………

 
無言で机に向かい、机の上の紙に集中する一刀。

 
ここは公孫賛の城の政務室。

 
静寂だけがその場を支配する。発生する音は、筆で文字を書く音と、時々紙をめくる音だけだ。

………

 
一刀は公孫賛の城に長いこと居座っているために、迷惑をかけたお礼だけじゃ足りなくなくなっていた。

 
だから、一刀は自分から政務や調練を買って出た。

 
今や一刀は公孫賛の客将状態だった。










第十章:烏丸の女










「ふぅ

 
一通り政務を終え、一息着く一刀。

(
こうしてると、思い出すなぁ…)

 
呉で政務を教わっていた時を

 
俺は軍事には少し心得があったが、政務にはあんまり詳しくなかった。

 
だから、俺は江東の二張と称される張紘――もう一人は張昭だ――に政務を師事してもらった。

 
張紘は言わば俺の師匠だが、性格はとんでもない程自由奔放なエロ親爺。

 
しょっちゅう政務をサボり、その上セクハラを働いていた。

 いや、セクハラと言うか、痴漢に近い。上下関係を無視して女の尻や胸をTouchしてたからな

 しかも、師事と言っても俺にたくさん仕事を押し付けた挙げ句、セクハラの報復を受けそうになると俺を盾にした事も一度や二度じゃない。

 ただ、張紘は武に全く精通していないので最終的には捕まり、ボッコボコにされる。

 それでも張紘はセクハラを止めなかった。

 その度に、俺は毎回盾にされた

 ……思い出したら、何か、イライラしてきた。

 張紘と言えば

………(ガタガタ)

 
すると、突然ガタガタと震え始める一刀。

(
あの日の事を思い出してしまった…)

 
そう。『アレ』が起きた日は、いつも通り師事と偽り大量の仕事を押し付けられた日だった。








 俺はその日、その押し付けられた仕事を何とか昼間の内に終わらせた。

「疲れたぁ

 
肩をポンポンと叩き疲労困憊といった表情で一刀は呉の城を歩いていた。

「あのエロジジイ

 
ふざけやがって

 
今回はまだ量が少なかったから良かったが、いつもいつも俺に仕事を押し付けやがって。

 
見付けたら周瑜にでも引き渡してやる。

「キャアっ!」

 
ん?何だ?

 
アッチから女の子の矯声が聞こえてきたが

 
まさか、事件か!?

 
一刀は駆け足で声のした方へと向かった。

「も、もう!張紘様!いい加減にして下さい!」

 
え?何だ。またいつものセクハラか

 
もう慣れてしまった自分はおかしいのだろうか?

「イヤよイヤよも好きの内ってね!」

「キャアっ!」

 
そんな訳ねぇだろう!

 
もう、我慢できない!絶対取っ捕まえて周瑜に差し出してやる!

「その辺にしたらどうだ?」

 
一刀が張紘を捕まえようと歩みだすと同時に、重々しく背筋をゾッとさせる様な声が響く。

 
その声の持ち主――周瑜はそう言うと性懲りもなくセクハラを続けようとする右手を掴んだ。

……や、やぁ。公謹ではないか

 
張紘は軽口をきいているが、異常な程汗を出している。

 
張紘の頭の中は何とか逃げ出そうと神算を巡らす。

 
しかし、周瑜が掴んだ右手はピクリとも動かない。

「早く行け」

「は、ハイ!ありがとうございます」

 
周瑜は被害を受けた女の子に行けと言う。

 
そして、女の子は周瑜に一礼して走りさった。

「隙あり!」

 
ムニュっ

 
!?

 
あのエロジジイ!周瑜の胸を!

 
何て羨ま、じゃなくて!恐ろしい事を!

 しかし、確かに9割の女の子なら驚き、手を離す。

 腐っても二張か

………

 
しかし、周瑜は全く反応せず無言で胸にある左手を掴んだ。

 
コキッ

「「………」」

 
思わず一刀と張紘は黙り込む。

 
周瑜は何の躊躇いもなく左手首の関節をはずした。

……………え?」

 
張紘は絞り出す様な声を出し、ブラリとなった左手を見つめる。

 
その目は虚ろになっていた。

「て、手がー!痛くないけど、手がー!」

 
そして、一拍遅れて張紘が叫び出す。

 
言葉から察するに痛みは無いようだ。

 
だが、端から見る限り超痛そうだ。

「恐ろしい

 
何の躊躇いもなく、普通関節をはずすか?

 
確かに張紘は滅茶苦茶なジジイだが、それは流石に

 まぁ、俺ならやるがな。

 
あっ。右腕の関節をきめた。

「イダダダダダーーー!!痛い!!痛い!!人の腕は!そんな方向には!曲がらないーー!!イダダダダダーー!!」

 
今度は痛いのか。

 
まぁ、見た感じあの関節技は関節をはずす技ではなく、骨を折る技だしな。

「わ、儂の黄金の右腕をーー!!痛い痛いーー!!」

 
オーバーだなぁ

 
骨が折れそうなぐらいで

  ……
ふっ。いいきみだ。

「儂の!儂の腕にはーー!!孫呉のーー!!明るいーー!!明日がーー!!」

 
聞いてれば黄金の右腕だとか、孫呉の明日がとか、大袈裟過ぎるジジイだなぁ

  ……
折ってしまえ、周瑜。

「お前によって創られる明日が明るいハズがあるまい。そんな事は本郷に押し付けた仕事を自分で片付けてから言え」

 
そうだそうだ!

 
職権乱用も甚だしいぞ!エロジジイ!

 
周瑜と久しぶりに、と言うか初めて気が合ったな。

「こ、公謹!まだ旗揚げ間もなく文台様を失い、基盤の揺らぎかけた孫呉を男手一つで支えた儂に何という物言い――イダダダダダーー!!」

 
痛快だ。痛快過ぎる。

 
張紘はいつもいつも俺に迷惑をかけてきたからな。

 これぐらい当然の報いだ。

「その虚言癖は何とかすべきだな

 
もう無理だろ。手遅れだ。

 
周瑜、もう折ってしまえ。

「オイ!衛兵」

「は、はっ!」

 
側にたまたま通りかかった衛兵に話し掛ける周瑜。

 
衛兵はビクツキながら周瑜に応える。

「縄、いや、鎖を持ってこい。この不埒者を凌統に引き渡す」

「「え!?」」

 
一刀は衛兵と思わずシンクロしながらうめくような声が出た。

――――――――――――!」

 
張紘は目を見開き、口を大きく開けながら声にならない悲鳴を上げる。

 
まるで口からエクトプラズムが出ていきそうな表情だ。

 
だが、周瑜の言った言葉はそれだけ恐ろしい事なのだ。

 
一刀がガタガタと震え始めたのが何よりの証拠だ。

 
凌統――光禀に引き渡すということ=光禀の玩具になる=人として扱われない、といった幾つもの最悪の数式が成り立つ。

「そ、それだけは!それだけは勘弁して下さい!!」

 
張紘は止めてくれ、と泣き叫ぶ。

 
流石の俺でもそれはしない。

 
そんな事をすれば張紘は死よりツラい日々を過ごすことになるからだ。

 
俺はそれを笑って見ていられる程人でなしではない。

 
流石に助けるべきか

本郷。余計な事をすれば、貴様も凌統に差し出しす」

「済まん、師匠。俺には助けられない」

「諦めるの早ッ!」

 
当たり前だろ!俺だって光禀に弄ばれたくないんだ!

 
そして、張紘はこれからの行為を想像し光悦に浸っている光禀に引き渡された。

 
俺はただそれを見送るしかできなかった。







 
その日の話はまだ終わらない。その日の夜に真の恐怖は待ち構えていた。

………

 
一刀は眠れなかった。

 
いや、一刀だけではなく建業の城に居たほとんどの人々は眠れなかった。

 
何故なら

「うふふふふ」

「ギャアアァァァァーーー」

「まだまだーー!」

「ジョワァァァーー!」

「ほれほれーー!」

「いっそ殺せーー!!」

 
光禀の悦な声がするとスグに張紘の悲痛な叫び声が響く。

………(ガタガタ、ブルブル)

 
恐怖から肩を抱きながら震えまくる一刀。

 
一刀程の強心臓をもってしても怯えてしまうのだ。

 
新人の兵士ではトラウマになること請け合いです。

 
実際、翌日以降しばらく光禀を見る度に震えだしたり、目に涙を浮かべ逃げ出す新人兵士が続出した。

「ホラホラー!もっと鳴きなさい!」

「あ、あひーーー!!」

 
だんだんと、

「これが良いのですかー!?

「は、はひーーー!!」

 
声が変わってきた。

「鳴きなさい!わめきなさい!!」

「も、もっとーーーーーー!!」

  ……
我が師よ。既に堕ちたか

 
この場合、張紘にその気があったのか、それとも光禀に才能があったのか定かでさはないが、光禀になるべく恨みを売らないようにしようと決心した日だった。

 誤解しないように言っておくが、光禀は暴力――言葉の暴力含む――しかしていない。

 
ちなみにその日から俺は二度と張紘に会うことも、夜に喘ぎ声が聞こえてくることもなかった。

 
それが逆に不安感を駆り立てた。








………

 
嫌なことをつい思い出してしまった

 
別段、俺は被害を受けた訳ではないのだが、張紘とは別のベクトルで精神的に深い傷を負った。

「はぁ

 
つい溜め息が漏れる。気持ちも重くなる。

 
今日の政務も終わったし、魏延の所に行ってみるか

「よいしょっ」

 
かけ声と共に席を立つ。

 
時間はまだ正午前だが、元々一刀の仕事量は一応客として扱っているので少ない。それに加えて、一刀が呉に居た頃に培った政治力でスグに終わってしまうのだ。

 
そして一刀はその後の時間を使いしょっちゅう魏延の家に行っている。

 
一刀は何とかして魏延を説得しようとしているのだが魏延も中々頑固で聞き入れてくれない。

 
そのため一刀は軽くお茶しに魏延の家に入り浸っているといった状況だ。

 
という訳で今日も一刀は魏延の家にお茶しに行ったのであった。








「えっとここをこうして」

「そうです。後はそこをこうすれば

 
一刀が華侘の話を延々と聞いている頃、仕事が一段落着いた簡雍と陳到は幼令のオシメを取り替えていた。

 
普通、赤ちゃんと男女がいた場合は夫婦に見えたりするものだが、男が簡雍だと仲の良い姉妹に見えるから不思議だ。

「それで完成です」

………

 
簡雍から終わりを告げられ、陳到は達成感からか軽く微笑する。

 
幼令を見る陳到の顔はわずかな間しか世話をしてないにも関わらず、一般的な母親と変わらないものだった。

「手が空いてる今のうちに授乳も済ませておきましょう。乳母さんを呼んできますね」

 
簡雍は乳母を呼んでこようと立ち上がる。

「待って下さい」

「え?」

「授乳は人で作れるもので代用できると聞きますが

 
赤ちゃんに与えるお乳は、確かに人工の物で代用できる。

 
だが、乳母がいるのでそんな事をする必要ない。手間がかかるだけだ。

「できますけど乳母さんに任せた方が

 
簡雍もそう思ったのか陳到の提案に難色を示す。

 いや、あるいはそれ以上の事を思ったのかもしれない。

「御願いします。きっと、将来のためにもなると思いますし

……わかりました」

 
陳到の熱意が伝わったからかどうかは定かではないが、簡雍も渋々ながら了承する。

「ありがとうございます」

 
簡雍の了承を得た途端に極上の笑みを浮かべる陳到。

 
簡雍はと言うと、その笑みとは裏腹に一抹の不安を胸に抱いていた。

 
そして、陳到達はお乳の代用品を作るために厨房へと廊下を歩く。

「あら、星じゃないですか」

 
陳到は偶然にも趙雲を発見する。

「む。陽光(ようこう)。おや、その赤子は

 
振り返り陳到の真名を口にして呼び掛けに答える趙雲。

 
そして、陳到の腕に大事そうに抱かれている幼令に気付く。

「どうしたのだ?幼令など連れて」

 
別段、部屋から幼令を連れて出る必要はないと思っているらしく、趙雲は怪訝な表情を浮かべる。

「これから授乳のためのモノを作りに行くのです」

 
いつもと変わりなく、いや、いつも以上に嬉しそうな微笑みを浮かべながら言う陳到。

 
その微笑みに趙雲は簡雍以上の不安を感じた。

「何故幼令を連れて行く必要がある」

 
お乳の代用品を作るだけなら幼令を連れて行く必要はない。

 
それを不可解に思ったらしく趙雲は疑問を持つ。

「えぇ。ですが、仕事があるので、一緒にいられる時にできるだけ幼令といたいのです」

 
確かに陳到には仕事があるので、いられる時はできるだけいたいというのは理解できる。

 
だが、それはの本当の親理屈だ。陳到は親ではない。

 
趙雲の不安はまた深まっていく。

「星も御一緒にどうですか?」

「いや、私は遠慮しとく。仕事があるのでな」

 
趙雲の答えにそうですか、と残念そうな顔をする陳到。

「では失礼しますね、星」

 
陳到は一礼して厨房へと向かった。

 
趙雲はそんな陳到の後ろ姿を不安そうに見つめていた。








「また来たのか

 
魏延は性懲りもなく何度も訪問を続ける一刀を呆れたと言わんばかりの表情で見る。

 
だがその表情と声は心の底から呆れているという訳ではなく、僅かながら嬉しさが覗かれる。

「別に良いだろ」

 
一刀もそれを見抜いているのかその言葉と表情を全て真っ正直に受け取らない。

「あれ華佗は?」

 
いつも魏延の家に我が物顔でいるハズの華佗が見えない事に違和感を覚えたらしく、華佗の行方を魏延に尋ねる。

「ん?華佗様なら怪我人の手当て今は居られん」

「怪我人?誰か怪我でもしたのか?」

 
また何かやらかしたのか。これ以上面倒なことはやらかさないでくれよな。

 そう考えていると、一刀はついつい怪訝そうな顔になってしまった。

「そんな表情するな。怪我をしたのは道端で倒れていた全く見たことない奴だ」

 
それはそれで怪しいんだがまぁ、華佗の慈善的な性格からして放っておけなかったんだろ。

 
華佗は怪我人、病人が居れば西へ東へ、北へ南へと『医者に国なんて関係ねぇんだ!』を地で実践しているからな。

「そいつの怪我は大丈夫なのか?」

「結構ヤバかったけど、今は持ち直して安定して寝てる」

「ふぅん」

 
まだ目が覚めてないないなら詳しい素性も知らないだろうと思いそれ以上訊ねようはとしない。

「今わかっているのはそいつが烏丸(うがん)族だってことだけだ」

 
通いつめた成果なのか一刀に訊かれてもないことを話してくれる魏延。

「烏丸?」

 
しかし、せっかく話してくれた魏延だが一刀には更なる説明が必要だったらしい。

……はぁ。いくら勢力とかそういったモノに疎いといっても敵対民族くらいしっとけよ」

 
この時代に常識的な範囲でしか知識のない一刀は天の御使いと名乗っている訳ではなく、勢力などそういったモノに疎いといったということで誤魔化しているのだ。

 
しかし、いくら一刀がそういった情報に疎いと誤魔化しをしても流石にカバーしきれない程常識的なことだったらしい。魏延は呆れ果てたといった表情をする。

「あはははは」

 
笑って誤魔化そうとする一刀。その笑いは乾いていた。

「まぁ、いいさ」

 
その笑いをどう受け取ったのかは不明だが魏延は特に気にした風もなく話を続ける。

「烏丸ってのは北方の異民族で、朝廷に服属してないから逆賊って呼ばれてる連中のことさ」

 
かいつまんで烏丸の事を話す魏延。

成る程。ん?待てよ

 
それじゃやっぱり面倒そうな話じゃないか?だって烏丸って世間一般では逆賊って呼ばれてるんだろ?

「あたしに言うなよ。見つけたのも、連れて来たのも華佗様なんだから

 
一刀の考えている事が判るかのように、先立って一刀を制する魏延。

「だいたいさ、たかだか怪我した女一人助けただけじゃないか。そんなにギャーギャー言われる筋合いはない」

 
まぁ、そりゃぁそうだ。俺だって血まみれの奴が道端に倒れてたらそんなこと気にせず助けるしな

 
今回は俺がごちゃごちゃ言う筋合いはないな

 
ガチャ

 
一刀がそんな事を考えていると扉が開き華佗が入って来た。

「なんだい。今日も来たのかい

「あ、お帰り」

 
華佗の言葉に適当に答える一刀。

「あ、茶ですね」

 
華佗に茶を出すために席を立ち、奥へと行く魏延。

「ふぅ

 
魏延と入れ替わりといった形で華佗は席に着き、軽く息を吐く。

 
華佗にはいつもの『近所のおばちゃんパワー』(命名一刀)は見る影もなく、そうとう疲れているようだ。

「どうだ?怪我人の様子は?」

 
既に持ち直したと聞いているが、労いの意も兼ねて一刀は華佗に尋ねる。

「あぁ今は大分良くなった」

 
かなり疲れているらしく、いつもよりもそうとう小さい声で答える。

「大丈夫か?」

 
流石に心配になってきた。ちゃんと寝てるのか?

「大丈夫そうに見えるか?」

………悪かった」

 
別に一刀は大して悪い事をした訳ではないのだが、華佗の背負う不機嫌オーラに気圧されついつい謝る一刀。

 
女は機嫌が悪い時は面倒だなぁ

「どうぞ」

 
そんなピリピリした空気を払拭するかのように魏延は華佗にお茶を出す。

「ズズっ」

 
魏延に返事をすることなく無言でお茶を啜る華佗。

 
しかし、眉間に皺を寄せて不機嫌を絵に書いた表情は未だに変わらない。

 
ドンッ

 
華佗はあっついお茶を一気に飲み干し、勢い良く机に湯呑みを置く。

 
そして席を立ち、千鳥足で無言のまま寝室へと向かって行った。

「大丈夫か、あれ?」

 
そんな華佗の一連の行動を見た一刀は魏延に尋ねる。

「寝ればスグにいつも通りになる」

「そんなもんか

 
そう一言呟くと一刀は自分のお茶を啜った。そのお茶は相変わらず美味しかった。

「ところで」

 
そんな一刀に不意に話しかける魏延。

「ん?」

「お前はいつになったらあたしの真名を訊くんだ」

「え?」

 
顔を僅かに赤らめてさらっと衝撃的な発言をする魏延に不意を突かれ、ドコから出してんだとツッコミたくなるようなすっとんきょうな声を上げる一刀。

「え、えっと〜訊いたら、教えてくれんの?」

 
あまりにいきなりだっただめ、一刀は訊くまでもない質問を投げ掛けてしまう。

 
どうやら珍しく照れているらしい。真名を呼ばせるということは親愛――場合によってはそれ以上に慕っているという意味を示すと考えれば、一刀が照れるのも当然なのかもしれない。

「あ、当たり前だろ!あたしの真名は彌紗(みしゃ)よ!」

……み、彌紗

 
一刀は未だに少し顔を赤らめたままで魏延を真名で――彌紗と呼ぶ。

「う、うん

 
更に彌紗の方も照れ臭さそうに意味もなく返事をする。

………

………

 
二人の間に沈黙が起きる。あまりにも照れ臭くて次の言葉を何と口にすれば良いか判らなくなっているらしい。

「私の真名は眞弥(まや)だぞ」

「「うわっ!」」

 
そんな甘ったるい空気に正に土足で華佗――眞弥が踏み込んできた。

「それじゃ御休み」

 
自らの真名を告げると眞弥は今度は挨拶をして寝室へと戻って行った。

 
二人には一体眞弥は何がしたくてココへ来たのか一切理解できなかったが、気恥ずかしさは確かに消えていた。








 
結局今回もお茶しに行ったみたいな感じでお開きとなり一刀は城へと帰った。

「あら、お帰りなさい」

 
すると出迎えるかのような形でスカイブルーの髪の女性――陳到がいた。

 
その腕には例によって赤ちゃん――幼令が抱かれており、その姿も最近ではすっかりといたについていた。

 
ただ一刀にとって未だに慣れないのは――

「ほら幼令、御父様のお帰りですよ」

 
コレである。何故か陳到は一刀の事を父親というポジションに置こうとする。

 
まぁ、理由など普通ならスグに解るのだが、ソコは一刀である。普段は結構鋭いのにこういうところで超鈍感な男へと変貌を遂げる。

「あ、あぁただいま

 
今日も慣れない呼ばれ方に落ち着かない様子で返礼をする一刀。

 
そんな一刀を見て嬉しそうに微笑む陳到。腕に抱いた幼令と相まってその姿は一枚の絵のようであった。

「御食事の準備はできております」

 
聖母の様な微笑みを浮かべたまま一刀に食事を勧める陳到。

 
口を動かしつつも、腕を揺りかごの様に小さく揺らすことは忘れない。

「あぁ、そうさせてもらう」

 
そう言うと一刀は食事をしに歩き出す。

(
しかしいつも熱心だなぁ、陳到も…)

 
食堂までの廊下で最近の陳到について考える。

 
仕事以外の時に俺が陳到に会うと大概――いや、必ず幼令をあやしている。

 
元々子ども好きだったのだろうが、幼令の事でそれに磨きがかかったらしい。まぁそれは別に危惧すべき事でもないし、むしろ微笑ましいと思う。

 
そんな事を考えていると大した距離もなかったため、一刀はスグに食堂に着いた。

「あっ、お兄さん!コチラの席へどうぞ」

 
食堂に入るとスグに見慣れた中性的な顔立ちをした少年――簡雍がいつも通りの人懐っこい笑みを浮かべ、一刀を自分の隣の席へと呼ぶ。

 
見るとその席には既に一食分の食事が用意してあり、周りを見ても特に席を立っている者もいなかったため一刀はその食事は自分のために簡雍がわざわざ用意してくれたものと判断し、スグに簡雍の隣に座った。

「すまないな。わざわざ準備してもらって」

「あ、いえコレは陳到様が用意されたモノですから

「陳到が?」

「はい」

 
『御食事の準備はできております』って、ここまで準備しておいてくれたのか

 
でも妙だな。目の前にある飯はまだまだ暖かい。コレではまるで俺が帰って来る時間が判っていたようだ。

 
でも俺は誰にもいつ頃帰ると告げてないし、帰る時間も規則的ではない。だから、陳到が俺の食事をこんなにタイムリーに準備できるとは到底思えないんだが

「実はそのご飯は陳到様が自分で食べるために準備されたモノなんですが、幼令が泣き出したために箸を着けず、お部屋へ戻られてしまったのです」

「あ〜、成る程って、じゃあ陳到はまだ飯を食ってないのか?」

「はい。最近は幼令の御守りに係りっきりらしく、お食事、更には睡眠も不規則になっているようです

「おいおい

 
それに加えて陳到には政務もある。そんな状態で政務もこなすってそれじゃマジで身体壊すぞ

 
赤ちゃんにベタボレしてるのは解るが、多少は加減しなきゃなぁ

………

「ん?どうした?浮かない顔して」

 
一刀が陳到について心配し、考え込んで黙っていると簡雍も考え込み黙っていた。

 ただ一刀が気になったのは、簡雍の表情はいつもの人懐っこい笑みは消え、険しいモノへと変わっていた事だ。簡雍がそんな表情をするところを初めて見た一刀は考えを中断してまで簡雍に話しかけた。

「あ、いや僕はただ陳到様が心配だなっと思って

「お前もか。俺も身体を壊すんじゃないかって思うんだが

 
一刀は気付いていなかった。簡雍が心配しているのは陳到の体調だけでなく、もっと違う事もであると








 
次の日、一刀はまた政務は午前の内に仕事を終え、魏延――彌紗の家へとのんびりしに行く。

 
道中一刀は、誰にも見られていないかを注意しながら慎重かつ早急に隠れ家へと向かう。

 
隠れ家に近付くにつれてザワザワといった声が聞こえてくる。普段、隠れ家と言うだけありそんなに騒がしくない。なので、一刀は不安に思い足を速める。

 
彌紗達の隠れ家に着くと、普段は市場に行っているために、昼間は人が居ないハズなのに今日は沢山の人が居た。その多くの人達は皆一様に険しい表情をしている。

「彌紗!」

 
そんな騒がしい中で何とか彌紗を見つけて呼び出す。

「あ、一刀

 
その一刀の声にいつもの溌剌(はつらつ)とした声ではなく、沈んだ声で応える彌紗。

「何かあったのか?」

「あぁ。この前助けた烏丸の奴がどっかに消えちまったんだよ

「え?だって昨日、まだ意識が戻ってないって

「だからだよ。まだまだ動ける状況じゃないんだよ

 何だかんだでそうとう世話焼き好きの彌紗は、心配そうな顔をする。

「私はほっとけって言ってんだよ」

 
すると昨日の不機嫌な様子をそのままにボサボサな髪で華佗――眞弥が放っておくべきだと主張する。

 
眞弥が今日、不機嫌な理由は昨日と違い疲れからだけではないのだが、それに気付いている者はここには全く居らず、それが更に眞弥の不機嫌に拍車を掛ける。

「動けるなら元気なんだろ。元気ならほっとけ」

 
『神医』と謳われた医者がする発言じゃねぇ

「でも、あの傷で動いたら、いつまた傷口が開くか判りませんよ!」

「んなの私の知ったこちゃないね!」

 
またも医者とは思えない発言をかます眞弥。

「傷ってどのくらいヒドかったんだ?」

 
彌紗の話ではそうとう酷いらしいが、俺は実際に見た訳じゃない。詳しい容態を聞かないと事の重大さがイマイチ理解出来ない。

「色んな所がパックリ斬られて、身体中血まみれだった」

  …
めちゃめちゃアバウトな説明だが、なんとなくではあるがかなりヤバい状況だという事は理解出来た。

解った。俺も探すの手伝うよ

「私はもう一眠りさせてもらうからね

 
そう言うと眞弥は、昨日同様千鳥足で彌紗の家の寝室へと向かって行った。

 
眞弥は人捜しで大した力を発揮できるとは思えないので、一刀は特に気にしなかったようだ。

「眞弥様の勘って結構頼りになるんだがなぁ

「まぁ所詮勘だよ。んなのは頼りするよか、自分等の足で探す方が確かだよ」

 
しかし彌紗は神頼み的な願望を掲げるが軽く退け、一刀は正論を述べる。

……そうだな。んじゃみんな、適当に散って探して」

「「ウィース!」」

 
もうちょっとちゃんと指示を出した方が効率的なのではないかと思うがまぁ、良いだろう。コレがこいつらのやり方だし

「それじゃぁ、俺はコッチに行くから」

「あぁ。見付けたらここまで連れて来てくれ」

「りょーかい」

 
見付からないって考えない辺り、彌紗のポジティブさが伺い知れるな。ま、そこが良いところでもあるから気にしないケドさ

 
そんな事を考えつつも、一刀は森の茂みへと分け入くのであった。








 
森の中では日の光は木々によって遮られ、昼間にも関わらず暗く、じめじめとした湿気で気が滅入るようだった。

「はぁ

 
そんな中見事にこの森の湿気にやられたのか、一刀は心の底から洩れだしたかのような溜め息を吐く。

 
烏丸族の女性を探すべく森へと分け入ったのだが、当てがある訳でもなく自分の判る道を適当に散策するといった感じのモノに変わっていた。

「見付かる訳ないじゃん

 
思わず愚痴を溢す一刀。確かに何の手掛かりも無しに適当に探しても見付かるとは常識的に考えて到底有り得ない。

 
だが、彌紗の話――あまりにも適当でドコまで性格か不明だが――ではとてもじゃないが出歩いていい身体ではないらしい。

 
ならば何処かで倒れてるかもしれいないし、もしそうなって公孫賛の配下の奴――陳到や趙雲といったキチンとした倫理観を持っている奴は別だが――に見付かったら問答無用で殺されるかもしれない。

 
そう考えると闇雲にでも探して見付けるしかない、とお人好しの一刀は思ってしまう。恐らく、彌紗達も同じ気持ちなのであろう。

「グワァッ!」

!?

 
半ばやけくそ気味で歩みを進めようとする一刀であったが、茂みの向こうから男の叫び声らしきものが聞こえてきた。

 
探している烏丸族は女性なので別の厄介事と推測される。なので一刀はあんまり乗り気ではなかったが、放っておく訳にもいかず声のする方へと向かった。

「お、おい!大丈夫か!?

 
一刀が声のした方に着くと彌紗の仲間の男が斬り傷を負って倒れていた。

「う、ぅうぅあんたか

「どうした、何があった!?

「例の女を見付けて、連れ戻そうとしたら、返り討ち――うっ

 
返り討ち!?おいおいその女、元気な上にツエェじゃねぇかよ

 
彌紗の情報のいい加減さに心の中で愚痴りながらも、男の話を聞く。

「お、俺の事はいいから、あの女を

 
そう言うと、男は森の奥を指差す。恐らくその方角に例の烏丸の女性は逃げたのだろう。

……判った。お前は帰ってちゃんと眞弥――じゃなくて、華佗に治療してもらえよ」

 
一瞬どうしようかと悩んだ一刀だが、見たところ男の傷はそこまで深刻ではないので、男の言を聞き入れる。

 
本当は戻って彌紗と合流した方が確実だと解ってはいるが、それだと例の女性が何処か遠くに行ってしまう可能性もある。まぁ、屈強な男を軽く返り討ちにした事から、当初の不安は無くなった訳だが、今度はまた別のベクトルで不安になった。

 
とにかく一刀はその女性が何処か遠くに行く前に追い付くべく走り出した。








〜〜〜〜

 
一刀が湿気でじめじめした森を必死に駆け回っているのと時を同じくして、陳到の部屋から澄んだ歌声が聞こえてくる。

 
公孫賛の計らいで陳到の仕事量は少なくなっている。なので一刀同様に正午を少し過ぎた程度の時間帯で終わり、午後のほとんどを幼令の面倒を見る事に費やしている。

 
そして今日も例に漏れず、陳到は幼令を腕に抱きながら子守唄を口ずさみ、腕を揺らす。その顔は誰がどう見ても母親の顔だった。

「うふふ

 
寝静まった幼令の愛らしい寝顔を見ながら微笑む。

「陽光

 
すると趙雲が部屋に入り、陳到の真名を呼ぶ。

「星どうかしましたか?」

「うむ。少々話があってな

「話ですか?」

 
いきなり話があると言われるが、自分には思い当たる節が無いので解らない、と可愛らしく小首を傾げる。

「うむ。昔、まだ私が小さかった頃だ。私は、兄の勤めていた城に兄と共に住んでいた。その城の裏庭で犬を飼っていてなその内の一匹としょっちゅう戯れておったのだ」

「あらあら。貴女にもそんな愛らしい幼少期があったのですね」

……茶化すな」

 
言葉こそ怒っているようだが、その表情は薄い笑みが浮かんでいる事から大して気にしてない事が伺い知れる。

 
そんな陳到の冗談を受けつつも、昔話を続ける趙雲。

「だがその事を兄上に話すと、兄上は『もうその犬には構うな』と言ったのだ。当時幼かった私は、当然のように兄上の注意も聞かず人目を盗んでは、その犬としょっちゅう遊んでいたのだ

「幼い頃の楽しい思い出ですね

 
その当時の幼い趙雲の姿を思い浮かべながら昔話を聞き、つい笑みを浮かべる陳到。

 
そんな状況でも、腕に抱いた幼令をあやすように揺らすのを忘れない。

「ここまではな

「え?」

 
いきなり昔話を始めるた事に陳到は不思議に思っていたが、滅多に自分の事を話さない趙雲が、昔話をしてくれる事に嬉しく思ったため気にせず聞いていた。話の内容も非常に明るいモノだったのでいつしかその疑問も消え失せていた。

 
しかし趙雲の一言で話は違う方向へと進む予感を感じさせる。

「それから暫くして、また裏庭に行くと、気に入っていた犬はいなくなっていたのだ。そして、その犬はいくら探しても見付からなかった

………何故、ですか?」

 
恐る恐るといった表現が正に合う様子で訊ねる陳到。恐らく理由はある程度解っているのであろう。

「私も気になって、その日の夜に兄上に訊ねたのだがその犬はその日の前日に食事として出されたのだそうだ

………

 
大方の予測通り暗い方向で話は完結した。

 
ある程度解っていたとはいえ、心優しい陳到には相当衝撃的であったようだ。口を開くのを忘れる程に

「私が、何を言いたいか、解るか?」

………

 
趙雲の質問に沈黙を続ける陳到。

 それが陳到の解答であった。

………解りません

 
しかし陳到は嘘を吐いた。

 趙雲の質問の答えを知っているハズにも関わらず、認めたくないと言う感情が本音を隠す。

「そうか

 
そう言うと、趙雲は残念そうに顔を俯ける。

「認めたくなければ、そのままでも良い。だが、辛いのはお前だぞ

 
そうして趙雲は身を翻し部屋を出ていった。

………

 
1人残った陳到は腕を揺さぶりながら――

「解っています

  ――
と、1人で呟いた。








「はぁ、はぁ、待て!!」

 
一刀は慣れない茂みの中を掻き分けながら必死に走る。

 
言葉からも判ると思われるが、例の烏丸の女性を見付けて追い回している。

「く!」

 
やっぱり彌紗の情報間違ってたんじゃねぇか!?

 俺が足を取られているとはいえ、確実に離されていくじゃなねぇか!?怪我人の足じゃねぇ!!

「はぁ、はぁ――あっ!?

 
必死に走る一刀であったが、何か足を滑らせ転けそうになる。

――っと!!」

 
しかし何とか体勢を立て直し、再び走り出す。

「はぁ――なっ!?

 
一刀が足下を見ると大量の血痕――正に血の水溜まりが点々とあった。

 
その出血量から察するに、彌紗の言っていた通りヤバい状況であるというアバウトな説明は間違っていなかったと判る。

 
一刀は彌紗を疑った事を心の中で密かに謝罪しつつも例の女性を追う。

「!!」

 
必死になって走り続けた一刀だが足を止める。例の女性が足を止め、逃げるのを止めていたからだ。

「はぁ、そんな身体で、はぁ、動いたら、ダメだ

 
慣れない足場という事でいつもなら体力に余裕の残る程度の距離しか走っていないのだが、異常に体力を消費してしまっている一刀。

 
しかし、乱れた呼吸を整えようともせず一刀はスグに女性を説得し始める。

………

 
しかし女性は答えない。

 
始めて見る女性は少々肌が日に焼け色黒で、真っ黒の髪は団子状に1つで纏められ、身長は160p弱といった程度であった。見た目から推察するに年齢は1820といったところだろう。

「その身体じゃもう動けないだろ?大丈夫だ。俺達は君の敵じゃ――!?

 
説得を続けながら近付く一刀だったが、女性はそんな一刀に無言のまま剣を向ける。

 
女性は一切語らないが、それは『これ以上近付くと斬る』という意思表示に他ならなかった。

………

 
あまりの殺気に息を呑む一刀。

 
相手がただの素人ならば即座に剣を弾き飛ばし、取り押さえるのだが、女性が発する殺気は趙雲、彌紗には劣るが確かな腕を持っていると感じさせるには十分だった。

………

 
一刀は一歩、二歩と下がる。

 
しかし、この後退は気圧された故のモノではなく、より良い位置に布陣するための後退である。女性もそれが解るのか剣を下げない。

 
そして一刀は剣を抜いた。











あとがき

どうも、お久し振りです、冬木の猫好きです。

今回またも新キャラ登場ですが、あらかじめ言っておくと烏丸族の女性は名無しです。

考えるのが面倒だったという訳ではなく、この当時の女性は姓はあっても名は無いの者がほとんどで――孫尚香も正史では名無し――、それを踏まえての名無しです。

そして趙雲の逸話ですが、犬を食べるという習慣は日本では全く馴染みがないですが中国ではよくある事だそうです。ちなみに猫は美味しくないらしく食べるという習慣は無いらしい。

原作――恋姫無双の本編でも袁紹が食べられそうになっていたが、人肉を食べるというのも実際にあった習慣だそうです。

『演義』では劉備がある人の家に行くと、劉備をもてなすために家の主人が狩りに行きます。

しかし全く獲物は取れませんでした。にも関わらず、その日の食事はちゃんと出ました。

だが、おかしな事に劉備が訪ねて来た時にはいたハズの家の主人の妻が居ません。

そうです。劉備に出した料理の材料は家の主人の妻だったのです。

劉備はそれに気付いているにも関わらず、パクパクと食べ、挙げ句の果てには美味しいと言う始末。

コレは美談で語られるのですが、ちょっと私個人には理解し難い美談でした。





うーん、確かに美談かどうかは置いておいて、理解し辛いかも。
今とは時代が違ったという事かな
美姫 「後書きのお話の印象が強いわね」
ああ。だが、本編の方も色々と。
烏丸の女性との戦いになるのか。
美姫 「次回はどうなるのかしらね」
今回はこの辺で。
美姫 「それじゃ〜ね〜」



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