『とらいあんぐるハート〜無想剣客浪漫譚』




C]X 高野山の悲劇 〜二人の人斬り

 男は長身だった。
 男は腰まである長い髷をしていた。
 男の目はまるで獲物を狙う猛禽類のようだった。
 男の笑みはじゃれる寸前の獅子のようだった。
 男の奥にある心は――。

 ゾクリ。と、剣心の全身が震えた。
 それは紛れもなく恐怖という名のものであり、その発信源が目の前の男だという事実に、汗が目に入るのもかまわず男から視線を反らせなかった。
 いや、反らしたら――。
 背筋を死という直感が這い上がってくるのを、必死に堪えた。
 その時、急に視界が赤く染まった。
「え……」
 思わず左手が目を拭った。
 粘着質なナニカが掌に張り付く。
 それが血液と理解できるまで、数瞬を要した。
「ふん。記憶はなくても魂が覚えていやがるか」
「な……に?」
「抜刀斎、今はお前と遊ぶ時じゃねぇ。ちゃんと準備して迎えてやるさ」
 本当に楽しそうだ。
 男の浮かべた微笑を見て、場違いだと理解しながらも剣心はそう思った。
「ま、そのためにこの糞を使ったんだが、どうも勝手にさせ過ぎたらよ。生意気にも俺の金を持ち逃げしやがった」
 するりと腰に差した刀を抜き放つ。
 その異常さに眉が跳ねた。
 一見すると普通の刀に見える。だがその刃が通常ではなかった。細かくまるで鋸のように切れ込みの入っているソレは、手入れをしたばかりのように油が滴っている。
 ――いや、あの反射は――。
「気付いたか」
「何?」
「この無限刃に、な」
 元来、刀という人を斬るために生まれてきた刃物は、使えば使うほど、斬れば斬るほどに刃毀れを起こしていく。だが製作者である新井赤空は、切れ味が落ちるぎりぎりのラインまで刃を鋸上に削り、刃毀れから生じる切れ味の劣化を防ぐ事に成功した。
 結果、鋸の刃は人を斬るたびに油をこびり付かせ、浸透しないはずの芯鉄まで人油を染み込ませていた。
 男は楽しげに額を抑える剣心を眺めると小さく首を振った。
「……また忘れちまうところだった。今日は先輩と殺りにきたんじゃないんだったな」
 そう……目的は――。
 無拍子から発生した切り上げが、未だ夢の中の御ノ前清次郎へと襲い掛かる。
 だが風があっさりとその間へと駆け寄った。
 ギィィン!
 鈍い金属音が清次郎の耳朶を打つ。
 その音でようやく己が今どんな状況で寝ているのかを悟り、そして今どんな状態に置かれているのか一瞬で理解した。
 目の前には銀色に輝く二本の刀。
 その切っ先が文字通り鼻先に突き刺さっていた。つぅっと鼻の頭から血が流れた。
「ひあ? ひぃ、ひぃぃぃぃぃぃぃぃ!」
 真っ赤な自分の体液を視界に入れた瞬間、彼の喉から甲高く気に障る高音域の悲鳴が迸った。思わず助けた剣心が眉を顰めて見捨ててやろうかと思案する程の声に、そこいらを飛び回る蚊程の扱いすら思い浮かべていなかった男は、口端を更に吊り上げる。
「やっぱりな。こういう糞は駆除するに限る。どけ。どかないと、今ここで――」
 無限刃を支える両腕が荷重に耐えられず後退する。
 それに合わせるように男の眼が血の色に輝いた。

「――コロスゾ」

 背筋が凍る。
 視線だけで体中の熱が体外へと強制放出され、背筋を伸ばしていた骨が芯を抜かれたようにへたり込んでいくような奇妙で、それでいて圧倒的な死の予感を秘めた全てを凍結させる感覚に、剣心の全身が犯された。
(な、何だ? これ、気圧されている? ……たったそれだけで? じいちゃんでさえそんなレベルの気を放出なんてそんな!)
 掌には冷たい汗が握り逆刃刀の柄紐をじわりと湿らせていく。
 このまま強大な殺気に押され続けた場合、後に待ち構えている結果は一つしかない。
 打開するとすれば、お荷物を捨てて一人で撤退戦を行いながらリスティの待つ麓まで降りきれれば、剣心は問題はない。
(だがこんな様子の奴に、それができるか?)
 いや、やらないと共倒れとなるだけだ。
 結末がどれになるにしろ、今やらなければならない事は一つしかなかった。
「おい! お前!」
「ひぃあはひ?」
 悲鳴と返事をいっぺんに行うという器用な返事をしながら、清次郎は震える逆刃刀を持つ剣心の顔を見上げた。
「選べよ? 今ここで死ぬか、それとも少しだけだけど生き残る可能性に賭けて麓に走るか」
「ふぇ?」
「ほう?」
 清次郎は間が抜けた、男は面白そうに同時に声を上げた。
「先に言う。このままじゃ間違いなく死ぬ。死にたくなかったら麓で警察に保護を頼め」
「で、でも、警察は……」
「命の値段がたった四億なんて安い命だな」
 辛辣だった。
 こんな状況下でそんな事を言われても、正直に言えば判断に困る。だが剣心の言葉に清次郎は時間がないにも関わらずゆっくりと視線を下げ、そして自分を見下している男を見上げた。
 結論など出ていた。
 自分の前に剣心が立っている所為か、男の殺気より清次郎は日本刀という直接的な武器に恐怖していた。しかし剣心がぎりぎりまで持ちこたえれば、こんな事態の元から離脱できる。
 麓に逃げるのは最終手段が、間違いなく逃げるだけはできるのだ。
 清次郎はごくりと固唾を飲み込むと、一目散に駆け出した。札束を抱えたまま。
「ばっ!」
「所詮世の中弱肉強食。あんな糞でさえ弱者なりに強者を噛む。だからこそ殺す」
 剣心の意識がそれた瞬間、男の声は耳元から聞こえた。
 背筋を這う悪寒が、一気に頭頂部へと浸透する。
 半分条件反射とも言うべき反応で逆刃刀が空を切った。
 そう。
 空を切ったのだ。
 切るのはいい。だが耳元で聞こえた声に振るった一撃が、避ける足音すら聞こえずに空を切るのはどういうことか。
 一瞬真っ白になった頭を置き去りに、男が清次郎へと疾走する。
 身のこなしからかなりの使い手であるのは一目瞭然であり、一拍の間というのは達人クラスのやりとりではそのまま致命傷へとつながる。
 剣心の足が動き出すより速く、男は清次郎の元に辿り着いた。
「終わりだ。糞下郎」
「あ、あ、あ……」
 声など出せる筈もなかった。
 剣心ですら麻痺していく殺気を正面より受け止めてしまえば、何の武術の心得のない一般人など俎板の鯉より簡単に捻りつぶせる。
 無限刃が凶悪な牙を光らせた。
「あぶな――!」
 声など役に立たないのは日本を練り歩いた武者修行で理解している。だがそれでも口を飛び出した言葉が森中に響き渡る。
 だが剣心は忘れていた。
 彼と仲間達が森に入る前に、誰が清次郎を追っていたのか。そして斬られかけている元同僚を見て立ち竦むような人物なのかを。
 鮫の肉を斬り千切る牙を連想させる刃が清次郎に届く瞬間、タイミングを合わせるように上下から何かが刃を挟んだ。
 刃は何かの表面を削ぎ取りながら、数センチ前進したところで直線運動を止めざる得なかった。
 その唐突に現れた人物を見て、男の視線はすっと細まり、続いて木陰より飛び出た女性を見て、剣心は場にそぐわない声色で名を呼んだ。
「千堂さん?」
「緋村君? 何で……ってそういえば高町さんのところの恭也君達と剣術してるんだっけ」
 余分な説明が省けるのは喜ばしい事で、瞳とそして現れた人物のおかげで清次郎の前へと体を潜りこませる事に成功した。
 ちらりと視線を男に固定しながら、人物である橘修吾を盗み見た。
 なるほど。
 こうやって近くで見れば強盗など企む人物には見えない。
 リスティの推理と勘は正しいと実感した。
 修吾は無限刃をとめるべく使った両手から鮮血を無限刃と地面に溢しながらも、男を鋭い目付きで睨み付けた。
「……ここに来るのは計算外だったな」
「貴様が俺をはめた張本人か」
「ああ。俺のほしいものを手に入れるために、兆冶が練った下らない策だがな」
「兆冶というのが誰か知らないが……俺をはめた落とし前はつけてもらう!」
 刃を挟み込む両手――全ての剣術の唯一無二の徒手空拳、真剣白刃取りに利用された腕の筋肉が大きく盛り上がると、立ち上がりざまに一歩前に踏み出す。つられるように男もまた一歩引いた。
 その引かない様子に男が剣心の前にたった時と同じく口元を歪めた。
「さすが元陸奥というところか」
「貴様……?」
 その言葉は剣心達には聞こえなかった。
 だが彼らも知らなかった。
 男の仲間にもまた無傷の人物がいるという事実に。
「おや? いけませんね。そのお金は志々雄さんのものですよ〜」
 声は唐突に降り注いだ。
 修吾は男から視線を反らせず、瞳はゆっくりと言える動作で顔を上げていく。
 そこに浮かんでいたのは瀬田雅孝!
 恭也と戦闘後、劉閻と会話を行った上で彼は完全に最終舞台に間に合った。
 まるで悪戯をした子供をしかるような微笑で懐に締まってあった小刀を清次郎へを投げつけた。
 無慈悲な鉄の塊がまるでこまおとしを眺めている様子で瞳の目に映った。

 飛天御剣流――!

 だが今度は意識は間に合った。
 足は地面を蹴り、頭上に向けて剣の腹を使って打ち上げる。

 龍翔閃!

 小刀を弾き、剣心はそのまま雅孝に逆刃を振るう。しかし逆刃であるという事は、刃は峰についているのだ。つまり刃を触ろうとも斬れない。
 雅孝は迫る逆刃刀を一笑して満面の笑みを浮かべると、次の瞬間、その場にいる全ての人間の視界から文字通り消えた。
 本日二度目の空を切る感覚に、剣心の眼が信じられないと見開かれる。跳躍の最長に到達し、重力に引かれるまま着地した彼と、そして見上げたままの姿勢で固まった瞳を他所に、雅孝は男・志々雄の横に佇んでいた。腕の中に現金の入ったバックを抱えた格好で、崩れない笑顔を貼り付けていた。
「……いつの間に……?」
 だが手に残る感触が告げている。
 刹那の時間、逆刃刀に生まれた重さは人一人分と思えるものだった。
(あの瞬間に逆刃刀を足場に横に飛んだのか?)
 飛天御剣流は元々相手の動きを読む事に長けている剣術である。つまりは相手の感情の移動先を先読みするのだ。
 だが剣心は雅孝が意識から完全に外れた事実に固唾を飲み込んだ。
「はい、志々雄さん。お金、手に入れましたよ」
「ああ」
 容赦なく気を剣心達にぶつけながら、志々雄はそれでも満足げに頷いた。
「劉閻はどうした?」
「先に戻りました。御神……名前忘れちゃった。妹さんの方にやられちゃいまして」
「ほう?」
 聞き覚えのある名前に剣心も眉を跳ね上げる。
 海鳴商店街で気だけで自分を含めて二人を動けなくさせた武術者を思い出す。だが祖父に鍛え直されたおかげか体はしっかりと動かせる。
 志々雄と雅孝を前に血の拳を掲げる修吾と瞳。そして剣心もまた刀を構えた。
 そんな三人と完全に茫然自失となっている清次郎を眺め、志々雄は刀を肩に背負った。
「とりあえず、帰るか」
「そうですね、目的も果たしましたし」
 雅孝も鞄を持ち上げて変わらぬ笑みを浮かべた。
 だが剣心達がそれを簡単に見逃す筈もなく、即座に動けるように間合いを縮めていく。
 それをたった数秒の間に興味を無くした眼で見据えた。
「……邪魔だ」
 何が起きたのか。
 志々雄の呟きが聞こえた瞬間、修吾の体から鮮血が上がった。左袈斬りの斜めに走った刀傷が真上に赤い霧を立ち上らせる。
「たち……!」
 瞳が駆け寄ろうとして、続けて背中が真横に切り裂かれた。勢いは止まらず修吾に重なる形で地面に倒れ込む。 あまりに突然な出来事に、いくら心が鍛えられた剣心でも頭の中から色が抜け落ちる。
 そこへ刀の切っ先が空中に生まれた。
 真っ直ぐに剣心の顔面を目指して向かってくる。
 鋸の刃が眼球に到達すると思われた時、剣心は力任せに体を後ろに動かされた。そして顔に血が飛び散った。
「……っう……」
「雪代さん?」
 抑揚のない声が唇をついた。
 切っ先は森から飛び出してきた四人目の人物、雪代巴の肩を深く切り裂いていた。
 小さな桜の花を思わせる唇から、苦痛の混じった空気が零れた。
 剣心は巴の体重を支えられず、後ろに尻餅をつく形で地面に腰を落とした。
「それじゃあな。先輩。次がコロシアオウ」
 隣で小さく会釈する雅孝を従えて、志々雄は森の闇へと消えていった――。





倒れた橘に瞳。
美姫 「志々雄たちは逃走…」
果たして、これからどうなるのか!?
美姫 「次回も目が離せないわね」
うんうん。次回も楽しみにしてます。
美姫 「待ってますね〜」
ではでは。



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