『愛の妙薬』




     第一幕 山師来たる


 かなり昔の話である。スペインのとある片田舎での話だ。
 素朴な時代であった。人々は少ししたことで笑い、泣き、楽しみ、そして悲しんだ。そうした古い時代の純朴な人々の話である。
 小さな村である。これといって変わったところのないごくありふれた村であった。見れば何やら騒ぎ声が聞こえてくる。
「洗濯物はここでいい?」
 小川のほとりで女達が山の様な洗濯物を籠に入れて話をしている。女達の他にも男達もいる。どうやら畑仕事も一段落して休んでいるようだ。
「酒は何処だ」
「チーズは?」
 彼等は休息を楽しんでいた。そして乾いた喉を酒で潤そうとしていた。
「こっちよ」
「どうぞ召し上がれ」
 女達が彼等に杯を差し出す。男達はそれを受け取るとすぐに飲み干した。
「美味い」
 彼等はにんまりと笑ってそう言った。
「やっぱり一仕事終えた後の一杯は最高だな」
「そうだな。この為に生きているようなものだからな」
 彼等は口々にそう言う。そして小川のせせらぎや優しい風に身体を委ね心地良く酒とチーズを楽しむのであった。
 そんな中一人の若者が出て来た。見れば顔中髭だらけで血色のよい顔をしている。髭だらけだが決して悪い顔ではない。愛敬のある顔立ちであった。
 太った身体を青いシャツと茶色のチョッキ、そしてチョッキと同じ色のズボンで包んでいる。靴は長靴でありそれが如何にも農業に携わっている者であるという感じを醸し出していた。見れば所々土で汚れている。靴には泥がついている。
「アディーナは何処かな」
 彼は何かを探していた。そして辺りをキョロキョロと見回っていた。
「ネモリーノ、どうしたの?」
 ここで一人の小柄な少女が話し掛けてきた。青い服に身体を包んでいる。金髪でおさげにした青い目の少女だ。顔にソバカスのある可愛らしい少女だ。
「ジャンネッタ」
 ネモリーノと呼ばれたその青年は少女に顔を向けた。
「またアディーナを探してるの?貴方も懲りないわね」
 悪戯っぽく笑いながらそう言う。
「いいじゃないか、君には関係ないだろう」
 ネモリーノはその言葉にムッとして言った。如何にも癪に触ったようである。
「いい加減諦めなさいよ、あの人は貴方には合わないわ」
「そうしてわかるんだよ」
 ネモリーノは彼女の言葉にさらに不機嫌になった。声にそれを露骨に表している。
「だってあの人は何かと目立つじゃない。それにひきかえ貴方は」
「野暮ったいって言うんだよ」
「ええ」
「いいじゃないか、僕が別に野暮ったくて」
「まあ外見はいいわ。それは服ですぐに変わるし。けどね」
「けど・・・・・・何だい!?」
「やっぱり貴方とアディーナは合わないと思うわ。あの人気が強いし」
「だから好きなんだよ」
 ネモリーノはそれに対して言った。
「僕は彼女のそういうしっかりしたところが好きなんだ。そして可愛いし頭もいいし本も読むことができる。本当に素晴らしいと思わないかい?」
「まあね」
 ジャンネッタもそれには同意した。
「彼女と一緒になれたらなあ。他には何も要らないよ」
 ネモリーノはうっとりとした顔で言った。目元は緩み口には笑みが零れている。
「本当に好きなのね」
「だから前からそう言ってるじゃないか」
 ネモリーノは口を尖らせた。
「僕は彼女しか目に入らない。他には何も要らないんだよ」
「お金も?」
「それが何になるというんだ」
 彼はあまり裕福ではない。隣の村に金持ちの叔父がいる。だが彼はそれをあまり意識してはいなかった。
「お金は必要なだけあればいいんだ。僕はそんなものはどうだっていいんだ」
「そうなの」
「お金があってもアディーナがいなければ何にもならないから」
 そしてまた言った。
「そんなもの欲しくとも何ともないんだ、僕にとっては」
「あら、無欲なのね」
 ジャンネッタはまたからかうようにして言った。
「けれどそれじゃあ駄目よ」
「何故だい?」
「女っていうのはね、お金も見るのよ。、ましてや貴方ときたら」
「僕ときたら!?」
 ネモリーノは彼女の言葉に怪訝そうな顔をした。
「文字は読めないのはいいけれど外見も野暮ったいし頼りないし。お金がなかったらとても女の子にはもてないわよ」
「だから他の子にもてても嬉しくないんだ。アディーナにもてないと」
「あらあら、本当に重症ね」
 彼女はそれを聞いてもうお手上げという仕草をしてみせた。
「けれど諦めた方がいいと思うのは本当よ。貴方ではとても彼女の心を射止めることはできないわ」
「そんなことわかるわけがないじゃないか」
「あらあら」
 そう処置なしと言いたげであった。
「けれどそのうちわかるわ。まあその時になって落ち込まないようにね」
 そう言うと彼女は皆のいるところへ軽い足取りで向かった。あとにはネモリーノだけが残った。
「何だい、いつも僕をからかって」
 彼は渋い顔をしてそう言った。
「僕の気持ちを知っているのなら黙っていてくれよ。もしこれがアディーナの耳にでも入ったら」
 そこでそのアディーナの顔を思い出した。
「彼女が僕の恋人だったらなあ。本当にどれだけいいか」
 彼は溜息をつきながらそう呟いた。
「恋人だったらなあ。彼女が僕を愛してくれさえいてくれたら」
 半ば恍惚とした顔になった。
「他には何もいらないのに」
 そして皆のいるところに向かった。見れば皆輪になって誰かの話を聞いている。
「彼女だ」
 ネモリーノはその輪の中心にいる小柄で赤い服の女を見て言った。 
 黒いおさげの髪に瞳をした女であった。小柄だが胸も大きく容姿はいい。白い顔に紅い唇が映えその黒い瞳は大きく丸い。美人というよりは可愛らしい外見である。大柄で太めのネモリーノとは正反対の姿であった。
「アディーナ、今日は何の話をしてくれるんだい?」
 皆は彼女に尋ねていた。ネモリーノはこっそりとその輪の中に入った。
「今日はね」
 彼女は手にした本を広げながら言った。
「トリスタンとイゾルデのお話よ」
「トリスタンとイゾルデ!?」
「一体どんな話なの!?」
 皆はそれを聞いただけで目を輝かせていた。
「聞きたい?」
 アディーナはそんな皆に対して尋ねた。
「勿論」
 皆はそれに対して当然といったふうに答えた。これで決まった。
「それじゃあ」
 彼女は本を顔の前に持って来た。そして読みはじめた。
「コーンウォールにいたトリスタンという騎士はアイルランドの美しいお姫様イゾルデに恋をしました。けれど冷たい彼女は一向に振り向いてくれません」
「僕と同じだなあ」
 ネモリーノはそれを聞いて呟いた。
「本当にどうにかならないかなあ」
「それでそのトリスタンという騎士はどうしたの?」
 皆はアディーナに続きを尋ねた。やはり彼等の殆ども字が読めないのだ。
「それで彼は知り合いの魔法使いに尋ねました。どうしたら姫に愛されるようになるか」
「僕も愛されたい」
 ネモリーノはそこでまた呟いた。
「その魔法使いは彼にあるものを手渡しました。それはどんな人でも振り向かせることのできる愛の妙薬でした。トリスタンはそれを貰うとすぐに飲みました」
「愛の妙薬」
 ネモリーノはそれを聞いてハッとした。
「それがあれば僕も」
 だが誰も彼のそんな様子には気付かない。ただアディーナの話の続きを待っている。
「飲んでどうなったの!?」
「あとはもうおわかりの通り」
 彼女は悪戯っぽく笑って言った。
「氷の様なお姫様も彼に夢中になってしまいました。こうしてトリスタンは想いの人を手に入れることができたのです」
「いい話だなあ」
 皆それを聞いて頷きながら言った。
「そんな薬があれば」
「本当だよ」
 ネモリーノはそれを聞いて言った。
「僕にその薬があれば」
 そこでアディーナを見た。
「彼女だって僕を振り向いてくれるのに」
 それを思うだけでたまらなかった。彼はその話を聞いて増々アディーナを欲しいと思った。
「欲しいなあ、そんな薬」
 村人達は話を聞き終えるとうっとりとして言った。
「そうしたら恋が実るのに」
「格好いい彼氏が手に入るのに」
 それぞれ思うところは少し違うがおおむね同じであった。誰もが恋を思ってその薬のことを欲しいと思った。
 皆口々に話をした。その薬について。ここで太鼓を叩く音が聞こえてきた。
「あら」
 娘達が太鼓の音がした方に顔を向けた。
「軍の行進の太鼓の音だな」
 年老いた男が言った。
「ああ、そういえば今日辺りここに軍が来るんだったな。宿営に」
「宿屋が準備をしていたぞ、大喜びで」
「何、それを早く言え」
「酒屋の旦那、あんたはいつものんびりし過ぎるんだよ、それ位前もって聞いておけよ」
 村人達はそう言いながら道を開ける。するとそこに軍の一団がやって来た。
 見れば四十人程である。おそらくこの村の宿営のためだけの部隊らしい。おそらく訓練か何かで立ち寄ったと思われる。殺伐としたところはなく穏やかな様子であった。軍服も綺麗で銃もよく手入れされていた。
「やあやあ皆さん」
 その中の一人が村人達の前に出て来た。
「お騒がせして申し訳ない。私はこの隊の軍曹でベルコーレという者ですが」
 見れば立派な口髭を生やした偉丈夫である。肩の階級章が兵士達のそれよりも立派であった。手には小さな花束がある。
「皆さんに一時の休息の場を頂きたい。よろしいでしょうか」
「喜んで」
「一緒に楽しくやりましょう、束の間の休息を」
 村人達は快くそれを認めた。
 兵士達は村人達の間に入る。そして共に酒と食べ物、そして談笑を楽しみはじめた。
「何か面白い人ね」
 アディーナはベルコーレを横目に見てジャンネッタに囁いた。
「そうね。わりかし格好いいし」
「キザっぽいところもあるけれどね」
 見れば軍服の胸のポケットに花なぞを入れている。髭もよく切り揃えてあり髪にも油を塗っている。かなりの伊達男であることはすぐにわかった。
「おや」
 ここでベルコーレもアディーナ達に気付いた。
「これはこれは」
 そして二人に近付いて行った。
「一体何をする気だ!?」
 ネモリーノはそれを見て顔を顰めさせた。
「僕のアディーナに言い寄ったら只じゃおかないぞ」
 そう言いながら如何にも不安そうな様子で成り行きを見守った。
 ベルコーレはそれに気付くことなく手に持っている小さな花束をアディーナに差し出した。
「可愛らしいお嬢様だ」
 そしてその花束をアディーナに差し出した。
「これはささやかな貢ぎ物です」
 だがアディーナはそれは手にとらない。じっとベルコーレを見ている。
「どういうつもりだ!?」
 ネモリーノは身を乗り出してそれを注視した。
「まさかあいつ」
 もう気が気でなかった。ふとアディーナの視界の端に入ったように見えた。だが彼女はそれがわかっているかどうか。顔には全く出さない。ただベルコーレを見据えている。
「何の御用でしょうか」
 そしてしれっとした態度で逆に彼に対して尋ね返した。
「おや、これは手厳しい」
 ベルコーレはそれに対しておどけてかわした。
「では正攻法で行きましょう」
「正攻法」
「左様。美女を陥落させるのには古来から多くの方法があります」
 ベルコーレは気取った物腰で言った。
「何をする気だ、嫌味ったらしい奴め」
 ネモリーノは二人のすぐ側に来た。そしてベルコーレをジロリ、と睨んだ。
「ん!?」
 ベルコーレも彼に気付いた。だが意に介さない。アディーナに専念することにした。
「戦場においてあれこれと考えていると命が幾つあっても足りません。すぐに動かないと死んでしまいますから」
「ここは戦場ではないわよ」
 アディーナは切り返した。
「いえ、私は今戦っています」
「誰と?」
「目の前の可愛い娘さんとね」
 そう言ってにやりと笑った。
「何」
 ネモリーノはさらにその視線を険しくさせた。
「軍人は思ったらすぐに動くもの、突撃に躊躇してはなりません」
「私は要塞じゃないわよ」
「美女は要塞と同じ、攻略しなければなりませんから」
「攻略だと!?」
 ネモリーノはまた言った。
「何か変なのがいるな」
 ベルコーレは彼を横目で見て呟いた。
(見たところあまり賢そうな奴ではないな。この村の農民か。それにしても間の抜けた顔をしている)
 横目でネモリーノを見ながらそう思った。
(まあ無視していていいな。それよりも今は)
 そしてアディーナに視線を戻した。
(目の前の要塞を攻略しなくちゃならんからな)
 結論を下すとまた攻撃を開始した。
「では白旗は揚げられないのですな」
「だって要塞なんかじゃありませんから」
 アディーナはまたあっさりとかわした。
「白旗なんて持っていないわよ。本なら持っているけれど」
 そう言って手に持っている本を見せた。
「要塞にはこんな本はないわよね」
「確かに」
 ベルコーレは半歩退いた。だが撤退はまだだ。
「軍曹さん、貴方は少しせっかちね。私はまだはいともいいえとも言ってはいないわよ」
「ではお答えはまだですかな」
「どうでしょうね」
 アディーナははぐらかした。
「時間はあるのでしょう」
「まあ数日程ですが」
「その間よくお考え遊ばせ。私が攻略するに値する要塞かどうか。格好のいい人は移り気ですから」
「おっと、これは手厳しい」
 ベルコーレは彼女の反撃に口を尖らせて渋い顔をしてみせた。
「ではここは一時休戦といこう。兵士達は宿に向かってよろしいですかな」
「ええ」
 村人達がそれに頷いた。
「どうぞ。既に話は済んでいるのでしょう?」
「はい」
 ベルコーレは答えた。
「ではお言葉に甘えて。おい」
 そして周りで休息をとっている兵士達に声をかけた。
「一旦宿に向かうぞ。そしてそこで荷物や銃を置いた後当直の者以外は皆自由行動だ」
「はっ」
 彼等は一斉に立ち上がり敬礼をして応えた。こういった動作はやはり軍人ならではであった。
「さて」
 彼は命令を終えるとアディーナに顔を向けた。
「お嬢さん、また後で」
 にいっ、と笑みを浮かべて言った。そして兵士達を引き連れて宿に向かった。
「さあ皆さん」
 それを見届けたアディーナは彼等に語りかけた。
「今のうちに今日の仕事の分を終わらせましょう。今日は兵隊さん達のお相手もしなくちゃいけませんし」
「宴だな」
 彼等は楽しそうに言った。
「ええ。けれどそれは仕事が終わってから。早く終わればその分だけ楽しめますよ」
「よし」
 アディーナの言葉に乗ることにした。
「じゃあ今から頑張ってすぐに終わらせるか。そしてその後は」
「美味い酒に食い物がわし等を待ってるぞ」
 彼等は口々に言った。
「では行くとしよう、仕事を終わらせに」
「おう、そして酒を浴びる程飲もうぜ」
「おっさん、あんたはいつも飲んでるだろうが」
「おっと、そうだったかな、ははは」
 そしてそれぞれの仕事場に向かった。後には二人だけが残った。ネモリーノとアディーナである。
「アディーナ」
 ネモリーノは早速彼女に声をかけた。
「何、またいつもの?」
 対する彼女は余裕をもって彼を見ていた。
「いつものじゃないよ」
 それに対するネモリーノの顔は必死そのものである。
「アディーナ、僕の気持ちはわかっているだろう」
「毎日聞いているからね」
「じゃあわかってくれよ、君が好きなんだ」
「だからそれも毎日言っているでしょう?」
 アディーナはすげない態度で返した。
「私は貴方には合わない、って。だから他をあたりなさい」
「それができないのはわかっているだろう」
「あら、どうかしら」
 だが彼女は相変わらずすげない。
「人の気持ちなんてころころ変わるものよ。貴方も私も」
「僕の気持ちは変わらないよ、ずっと。君だけだ」
 彼はあくまでアディーナにすがる。
「君以外もう誰も目に入らないんだ」
「そんなの一時の気の迷いよ」
「違う」
 ネモリーノは首を横に振った。
「僕の気持ちはそんなものじゃないんだ、わかってくれよ」
「ええ、わからないわ」
 冷たくあしらった。
「貴方には私みたいな移り気な女は合わないし私も貴方は好みじゃないの。これも毎日言ってるわね」
「それでも僕は君だけなんだ。これも毎日言ってるのに」
「そうやって毎日私に言い寄ってくるけれど」
 アディーナはネモリーノをかわしながら反撃に出た。
「そんなことしていていいの?隣の村の叔父さんは大丈夫なの?」
「・・・・・・叔父さんと僕が何の関係があるんだよ」
 ネモリーノは憮然とした顔で答えた。
「あるわ、確か危篤なのでしょう?言ってあげなくていいの?」
「叔父さんも気懸りだけれど僕にはアディーナ」
 そしてまた彼女を見詰めた。
「僕はもう君しか見えないんだ。君のこと以外に考えられないんだ」
「あら、だったら叔父さんの遺産が他の人に渡ってもいいのね。そうしたら貴方は誰も頼る人も財産もなくて飢え死にするかも知れないわよ」
「いいさ」
 ネモリーノは少し俯いて言った。
「僕にとっては同じことさ」
 言葉を続ける。
「飢え死にするのも恋で死ぬのも僕には同じことさ。どちらにしろ死ぬんだから」
「またそんな深刻ぶって。明るく考えたら?」
「どうやったら明るく考えられるんだよ、君が振り向いてくれないのに」
 ネモリーノは問うた。
「一体どうやったら振り向いてくれるんだい?」
「そよ風に聞いて御覧なさい」
 アディーナはやはりすげなく言った。
「それでも私の移り気は治らないでしょうけれどね」
「そんな・・・・・・」
 ネモリーノはそれを聞いて絶望しきった顔になった。
「何度も言っているだろう、僕には君しかないんだって。どうして振り向いてくれないんだ」
「気が向かないからよ」
「じゃあどうしたらその気が僕に向いてくれるんだ!?僕はその為だったら何でもするよ、君のためだから」
 アディーナはそれを聞いて目の表情を一瞬だけ変えた。だがそれをすぐに消した。
「他の人を探しなさい。貴方を受け入れてくれる人をね」
「他の誰に愛されても意味はないさ」
 ネモリーノは首を横に振った。
「君じゃないんだから。君しかいないんだから」
「ずっとその気持ちは変わらないってそこで言うわね、いつも」
「当然さ、本当なんだから」
 ネモリーノは強い声で言った。
「僕はこれだけは神様に誓って言えるよ。アディーナ、僕の君への気持ちは永遠に変わらないって」
「それが嘘なのよ」
 アディーナはしれっとして言い返した。
「人の心なんてお天気そのものよ。いつも変わるもの。ネモリーノ貴方も私よりも毎日違う女の子に恋したら?そうしたら気が楽になるわよ」
「どうしてだい!?」
 ネモリーノは死にそうな顔で問うた。
「恋が恋を打ち消すのよ。毒が毒を打ち消すようにね。少なくとも私はそう考えてるわ」
「それは嘘だ」
 ネモリーノはその言葉に首を横に振った。
「僕は昼も夜も、寝ても覚めても君のことだけを考えているんだから。この気持ちは真実なんだ」
「それも一瞬のこと、明日起きてみたら私への想いも変わっているかも知れないわ」
「そんなことはないよ」
「言いきれるの?」
「勿論さ」
 彼は言った。
「死ぬまで、そして死んでからも君を愛する。それを何時でも何処でも誓うことができるよ。それでも駄目なのかい!?」
「他の人を愛しなさい」
「できるものか、そんなこと」
 ネモリーノはあくまで引き下がらない。
「君をお僕のものにするまでは」
「他の人を愛しなさい」
 アディーナはそんな彼に対してまた言った。
「できるものか」
 ネモリーノも言った。
「じゃあ諦めなさい、じゃあ仕事があるからこれでね」
 業を煮やしたアディーナはその場を軽やかに立ち去った。ネモリーノはそんな彼女を追おうとするが脚が遅くて追いつかない。結局逃げられてしまった。
「ああ」
 ネモリーノは見えなくなっていく彼女の後ろ姿を見て溜息をついた。
「いつもこうだ」
 その目には涙すら浮かんでいた。
「どうして僕を受け入れてくれないんだ、確かに僕は頭も悪いし見てくれもよくない。けれど」
 顔をあげた。そしてアディーナが消えた方を見る。
「君を想う気持ちは誰にも負けないのに」
 彼はとぼとぼとその場を後にした。そして自分の畑に戻るべく広場を通りがかった。彼にも畑があるのだ。
 広場に着くと何やら人が集まっている。ネモリーノはそれを見てまず思ったことは兵隊達が遊んでいるのかな、ということであった。
「何だろう」
 見れば違うようだ。人だかりの真ん中で誰かが話しをしている。
「さあさあ皆様」
 立派な身なりの男が村人達を相手に話をしている。老人で品のよさそうな顔立ちに洒落た口髭を生やしている。一目で何やらあやしそうな雰囲気も出しているがネモリーノはそうは思わなかった。
「お医者さんかな」
 何故かふとそう思った。
「いや、違うかな」
 考えが変わった。
「何なんだろう、変わった人だなあ」
 世間知らずな彼ではわかる筈もなかった。少し世の中を知っている者ならば彼が胡散臭げな人間だとすぐに見破ったであろう。それ程あやしい外見に物腰の男であった。
「実は私はこの度皆さんに素晴らしい贈り物を届けにここへやって来たのです」
「贈り物!?」
 村人達がそれに尋ねた。
「はい、こちらの馬車に入っているものですが」
 そう言いながら隣にある金色の馬車に手を入れた。一目で妙な馬車だとわかる。だがやはりネモリーノはそうは見ない。
「随分立派な馬車だなあ。何か凄い人みたいだ」
「さてこの取り出したるこの薬ですが」
「薬!?」
「左様、この偉大な天才医師、天下に知られた博物学者ドゥルカマーラが発明した素晴らしい数々の妙薬のほんの一つに過ぎません」
「どんな薬ですか!?」
「はい、これは歯磨きです。これで磨けば虫歯もたちどころに治ります」
「それは凄い!」
 だが村人達は何処か割り切っている。こうした口八丁手八丁のいささかいかがわしい者は度々村にやって来ているからだ。とどのつまりドゥルカマーラと名乗るこの男もそうした山師なのであろう。
 しかし村人達はそれを心の何処かで承知しているから笑いながら見ている。彼等も楽しんでいるのだ。そして安ければ、話が面白ければ買うつもりだ。
 ドゥルカマーラもそれは承知である。だから話を身振り手振りを交えて大袈裟に、面白おかしく続ける。
「さてさて今度は」
 そして新たな薬を取り出してきた。
「水虫の薬、そして元気になる薬。そこのご老人も如何ですかな」
「いや、わしは」
 話しかけられた老人は照れ臭そうにそれを断る。
「おやおや、ではまた気が向かれた時に。さてさて今度は」
 そしてまた新たな薬を取り出した。
「これ若返りの薬、これは如何ですかな?」
「ううむ」
 村人達はあえて考える顔をしてみせた。そして彼に問うた。
「お幾らですか?」
「値段ですか」
 やはり本当は商売人なのであろう。ドゥルカマーラはその言葉にすぐに反応した。
「何しろこれはいずれも大層効果のあるものばかりでして。かなり値が張りますぞ」
「ええ!?」
 村人達はそれに対して抗議の声をあげた。
「それなら止めておこうかな」
「ああ、お金もないしな」
「あいや、待たれよ」
 ここで彼はそれを待っていたかのように皆を引き留めた。
「皆様のお気持ち、よくわかりました。それでは勉強して100スクードでどうですかな」
「高いなあ」
「それだととても買えないよ」
 彼等はまた抗議の言葉を出した。
「左様ですか。では30でどうですかな」
「まだ」
「よし、では20、いやそれでは皆様の御厚意に答えられそうもありません。それでは」
 彼はここでにい、と笑った。
「1スクードでどうでしょうか。流石にこれでは文句がありますまい」
「勿論!」
「流石太っ腹!」
 結局その程度の効用しかないのであろうが話が面白いこともあり皆乗った。それぞれポケットや懐からコインを取り出す。
「俺は歯磨きを!」
「私は若返りの薬!」
「わしは元気の出る薬じゃ!」
「まあまあ皆さん落ち着いて」
 ドゥルカマーラはそんな彼等を制して言った。
「薬はどれもたっぷりとありますから。幾らでもお好きなだけ手に入りますから慌てないで。ほら」
 そう言って馬車から山の様な薬を出してきた。
「さあさあ順番に。御希望の薬とお金をどうぞ」
 こうしたことは手馴れたものであった。こうして彼は村人達に薬を売っていった。
「凄い人だ」
 皆大体わかっていたがネモリーノは違っていた。ドゥルカマーラを偉大な医者だと完全に思い込んでいた。
「あの人ならもしかして」
 ここで彼はアディーナの顔を脳裏に思い浮かべた。
「僕を救ってくれるかも」
 そして彼は皆が立ち去るのを待った。
 皆薬を買ってその場を後にした。ドゥルカマーラは薬が売れたのでご満悦であった。
「ううむ、今回はかなり売れたのう」
 彼は袋に収めたコインの山を見て嬉しそうに言った。
「これは当分遊んで暮らせるかもな」
「どうしようかな」
 ネモリーノはここで迷った。
「僕の話を聞いてくれたらいいけれど」
 不安に負けそうになった。逃げたくなる程であった。
「えい、勇気を出せ」
 だが彼はここで己を奮い立たせた。
「ここでやらなきゃどうするんだ」
 そしてドゥルカマーラに話し掛けた。
「あの」
 オドオドとした様子であった。
「何ですかな」
 彼はネモリーノに顔を向けてきた。
「先生は何でも不思議な薬を一杯持っておられるそうですけれど」
「ええ、その通りですぞ」
 ドゥルカマーラは胸を張って答えた。
「何ならお見せしましょうか、私の持っている数々の薬」
 そう言って馬車から薬を次々と出してきた。
「どれがいいですかな、水虫を治す薬も元気が出る薬も何でもありますぞ」
 よく見れば単にガラスの瓶に水か酒か何かを入れているだけのようである。だがネモリーノはそれには目をくれない。
「あの」
 そして彼に問うた。
「イゾルデ姫の愛の妙薬はありますか?」
「はい!?」
 ドゥルカマーラはそれを聞いて一瞬口を大きく開けた。一体何のことかと思った。
「いえ、あの」
 ネモリーノはそれを見て言い方を変えた。
「つまりですね、その・・・・・・好きな人に惚れられる薬はありますか」
「ああ、そういうことですか」
 ドゥルカマーラはそう言われてそうやく納得した。
「それなら山程ありますぞ」
「本当ですか!?」
 ネモリーノはそれを聞いて表情を明るくさせた。
「私は正直者で知られておりまして」
 見れば如何にも、という感じが身体全体から漂っている。だがそんなことを気にしていては話にもならない。それにネモリーノはそれにすら気付いてはいない。
「そうなのですか、それはよかった」
 彼の怪しげな言葉を疑いもなく信じきっていた。
「それでどんな薬なのですか」
「はい、こちらに」
 そこで青い陶器の瓶をネモリーノに差し出した。
「これが愛の妙薬です。値段は一ツェッキーノ。ありますかな」
「はい」
 運のいいことに丁度持ち合わせがあった。ネモリーノは財布からそれを取り出してドゥルカマーラに差し出した。
「毎度あり」
 彼はにこやかにそれを受け取った。
「有り難うございます」
 ネモリーノはそれを受け取るとすぐにドゥルカマーラに対して礼を言った。
「何と言っていいやら。これで僕の夢が叶うんです。それを思うと幸福で胸が張り裂けそうです」
「いやいや」
 ドゥルカマーラはそれに対して手を振って鷹揚に応えた。
「私は人として当然のことをしたまでですよ」
 実はそう言いながら心の中では舌を出していた。
(ううむ、色々と歩き回ってかなり間の抜けたのを見てきたつもりだがここまで凄いのは見たことがないのう。まさかこれ程のがいるとはな、世の中は広いものじゃ)
 いささか呆れている程であった。
「さてお若いの」
 だがそうした考えは胸の奥に隠してネモリーノに言った。
「よく振ってからお飲みなされよ。そして中の蒸気が逃げないようにそと栓を開けて飲むのじゃ」
「はい」
 ネモリーノはその説明を疑うことなく聞いている。
「飲むとすぐに効き目が出て来ますぞ。ただしそれは一日だけですが」
「一日だけですか」
「はい。けれど貴方へのお気持ちは一生続きます」
「一生・・・・・・。それでもう充分です」
 ネモリーノはそれに納得して言った。
(逃げるには充分な時間じゃ)
 実はドゥルカマーラは本当はこう考えていたがやはり口には出さない。
「味もいいですぞ」
「そんなにですか」
「はい。薬だというのにその味はまるで甘美な葡萄酒の様です」
「何と・・・・・・それは素晴らしい」
(中身は本当は単なる安物の葡萄酒じゃからな。味は嘘は言っておらぬぞ)
 やはり心の中では全くべつのことを考えていた。
「細かいところまで有り難うございます、それではこれで」
「うむ・・・・・・おっと」
 ドゥルカマーラは一つ言い忘れていたことを思い出した。そしてウキウキとした足取りで立ち去ろうとするネモリーノを慌てて呼び止めた。
「お若いの、お待ちなされ。一つ言い忘れていたことがあった」
「何ですか!?」
 ネモリーノはそれを聞いて立ち止まって振り向いた。
「他の者には黙っておりなされよ。もてる男は妬まれますからな」
「はい、わかりました」
(下手をしたら警察に睨まれるからのう。それだけは避けなければ)
 やはりかなり胡散臭いことをしている負い目であろう。警察だけは怖かった。
「よろしいな」
 そして念を押した。
(どうもこやつは危ない。ここまでの間抜けだとかえって不安になるわい)
 心の中で一言呟くとまたネモリーノに顔を向けた。
「では今日一日は女の群れに注意してな。群がる幸福にお気を着けて」
「あの先生」
 ネモリーノはその言葉に対して言った。
「僕は女の人にもてたいとは思わないのです」
「おや、では何故その薬を」
「はい、この薬は」
 ネモリーノは両手に持つその薬をいとおしそうに見てから言った。
「一人の人の為に飲むんです。僕が想うたった一人の人の為に」
「そうだったのですか(案外いいところがあるのう:)」
 彼は心の中で少し感心した。だが騙すのに罪悪感はなかった。
(明日の朝早くドロンじゃからまいいよいか。この間抜けとはそれでお別れじゃ)
「さて、お若いの」
 何食わぬ顔でネモリーノに声をかける。
「よろしくやりなされよ、その愛しい人と」
「はい!」
 ネモリーノは元気よく答えた。やはり全く疑ってはいなかった。
「ではな。わしは一杯やらせてもらうとしよう」
「では」
「うむ」
 そしてドゥルカマーラは近くにある酒場に向かって行った。そしてその中に入った。
 ネモリーノは一人になった。早速その栓を開けようとする。
「おっとと」
 だがそこでドゥルカマーラに言われたことを思い出した。
「まずはよく振って、と」
 彼が言ったようにまず瓶を振った。
「そしてゆっくりと栓を開ける」
 その中身が何であるか本当に疑わしいと思っていない。そして一口口をつけた。
「おや」
 味わってみて目の色を変えた。
「これは美味い。先生の仰った通りだ」
 そしてゴクゴクと飲みだした。
「美味しいなあ。何か飲んでいると気分がよくなってきたよ」
 酒であるからそれも当然であった。だが彼はやはりそれには気付かない。
「ううん、何だか身体が熱くなってきた。もう効きはじめているな」
 無邪気に薬が効いていると思っている。
「今アディーナも同じなんだ、そう思うだけで何と幸福なんだろう」
 喜びに打ち震えていた。
「食欲も湧いてきた。何か凄い絶好調だ」
 側にある店でパンと果物を買った。元々おやつを買うつもりであった。
「ではいただきます」
 そしてそのパンと果物を食べはじめた。
「本当にいい気持ちだ。何て幸せなんだろう」
 彼は至って上機嫌で食事を採っている。ふとそこに通り掛かる少女がいた。
「一体誰なのかしら。やけに上機嫌だけれど」
 それはアディーナであった。
「あらネモリーノじゃない」
 彼女はネモリーノを認めて咄嗟に物陰隠れた。様子を見る為だ。
「どうしたのかしら。さっきまであんなに思い詰めて私に言い寄っていたのに」
 彼女はそれが不思議でならなかった。物陰から身を乗り出してネモリーノを見ている。
「おや」
 それは当のネモリーノにもわかった。
「来たな」
 彼はそれを認めてにこやかに笑った。
「今度は笑ったわね。何があったのかしら」
 アディーナはその笑顔を見て余計に不思議に思った。
「暫く様子を見た方がいいわね」
「今に見ていろ」
 ネモリーノにもその様子はわかっていた。アディーナを横目で見ながら笑っていた。
「すぐに僕をいとおしく思ってたまらなくなるからな」
 薬の効き目を露程も疑ってはいなかった。すぐに効果が出ると信じている。
「おかしくなったのかしら」
 アディーナは薬のことなぞ知るよしもない。自然とそういう考えに至った。
「元々頭の回転の鈍い人だったけれど」
 しかしネモリーノには真相はわかっていた。わかっていると信じているだけであった。
「もっと飲むか」
 そして薬をまた飲んだ。
「これでどうだ」
 そしてアディーナをまた横目で見た。
「気付いているわね」
 アディーナもネモリーノが自分を横目で見ていることはわかっていた。
「何を考えているのか知らないけれど」
 普段は言い寄られて辟易していた。だがいざこうしてあえて無視されると腹立たしさを覚えるものだ。人間の心理とは実に複雑なものである。
「私を無視するなんていい度胸しているじゃない。見ていらっしゃい」
 彼女はネモリーノを見据えて言った。
「絶対後悔させてやるわ」
「フン、今に見ていろ」
 ネモリーノも似たような考えであった。
「もうすぐ僕をいとおしく思ってたまらなくなるからな。その時にどれだけ後悔しても知らないぞ」
 彼には絶対の自信があった。
「もうすぐだからな、僕に心を奪われるのは」
 アディーナは自分に気付いているのはわかっている。そしてやきもきしていると思うと嬉しくてたまらなかった。
「もうすぐだからな」
 そして目を離した。そしてパンと果物を食べ終えた。
「ふう、美味しかった」
 彼は腹をさすって言った。実際に美味しいと満足していた。
 そこにアディーナが出て来た。如何にも今来たばかりだという態度である。
「来たな」
 ネモリーノは彼女を見て呟いた。
「いよいよだ」
 そしてこれから起こるであろうと彼だけが確信していることに胸を打ち震わせていた。
「やけに嬉しそうね」
 アディーナは内心の意地悪にも似た憤りの心を必死に抑えながら言った。
「私の忠告を聞き入れてくれたのかしら」
「まあね」
 ネモリーノは鼻で笑った様に答えた。
「おかげで随分気が楽になったよ」
「それはよかったわ」
 アディーナは答えた。だがその本心は全く違っていた。
(どういうつもりなのかしら)
 顔は笑っていたが目は全く笑ってはいなかった。
(この私にそんな態度をとるなんて)
 胸が怒りで燃え上がっている。だがそれは何とか隠している。
(見ていらっしゃい。死ぬ程後悔させてあげるから)
 だがそれは流石に口には出さない。表情だけであるがにこやかな態度を崩さない。
「けれどまだ苦しいのではなくて」
「確かにね」
 ネモリーノは満面に笑みを讃えて答えた。
「けれどそれもほんの少しさ。あと一日で消えるよ」
「あら、一日で」
「うん。それでもう僕は安息の日々に入ることができるのさ」
「それは良かったわ」
 アディーナはこめかみをヒクヒクさせていた。
「心から祝ってあげるわ」
 内心は今にも爆発しそうであったが。
(只じゃ済まさないわよ)
 その心の顔は夜叉の様になっていた。だがやはりそれは表には出さない。
(そう、もう少しだ)
 ネモリーノの内心は彼女のそれとは見事なまでに正反対であった。
(もう少しで彼女の心は僕のものなんだ。明日にその心は僕のものだ)
 彼はそれを信じていた。だからこそ強気なのだ。
「明日には綺麗さっぱり忘れているだろうね」
 ネモリーノは得意そうに言った。
「明日には!?」
 アディーナのその顔に一瞬だが夜叉の顔が浮かんだ。だがそれはあくまで一瞬のことであった。
「そう、明日には」
 ネモリーノはそれに気付かなかった。もし気付いていれば臆病な彼がどれ程恐れたことか。
「本当なのね!?」
 アディーナは顔を見上げて彼を問い詰めた。
「そうだよ」
 ネモリーノはわざとすげない様子で答えた。
「信じていいのね、その言葉」
「僕が嘘を言ったことがあるかい?」
 ネモリーノはやはりすげない様子である。
「ふうん」
 彼女の顔に次第にその夜叉の面が浮かび上がってくる。しかしそれは何とか気付かれる域にまで持っては行かない。浮かび上がらないように苦労していた。
(どういうつもりなのかしら、本当に)
 アディーナの怒りは募る一方であった。
(ここまで頭にきたのは本当に生まれてはじめてだわ)
 彼女はこれまでにない怒りで身体を震わせていた。だが彼女は怒りのあまり一つのことに気付いていなかった。
 自分が何故これ程までに怒りを覚えるのか。それについては思いが至らなかった。頭の回転の早い彼女であるが怒りのあまりそこまで考えがとても至らなかったのだ。
「ネモリーノ」
 強い声であった。
「な、何だい!?」
 その声に気の小さい彼は震え上がってしまっている。
「本当に明日までなのね」
「う、うん」
 逆に彼の方が小さくなってしまっている。
「そうしたら僕は楽になるんだよ」
(君を手に入れることができてね)
 この心の言葉は当然アディーナには聞こえはしない。だから彼女の攻撃はさらに意地の悪いものとなるのであった。
「わかったわ」
 彼女は意地悪そうに微笑んだ。
(見ていらっしゃい、目にもの見せてくれるわ)
(落ち着け、ネモリーノ)
 ネモリーノはそれに対して自分を落ち着かせるので精一杯であった。
(明日になれば御前は彼女の心を手に入れているんだぞ)
 そう自分に言い聞かせながら落ち着きを取り戻した。
「それで明日には・・・・・・」
 だがその声はまだ震えていた。
「明日には、何!?」
 アディーナは怖い声で問い詰めてきた。
「それは・・・・・・」
 ネモリーノは弱る。アディーナはさらに詰め寄ろうとする。だがそこにもう一人役者が姿を現わした。
「この村は可愛い娘がいていいが」
 見ればベルコーレであった。
「どうも身持ちが固いな。やはり田舎の娘は攻めにくい」
 どうやら村の娘達に言い寄って惨敗続きであるらしい。口を尖らせて不平を呟いている。
「あら」
 アディーナは彼の姿を見て顔を明るくさせた。
「丁度いい時に」
 ここで咄嗟に閃くものがあった。
 ネモリーノを見た。彼が出てきて急に不機嫌になっている。
(決まりね)
 そう思ってほくそ笑んだ。そしてベルコーレに顔を向けた。
「ねえ軍曹さん」
「何だい?」
「戦いの状況はどうかしら」
「思わしくないね。負け続きさ」
 彼は力なく笑って答えた。
「すぐに挽回できると思うけれどね」
「今にも?」
 アディーナは意味ありげに問うた。
「機会があればね。ただしその機会がないんだよ」
 ここで彼女に目を向けた。
「機会がね」
 何を言わんとしているかは明白である。アディーナにとって僥倖であった。
「それがここにあったら?」
 横目でネモリーノを見ながら問うた。
「えっ!?」
 ネモリーノはその言葉に一瞬我を失った。
「どれだけ貴方がここにいられるかが問題だけれど」
 ネモリーノは必死に動揺を隠しながらベルコーレの次の言葉に耳を澄ませた。
「どれだけかい」
「ええ。どれだけ?」
「一週間程だね」
「一週間ね」
 アディーナは頷きながらネモリーノを見る。だが彼は完全に落ち着きを取り戻していた。ケロリとしている。
(おかしいわね)
 アディーナは首を傾げた。それはベルコーレも気付いていた。
(この二人もしや)
 ネモリーノとは違いこういうことの経験は多い彼である。事情はいささか読めてきた。
(俺は当て馬かも知らんな)
 そう考えたがそれは顔には出さなかった。そしてアディーナに問うた。
「一週間あれば充分だと」
「わかったわ」
 アディーナはそれに頷いた。ネモリーノを見るとまだ平気である。
(一週間か。驚いて損したよ)
 ネモリーノは薬のことが頭にある。だから余裕を持っている。しかしアディーナはそんなことは知らない。だから余計に焦っているのだ。
(まだ笑っているわね、完全に頭にきたわ)
 もう怒りが顔に滲み出ていた。
(見ていらっしゃい、死ぬ程後悔させてやるから)
 だがネモリーノはやはりしれっとしている。
(明日になれば全て変わるんだ。明日には僕はアディーナと一緒なんだ)
 そう思うと笑わずにはいられなかった。
(この男が馬鹿なのはわかるが)
 ベルコーレは少し考えていた。
(それでもこの娘さんの様子は少し変だな。大体俺が独身かどうかすら確かめてはいないのに)
 彼は幸いにして独身である。アディーナにとってこれは幸運なことであった。この場限りであるが。
(やっぱり何かあるのかな)
 そう考えている時だった。ジャンネッタがこの場に姿を現わした。
「ねえ軍曹さん」
 そしてベルコーレに呼びかけてきた。
「私かい?」
「はい。兵隊さん達が御用があるそうです」
 見れば彼女の後ろに兵士が数人続いていた。
「御前達か。一体どうしたのだ?」
「ハッ、只今軍曹宛に大尉から連絡がありました」
「大尉からか」
「はい」
 敬礼をして答える。そしてその中の一人が一通の手紙を差し出した。
「どうぞ」
「うむ」
 彼は封を切り読みはじめた。それを見て彼は難しい顔をした。
「予定変更か。こういうことはよくあることだが」
 だが面白くはなさそうであった。
「おい、全員に伝えろ」
 読み終えると彼は兵士達に対して言った。
「明日の朝この村を発つ。そして本隊と合流するぞ」
「わかりました」
 彼等はそれを聞いて敬礼で答えた。
「命令だから仕方がない。わかったわ」
「はい」
 兵士達は納得しているようである。心中は穏やかではないかも知れないが彼等も軍人である。これはわきまえていた。
「お嬢さん」
 ベルコーレは命令を終えるとアディーナに顔を向けた。
「こういうことだ。悪いが明日にはお別れだ」
 密かに厄介ごとに巻き込まれなくてよかったと思っていた。
「それじゃあね」
(さっさと行っちまえ)
 ネモリーノは厄介者が消えたと思い大喜びであった。
(明日にはあんたにとびきりのいいニュースが入るからな。それを持って早くこの村から出て行ってくれ)
 かなり都合のいいことを考えていた。だがそうは問屋が卸さない。
(まだ喜んでいるのね)
 アディーナが怖い顔をして彼を睨んでいたのだ。
「軍曹さん」
 彼女はベルコーレに声をかけた。
「今日一日は大丈夫なのね」
「まあね」
 彼は答えながら心の中でバツの悪い顔を作っていた。
(まずったかな)
 舌打ちしたかったが目の前にその舌打ちの先がいるのでそれは無理であった。
「わかったわ」
 アディーナはそれを聞いて満足気に微笑んだ。
「じゃあ今日結婚しましょう」
「ええっ!?」
 これにはネモリーノとベルコーレ、両方が同時に声をあげた。
「嘘だろう!?」
 言われたベルコーレは目を白黒させていた。
「本気なのかい!?」
「冗談でこんなことは言わないわよ」
 アディーナはそれに対して微笑で返した。
「それとも私じゃご不満かしら」
「いやいや、とんでもない」
 だがベルコーレは内心とんでもないことになった、と思っていた。
(逃げられんな、これは)
 彼はそれでも騒ぎの中央ではまだなかった。かなり巻き込まれていたが台風の中央にはいなかった。
 中央は最早大荒れであった。ネモリーノは顔中汗だらけにしてアディーナに何か言おうとしていた。だが狼狽しきっていて中々言葉にならない。
「あの、アディーナ、あの、その・・・・・・」
「何、ネモリーノ」
 アディーナはそんな彼を勝ち誇った顔で見下ろしていた。背は彼女の方が遙かに小柄であったが完全に勝っていた。
「貴方も来てくれるわよね、楽しみに待ってるわよ」
 ここぞとばかりに攻勢をかける。ネモリーノは顔色をくるくると変え口を閉じたり開いたりして完全に我を失っていた。
「あの、その」
「何?聞いてあげるわよ」
「その、ね・・・・・・。明日の朝まで待ってくれないかな、その、結婚を」
「あら、どうして?」
 彼女は意地悪い顔で問うてきた。
「貴方に関係ないことなのに」
(関係あるのだろうな)
 ベルコーレはその光景を見ながら思った。
「明日になればわかるよ、事情は。今はちょっと言えないけれど。だからね・・・・・・その結婚は明日まで待って欲しいんだよ、頼むから」
「嫌よ」
 アディーナはそれに対してすげなく返した。
「貴方に指図されるいわれはないわ」
 そして右手を振って彼をあしらった。
「そんな・・・・・・」
 ネモリーノはそれを受けて完全に絶望した様子になった。もう酔いは完全に醒めていた。
(さてさて)
 ベルコーレはそれを見ながら考え込んでいた。
(これはどうなるかな。どうもこの娘さん本当は俺のことは何とも思ってはいないようだな)
 こうしたことには場慣れしている。だからすぐにわかった。
(俺は当て馬ということかな)
 そう考えた。だがここは結論を避けることにした。
(乗ってみるか)
 それも楽しそうだと思った。酔狂なことは好きだった。
(よし)
 彼は意を決した。この騒動に巻き込まれることにした。
「ではお嬢さん、すぐに式に取り掛かりましょう」
「ええ」
 アディーナはにこやかな笑顔を作って答えた。
「すぐに取り掛かりましょう」
「それは一日だけ待ってくれ」
 ネモリーノはそんな彼女にすがるようにして言った。
「そうしたら全てわかるから」
「何がわかるっていうの!?」
 アディーナはそんな彼をキッと睨み返した。
「貴方が馬鹿だってことはとっくの昔にわかってるわよ」
(これはまた手厳しい)
 ベルコーレはそれを見てまた思った。やがてこの場に仕事を終えた村人達と荷物を整え終えた兵士達がやって来た。
「おや、またネモリーノか」
 村人達は彼が慌てふためいているのを見て呟いた。
「またアディーナに言い寄って」
「いつも振られているんだからいい加減諦めたらいいのにね」
 彼等はクスクスと笑いながらそう話をしている。兵士達はそれを興味深そうに聞いている。
「今度は一体何だ」
「どうせまた馬鹿なことをしてアディーナを怒らせたんだろう」
 彼のことは村では有名であった。やはり何処か抜けているので村人達にも困ったものだと思われているのである。
「さあ軍曹さん」
 村人と兵士達が彼等を遠巻きに見守る。アディーナはそれを背にベルコーレに対して言った。
「早速公証人のところへ行きましょう」
「わかりました」
 ベルコーレは恭しく敬礼をして答えた。
「ではすぐに」
「ど、どうしよう」
 ネモリーノはそれを見てさらに狼狽の色を深めた。
「そうだ、こういう時には先生だ」
 ふとドゥルカマーラのことを思い出した。
「先生なら何とかしてくれる」
 辺りを必死に見回す。だがここにいる筈もない。
「一体何処に」
「またわけのわからないことをしているな」
 村人達はそんな彼を見て言った。
「いつものことだがあいつのあれは変わらないな」
「悪い人じゃないのにね」
「本当」
 笑いながら彼を見ている。だがネモリーノには目に入らない。
「さて、どうするのかしら」
 アディーナは勝ち誇った目でそんな彼を見ている。
「私を怒らせたんだから当然よ。精々苦しみなさい」
 悠然と慌てふためく彼を見下ろしている。だがすぐにその目の色は変わった。
「そして反省したら許してあげる。それまで精々困りなさい」
 ネモリーノは狼狽し慌てた様子のままその場を後にした。村人達はそんな彼を呆れて、そして困ったような笑いを浮かべて見送った。
「本当に困った奴だよ」
 最後にこの言葉が何処からか聞こえてきた。



今回は喜劇という事だけど。
美姫 「うんうん。確かに明るい感じよね」
さて、この後どうなるのかな。
美姫 「ネモリーノはあの山師を探すみたいだけれど」
さてさて、どうなるのかな?
美姫 「続きが楽しみね」
うんうん。アディーナもアディーナでどうする気なのかな?
美姫 「次回を楽しみに待ってますね〜」
ではでは。



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