『とらいあんぐるハート〜無想剣客浪漫譚 72』




LXXU・比叡山潜入戦〜美沙斗と夏織

 壁と床、壁と天井の繋ぎ目すら目を細めなければ視認するのも難しい程に磨き上げられた通路の真中で、二人の女性が対峙していた。
 一人は歯を食いしばり、必死に何かにしがみ付くような視線を投げかけている。そしてもう一人はそんな視線だけで人を殺せそうな彼女を緩やかに、そしてたおやかで穏やかに微笑みすら浮かべている。
「夏織義姉さん……いや、もう名前など関係ない。私は御神を汚すものを許さない」
 右手の小太刀を順手に、左手の小太刀を逆手に構え、彼女は足を肩幅程度に広げて腰を落とした。
「美沙斗、私は生きていた。そして恭也よりも士郎さんよりもまず貴方に会いに来た。これ以上進ませないために」
 一刀だけの小太刀を両手でしっかりと持ち、彼女は脱力状態のまま慈愛に満ちた眼差しを一切変化させずに、義妹を見詰めた。
 同じ場所に第三者が存在していれば、その二人を見て美しいと表現しただろう。一人は獲物に襲い掛からんとする悪魔の如く、そしてもう一人はまるで天使の様なのだ。正対する雰囲気を醸し出している美沙斗と夏織は、互いに必殺の間合いをとらんと一歩進んでは一歩引き、右に斜を求めれば左に体を異動させる。
 それはまるで陰陽道の対極図のように、見事な円を――通路の幅によって半円にもならないが――を描いている。だが何時までもそれを繰り返している暇も時間もないのは、夏織ではなく美沙斗だ。どれだけ記憶に残る影を宿そうとも夏織を偽者だと結論つけたのは彼女だ。しかし、何処か頭の片隅では警鐘を発していた。
 アレはお前の知っている義姉だ。
 アレは愛している兄の恋人だ。
 アレは大切な甥の母親だ。
 アレはお前の尊敬すべき――。
「黙れぇぇぇぇぇ!」
 美沙斗の口から絶叫が迸った。激しく肩で呼吸し、ぽたぽたと脂汗が床に零れ落ちていく。心がどうしても理性に付いていかない。
 目の前にいるのは敵だ。
 敵だ。
 テキだ。
 てきだ。
 TEKIだ。
 そう思ってもダメなのだ。ガタガタと手が自覚しなければわからない程に細かく震えている。
「美沙斗」
 心と理性の葛藤に苦しんでいる美沙斗の体が、夏織の呼び掛けにびくりと反応した。
「信じられないのは無理はないと思う。そんな時、私達はどうしていたかしら?」
「私達は……?」
 剣士に言葉や傷の舐め会いはいらない。剣士に必要なのは――。
 美沙斗は大きく深呼吸すると、一度小太刀を鞘に戻した。瞼を閉じて再度大きな深呼吸を繰り返す。すると震えは驚くほどあっさりと止まった。
 その様子を静かに見ていた夏織は満足そうにただ頷いて、小太刀を構え直す。
「来なさい」
「ハァァァァァァァァァァァァァ!」
 促されたからではないが、美沙斗の裂迫した剣気が神速と同時に大気に融和した。すぐに夏織も彼女が何を使用したのか理解し、自分も同じ領域に踏み込もうとした時、壁や天井が大きな物体をぶつけられた様に爆ぜた。いや言葉通りに爆ぜたのではない。正確には弾けたと言う方が正しいのだろう。だが夏織にはそれが爆発したかのように見えた。壁から天井。そして床から壁に移動するソレを見越して、一瞬驚いて使わなかった神速のスイッチを入れる。元々白一色しかなかった空間に、薄らと靄のような灰色がかかる。そして神速の中で爆ぜた箇所を見て、それまで微笑みだけを浮かべていた夏織の眉が跳ね上がった。
 神速の中で通常の動きをしている?
 本来神速の領域とは、通常視覚が感知している通常空間を強制的に圧縮させて脳に情報伝達させる事によって、説明するならば時の拘束から僅かに逃れさせる技だ。なので意識では全ての動作が遅く感じられるが、自分の動きもまるでプールの中で必死にもがいているように遅くなっていくのだが、美沙斗は間違いなく通常空間と同じ速度で動いている。これは暗殺すら行ってきた御神同士の闘いでは致命的な遅さだ。そこで夏織は、天井を踏み台にして抜刀する美沙斗の軌道に小太刀をぎりぎりで合わせると、神速を解除した。
途端に靄が晴れて純粋な白が視界を埋め尽くす。それと同時に夏織の小太刀を折るのではないかと思えるほどに激しい衝撃が腕を駆け抜けた。
「くっ」
 さすがに助走と反動をつけた一撃は重いのか、夏織に苦悶が浮かぶ。しかし、神速を解除した事で自由を取り戻した体は、すぐに次の行動に出た。
 両手で握っていた柄の左手を開放すると、美沙斗の移動速度と体の向きを予測して死角になるように袖口からぱらぱらと細い糸を床に垂らしていく。そこへ少し離れた場所に美沙斗が姿を現した。
「今のは何かしら? 初めて見たわ」
「自分の技の種を敵に教えるとでも?」
「……それもそうね」
 美沙斗の表情に得心したように頷く夏織だが、実は美沙斗には説明などしている余裕が存在していなかった。
今使用したのは、ある意味禁忌とも言うべき神速二段がけだった。通常の神速の領域の中で再度神速を使う事によって、更にもう一段上の状態へと強制的に移行させる。しかし、体への負担は倍増し、ヘタをしたら、一回の使用で膝を完全に破壊しうる危険性も持ち合わせている。何とか表情を作る顔の筋肉を引き締めて止めているが、美沙斗の背中は無理を押し通した証拠にべっとりと汗が滲んで、服が張りついていた。
だが、夏織が偽者であれ本物であれ、ただ一つ言えるのは間違いなく亡くなる直前まで、彼女は美沙斗の遥か上を行く強者だったと言う事だ。手を抜けば即座に屍を曝す羽目になる現実味を帯びた想像をして、ごくりと固唾を飲みこんだ。
「次で決める。夏織義姉さんのためにも……」
「そう言う訳にもいかないのよ。だから、貴方に御神不破流・分流遠野小太刀二刀術の一つの奥義を見せてあげるわ」
「何?」
 分家とは言え、遠野は不破と同じ道場で剣を習う。ならば御神流の奥義はそのまま不破の奥義で、更には遠野の奥義になる筈だが、夏織はあえて遠野小太刀二刀術と言い表した。ならばブラフではなく事実なのだろう。
 少しだけ膝に力を篭め、踏ん張りが利くのを確認すると、美沙斗は油断なく小太刀を正中線を守るように配置する。
「良い構えだわ。そんな隙のない構えができるようになったのね」
「貴方と別れから二十年近く。成長するのは当然」
 しかしそれは間違いなく夏織にも言える。生きていようが偽者であろうが、御神として生きて来た以外の時間が存在する。それを侮るつもりは毛頭なく……いや、美沙斗には最初から余裕など存在していなかった。剣に宿る命の重さは計り知れないのだ。
「行くわよ。美沙斗」
 身のこなしだけで驚嘆するべき速度で、夏織は右手に持った小太刀を乱雑としか見えない振りで、切り上げてくる。御神を習っていれば小学校二年には卒業しているレベルの稚拙な斬撃だ。疑問に思いながら捌くために左の小太刀で落とすように振るう。その瞬間、突然美沙斗の左腕がコンクリートに固められたように、動かなくなる。
「何!」
 思いがけない出来事に、美沙斗は体ごと腕を引いた。途端に腕の延長上に何か細いものがピンと張ったのを感じ取り、無意識に視線が落ちる。だが何も目には映らない……かのように見えた。しかし、謎の現象から開放されようとして動かした時、手の指元に何かが光った。
 何だ?
 頭が理解し様とするより先に、右の小太刀が光の先を切断するべく徹を篭めた斬撃が空を走る。だが鍛鉄で作られた刃は弾力のあるゴム板で弾かれたように一度深く落ちてから真上に戻される。そしてその体制のまま、美沙斗の体は左腕と同じく拘束された。
「い、一体……、何故……?」
「どう? これが御神不破流・分流遠野小太刀二刀術・奥義之縛・禁。徹と貫を入れた琴の弦を使い、相手を傷つけずに捕える不破も御神本家も知らない遠野の奥義の一つ」
「琴の弦で……? まさか……」
「気付かないのも無理はないわ。鋼糸と違い傷つけず、そして動かし易い琴の弦は相手に悟られないように拘束していく」
 たかが糸と思うが、糸というのは集まれば強度を数十倍から数百倍に跳ね上げる。だが幾ら強度が上がったとしても、動き難さだけの筈だが。
「それでも動けないのは……」
「最初に飛針で貴方を攻撃した時、撃ち込ませて頂いたわ」
 そう言って指を天井や壁、そして床の至る箇所を指し示す。そこには白で塗り固められているために気付き難いが、同色に塗られた飛針が九割近く己をめり込ませており、更にそこから琴の弦が蜘蛛の巣のように通路に広がっている。そして糸は美沙斗の体を拘束し、夏織の小太刀の鍔へと繋がっている。
「琴の弦を使うのも相手に気取られないため。どうかしら? 美沙斗」
 残された小太刀を抜いて変わらぬ微笑を絶やさずに夏織は美沙斗に一歩近付いた時、アジトが大きく揺れた。

 時刻は少し戻る。
 神谷道場の居間でニュースを見ていた美由希は、なのはと同じく目を見開いたが、すぐに固く瞼を閉じると、決意を篭めた瞳で大きく頷いた。
「なのは、私、行って来る」
「お姉ちゃん……危ないよ?」
「大丈夫。私は恭ちゃんやみんなに鍛えてもらった御神の剣士だよ? 絶対に無事でみんなを助けてくるよ」
「でもどうするんだ? この状態だったら電車も止まってるだろうし、タクシーだって近付かねぇぞ?」
 そこへ、起きてきた一志がまだ寝癖がついていない頭をがしがしと掻いて、じろりとジャージ姿の美由希を睨むように見た。
「それでも……走ってでも行く」
 しかし美由希の決意は揺るがなかった。
「……海鳴までどれだけ距離があると思ってやがる?」
「いつも八時間通しの稽古もしている。大丈夫。絶対に辿りつく」
「OK。連れて行ってやる」
 答えたのは一志ではなかった。新たに居間に姿を見せた浩は携帯電話片手に、眠そうな眼を擦りつつも、その場にいる全員を見回した。
「海鳴に行くのは運転する俺と美由希さん、一志、それに……剣心だ」
 こうして海鳴の戦場に向かう四人の前に何が立ち塞がるのか、まだ誰も知らなかった。




おおー、美由希復活の兆しかな?
美姫 「美由希は答えを見つけられたのかしら」
そして、美沙斗と夏織の対決の行方は。
美姫 「先に進んだ斎藤も気になるし…」
比叡山潜入はどうなるのか。
美姫 「海鳴のテロはどんな結末が…」
非常に気なる所だけれど…。
美姫 「次回へと続くのでした」
それでは、次回を楽しみに待っております。
美姫 「また次回でね〜」



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