『アイーダ』




                          第二幕
                              凱旋
 ラダメスが出征して暫く経った。まだ音沙汰はない。
 勝っているのか負けているのかもわからない。人々はそれを少し不安に思いはじめていた。
 そんな中アムネリスはナイルの河畔で侍女達を周りにくつろいでいた。豪奢な白い衣を着て化粧までしている。その中で彼女はいた。アイーダも一緒であった。
「王女様」
 侍女達は椅子に安楽に座る彼女に声をかけてきた。
「何かしら」
「今日は優雅なものですね」
「そうね」
 アムネリスは彼女達の言葉に優雅に頷いた。彼女達にとってアムネリスは優しくよく気の利く優しい主人であった。少なくとも悪い主ではなかった。
「後は将軍が帰って来られるだけね」
「どうなのでしょうか」
「勝利は疑いがないわ」
 にこりと笑ってそう答える。
「間違いなくね」
「左様ですね。それは間も無くだと思います」
 侍女の一人が言う。
「エジプトの勝利が告げられるのは」
「その時は皆に私が祝いをあげるわ」
 優雅に笑ってそう述べる。
「皆にね」
「宜しいのですか?」
 侍女達はその言葉に驚きを見せた。
「私共なぞに」
「そのような」
「いいのよ」
 しかしアムネリスはこう述べる。
「私にとって貴女達は次女でも奴隷でもないわ」
 アイーダに言った言葉をそのまま彼女達にも言う。
「友人であり姉妹でもある。だから当然よ」
「有り難うございます」
「それでは」
「ええ」
 侍女達に顔を向けてにこりと笑った。
「その時を楽しみにしていてね」
「そうですね。ところで」
 ここで話を変えてきた。
「皆疲れたでしょう?休んではどうかしら」
 そう侍女達に声をかけてきた。
「えっ」
「休んでって」
「休息よ。私の命令よ」
 また彼女達に言う。
「だからね。いいわね」
「宜しいのですか?」
「あの、お側には」
「いいのよ」
 しかしアムネリスはそう彼女達に述べる。
「わかったわね。それじゃあ」
「わかりました」
「では喜んで」
 その言葉に応えて侍女達は姿を消す。アイーダも去ろうとする。しかしアムネリスは彼女は呼び止めたのであった。
「待ちなさい」
「えっ」
「貴女にあげたいものがあるの」
 優雅な笑みを表面に浮かべて述べてきた。
「いいかしら」
「わかりました。それじゃあ」
「ええ」
 こうしてアイーダだけが残った。そうして二人並んでいた。
 アムネリスは座っていてアイーダは立っている。アムネリスはその中で言うのであった。
「いいかしら、アイーダ」
「はい」
 アムネリスの言葉にこくりと頷く。ラダメスの出征以降顔が晴れない。それは今も同じであった。
 アムネリスは横目にそんなアイーダを見ている。そして声をかけるのだった。
「いいかしら」
「あの、それで」
「貴女への贈り物はね」
 じっとアイーダを見据えて言う。言葉を続けてきた。
「エチオピアのことよ」
「エチオピアの!?」
「そう、貴女の祖国」
「私の祖国のことを」
 それを聞いて顔を蒼ざめさせる。アムネリスはさらに言うのであった、
「祖国は無事のようね」
「そうなのですか」
 そのことにまずは安堵した。
「そうなのですか」
「そうよ。それでね」
「ええ」
「私は他にも貴女にあげたいものがあるの」
 今度は顔を彼女に向けてきた。
「私にですか」
「ええ。何でも言いなさい」
 アイーダに告げる。
「何が欲しいのかしら」
「それは」
(言いたい)
 ラダメスのことを。だが言えなかった。
 それだけはどうしても言えなかった。どうしてエチオピアの奴隷がエジプトの将軍に対して何が言えるのか。それを思うとどうしようもなかったのだ。
(けれどそれは)
(ふん)
 そんなアイーダをアムネリスも見ていた。じっとその表情を探っていた。
(やはり怪しいわね)
 心の中でそう述べた。
(どうにも)
(あの方のことばかりを思ってしまうのに。どうして言うことができないの)
(だとしたら彼女は私にとって)
(この苦しみから解き放れたい。けれど)
(恋敵。だとすれば)
「アイーダ」
 また彼女に優しい声をかける。
「何でも話しなさい。二人だけの秘密よ」
「王女様と」
「そうよ。私が嘘をついたことがあるかしら」
 にこやかな笑みをアイーダに見せてきた。
「ない筈よ」
「はい」
 アイーダもその言葉に頷く。確かにそれはその通りだった。アムネリスは誰に対しても嘘を言うことはなかった。そうしたことは言わない、それは王女の誇りからだった。
「では言いなさい。祖国が心配なのね」
「そうです」
 こくりと頷く。それは事実だった。
「けれど」
「けれど。何かしら」
「いえ」
 首を横に振る。
「何もありません」
「隠し事をする必要はないのよ」
 アムネリスはここで立ち上がってきた。
「だから。さあ」
「けれど」
「私は今悲しみを知ってしまいました」
(仕方ないわ)
 嘘を言うことにした。今はじめて嘘をつく。そのことに心を痛ませるがそれでも言わずにはいられなかった。そうしてでも探りたかったのだ。
「悲しみとは」
「エジプトにとってかけがえのない勇者を失うという悲しみを」
「それはまさか」
「ええ、そうです」
 その言葉に答える。
「そうなの。ラダメスはエチオピア軍によって」
「そんな・・・・・・」
 その言葉に思わず声を失った。
「あの方が、そんな」
(やはり)
 これで確信した。それにより嫉妬の炎が燃え上がる。最早自分でもどうにもならない。その激情で身を焦がしながらまた言うのであった。
「死にました」
「ああ!何故!」
「悲しいのですね?」 
 アムネリスは嘆きの声をあげるアイーダに対して問うた。
「あの方の死が」
「はい」
 今そのことをはっきりと認めた。
「どうして悲しまずにいられましょう」
「そう。わかったわ」
 アムネリスは嫉妬に身を焦がしながら頷いた。
「わかったわ。そのうえで貴女に謝罪するわ」
「謝罪!?」
「ええ。これは嘘よ」
 アムネリスは言った。
「嘘をついたことを謝罪するわ。王女としてしてはならないことをしたのを」
「どうしてそのようなことを」
「知る為よ」
 きっとして言った。
「貴女のことを」
「私のことを!?」
「ええ」
 きっとして睨み据えてきた。
「わかったのよ、今」
「まさかそれは」
「そうよ。嘘はつけないわよ」
 きっとアイーダを見据えていた。そのうえでの言葉であった。
「もうここまで来たらね」
「うっ・・・・・・」
「私はもう嘘はつきません」
 アイーダに対して宣言してきた。
「私もまたあの方を愛ているのです」
「えっ・・・・・・」
「今言いましたね。私もまたあの方を愛していると」
「そんな・・・・・・それでは」
「私と貴女は敵同士」
 アイーダを睨み据えて言う。
「あの方を巡っての。ファラオの娘が貴女の敵なのです」
「あの方が生きている」
 アイーダはまずはそのことに希望を見た。しかし。
「けれど貴女は」
「さあ、どうするのですか?」
 ずい、と一歩大きく前に出てアイーダに問い詰める。
「私と。闘うのですか?」
「ファラオの娘ですか」
「そうです」
 毅然として言った。
「そうでなくても私はアムネリス」
 ファラオの娘である前に自分自身であると。はっきりと述べてきた。
「この私と闘うつもりですか?」
「私は・・・・・・」
「私は逃げることはしません」
 凄まじいばかりの威圧感と気迫を見せてきた。アムネリスはファラオの娘である前にアムネリスであった。それがはっきりと出ていた。
「このアムネリスの名と誇りにかけて」
「それでも私は」
 アイーダはその気迫に気圧されそうになる。それでも言った。負けてはいなかった。
「あの方を何処までも」
「私と闘うと」
「いえ」
 また気圧される。それでも言った。
「私はあの方を何処までも」
「それは私も同じこと」
 アムネリスは圧していたがそれでもアイーダは踏み止まっていた。アムネリスはさらに押すがアイーダは持ち堪えていた。彼女はそれでも押すのであった。
「だからこそ」
「私にあるのは愛だけ」
 アイーダは言った。
「その愛の為に」
「退かぬというのですか」
「貴女はファラオの娘でなくともと仰いましたね」
「ええ」
 その言葉にこくりと頷く。アイーダを見据えたまま。全身に紅い炎が宿っていた。それはまさに怒りの女神そのものの姿であった。
「その通りです。私はファラオの娘である前にアムネリスであります。そのアムネリスが全てをあの方に捧げようというのです。わかりますね」
「はい」
 その言葉にこくりと頷く。
「わかります。ですが」
「ですが?」
「私もアイーダです。ですから」
「闘うと」
「若し御嫌でしたら今この場で死を」
 こうまで言ってきた。
「悔やまれることのないよう」
「私は貴女を殺すことはありません」
 それは断言してきた。
「誇り高き女には誇り高き闘いを」
 アムネリスは告げる。
「ただそれだけのことです」
「それだけのこと・・・・・・」
「貴女が奴隷であろうとなかろうと」
 身体をアイーダからナイルの河畔に向ける。だが顔はそのままであった。
「私は貴女と向かい合う。そして勝つ!」
「それは私が」
「ではその言葉受け取りましょう。貴女と私の闘いの言葉だと」
「うっ・・・・・・」
 アイーダは胸に左手をやり言葉を詰まらせた。遂にアムネリスと戦いになる。そのことに今気付いた。風が起こり二人の後ろの木がざわめきナイルの水が波になる。まるで二人のそれぞれの心が外に出たかのように。
「それでよいのですね」
「退かれることはないのですね」
「ありません」
 またはっきりと告げてきた。
「何があろうとも」
「わかりました」
 そこまで言われて遂に覚悟を決めた。
「それでは」
「はい。私は何があっても勝ちます」
 アムネリスは再び身体もアイーダに向けて告げた。右手を前に素早く突き出してだ。
「貴女に対して」
 そう告げた瞬間であった。勝利が告げられる声がした。
「むっ」
「これは」
「勝った、勝ったぞ!」
 伝令の声であった。そう叫びながら街を走っていた。
「エジプトの勝利だ!遂に勝ったぞ!」
「そうですか、勝ちましたか」
 アムネリスはその声の方を向いて満足そうに笑うのであった。それからまたアイーダの方に顔を戻してきた。そのうえで言った。
「では私も勝つとしましょう」
 今度は笑ってはいなかった。燃え上がる目でアイーダを見ていた。
「そして英雄として凱旋してくるあの方と共に」
「運命は何処までも私を苦しめる」
 アイーダは顔と身体をナイルの河畔に向けて呟いた。アムネリスはまだ彼女に顔と身体を向けていた。
「このナイルはエチオピアにも流れているというのに」
 所謂青ナイルである。エジプトを創ったナイルは遠くで青ナイルと白ナイルに別れている。青ナイルはエチオピアにも流れているのである。
「それでも今はエジプトにありエジプトの者を潤す。私を潤しはせずに」
 そのことを泣くばかりであった。悲しみが心を覆う。それを拭い去ることは彼女にはできなかった。
 勝利の凱旋の日となった。エジプトの創造神であるアトゥムの神殿の大きな階段の頂上に黄金色の玉座がありファラオはそこで着飾っていた。その上には緋色の天幕があり階段は天幕と同じ色の絨毯で覆われファラオの後ろにはみらびやかに着飾った将校達が並んでいる。それぞれの手には旗がある。階段には将軍達や大臣、神官達が並び王の前に横に並んで立っている。そして階段の下には民衆が並んでいた。皆軍の帰還を今か今かと待ちあぐねていた。
 アムネリスはファラオの左横に立っていた。彼女もまた緋色の服で礼装である。その後ろにはアイーダが俯いて控えている。今城の入り口の凱旋門の方から歓声が起こった。
「来たぞ!」
「誇り高き英雄が!」
 民衆はその声を聞いて笑顔で声をあげる。そして凱旋門の方を一斉に見た。
 誰かが叫ぶ。それはすぐに全員のものとなった。
「エジプトを守る神々に栄光あれ!ナイルを統べるファラオに楽しき讃歌を!」
「今ここに!」
 彼等は神々とその子であるファラオを讃えだした。
「勝利者達の髪に勝利の冠を飾りましょう!」
 続いて女達が言う。
「武器を花で飾り勝利を祝いましょう」
「そして踊りを。天空で星達が太陽の周りを踊るように」
「そうだ」
 神官達が民衆の声に応える。
「勝利を統べるいと高き神々に感謝を」
「この幸運なる日に」
 彼等も言うのであった。
「偉大なる神々を讃えよ!」
「我等を守護されるファラオに!」
 口々に言う。そこで高らかな笛の音が鳴った。それは軍の曲であった。
 軍の曲に合わせ楽手達が来た。皆誇らしげに音楽を奏でながら整然と行進する。
「来たぞ!」
「英雄達が!」
 民衆は誰もが彼等を見てまた歓声をあげる。
「勝利者達が!」
「我等の誇りが!」
 続いて舞妓達がやって来て華麗な舞を舞う。その華麗な舞に見惚れていると遂にその戦士達が来た。
 戦車に乗り武具を構えている。神器に神像が同時にある。それを飾りながら前に進む。すべてエチオピアからの戦利品である。その中で黄金色の戦車に乗り黄金色の鎧と緋色のマントを羽織ったラダメスが遂にやって来た。
「あの方が」
 アムネリスはその姿を見て満足そうに笑う。
「遂に来られたわ」
「遂に」
 アイーダは彼の姿を見て顔を俯けさせる。
「エチオピアを破って」
「ラダメス万歳!」
 民衆達はラダメスに対して叫ぶ。
「我等が英雄!」
「誇り高き勇者よ!」
 ラダメスは無言で彼等に応える。そして歓呼の声の中戦車から降りて神殿の下からファラオに対して跪く。ファラオまでの道は既に開けられていた。ファラオはその道から彼を見下ろしていたのであった。
「ラダメス将軍よ」
 ファラオは玉座から彼に対して声をかけてきた。厳かな声であった。
「よくぞ勝った」
「有り難き御言葉」
 ラダメスはその言葉に礼を述べる。
「そしてだ」
 ファラオはまたその彼に声をかける。
「まずは立て」
「わかりました」
 ラダメスを立たせる。そのうえで話をまたしてきた。
「褒美は何がよいか」
 そうラダメスに問う。ファラオは微動だにしない。
「申してみよ。好きなものをやろう」
「私が好きなものを」
「そうだ」
 その厳かな声をまた出してきた。
「この王冠と玉座に誓おう。そして神々にも」 
 絶対ということであった。ファラオとしての誇りをかけてきたのだった。
「今それを誓う」
「それではファラオよ」
 ラダメスは自分の上にいるファラオを見上げて述べてきた。
「お待ち下さい」
 だがここでアムネリスが父に声をかけてきた。
「何だ、娘よ」 
 玉座から娘に顔を向けて問う。
「何用だ」
「まずは英雄に冠を」
「うむ、そうであったな」
 ファラオは娘のその言葉に頷いた。それから左右の者達に対して述べた。
「それではあれを」
 そう告げる。
「持って参れ」
 すぐに冠が持って来られた。それは薔薇の花と緑で飾られた冠であった。それがアムネリスの手に手渡された。
「それでは今から」
「はい」
 父であるファラオに対して一礼する。それから階段の下のラダメスのところに向かう。その後ろにはアイーダもいた。
 ラダメスはアイーダの方を見た。アムネリスはそれに気付くが何も言わない。アイーダは俯いている。この間にも火花が散っていたのである。
「将軍」
 アムネリスはそのことを消してラダメスに声をかけた。
「今この冠を貴方に」
「有り難き幸せ」
 ラダメスはそれに応え再び片膝をつく。その黒く光さえある髪に今紅と緑の冠が飾られたのであった。それこそが英雄の証であった。
「それでは将軍よ」
 冠が授けられ終わるとまたファラオが声をかけてきた。
「立つがよい」
「はっ」
 その言葉を受けてまた立つ。ファラオはまた彼に問うた。
「それでは褒美は何がよいか」
「はい、まずは」
 ラダメスはそれを受けて話しはじめた。
「捕虜達をここに御願いします」
「捕虜をか」
「宜しいでしょうか」
「うむ」
 ファラオはそれを許した。特に問題はないと判断したからであった。どのみち捕虜は凱旋の最後に来ることになっていた。だから問題はなかったのだ。
 その言葉通り捕虜達が連れられてきた。アイーダはその中の一人を見て驚きの声をあげた。
「お父様!」
「何っ」
 ラダメスはそれを聞いて自身も驚きの声をあげた。
「父だと」
「何という因果か」
 それを聞いた人々は思わず声をあげた。アイーダはその間に父の側に駆け寄る。
 黒い肌にがっしりとした身体の大男であった。髪も目も黒い。彼はエチオピアの士官の鎧と服を身に纏っていた。名をアモナスロという。
「どうしてここに」
「アイーダ」
 アモナスロはそっとアイーダに囁いてきた。
「私の身分を明かすな。よいな」
「はい」
 父の言葉にこくりと頷く。アモナスロこそエチオピアの王である。アイーダはその娘、即ちエチオピアの王である。そういうわけなのであった。
「わかりました」
 アイーダはそれに頷く。そのうえで父の側にいるのであった。
「そうか、そなた等は父娘だったのか」
 ファラオは玉座からアモナスロに問うた。仇敵に見下ろされ激しい怒りと憎しみを感じたが今は消した。そのうえで答えるのであった。
「そうです」
 低い声できっぱりと述べた。
「私はこの娘の父です。まさかこうしてここで出会うとは思いませんでしたが」
「そうだったのか」
 二人はエジプトの言葉で語り合う。だがアモナスロの正体は誰も知らない。知っているのはアイーダだけ、他の者は誰も知らないのであった。
「我等が王と祖国の為に戦いましたが」
 話の最初は嘘である。
「しかし運命は我等に味方です。こうした次第です。王は立派な最後を遂げられました」
「まことか」
 ファラオはそれを聞いてラダメスに顔を向けた。そのうえで彼に問うた。
「それは」
「行方は知れませんでした」
 ラダメスはそう答える。
「しかしそれがまことならば」
「我等が王はもうおられませぬ」
 アモナスロはそう告げる。
「ですが我々はここにいます」
 そして次にこう言った。
「我々は」
「その通りだ」
 ファラオもそれに頷く。
「そなた達は確かに今ここにいる」
「はい、その私達からの願いです」
 アモナスロはそうファラオに呼び掛けた。
「我等に寛容を」
「寛容をか」
「そうです」
 アモナスロはファラオを見上げて言う。
「どうかここは。是非共」
「そうです」
 他の捕虜達も言う。鎖に繋がれているがそれでも言うのだった。
「どうかここは」
「ファラオの寛容を」
「ファラオよ」
 ランフィスがファラオに顔を向けてきた。首だけだったが身体が大きく捻られていた。
「なりません。この者達は奴隷にするか処刑しましょう」
「その通りです」
 他の神官達も言う。
「然るべき賠償がない限りは。ここは」
「ふむ」
 ファラオは彼等の言葉を聞き左手を顎に当てた。そのうえで思案の顔を浮かべてきた。
「奴隷にすべきかと」
「御慈悲を」
 だが捕虜達は諦めずに彼に訴えかける。
「どうかここは」
「なりません」
 神官達も引かない。あくまで言う。
「ここはどうか」
「鎖か剣を」
 鎖ならば奴隷、剣ならば処刑だ。そういうことであった。
「御慈悲を」
「なりませぬ」
 彼等の攻防は続く。しかしここで民衆が加わった。
「ファラオよ」
 彼等もファラオに訴えかけてきた。
「ここは寛容を」
「御願いします」
 彼等は捕虜達に同情を示してきた。それは神官達の日頃の独善と強権を知っているからである。だからこそ彼等についたのだ。
「せめて彼等の命だけは」
「どうか」
 そうファラオに対して嘆願する。
「御願いします」
 アイーダは父の側に寄り添って言う。
「どうか私の国の者達を」
「助けて欲しいのか」
「そうです」
 ファラオに対して述べる。
「御願いですから」
「アイーダ」
 ラダメスはそんな彼女をずっと見ていた。アムネリスはその視線に気付いた。
「やはりあの方は私ではなく」
 まずは悲しみに心を覆われた。
「あの女を。やはり」
 次に嫉妬に覆われた。これが彼女の不幸のもとであるがそれには今は気付かなかった。気付くのは後悔に打ちひしがれた時であった。
「ファラオよ」
 アモナスロはまたファラオに声をかける。決して誇りを失ってはいない。その声を今敵の王にかけるのであった。そこには彼なりのエチオピアの王としての誇りと意地があった。
「どうかここは」
「なりません」
 しかしランフィスも言う。
「せめて奴隷に」
「いえ、それも気の毒です」
 民衆達もまた言う。
「御慈悲を」
「御願いします」
「わかった」
 彼等の言葉を全て聞いたうえで決断を下してきた。
「我等は勝った」
 顔を上げてまずそれを宣言する。
「はい」
 皆がそれに頷く。それは事実だった。
「それでは勝利者は寛容でなくてはならぬと思うが」
「ですが」
「いや」
 ランフィスが何か言おうとすると今まで何も言わなかった大臣達が動いてきた。既にラダメスの周りには軍人達がいる。
「ファラオの言われることはもっともであります」
「全くです」
 形勢が有利になったと見て彼等は捕虜達の助命に動いたのである。日和見を決めていたがここでようやく判断を下したのであった。
「だからこそ」
「そなた達も賛成なのだな」
「そうです」
「ここはファラオの寛容さを御見せする時です」
 彼等は口々に述べる。
「宜しいでしょうか」
「馬鹿な、敵に慈悲なぞ」
 それでもランフィスは反対しようとする。
「何の意味もない。ここは果断であるべきだ」
「お待ち下さい」
 ラダメスも言ってきた。
「将軍」
 ランフィスが彼を見下ろすと既に将兵は彼の周りにいた。それがどういうことなのか、わからない彼ではなかった。
「私はファラオの御遺志に従います。いえ」
 一旦首を振って述べる。
「私もその考えです」
 アイーダをちらりと見た後で述べた。その僅かな動きもアムネリスは見ていた。胸の痛みと憎しみに耐えられなくなっていたが今はそれを必死に隠していた。
「将軍、馬鹿な」
「慈悲は快いものとして神々に届きエジプトとファラオに幸福をもたらすでしょう」
「その通りだ」
 ファラオもラダメスの言葉に満足した顔で頷く。
「だからこそだ。よいな」
「そしてファラオよ」
 この機会を待っていたかのようにラダメスが一歩進み出てきた。片膝をつき恭しく述べる。
「私の願いですが」
「何だ?」
「どのような名誉も財産もいりませぬ」
「いらぬと申すか」
「はい、私が欲しいのはファラオの慈悲です」
 頭を垂れそう述べてきた。
「貴方の御慈悲こそが」
「そしてその願いは」
「捕虜達の解放です」
「馬鹿な、そんなことをすれば」
 ランフィスはそれに首を横に振った。
「またエチオピア軍は攻めて来る。何の解決にもならない」
「ですがランフィス殿」
 ラダメスはここで立ち上がった。ランフィスを見上げて言う。
「敵の王アモナスロは死んだではないですか。彼さえいなくなれば」
「将軍」
 ランフィスは決してラダメスが憎くはない。むしろその才と私のない純真な心を愛している。彼個人としてはラダメスにはいとおしささえ感じている。しかし彼としては認められなかったのだ。その立場と考えから。彼もまた自分に対して、自分なりにエジプトに対して嘘はつけなかった。
「聞くのだエジプトの誇りよ、人の心には怒りと憎しみがある」
「はい」
 ラダメスもそれに頷く。それは彼もわかっている。
「それは承知しているつもりです」
「ならば何故だ」
「それでもだ」
「慈悲は神々の教えではないのですか?」
「うっ・・・・・・」
 この言葉にはランフィスは逆らえなかった。彼は神に全てを捧げているからだ。
「確かにそうだ」
 怯みながら答えた。
「それでは」
「わかった」
 彼も遂に折れた。しかしまだ言った。
「しかしだ。平和と安全の証がいる」
「それは」
「確かにあの強猛なアモナスロは死んだ」
 彼もそれを信じていた。
「しかしだ。人質もまた必要なのだ」
 現実的な案と言えた。彼はこの時彼なりにエジプトのことを考えていた。
「それはわかると思うがな」
「この者をですか」
 アモナスロをエチオピア王とは知らずに見てから問う。
「そうだ。それが条件だが」
「お父様」
「よい」
 アモナスロは囁いてきたアイーダに囁き返した。
「それならばな。よい条件だ」
 こう述べてきた。
「人質一人で済むのなら」
「それでは将軍よ」
 ランフィスはまたラダメスに問うてきた。
「それでよいな」
「はい」 
 ラダメスは謹厳な顔でランフィスの問いに答えてきた。毅然として顔を上げているのはそのままである。ランフィスもまた毅然として彼を見ていた。二人の視線がぶつかっていた。
「それで。不平はございまん」
「わかった。ではファラオよ」
 ランフィスは彼の言葉を受けてファラオに顔を向けてきた。彼はそこに座ったままやり取りを見守っていたのだ。
「このようで宜しいでしょうか」
「よい」
 ファラオは彼の言葉に追うの威厳を以って応えた。
「それでよいぞ。それならばエジプトの安全も保たれる」
「わかりました」
「寛大なファラオに栄光あれ!」
「これこそが王者の慈悲!」
 兵士と民衆達はそれを聞いてファラオを絶賛した。彼は自身へのその声を姿勢を崩すことなく聞いていた。彼はここでも王者であった。
 その王者の口がまた開く。そしてラダメスに問う。
「そしてだ」
「はっ」
 主に対して頭を垂れる。その彼に対して告げる。
「その人質であるが」
「私が」
 アムナスロが出て来た。
「お父様」
「よい」
 また娘に囁いた。
「私に考えがある。よいな」
「お考えが」
「そうだ」
 娘に囁いて告げる。その顔は真剣なものであった。
「だからだ。御前は何も案ずることはない」
「ですが。何か得体の知れない胸騒ぎが」
「父に任せるのだ」
 不安を隠しきれず眉を顰めさせ右手の平を自分の胸に添える娘に対して述べた。
「ここはな。よいな」
「わかりました」
 その言葉に頷くことにした。
「それでは」
「うむ、よいな」
「はい」
 こくりと頷く。アモナスロは娘とは違い轟然とした顔であった。彼もまた王者としての威厳をそこに漂わせていた。しかしそれに気付く者はアイーダしかいなかったのであった。
「私で宜しいでしょうか」
「そなたがか」
「そうです」
 敵の王に対して告げる。
「私一人の犠牲で同胞達が救われるのならばそれでいいのです」
「よいのか、それで」
 ファラオは彼に問う。
「そなたは死ぬまで祖国に帰られぬかも知れぬのだぞ。それでも」
「望むところです」
 口元に微笑みさえ浮かべてきた。実際にその決意は本物であった。
「ですから」
「わかった」
 その言葉を聞いてファラオもまた断を下した。
「では人質はそなたにする。よいな」
「はっ」
 ここで片膝をついて一礼する。
「有り難き幸せ」
「これでまずは終わった」
「ええ」
 ランフィスがその言葉に頷く。
「これで完全に」
「それでだ。ラダメスよ」
 ファラオはあらためてラダメスに顔を向けてきた。ラダメスはそのファラオを見上げる。姿勢はその瞬間に正されていた。
「そなたの望みは適えた」
「有り難うございます」
「しかしじゃ。わしからも褒美をやりたい」
「褒美ですか」
「そなたの功に感謝してな。エジプトのファラオとして」
 こう彼に告げる。告げながら自身の娘であるアムネリスを見ていた。
「アムネリス」
 そして彼女に声をかけた。
「はい」
「そなたの夫が決まったぞ」
「私の主人が」
 アムネリスはそれを聞いて思わず喜びの声をあげた。
「それは一体」
「エジプトの誇りだ」
 それを聞いて誰なのかわからない者はいなかった。アムネリスの顔は歓喜に満ちラダメスの顔は強張った。アイーダの顔は今にも割れんばかりになった。三者三様で顔が変わったのであった。
 その三人の顔にはやはり誰も気付かない。皆それに気付かずファラオの言葉を待つ。
「ラダメスよ」 
 ファラオは次にラダメスの名を呼んだ。
「それでよいな」
「ええ」
 ファラオの言葉である。拒めはしなかった。だがこの言葉によりアイーダの心までもが割れんとしていた。
「そんな、私は」
「どうすればいいのだ」
 ラダメスも思わず一人呟く。
「私が欲しいのはアイーダだけだというのに。玉座には」
「これで勝ったわ」
 アムネリスは勝利を喜ぶ顔で恋仇を見据えていた。
「あの女に。私は遂に」
「あの方には栄光と玉座、私には忘却と絶望の涙が」
「これは雷なのか」
 アイーダもラダメスもそれぞれ呟く。
「アイーダだけが欲しいというのに」
「さあファラオよ」
 三人のことは知らぬランフィスはここでは良識ある男として笑顔でファラオに顔を向けてきた。
「祝おうではありませんか、我がエジプトの勝利を」
「うむ」
 ファラオはそれに応えて笑顔になる。そしてここで立ち上がった。
「全てのエジプトの者達よ」
 大臣にも将兵にも民衆にも語り掛ける。
「この勝利を心から祝おう。そして」
「神々に捧げ物を」
「我等に恵みを」
「そうだ、恵みは思いのままだ」
 ファラオという存在は実は気前のいいものであった。ナイルが荒れ農耕なぞできはしない季節にはピラミッドの建設で職を与えていたのだ。ピラミッドの建設では衣食住は保障され労働者達は楽しい日常を過ごしていたのである。これは王の慈悲の一つとされていたのだ。
「皆の者、祝え」
 命令でもあった。
「今日のこの日を。よいな!」
「ファラオ万歳!」
「エジプトに栄光あれ!」
 歓呼の声に包まれる。しかしその中でアイーダは浮かない顔をしている。だがそこにアモナスロがやって来て声をかけるのであった。
「娘よ」
「お父様」
「どうしたのだ、一体」
「いえ」
 後ろから自分の両肩を優しく抱く父に対しても項垂れたままであった。
「何でもありません」
 項垂れたまま述べる。
「そうか。しかしだ」
 そんな娘の心の中まではわからないがそれでも言った。
「案ずることはないぞ」
「どうしてですか?」
「わしに考えがあるのだ」
「お父様に?」
「そうだ、エチオピアを救う為にだ」
 彼は王として語っていた。それは今のアイーダには届かない言葉だったがそれには気付かない。
「その為に。見ているのだ」
「そうですか」
「だからだ」
 優しい声と顔になる。父のものであった。
「案ずることはないぞ、御前は」
「わかりました」
 一応はその言葉に頷く。しかし。
(もう私の幸福は)
 ラダメスのことしか考えられなかった。だがもう彼を見ることさえできなくなっていた。
(何処にも)
(何故神々は私からアイーダを)
 ラダメスもまた同じであった。項垂れて歓呼の声の中にいた。
(奪っていくのか。ただ一つ欲しいものだというのに)
「将軍」
 そんな彼にアムネリスがにこやかに声をかけてきた。
「王女様」
「もうすぐ私は王女ではなくなります」
 ことさらにこやかに述べる。
「貴方の妻に」
「私の妻に」
「そうです。宜しく御願いしますね」
「はい」
 項垂れるのをなおしてこくりと頷く。
「わかりました」
「私は今全ての幸福を手に入れました」
 項垂れるアイーダを見て言った。
「この世にある全ての幸福を」
 歓呼の声は自分に向けられているのだと感じながら。今そこに彼女は悠然として立っていた。項垂れるしかないアイーダを見据えながら。



このままで終わりそうもないよな。
美姫 「ええ。アモナスロが何か企んでいるっぽいものね」
ああ。一体、何をしようとしているんだろうか。
美姫 「そして、アイーダたち三人はどうなるのかしらね」
次回が楽しみです。
美姫 「待っていますね〜」



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