『ドリトル先生と春の花達』




           第十一幕  和歌会

 遂に学園そして神戸中の桜達が一斉に咲きました、先生は学園でその桜達を見て笑顔で言いました。
「よかったよ、いつもの時に咲いてね」
「うん。寒くてどうなるかって思ったけれど」
「いつも通り咲いたね」
「遅れることなくね」
「無事にね」
 一緒にいる動物の皆も笑顔で応えます。
「満開になったね」
「凄く奇麗だよ」
「香りもいいし」
「桜最高だよ」
「これ以上はないまでに」
「日本の春だよ」
 先生は目を細めさせてこうも言いました。
「遂に春が来たんだよ」
「暦の上ではもう春でもね」 
 ポリネシアがここで言いました。
「日本は桜が咲いてってなるわよね」
「他のお花が咲いてもまだ春って思えないんだよね」
 ガグガブも日本人のことを思うのでした。
「蒲公英も梅も桃も菊もね」
「やっぱり桜だね」
「そうよね」
 チープサイドの家族も桜達を見ています。
「日本人の春は」
「桜がないとはじまらないね」
「これで春になったね」
 ジップは桜を観つつ尻尾を左右にぱたぱたと振って喜んでいます。
「神戸もこの学園も」
「私達もそう思えてきたわ」
 ダブダブは自分達のことをお話しました。
「春になったわ」
「日本にいたらそう思えるよね」
「桜が咲いて春になるってね」
 オシツオサレツも前後の頭で言います。
「一年もはじまるって」
「そういう風にね」
「本当に桜って日本人の中で大きいね」
 ホワイティは老馬の背中の上でしみじみとなっています。
「第一のお花なんだね」
「国花以上のものがない?」
 チーチーはこう思うのでした。
「神様みたいになってる?」
「あっ、そうかもね」
 最後の老馬がチーチーに応えました。
「日本人にとって桜はね」
「そうかもね、桜があってね」
 先生も皆にお話します。
「日本人の心があるってね」
「そう言ってもいい位だよね」
「日本人にとって桜って大事だよね」
「咲いてこの目で見ればあらためてわかるわ」
「桜が日本人にとってどういったお花か」
「このことがね」
「桜にも神様がいるけれど」
 八百万のその神様たちがです。
「かなり素晴らしい神様だね」
「そうだよね」
「日本人に春、そして一年のはじまりを知らせてくれる」
「そうした神様だね」
「僕達もその神様を見ているんだね」
「棒達のこの目で」
「そうだよ、じゃあね」
 先生は皆にさらに言いました。
「明日遂に和歌会だけれど」
「その和歌会もね」
「神様がいるんだね」
「じゃあ桜の神様と和歌の神様に見守られながらね
「先生も和歌をするんだね」
「そうなるね、ここでびっくりするのはね」
 先生がそうなったことはといいますと。
「僕がキリスト教徒でもね」
「和歌をしていいんだよね」
「神道に触れてもね」
「それでもいいのね」
「そうだよ、クリスチャンが神社やお寺に行ってもいいし」
 日本ではです。
「和歌を詠んでもいいんだ、前に相撲部の臨時監督もさせてもらったけれど」
「あっ、相撲もだよね」
「あれも日本の神様と関係深いんだよね」
「神道の行事でもあってね」
「お塩も撒くし」
「そうした行事でもあるね」
「そうだよ、そうでもあるんだよ」
 お相撲もというのです。
「あちらもね」
「それでも普通だったよね」
「クリスチャンの先生が監督さんになってもね」
「皆何も言わなかったね」
「これまで色々な神社やお寺も行ってるけれど」
「何か言われたことないよね」
「一度もね」
 皆が覚えている限りそうです。
「明らかに外国の人でも」
「先生が参拝したりしてもね」
「日本の人言わないよ」
「お相撲の時だけじゃなくて」
「キリスト教が唯一の宗教でも神様でもないからね」
 日本ではです。
「そこが違うしね」
「そうだよね」
「それで和歌もいいんだよね」
「これも神事であることがあるけれど」
「先生が詠っても」
「来る者は拒まずだね」
 日本の宗教はとです、先生は言いました。
「だから和歌も詠っていいんだよ」
「そういうことだね」
「じゃあ明日の和歌会もだね」
「来る者は拒まずで」
「やっていこうね」
「そういうことだね、ただ今回は神事の面もあるけれど」 
 それでもというのです。
「催し、楽しみというものだよ」
「だから希望する人は誰でも参加出来て」
「それで詠えて」
「お茶も出て」
「それで飲めて」
「お茶も楽しみだね」
「うん、お茶は大好きだからね」
 先生の大好物です、今や紅茶だけでな日本のお茶もです。だからこちらも楽しみにしているのです。
「是非飲ませてもらうよ。ただ平安時代お茶は滅多になかったよ」
「あっ、高くて」
「その頃はお茶よりずっと高くてね」
「その頃はむしろお酒を飲んでいて」
「お茶じゃなかったね」
「お茶が普通に飲まれる様になったのは大体安土桃山時代からでね」
 あの千利休が出た頃からです。
「江戸時代にはおおっぴらにね」
「飲まれる様になって」
「それからだったね」
「イギリスでもお茶が飲まれる様になったのは比較的最近だったしね」
「皆が飲める様になったのは」
「お茶は特別なものだよ」
 先生はこうまで言いました。
「これが完全に飲まれる様になったのは本当に最近でね」
「日本でも江戸時代からね」
「平安時代にはなくて」
「その頃は歌を詠ってもだね」
「お茶は飲んでいなかったわね」
「お酒をよく飲んでいたね」
 当時の和歌会ではです。
「今度の和歌会も出るけれどね」
「じゃあ先生どっちも飲めるね」
「お茶もお酒も」
「そっちも楽しんでね」
「是非ね」
「そうさせてもらうよ、けれど第一は和歌だね」
 そちらが主だというのです。
「和歌を詠うことを主にやっていくよ、じゃあ今は」
「うん、研究室に戻ってね」
「論文を書いて」
「和歌会の用意もしよう」
「そちらもね」
 皆は先生の秘書的な役割もしています、そうしてとかく世事のことには疎い先生を助けているのです。
 それで、です。今もなのです。
「僕達も手伝うから」
「準備もしていきましょう」
「忘れものとか抜かりはないか」
「そうしたことをね」 
 是非にとお話してです、そうしてでした。
 先生はアマゾンマナティーの論文も書いて明日の和歌会の用意もしていきました。そして用意が終わったところで。
 王子が執事さんと一緒にお部屋に入ってきました、そのうえで動物の皆の手助けを受けてお仕事を終えた先生に言いました。
「今和歌会の準備終わったんだ」
「うん、そうだよ」 
 先生はその王子に笑顔で答えました。
「これで明日もね」
「無事にだね」
「参加出来るよ」
「準備万端整って」
「心置きなくね」
 先生は笑顔のまま王子にお話します。
「出来るよ」
「それはいいことだね、それで僕も参加するけれど」 
 ここでこうも言った王子でした。
「お花見するんだよね」
「うん、今年もね」
「悪いね、僕も招待してくれて」
「王子も来てくれるよね」
「うん」
 先生は王子に笑顔で答えました。
「その日は幸い予定もないし」
「それじゃあトミーも皆も来てくれるし」
「楽しく飲んで食べられるね」
「桜も観てね」
「日笠さんも来るよね」
「うん、お誘いかけたら凄く喜んでくれてね」
 そしてというのです。
「絶対に行きますって言ってくれたよ」
「日笠さんがそう言わない筈がないし絶対にね」
「来てくれる」
「そうなるよ」
 こう言うのでした。
「日笠さんならね、ただね」
「ただ?」
「いや、何もないよ」
 先生は日笠さんが先生についてどう思っているのかをヒントでお話するつもりでしたが止めました、先生は気付かないと思って。
「気にしないで」
「うん、じゃあね」
「それでお弁当持って行くよね」
「お握りにから揚げ、ハンバーグにエビフライってね」
「卵焼きや野菜のお浸しもだよね」
「そう、それとね」
 さらにというのです。
「デザートのフルーツも沢山持って行くから」
「そちらもね」
「お野菜とかも忘れないで」
「勿論フルーツもね」
「じゃあかなり沢山のお弁当になるね」
「王子もシェフの人が作ってくれるんだよね」
「それ持って来るからね」
 王子もそうだと答えます。
「宜しくね」
「そちらもね、日笠さんも作って来るって言ってたし」
「やっぱりね」
「あれっ、やっぱりなんだ」
「うん、やっぱりだよ」
 王子は先生ににこりとしてお話しました。
「日笠さんならだよ」
「日笠さんならね」
「そうだよ」
「王子って日笠さんとはお知り合いだね」
「うん、お友達になってるよ」
「そうだね、ただね」
 お友達なのはわかってもというのです。
「王子随分と日笠さんのことをわかってるんだね」
「いや、あまり知らないよ」
「そうなのかな」
「人は他の人のことを知ってるか」
 幾らお友達でもというのです。
「中々知りにくいよね」
「うん、誰よりも一番その人を知ってると言う人はね」
 先生はこれまでの生活で得た知識からもお話しました。
「実はね」
「全然知らなかったりするよね」
「そういうものだから」
「というかそんなこと言う人はね」
 ある人のことを一番よく知っている人こそとです、王子も言います。
「人のことをわかってない人だね」
「そうした人がいるね」
「僕が見てきた限りだとそうした人ばかりだよ」 
 王子の場合はそうだというのです。
「人のことが何もわかっていないからね」
「そう言うっていうんだね」
「逆にね」
「そうなんだね、王子から見れば」
「うん、だから僕そうした人はね」
「あてにしないんだ」
「そうすることにしているよ、人間程わかりにくいことはないし」
 それにというのです。
「謎が多いものはないから」
「よく知ることも難しい」
「そういうものだからね」
「若くてもよくわかってるね」
「そうかな」
「わかりにくい、知りにくいものを自覚することもね」
 まさにそれこそがというのです。
「知るということだからね」
「だからわかってるって言ったんだ」
「僕もね」
 そうだったというのです。
「そうだったんだ」
「成程ね、まあとにかく僕も日笠さんのことはね」
「よく知らないんだね」
「そうだよ、けれど知っていることもあって」
「その知っていることは」
「日笠さんがお花見に参加してお弁当を作って持って来ることはね」
 まさにこのことがというのです。
「僕もわかってたよ」
「そうなんだ」
「うん、よくわかってたよ」
 また言った王子でした。
「読んでいたともいうべきかな」
「そうだったんだ、けれどね」
「けれど?」
「先生は人を知ることも出来る人だけれど」
 ここでは苦笑いになる王子でした。
「あることについては全然だからね」
「そうそう、本当にね」
「先生はそうしたことは駄目で」
「私達も困ってるし」
「やきもきばかりして」
「和歌にも詠わないわね」
「そうした気持ちは」
「何かわからないけれど」
 それでもと返した先生でした。
「とにかく和歌会には出るからね」
「うん、じゃあね」
「桜と想いを詠ってね」
「そっちをね」
「是非ね」
「そうするよ」
 そして実際にでした、先生は動物の皆を連れてそのうえで和歌会に参加しました。そうしてでした。
 ある桜の下に敷きものを敷いてです、札に筆で和歌を書いていきました。一首一首とです。
 そうして五首程詠んでからお茶を飲んでいると皆こう言ってきました。
「五首ってペース早いね」
「まだ一時間程なのに」
「すらすら書いてるね」
「先生って詠える人なんだ」
「うん、謡えるけれどね」 
 それでもと言う先生でした。
「こんなに調子がいいのははじめてだよ、和歌も初心者なのに」
「前に英文の詩を書いていたせいかな」
「それで書くのも進めてる?」
「そうなの?」
「昔から和歌も勉強してたし」
「それでかな」
「うん、そうかもね」
 こう言ったのでした。
「英文と学んでいたのがよかったのかな、いや」
「いや?」
「いやっていうと?」
「何か自然になんだ」
 先生の思いとは違ってというのです。
「筆が進んでね」
「詠めているんだ」
「そうなんだ」
「だから一時間で五首も詠めたんだ」
「あっという間に」
「こんなに詩が出来るなんて」
 本当にというのです。
「神様に書かせてもらってるのかな」
「桜の神様に和歌の神様に」
「そうした神様達に」
「そうかも知れないよ」
 こうも言うのでした。
「この調子のよさはね」
「そういえばどんどん詠っている人多くない?」
「そうだよね」
「周りを見たらね」
「詠ってる人多いし」
「何首も」
「僕だけじゃなくて皆ね」 
 それこそというのです。
「調子よく詠ってね」
「満開の桜の下で」
「じゃあこれはね」
「桜の神様、和歌の神様がそうさせてくれてる?」
「先生も他の人達も」
「そう思えてきたよ」
 こう皆に言います。
「ここはね、じゃあ一杯飲んだら」
「まただね」
「歌詠むんだね」
「そうするんだね」
「そうするよ、いやこのままいったら」
 にこにことしたまま言う先生でした。
「二十首は詠めるかもね」
「百人一首じゃなくてだね」
「二十首だね」
「一人で一日そこまで詠えるって凄いよ」
「先生和歌の神様に愛されてるね」
「桜の神様にもね」
「いや、そうだとしたら有り難いね」
 心から思う先生でした、お茶と一緒に出されている桜餅もとても美味しくてそちらも先生を楽しませています。
「正直楽しむつもりだったけれど」
「一首詠めるか」
「それが不安だったんだね」
「詠えないかもって」
「そうも思って」
「そうだったんだ、それがね」
 先生の不安は杞憂に終わってです。
「詠めるね、それとね」
「それと?」
「それとっていうと?」
「いや、あちらの子だけれど」
 見れば白い詰襟の学生服の子が先生の近くの場所に座ってしきりに和歌を詠っていっているのですが。
 中々鬼気迫るお顔です、先生は中学生らしきその子を見て首を傾げさせつつ動物の皆に尋ねました。
「あの子は桜とね」
「うん、虎だね」
「虎がどうとか言ってるね」
「猛虎とか優勝とか」
「もう無茶苦茶だよ」
「そういえばペナントはじまったし」 
 プロ野球のそれがです。
「そしてね」
「昨日阪神負けたね、確か」
「カープにね」
「それで、みたいだね」
「あんなに荒れてるんだね」
「今年もってなって」
「いや毎年この季節はね」
 春になるとです。
「ああして賑やかな子が出るけれど」
「そうそう、阪神がどうとかね」
「イギリスじゃサッカーだけれどね」
「日本じゃおおむね野球でね」
「特に関西はなんだよね」
 まさになのです。
「阪神なんだよ」
「そうそう、先生も好きだしね阪神」
「来日まで野球に興味なかったのに」
「今じゃ立派な阪神ファンね」
「そうなったね」
「うん、一度テレビで観てね」
 来日してすぐにです。
「阪神の試合を、それでだったね」
「阪神好きになったね」
「私達もだけれど」
「観ていて華があって」
「勝っても負けても」
「それでも」
 何故か阪神というチームはそうだとです、皆も言います。実は皆も阪神タイガースが大好きなのです。
「華があって絵になって」
「凄く面白くて」
「いいんだよね」
「負けても絵になるなんてないよ」
「そんなチーム阪神だけだよ」
「そう、そこに魅入られてね」
 先生もというのです。
「僕も応援しているけれど」
「あの白い学生服の子はね」
「何か違うよ」
「負けたからってこともあるみたいだけれど」
「優勝とか言いながら書いてるじゃない」
「それも鬼気迫る顔で」
「隣にいる女の子も」
 男の子の横には小学四年生位の女の子がいます、頭には昨日阪神に勝ったカープの帽子がなって上着も赤い色です。
「何か優勝優勝言ってるし」
「あの娘はカープで」
「時々むっとしたお顔で言い合っていて」
「兄妹かな」
「そうじゃないの?」
「うん、兄妹みたいだね」
 実際にとです、先生も思いました。
「あの子達は」
「そうなんだね、やっぱり」
「阪神がどうとかで」
「何かいつも言ってるけれど」
「あの子達何なのかな」
「和歌を詠ってても」
「まず頭に野球があるみたいだね」
「あの子達はあれだね」 
 また言った先生でした、桜に野球を入れて鬼気迫るお顔で声にも出して書いている二人を観ながら。
「虎キチと鯉女なんだよ」
「あっ、話題のね」
「日本の野球ファンの間でも最も強烈な二つの人種だね」
「それぞれ阪神と広島の為に生きている」
「そうした人達なんだ」
「だから和歌を詠っていても」
 このことは先生と同じですが。
「その心にはいつも野球があるんだ」
「そういうことだね」
「イギリスのサッカーマニアの人達ってことね」
「時としフーリガンにもなる」
「あの人達ね」
「そうだよ。彼等はね」
 まさにというのです。
「常に心が野球にもあるから」
「和歌にも野球を入れる」
「そうなるのね」
「そういう和歌もあるんだ」
「和歌って幅が広いね」
「そうだよ、一歩間違えたら川柳になるけれど」
 和歌と川柳は違うにしてもというのです。
「あの子達は和歌を詠っているみたいだね」
「ううん、野球の和歌ねえ」
「平安時代にはなかったけれど」
「そうした和歌もあるんだ」
「いい勉強になったわ」
「和歌も時代によって変わるからね」
 だからとお話する先生でした。
「昔は矢とか馬とか蹴鞠も入れてたよ」
「平安時代のスポーツね」
「その時に行われていた」
「そうだよ、だから野球があってもいいけれど」
 それでもというのです。
「あの子達はかなり真剣だね」
「というか二人共一首一首凄い速さで詠ってるし」
「小学生の娘まで」
「よっぽどそれぞれのチームに思い入れがあるのね」
「阪神と広島に」
「それがわかるよ、というか兄妹で応援するチームが違うと」
 それならとも思う先生でした。
「厄介なことにもなるね」
「また言い合ってるしね、二人で」
「聞こえるよ、阪神が優勝とか昨日負けたでしょとか」
「お決まりのやり取りね」
「何ていうかオーソドックス?」
「日本でもどの国でも」
「そうだね、まあ兄妹仲は悪くないし」
 見ればその距離は近いです、二人並んで座っています。
「言い合っても本気で怒ってないしね」
「というか何処か寛大?お互いに」
「相手のチームに対して」
「昨日勝ち負けになったけれど」
「それでも」
「あれも特徴だね」
 先生はまた言いました、またお茶を飲んでから。
「阪神ファンと広島ファンの」
「他のチームには寛大だね、そういえば」
「巨人以外には」
「巨人に負けたら凄く怒るけれど」
「どっちのチームのファンも」
「まあ巨人は悪だからね」
 先生が見てもです、このチームは戦後日本のモラルの崩壊を象徴し邪悪の限りを尽くす存在なのです。
「嫌うのも当然だよ」
「いや、そうだね」
「巨人は話が別だね」
「だからあの子達も若し巨人だったら」
「あんなに何処か和気藹々としてないね」
「お互いに寛容じゃないわね」
「いや、何か阪神ファンも広島ファンもね」
 ホワイティが言うには。
「お互いには本当に寛容だよね」
「負けてもそんなに怒らないのよね、お互いに」
 ポリネシアが見てもそうです。
「それが巨人には別で」
「というか巨人への感情凄いよ」
 チーチーはそれぞれのファンのこの感情を指摘しました。
「それで負けた時なんか」
「甲子園の一塁側に行ったら」
 その時のことをです、ジップはお話しました。
「相手が巨人だと凄いから」
「というかもう球場全部が凄くて」
「揺れるしね、球場が」
 チープサイドの家族もその揺れを見たことがあるのです。
「縦に横に」
「特に巨人戦だと」
「あの応援を観ていたら」
 トートーも思うのでした。
「どれだけ巨人への敵愾心が強いかわかるよ」
「それは阪神だけじゃないんだね」
 老馬は女の子を見つつしみじみとしたお顔で言いました。
「広島もなんだね」
「いや、猛虎魂っていうけれど」
 ガブガブも思いました。
「巨人に対してはそれが別格だね」
「もう負けた時なんてね」
 ダブダブもその時の荒れ様を知っています。
「大惨事だから」
「あの有様を見るとね」
「フーリガンだよ」
 オシツオサレツが二つに頭で言いました。
「まさにね」
「そのものだよ」
「暴れるのはよくないよ」
 例え巨人に負けてもです、先生は紳士として言いました、
「そうした時こそ我を忘れない」
「それが大事だよね」
「どんな負け方をしても」
「例えそれが続いても」
「それでもよね」
「そうだよ、折角負けても華があるチームなんだよ」 
 阪神はそうしたチームだからというのです。
「それで負けて荒れるとかね」
「やったら駄目だよね」
「負けて荒れるなんて」
「まさにそうした時こそ落ち着く」
「紳士はそうあるものね」
「そう思うよ、そこはしっかりしないと」
 負けた時こそ自分を保ち礼節を守らないといけないというのです。
「駄目だよ、僕も気をつけてるしね」
「先生はそこはしっかりしてるね」
「いつも紳士だよ」
「穏やかで礼儀正しくて」
「例え阪神が巨人に負けても」
「それでもね」
「そう、そもそも阪神はいつも何かがあるチームだからね」
 このチームの宿命でしょうか。
「肝心な時にアクシデントやミスやそこからの敗北とかね」
「本当にいつもだよね」
「阪神の場合は」
「毎年みたいにそうで」
「中々優勝出来ない」
「そうしたチームよね」
「そのこともわかってね」
 そのうえでというのです。
「やっていかないと駄目だよ」
「その通りだね」
「このことも分かって応援しないと」
「大きな心で応援する」
「それが大事だね」
「僕もそう思うよ、それと和歌もね」
 兄妹もそれはしていますが。
「ああして鬼気迫るものじゃないと思うけれどね」
「和歌というか野球?」
「そっちへの情熱が動いてる?」
「それもかなり」
「そうなってるわね」
「それはね」
 どうにもというのです。
「和歌の普通の楽しみ方じゃないかもね」
「だからだね」
「もっと落ち着いてだね」
「平常心で詠っていく」
「そうあるべきね」
「僕はそう思うよ、スポーツの観戦は紳士の嗜みだよ」
 それこそ観劇の様にというのです、先生はそうしたことは余裕を以て勝ち負けではなくスポーツ自体を観て楽しむべきだと考えているのです。
「だからね」
「歌にするにしても」
「落ち着いてなのね」
「紳士的に」
「そうあるべきね」
「僕はそう考えているよ、ただ彼等は幸せみたいだね」
 またそれぞれのチームのことで言い合っている二人を見ての先生のお言葉です。
「本当にそれぞれのチームを愛しているからね」
「その愛情が過ぎていても」
「全力で応援出来て」
「それで応援に打ち込める」
「だからなのね」
「そう、それが出来るってね」 
 本当にというのです。
「凄く幸せなことだよ」
「そういえば詠うそのお顔も明るいし」
「お茶も桜餅も楽しんでるし」
「何だかんだで和気藹々としてるし」
「幸せみたいね」
「他人に迷惑をかけない幸せならね」 
 それならというのです。
「いいんだよ」
「あの兄妹はちょっと怪しい感じだけれど」
「迷惑かけてそうな」
「けれどそれでもね」
「幸せなのは確かね」
「願わくば落ち着きという徳分を備えて欲しいけれど」
 兄妹にはというのです。
「けれどね」
「それでもだよね」
「幸せなのは確かね」
「愛するチームがあって戦力で応援出来て」
「そのことだけで」
「僕はそう思うよ、さてお茶も飲んだし」
 後でお代わりはするつもりです。
「また詠もうか」
「そうしようね」
「また一首詠おう」
「それで終わりまで詠って」
「そうして楽しんでいきましょう」
「今日はね」
「そうしようね」
 先生は笑顔で応えてそうしてでした。
 再び歌を詠いました、目の前の兄妹がどんどん詠っていくのを観ながら。
 そして和歌会が夕方に終わった時にです、会場を出たところでまた皆に言われたのでした。
「入賞しなかったね」
「参加賞は貰ったけれど」
「それだけだったね」
「優勝した人は文学部の教授さんで」
「和歌を専攻だったし」
「しかも歌人としても有名って」
「そんな人だったし」
 皆は残念そうに言います。
「他の人達も凄くて」
「勝てる筈なかったね」
「先生も頑張ったけれど」
「入賞出来なかったわね」
「入賞はいいよ」 
 別にと返した先生でした。
「最初から考えてなかったしね」
「そっちは興味なかったのね」
「先生としては」
「特にだね」
「そちらのことは」
「そうだよ、本当にね」 
 このことについてはというのです。
「最初から考えてなかったよ、それよりもね」
「和歌を楽しめるか」
「そのことが大事だったのね」
「先生にとっては」
「そうだったのね」
「うん、だからね」
 それでというのです。
「僕は満足しているよ、充分詠えたし」
「桜も奇麗だったし」
「和歌会の雰囲気も全体的によかったし」
「お茶も桜餅も美味しくて」
「それでなのね」
「うん、もうね」 
 それこそというのです。
「満足だよ」
「そうなのね」
「じゃあこれでなのね」
「満足して帰って」
「お休みね」
「そうしよう、さて明日はね」
 先生はにこにことして明日のこともお話しました、夕暮れ時の学園の中を皆と一緒に歩きながら。
「お花見だけれど」
「うん、そっちも楽しもうね」
「今度は歌は詠わないけれどね」
「桜を観てね」
「美味しいものを飲んで食べて」
「皆で楽しもうね」
「是非ね、それとね」 
 さらに言う先生でした。
「よくお花見の時に焼肉する人いるね」
「うん、バーベキューみたいに」
「それを食べる人もいるね」
「それで後片付けもちゃんとする」
「それも大事よね」
「そう、焼肉もいいと思うけれど」
 それでもというのです。
「今度機会があったらね」
「お花見の時に焼肉ね」
「それも楽しむのね」
「先生もそうしたいんだ」
「焼肉も好きだからね」 
 先生は日本に来てこちらのお料理も知ったのです。
「本来は韓国のお料理だけれど」
「日本でも普通に食べてるね」
「お外でも」
「あれがまたいいんだよね」
「お野菜も焼けるしね」
「タレもいいしね」
 ここではおソースではありません。
「ああしたお肉の楽しみ方もあるんだね」
「じゃあ今度お家でもする?」
「トミーにお願いしてそうしてもらう?」
「お家で焼肉」
「そうする?」
「いいかもね」 
 まんざらでない先生でした。
「それじゃあ今度トミーに言ってみよう」
「そういえば最近お鍋とかが多くて」
「寒かったこともあって」
「焼肉食べてなかったし」
「丁度いいかも」
「肉料理も色々とある」
 先生はこうも言いました。
「日本の食文化のいいところの一つだよね」
「お魚だけじゃなくてね」
「そちらもよく食べられるっていいよね」
「牛肉だけじゃないし」
「何かといいね」
「うん、ただ羊はね」
 マトンやラムはといいますと。マトンは大人の羊、ラムは子羊のお肉です。
「あまりないね」
「そういえばそうだね」
「日本では羊肉あまり食べないね」
「牛肉よりも」
「そして他のお肉よりも」
「そうなんだよね、どうもね」
 少し首を傾げさせて言う先生でした。
「日本では馴染みがないね」
「美味しいのにね」
「日本人が気にするカロリーも少ないし」
「それに栄養価も高いのに」
「それでもだよね」
「日本人羊はあまり食べないわね」
「そこが少し気になるね」
 イギリスから来た先生にしてはです。
「日本にもムスリムの人達やオーストラリアからの人達が増えてきているのに」
「そうしたところだとお肉は羊だしね」
「メインはね」
「牛肉や鶏肉よりもで」
「第一は羊なのに」
「それでもだよね」
「日本では羊肉少ないね」
「どうにも」
「そこが気になるね」
 どうにもと言う先生でした、再び。
「あるにはあっても」
「それでもね」
「日本では羊あまり食べないね」
「日本人牛肉もお刺身にするけれど」
「馬刺しもあって」
「けれど羊だとしないわ」
「山羊は沖縄にあったけれど」
 そうしたものはあってもなのです。
「本当に羊肉は馴染みなくて」
「安いのに、日本でも」
「あまり食べないわね」
「どうにも」
「このことは謎かな」
 先生から見てもです。
「羊肉の馴染みの薄さは」
「どうにもね」
「そこも研究対象にしてみる?」
「僕達もどうにもわからないし」
「それなら」
「そうだね、考えてみるよ」
 こう答えた先生でした。
「それで論文も書くかな」
「何でも論文書けるんだね」
「あらゆるものが学問で」
「特に先生はそうね」
「どんな論文も書くよね」
「うん、僕は色々な学問を楽しんでいるからね」
 それだけにというのです。
「羊料理の文化についても書けるよ」
「日本でどうして浸透しないのか」
「そのこともだね」
「書けるんだね」
「書こうと思えば」
「それも出来るよ、まあ今の論文と次の論文を書いて」
 そしてというのです。
「その後は予定がないからね」
「論文を書く予定は」
「それはだね」
「そう、ないからね」
 だからだというのです。
「書くことも考えておくよ」
「じゃあ今度の論文はそれかな」
「日本における羊料理のこと」
「それを書くのかな」
「そうなるかもね、けれどね」 
 それでもと言う先生でした。
「羊のお肉も食べたくなったよ」
「暫く振りにね」
「トミーにお願いしてね」
「皆で食べようね」
「そうしようね、ラムでもマトンでもね」
 そのどちらでもというのです。
「香辛料を効かしたのを焼いて」
「いいね、涎が出そう」
「いい感じね」
「じゃあそれ作ってもらおう」
「そうしよう」
「トミーに作ってもらおう」
 皆も先生のそのお言葉に頷きます、ただここで。
 先生は周りの夕暮れの桜達を見てこうも言いました。
「十二支、干支は日本にもあるけれど」
「そこに羊もあるよね」
「ちゃんとね」
「干支も国によって違うけれど」
「あるよね」
「うん、日本に中国にモンゴルにベトナムにね」
 先生は干支がある国を挙げました。
「ロシアもあるし最近はアメリカもだね」
「アメリカも中国系の人多いしね」
「だからだよね」
「アメリカも干支が浸透してね」
「ちゃんとあるんだね」
「そうだよ、けれど日本には羊はね」
 やっぱり桜を観つつ言うのでした。
「馴染みがないね」
「羊毛使った文化ないしね」
「そもそもね」
「お肉も食べなくて」
「家畜にもなってなくて」
「なったのは明治時代からだよ」 
 羊が日本で家畜化されたのはです。
「だからだよ」
「それでだよね」
「日本で羊が家畜になったのは最近で」
「干支だと牛や馬はいてね」
「そうした生きものは家畜になってるね」
「虎もいないね」 
 干支のこの生きものもというのです。
「野球の虎は有名で台湾や韓国が日本だった時はいたけれど」
「うん、そうだよね」
「虎も日本には縁が薄いよね」
「どうしても」
「そうなるよね」
「そうだね、だから虎は羊は桜ともね」
 日本人の心と言ってもいいこのお花にはとです、今も桜を観つつそのうえで思い言う先生でした。
「あまり関わらない感じだね」
「花咲か爺さんは犬出るけれどね」
「それでもだよね」
「羊は牧場だから草?」
「虎は竹林とかだね」
「そんなイメージだね、まあ竹林は日本にもあるよ」
 この国にもというのです。
「けれどね」
「それでもだよね」
「虎と羊についてはね」
「どうにもだよね」
「縁がないね」
「そうだね、どうしてもね」
 首を傾げさせつつ言う先生でした。
「虎はともかく羊はね」
「うん、縁がないね」
「日本にはね」
「それで桜とも」
「どうしてもね」
「このことが気になるね」
 また言った先生でした。
「僕としては」
「日本にも馴染みの薄い生きものがいて」
「それが羊ね」
「そういうことね」
「うん、だから食べられることも少ないんだね」
 このこと自体もというのです。
「そうなるね、まあこれからだね」
「羊のことは」
「日本でどう浸透していくかは」
「これからだね」
「そうだよ、桜にしてもね」
 このお花もというのです。
「かつては梅の方が有名だったしね」
「それが今では第一」
「そこまでになったしだね」
「だから羊のお肉も」
「これからなんだね」
「ずっと変わらないなんてことはないから」
 こうも言った先生でした。
「どんなことでも」
「それ真実だね」
「先生も今日本にいるし」
「そうなったしね」
「何でも変わるよね」
「そうだよ、だから楽しみにして」
 そしてというのです。
「また食べようね」
「羊のお肉を」
「そうするのね」
「是非ね」
 こうしたことをお話してでした、先生達は笑顔で帰宅しました。そしてトミーに和歌会と羊のことをお話したのでした。



無事に和歌会も終わったようだな。
美姫 「先生も満足したみたいね」
だな。楽しめたようで良かった。
美姫 「皆も楽しめたようだし」
次回はどんな話になるのか。
美姫 「次回も待っていますね」
ではでは。



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