第三幕 公爵邸


 伊達男として知られる公爵の本宅はやはり豪奢なことで知られている。バロック調の邸宅は劇や催しが開けるような大きな広間まで持っている。
 その広間もまたバロック様式である。何処かベルサイユ宮殿の様な大きく、それでいて派手で金や銀で彩られた広間は扉やカーテンまでもが派手に装飾されている。大きな肖像画や鏡等が壁に飾られており腰掛や椅子までもが装飾でみらびやかなものとなっている。ガラス窓から日が差し込めている。もう赤くなりだしている。夕刻が近付いているようだ。
 その中を従僕達が動き回っている。椅子の配置を直したり花瓶や植木を持って歩き回っている者もいる。その中を左右に跳び回りあれこれと指図をしている者がいる。見れば僧院長である。
「花瓶はそこじゃない、あっちだよ、あっち」
 従僕の一人に指示を出す。
「それはもう少し左だな。カーテンは・・・・・・よし、これで問題なし」
 広間のあちこちを見ながら言う。細かいところまで見ている。
「公爵は私に演出を任せてくれたからな。ここは腕の見せ所だ」
 彼はニコリと笑って言った。かなり楽しそうである。
 そこに誰かが入って来た。見れば公爵夫人である。
「あ、これは奥様」
 僧院長や従僕達が礼をする。だが彼女はそれに対し鷹揚に挨拶を返すだけである。
「あれっ、今日は何処かおかしいな」
「ああ、いつもは笑顔で挨拶を返して下さるのに」
 従僕達が首を傾げて囁き合う。彼女は従僕達に対しては結構いい主であるようだ。
「ほらほら、手を休めない」
 僧院長は彼等の背中を押して仕事に向かわせる。公爵夫人はそんな彼等に目もくれず開いている椅子に座った。
「・・・・・・・・・」
 彼女は俯いたまま何か考えている。豪華な銀と白のドレスで身を包んでいるがその豪奢さも化粧とアクセサリーで飾られた美貌もその沈んだ様子で幾分くすんで見える。
「あの女、一体何者なの・・・・・・」
 あの別荘の逃走劇から半月が過ぎようとしている。だが彼女の頭にあるのはあの時の女のことだけであった。
「私の憎い恋敵・・・・・・。どうしたら正体がわかるのでしょう」
 激しい憎しみの炎に身を包む。彼女の心はその燃え盛る暗い炎に焦がされている。
「私のマウリツィオを・・・・・・。私の手から何故奪おうとするの」
 その紅の美しい唇を噛む。血が滲みそうになる。
「彼は私だけのもの。あの人だけは渡す事は出来ない」
 その後ろでは僧院長が従僕達に指示を出している。
「そう、燭台はそこがいいな。そしてその壺はここに置こう」
 的確に指示を出す。彼のセンスは中々いいようだ。
 だがそれは公爵夫人の耳には入らない。ただあの別荘でのことばかり考えている。
「あの女の言葉・・・・・・。思い返すだけでも忌々しい」
 しかし思い出さずにはいられない。そして一層激しい憎悪の炎を燃やすのだった。
「私のあの人への口付けは全て盗まれていた。あの人は今ではあの女の虜・・・・・・。私を抱いたあの手が今はあの女を抱いている」
 憎悪はさらに強いものになっていく。最早それは誰にも止められなかった。
「あの声、それが全てを雄弁に言っているわ。そしてそれが私の心をさらに憎しみで燃え上がらせる」
 それは彼女自身にもよくわかっていた。だがそれを止められないのだ。最早その女を見つけ出し自分の手で決着をつけないと気が済まなかった。
「奥様、どうなされたのですか。そんなに考え込まれて」
 僧院長が声をかけてきた。どうやら一段落して彼女の様子に気が着いたらしい。
「いえ、何も」
 彼女はそれをあえて否定した。憎しみを他の者に見せることは彼女のプアライドが許さなかった。
「それにしてもいつもお美しい」
 賛辞の言葉を述べる。歯が浮くようだが当時では女性にこうした言葉を贈るのは作法のようなものであった。
「黄金色の暁よりも美しい・・・・・・」
「あら、でしたらその暁が沈んだ後はどうなのです?」
 彼女は苦っぽく笑って彼に言った。幾分気が紛れたといってもやはり見知らぬあの女に対する憎悪の念が残っている。言葉の一つ一つにやはり棘がある。
「夜の紫の空を照らす月よりも。貴女はあまるで月の女神のようだ」
「月の女神。それはヘレネでしたわね」
「はい。アルテミスである場合もありますが。貴女はまるでそのヘレネのようです」
「ヘレネですか。いつもながら良い例えですこと」
 彼女はそう言って席を立った。そして鏡の前に来た。
「神々の命は永遠のもの。そして恋の歌も永久に歌われますわ。けれど」
 彼女は自分の姿を見た。他の者が羨むような美貌である。
「人の命は限りあるもの。人は神ではないのですから」
 彼女は憂いを込めた声でそう言った。まるでこの世の儚さを知っているように。
「私の言葉はお気に召しませんでしたか?」
 僧院長はそんな公爵夫人の様子に少し困惑した顔になった。
「いえ、そうではありませんわ。僧院長のお言葉にはいつも感謝しています。私のような者に有り難いお言葉を。ところで一つお聞きしたいのですが」
「はい」
「私のスカート、少し短くはありませんか?」
 そう言って自分のスカートを僧院長に見てもらう。
「別に。適度な長さだと思いますよ」
 僧院長はスカートを見て彼女に言った。
「そうですか。では胴のところは?太くなくて?」
「いえ。申し分ありませんよ」
「そうですか」
 公爵夫人はそう言うと再び鏡へ顔を向けた。僧院長はそんな彼女の様子を変に思った。
「あの、奥様」
「はい」
「何か御心配でも?」
 彼は気遣う顔で公爵夫人に尋ねた。
「・・・・・・・・・」
 公爵夫人は最初は答えなかった。だが暫く考えて彼に口を開いた。
「ザクセン伯の新しい恋人を探して下さい」
「?は、はい」
 僧院長はこの言葉の意味がよくわからなかった。彼女とマウリツィオのことは知らなかったのだ。
 だがデュクロと彼の話を思い出した。そして公爵とデュクロのことも。夫の浮気に心を悩ませているのだと思った。
(おやおや奥様も純情な。ご自分も楽しまれればいいのに)
 当時の宮廷ではごくありふれた話なのだから。
 だが彼はそれを口に出さずその場を去った。そしてそこに公爵が入って来た。正装である。
「よし、準備は整っているな」
 彼は広間を見て満足気に言った。
「さあ、もうすぐ皆さんが来られるぞ」
 彼の言葉通り暫くして家令に案内され広間に多くの紳士淑女が入って来た。公爵と公爵夫人は並んでそれを出迎えた。
「ようこそ、我が家へ」
 公爵は満面に笑みをたたえて彼等を迎える。その横で公爵夫人は一人一人に言葉をかける。
「いつも来て下さり有り難うございます」
 淑女達にも声をかける。
「今日もお美しくて」
 客達は席に着いた。僧院長も広間に戻って来た。
「ところでお客様へのおもてなしは?」
 公爵夫人は僧院長に尋ねた。
「アドリアーナ=ルクブルールが来ますよ」
 その名を聞いて客人達はおおっ、と声をあげる。
「劇は『パリスの審判』、そしてシャンフルールのバレエです」
「おお、それは楽しみだ」
 僧院長の話を聞いて公爵は思わず声をあげた。
「お客様と奥様の為に容易しましたよ」
 僧院長は右目を瞑って彼女に言った。
「あら、それはあの大女優の為でしょう」
 公爵夫人は少し皮肉を込めて言った。彼も夫も彼女のファンであることを皮肉ったのだ。
「おや、これは手厳しい」
 僧院長はその言葉に思わず苦笑した。程無くして家令が告げる。
「アドリアーナ=ルクブルールの来場です!」 116
 その言葉に一同オオッ、と声を挙げる。するとミショネに付き添われ彼女が入って来た。
 赤と金のドレスを着ている。美しく飾られたその姿はまるで女神のようである。
「まさにミーズだな。いや、太陽か」
 僧院長はその姿を見て呟いた。
「さあ、こちらへ。その美しいお姿をもっと近くで拝見させて下さい」
 公爵はそう言って彼女を近くへ招き寄せる。
「そのような・・・・・・」
 公爵の言葉にアドリアーナは戸惑っている。その声を聞いた公爵夫人の顔色が変わった。
「その声は」
 あの別荘での声によく似ている、と思った。
「私はここへ招かれて感激致しました」
 アドリアーナはそんな彼女の言葉には気付いていない。勿論彼女のことは知っている。忘れる筈もない。だがそれは心の中にしまっておいているのだ。
 しかしその声を公爵夫人は覚えていたのが仇となった。さらに声を聞いて公爵夫人は確信した。
「間違い無いわ、あの声ね」
 アドリアーナを見る。彼女は公爵夫人からあえて視線を外している。
「そのうえこれ程まで手厚いおもてなしをして下さって・・・・・・」
 アドリアーナは本心から感激していた。それが公爵夫人には余計面白くないようだ。
「あんなに喜んで、何と憎らしい」
 彼女はアドリアーナを横目で見つつ呟く。その声は公爵にもアドリアーナにも聞こえない。半ば心で呟いているからだ。
「それにしてもまさか彼女だったとは」
 アドリアーナを横目で見続け考える。
「想像もしなかったわ」
「女優とは」
 アドリアーナは優雅な声で語りはじめた。
「けれど女優かもしれないということは忘れていたわ。充分あり得たのに」
 マウリツィオの芝居好きは彼女も知っている。美男で精悍な武人である彼は女優達からも人気があるのだ。
「芸術の神ミューズの下僕であり」
 アドリアーナは慎ましやかな態度で言葉を続ける。公爵夫人はその横で激しい嫉妬の炎を燃やし続ける。
「それに気付かないとは迂闊だったわ」
 公爵夫人の炎はさらに激しく燃え上がる。紅い憎悪の炎が身を焦がさんばかりであった。
「その栄誉と光輝を担う者なのです」
 アドリアーナの信条をそのまま言う。彼女の心はそのまま乙女の様に無垢であった。
 しかしそれが一層公爵夫人の心を燃え上がらせる。彼女もまたその心は一途であったからだ。
「皆は褒めそやすけれど・・・・・・。私は騙されないわ」
 その時僧院長が公爵に言った。
「そろそろはじめますか?」
 公爵はそれに対し頭を振った。
「いや、ザクセン伯をお待ちしよう」
 その言葉に公爵夫人はサッと割って入った。
「お待ちになるのは無駄でしょう」
「えっ!?」
 その言葉を聞いてアドリアーナの顔色がサッと変わった。公爵夫人はそれを横目で見た。
(あら、うろたえているわね。効果ありだわ)
 彼女は内心ほくそ笑んだ。
「何故だい?折角のお客人だしお待ちしないのは失礼だよ」
 公爵は眉を顰めて妻に言った。かって彼を陥れ笑い者にしようとした事は今は忘れている。
(今ね)
 公爵夫人はアドリアーナを見てさらに言葉を続けた。
「ご存知でしょう、あの決闘のことを」
「決闘!?」
 アドリアーナはそれを聞いてさらに顔を青くさせた。
(もう真っ白ね)
 彼女はそれを見てさらに心の中で笑みを深めた。
「僧院長が使用人からお聞きになったそうですよ」
「えっ、私が!?」
 僧院長はそれを聞いて思わず声をあげた。公爵夫人は彼に顔を近付けそっと囁いた。
「黙っていて下さい、よろしいですか」
「は、はあ」
 僧院長は何もわからず返答した。それを聞いた彼女はアドリアーナを見て言った。
「傷はかなりお深いとか。重傷と聞いていますわ」
「ああ・・・・・・」
 アドリアーナはそれを聞いて失神した。公爵夫人は倒れた彼女を見下ろして心の中で勝ち誇った。
「アドリアーナさん、どうしました!?」
 ミショネが驚いて彼を助け起こす。
「いえ、何でもありません。熱気と灯りに眩んだだけです」
 アドリアーナはそう言って立ち上がった。
(それにしてもまさか今の言葉は本当なのかしら)
 彼女はえも言われぬ不安を心に覚えた。そして公爵夫人を見る。
(何と憎しみに燃えた瞳)
 しかしそれに怯むことはなかった。彼女も心の中で激しい炎を燃やしているのだから。そこで家令が言った。
「伯爵が来られました!」
 その言葉に一同入口へ顔を向けた。アドリアーナは蒼白だった顔をたちまち紅潮させ息を弾ませた。公爵夫人はそれを見て内心歯軋りした。
「アドリアーナさん、落ち着いて。喜びをあまり表に表すのはどうかと思いますよ」
 ミショネがそんな彼女を窘める。アドリアーナはそれに従い心を静めた。だがその目は入口を向いたままであった。
 すぐにマウリツィオが入って来た。ここにいる客人達と同じく礼服で正装している。
「あれっ、ご無事ではないか」
 公爵は彼の姿を見て思わず呟いた。
「伯爵」
 そして自分の前に来た彼に話しかけた。
「丁度今貴方が決闘で重傷を負われたという話が出ていましたが」
「えっ、私がですか!?」
 彼はその話を聞いて思わずキョトンとした。
「はい、どうやら間違いだったようですね」
「まあ決闘沙汰になったのは事実ですが。その寸前に和解したのですよ」
「そうですか。それがそういった話になったのですね」
 公爵は彼なりに話を理解した。だが真相は知らない。
 マウリツィオは公爵夫人のところへ来た。そしてその足下に跪き手に接吻した。
「貴女の為にこおに参りました」
「有り難うございます」
 公爵夫人はその言葉に満面の笑みを浮かべた。
「あの時は無事に別荘から出られたみたいですね」
 彼は小声で公爵夫人に囁いた。
「はい。運良く」
 公爵夫人も小声で返した。
「それは良かった。後で来た時にはもうおられなかったので」
「神が私をお救い下さいましたので」
「それを聞いて安心しました」
 アドリアーナは二人がヒソヒソと話すのを見て内心不快に感じた。
「一体何を話しているのかしら・・・・・・」
 密会や逢引の事では、と思うと心が引き裂けそうになる。
 しかしこの場ではそれは抑える。そしてそっと耳をそばだてる。
「ところで例の件についてですが」
「別荘でお話したあの件ですね」
 二人は口元を近付けるように囁き合う。
「はい、それについてお話したいのですが」
「それはこの宴が終わってからでよろしいですか」
 二人は話を続ける。アドリアーナはそれに対し耳をきかせるが聞こえる筈もない。彼女の不安と焦燥は募る。
「聴こえないわ。一体何について話しているのかしら」
「では後程」
「はい」
 二人は別れた。そこへ僧院長との宴の打ち合わせを終えた公爵がやって来た。
「伯爵、この前の戦いではかなり武勲を挙げられたようですね」
「クルランドのあれですか?」
 彼は言葉を返した。
「はい。そのことについてお話を窺いたいのですが」
「武勲と言いましてもそんな大したことは・・・・・・」
 彼は謙遜して言う。
「まあそう仰らずに」
 僧院長も彼に話をしてくれるよう頼む。
「そうです。あのミタウの攻撃のお話を」
「ご存知ではないですか」
 公爵の言葉に彼は苦笑して答えた。
「ですがより詳しく知りたいのです」
「焦らすとは意地がお悪い」
 僧院長も言う。
「そうですか。それでは」
 彼は姿勢を整えて話しはじめた。
「ミタウでロシアのメンチコフ将軍は私を騙し討ちにするよう命令を受けていました。その時私の手元にいるのは僅か一個小隊、向こうは一個軍団。戦力差にして十五対一です。しかも味方からの援軍は当てには出来ない状況でした」
「そしてどうなりました?」
 一同身を乗り出して尋ねる。
「私の周りは大変な状況にありました。敵の音楽隊の演奏がもう三日間聞こえて来ました。それはまるで私達に死を告げる冥府の魔王達の声のようでした。そして遂に敵の突撃ラッパの音が聞こえて来たのです。その時私は考えました。どうすべきか、どうしてそれを退けるか」
「そして!?続けて下さい!」
 皆が急かす。
「はい。その時私は気付きました。敵が火を点けようとしているのを」
「それで貴方はどうしたのです!?」
「私は自分で身を潜めている屋敷の入口の広間に火薬の筒を運び込みました。そしてそれの導火線に火を点けました。そして敵兵を百人程吹き飛ばしました。恐れおののいた敵は退却しそこに援軍が駆けつけてくれたのです。これがあの戦いでの私のお話です」
「よくぞ生き残られました。貴方の武勲をここに讃えましょう」
「有り難うございます」
 彼は謹んでその賛辞を受けた。
「素晴らしいお話でした。では軍神マルスのお話の後は舞踏の女神テルプシコーレの出番ですな」
 公爵は一同の前に出てそう言った。
「斬り合いの後は踊りを」
 僧院長も一礼して客人達に言った。
「皆様、今宵の舞踏は『パリスの審判』ですぞ」
 パリスとはギリシア神話に名高いトロイアの王子である。彼はある時一つの審判を神々より委ねられた。それは女神達のうちどの女神が最も美しいか、という話である。
 審判してもらうのは三柱の女神達。女性の守護神ヘラ、知と戦の女神アテナ、そして愛と美の女神アフロディーテ、すなわちヴィーナスである。
 これは正直極めて難しい判定であった。しかも女神達は自分を選んでくれたならば褒美を与えようというのである。その褒美はどれも極めて魅力的であった。その為彼は悩んだ。
 だが彼はヴィーナスを選んだ。何故ならこの女神が自分に最も美しい女性を与えてくれると言ったからである。
 これがトロイア戦争のもとになる。ホメロスの詩に名高い十年に渡る戦いである。神々がトロイア、ギリシア双方に分かれ英雄達が血を流した。そして多くの悲劇を生み出した戦争であった。
 この劇ではまず二人の従僕が幕を引いた。するとそこに小さな村と海の背景が出て来た。
 そこに羊飼いの服装を着たパリスに扮する役者が現われる。彼は土手に寄り掛かった。遠くから羊飼い達の笛の音や歌い声が聴こえて来る。
 するとそこにキューピット達がすがたを現わした。そしてパリスに言う。
「目覚めてはいけませんよ、羊飼いよ。恋は甘い破滅のもと。貴方はそれの虜になる運命。だからそのまま眠っていなさい」
 彼等はそう歌うとその場を去った。するとそこへ商業の神ヘルメス、すなわちマーキュリーが現われた。
 そしてパリスを起こす。目覚めた彼に懐から取り出した一個の黄金の林檎を与えた。
「これは・・・・・・」
 パリスは尋ねた。マーキュリーは彼に言った。
「君はその林檎を最も美しい人に授けるのだ」
「最も美しい人?」
 彼は尋ねた。
「それはすぐにわかるよ」
 マーキュリーはそう言うとその場を去った。この黄金の林檎は神々のみが食べることを許される不老不死の林檎。トロイアの戦争で活躍した英雄アキレウスの父ペレウスとその母であるニンフの娘テティスとの婚礼の時に招かれなかった争いの神エリスがそれに怒りこの林檎を婚礼に出席していた女神達の中に投げ込んだのだ。それは無論彼女達をいがみ合わせ争いを起こさせる為だ。
 そこへコーラスが聞こえて来る。舞台外で歌っている。古代ギリシアの様式だ。
「気をつけなさい、フリジアの美しい羊飼い!果実はどれも虫食いだらけ!争いが貴方に降りかかりますよ!気をつけなさい、貴方に与えられる贈り物とそれを与えてくれる美しい女神に」
 だがそれはパリスには聞こえない。これもギリシア劇の様式なのである。舞台外の話は舞台の中の人間には決して聞こえないのだ。
 ここで結婚式の立会人であるヘラ、すなわちジュノーが入って来る。言わずと知れた天空の神ゼウスの妻である女性の守護神だ。派手に着飾り堂々とした姿だ。彼女はまず自分の存在をパリスに示した。
「私のことは知っていますね」
「はい」
 パリスはジュノーの言葉に頷いた。
 次に女戦士アマゾネス達を従えた智と戦の女神アテネ、ミネルヴァが入って来た。彼女は鎧兜で武装している。
「私のことは知っていますね」
「はい」
 パリスはミネルヴァの言葉に頷いた。繰り返しもまた古典的な劇の特色の一つである。オペラでもそうだ。
 最後にボッテイチェリノ名画『春の祭典』のように優雅と喜びを司る女神達を従えアフロディーテ、すなわちヴィーナスが入って来た。彼女は衣で身を覆っているだけである。
「私のことは知っていますね」
「はい」
 パリスは三度答えた。女神達はパリスを取り囲んだ。そして彼に尋ねた。
「この中で最も美しい女神は誰ですか?」
 これは神話通りの展開であった。
「そ、それは・・・・・・」
 パリスは迷った。彼は女神達を見ながらあれこれ考えている。
 そこでヴィーナスが衣を脱ぎ捨てた。すると白い露な裸身が現われた。
「うっ・・・・・・」
 パリスはそれを見て思わず息を飲んだ。そして彼女の方へ歩み寄る。
 そして黄金の林檎を彼女に与えようとする。だがその時ふと公爵夫人に目を転じた。
 彼は公爵夫人の方へ歩み寄った。そして彼女の足下に跪き林檎を差し出した。
 それを見た女神達は公爵夫人に歩み寄り彼女を取り囲んだ。そしてそれぞれ彼女の美しさを褒め称えた。アマゾネスや女神達、そしてキューピット達が彼女の周りを踊りそして去って行った。後には黄金色の林檎を手にする公爵夫人がいた。
「素晴らしい、見事な劇だ」
 公爵は拍手をしながら僧院長に声をかけた。
「有り難うございます」
 僧院長は一礼してそれに応えた。満足気である。
 こうした劇は当時よく行なわれていた。音楽家や戯作家達もよく王侯達に自分の作品を捧げた。モーツァルトもそうした作品を残しているしハイドン等もそうである。これをおべっかと断ずるのは実にたやすいがその中にも名作が多くあるものなのである。十九世紀になってもロッシーニはシャルル十世の即位の折に『ランスへの旅』という作品を残している。これは彼らしい楽しい名作である。
「ところで奥様」
 拍手を役者達と共に浴びた僧院長は公爵夫人のところへ来た。
「あの貴婦人ですか?」
 マウリツィオの恋人のことである。見れば青いドレスを着た美しい夫人がいる。さる伯爵のご令嬢だ。
「違いますわ」
 公爵夫人はいささか不機嫌そうに言った。
「そうですか」
 僧院長はその言葉に首を傾げて言った。
「伯爵の」
 公爵夫人はそう言ってマウリツィオを右手に持つ絹の扇で指し示した。
「愛しい美しいお方は」
 そう言って隣にいるアドリアーナの方へ顔を向けた。
「マドモアゼル、ご存知ありませんか?」
 そう言ってあえて優雅に微笑んだ。その微笑には毒を含んでいる。
「私が!?」
 アドリアーナはその思いもよらう奇襲に戸惑った。
「そうですわ。話題のもう一方の主役です。宮廷ではとある女優ではないかと言われていますが」
「それってデュクロじゃなかったっけ」
 微笑みつつアドリアーナに語り掛ける公爵夫人の横で僧院長はボソリ、と言った。
「そうなのですか?私の聞いたところによりますとお相手は優美な淑女とか」
 そう言って微笑んだ。この微笑みには豹の牙を隠している。
「それは何処でお聞きしました?」
 公爵夫人は尋ねる。
「劇場仲間から。もっぱらの噂ですわよ」
 アドリアーナは返す。負けてはいない。
「夜の誰にも知られていない逢い引き」
 公爵夫人は暗にアドリアーナに彼女の恋人との密会を囁く様に言う。そこには甘い毒を含んでいる。
「月の下での秘密のお話」
 アドリアーナはそれに対しこの前の別荘での話を出した。爪が微かに見えた。
 二人の言葉の掛け合いは客人達も見ていた。
「何か変な掛け合いですこと」
 淑女達は首を傾げて話している。
「それは一体何のお遊びですか?劇か何かの台詞ですか?」
 僧院長も不思議に思い二人に尋ねる。
「恋人に捧げた小さな花束」
(それはあのすみれの花の・・・・・・)
 アドリアーナは心の中で言った。あの控え室でマウリツィオに与えたあのすみれの花だ。
(くっ・・・・・・・・・)
 公爵夫人はそれを出して勝ち誇っている。無論顔には出していない。その優美な仮面の下で笑っているのだ。それは女虎のような顔である。
 しかし女豹も負けてはいない。仮面の下で虎をキッと見据えた。
「失われた腕輪。あたふたと逃げる際に失くした」
(まさかあれを・・・・・・!)
 今度は虎が叫んだ。それを言われ瞳が燃え上がる。
 この遣り取りを客人達は不思議に思い見ている。
「中国の諺かしら」
「スペインの小説ではなくて?」
 両方共宮廷でもよく話題になるものである。外国に関する知識が教養のステータスシンボルの一つになるのはこの時のフランスの宮廷でも同じである。
「いいえ、違いますわ」
 アドリアーナはそれに対し言った。あえて優雅な、落ち着いた声で。
「フランスの実話なんですよ」
「我が国の!?」
「はい、その証拠にその腕輪がここに」
 彼女はそう言って左腕に入れていた腕輪を取り外し僧院長に手渡した。彼はそれを受け取ると淑女達に手渡した。彼女達はそれを手から手に渡して見る。公爵夫人はそれを横目で見ながら必死に怒りを抑えている。
「綺麗な腕輪ですわね」
「ええとても」
 淑女達は口々に言う。
「見事な細工ですね」
 公爵夫人が手に取った。そしてとぼけてそう言った。
 アドリアーナはその様子を横目で見ている。そして密かに勝ち誇った。
 だが公爵夫人も退かない。虎と豹は互いにまだ隙を窺い合っている。
 二人の間に火花が散る。そこへ公爵とマウリツィオがやって来た。別室で何やら話していたらしい。おそらく政治の話であろう。宴や舞台の裏でこうした話をするのは何時でも同じである。
「何のお話をされているのです?」
 公爵は自分の妻や淑女達が何やら話し込んでいる事に気付いた。
「腕輪の事で」
 淑女の一人が答えた。
「腕輪?どのような腕輪ですか?」
「これです」
 その時その腕輪を持っていた淑女が彼に手渡した。その時公爵夫人の顔が一瞬蒼くなった。
「これは私の妻のものですね。私が贈ったものだからよく覚えていますよ」
「奥様の!?」
 淑女達はそれに驚いた。
 アドリアーナは公爵夫人を見た。その瞳が剣の様に輝く。
 それは公爵夫人も同じである。激しい憎悪の炎が燃え盛っている。
「何か妙な話ね」
 淑女達がヒソヒソと話を始めた。その目は二人を見ている。
「ええ、見てあの二人」
 アドリアーナと公爵夫人を見る。
「何かあるわね、絶対に。さもないとあそこまで睨み合わないわよ」
「大変な事にならなければいいけど」
 淑女達の話も構わず二人は激しい炎を燃やしている。
「何かあるのかな、あの二人には」
 公爵は僧院長に尋ねた。彼は事情を知らない。知っていても自分も多くの女性と浮名を流してきているので言う事は出来ないであろうが。
「そ、それは・・・・・・」
 僧院長は察しがついたが口篭った。怖ろしくて言えないのだ。
 マウリツィオはわかっていたが黙っていた。この場を去ろうとも思ったがそれは卑怯と思い直しこの場に留まった。そして責任者の一人として二人の激しい炎を見た。
(これは消す事が出来ないな)
 彼はそれを見て思った。そしてこの炎はさらに燃え上がった。
「マダム、一つお願いがあるのですが」
 公爵夫人はわざとらしくアドリアーナに微笑んで言った。
「何でしょうか、奥様」
 彼女も平静を必死に取り繕いそれに答える。
「舞台の名調子をお聞きしたいのですが宜しいでしょうか?」
 周りが二人のことをヒソヒソと話しているのをようやく察したのだ。あえて彼女に話し掛けた。
「ええ、よろしいですわ」
 アドリアーナはそれを承諾した。側にいたミショネがそっと囁いた。
「慎重に選んで下さいね」
 彼にもこのただならぬ様子はわかっていた。アドリアーナを気遣ってそう囁いたのだ。
「はい」
 彼女はその囁きに頷いた。そして公爵夫人を見た。
「何を演じて下さるのですか?」
 公爵は尋ねた。
「アリアドネの台詞はどうでしょう?」
 アリアドネとはギリシア神話のクレタの王女だ。英雄テーセウスを助けながらも彼に棄てられる悲運の女性だ。それをあえて勧めたのだ。ここではコルネイユの書いた悲劇である。これはあからさまな攻撃であった。
「・・・・・・・・・!」 
 アドリアーナはその勧めに思わず絶句した。公爵夫人は彼女の紅潮した顔を見て微笑んだ。尚予断であるがこのアリアドネは悲しみに打ちひしがれているところを酒の神ディオニュソスに慰められ彼の恋人となる。
「私はあの劇はあまり好きじゃないな。別のものがいい」
 公爵はそこで口を挟んだ。アドリアーナはその言葉に胸を撫で下ろし公爵夫人は心の中で舌打ちした。
「そうだなあ、『フェドラ』がいい。あれの帰途のくだりが聞きたいな」
 ラシーヌの悲劇だ。これもギリシアの話をもとにしている。ある王の後妻フェドラが自分の義理の子を愛してしまう話である。そして彼女とその義理の子を中心とした政治や宗教までもが入り組んだ複雑な悲劇である。彼の言葉に対しアドリアーナは頭を垂れた。
「それでは『フェドラ』を」
 彼女は語りをはじめる準備をした。客人達は席に就いた。
「私達も座ろう」
 公爵は妻に言った。マウリツィオも僧院長も席に座った。
 場が引き締まる。アドリアーナの口が開いた。
「天は常に正しく我々を見ている。それなのに私は何という事をしてしまったのだろう」
 彼女は言った。それはまさしくラシーヌの悲劇からの台詞であった。
「もうすぐ帰って来る夫と息子。夫は私の淫らな恋の証を見るだろう、そして愛しいあの子の父の前で身を震わせ卑しく慄く私の胸は同時に虚しい溜息に充ちて波打つ。そして嘲りに私の目は涙に閉ざされるのだ」
 こう言ったところで公爵夫人を見る。彼女はアドリアーナをしかと見据えている。その隣にはマウリツィオがいる。これはおそらく政治的な話をする為だろう。しかしアドリアーナにとってそれはどうでもよかった。憎い女の横に彼がいる事が一層彼女の炎を燃え上がらせた。
 それは公爵夫人も同じである。この台詞が自分を指し示している事はよくわかっている。身体をワナワナと震わせながらアドリアーナを見据えている。
「英雄テセウスの行いを信じてくれるだろうか?誇り高く情けを知る彼なら私の事をあえて冒涜したりはしないだろう。そして彼なら父と夫である王を欺く私を許してくれるだろう。そして私の為に私の果てしない、心の底から湧き上がるこの恐怖を和らげてくれるのでないだろうか?」
 テセウス、と言ったところでマウリツィオを見る。
「彼は沈黙を守り私は自分の忌まわしい欺瞞の行為を知っている。しかし自分が何をするべきかは知らない。私は何をどうすればいいのだろう」
 公爵夫人は黙っている。心の中も黙っているが落ち着いてはいない。憤怒と憎悪で満たされているのだ。
「大胆で不純な心は裏切りに快感さえ覚えて。頑なに、決して恥を知ろうとはしない」
 そう言うと公爵夫人の方を見た。そして指を少し拡げた手を上から下に、ゆっくりと、あえて優雅に手を振った。そしてその手を腰の高さで止め暫くそのままの姿勢でいた。客人達は暫し沈黙していたがやがて起立し拍手を送った。公爵や僧院長、マウリツィオも同じであった。
 公爵夫人は暫く椅子に座っていた。アドリアーナの攻撃に唇を噛み顔を真っ赤にし身体を震わせていたが気を何とか鎮め立ち上がり拍手を送った。
「素晴らしい!」
 皆口々に賛辞を送った。アドリアーナはそのままの姿勢でそれを受ける。目は公爵夫人を見たままである。
 その目は笑っていた。目元が笑っていたのではない。瞳が笑っていたのである。
 公爵夫人はその瞳を見ていた。彼女の瞳は怒りで猛け狂っていた。
 拍手は長い間続いていたがようやく終わった。アドリアーナは姿勢を戻し客人達に一礼すると席に戻った。
 その横にはミショネがいる。彼はそっとアドリアーナに囁いた。
「大胆な事をしたね。また気が強い」
「あら、何の事ですか?」
 アドリアーナはとぼけて見せた。その顔は勝利で誇らしげに輝いていた。
 公爵夫人はまだ怒りで震えている。そしてようやく心の中で呟いた。
(この怒り、必ず晴らしてやるわ・・・・・・)
 そう呟くと隣にいるマウリツィオを見た。
(そして彼を必ず・・・・・・)
 彼に声を掛けた。
「伯爵」
 怒りを必死に覆い隠して彼に言った。
「はい」
 彼も公爵夫人の怒りは知っている。それをあえて知らないふりをして答えた。
「宴の後こちらに残って下さいますか。お話したい事がありまして」
「わかりました」
 彼はそれを承諾した。彼女の怒りを抑えなければならないのと政治的な理由からだ。やはり彼にとっては政治は常にその心を占めているものであった。
 アドリアーナはもうこれ以上ここにいる気はなかった。公爵の方へ行くと頭を垂れ申し出た。
「用件がありますのでこれで」
「私も」
 ミショネもそれに従った。公爵はそれを承諾すると彼女に腕を貸した。
 アドリアーナは客人達の挨拶を受けその場を去った。広間を出る時彼女はマウリツィオの方を振り向いた。
「・・・・・・・・・」
 彼と目が合った。彼は何も言わない。だがその心はわかった。
 彼女は寂しげな目をして前へ向き直った。そして広間を後にした。
 公爵夫人はそれを黙って見送っていた。その瞳は怒りに燃えた憎しみの眼差しであった。




す、凄まじい攻防だな…。
美姫 「本当に…」
いやはや、怖い怖い。
美姫 「それはそうと、これって、実在の人物がいるんですって?」
そうみたい。殆どの人物が実在していて、アドリアーナは本当に大女優だったんだって。
美姫 「へー、そうなんだ」
そうみたいだぞ。坂田さんが言ってたから。
美姫 「って事は、実際にこんなやり取りがあったのかもしれないわね」
……ブルブル。
美姫 「物語として傍観する分には楽しいけれど、当事者になるのはごめんだわね」
うんうん。
美姫 「と、それよりも、次回がどうなるのか楽しみよね」
ああ。一体、どんな展開が待っているのか。
次回も楽しみに待ってます。
美姫 「それじゃ〜ね〜」



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