『仮面舞踏会』




              第五幕   惨劇


 王はこの日夫人と別れた後一睡もせず自室に篭っていた。質素な執務室であり仕事に使う机や椅子、応接のソファー以外はこれといって何もない。王の部屋とは思えない質素な一室であった。元々尚武の国のスウェーデンでもあり、そして啓蒙君主たらんとしていた彼は贅沢を好まなかったのだ。だからこの部屋も質素なのであった。
「もうすぐか」
 彼は壁にかけてある時計を見て呟いた。その顔には焦燥がはっきりと見てとれた。疲れきった顔で椅子の上に座っていた。
「彼女との別れは。だがこれが一番なのだ」
 机の上に置かれている一枚の書類を見て言った。そこには既に王が署名していた。
「伯爵と彼女はこれで遠い国へ行ってしまう。私の手の届かないところに」
 愛を忘れる為の処置であった。彼は王なのだ。彼女は家臣の妻。決してあってはならないことなのだから。
「これでいい。別れの挨拶もいらない。私の想いは私の心の中で終わるのだ」
 呟き続ける。そして席を立った。
「だが」
 彼は立ち上がって言った。
「これでいいのか。私は自分を犠牲にした。いや、それが君主なのだ」
 今彼は王として、そして一人の君主としてその狭間に思い悩んでいた。
「自身が犠牲になるのは当然だ。王は自身を犠牲にして全ての民を幸福に導くもの。それが王なのだ。王は恋なぞしてはならないのだ。だがそれは私の本心ではない」
 首を横に振って言う。
「私は。あの人を忘れることは出来ない。何処にいようとも忘れることはできない」
 苦悩は終わることはないのだ。
「もう一度遭いたい。だがそれは」
 そこに何かを感じた。
「永遠の別れになるのでは。そしてもう二度と遭えない。だが」
 それでも会いたい。しかしそこにある不吉なものを感じずにはいられなかった。
「そうなれば私も彼女も。これでいいのだ」
 無理矢理納得させた。
「全てが私と彼女を引き裂く。そしてこれは運命だ。所詮はそうなのだ」
 遠くから華やかな音楽が聴こえてくる。それと共に部屋の扉を叩く音がした。
「どうぞ」
 王は入るように言った。するとオスカルが部屋に入った。そして王に対して一礼した。
「どうしたんだい?」
「陛下にお渡ししたいものがありまして」
「私にか」
「はい、これを」
 オスカルは懐から一通の手紙を手渡した。王はそれを受け取るとオスカルにチップを渡した。それで下がらせた。
「ふむ」
 見れば女性の文字で書かれていた。そしてそこには王の身に危険が迫っていることが書かれていた。
「私にか。これからはじまる仮面舞踏会で」
 今聴こえている音楽はその舞踏会からのものであった。
「だが行こう。私はその様なものを恐れはしない」
 誇り高きスウェーデンの王として。その様なものは恐れてはいなかった。
「そして最後にあの人と会う為に」
 彼は手紙を机の上に置いた。そしてその場を後にした。
 扉が閉まり部屋を沈黙が覆った。遠くから華やかな音楽だけが聴こえてきていた。
 舞踏会には多くの客達がもうみらびやかな服に華やかな仮面を着けてそこにいた。その服もまた仮初めのものであり全てが偽りであるこの舞踏会に相応しいものとなっていた。ここでは王も貴族も関係なかった。何もかもが虚飾の世界となっているのであるからだ。
 陽気であるが空虚であった。そこには華やかな音楽はあったがそれも芝居でしかなかった。何もかもが虚飾の世界、それが仮面舞踏会であった。
 その中を黒い服に赤いベルト、そして青のドミノを着けた男達が三人歩き回っていた。そして何やら囁いていた。
「死」
 その中の一人が言った。
「死」
 そして他の二人がそれに応える。そのうえで辺りを探っていた。
「ここにはいないか」
 その声はアンカーストレーム伯爵のものであった。彼もまた辺りを探っている。
「では別の場所に行くか」
「いつもこうなのだ」
 リビング伯爵もホーン伯爵も忌々しげに呟いた。
「すんでのところで逃げられる。そして今まで悲願を果たせずにいた」
「それには理由があった」
 だがアンカーストレーム伯爵は二人を宥めるようにして言った。
「理由?」
「私があの男の側にいたからだ」
 伯爵は低い声でそう述べた。
「今までは私が危険を探し出し、それに対処してきた」
「そうだったな」
「だが今は違う。今はな」
 声に暗い怒りが篭った。
「その意味がわかるな」
「ああ」
「では行くか」
「その方がいい。ここは危ない」
「どうかしたのか?」
「左を見てくれ」
「左を」
 二人はそれに従い左を見る。華麗な貴婦人と優雅な紳士達の間に一人小柄な短い黒いドミノの男がいた。
「あの男か」
「そうだ」
 アンカーストレーム伯爵は短い、そして低い声で応えた。
「行こうか」
「うむ」
 三人は去ろうとする。だがアンカーストレーム伯爵だけはその小柄な男に捕まってしまった。
「待って下さい」
「何の用だ」
 その声は少年のものであった。伯爵はその声でこの短いドミノが誰なのかわかった。
「オスカルか」
「まあそれは内密に」
 オスカルはおどけた声でそう返した。
「今宵は仮面舞踏会ですから」
「では私のことも構わないでくれ」
 伯爵は忌々しげに言い返す。
「わかったな」
「わかりました、伯爵様」
「フン」
 伯爵は不機嫌な声でそう返した。
「陛下の御身から離れて。それでも小姓と言えるのか」
「私が職務を放棄したと?」
「ここに陛下がおられぬのだから当然そうなるだろう」
「まさか。私はそんなに無責任ではありませんよ」
 彼は朗らかな声でそう言った。
「自分の仕事はいつも心得ているつもりです」
「ではここに陛下がおられるのか?」
 伯爵は探る声でオスカルに問うた。
「どうなのだ、それは」
「さて」
 しかしオスカルはここでとぼけてみせた。
「青いドミノの方、今宵は何か御存知の筈ですが」
「仮面舞踏会だ」
「そう、全ては仮初めのこと」
 そうであった。ここでは王であっても王ではない。貴族ではあっても貴族ではない。全てを偽った仮面劇なのだ。無論それは現実の人の世界に通じるものでもあるが。
「どうしても知りたければ御自身でお調べ下さい」
「からかっているのか」
「ですから今宵は仮面舞踏会なのです」
 彼はまた言った。
「全ては仮初めのこと。私は小姓として陛下の今のお姿は承知しております」
「では」
「ですがそれを言うわけにはいかないのです。私はこれでも口は堅くて」
「嘘を申せ。その明るい調子で」
「常に蝶々を追い掛けて飛び跳ねていても口は別です。高い身分や美しい花にも口は開きませんよ」
「さあ皆踊ろう」
 彼等の側で客達が踊りをはじめようとする。
「そして楽しい一時を過ごそう」
 華やかな音楽が聴こえてくる。だが伯爵はその中には身を置いてはいなかった。
 客達は伯爵とオスカルの間に入った。伯爵はそれでオスカルを一瞬見失ってしまった。
 慌てて彼を探す。だが容易には見つかりはしない。
「確か」
 短くて黒いドミノだった。それを探す。
 そしてようやくまた見つけた。そして彼を捕まえた。
「待ってくれ」
「ですから御自身でお探し下さい」
 オスカルは今度は少しムッとして言葉を返した。
「頼むのだ」
「ですから今宵は仮面舞踏会なのです」
「それはわかっている」
 伯爵の声は次第に焦ったものになってきた。オスカルはそれは彼が王を思ってのことだと思った。これが不幸のはじまりであった。しかし彼はそれには気付いてはいない。
「では何故」
 彼は考える声で尋ねた。伯爵はその声を聞いて流れが変わってきたと思った。
「重大なことをお話したい」
 伯爵は真摯な声でこう答えた。
「重大なことを」
「そうだ。それでいいか」
「わかりました。では」
 そこまで言われては彼も言わざるを得ない。彼はそっと伯爵の耳に顔を近付けた。
「宜しいですね」
「うむ」
 伯爵も身体を屈めた。そのうえで話を聞く。
「胸に薔薇色のリボンがあり」
「胸にだな」
「はい。そしてマントは」
「マントは」
「黒です。それで宜しいでしょうか」
「それだけなのか?」
「もうそれで充分の筈です」
 そう答えて伯爵の耳から離れる。
「それでは」
「待ってくれ、まだ聞きたいことがある」
「もうそれで充分過ぎる筈です。それでは」
「くっ」
 オスカルは素早く客達の中に姿を消してしまった。伯爵は舌打ちしてしまったがどうにもなるものではなかった。止むを得なく彼の残したヒントを頼りに王を探すのであった。
 伯爵が王を探す中、華やかな服と仮面の人々が朗らかに笑いながら舞踏と美食に明け暮れる。だがその中で一人思い悩む様子の男がいた。胸に薔薇色のリボンがあり黒いマントを羽織っている。
 彼は何かを悩んでいた。しかしその何かまではわかりはしない。彼にしかわからないものであった。
「いないのか」
 辺りをチラリと見て呟いた。そこで後ろから声がかかってきた。白い絹のドレスにそのドレスと同じ色のドミノを着けた優雅な雰囲気の女性であった。
「まさかこんなところに」
 彼女はその薔薇色のリボンの男を見て思わず声をあげそうになったのだ。そして慌てて彼の側に寄って来た。
「もし」
「その声は」
 薔薇のリボンの男にもそれは誰かわかった。咄嗟に声がした方を振り向く。
「もしや」
「すぐにお逃げ下さい」 
 その声は夫人のものだった。彼女は慌てて彼に声をかけたのだ。
「御命が」
「まさか貴女は」
「御聞きにならないで下さい」
 夫人はその声の主、王に対して言った。今は名乗るわけにはいかなかったのだ。
「けれど・・・・・・ここからすぐに」
「それは貴女の方が」
「私が!?」
「そうだ、貴女が誰かは今はいい。ただ、私は貴女に一言申し上げたい」
「それは」
「さようなら」
 彼は言った。
「永遠に。貴女は明日この国を発たれる」
「それはどういうことですか?」
「すぐにわかることだ、それは」
 王はそれ以上は語ろうとはしなかった。語ることはあまりにも辛かったからだ。
「だから。許して欲しい」
「けれどそれでは」
「私から申し上げることはそれだけだ。それじゃあ」
 別れようとする。想いを断ち切る為にも。だがそれは適うことがなかった。
「お待ち下さい」
 夫人が呼び止めたのだ。
「しかし」
「しかしもどうしたもありません。貴方に危機が迫っているのですから」
「既に私の運命は決まっている」
 王は諦めたように言葉を返した。
「愛を捨てた私は。もう望むものがないのだから」
 死んでも構わないというのだ。諦念がそうさせていた。
「だから。放っておいて欲しい」
「そういうわけにはいきません」
 しかし彼女は尚も食い下がる。
「さもなければ貴方が」
「私のことは忘れてくれ」
 王は苦しい声で言った。
「もう。何もかも終わったのだから」
「そんな」
「明日貴女は二人で旅立たれる」
 王は言う。
「遠い国へ。そして全ては終わるのだ」
「陛下」
「私は陛下ではない」
 だが王はそれを否定した。
「自らを抑えられなかった卑しい男だ。この仮面の下にあるのは」
「だからといって御命を粗末にされるのは」
「言った筈だ。もう命なぞ惜しくはないと」
「見ろ」
 ここでアンカーストレーム伯爵達が彼に気付いた。
「あれだ。間違いない」
「その話、間違いはないのだな」
 二人の伯爵はアンカーストレーム伯爵に問うた。
「オスカルは嘘はつかない」
 それが答えであった。
「決してな。それでわかるな」
「うむ」
「見れば雰囲気も体形もそのままだ。間違いはないな」
「ではやるか」
 アンカーストレーム伯爵は前に出ようとする。その彼に二人が声をかけた。
「待て」
「どうした?」
 伯爵はそれを受けて仲間達の方を振り向いた。
「どうして始末するつもりなのだ」
「自慢の剣でか?」
「いや、それだとこちらには持って来れない」
 伯爵は首を横に振ってそれに答えた。
「残念だがな」
「では一体」
「短剣か?」
「いや、違う」
 彼はそれに言葉を返した。
「私が持って来たのは」
「うむ」
 二人は固唾を飲んで彼の次の言葉を待った。それは。
「ピストルだ」
 彼は剣呑な声で言った。
「ピストルか」
「そうだ。これならば間違いなくあの男を殺せる」
「うむ」
「確実にな。では任せてくれ」
「うむ、頼むぞ」
「成功を祈る」
「私が大事を間違えたことはない」
 彼は仮面の奥に暗い決意を隠して応えた。
「だから。安心してくれ」
「わかった」
「それではな」
 伯爵は一旦人の中に消えた。そして王を目指してその中を泳いでいく。まるで獲物を狙う黒い鮫の様であった。静かで、それでいて酷薄な。王の命は今将に死の牙の前にあった。
 王はその間も夫人と話していた。夫人は必死に懇願していた。
「ここはお逃げ下さい」
「私は臆病者と言われたくはない」
「ですが」
「刃なら避けてみせる」
 彼は言った。
「凶刃に倒れたならばそれも運命だ」
「そんな・・・・・・」
「あの占い師が言ったように」
 ここでふとアンカーストレーム伯爵のことが頭に浮かんだ。彼女の夫でもあるあの者の顔が。
「若し運命ならば逃れられはしない」
「陛下」
「それよりも私達はこれで別れなければならない」
「その前に」
「これ以上言うことはない。それじゃあ」
 夫人の前から去ろうとする。その時後ろから声がした。
「これで終わりだ」
 何者かが呟いた。
「天の裁きを受けるがいい」
 アンカーストレーム伯爵であった。彼は王が振り向くより早く懐から拳銃を抜いていた。
「死ね」
 そして撃とうとする。その時振り向いた王と彼の目が合った。
「君か」
 王は目でこう言った。
「ならばいい」
 そしてまた目で言った。
「撃つのだ。それが運命なのだから」
「クッ」
 伯爵はそれを見て躊躇いを見せた。引き金を引こうとする指が強張った。
 だが何者かがその指を動かしてしまった。それは何の力によってであろうか。それが運命の力であったのかも知れない。あの占い師が予言した運命、それが二人を無慈悲に導いているのだとしたら。今この時の惨劇は逃れられは出来ないものであったのだ。
 撃たれた。それは一瞬で王の胸を貫いた。薔薇色のリボンは今度は鮮血に染まった。そして王はゆっくりと後ろに倒れていく。伯爵はそれを半ば呆然と眺めているだけであった。
「大変だ!」
 すぐに叫び声があがった。
「誰かが撃たれた!」
「誰だ!」
「私だ」
 王は弱っていながらもまだ威厳を保った声で答えた。
 そして仮面を取り自分の顔を見せた。皆それを見て色を失った。
「陛下・・・・・・!」
「まさか、そんな」
「撃たれた。けれど」
「下手人は誰だ」
「あいつだ!」
 その場に立ちつくすアンカーストレーム伯爵を指差す。
「あいつがやったんだ」
「早く捕まえろ」
 そう言い合って伯爵を捉える。そしてその仮面を剥いだ。するとまた驚くべきことがわかった。
「伯爵!」
「どうして貴方が」
「私は許せなかったのだ」
 伯爵は沈んだ声で呟いた。
「王が」
「君の言いたいことはわかっている」 
 王は胸を血に染め、弱々しい声でこう述べた。
「彼女のことだな。そうだろう」
「・・・・・・・・・」
「まずは彼を放してやってくれ」
「えっ、しかしそれは」
「いい。放してやってくれ」
 王の命令ならば仕方がなかった。皆それに従った。
「わかりました」
「それでは」
「最後にもう一度私の大切な友人に戻ってくれ」
 王は放された伯爵に対して言う。伯爵の後ろにはホーン伯爵とリビング伯爵がやって来た。
 王の側には夫人とオスカルが。それぞれいた。
「彼女のことだが」
 王は夫人を指し示して伯爵に対して言った。
「彼女は純潔だ。神に誓ってもいい」
「神に誓って」
「そうだ。私はこれで死ぬ。嘘をつくことはない」
「嘘を」
「私が嘘をついたことがあるかい?」
「いえ」
 彼はそれを否定した。
「そうだろう。では私の言うことはわかるね」
「はい」
 そして頷いた。今彼は再び王の言葉を聞く気になれたのであった。
「私は彼女を愛した。だが純潔は汚さなかった」
 王は言う。
「それが真実だ。そして私は君達を遠い国に送るつもりだった」
「異国に」
「大使としてな。そしてもうそれは決定している」
「そうだったのか・・・・・・」
「何故それを私達に」
「言おうとした。だが」
 この結果になった。全ては無慈悲な運命のままに。
「もう全ては遅かったのだ。けれど君達は旅立ってくれ」
 二人に対して言う。
「遠い国へ。いいね」
「はい」
 二人は頷いた。赦されたのだ。
「陛下」
 オスカルが王に声をかける。
「もうこれ以上は」
「いや、いい」
 だが王はその制止を振り切った。
「私はもう助かりはしない。それはわかっている」
「そんな・・・・・・」
「だからよいのだ。ならば最後まで王として生きる。そして」
 その額に最後の汗が流れていた。
「王として死のう。今回の事件は全ての者を無実とする」
「全ての者が」
「これは運命だったのだから。そう、運命だった」
 あの占い師に誘われた運命だったのだ。人では逃れることのできない運命であったのだ。
「その運命のままだったのだ。何もかも」
「何と惨い運命か」
「人はそれに従うしかない。そして今私はそれに従う死ぬ」
 顔に浮かぶ死相がさらに強くなった。
「愛する民達よ、そして祖国スウェーデンよ」
 最後の言葉を口にした。
「さようなら。永遠に」
 そして目を閉じ頭を落とした。全てはそれで終わりであった。
「何と恐ろしい夜か。そして」
 皆呟いた。
「惨たらしい運命か」
 誰も運命からは逃れられはしない。王ですらも。そして皆その中で迷い、彷徨うのだ。それが人間の弱い心であり宿命であるのだから。


仮面舞踏会   完


                                         2006・3・12





うーん、運命か。
美姫 「こういう最後を迎えるとはね」
予想通りの結末とは言え。
美姫 「このお話はこれでお終いなのね」
だな。投稿ありがとうございました。
美姫 「ございました」
それでは、この辺で。
美姫 「それでは」



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