『とらいあんぐるハート〜無想剣客浪漫譚』




CV]X 私の心は貴方と共に

 異空間から脱出した美由希達と、上階から降りてきた恭也達、そして一人先行していた縁が辿り着いたのは同時だった。
 氷を割り、辿り着いた先で見たその風景は、全員の足を床に張り付け、呆然とさせた。
 美由希は目と口を大きく見開き、夕凪は口を両手で塞ぎ、恭也は目を細め、薫は唇を噛み締め、そして縁は……。
「姉さんんんんんんんんんんんんんんんんん!」
 絶叫した。
 崩した氷の壁が小さな欠片となり、幻想的に降りしきるカーテンの奥で、巴はその鮮やかな鮮血を迸らせ、氷の床へと崩れ落ちていた。

 ――全ては偶然だった。
 ルシードが突進した瞬間、剣心は逆刃刀を斬り上げた。だが彼が失念していたのは刀の向き。視界を失い、限界まで追い詰められていた剣心に、そこまで意識を回せというのは酷と言うものだったであろう。しかし現実としてその刀の向きが全てに結論付けていた。
 順手に持っていた逆刃を斬り上げる。それはつまり刃のついた峰を使うという事。今まで無機物を斬っていた逆刃は、初めて人の体というモノに牙を突き立てた。
 簡単に人の体が斬り裂かれていく。
 そして二人の体の半ばまで完全に斬り裂いたところで逆刃刀は止まった。
 人の重みで重量の増した逆刃刀が剣心の手から離れる。それに合わせて刀が二人の体から抜けた。そして柄が床の上で弾けると同時に、巴とルシードは床へと倒れた。
「と……巴?」
 すでに体力の限界まで振り絞った剣心は歩く力もなく膝をついた。だが芋虫のように体を引き摺りながら巴に近づくと、頭の下に腕を入れ、血の気の引いた真っ白な彼女の顔を覗き込んだ。
「巴……。ともえぇ……」
 再び幕が張られた視界の中で、巴の顔だけがはっきりと見えた。だがそこには死相が浮かんでいる。ぼやけている筈なのに、巴の顔に浮かんだ死相だけは見えるのだ。
「い、今病院、連れてくから……。だから大丈夫だから……」
 剣心の瞳から、熱い雫が零れ落ちる。
 雫は巴の頬に落ち、まるで涙のように目尻から頬を伝った。
「み、みんな来てくれるから、さ……。すぐにフィリス先生のところ、連れてくから……。そうしたら、治る……から」
 涙が止まらない。
 絶対に大丈夫だって心から思っているのに、涙が後から後から流れてくる。
 何で……何で何で何で何で!
「けん……しん……」
 その時、不意に暖かな手が頬を撫で、剣心は無意識に閉じていた瞼を大きく見開いた。
「巴!」
 全身から血の気が引いているのに、彼女の手は暖かく剣心の頬を撫でた。だが指先は震え、彼の顔を見つめる巴の瞳からは徐々に光が失われていく。
 命が――尽きようとしていた。
「巴! 巴、巴、巴!」
 彼が名前を呼んでいる。
 剣心とは別の理由で消えていく視界の中で、自分の名前を呼んでくれる愛しい人の存在だけははっきりとわかった。
 全身から力が抜けていくというのに、名前を呼ばれただけで何と心が満ち満ちていくのだろう。
 これが幸せというものなのだろう。
 思わず口元に笑みが浮かぶ。
 死に際に愛する人が傍に居てくれる事が、ここまで幸福なのだと、久方ぶりに実感した。
 彼の頬を撫でる手を持ち上げているのが辛い。
 そう感じる心も辛い。
 それが『終わり』というのだと、頭の片隅で理解していた。
 だから……。
「け……しん……」
 前に言えなかった言葉を贈ろう。
 せめて立ち止まる時間が短くなるように。
 せめて前を向いた時に笑顔があるように。
「わ……しは……幸……せでし……た」
「喋らなくていい! 黙ってろ! 無駄な力を使うな!」
 必死な剣心の顔も、もう巴の瞳には映らない。
「です……か……、貴方は……笑っ……いて……さい……」
「巴! もういいから! いいから! 話さなくていいから!」
 口が動かない。
 伝えたい言葉はあるのに、零れる空気は言葉をなしてくれない。
 悔しい。
 たった数ヶ月ではあったけれど、どれだけ私の真っ白な心に彩を与えてくれたのか。彼に伝えていないのだ。
 剣心……。
 夕凪……。
 クラスのみんな……。
 唯子先生……。
 美姫先生……。
 私は感情を表に出すのが苦手で、だからみんなにありがとうと言葉一つも伝えられなくて。だから剣心にも私の心を伝えられなくて。
 だから、せめて貴方が幸せになるのを見つめていたい……。
「巴?」
 剣心の頬を撫でていた手が離れた。
 最悪の想像が脳裏を過ぎったが、巴の手は床の上に置かれた短刀を握り締めた。
 何をするのだろう。
 そんな不思議そうな表情を浮かべた剣心に、巴は満面の笑みを浮かべ、そして――。

 ――だからしばしの間、お傍に寄り添っていてもいいですよね?

 剣心の頬に長い縦の傷が描かれた。
 同時に「コトン」と固く小さなものが床の上に落ちた音が静寂になった空間に響く。
 音を鳴らしたのは短刀を手にした小さな手。
 もう二度と動かぬ手は、周囲に降り積もった氷の欠片と同じくらい透き通り、純白を超えて透き通るようだ。
 そこに生命の力強さはない。
 それなのに、巴の口元には満足げな笑みが浮かんでいた。
「……ともえ?」
 擦れた声で名前を呼ぶ。
 だが閉じられた瞳が開く事はない。
 額に積もった小さな氷を払いのけても、乱れてしまった髪の毛を整えても、小さな唇を指でなぞっても、彼女は起きてくれない。
『剣心』
 耳元で巴が囁いた気がして、剣心は大きく周囲を見回した。だがそこには誰もいない。
 もうその声で名前を呼んでくれる恋人はいない……。
「う、あ、ああ、ああああああああああああぁぁぁぁぁぁ……」
 現実が心に突き刺さる。
 今腕の中にいる恋人がすでにこの世にいないと言う現実が。
 そんな剣心の慟哭に、ようやくその場に居た全員が動かなかった意識がようやく現実に追いついた。
 いやすでに現実を見て、結果を予想していた者が二人いたが、助からないからこそ、か。
 恭也は剣心の慟哭を聞きながら一度黙祷を捧げると、大股でルシードに近づいた。
「くそ……くそ……くそ……。こんな……こんな……糞女のせいで俺の……俺の作戦が……」
「まだ生きていたか」
 剣心とルシードの間に巴が割って入ったため、体の半分まで刃がめり込んだ彼女に対して、ルシードは三分の一程度で済んでいた。
「こういう輩は、本当に悪運が強い」
 隣に来た薫が、心底嫌そうに眉を顰めながらルシードを見下していた。
「助かり、ますか?」
「……五分五分というところか。腸は斬られているが、それ以外の臓器は無事だと思うし、な」
 少しだけ脳裏に助からなければ良い。と、暗い考えが過ぎったが、恭也は少しだけ頭を振るとそんな考えを振り払った。
 ルシードは龍の大切な情報源だ。今死なれては困るのはわかるが、それでも隣で巴を抱きしめている剣心を見ると胸が締め付けられる。
 間違いなく助けられたのだ。
 自分達が先に地下に来ていれば、少なくともこのような結末だけは回避できていた筈なのだ。
 いや……。と、恭也は再び頭を振った。
 全ての出来事に「もし」はない。
 悲しいがこれが運命だったと思うしかない。
「……そうしなければ辛い」
「恭也君?」
「いや、何でもないです。それより、早くこいつを搬送しましょう」
 長く放置しておけば、助かるものも助からない。恭也がそう薫に促した時、後ろで大きな打撃音が聞こえた。驚いて振り返ると、鬼と化した縁が剣心を殴り飛ばしていた。
「剣心!」
「雪代さん! 何を……!」
 それまで巴の死にショックを受けていた美由希と夕凪が、慌てて二人の間に飛び込んだ。
「離セ! この男に……姉さんを殺したこの男に……同じ苦しみを……! クソ! やはりあの時人誅を下しておくべきダッタ!」
「だから止めろって!」
 人誅を口にした縁にしがみ付き、止めようとする夕凪と、未だに呆然としている剣心の頭を胸に抱き、守ろうとしている。
 だが縁は顔に太い筋を浮かび上がらせ、夕凪を引きずりながら剣心へと掴みかかっていく。
 さすがにこれ以上は今の剣心には酷か。と、恭也が動こうと一歩踏み出した時、青みがかった髪が横を摺り抜けて宙を待った。そして次の瞬間、軽い叩かれた音が鳴った。
「ケフ……」
「薫さん?」
「人誅か……。天が裁きを下さずとも、人の手自ら裁きを下すという意味だったか?」
 じんじんと痛みが響く掌をきつく握り締め、神咲薫は平手を打たれた雪代縁を今までにない形相で睨み付けた。
「そうだ! この男は二回も姉さんを殺した! もしそれが運命と言うのであれば、今ここで緋村抜刀斎を魂ごと消し去ってやル!」
 何という形相なのだろう。
 縁を止めるために組み合っている夕凪は、思わず力を緩めてしまった。そのおかげで縁が自由になりかけた。彼の体に引っかかった腕が思いっきり引っ張られ、夕凪の足が浮いた。
「うわっとっと!」
 再度力を入れ直す。
 そこで縁の突進が止まり、夕凪はほっと息をついた。
 だが縁の形相は変わらない。怨嗟と憤怒を綯交ぜにした鬼の形相。できるなら二度と見たくはない鬼を前に、薫は一歩も引かずに睨み付けていた。
「人誅を下すというのなら、ウチもお前に下してもいいんやね」
「何ダト?」
「お前が言っている事はウチにはようわからんが剣心に人誅を下すなら、巴さんを龍から助けなかったお前が元凶だ」
「……何を言っていル?」
「君の言い分をそのまま聞くなら、緋村君は今と前……明治時代に巴さんを殺害したという。ならば、その原因はどこか?」
「そんなの決まっているだろう! この……」
 血走った眼を剣心に叩きつけながら縁が吼えた。
 それに合わせて、剣心を鬼の視線から守るように、美由希は剣心を抱く力を強くした。
 しかし、そんな視線は次の薫の言葉で凍結した。
「原因は雪代縁、お前に決まっているだろう?」
 その一言で縁がキれた。
「うわわわわわ!」
 夕凪を物ともせず、突き出した手で薫の首を力任せに締め上げる。
「薫さん!」
 恭也が小太刀を抜……こうとして、動きを止めた。何故なら今にも首の骨を折られそうな彼女本人が恭也を制していた。
 しかしこのままでは命の危険は明らかだ。
 それでも薫は恭也を制した。
「姉さんが死んだのは、全てこの緋村抜刀斎の責任……。それ以外に真実はない……」
 縁の筋肉が膨れ上がる。
 瞳はすでに悪魔の如く釣り上がり、吐き出される呼気すらも暗黒を湛えているようだ。
 だが薫は抵抗しない。
 首の骨は軋み、体内から悲鳴を上げているのがはっきりと聞こえる。それでも瞳は縁の瞳を見据え、口を引き絞っている。
「訂正シロ……訂正シロ訂正シロ訂正シロ訂正シロ訂正シロ訂正シロ訂正シロ訂正シロ訂正シロ訂正シロ訂正シロ訂正シロ訂正シロ訂正シロォォォォォ」
 それは間違う事なき、呪いの念。
 姉を殺した剣心を呪い、己を元凶と言い放った薫を恨みあげる魂を震え上がらせる声。自分に向いていないのに夕凪は手を放して尻餅をつき、美由希ですら剣心を抱く事で震えを抑えていた。
 しかし薫は恐怖する事無く、静かに手を縁の頬に添えた。
「本当はわかっているんじゃないか?」
「……!」
 激しい歯軋りが薫の耳朶を打った。
 だがそれは怒りで行われたものではないと彼女は確信した。
 だが何かを感じ取ったのか、縁の腕から力が抜けた。
 そして薫から手を離すと、そのまま踵を返して自らが開けた穴から外へと出て行った。
「な、何で……?」
「昔は知らないが、今の彼は平成の世に生きる縁と過去の記憶の縁と二人分の記憶を持っている。そして今の縁としての記憶が、薫さんの言葉が正しいと判断したんだろう。大丈夫か?」
「あ、すいません」
 呟きに返答があり、驚いた夕凪は手を差し出してくれた恭也に掴まりながら立ち上がった。
「恭也君、すまないが後を頼めるか?」
「え? ええ。リスティさんを呼んで手続きをするだけですから」
「なら後は任せる」
 それ以上の言葉を挟ませず、薫はすぐに縁の後に続いて出て行った。
 その後ろを見送って、恭也は小さく溜息をついた。
 あの何事も結論をつけなければ気がすまない薫が後を任せて縁を追ったという事は、何か考えがあっての事だろう。あの様子から見ると縁も薫に危害を加える事もないだろうし、危害を加えようとしても十六夜を持つ薫に勝つのは難しい。
 恭也は、薫の安全を確信してから視線を剣心に向けた。
 依然として瞳は巴を見ていた。
 それが痛い。
 泣き叫んでくれれば、いつかは戻ってこれる。だが全てを内に秘められてしまっては、仲間も家族助ける術を探せない。
 と、そこで恭也は隣に立っている夕凪を見た。
「……夕凪さんは、大丈夫なのか?」
「私は、泣くタイミングを外しちゃったから……後で……かな」
「……そうか」
 それでも小さく震えている夕凪の肩を抱きながら、恭也は胸に溜まった全てを吐き出すように息をついたのだった。

 こうして、龍の構成員が起こした事件は幕を閉じた。



悲しい結末に、縁が暴走。
美姫 「それを薫が止めたけれど」
うーん、本当に止まったかどうかは分からないな。
美姫 「去った縁を追ったものね、薫が」
追いつけたのだろうか。
美姫 「どちらにせよ、悲しい結末ね」
そうだな。うーん、縁と薫の行方が気になるな。
美姫 「そんな気になる次回は……
この後すぐ!



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