『清教徒』




               序曲


 イギリスはかってイングランド、スコットランド、ウェールズ、そしてアイルランドの四つの国家に分かれていた。今はアイルランドは北部を除き独立してはいるがその正式名称が『グレートブリテン及び北部アイルランド連合王国』となっていることからもこの国が連合国家であるということがわかる。
 だがかっては四つの国家に分かれていたことは事実である。統一がなるのはアン女王の頃でありそれまではやはり別々の国であったのだ。それはエリザベス一世の頃においてもそうであった。
 よくエリザベス一世の時代はイギリスの黄金時代と言われるが実情は決してそうした華やかなものではなかった。当時はまだイングランドという一小国に過ぎずハプスブルグ家のスペインや神聖ローマ帝国、ヴァロワ家のフランスとは国力においても家門においても劣っていた。イングランドのテューダー家は欧州では残念ながらハプスブルグやヴァロワの様な名門ではなかったのである。当時の権門の強い欧州においてはそこでも水を開けられていた。
 国力もである。イングランドは土地が痩せフランスやスペインの様な大規模な軍隊を動員することは困難であった。そして彼等は後ろにスコットランドを抱えていた。この国の女王メアリー=スチュワートはエリザベスを見下しており自らがイングランドの王位継承者だと主張して憚らなかった。これがイングランドにとって頭痛の種でもあった。
 そして宗教的な問題もあった。当時のイングランドは国教会であったがこれはエリザベスの父ヘンリー八世が定めたものである。事の発端は実に下らないものであった。彼が王妃と離婚し新しい妃を迎えようとしたのである。だがそれに教会が反対したのだ。
 理由は表向きは宗教的な事情であった。カトリックでは離婚は認められていないのである。だがそれはあくまで表向きのことであり実際は教会は神聖ローマ帝国皇帝に配慮したのである。神聖ローマ帝国は言わずと知れた教会の第一の保護者でありその皇帝はハプスブルグ家の者である。イングランドと神聖ローマ、そしてもう一つハプスブルグ家が掌握するスペインのことを考えればどちらをとるかは一目瞭然であった。ハプスブルグとヴァロワの対立には何かと介入してきたローマ=カトリック教会も今回は迷う必要がなかったのだ。何故ならそのヘンリー八世の妃はハプスブルグ家の者であるからだ。
 しかしヘンリーはそれに逆らった。そして自ら国教会を作り自らその首長となった。これにも実際には政治的な事情があり国内のカトリック勢力を抑えるのが目的でもあった。だがやり方があまりにも強引と言えば強引であった。しかも彼はもう一つ眉を顰めたくなるようなことをしてしまった。離婚して再婚したその新しい妃を何と断頭台に送ってしまったのである。この妃こそアン=ブーリン、エリザベスの母親その人である。彼女は断頭台において首切り役人に対してこう言ったと言われている。
「一太刀で頼むわね。けれどこんな細い首じゃそれもないでしょうけれど」
 そして彼女の首は落ちた。これによりヘンリーは後々まで批判されることとなった。彼の不人気は凄まじいものであり彼の後ヘンリーと名のつく王は出ていないのである。これはジョンに匹敵するものである。それまでは七人も出ていたというのに彼の代でヘンリーは終わったのである。何とも人気のない国王ではあった。
 彼はそれからも離婚を繰り返しその中にはまた断頭台に送られた元王妃もいた。王妃だけでなく家臣もよく断頭台に送った。結局それが彼の不人気を確固たるものにしているのである。彼の死によって断頭台は静かになった。しかし今度は火刑台が騒がしくなったのである。
 エドワード六世の次に即位したのは女王であった。メアリ一世という。彼女は過激なまでのカトリック信者であり彼女によりイングランドはカトリックに回帰した。そしてプロテスタントへの弾圧を開始したのである。これにより次々と新教徒達が火刑台に送られた。これには彼女の夫であるスペイン王太子フェリペ二世も苦言を呈した。彼はハプスブルグ家、すなわちカトリックの保護者である。その彼が言ったのだ。
 まず彼はこう前置きした。
「プロテスタント達への処罰は当然である」
 しかしこう付け加えたのだ。
「だがやり過ぎてはいけない。適度なところで止めるべきである」
 彼は本質的に政治家であった。信仰心は篤かったがそれは彼がハプスブルグ家であるからでもあった。カトリック、そしてハプスブルグ家の者としての義務を果たすだけであったのである。
 しかしメアリーはそれを聞き入れなかった。プロテスタントへの弾圧をさらに激しくさせた。遂には腹違いの妹であるエリザベスすらもロンドン塔に送ったのである。この時彼女は一歩間違えていれば処刑されていた。しかしかろうじてそれから逃れたのである。姉が死ぬと彼女が王となった。この時彼女はこう言ったと言われている。
「神の大いなる御業です」
 と。こうして彼女はイングランドの女王となった。宗教においてはプロテスタントながらカトリックにも配慮した非常にバランスのいい政策を敷いた。だがそれでも外敵はいた。まずスコットランドであった。
 メアリーとエリザベスは従姉妹同士であった。しかしだからといって仲がよいというわけではなかった。彼女達は互いに女王であった。そしてエリザベスは慎重であるのに対してメアリーはあまりにも軽率であった。彼女はその軽率さによってその身を滅ぼす。何と愛人と計って夫を暗殺し愛人と再婚してしまったのだ。これにスコットランドの貴族達が怒った。彼等はその夫ダーンリーとメアリーの子ジェームスを立てメアリーを追い出しにかかった。これによりメアリーは亡命を余儀なくされたが彼女は何とエリザベスの下に逃げ込んできたのである。
 これにはエリザベスも困った。只でさえイングランドの王位を主張して憚らず、そしてカトリックでもある彼女をイングランドに置くことはあまりにも危険であった。フランスやスペインがどう動くかわからなかったこともあった。
 彼女は長い間悩んだ。家臣達はメアリーを処刑してしまうように何度も提案した。スコットランドの方もそれを願っていた。息子であるジェームスにとっても母は最早厄介者でしかなかったのだ。だがエリザベスは中々処刑に対して首を横には振らなかった。彼女は死刑を好まなかった。これは母が父に処刑されたのと姉のあまりにも極端な処刑を見てきたからであった。だからこそ彼女は処刑には慎重であった。ましてやメアリーは仮にもスコットランドの女王であり彼女の従妹でもある。王としての誇り、そして肉親への複雑な感情が彼女にサインをさせなかったのだ。エリザベスは決して冷酷な君主ではなかったのだ。そのうえその判断は極めて慎重なものであった。だからこそ国を守ってきたのである。
 だが遂に彼女はサインした。サインしざるを得なかったのだ。何故ならメアリーがエリザベスの暗殺を企んだからである。証拠もあった。こうなってはもう議会も家臣達も抑えることができなかった。彼女は泣きながら処刑にサインをした。こうしてメアリーは処刑された。それを聞いても息子のジェームスは何も驚かなかったという。やっと死んだと言わんばかりの態度だったと言われている。それを聞いてエリザベスは言ったという。
「不実な息子ですね」
 彼女の怒りはメアリーではなくジェームスに向いていた。そして彼女は従妹の亡骸を丁重に弔った。そして彼女が死んだ時後継者にはそのメアリーの息子ジェームスを指名した。それを聞いた時彼は飛び上がらんばかりだったと言われている。エリザベスはそんなジェームスのことを死の床で聞いてこう呟いたと言われている。
「メアリーも私も息子は持っていなかったようですね」
 彼は即位すると宗教的にはかなり過激なことを実行した。異端審問を積極的に行いこれによりイングランドにおいても異端審問の惨たらしい儀式が広まった。そして多くの無実の者が命を落としたのだ。そして彼は王権神授説の信奉者でもあった。エリザベスも絶対君主であったが彼はそれ以上であった。何故なら自らの王権は神によって認められていると主張したのである。これを基として彼は専制政治を行った。当然不満は高まったが彼はそれを力で弾圧してきたのである。
 彼の子であるチャールズ一世もそれを受け継いだ。彼は専制政治を理想とし議会とことあるごとに対立した。遂には内戦状態となった。これが清教徒革命であった。
 何故清教徒革命と呼ばれたかというとこの革命の指導者オリバー=クロムウェルが清教徒だったからである。彼は極めて強烈な清教徒であり禁欲的かつ厳格であった。天才的な指導力と軍事的、政治的能力、カリスマ性を併せ持っていた。だが他人に対しては自ら、そして信仰に対して絶対的な服従を強要する男であった。彼だからこそ議会側は勝利を収めることができたが結果としてそれは国王よりもまだ厄介な独裁者を生み出す結果になってしまった。
 彼は王を捕らえると処刑を指示した。しかし議会はそれに困惑した。それは何故か。
 法律が存在しなかったのである。国王を処刑する法律なぞ何処にもなかったのだ。法がなくては何もできはしない。だからこそ彼等は困惑したのである。
 だが革命とは言うならば暴力による政権の強奪である。力のある者が絶対的な権力を掌握するものだ。乱暴な言い方をすればそうなる。そしてクロムウェルこそその実行者であった。今やイングランドにおいては彼こそが絶対の法であった。その彼が言ったのだ。王を処刑せよ、と。それで全ては決した。
 こうしてチャールズ一世は処刑されることとなた。だが彼はそれを聞いても動じはしなかった。彼はまず側に残ったまだ幼い子供達を呼んだ。そしてこう言った。
「これからは私ではなくそなた達の兄に仕えるのだ」
 そして身を慎み死刑の時を待った。彼は黒づくめの服に身を包みガーター勲章をかけて処刑場に向かった。そして最後まで王であり、王として死んだ。王の首を見た多くの者は憤りを露わにしたという。彼もまた王として立派であった。だからこそ彼の支持者も多かったのだ。同時にクロムウェルへの反発者も多かった。
 王が死んでもまだ戦いは終わらなかった。これはそうした清教徒革命における一つの恋の話である。人々はいかなる時代においても恋を忘れることはできないのである。





本編は次回からみたいだな。
美姫 「みたいね」
うーん、宗教が絡んでくるのかな。
それとも。
美姫 「どんなお話になるのか、いざ本編へ、ってね」
だな。それじゃあ、また次回で。



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