『アイーダ』




                              第四幕
                             永遠の抱擁
 ラダメスは捕らえられた。彼は一切の弁明をせず取調べは順調に進んだ。このままいけば彼は軍事機密を漏らした罪で死刑であった。しかし彼は弁明をしないのであった。
 このままでは死刑は間違いない。アムネリスはそのことに焦っていた。
 裁判の神殿の前で彼女は一人やつれた姿でいた。ラダメスのことを想い眠ることすらできなくなっていたのだ。食事も碌に喉を通らなくなっていた。
「何ということ」
 彼女は一人呟く。
「あの方はこのままでは死罪になる。それなのに弁明をしない」
 そのことに焦りと不安を抱いていたのだ。それを止めることができない。
「けれどあの女と逃げようとした。エジプトを去り」
 怒りも混じる。心は複雑であった。
「裏切り者・・・・・・私を裏切ろうとした」
 俯いて己の半ば開かれ指を曲げた手の平を見る。目が大きく出て血走っている。その顔はまるで幽鬼のようですらあった。その顔こそが彼女の今の不安と焦燥の証であった。
「裏切り者には死を」
 怒りを含んだ声で言う。
「いえ、あの方は私のもの」
 しかしそれはすぐにラダメスへの愛に戻った。
「あの方も私を愛して下さるのならそれで私はあの方を救える。神官達に言って」
 その全てを賭けてラダメスを助けようとしていた。アムネリスもまだ純粋にラダメスを愛していたのだ。その気持ちは本物であった。
 そこにラダメスが来た。兵士に連れられている。だが兵士達は彼の今までの功績と人徳から決して疎かな扱いにはしていない。縄もかけず周りを囲んで進むだけである。アムネリスはその彼を見た。
「将軍っ」
「私はもう将軍ではありません」
 しかしラダメスはアムネリスにそう告げた。
「ですから」
「いや、そなたはまだ将軍だ」
 そこにランフィスもやって来た。そのうえでラダメスに対して言う。
「名誉は剥奪されてはいない。そして皆そなたを信じている」
「大神官・・・・・・」
「何かの間違いであろう」
 じっとラダメスを見て言う。
「そなたが裏切ったなぞ。申してみよ」
「そうです」
 アムネリスもランフィスに励まされるようにして言ってきた。
「真実を。そうすれば」
「弁明すればそなたは助かるのだ」
 二人はラダメスに対して言う。
「だからこそ」
「言って下さい」
「そうです、将軍」
 兵士達も彼に言ってきた。ラダメスを囲んで。
「どうかここは」
「そうすれば神官の方々も」
「私はお父様に御願いします」
 アムネリスは切り札を出してきた。
「ですから」
「いや、私は確かに間道のことを言ってしまった」
 しかしラダメスは彼等の言葉をあくまで受けようとはしなかった。顔を上げてはいるがその言葉を全て遮ってしまっていた。
「それは事実です。ですから」
「騙されたのであろう」
 ランフィスのその言葉通りであった。
「それでは致し方ない。間違いは誰にもある」
「一言だけ仰れば助かるのです」
「ですから」
「今の私には命を永らえる意味はない」
 アムネリスの言葉も兵士達の言葉も彼は受けようとはしなかった。
「死こそが」
「死んではなりません!」 
 アムネリスはこれまでにない強い声でラダメスに対して言った。
「貴女は私の夫になるべき方、貴方を愛して永遠に貴方と共に」
「そのお気持ちは有り難いです」 
 それがわからぬラダメスではなかった。わかっているのだ。しかし彼は自分を偽ることができなかったのだ。アイーダを愛するというその気持ちを。彼はアイーダを裏切ることも偽りの愛でアムネリスを傷つけることも、両方を拒んだのだ。その結果としての死でもあったのだ。
「全てを貴方に。祖国も玉座も命を」
「私は祖国もファラオも裏切ったのです」
 やはりラダメスはそれも受けなかった。
「その私にとって残されたのは死だけ。アイーダの待っているあの世界に行くだけです」
「アイーダは生きています」
 アムネリスは彼に告げた。
「生きているのですか」
「はい。戦いの中でエチオピアに逃れ今は兄王のところにいます」
「そうだったのですか」
「アモナスロ王は死にましたが」
「死んだのは王と兵士達だけ」
 アムネリスはそうラダメスにまた告げる。
「彼女は無事だったのです」
「わかりましら」
「ですから」
 それを話したうえでまた言う。
「ここは弁明を」
「そうじゃ」
 またランフィスが言ってきた。心から心配する顔で彼に声をかけるのであった。
「そうすれば命も名誉もそのままじゃ」
「将軍、ですから」
「それさえわかればいい」
 しかしラダメスはここで穏やかに笑うだけであった。全てを悟り見極めたかのような達観した微笑みがそこにあるだけであった。ラダメスは最早満足していた。
「最早悔いはない」
「悔いはない!?」
「ではそなたは」
「はい」
 驚いた顔で蒼ざめるアムネリスとランフィスに告げる。
「最早救いは必要ありません」
「死が救いだと言いたいのだな」
 ランフィスは険しい顔でラダメスに問う。
「そなたは」
「そう捉えて下さって結構です」
 顔を見上げてランフィスに返す。
「それで」
「もうすぐ裁判だ」
 ランフィスはそれでもラダメスに言う。
「それでもいいのだな」
「私には何も残っていませんので」
「大神官」
 アムネリスと兵士達は彼にすがってきた。頼れるのは彼しか残ってはいなかった。
「貴方の御力を」
「御願いします」
「わかっている」
 ランフィスは険しい顔のまま彼女達の願いに頷いた。
「だが。それでも」
「難しいのですか」
「この者が何も言わなければな」
 彼は歯を噛み締めて述べる。最早何もかもが苦しく、重い空気に満たされてしまっていた。ただ一人、ラダメスだけは。彼は無言でそこに立っているだけであった。
「では行こう」
 ランフィスはラダメスと兵士達に告げた。
「いいな、裁きの時間だ」
「はい」
 ラダメスはそれに頷く。そうしてその足で祭壇の中に入る。アムネリスはその彼を壊れそうになる顔で見送っていた。空は暗くなり暗雲で満ちてしまっていた。
「ああ、もうすぐ」
 祭壇の中へ入っていく神官達を見て声をあげる。彼等が裁判官を務めるのだ。
「どうして逃げないの、何故弁明しないの」
 ラダメスに対する言葉であった。
「そうすれば助かるのに。どうして」
「王女様」
「こちらでしたか」
 そこに侍女達が来た。そうして主の周りに来た。
「あの方がもうすぐ」
 アムネリスは彼等に顔を向けて言う。
「このままでは」
「ですが」
「裁判の場に入られるのは裁判官の方々と裁かれる者だけ、ですから」
「それでも私は」
 アムネリスは神殿を見やる。行きたいがどうしても行けなかった。侍女達が懸命に彼女を止めていたのである。それで動くことができなくなっていた。
「神々よ」
 神殿の中からランフィス達の声が聞こえてきた。裁判の前の詠唱である。
「我等が上に降り立ち永遠の光の輝きを以って我等を力づけ給え。我等の唇で貴方達の裁きを知らせ給え」
 神々への誓いである。神官達の誓いはそのまま神々への誓いになる。そういうことであった。つまり裁きには絶対の力があるということなのである。
「ラダメーーーース、ラダメーーーース」
 神官達が彼への尋問を開始した。その声が神殿の外にまで響き渡る。
「そなたは我がエジプトの秘密をエチオピアにもたらせたのか」
 ラダメスに問う。
「どうなのか?」
「間違いではないのか?」
 神官達は誘導にかかった。彼等もできることならエジプトの誇り高き英雄を救いたかったのだ。彼等もまたラダメスをよく知っておりその人柄も能力も愛していたのだ。
「間違いならば言え」
「過ちを認めればこれまでの功により罪は問われぬ」
 彼等はこうも言ってきた。しかしラダメスは答えない。
「答えぬのか?」
「罪になるのだぞ?」
 念を押す。しかしラダメスは答えようとはしなかった。
「それでは御主は」
「罪になる」
 彼等もそう判決せざるを得なかった。神殿の中からのその言葉にアムネリスは倒れ伏した。
「そんな、このままでは」
「王女様」
「御気を確かに」
 侍女達が彼女を助け起こして言う。しかしその言葉は耳には入らない。ただ暗雲の中で響き渡る絶望的な裁きの言葉に顔を蒼ざめるだけであった。
「このままでは」
「脱走しようとしたのか?」
 神官達はまたラダメスに問う。
「そなた程の勇者が」
「信じられぬが」
 神官達はここでも助け舟を出した。ランフィスも同じであった。
「そんな筈がないな」
 彼はラダメスに対して問う。
「そなたのような勇敢な男が」
「その通りだ」
 他の神官達も言った。
「これは何かの間違いだ」
「そなたは」
 しかしラダメスはこれにも答えない。やはり沈黙を守ったままだった。
「答えぬのか」
「ならばこれも」
「また・・・・・・罪が」
 アムネリスはまた絶望に覆われる。ラダメスは答えようとはしない。あくまで罪に服そうとする。わかっていたことだが彼女に受け入れられるものではなかった。
「最後の裁きだ」
 ランフィスはラダメスに対して告げた。
「そなたは国を裏切ったのか?ファラオも」
 あえて名誉とは言わなかった。ラダメスの名誉を守ってのことだった。
「どうなのだ?」
「今までのことも含めて言ってみよ」
「黙っていては何もならんのだぞ」
 必死にラダメスの言葉を引き出そうとする。それは絶望的な努力であった。そう、絶望的なものであった。やはりラダメスは答えなかったからだ。
「やはりか」
「では致し方ない」
 神官達も諦めるしかなかった。彼等は言った。
「判決を下す」
「裁きが。遂に」
 アムネリスは顔を上げてその言葉に顔を向ける。向けずにはいられなかった。
「ラダメス、そなたは地下の墓所に生きたまま埋められる」
 ランフィスが裁きを彼に下した。
「だが将軍として、エジプトの英雄としての名誉はそのままとする。その証として剣を最後に与えよう」
 そこで自害をせよとのことだった。せめて名誉の死を与えたのである。
「わかったな。では裁判は終わりだ」
「被告人ラダメス将軍は死刑」
「地下墓所で自害せよ」
「自害・・・・・・死!」
 アムネリスはその言葉に思わず立ち上がった。
「そんな・・・・・・どうしてあの方が」
「王女様、仕方ありません」
「将軍が望まれたことですから」
「私は望んでなぞいません!」
 泣いて侍女達に叫ぶ。
「あの方の死なぞ。誰が望みますか!」
「ですが」
「それでも」
「わかっています」
 頬に滴り落ちる涙をそのままに応える。歯を噛み締めていた。
「けれど・・・・・・何故・・・・・・」
 崩れ落ちる。そのうえでまた叫ぶ。
「私はあの人と一緒にいたいだけなのに!神々はそれを受け入れてくれないというの!」
「王女様」
 そこにランフィスが戻ってきていた。そしてアムネリスに声をかけてきた。
「これが運命なのです」
「運命・・・・・・何と残酷なもの」
「はい・・・・・・」
 項垂れてアムネリスに答える。
「全ては神々の・・・・・・」
「惨たらしい神々・・・・・・」
 アムネリスは顔をあげた。そしてまた言う。
「何処までも無慈悲で。どうして」
「神々を恨んではなりません」
 ランフィスは彼女に言葉を伝える。
「ですが。将軍の冥福を祈ることは」
「それだけが・・・・・・」
「はい」
 ランフィスは頷いてきた。
「それだけです。できるのは」
「わかりました」
 アムネリスは立ち上がった。そうして述べた。
「それではそうします」
「宜しいでしょうか」
「あの方のことは永遠に」
 顔を上げる。涙は流れたままだがそれでも言うのだった。
「私の心の中に。そうなのですね」
「はい、それでは」
「喪服を用意しなさい」
 アムネリスは侍女達に顔を向け告げた。
「そうしてそれを着て」
「ええ」
 侍女達もそれに応える。そうして彼女は彼女の愛を成就させようとしていた。彼女もまた愛を抱いていた。そのことに嘘偽りはなかったからだ。
 ラダメスは地下の墓所に入れられた。そこで将軍としての鎧と剣を与えられた将軍として、エジプトの英雄として自害せよというランフィスの気遣いであったのだ。
「ここが私の墓場」
 彼は辺りを見回して述べた。
「過ぎた墓場だな。そして」 
 腰の剣を見る。見事なものであった。
「これで自らを終わらせる。過ぎたことだ」
 覚悟はしていた。後は誇り高い死を自身で果たすだけであった。
 今それにかかろうと腰の剣を抜いた。だが。
「むっ」
 そこに誰かの姿が見えた。ラダメスは最初それを見ていぶかしんだ。
「幻か」
 最初はこう考えた。
「まさか」
「いえ」
 しかしその幻が声を出してきた。そしてラダメスの前にその姿をゆっくりと現わしてきたのだ。それは間違いなくアイーダであった。
「アイーダ、どうしてここに」
「わかっていましたから」
 彼女はそっとラダメスのところにやって来て言った。
「全てが。だから」
「馬鹿な、それでもどうして」
 ラダメスは呆然としてアイーダに語る。あまりのことに我を失おうとしていた。
「祖国に帰ったのでは」
「私にとって祖国は貴方です」
 顔をム上げて言う。
「貴方しか。そして二人で」
「それは駄目だ」
 ラダメスは首を横に振った。そしてアイーダに言う。
「逃げるんだ、ここから」
「どうしてですか?」
「私の為に死ぬことはない」
 そうアイーダに告げる。
「私なぞの為に。そんなことは」
「いえ、全ては決めたのです」
 だがアイーダはそれを聞こうとはしない。まるで何かに取り憑かれたかのように。
「ですから」
「いや、それは駄目だ」
 ラダメスはまた首を横に振る。そうして扉へと向かう。だがそれは開きはしない。
「そうだったな」
 ラダメスはその閉じられた扉を見て力なく笑う。全ては彼が望んだことだったのだ。
「私は命を捨てていた。だから」
「私もです」
 アイーダはまたラダメスに告げる。
「貴方と共に」
「ではいいのか」
「御聞きになって下さい」
 上を見上げてラダメスに声をかける。
「声が。聴こえてきます」
「うむ」
 ラダメスはそれに頷く。確かに上から清らかな声が聴こえてきた。
「この声は。私への歌だ」
「貴方への」
「広大無辺なる神よ」
 巫女達の声が聴こえてくる。
「この世に命を与える神々よ」
「エジプトの神々の言葉だ」
「エジプトの」
「だが。同時に私達の天国を祈ってくれる神々だ」
 そうアイーダに告げる。
「天国の平和へ」
「私達の天国へ」
「いいのだな?」
 またアイーダに顔を向けた。そのうえで問う。
「私と共に」
「決意は変わりません」
 アイーダはこくりと頷いて述べる。その巫女達の声を後ろにラダメスに告げる。
「ですから共に」
「わかった。それでは」
 ラダメスは遂に最後の決意をした。もう言うことはなかった。
「共に行こう、いいな」
「はい」
「さらば大地よ」
「さらば涙の谷よ」
 二人は顔を見合わせる。そして最後の祈りを二人で行った。
「共に死後の幸福へ」
「そこで永遠の幸せを」
 アイーダはそう言いながら懐から何かを取り出してきた。それは小さな瓶であった。
「これに毒があります。私はこれで」
「私はこれを」
 ラダメスは剣を出してきた。
「これでそなたと共に」
「参りましょう」
「天国の平和にな」
「ええ。永遠の平和に」
「共に」
 今死へと向かう二人。その上ではアムネリスが巫女達と共にいた。
 喪服を着て下を見詰めている。じっとそこから目を離しはしない。
「永遠にさようなら」
 最後にラダメスに告げた。
「貴方とは。何時か幾度も生まれ変わってきって」
「王女様」
 巫女の一人が彼女に声をかけてきた。
「何?」
「宜しいのですね」
 怪訝な顔で彼女に問う。気遣う声で。
「エチオピアの王女が中へ」
「構いません」
 アムネリスは彼女に答えて述べる。じっと下を見ながら。
「あの方への想いが。だから」
「そうですか」
「報われなくても。実らなくても」
 唇を噛み締めて言う。全てに耐えながら。
「それが愛だから。ですから」
「そうなのですか」
「皆歌って」
 そのうえで巫女達に告げる。
「あの方の為に。何時までも」
「わかりました」
「これで。さようなら」
 涙がこぼれる。それは石の床の上に落ち下の世界へと滲み込んでいく。まるで天国へと旅立つ二人を清めるかのように。何処までも澄んだ、それでいて悲しい涙であった。


アイーダ   完

  
                             2007・4・12



アムネリスもまた愛した男のためにか。
美姫 「こういう結末だったけれど、アイーダを通すなんてね」
悲劇になるのかな、これは。
美姫 「ともあれ、これで完結なのね」
みたいだな。投稿ありがとうございました。
美姫 「ありがとうございました〜」



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