガリー娘の描写を聞いて声をあげる。
「ハンガリーの女の子達はそうなのですか」
「まあ人によります」
 伯爵がそれに答える。
「そうした娘もいれば黄金色の髪の娘も」
「左様ですか」
「ええ。けれど美人が多いことは事実です」
 彼は述べる。ハンガリーは元々アジア系のマジャール人が作った国であり肌や目の色が本来は違うのだ。だがかなり混血しているので一概には言えなくなってきているのである。
「火の様なトカイを手に可愛い娘さん達と」
「ふうむ」
 歌い終えると拍手が鳴る。公爵はその中で唸っていた。
「お見事」
「有り難うございます」
「それがハンガリーの歌なのですね」
「はい」
 奥方は答える。
「その通りです」
「はじめて聴きましたが実にいい」
 公爵は賛辞の言葉を続ける。顔もにこやかに笑っている。
「いや、よい歌でした」
「他にも色々といい歌があるのです」
「ハンガリーには」
「そうです」
 奥方は答える。
「また何時かお聴かせしたいと思います」
「では。期待しておりますぞ」
「ええ。またの機会に」
「はい」
 公爵はその言葉を聞いて奥方の下から去る。そして博士に声をかけるのであった。
「博士」
「何でしょうか」
「次は何でしょうか」
「そうですな」
 応えながら伯爵を見てきた。
「侯爵」
「何でしょうか」
 彼の言葉に侯爵こと伯爵が応えてきた。
「一つお願いがあるのですが」
「はい、それは一体」
 伯爵は二人のところにやって来た。そのうえで問う。
「実はですね。あのお話を紹介して欲しいのです」
「あのお話といいますと」
「私のことです」
「というとあれですな」
「左様です」
 にこやかに笑ってそれに応えた。
「宜しいでしょうか」
「ええ、それでしたら」
 伯爵は快くそれに引き受けてきた。そして話をはじめる。
「では皆様」
「むっ」
「今度は何かな」
 皆伯爵が口を開いたのを見てそちらに顔を向ける。
「数年前のことです」
「数年前のことですか」
「そうです。私はあるホテルで仮面舞踏会を開いたのです。その時私は蝶に、博士は蝙蝠に扮しました」
「そういえばそんなことがあったかしら」
 奥方はそれを聞いて呟く。
「博士はそこで酔い潰れてしまわれたのです。それで私は帰り道の宿屋に彼を入れたのです」
「ほう」
「それはまた何故」
「彼は身体が大きいですね」
「ええ」
「確かに」
 皆それに頷く。
「だからなのです。あまりにも重くて酔った私では持って行くことができなかったのです」
「それで宿屋に入れたのですね」
「はい。そして目覚めた彼は」
「どうなったのですか?」
 話が核心に迫る。皆それに問うた。
「あれです。家まで歩いて帰ることになりました」
「それでは普通なのでは?」
「ところが」
 ここで注釈が入る。
「そうはいかなかったのです」
「といいますと」
「よいですか、仮面舞踏会でした」
「はい」
「それは先程御聞きしました」
 客達は彼の言葉に応える。
「そこに何かあるのですね?」
「そうです」
 伯爵は満面に笑みを浮かべて答えた。
「それでですね」
「はい」
「彼は蝙蝠の姿のまま酔い潰れていたのです」
「何と」
「ではそれでは」
「そうです。そのまま家まで帰られたのです。子供達に囃したてられながら」
「何ということでしょう」
「それで彼はこうもり博士という仇名を貰ったのです。そうしたお話です」
「それはまた」
 客達はそれを聞いて唸る。
「しかし博士」
 客達はそれを聞いて博士に問う。
「貴方はそれに関して仕返しは?」
「為さらないのですか?」
「皆さん」
 博士はそれに応えて述べてきた。
「復讐には何が必要でしょうか」
「復讐にですか」
「そうです。それには二人の役者が必要なのではないでしょうか」
「役者がですか」
「そうです」
 彼は答える。
「この場合は賢者と愚者が必要なのですが」
「生憎はそうはいっていないのですよ」
 伯爵が上機嫌で述べた。
「私も隙を見せてはおりませんので」
「成程」
 皆それを聞いて頷く。
「そうなのですか」
「そうです」
 満面に笑みを浮かべて頷く。
「私はその隙を窺っております」
「それはまた実に面白い」
 公爵が話を聞き終えて二人の間に入ってきた。
「面白いお話でした。それでは」
「ええ」
 ここで皆にシャンパンが渡される。宴といえばこれである。
「さあ皆さん」
 公爵が音頭を取る。皆それに従う。
「宜しいですね」
「はい!」
 心地よい言葉でそれに応える。公爵はそれを受けてまた言う。
「葡萄の火の奔流に楽しい生活が湧き立つのです、王も皇帝も月桂冠の名誉を愛しますがそれ以上にこの葡萄を愛します」
 すなわちワインは全てに愛される存在だというのだ。その通りである。
「ですから皆様、杯を触れ合わせましょう。そして酒の王を讃えましょう」
「それでは」
「杯を触れ合わせ」
「はい」
 言葉は続く。
「その中でもシャンパンは王の中の王」
「そう、ですから」
 公爵はさらに言う。
「皆さんで、さあ」
「乾杯ですね」
「そうです、去り行く年に」
 ここでそれぞれ思うところが浮かんできた。
「あの時計は残念だったな」
「さて、これからだな」
「全く。刑務所の中で寂しい思いをしているかって思ったら」
「上手く誤魔化せたわね。本当に女優に向いているかも」
「それにしても何でアデーレがいるのかしら」
 だがそんな思いをよそに公爵の音頭で乾杯となる。美酒が人々の喉を潤す。
「さあ、一杯だけでなく」
 公爵はまた声をかけた。
「どんどんやって下さい」
「言われずとも」
「それでは」
 シャンパンが次々に開けられ飲み干されていく。その中で博士が出て来た。
「皆様」
「おお、博士」
「どうされたのですか?」
 皆シャンパンで酔った顔を彼に向けさせた。
「まずは今宵は日々の喧騒を忘れまして」
「はい」
「仲良くやりましょう」
「それはいいことです」
「では私達も」
 その中で伯爵はそっと奥方に近寄る。そして声をかける。
「そういう話ですので」
「あら、貴方とですか」
(また来たわね)
 またしても心の中では違うことを述べる。
(性懲りもなく)
「宜しいでしょうか」
「ええ、いいですわよ」
 心の中の怒りは見せずにこやかに返す。伯爵は心の中にも素顔にも気付かず彼女と話をする。
「兄弟となり姉妹となり」
 博士はさらに言う。
「仲良く杯を重ね合いましょう。今年の最後に」
「そうですな。今年も最後ですし」
「来年を幸あるものにする為に」
「私達もまた」
「さて、それでは」
 皆博士の言葉に機嫌をよくしたところで公爵がまた仕掛けてきた。
「次は皆様」
「今度は何でしょうか」
「歌に踊りです」
 彼は言ってきた。
「では」
 バレリーナ達が出て来た。白い綺麗な服で着飾っている。アデーレはそれを見てイーダに囁きかけるのであった。
「姉さんはいいの?」
「だって公爵様のバレリーナじゃないから」
 イーダはニコニコと笑いながら答える。彼女もシャンパンを楽しんでいる。
「いいのよ」
「そうなの。じゃあ今日は観客ね」
「そういうこと」
 目の前でバレリーナ達が軽快なポルカに乗り踊る。それを見ながら皆さらに機嫌をよくしていく。顔がうっとりとさえなっている者もいた。
「やあ」
 伯爵はその中で博士に声をかけてきた。奥方とは知らずハンガリーの美女と仲良くなれて彼も上機嫌であった。
「君のおかげだよ。入所前に楽しい思いをさせてもらった」
「それは何より」
「さあ飲もう」
「もっと飲もう」
「そして何処までも楽しもう」
 彼等の後ろで楽しげな声が聴こえる。誰もが楽しんでいる。二人はそれを後ろに楽しげに話をしていた。
「そして私は務めに向かう」
「うん、ところで」
「何だい?」
「今何時だろう」
 博士は伯爵にそう問うてきた。
「僕の時計はどうにもおかしくてね。君の時計で見てくれないか?」
「残念だけれど」
 だが彼はここで顔を苦くしてきた。
「今はわからないよ」
「あの銀時計は?」
「いやあ、あのハンガリーの美女にね。いつものやり方でいったら」
「負けたのかい」
「そういうことさ。残念だけれど」
「それはまた」
「しかしだね」
 彼は奥方の方を見て言った。奥方も彼の方を見てにこりと笑っていた。
「どれだけの美人なのか。気になるよ」
「しかし仮面の下を見ないのが」
「エチケットだね」
「そういうことだよ」
 仮面を着けている者にはその素性を問わない。これは最低限のエチケットだ。彼等はかなり洗練されたオーストリアの帝都の者、しかも貴族である。それはわきまえていた。
「まあ何時かはね。さらに仲良くなりたいものだ」
「本当の顔を見たら驚くかもね」
「それがいいんじゃないか」
 伯爵は笑って応えた。
「そうじゃないのかい?」
「確かに。では」
 何か言おうとした。しかしここで時計の音が鳴った。
「おや」
 公爵はその音を聞いて声をあげた。
「もう六時です」
「六時ですか」
「早いものです。夜が明けてしまいました」
 彼は言う。
「では皆さん、これで」
「ふむ。それでは」
 博士はそれを聞いて言う。
「帰るとしよう」
「やれやれ」
 伯爵はしたたかに酔った顔で溜息をついた。
「では行って来るよ」
「うん。それじゃあね」
 皆別れそれぞれの帰路につく。だが博士はその中で公爵に対して囁いていた。
「では次の舞台へ」
「次ですか」
「そうです。彼はもう行きましたし」
 伯爵の姿がないのを確認してから述べる。
「参りましょう」
「では。皆様」
 公爵はそこにいる全ての者に声をかけた。見れば入所の為にその場を去った伯爵以外は全員いる。いや、一人いなかった。それは所長であった。
「さてと、私も」
 彼も刑務所に戻るのだ。伯爵は入る側で彼は入れる側であるがだ。
「行くか」
「博士の次の催しです」
「おお」
「今度は何でしょうか」
「私と共に来て下さい」
 彼は宴の場の中央に来て述べる。
「皆様にお見せするのは」
「それは一体」
「こうもりの復讐です」
 彼は今それを高らかに宣言した。
「それをお見せしましょう」
「では今から」
 博士と公爵に連れられて何処かへと向かうのであった。大晦日の舞台はそのまま新年の舞台へと移ってさらに続くのであった。



自分の妻だと気付かずに口説くとは。
美姫 「後で知らされたらどうなるかしらね」
で、いよいよ博士の復讐とやらが始まるみたいだけれど。
美姫 「一体、どうやってするのかしら」
何せ、今から刑務所に行くんだしな。
美姫 「一体、どうなるのかしらね」
次回を待っています。



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