『ホフマン物語』




              第三幕  アントニア


 一羽の雉鳩が飛んでいた。その雉鳩は飛んで行き何処かへと消えてしまった。そしてっもう二度とその姿を見せることはなかった。
 それで全てが消えた。青空にはただ空と雲だけが残っていた。
 その何もない青空の下に一つの部屋があった。壁に貴婦人の豪奢な絵が掛けられている意外はこれといって何の変わりもないありふれた部屋であった。ただその絵が妙に生き生きとしている意外は。
 そこに一人の女性がいた。長い黒髪を垂らした瓜実型の顔を持つ女性である。目は黒く大きい。二重でまるで全てを見渡すかのような目をしていた。
 肌は白く赤い服と対比されるかのようにその白さを映えさせていた。彼女は今しがた空に消えた雉鳩を見上げてその細い枝の様になった身体を椅子にもたれかけさせていた。
「逃げてしまったのね」
 彼女は雉鳩が消えた方を見上げてこう呟いた。
「自分から遠くに。けれどまた戻ってくるかも知れない。その心が私にあれば」
 そう呟きながら側に置かれていた楽譜を手に取った。そしてパラパラとめくり読みはじめた。
「私にまだ歌が歌えるならば。私のこの声にまだ思うことがあれば。戻って来るかも知れない。歌えたら」
「アントニア、まだそんなことを言っているのか」
「御父様」
 扉が開いた。そして重厚な白い髭と髪を持つ立派な身なりの男が部屋に入って来た。彼女、アントニアの父であるクレスペルである。
「約束してくれたのではなかったのか」
 彼は悲しそうな声で娘に対して言った。
「もう歌わないと。違うのか」
「はい、その通りです。けれど」
「けれど。何だ」
「御母様が夢で仰ったのです」
 そう言いながら壁に掛けられている絵を見た。見れば今にも動き出しそうである。
「私に歌えと」
「それは幻想だ」
 クレスペルは娘に言い聞かせるようにして言った。
「幻想なのだよ。それがわからないのか」
「わかってはいますが」
「いいかい。御前は病気なんだ」
 娘に対して優しい声で語り掛けた。
「だから。もう歌わないでおくれ。歌うと身体に障るから」
「はい」
 娘の頭を抱いた。そして娘を守るかのようにして語り掛けるのであった。
「このミュンヘンは静かな街だ」
「はい」
「暫くはこの街で静かに病をなおすんだ。いいね」
「わかりました」
「ならいいんだ。おや」
 ここで呼び鈴が鳴った。クレスペルはそれに気付き顔をあげた。
「誰だろう」
「ホフマンさんではないでしょうか」
「あの検事さんか」
「はい。何の御用でしょうか」
「彼は作曲もやっているのだったな」
 クレスペルはそれを思い出し暗い顔になった。
「困ったことだ。音楽を愛する者は御前の声も愛する」
「けれど」
「わかっている。彼にはよく言って聞かせよう。フランツ」
「はい」
 小柄で背中が曲がり腹の出た中年男がやって来た。腹は出ているのに手足は妙にひょろ長くまるで虫の様であった。
「御客様のようだ。案内してくれ」
「わかりました。それでは」
「くれぐれも音楽の話はしないようにね」
「はい」
 こうしてフランツが客の出迎えに向かった。彼は家の中の薄暗い階段をを降りながら一人呟いていた。
「歌を歌えないってのは残念な話だよな」
 アントニアのことを思ってこう呟く。
「わしは歌は得意じゃないがステップやダンスは得意なのに」
 呟きながらステップを踏む。そして階段を降りていく。
「ダンスは何でもござれだけれど。歌はなあ。せめてお嬢様の歌が聞ければ」
「御免下さい」
「はいよ」
 扉の向こうの声に応える。若い男の声であった。
「どなたかいらっしゃいますか」
「皆いますよ。どなたですか」
 そう言いながら扉の側まで来る。そしてそれを開けた。するとそこには二人の若い男がいた。
「おや、ホフマンさん」
「はい」
 ホフマンは彼に挨拶をした。
「ニクラウスさんも」
「どうも」
 そしてニクラウスもそれに続いた。
「一体何の御用件ですか」
「お嬢様はおられますか」
「おられることはおられますが」
「どうかされたのですか」
 言葉を濁すフランツに問う。
「どうも。御身体が」
「歌えないというのでしょうか」
「そんなことはもっての他です。歌われればえらいことになります」
「そんな」
「だから言ったじゃないか」
 ニクラウスがそれを聞いてホフマンに対して言う。
「彼女はもう歌えないって。僕の言った通りだっただろう?」
「けれど」
「それでも宜しいですか?」
 フランツはまた尋ねてきた。
「それでも宜しければ御案内致しますが」
「ううん」
「どうするんだ、ホフマン」
「そうだな」
「帰るか?」
 そう友に問う。だが返事は決まっていた。
「いや、ここまで来たんだし」
「御会いになられるんですね」
「うん。いいかな」
「ええ。歌はなしで。それで宜しければ」
「わかった。それじゃあ」
「どうぞお入り下さい」
 こうして二人はアントニアの部屋に案内されることになった。だが部屋の中に入るとそこには誰もいなかった。
「おや、いない」
「どうしたんだろうな」
「まあいいさ。彼女がいるのは事実なんだし」
「そして彼女はちゃんと生きていると言いたいんだね」
「ああ。ローマでのようなことはないさ」
 彼はオランピアとのことを思い出しながら応えた。
「あんなことは二度とね」
「そうだと思いたいけれどね」
「何だよ、彼女もまた人形だって言いたいのかい?」
「そんなことは言わないよ。ただ」
「ただ」
 ホフマンの言葉に反応した。顔を向ける。
「また嫌な予感がするんだ。気をつけておいてくれよ」
「取り越し苦労だと思うけれどね」
「だといいけれどね」
「何か引っ掛かるな」
 ホフマンはニクラウスの言葉に嫌な顔をした。
「君は最近僕に関して嫌なことばかり言う」
「良い言葉は耳に馴染まないものさ」
「そうは思わないけれどね」
「まあそれもまたわかるよ。来たよ」
「うん」
 向こうの扉が開いた。そしてアントニアがホフマンの前に姿を現わしたのであった。
「いらっしゃい。ホフマン」
「アントニア」
 彼は悦びを満面に讃えて彼女に言葉をかけた。
「最近身体が優れないって聞いて心配していたんだ」
「有り難う。けれど大丈夫よ」
 彼女は青い顔で答えた。
「だったらいいけれど」
「少なくとも貴方に会うには何も困ったことはないから」
「そう。それならいいけれど」
「ホフマン」
 ニクラウスが彼に声をかけてきた。
「何だい?」
「ちょっとクレルペルさん達と話したいことがあるからこれでね」
 気を利かせてこう言ってきた。
「うん。それじゃあ」
「また後でね」
 こうして彼は部屋を後にした。そして部屋にはホフマンとアントニアだけとなった。
「アントニア」
「はい」
 アントニアはホフマンの言葉に顔を向けてきた。
「今までずっと会えなかったけれど今こうやって会えたね」
「ええ。ミュンヘンにようこそ」
「捜したよ。何処にいるのかって。オペラハウスを聴き回ってね」
「それでようやくここに来たのね」
「うん。どうして唄うのを止めてしまったんだい?」
 彼は問うた。
「急に。君の身に一体何が」」
「仕方がないの」
 ホフマンから顔を背けて俯いて言う。
「これは。仕方のないことなの」
「一体どうしたんだい?」
「聞いてくれる?」
 彼女はホフマンに顔を戻して問うてきた。
「その訳を」
「うん、よかったら」
 ホフマンは答えた。
「言ってみれくれないか」
「ええ」
 ホフマンにそう言われて頷いた。それから答えた。
「私は。身体を壊してしまったの」
「身体を」
「それで。もうこれ以上唄ったら命に関わるようになってしまったのよ」
「馬鹿な、そんなことが」
「いえ、本当のことよ」
 また俯いて顔を背けて言った。
「あの甘い歌も。もう二度と唄えないのよ」
「僕達が二人で唄った歌もかい」
「ええ」
 彼女はまた答えた。
「もう二度と。唄えはしないわ」
「そんな、馬鹿な」
 ホフマンはそれを必死に否定しようとした。
「そんなことが。有り得ないよ」
「いえ、本当のことよ」
 アントニアは悲しみに満ちた顔と声でこう応えた。
「あの薔薇の歌も。唄えないの」
「どんな歌も」
「ええ」
「僕の作った歌も。何も唄えないのか」
「何も。もう私は二度と唄うことはできないの」
 悲しい言葉であった。
「誰がそんなことを言っているんだい?」
「御父様が」
「クレスペルさんが」
「お医者様は逆のことを言っていらっしゃるけれど」
「お医者様、それは一体」
 ホフマンは医者という名を聞いて顔を向けた。本来なら医者が言っているのなら歓迎すべきことだがこの時はどういうわけか胸騒ぎがした。
「ミラクル先生というの」
「ミラクル先生」
「知っているの?」
「いや、知らない。けれど」
 名前を聞いて胸の不安がさらに大きくなるのを感じていた。
「どういうわけかわからないけれど。嫌な予感がする」
「そうなの」
「君のお父さんがそう言うのなら。仕方ないかも知れない」
「貴方もそう言うのね」
 唄ってはならない、その言葉を言われてアントニアはまた悲しい顔になった。
「仕方ないよ。とにかく今は控えた方がいい」
「そんな・・・・・・」
「僕も君のお父さんも。君のことを思っているから」
「けれど」
「けれどもそれもないよ。わかったね」
「ええ。仕方ないわ」
 こくりと頷いた。そこに足音が近付いてきた。
「!?誰だ」
「御父様かしら」
「そうみたいだ。足音が二つ聞こえる」
 先程ニクラウスが席を外したのを覚えていた。足音は確かに二つあった。
「アントニア」
 果たして彼が部屋に入って来た。ニクラウスも一緒である。
「そこいいたのか」
「ええ」
「ならいい。そこにいなさい」
 彼は娘の姿を見て何やらほっとしたようである。
「どうかしたのですか?」
「ホフマン君もここに残ってくれないか。ニクラウス君も」
「わかりました。けれどどうしてですか?」
 ホフマンはクレスペルの只ならぬ様子に不安になってそう尋ねた。
「何かあったようですが」
「客が来た」
 彼は苦しそうな声でこう答えた。
「客が」
「そうだ。だからここで娘と一緒にいて欲しい。頼めるか」
「わかりました。それでは」
「ニクラウス君も。いいかね」
「はい」
 ニクラウスは何かを悟ったような顔でそれに頷いた。
「それでは」
「では行って来る」
 こうして彼は娘の部屋を後にした。そして何やら覚悟を決めたような顔で階段を降り一階にある応接間にやって来た。
 大きなソファーとテーブルが置かれた重厚な趣の部屋がそこにあった。
「まだ来ていなかったのか」
「いえいえ」
 突如としてクレスペルの耳元で低い声が響いてきた。
「ここにおりますぞ」
「なっ」
 クレスペルはそれに驚いて慌てて顔を声がした方に向けた。するとそこに白衣を着た大男が立っていた。髪を油で後ろに撫で付け吊り上がった目を持っている。そして耳まで裂けそうな口で無気味に笑っていた。白衣の下は漆黒のタキシードであった。まるで悪魔が白衣を着ているようであった。
「ミラクル博士」
「如何にも」
 ミラクルは恭しい動作でクレスペルに挨拶をした。
「クレスペルさん、御機嫌よう」
「何の用で来た」
 クレスペルは不快感を露わにして彼に問うた。
「娘さんのことで」
「呼んだ覚えはないが」
「来た覚えはあります」
 嫌悪感を露わにするクレスペルに対してしれっとした態度で返す。
「娘さんが危ないというのに」
「もう唄わせないことでことは済んでいる」
 クレスペルは忌々しげにそう返した。
「妻の時と同じ様にな」
「奥様の時と同じ様に」
「忘れたとは言わせんぞ。妻は貴様のせいで死んだ」
 ミラクルを睨みつけながら言う。
「貴様が唄わせたせいでな。娘もそうするつもりか」
「またその様な御冗談を」
 鋭いまでの剣幕のクレスペルに対してミラクルはしれっとした様子であった。
「私は医者ですぞ」
「医者と一口に言っても色々いるな」
 彼は言い返した。
「良い医者もいれば悪い医者もいる」
「私の腕は知られております」
「何処がだ。わしの妻を死なせおって」
「これはまた」
「これはまたではない。そして娘は妻と同じ病だ」
「だからこそ私がここに参上したのですよ」
 恭しく頭を垂れながらこう述べる。何故か芝居がかった動作であった。
「お嬢様の為に」
「殺す為か」
「まあ落ち着いて。椅子にでも腰かけて」
「ふん」
 椅子がやって来た。クレスペルは憮然とした顔でそれに座る。この時彼は怒りのあまり気付いてはいなかった。椅子がひとりでにやって来たということに。
「まず危険を避けるには」 
 ミラクルはクレスペルに対して語りはじめた。
「その危険を知らなければなりません」
「彼女の検診をさせて下さい。そうすればすぐにわかります」
 その手を二階に向けて指し示す。すると扉がすうっと開いた。
「さあどうか」
「何故今扉が開いた?」
 流石にこれにはクレスペルも不信感を露わにした。
「今何をした」
「風が開けてくれたのですよ」
「馬鹿を言え、そんなわけがあるか」
「いえ、本当に」
 彼は相変わらずしれっとした態度で答えた。
「ひとりでに」
「御前がやったのではないのだな」
「まさか」
 その言葉を嘲笑したかのように返す。
「そんなことが出来る筈が」
「人間ならばな」
 不審さを表に出しながら言う。
「出来る筈もないことだが」
「私は人間ですよ」
 そう言いながら手を振りはじめた。
「この通り」
「むむっ」
「ではクレスペルさん」
「ああ」
 彼はその手の振りを見ているうちに何かが変わった。そしてその何かに取り憑かれたかのように立ち上がった。
「案内して下さい」
「わかった」
 こうして二人は階段を登りアントニアの部屋に入った。そこにはアントニアの他にホフマンとニクラウスもいた。
「どうも、アントニアさん」
「はい」
 彼女は恭しく頭を下げるミラクルを不審な目で見ながら頷いた。
「実は貴女の御父様のお願いで貴女を検診することになりました」
「私をですか?」
「はい。宜しいでしょうか」
「父が仰るのなら」
 アントニアはそれをよしとした。ニクラウスはぼうっとその場に立つクレスペルを見て嫌な予感を感じていた。そして隣にいるホフマンに囁きかけた。
「あの医者、何処かで見たことはないか」
「あの医者がか?」
「ああ」
 ニクラウスはここで頷いた。
「覚えているだろう、ローマでのことを」
「しかしあれは」
「別人には違いないがな。だがそっくりだ」
「何が言いたいんだ。あの男はローマから離れられない筈だぞ」
「世の中には全く同じ顔の者が三人いるというぞ」
 俗な言葉だ。だが今ホフマンはその言葉を信じたかった。
「じゃあ彼は」
「用心しておいた方がいい。何事もな」
「わかった。それじゃあ」
 ホフマンもまた頷いた。アントニアの手を握り検診を行なうミラクルから目を離さなかった。アントニアは椅子に座り検診を受けていた。
「ふむ、これはいかん」
「何かあったのですか?」
 眉を顰めさせたミラクルを見て不安になった。
「不整脈だ。しかも動悸が激しい。これはいけない」
「そんな。ではどうすれば」
「何、方法はある。とっておきの治療方法がね」
「それは」
「唄うことだよ」
 ミラクルはニヤリと笑ってこう言った。
「唄う!?」
「そう」
 そしてまたニヤリと笑った。
「やはりおかしいな」
「ああ」
 ニクラウスとホフマンはそれを聞いて囁き合う。
「どういうことなんだ」
「さあ、唄うんだ」
「けれどそれは」
「御父様から頼まれて診察しているのだよ。さあ」
「待て」
 ここでクレスペルの声がした。
「わしはそんなことを頼んだ覚えはないぞ」
「おや、気付かれましたか」
「わしに何をした。唄うことだけはならんと言った筈だ」
 そうきつく言う。
「ですが唄われるとお嬢様の御心が晴れます。病は気からですぞ」
「そんなものは詭弁だ。妻の時もそうだったのだからな」
「御母様も」
「そうだ。だから御前はもう唄ってはいけない。わかったな」
「はい」
 仕方なくそれに頷く。だがミラクルはそれでは引き下がらなかった。ここで白衣のポケットから小瓶を幾つも取り出してきた。それをカスタネットの様に鳴らしてきた。
「これを御飲みになれば宜しいですし」
「馬鹿を言え」
 だがクレスペルはそれを信じようとしなかった。
「貴様の薬なぞ。怖くて誰が」
「医者の言うことを信じずして何を信じろと」
「少なくとも貴様は信用できん」 
 彼は父親として言い返した。
「毎晩飲めば宜しいですよ」
「嘘をつけ」
 彼は頭から信用しようとはしなかった。
「アントニアを奪うことは許さん。貴様にはな」
「またその様なことを」
「黙れ、もう貴様の戯れ言は聞き飽きた」
 遂に切れた。彼を掴んで部屋から押し出す。
「出て行け。二度とわしの前に姿を現わすな!」
 そう言って部屋から追い出した。クレスペルは部屋の鍵を閉めるとここでようやく安堵の息を漏らした。
「これでよし。もうこれであいつとも」
「だといいですけれどね」
 しかしニクラウスがそれに疑問の言葉を呈した。
「何かあるのかね」
「はい。嫌な予感がします」
「大丈夫だ。もう奴は部屋に入ることは」
 その時だった。壁からミラクルがニュッと出て来たのであった。そして薬の小瓶をカタカタと鳴らしながら無気味な笑みを浮かべていた。
「この薬を毎日飲まれれば」
「馬鹿な、こんなことが」
 クレスペルだけではなかった。ホフマンも同時に叫んだ。
「これは一体」
「少なくともこれは現実のことだ」
 ニクラウスはミラクルを見据えながら言った。
「これがか」
「そうだ。よく見ておくんだ。いいな」
「ああ」
 ホフマンは頷いた。クレスペルはたまりかねてミラクルを一階に連れて行く。無気味で不可思議な騒動はまだ続いていたのであった。
「仕方がないよ」
 ホフマンはアントニアに対してこう言った。
「唄えないことが」
「ああ。唄うと君の命に関わるのなら。仕方がない」
「有り難う、ホフマン。けれど私は」
「本当は違うのかい?」
「ええ」
 彼女は力なく頷いた。
「唄いたいわ、本当は」
「けれど若し唄ったら」
「わかっているわ」
「残念だけれどそれはけは止めてくれよ」
 ホフマンも本心は違っていた。だがここはそれを押し殺すしかなかったのだ。
「僕は君の為を思って言っているんだからね」
「ええ」
「君がいなかったら僕は。どうしていいかわからないよ、本当に」
「わかったわ」
 彼女は力なく頷いた。
「ホフマン」
 その横にいたニクラウスが声をかけてきた。
「今日はもう」
「ああ、そうだったね」
 ホフマンは彼に言われてようやく気付いた。
「かなり長くいたね。それじゃあこれでお暇しないと」
「帰るの?」
「また明日来るよ」
 彼は答えた。
「だから。安心してね」
「ええ」
 こうしてニクラウスに連れられるようにしてホフマンはアントニアの前から去った。そして彼女は遂に一人に戻ったのであった。
「仕方のないこと」
 彼女はやはり力なく頷いた。
「そうなのよね。だから諦めるしか」
「いや、それには及びませんぞ」
 突如として何処からか声が聞こえてきた。
「誰!?」
「私です」
 声は後ろから聞こえてきていた。ミラクルがアントニアの影から出て来たのだ。まるで海から姿を現わす魔人の様にだ。すうっと出て来た。
「先生」
「勿体ないことです」
 彼はあえて残念そうな素振りを見せてこう述べた。
「このまま唄わないなぞと。それだけのものがありながら」
「私にあるもの」
「気品、美貌、才能」
 ミラクルは言った。
「その全てが備わっているではありませんか。それを家庭なぞというつまらないものに埋没させてしまうのですか?」
「けれど私にはもう」
 顔を斜め下に俯けさせて言う。
「もう一度見たくはないのですか?あの観客席を」
「観客席を」
「そう。貴女のモーツァルトのアリアは最高だった」
 彼は言いはじめた。
「コシ=ファン=トゥッテも。フィガロの結婚も」
「御覧になっていたのですね」
「そう。そして後宮からの逃走も。どれも素晴らしいものだった」
 アントニアの耳に囁くようにして言う。足が少し影の中にある為その長身が隠れている。丁度彼女の耳に口があるといった形であった。
「舞台照明の光。観客達のカーテンコール」
 彼は囁き続ける。
「贈られてくる花束。それを忘れられますか」
「けれど私は」
 それでもアントニアはそれを振り切ろうとした。
「もう唄えませんから」
「諦められるのですか?」
「はい」 
 彼女は言い切った。
「有り難い御言葉ですが」
 その実悩まされているのも事実であった。神の言葉にも悪魔の囁きにも聞こえた。どちらなのかわかりはしない。それがかえって彼女を惑わせるのであった。
「けれどもう」
「あの若者は実は貴女のことは考えていないでしょう」
 ミラクルはここで突如としてホフマンに話題を変えてきた。
「あの方が」
「はい。彼は貴女を自分のものとしたいだけです。そしてその為だけに貴女を唄わせないだけです」
「そんな筈は」
 アントニアはそれを否定しようとする。
「あの方は私のことを本当に思って」
「男の言葉なぞあてにはなりませんよ」
 ミラクルはそれを見透かしたかのように言った。
「自分勝手なものです」
 そう言って消えた。影の中に消えた。アントニアはミラクルがいなくなってようやく我に返った。
「今のは」
 夢でも見ていたかのような気分であった。ただしそれは悪夢である。
 疲れた顔で壁の方に歩いていく。母親の肖像画のところにまでだ。
「御母様」
 彼女は母に語り掛けた。
「私はどうすればいいの?」
「それは決まっています」
 またミラクルが現われた。今度は肖像画の隣にある扉から出て来た。そこから上半身だけ生えている形になっていた。だがアントニアはその異変には気付いてはいなかった。ただ彼の言葉に惑わされるだけであった。
「母上の御言葉に従いなさい」
 そう言いながら姿を現わしていく。そしてアントニアの隣に立った。
「そうすれば道が開けます」
「道が」
「はい」
 彼はまた耳元で囁きはじめた。
「ほら」
「アントニア」
「その声は」
 絵から女の声が聞こえてきた。アントニアはそれにギョッとする。
「聞こえていますか」
「御母様なのね」
「ええ」
 見れば絵が動いていた。口を動かし、頷いていた。まるで生きているように。
「聞こえますな、あの声が」
「はい」
 ミラクルの言葉にももう頷くだけであった。
「御母様の声です。よく聞きなさい」
「わかりました」
 この時アントニアはミラクルの顔を見てはいなかった。見ていたらどう思ったであろうか。その無気味な笑顔お。まるで悪魔の様な笑顔を。
「アントニア」
 母はまた娘の名を呼んだ。
「唄いたいのね」
「はい」
 アントニアは頷いた。
「とても。幾ら偽っていても私にはわかるわ」
 母は優しい声でこう言った。
「唄いなさい」
 そして言った。
「唄う」
「そうよ。自分の心に従うのよ。そうすればいいわ」
「けれどそれは」
「御母様の御言葉です」
 ここでミラクルがまた囁いた。
「唄う様に仰いましたね」
「ええ。けれど」
 だが彼女はまた戸惑っていた。
「唄えば」
「何を迷う必要があります」
 彼はまたしても耳元で囁く。
「御母上も仰ったではありませんか」
「アントニア」
 肖像画の母がまた言う。
「唄えばいいのよ」
「唄えば」
「そう」
「もう用意はできておりますぞ」
 ミラクルはそう言いながらバイオリンを出して来た。そして言う。
「唄いなさい」
「わかりました」
 彼女は意を決した。自分の心に、いや得体の知れぬ誘惑に従うこととした。
「それじゃあ」
「そう」
 そして唄いはじめた。肖像画はそれを確かめると元に戻った。ミラクルはバイオリンを弾きはしなかった。アントニアが唄ったのを確認して邪悪な笑みを浮かべ床の中に沈んでいった。床はそこがまるで水面であるかの様に彼を引き入れた。ミラクルは哄笑しながらその中に消えた。だが笑い声だけがそこに残っていた。
 アントニアは唄い終えた。するとがっくりと倒れ込んだ。長椅子に身をもたれかけさせその場に倒れ込んだのであった。
「アントニア」
 暫くしてクレスペルが部屋にやって来た。ホフマンとニクラウスも一緒である。
「ホフマン君達と話したのだがね。御前はミュンヘンから黒の森に」
 ドイツの有名な保養地である。深い森に覆われた風光明媚な場所である。ドイツ人の心の故郷の一つであると言っていい。
「行ってゆっくり養生を・・・・・・ん!?」
 だが彼はここで娘の異変に気付いた。
「アントニア、どうしたんだ」
「御父様」
 長椅子に崩れ落ちているアントニアの顔はもう蒼白であった。血の気は全くなくそれが死相であることは誰の目にも明らかなことであった。
「御母様が」
 アントニアは震える手で肖像画の母を指差した。
「唄えと仰るから」
「馬鹿な」
「そして唄ったら」
「こんなことになったのか」
「これは一体どういうことなんだ」
 ホフマンは青い顔でアントニアが指差したその絵を見た。だがその絵は不思議な頬笑みを讃えるばかりで何も語ろうとはしなかった。
「絵の魔力だ」
「絵の魔力」
 ニクラウスの言葉に顔を向けさせた。
「そうだ。絵の世界は我々の世界とは違う」
 彼は深刻な表情で語った。
「別の世界だ。そこにいる者もまたこの世の者ではない」
「ではそれがアントニアを」
「誘ったのかもな。だがそれが彼女の母親とは限らない」
「それじゃあ」
「多分な。だが証拠はない」
「・・・・・・・・・」
 ホフマンはそれを聞いて沈黙した。もう何も語ることは出来ない程打ちのめされてしまったからだ。
「ホフマン」
 だがニクラウスはそんな彼に声をかけてきた。
「落ち着くんだ、いいな」
「ミラクルは何処だ!」
 クレスペルは叫んだ。
「あいつが、あいつが娘を」
「クレスペルさん、落ち着いて」
 ニクラウスは今度はクレスペルを宥めなければならなかった。
「さもないと娘さんが」
「もう駄目だ」
 クレスペルは空しく首を横に振った。
「もう」
「そんな・・・・・・」
 それを聞いてホフマンの全てが崩れ落ちてしまった。
「アントニア、約束したのに・・・・・・」
 だがアントニアはその言葉に返すことはなかった。目も口も閉じ、長椅子に崩れ落ち動かないままであった。ホフマン達はその顔を見るだけしか出来なかった。





またしても……。
美姫 「悲しいわね」
ああ。
しかし、アントニアに歌う事を勧めたあの医者って。
美姫 「どうかしらね」
うーん。どうなっていくんだろう。
美姫 「次回も待ってますね」
ではでは。


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