第三幕 秘密の名


 カラフの名、それは誰も知らなかった。そのことに怖れをなしたトゥーランドットはすぐさま街におふれを出した。
『あの若者の名を知らせた者に報償を与える』
 その報償とは山の様な宝玉。誰もがそれを見て目の色を変えた。
 皆眠ることなく彼の名を探し求めた。だがそれでも尚誰も知らなかった。
「良いか、誰も寝てはならんぞ!」
 役人達の声が宮城にまで聞こえて来る。
「探し出した者には報償が待っておるぞ!」
 どの者も血眼になっている。そして彼の名を懸命に探し求めている。
「今夜は誰も寝てはならぬ、名を知るまでは!」
 そして夜の街は喧騒に包まれていた。
「私の名を探し求めているのか」
 カラフはそれを市内の庭園で聞いていた。本来は静かなこの庭園も今は騒ぎ声が聞こえて来る。
 夜の中に緑の木々と花々が月の光に照らし出されている。池には蓮の花の間にその黄色い月が浮かんでいる。
「誰も寝てはならぬ、そう今は誰も寝てはならない」
 カラフは空の月を見上げて言った。星達も輝いている。
「それは姫よ、貴女もそうなのだ」
 彼は月に対し語り掛けるようにして言った。
「貴女は今その冷たい氷に被われた様な部屋で一人怯えている。私の名を知ることが出来なかったならどうなることかと」
 言葉を続ける。
「貴女は知ることは決して出来ない。何故ならその名は私の心の中に固く閉じ込められているから」
 一瞬顔を伏せた。だが再び夜の空を見上げた。
「朝が来た時に私は言おう、貴女のその氷の様な心を溶かす為に。そして私の口づけは貴女のその心を完全に溶かすだろう」
「誰も謎を知ることは出来ないのでしょうか。私達はあの宝玉を手に入れることは出来ないのでしょうか」
 遠くから宝玉を欲する女達の声がする。
「宝玉など愛の前には如何程の価値があろうか」
 カラフは毅然として言った。
「さあ月よ、沈むがいい。星よ、消え去るのだ!朝よ私の下へ。私は勝利を収めるのだ!」
 その時遠くから男達の声が聞こえて来た。
「若者よ、勝利をその手に掴むのか。愛を手に入れよ!」
 カラフに心を寄せる者も多くいた。街は今宝玉を求める者と彼の勝利を願う者の両方がいた。
「おい、いい加減に他の者に迷惑をかけるのは止めよ」
 宦官三人組がカラフの前にやって来た。彼等は前者であるようだ。
「何がだ?」
 カラフは毅然とした態度で彼等に対して言った。
「どうしてそう揉め事ばかり起こすのじゃ」
 彼等は顔を顰めて言った。
「そうじゃ、人を困らせるのがお主の趣味か」
 彼等は口々にそう言った。
「生憎だが私にそんな趣味はない」
 カラフは態度を変えることなく彼等に対して言った。
「私はただ愛を勝ち取らんとしているだけだ」
「だからそれが迷惑なのじゃ」
「お主は周りが目に入らんのか」
「私は人の目など気にはしない。ただ姫の愛を手に入れんと欲するのみ」
 彼は強い口調で言った。
「だからそれが迷惑なのじゃと言っておろうが」
「幾ら頭の回転が早くとも人の話を聞かんのでは意味がないぞ」
「私は人の言葉など意に介さない。ただ己が信念を貫くのみ」
「どうやらお主は本当に愚か者のようだの」
 彼等はこれで何度目かわからないが心底呆れ果てた顔で彼に対し言った。
「まあそれもそうだろうがな。命をかけておるのだから」
「だがのう、わし等とて宝玉は欲しいのじゃ」
「宝玉!?そんなもの愛の前には何の価値もない」
 カラフは首を右に振って言った。
「お主にとってはのう。だが他の者にとっては違うのじゃ」
 彼等はカラフに対して言った。
「わし等は宝石が欲しい、この気持ちがわかるじゃろう」
「命のことなら問題ない。陛下が姫を抑えて下さる。だから、な」
「その名前をわし等に教えてくれるだけでよいのじゃ」
「いや、それは出来ない」
 カラフは相変わらずの態度で答えた。
「私は姫に勝負を挑んでいるのだ。謎解きで。その勝負を投げ出すことは出来ない」
「わし等がこんなに頼んでもか!?」
「そうだ」
「命を保証すると言ってもか!?」
「命など問題ではないのだ」
「それでは何が望みなのだ!?」
 それはカラフにとっては愚問であった。
「愛だけだ」
 一言で言った。
「私にとってはそれ以外のものは何の価値もないものだ」
「そうか・・・・・・」
 宦官達はそれを聞いてガックリと肩を落とした。
「もうよい。お主には聞かぬ」
「勝手にせい。そして愛なり何でも手に入れるがいい」
 そう言うとその場をあとにした。
「行ったか」
 カラフはそれを見送りながら言った。
「宝石など所詮は見せかけの宝。本当の宝は一つしかない」
 彼は月を見上げて言った。
「そしてそれはもうすぐ手に入る」
 そう言うとその場を後にしようとした。だがその時だった。
「いたぞ、あそこだ!」
 不意に民衆の声がした。
「また来たか」
 カラフは先程の宦官達と同じ輩だと思った。そしてそれは当たっていた。
「幾ら何を言われても私には無駄だというのに」
 民衆達がやって来た。そしてカラフを取り囲む。
「名を名乗れ!」
「私が勝利を収めた時にな」
 カラフは民衆達と対峙して言った。
「ふざけるな、今名乗れ!」
「そうだ、そして宝石は俺達のものだ!」
 見れば先程カラフの謎解きに喝采を送っていた者までいる。彼はそれを見て人の浅ましさを見る思いだった。
(だがこれも人の業の一つか)
 彼はそれを卑しいと思ったが口には出さなかった。自分がそうでないのならばそれでよかった。
「そんなに宝が好きか」
 カラフは彼等に対して言った。
「当たり前だ!」
 民衆は彼に対して叫んだ。
「そうか」
 彼はそれを聞き頷いた。
「ならば貴方達も愛を知ることだ。それこそが人にとって唯一つの宝だからだ」
 そう言い残すと庭園を後にした。
「クソッ、何という奴だ」
 民衆は彼を憎しみの目で見ながら言った。
「あくまでああやって我を通すつもりか」
 つい先程まで彼が謎を解くのを喜んでいた者達が今は彼を憎しみの目で見ている。最早彼等の目には山のような宝玉しか目に入らなくなってしまっていた。
「おい、もう丑三つ時だぞ。朝まで時間がない」
 その中の一人が月を見上げて言った。
「ああ、そうだな。だが月を元に戻すなんて神様でもない限り不可能だ」
 彼等はその月を忌々しげに見上げて言った。同じ月を見上げるのでもカラフのそれとは全く違っていた。
「諦めるか?」
「あの宝玉をか?馬鹿を言うな」
 そうであった。彼等は宝を諦めるつもりは毛頭なかった。
「ではどうする?」
「どうすると言われても・・・・・・」
 彼等は首を突き付け合って相談している。
「あの男の口を開くのは無理だぞ」
「そうだな、例え殺されようとも口を開かんだろう」
 彼等は顔を顰めて話し合った。
「待て、あの男にいつもついている二人がいたな」
 誰かがティムールとリューのことに気付いた。
「ああ、あの胡服を着た爺様と女の子か」
 そのうちの一人がそれに頷いて言った。
「そうだ、あの二人なら知ってるんじゃないか」
 彼等はその声にニンマリとした。
「そうだな、何もあの男に聞く必要はない」
 彼等は口々にそう言った。
「あの二人から聞き出せばそれでいい話だ」
 そして庭園を後にした。

「もう少しですね」
 庭園を去ったカラフは先程謎解きが行なわれた階段の前にいた。そしてそこで彼を応援する者達と共にいた。
「そうだな、もうすぐ月が沈む」
 彼は月を見上げて言った。
「そして姫はこの私のものとなるのだ」
「はい、そして姫様はその氷の様な心を溶かされるのです」
「貴方の熱い心によって」
 彼等は口々にカラフを褒め称える。彼等は宝玉よりもカラフの心を選んだのだ。
「姫よ、もうすぐだ」
 カラフは宮城に顔を向けて言った。
「貴女は私のものとなるのだ」
「そう上手くいくかな」
 ここで何者かの声がした。
「何っ!?」
 それは入口から聞こえてきた。カラフはそちらに顔を向けた。
 見れば先程庭園で彼を問い詰めた民衆達が皆手に得物を持っている。
「あんたの名前を今ここで知ることになるんだからな」
 見れば宦官達もいる。そしてそこには父と彼女もいた。
 ティムールとリューは身体を左右から押さえられていた。そして周囲にこずかれながらこちらに引き立てられて来る。
「貴様等、一体何のつもりだ!?」
 カラフはその顔を蒼白にさせて彼等に向かおうとする。彼を支持する者達もそれに従った。
「おっと、動くなよ」
 だが彼等は二人に得物を突き付けて彼に対し言った。
「少しでも動けばこの二人がどうなっても知らねえぞ」
「クッ・・・・・・」
 カラフはその卑しい笑みと言葉を聞いて歯噛みしたが動くことは出来なかった。やはり父とリューが心配であったからだ。
「さあ言え、あの男の名は何という」
 民衆は二人に対して問うた。
「止めろ、その二人は関係ない」
 カラフは彼等に対して言った。
「そんなわけないだろう」
 彼等はそんな彼を嘲笑して言った。
「そうだ、この二人があんたの名を知らない筈はないからな」
「クッ・・・・・・」
 その通りだった。父や側に仕える者がその名を知らないなど考えられないことなのだから。
「ほら言え、言ったら解放してやるぞ」
 彼等は二人に対して言った。
「誰がお主等なぞに・・・・・・」
 ティムールは彼等を蔑む目で見てそう言った。
「殿下、私達のことにはお構いなく」
 リューは弱々しい声でカラフに対し言った。
「しかし・・・・・・」
 そんな二人を見捨てられるカラフではなかった。彼は苦悩した面持ちで二人を見た。
「ほう、秘密を知っている者ですか」
 そこで上からあの氷の様な声が響いてきた。
「その声はっ!」
 一同その声がした階段の頂上を見上げた。
 そこに彼女はいた。トゥーランドットは侍女達を従え冷たい眼で皆を見下ろしていた。
「ははーーーーーっ!」
 民衆も宦官達もその場に畏まる。ただカラフだけが彼女を見据えていた。
「まさかこれ程簡単に謎を知ることが出来るとは思いもよりませんでした」
 トゥーランドットはそう言いながら階段をゆっくりと降りてきた。
「ですがこれも天の神々の思召。私に謎を解けという」
 そしてカラフ達の前に降りて来た。カラフはその白い顔を見た。
「無謀な若者よ」
 彼女はカラフに顔を向けて言った。
「今貴方の命が尽きる。覚悟はよろしいですね」
「・・・・・・・・・」
 カラフはトゥーランドットを見据えた。だが言葉を発することは出来なかった。
 死ぬのは怖れはしなかった。ただ愛を、勝利を手に入れることが出来ないことだけが心残りなのだ。
「その顔も今は蒼ざめている」
「・・・・・・・・・」
 カラフはやはり言葉を発せられない。負けたのか。いや、彼の意志はそれを許さなかった。
「いや、違う」
 カラフは口を開いた。
「私は貴女を必ず手にする」
 毅然として言い返した。
「この期に及んでまだそのようなことを」
 トゥーランドットはその整った唇に微かに冷笑を浮かべてそう言った。
「貴方の謎を私は今知ろうとしているというのに」
「それは出来ない。何故なら私の名は誰も知らないからだ」
 カラフはその冷笑に気圧されることなくそう言った。
「相変わらず気の強いこと」
 彼女はそれに対して再び冷笑した。
「だがその強気も何時まで続くことか」
 そう言うとティムールとリューに顔を向けた。
「貴方に聞かずともこの二人に聞けばいいだけだというのに」
「まさか・・・・・・」
 それを見てカラフと彼を支持する者達は顔を蒼ざめさせた。
「さあ、言いなさい。この若者の名を」
 トゥーランドットは二人を見据えて言った。まるで全てを圧する様な目であった。
「それは・・・・・・」
 リューはその目に気圧されそうになった。だが必死にそれに打ち勝とうとする。
「答えなさい」
 トゥーランドットはさらに言った。
「娘さん、言うんじゃない!」
 カラフを応援する市民達が彼女に対して言った。
「そうだ、あんたも辛いだろうがここは耐えてくれ!」
「お黙りなさい!」
 しかしそんな彼等をトゥーランドットが一喝した。その冷たい声と目を見て一同は沈黙してしまった。
「この世で私を意のままに出来るものはない。例えあの月でさえも」
 月は黄金色の光を放っている。彼女はそれを満足気に見た。
「答えなさい。知っているのか知らないのか」
 彼女は再びリューに対して問うた。
「知っています・・・・・・」
 リューは力ない声で答えた。
「よろしい」
 トゥーランドットはそれを聞くと口の両端を微かにほころばせた。
「けれど・・・・・・」
 リューは一瞬顔を右下に伏せた。そして再びトゥーランドットの顔を見上げた。
「しかしその名は決して言いません。それは私の胸の中に深く秘めておきます」
 懸命に振り絞る様に言った。
「まだそのようなことを」
 トゥーランドットはその細い整った眉を顰めた。
「ならばその身に聞くまで」
 右手をサッと上げた。それは肩のところで止まった。すると兵士達が動いた。
「止めろ、罪の無い者に何をする!」
 カラフはリューの前に出て彼女を守ろうとする。しかしそれは叶わなかった。
「捕らえなさい」
 トゥーランドットは兵士達に対して言った。彼等はすぐにカラフを捕らえた。
「くっ、離せ!」
「殿下!」
 カラフはそれを必死に振り解こうとする。リューは彼のそんな姿を見て思わず叫んだ。
「さあ言うのです」
 リューは兵士達に押さえられた。そしてトゥーランドットに詰問される。
「言いません!」
 リューは叫んだ。
「やりなさい」
 トゥーランドットは兵士達に対して言った。羽交い絞めにしている兵士が彼女の腕をねじ上げた。
「ああっ!」
 リューは悲鳴を上げた。
「止めろ、そんなことをして何になる!」
 カラフは捕らえられながらもまだ言った。
「そうじゃ、やるならこの老いぼれをやるがいい!」
 ティムールが叫んだ。だがトゥーランドットの詰問は続いた。
「言いなさい」
 彼女の冷たい詰問は続いた。
「言えば貴女は解放されるのですよ」
 他の者は何も言えなかった。皆トゥーランドットに気圧され沈黙してしまっていたのだ。
「もう耐えられない・・・・・・」
 リューは額から汗を流しながら言った。
「終わりのようですね」
 トゥーランドットはそれを聞いて氷の様に冷たい微笑を浮かべた。
「いえ、絶対に言うことなど!」
「やりなさい」
 再びリューの腕が締め上げられた。
「ああっ!」
「それにしても何故これ程までに耐えるのか。一体何がこの娘を支えているのか」
 トゥーランドットは不思議そうにリューを見て言った。
「姫様、貴女にはおわかりにならないでしょう」
 リューはトゥーランドットを見据えて言った。
「それは人を想う気持ちなのです」
「何っ、リュー・・・・・・」
 カラフはこの時はじめて彼女の気持ちに気付いた。
「人を想う気持ち・・・・・・」
 トゥーランドットはその言葉を呟いた。
「そうです。そしてその強さもおわかりにならないでしょう」
 リューは彼女を見据えたまま言う。
「私の気持ちはただ一つ、その為に今まで生きてきました。ですがそれもここまで。私はこの想いを姫様、貴女にお譲り致します」
「・・・・・・・・・」
 トゥーランドットはそれを黙して聞いていた。
「殿下、お幸せに」
 兵士達の手が緩んでいた。リューはそれを振り解いた。
「あっ!」
 そしてそのうちの一人から刀を奪い取るとそれで自らの胸を突き刺した。
「リュー!」
 カラフはそれを見て思わず叫んだ。
「何ということを!」
 それを見た民衆も宦官達も口々に叫んだ。
「姫様、その氷の様に凍てついた心も殿下の想いの前には無力です。すぐに溶けその下から真の心が出て来るでしょう。それを怖れずに。そして貴女が真の幸福にお目覚めになることを祈ります」
「リュー、もういい。それ以上は言うな」
 カラフはリューに対して言った。
「殿下・・・・・・」
 リューはカラフを見て微笑んだ。その口から血が流れ出た。
「お別れの時が来ました。ずっとお側にいたかったのですがそれは叶えられなくなりました。けれど・・・・・・」
「けれど・・・・・・」
 カラフは彼女から目を離さなかった。
「私のことをずっと忘れずにいて下さい。それだけで私は満足です」
「誰がそなたを忘れられようか。私は何時までもそなたのその心を己がうちに留めておく」
「その一言だけで私は満足です・・・・・・」
 そう言うとその場に倒れ伏した。
「夜が明けようとしていますね」
 見れば空が次第に白くなりだしている。
「私も消えるとしましょう。夜明けの星と一緒に」
 そう言うとゆっくりと目を閉じだした。
「殿下、末永くお幸せに・・・・・・」
 そしてリューは息絶えた。
「リュー・・・・・・」
 兵士達はカラフから手を離していた。彼はリューの遺体に歩み寄り抱き締めた。
「折角朝が来ようとしているのに・・・・・・」
 ティムールも彼女の亡骸を抱いて泣いた。
「今までご苦労だった。もうそなたを苦しめる者はいない。だから・・・・・・」
 彼はリューに語りかけるようにして言った。
「よくお休み。そして生まれ変わり再び会おうぞ」
 民衆が彼等の周りを取り囲んだ。カラフを支持していた者達だけではない。つい先程まで宝玉に目が眩んでいた者達も宦官達も、そして彼女を責め苛んでいた兵士達もその中にいた。
「気の毒な娘・・・・・・」
 リューを見て誰かが言った。
「せめてあの世では幸せにな」
 彼等は自分達の先程までの姿がたまらなく卑しく思えた。そして良心の呵責に攻められた。
「葬ってやろう」
 宦官達が言った。
「そうだな。手厚くな」
 そう言うとリューの遺体を持った。そしてティムールと共にその場を後にした。
「リュー、あの世ではせめて幸せに」
 哀しい声が木霊していた。
「リュー、済まない」
 後にはカラフとトゥーランドットだけが残った。彼はリューの遺体が運ばれていくのを見送りながら言った。
「もっと早くそなたの気持ちに気付いていれば・・・・・・」
 彼もまた悔悟していた。自身の愚かさがリューを死なせてしまったと感じていた。
「だがそなたのことは忘れぬ。そしてそなたの想い、この身に受けよう」
 そう言うとトゥーランドットと向かい合った。
「姫よ」
 彼はトゥーランドットに対し声をかけた。
「リューに誓った。私は貴女の心を溶かしてみせる」
「何を戯言を」
 彼女はカラフを睨み付けて言った。
「私はあのロウリン姫の生まれ変わり。私を穢すことは誰にも出来ない」
「違う、私は貴女を穢すのではない」
 カラフは反論した。
「私は貴女のその氷の様な心を溶かす太陽なのだ。そして」
 カラフは言葉を続けた。
「貴女はロウリン姫ではない。貴女は貴女、それ以外の何者でもない」
「いえ、それは違うわ」
 彼女はそれでも尚カラフを睨んで言った。
「私のこの心は誰にも支配されない。何故なら私は永遠に清いままなのだから」
「そう、貴女の心は永遠に清らかなままだろう」
 カラフはそれに対して言った。
「だが愛を知らないだけだ」
「愛。口を開けばその言葉ばかり」
 彼女はうんざりしたように言った。
「そんなものがこの世にある筈がないというのに」
「それは違います。あるのです」
「では何処に!?」
「私のこの胸に」
 カラフは一歩前に出て言った。
「では見せて御覧なさい」
 トゥーランドットは言った。
「よろしいのですか?」
 カラフは身構えるようにして問うた。
「ええ。貴方のその胸の中にあるもの、それが真のものならば」
 嘲笑するように言った。そんなものがある筈がないと確信していたからだ。
「ならば」
 カラフは歩み寄った。そしてトゥーランドットを抱き寄せた。
「無礼者、何をするのですか!」
 彼女はそれに対して叫んだ。
「貴女は仰いました。私の胸の中にあるこの熱いものを見たいと」
 カラフはトゥーランドットの顔を覗き込んで言った。
「それが何故!」
 彼女は彼を睨み返して叫んだ。
「これがその熱いものなのです!」
 そう言うと彼女の唇に自分の唇を重ね合わせた。
「あ・・・・・・!」
 トゥーランドットは叫んだ。だがそれはすぐに掻き消された。
 それは一瞬であった。カラフはトゥーランドットから唇を離した。
「ああ・・・・・・」
 彼女は強張っていた。カラフの唇が離れてもまだ震えていた。
「これは一体・・・・・・」
 トゥーランドットはようやく言葉を発した。
「姫よ、これこそが我が胸にあったものです」
 カラフは彼女を見据えて言った。
「これこそが愛、それが今貴女の氷の様な心を溶かしましょう」
「そんなことが・・・・・・」
 トゥーランドットはまだ震えている。そして必死にそれにあがらおうとする。
「あがらおうとしても無駄なこと」
 カラフはそれを見て言った。
「何故ならこれは貴女が怖れ、待ち望んでいたことなのだから」
「戯れ言を・・・・・・」
 だがそれが戯れ言であると否定は出来なかった。
「戯れ言ではありません。それは貴女が最もよくお解りの筈です」
「ああ・・・・・・」
 カラフはトゥーランドットの側にいた。そして彼女を見守っている。
「さあ、今こそご自身の心を開かれるのです」
「いえ、私の心は既に・・・・・・」
 反論しようとする。だが出来なかった。
「そう、既に溶けようとしているのです」
 カラフは言った。その通りであった。
「そんな、私の心が溶けるなどと・・・・・・」
 空は次第に白くなっていく。それはまるで彼女の今の心を表すかのようであった。
「闇が晴れました」
 カラフはその空を見上げて言った。
「遂に朝となったぞ!」
 そこでそれまでカラフの名を探し求め今はリューを弔っている者達もカラフを支持していた者達も思わず声をあげた。
「あの若者が勝利を収めたのだ!」
「そう、私は勝った」
 カラフはそれを聞いて呟く様に言った。
「そんな・・・・・・」
 それを聞いたトゥーランドットは絶望しきった顔になった。
「そう、月も星も消え去った。夜の帳は最早空にはない」
 カラフはトゥーランドットに話しかけるようにして言った。
「私はもう終わりなのね・・・・・・」
 彼女はそう言うとその場に両手をついてうなだれた。
「姫よ、それは違います」
 カラフは彼女に言った。
「そんな慰めなど・・・・・・」
 彼女は首を横に振って言った。
「今の私はただの弱い女・・・・・・」
「人は皆弱いものなのです」
 カラフはそれに対して言った。
「ですがその弱さを知り克服出来るのも人間なのです。愛によって」
「愛で・・・・・・」
「そう。人は愛により結ばれ互いを助け合います。そして弱さを克服するのです」
「そんなことが出来るのでしょうか・・・・・・」
 トゥーランドットは顔を上げた。そして弱々しい声でカラフに対して言った。
「出来ます。貴女は愛を知るべき人なのです」
「私が・・・・・・」
「そう、先程私は貴女は終わってはいないと言いました。何故なら今から始まるのですから」
「何が・・・・・・」
「愛に包まれた世界がです!」
 カラフは叫ぶ様にい力強い声で言った。
「貴女のその閉じられた心は開かれようとしております。そして今私は貴女のその愛を手に入れようとしているのです!」
「私の愛を・・・・・・」
「そうです。私は貴女を愛する。そして貴女も私を愛するのです」
「そのようなことが出来るでしょうか」
「出来ます。ならば私の秘めた謎を今貴女にお教えしましょう」
「それはなりません」
 トゥーランドットはゆっくりと立ち上がりながら言った。
「貴方は勝利を収めたのです。今秘密を明かしてもそれは命を無駄に捨てるだけのことです。それに最早時は過ぎました」
「時はまだ過ぎてはおりません。日が昇るその時までは朝が来たとは言えません」
 カラフは言った。
「愛する者に対し隠し事があってはなりません。今貴女に私の名を教えましょう」
 トゥーランドットはその言葉に固唾を飲んだ。
「私の名はカラフ、韃靼の王子カラフです」
「カラフ・・・・・・」
 トゥーランドットはその名を口ずさんだ。
「そうです。この名をお教えした意味がおわかりでしょう」
 カラフはトゥーランドットを見て言った。
「私の命は今貴女に預けられたのです」
「私に・・・・・・」
「そう。愛する者に私は命をも預けましょう。そしてその為に例え命を落としても惜しくはありません」
「それが愛なのでしょうか・・・・・・」
 トゥーランドットは問うた。
「その通りです」
 カラフは力強い声で言った。
「たった今より私の命は貴女に差し上げます。私を愛するのも殺すのも貴女次第です」
「私次第・・・・・・」
「そうです。私は愛により生き愛により死にます。それが私の運命です」
「・・・・・・・・・」
 トゥーランドットはそれを聞き沈黙してしまった。
「では私はこれで。リューのところに行きます故」
 彼はそう言うとその場を立ち去ろうとした。
「今日の夜に私は貴女のところへ参ります」
 そこで踵を返して言った。
「その時こそ私は貴女に全てを預けましょう」
 そう言うとその場を立ち去った。
「私に全てを・・・・・・」
 トゥーランドットはそれを聞き一人呟いた。
「それが愛・・・・・・」
 彼女の心は今大きく揺らいでいた。そしてそれは散り散りに乱れていった。

 その心は散り散りになったまま夜を迎えた。皇帝は再びあの玉座に着き民衆は階段の下に集まっていた。
「果たして姫様は謎をお知りになられたのだろうか」
「おい、朝になっただろうが」
 皆口々に囁いている。
 宦官達の顔は暗い。彼等は自分達の浅ましい欲望の為にリューを死なせてしまったと後悔しているのだ。
「わし等に愛など見る資格もない・・・・・・」
 彼等は皇帝の側でうなだれていた。
 カラフは階段のすぐ下にいた。その側にはティムールがいる。
「リューがこの場所におれば」
 ティムールは悲嘆にくれた顔でそう呟いた。
「・・・・・・・・・」
 カラフは一言も発しない。ただ階段の上を見上げている。
 彼とてリューのことを気にかけていないわけではない。否、他の誰よりもその死を悲しんでいた。
(私は愚かだった)
 彼は心の中で自分を責めた。
(そなたの気持ちに気付いていれば・・・・・・)
 彼女を受け入れられただろうに。だがもう彼女はいない。そして彼はただ一つの冷たい氷の花を見ていた。
(その花がまもなくここに現われる)
 カラフは階段の上から目を離さない。まるで雲をつくように高く思われた。
 やがて音楽が鳴った。トゥーランドットがそこに姿を現わしたのである。そして皇帝の側にやって来た。
「お父様」
 彼女は父である皇帝に対して言葉をかけた。その表情はいつもとは少し異なって見える。
「あの若者の名がわかりました」
 それを聞いたティムールと民衆の顔が蒼ざめる。上にいる大臣や役人達もだ。
「その名は・・・・・・」
 トゥーランドットはゆっくりと話しはじめた。皆次の言葉が発せられるのを絶望した顔で聞いていた。
 だがカラフだけは別だった。自信に満ちた顔で姫を見上げていた。
「我が愛!さあ愛よ、我がもとへ!」
 彼女は右手をカラフに向けて言った。今までになく力強く明るい声であった。
 カラフは階段を駆け登って行った。そしてトゥーランドットを激しく抱き締める。
 トゥーランドットも彼を強く抱き締めた。それを見た民衆は叫び声をあげた。
「姫様の心が遂に温もりを覚えられた!」
 そして誰かが花を撒いた。
「祝え、祝おう。姫様が愛をお知りになったこの時を!」
 彼等もまたトゥーランドットを愛していたのだ。彼等にとって彼女は美しいだけでなく公平で優れた君主であったからだ。
「愛こそこの世を永遠に輝かせる光だ、この世を照らす光を皆で称えるのだ!」
 皇帝は玉座から立ち上がり叫んだ。そして役人達がそれに続く。
「皆でこの光を称えよ、愛よ、永遠にこの世に止まるのだ!」
 空からリューが降りて来た。彼女は天女の服を着ていた。
「リュー・・・・・・」
 カラフは彼女の姿を見て思わず呟いた。
 彼女はカラフの前に来ると跪いて微笑んだ。そしてカラフとトゥーランドットの頭上に花びらを撒いた。
 それは桃の花であった。天界に永遠に咲くと言われる桃源郷より生まれた桃の花であった。
「祝福してくれるのか、私達を・・・・・・」
 彼女は一言も答えない。だが二人の姿を見て微笑むだけであった。
 そして天界へ去って行った。後には桃の香りが残っていた。
 その香りはその場を包んだ。花が天から舞い降りて来る。それはまるで二人の幸福を彼女が祝福するようであった。



トゥーランドット   完


                                    2004・4・8



むむむ。こういう結末か。
美姫 「一応、姫様の心も溶けたし、ハッピーエンドよね」
でも、リューが少し可哀想だな。
美姫 「愛を知った姫様は、これからどうなるのかしらね」
それはまた、別のお話〜ってか。
美姫 「坂田さん、面白いお話をありがとうございました〜」
ございました。
美姫 「それじゃあ、この辺で」
ではでは。



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