『イーゴリ公』




                          第四幕  英雄の帰還


 見る影もなく荒れ果てた大地に城壁。まさに戦乱の後だった。プテイーヴルの城はポーロヴェッツ軍との戦いで完全に荒廃していた。幾多の戦いが行われこうなってしまったのだ。
 城壁には疲れ果てた兵士達がいる。彼等は一晩中守りについておりその疲労は限界に達していた。槍を杖のようにしており鎧も兜もくたびれた感じになっていた。その彼等の間をヤロスラーヴナは一人歩いていた。その顔は憂いに満ち今にも倒れんばかりの様子であったがそれでも何とか立っているのであった。
「誰か来られましたか?」
 その中で彼女は見張りの兵士の一人に尋ねた。やはり彼も疲労の極みにあり今にも倒れそうであった。彼は疲れた声で彼女に答えたのだった。
「いえ、誰も」
「そうですか」
「はい」
 そうヤロスラーヴナに答える。そうしてその場に崩れ落ちようとするが同僚に支えられた。
「休んで下さい」
 ヤロスラーヴナは優しい声をその兵士にかけた。
「そして次の戦いに」
「わかりました」
「それでは慎んで」
 兵士達はそれを受け下がる。そうして城壁にはヤロスラーヴナ一人だけとなる。彼女は遠く城壁の向こうの荒野を見て独り者想いに沈むのであった。
「溢れる涙を止めることもできず。あの方を待つのみ」
 そのことを嘆く。
「この風はあの方にも届いているのかしら。それとも敵の矢を運ぶ為なのか。吹き荒ぶ風は荒野に荒れ狂うばかりで何も語りはしない」
 風さえも嘆きの対象になる。やはりそれは止まらない。
「いえ」
 だがここでこうも思うのだった。
「風は。私の束の間の幸せの時さえも消し去り。今こうして」
 ルーシーの大地は荒野になっていた。その荒野を悲しい目で見詰める。
「ドニエプルの向こうのあの方は。返っては来ない。今までも、そして今も」
「朝だ」
「朝が来たぞ」
 ここで荒野から声がした。農民達の声が。
「風が吹いている」
「何という冷たい風だ」
 彼等もまた風を嘆いていた。そうしてポーロヴェッツ達がいる東を見ていた。
「灰色狼達の遠吠えのような」
「冷たい風だ」
「太陽は明るく輝いているけれど」
 ヤロスラーヴナは遠くに姿を現わした太陽も見た。それもまた東から出ている。いつもは希望に見えるそれも今は絶望にしか見えない。
「あの方を照らしているの?それとも焦がしているの?」
「太陽が映し出すのは」
 農民達も太陽を見ている。彼等もまたそこに嘆きを言うのだった。
「ポーロヴェッツの軍勢だ」
「荒れ狂う嵐だ」
「何と荒れ果てたこと」
 ヤロスラーヴナの耳にも彼等の嘆きは耳に入る。その中でさらに嘆く。
「村も畑も戦乱により荒れ果て肥沃な田園が荒野に成り果て。このまま何もなくなってしまうのかしら。そうして私もまたあの方に出会えず」
 絶望が頂点になろうとしていた。しかしその時だった。
 東から。何者かが来た。それは一軍であった。
「何、あれは」
「あれは」
「何なのだ!?」
 農民達も彼等の姿を見て驚きの声をあげる。ポーロヴェッツかと一瞬思ったがどうやらそうではないらしい。何故なら雄叫びを挙げて襲い掛かっては来ないからだ。
「あの旗は」
「あれは」
 農民達は彼等の旗を見た。それは。
「ルーシーだ!」
「ルーシーの軍勢だ!」
「ルーシー!?まさか」
 ヤロスラーヴナはそれを聞いて軍勢を見る。見ればそれは確かにルーシーの軍勢であった。誇り高き鷹の旗が高々と掲げられている。それが何よりの証拠であった。
「愛するルーシーの者達よ!」
 ヤロスラーヴナの待ち望んだ声が聞こえた。
「私は帰って来た!」
「その声は」
「城壁にいるのは我が妻か!」
 彼女に対する言葉であった。
「ヤロスラーヴナ、そなたか!」
「はい!」
 ヤロスラーヴナはそれまでの暗鬱な顔から一変して晴れやかな顔で彼に応えた。それは紛れもなく愛する夫の声であった。
「奥方様!」
「まさか!」
 城壁に兵士達が姿を現わす。そうして彼女に問うのであった。
「彼等は」
「公爵でしょうか」
「はい、そうです」
 ヤロスラーヴナはその彼等に答えた。
「あの方が。ルーシーの軍勢が戻って来ました」
「何と!」
「これはまことか!」
 次々に兵士達が出て来る。そうしてその軍勢を見るのだった。
「だが間違いない」
「彼等だ」
「公爵だ!」
 彼等の英雄もそこにいた。間違いなく。
「公爵様もおられるぞ!」
「帰って来られたぞ!」
「城門を開けるのです!」
 ヤロスラーヴナはそう彼等に命じた。
「そうして軍勢を迎え入れましょう」
「はい」
「すぐにでも」
 彼等はその言葉にすぐ頷く。そうしてヤロスラーヴナと共に城門に向かいそこを開ける。もう目の前には公爵とその軍勢がいた。二人はその城門の前で再び顔を合わせたのであった。
「御無事でしたのね」
「うむ」
 公爵は妻の問いに答えた。
「こうして。そなたとルーシーのところに帰って来た」
「夢のようです」
 ヤロスラーヴナは驚きを隠せずにそう述べたのだった。
「まさか。こんなことが」
「だが本当だ」
 彼は言う。
「私は今。こうしてここに」
「愛する方が再びここに」
 彼女の声は恍惚となっている。その恍惚で愛する者を見詰めている。
「こうして来られたなんて」
「私は捕まっていた」
 公爵はこれまでのことを話しはじめた。
「ポーロヴェッツにですか」
「そうだ。皆がだ」
 そのことを今言うのだった。
「だが。何とか逃げ出しここまで来た」
「そうだったのですか。私のところに」
「そうだ、そしてルーシーに」 
 愛するルーシーと妻のところに。帰って来た喜びが今の彼の心を支配していた。それが高らかに勇気をも奮い立たせていた。彼の勇気を。
「もう一度、戦う」
「ルーシーの為に」
「そうだ、苦しみの時は過ぎ去った、これからは」
「栄光の時が」
「敵は手強い」
 それはよくわかっていた。しかもただ手強いだけではない」
「偉大な相手だ。しかし私は」
「貴方は」
「勝つ」
 一言であった。それで充分であった。
「何があろうとも。私とルーシーは勝つのだ」
「キエフは永遠に私達のものですね」
「キエフだけではない」
 あらためて辺りを見回す。ルーシーの大地を。
「このルーシーの大地は。全て私達のものだ」
「そうですね。ここは私達の国です」
 夫の今の言葉に頷く。それを今思い出す。
「ですから。何があろうとも」
「敗れるわけにはいかないのだ」
 彼等はそう言葉を交えさせる。そこにスクーラとエローシカがやって来た。彼等はこの日も朝まで飲んでいた。ここに来たのは酔い覚ましであった。
「イーゴリ公も敗れて」
「捕虜になった」
 歌いながら肩を抱き合い歩いている。完全な酔っ払いであった。
「英雄もこうなれば惨めなものだよな」
「ハーンは軍勢を集結させてこっちに来る」
「しかしこっちは西の敵の力を借りて」
「それを撃退する」
 ガリツキーの考えであった。
「それで終わりさ」
「イーゴリ公は草原で敗れて」
「カヤーラの川の中でルーシーも破滅させた」
「その程度の男だったので」
「今は惨めに捕虜さ」
 そう歌いながら城門のところに来た。すると動きが止まってしまった。
「おい」
 最初に声をかけたのはエローシカであった。
「あれはまさか」
「そのまさかみたいだぞ」
 気付いたのはスクーラが先であった。
「公爵だ」
「イーゴリ公だ」
 彼等は口々に言う。顔を見合わせて。
「帰って来たのか!?」
「いや、生きていたのか」
 彼等にしてみれば殆ど死んだと思っていたのだ。酔った目を必死に擦ってもう一回見たが確かにそこに彼がいた。しかも軍勢まで。
「あいつ等まで戻っているぜ」
「何てこった」
 彼等は酔いが急に醒めてくるのを感じていた。それには理由があった。
「おい相棒、まずいぜ」
 スクーラがエローシカに言った。
「俺達はこのままじゃ」
「縛り首か」
「そうだよ。脱走したからな」
 そうなる。だからこそ彼等は今非常に焦っているのだった。脱走してガレツキーのところで遊び呆けていた。それで充分であった。
「まずいな、これは」
「いや」 
 しかしここでエローシカは言う。考える顔で。
「ここはちゃっかり行こう」
「ちゃっかりか」
「ああ、人間結局はここだ」
 エローシカはここで自分の頭をコンコン、と右の親指で突いてみせた。
「逃げるのか?」
「まさか」
 スクーラのその言葉は否定する。
「それじゃあこのまま流浪だぜ。酒も御馳走もなくな」
「それはまずいな」
 スクーラはそれを聞いて自分の考えをすぐに引っ込めた。
「折角今まで贅沢三昧だったのによ」
「だからだ。ここは」
 ここでエローシカは城を見た。そこの塔にある鐘楼を。
「あれだ」
「鐘楼か?」
「あれを使って生き延びようぜ」
 そう相棒であるスクーラに告げた。
「ここはな」
「ああ、あれをついて公爵につくのか」
「どうだ?いい考えだろ」
 笑って相棒に問うエローシカであった。
「これは」
「そうだな。これだと問題ないな」
 スクーラも頷く。確かにその通りであった。
「これなら」
「ああ。じゃあやるか」
「よしっ」
 二人はすぐに鐘楼のところに駆けて行き。そうして鐘を鳴らすのだった。
「皆、こっちだ!」
「すぐに集まるんだ!」
 鐘を鳴らしながら叫ぶ。
「早く来い!」
「時が来たぞ!」
「時!?」
「何なんだ、まさか」
 敵が来たのかと思った。しかしそれは違っていた。見れば公爵がいたのだ。誰もがその姿を認めて驚きの声をあげるのであった。
「何と、戻られている」
「まさか」
「だが本当だ」
 そう、これは真であった。公爵は今確かにそこにいる。それは見間違えようがなかった。
「公爵がおられる」
「帰って来られたのだ」
「おい、酔っ払い共!」
 民衆はエローシカとスクーラを見上げて声をかける。彼等も二人の有様は知っていたのだ。だからここで酔っ払い達と呼んだのである。
「どういう心変わりだ!?」
「何のつもりだよ」
「何のつもりもないさ!」
「今これを伝えてるだけさ!」
 二人はそう彼等を見下ろして言い返す。彼等にしてもここが正念場なのだから。
「わかったら早く行きなよ!」
「公爵様を出迎えるんだ!」
「要領のいい奴等だな」
「全くだ」
 そのことに釈然としないものを感じながらも。それでも喜びを前にして彼等は笑顔になろうとしていた。彼等にとっての絶望が去り今幸せが訪れようとしていたからだ。
「しかし」
「そうだな」
 彼等もそれを笑顔で言い合うのだった。
「公爵様がおられるのなら」
「すぐにでも」
「公爵様!」
「ようこそお帰り下さいました!」
 彼等は勇んで公爵のいる城門のところへ集まる。エローシカとスクーラはそれを見てほっと胸を撫で下ろすのだった。
「これでよし」
「助かったな」
 そういいあって鐘楼から下りて去ろうとする。しかしそこに。
「待つのだ」
「えっ!?」
「まさか」
 そのまさかだった。ロシア正教の司祭が一人彼等の前に立っていた。仁王の様な顔で。
「逃げられたと思ったな」
「それはその」
「つまり」
「残念だがそうはいかん」
 彼は厳しい調子で二人に告げる。
「わしの目の黒いうちは。許さぬぞ」
「それでは一体」
「わし等はどうなるんで」
「本来ならば死罪だ」
 やはりそれであった。
「全く以って許せぬ。よくて縛り首」
「悪ければ」
「何になるかさえわからぬ」
 二人への返答は脅しではない。ロシアの処刑は血生臭いことで有名だがこのルーシーと呼ばれた時代からそうなのだ。彼等もそれを知っているからこそ顔を青くさせた。
 ところが。ここで司祭は急に笑顔になった。そうして言うのだった。
「だが今は喜びの時。我等の希望が帰って来た」
「へい」
「そうですね」
「それを第一に我等に伝えてくれたのはそなた達であるのも事実、だからこそ」
 彼は言葉を続ける。
「不問に処す。感謝せよ」
「はい」
「神と公爵様と」
「正教にな。それでは」
 司祭は彼等に赦しの言葉を与え。それからまた言うのだった。
「行こうぞ、公爵様のところへ」
「ですね」
「希望のところへ」
 何だかんだでちゃっかりとついて行く二人であった。そこには民衆と軍勢が集まっていた。その中央には公爵とヤロスラーヴナがいる。まるで主の様に彼等の輪の中にいた。
「では愛するルーシーの民達よ」
 公爵は厳かに彼等に告げた。
「これより私は偉大なるハーンを退けルーシーの全てを守る」
「是非共!」
「お守り下さい!」
「神は今度こそ我等に勝利をお与え下さる。そして」
「そして」
「栄光と繁栄を!」
 それをまた彼等に対して告げるのであった。
「それを手に入れる為にいざ!」
「戦場へ!」
 兵士達が一斉に叫んだ。
「今度こそ我等の手に勝利を!」
「栄光を!」
「ルーシーの全てに栄光あれ!」
 司祭達も兵士達も民衆も貴族達も誰もが叫ぶ。そうしてそれを公爵にも向ける。
「それをお与え下さるイーゴリ公に栄光あれ!」
「ルーシーに永遠の栄光を!」
 運命の戦いに向かう彼等には見えていた。これからの栄光が。公爵は颯爽と馬に乗る。そうして愛する妻とルーシーの者達の祝福の声の中戦場に向かうのだった。もうそこには暗きものは何もなかった。東の太陽は黄金に輝き彼等を照らし出している。そうして白いマントを黄金色の翼の様に輝かせていたのであった。


イーゴリ公   完


                                2007・11・9



無事に戻ってきたな。
美姫 「ええ。その後、どうなったのかは書かれていないわね」
そこは妄想の翼を広げて……。
美姫 「それにしても、今までとはちょっと違った感じの終わり方よね」
だな。しかし、これはこれで面白いな。
美姫 「そうね。投稿ありがとうございました」
ありがとうございます。



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