『トロヴァトーレ』




第一幕 決闘


 十五世紀はじめのスペインでの話である。この時代のスペインは大きく分けて三つの国で構成されていた。
 まずは東のアラゴンと西のカスティリア。そして南には後ウマイア朝の流れを汲むイスラム教徒達の国があった。宗教的にはキリスト教とイスラム教に別れていたのである。
 そうした状況にあっては抗争が頻発するのも当然であった。宗教的なものや国家同士の争いだけでなくそれぞれの国の中においても戦いはあった。所謂内戦である。
 アラゴンにおいてもそれは同じであった。当時この国は王位継承を巡って熾烈な争いが続いていた。皇太子とそれに対抗する大貴族のアラゴン全土を巻き込んだ戦いとなっており、その中でもビスカヤでの戦いはとりわけ激しいものとなっていた。
 この地域は皇太子派の重鎮であるルーナ伯爵が治めていた。若いながら英気と才知に溢れた男であり皇太子からの信任も篤かった。能力だけでなく部下や領民に対しても温厚であった。しかし彼は敵に対しては容赦のない男であった。その為ここにいる皇太子の政敵ウルヘル伯爵の一派からは蛇蝎の様に嫌われていた。
 そんな彼の宮殿はアリアフェリアにあった。かってイスラム教徒達により建てられたこの宮殿は皇太子により彼に渡されたものであり、イスラムの名残もある美しい宮殿であった。代々王が戴冠式を執り行うこの宮殿を任されたことが彼の信任の篤さを教えていた。
 今彼はこの宮殿にて休んでいた。その間彼の兵士達は夜の警護についていた。
「おうい」
 低い男の声が闇の中に響いた。
「居眠りなどしてはおらんな」
「あ、フェルランド様」
 兵士達はその男に顔を向けた。見れば濃い髭を生やした初老の男だ。鎧は兵士達のそれより質がよく、マントも羽織っている。どうやらそれなりの身分にある者らしい。
「皆起きております」
「それは何より」
 彼はそれを聞いて満足そうに頷いた。
「だが起きているだけでは駄目だぞ」
「それはもう」
 兵士達は答えた。
「皆辺りに警戒を怠ってはおりません」
「よしよし」
 それを聞いてさらに満足そうに頷いた。
「伯爵は今日は眠られぬからな」
「どうしてでしょうか」
「この宮殿に敵が迫っているのですか?」
「それもある」
 フェルランドはそれに答えた。
「だが他にも理由がある」
「それは」
「伯爵は今恋をされておられるのだ」
「恋」
「そうだ」
 彼はそれに答えて頷いた。
「一人の美しい御婦人に恋をされておられる。だが」
「だが?」
「それには障壁がある。一人の恋敵がいるのだ」
「それが伯爵の敵」
「うむ」
 フェルランドは頷いた。
「一人の吟遊詩人だ。だがただの詩人ではない」
「騎士でもある」
「そうだ。だからこそ気をつけなければならないのだ。伯爵の御身に何かあれば一大事だ」
「はい」
「だからこそ気をしっかりとな。眠ってはいかんぞ」
「ですが夜は深いです。そして長い」
「眠いか」
「申し訳ありません」
 彼はすまなそうにそう答えた。
「だが眠るわけにはいかんぞ」
「しかし」
「わかった。仕方のない奴等だ」
 フェルランドはそう言って苦笑した。
「ではあの話をしようか」
「あの話」
 それを聞いた兵士達が顔を上げた。
「あの話ですか」
「うむ」
 フェルランドはそれに応えた。
「ガルシア様のお話をな。伯爵様の御実弟の」
「是非お願いします」
 皆せがんだ。フェルランドはそれを見て満足そうに頷いた。
「わかった。では集まってくれ」
「はい」
 彼等はそれに応えてフェルランドの周りに集まってきた。そして耳を傾けた。
「皆いるな」
「ええ」
 一人が辺りを見回して答えた。
「ではお願いします」
「わかった。でははじめるぞ」
 彼は口を開いた。そして話はじめた。
「先代の伯爵様には二人の御子がおられた。その御子達に囲まれ幸せに暮らしておられた」
「よい時代でした」
 年老いた兵士がそれを聞いて呟いた。
「ああ、いい時代だったな。忠実な乳母が御子達を育てていて。あの時もそうだった。揺り篭に添い寝していた。あれは夜明けが訪れた頃だっただろうか」
「何が起こったのですか!?」
 若い兵士が彼に問うた。
「まあ聞け。焦らずにな」
「は、はい」
 フェルランドがそう言って彼を嗜めた。
「話を続けよう。乳母が目を醒ますとその傍らにあの女がいたのだ」
「あの女!?」
「そうだ。一人の卑しいジプシーの女だ。年老いた無気味な女だった。魔女の邪な眼で若君を見ていたのだ。呪いをかけようとしていたのだ」
「何と」
「乳母はその女を見て思わず叫んだ。衛兵達がそこに駆けつけその女を追い出した。それでその話は終わる筈だった」
「魔女を生かしていたのですか」
「そうだ。伯爵様の温情だった。しかしそれが過ちだった」
「過ちだったのですか」
「うむ。聞くところによると星占いをしたかったそうだったからな。怪しかったがその場はそれで見逃した。だがそれはあの魔女の嘘だったのだ」
 フェルランドの顔が嫌悪に歪んだ。
「若君は次第に顔が蒼ざめられた。痩せ衰え、力がなくなっていったのだ。昼も夜も何かに怯えて泣かれていた」
「まさかそれは」
「魔女の妖術だったのだ。それを知った伯爵様は激怒された。そしてあの魔女を捜し求め遂に捕らえられた。その魔女は火炙りとなった」
「当然ですな」
「しかし魔女は一人ではなかったのだ。娘が一人いたのだ」
「何と」
「この娘はおぞましい行動に出た。何と若君を盗んだのだ」
 それを聞く年老いた兵士達の顔に絶望が覆った。若い兵士達は驚いていた。
「そしてどうなりました!?」
 彼等は問わずにはいられなかった。
「すぐに若君の行方が捜された。そして見つかった」
「よかった」
 若い兵士達はそれを聞いて安堵した。だがフェルランドと年老いた兵士達が彼等に問うた。
「本当にそう思うか!?」
「えっ!?」
「若君はあの魔女が焼かれたその場で見つかったのだぞ。焼け落ちた骨となってな」
「そんな・・・・・・」
「何と恐ろしい・・・・・・」
 若い兵士達はそれを聞いて驚愕した。
「とんでもない女だ。何という悪人か」
「それを聞いた伯爵様の絶望は如何程のものだったか。それからは絶望の中に生きられた」
「おいたわしや」
「だが伯爵様は主に告げられた。ガリシア様は死んではいないと」
「本当ですか!?」
「うむ。そして死の床で我等の主君である今の伯爵様に仰られたのだ。生きているなら必ず探し出せ、とな」
「そうだったのですか」
「だが今も見つかってはおらん。何処かで幸せに生きておられればよいが」
「はあ」
「そして女はどうなりました?」
 一人の若い兵士が質問した。
「あの魔女の娘か」
「はい。捕らえられたのでしょうか」
「そう聞いたことがある。だがな」
「はい」
「まだこの世に留まっているとも言われている」
「それはまことですか!?」
「あくまでそう言われているだけだがな。魔女は暗闇の中様々な禍々しい存在に姿を変えると言われているな」
「はい」
 それを聞いて顔を青くしない者はいなかった。篝火の中にその顔が映し出される。
「ヤツガシラやタゲリに化けるという」
 フェルランドは語った。
「カラスやフクロウ、ミミズクにもな。夜が訪れると共に闇の中を徘徊し、夜明けと共に去ると言われている」
「何と恐ろしい」
「その眼は邪悪な光で爛々と輝いていると言われている。従者の一人がその眼に見られて死んだという。その母親を殴った者がだ」
「ではまさか」
「フクロウに化けた女にな。真夜中にその黄色く光る邪な眼を見たらしい」
「何ということだ」
「恐ろしい女だ」
 彼等は口々に恐怖の言葉を述べた。
「これで話は終わりだ。これで目が醒めたか」
「待って下さい」
 ここで若い兵士の一人がフェルランドに尋ねた。
「何だ」
「その女の名は何といいますか」
「名前か」
「はい。知っておきたいのですが」
「うむ。それはな」
「はい」
 皆耳をすます。ゴクリ、と喉を鳴らした。
「アズチェーナという」
「アズチェーナ」
「そうだ。よく覚えておくがいい。この禍々しい名を」
「はい」
 彼等は頷いた。それを見届けるとフェルランドは席を立った。
「ではこれでいいな。警護を再開しよう」
「はい」
 彼等はそれぞれの持ち場に戻った。その頃宮殿に庭に二つの影があった。それはいずれも女のものであった。
「姫様」
 そのうちの一人がもう一方の女の影に声をかける。
「王妃様が御呼びですよ」
 黒い髪をした小柄な女性であった。まだ若く初々しい顔立ちをしている。
「わかっております」
 声をかけられたもう一人の女が答える。高く澄んだ声で。
 茶色く長い髪に青い湖の様な瞳を持つ美しい女性であった。その顔立ちはまるで絵画の様に整っており、気品が漂っている。背は高くスラリとしている。その容姿が白く綺麗な服によく合っている。
「それでは早く戻って下さいまし」
「けれど」
 だがその貴婦人は戸惑っていた。
「あの方が来られないから」
「あの方とは」
「イネス、貴女は知らないのね」
 貴婦人は悲しそうな顔でそう答えた。
「あの方を。この前の馬上試合でのあの方を」
「何方でしょうか」
「知らないのね。あの黒い装束の方を。紋章のない黒い楯を持っておられたあの方を」
「申し訳ありませんが」
「あの方が優勝されて私が花の冠を授けたのよ。それっきり御会いしていないけれど」
「それなら」
「話は最後まで聞いて」
 彼女は強い声でイネスに語った。
「この戦いで。もう長いことになるわね」
「はい」
 この内乱がはじまってもう長い年月が経っていた。
「ある夜のことだったわ。静かで銀色の月が輝いているあの夜」
「はい」
「その夜に聴こえてきたあのリュートの音色。一人のトロヴァトーレが奏でたあの音色」
「それがどうしたのでしょうか」
「話はよく聞いて。そのトロヴァトーレは歌いながら私の名を呼んだのよ。レオノーラと」
「まあ」 
 それを聞いたイネスは思わず声をあげた。
「その歌が聴こえた露台に行くとおられたの。あの黒い服を着られていて。そのお姿はまるで夢の世界のようでしたわ」
「私はそうは思いません」
 だがイネスはそれには首を横に振った。
「何だか不安になります」
「どうして?」
 それを聞いたレオノーラは怪訝そうに尋ねた。
「何となくです。何やら不吉な予感が」
「そうなの。どうしてかしら」
 イネスは確かに不吉なものを感じていた。
「その方のことはお忘れになられた方がよろしいのでは?」
「何を言ってるの」
 レオノーラは眉を顰めた。
「それがお嬢様の為だと思います」
「貴女は何もわかっていないわ」
 レオノーラはそう反論した。
「だからそんなことを言うのよ」
「そうでしょうか」
「そうよ。私にはあの方を忘れることなぞできはしない」
「そうなのですか」
「そうよ。それが私の運命なのだから」
 彼女は半ば酔っていた。
「あの方を思い生涯添い遂げることが」
 それは恋に酔っていたのである。
「後悔なさいませんね」
「ええ」
「決して」
「勿論よ。何を言っているの」
「いえ。それならばいいです」
 イネスは何かを諦めたように答えた。
「私は全てをあの方に捧げるわ。この命でさえも」
「そうですか。それでは」
 イネスはそれを聞いて観念した。
「もう私からは何も言う事はありませんわ。それについては」
「そうなの」
「けれど今はおいで下さい。王妃様が御呼びですので」
「わかったわ」
 イネスに促されレオノーラは庭を後にした。暫くしてそこに白い服とマントに身を包んだ長身の男が姿を現わした。
「静かな夜だ」
 男は低い声でそう呟いた。
「王妃はもう休まれたか。だがあの娘はまだ起きているだろう」
 黒い髪と瞳がよく似合う端整な顔立ちをしている。彫が深く、男性的な勇ましさが顔に出ている。そして顎鬚も黒くその男らしさをさらに際立たせている。身体つきも筋肉質で整っている。
 彼の名をルーナという。皇太子派の重鎮であり、今自身の居城でもあるこの宮殿に王妃を迎えている。そのことからもわかるようにその王妃や皇太子からの信任はかなり篤いものであった。切れ者としても知られている。
「レオノーラ、貴女はきっと起きている筈だ。私は貴女を想ってやまない。この想い、これを贈りたい」 
 彼もまた恋に燃えていた。そして階段の方に足をかける。そこであるものを聴いた。
「むっ」
 それはリュートの音色であった。
「これはまさか」
 それを聴いた伯爵の足が止まった。
「近付いて来る。これはまさか」
「その通りだ」
 やがて目の前に一人の黒づくめの男が姿を現わしてきた。
 黒い服とマントに身を包んでいる。その長身はまるで鞭の様にしなやかだ。 
 まるでギリシア彫刻の様に端整な顔であった。黒い髪を後ろになでつけ、髭はない。目は黒く輝いている。そして何故か左半分が微かに歪んでいるような感じがした。端整ながらそれが極めて不思議であった。
「ルーナ伯爵だったな、確か」
「貴様は」
 伯爵は彼を見上げながらその名を問うた。
「マンリーコという。この名は知っているな」
「知らぬ筈がなかろう」
 伯爵はそう言い返した。
「ウルヘルに与する謀反人が」
「謀反人か」
 だがマンリーコはそれを鼻で笑った。
「面白い。では貴様も同じだ」
「どういうことだ」
「貴様が負ければ貴様自身が謀反人となる。違うわ」
「言うか」
 伯爵はその言葉に憤った。
「何度でも言おう。貴様こそが謀反人だとな」
 マンリーコも負けてはいなかった。そこに誰かがやって来た。
「むっ」
 二人はそちらに顔を向けた。見ればレオノーラであった。
「吟遊詩人様ですね」
 彼女は何故か伯爵の方にやって来た。
「レオノーラです。お慕い申しておりました」
「何っ」
 それを聞いた伯爵が驚きの声をあげた。
「私は決めました。この命の全てを貴方に捧げようと」
「何と言うことだ」
 伯爵の顔が紅潮していく。それは暗闇の中からもよくわかった。
「私ではなかったのか」
「その声は」
 レオノーラはそれを聞いてハッとした。
「貴方はまさか伯爵」
「そうだ」
 彼は憮然として答えた。
「これは一体どういうことなのだ」
 マンリーコが下に降りて来た。
「レオノーラ、貴女は何をしておられるのだ」
 そしてレオノーラの前に姿を現わした。
「私がマンリーコだが」
 名乗った。それを聞いたレオノーラの顔が輝いた。
「マンリーコ・・・・・・。はじめて聞く御名」
「まさか貴女は私を」
「はい・・・・・・」
 レオノーラはコクリ、と頷いた。
「それが私の望みであります」
「そうだったのか」
 マンリーコもそれを聞いて頷いた。
「それは私もだ。何という喜びであろうか」
「はい」
「最早これ以上の望みはない。想い人がこの手の中に入るのだから」
「それは私もです」 
 二人はうっとりと見つめ合っていた。だが伯爵はそれを見てその身体をワナワナと震わせていた。
「待て」
 彼はマンリーコに怒りに満ちた言葉をかけた。
「謀反人でありながら大胆にも王妃様のおわすこの宮殿に入るだけでも許せぬというのに。まだ居座るつもりか」
「そうだと言ったら」
 マンリーコも伯爵を見据えた。
「私は常に死神の鎌の下にいる。この黒装束はその証」
「それは私もだ」
 伯爵も言い返した。
「この白の服は我が主君への偽りなき心の証。それを脅かす者は誰であろうと許しはせぬ」
「嫉妬ではないのだな」
 ここで伯爵を挑発した。
「まだ言うか、この下郎」
 伯爵はさらに激昂した。
「何度でも言おう」
 マンリーコは彼を見据えた。
「嫉妬しているとな、卿が」
「面白いことを言う」
 伯爵は酷薄な笑みを浮かべた。
「それでは私も貴様に言おう」
「言ってみるがいい」
「貴様に死を与えるとな」
「ほう」
 マンリーコはそれを聞いて頬を吊り上げた。
「ではどうするつもりだ。衛兵でも呼ぶつもりか」
「そのようなことはせぬ」
「ではどうするつもりだ」
「これだ」
 伯爵は剣を抜いた。
「これで貴様の首を落としてくれよう」
「望むところだ」
 マンリーコも剣を抜いた。
「では行こう、決闘だ」
「うむ」
 マンリーコも伯爵も互いを見据えて頷き合った。レオノーラはそれを見て顔を青くさせていた。
「私はどうすれば」
「レオノーラ」
 そんな彼女にマンリーコが声をかけた。
「貴女は何も気にすることはない。すぐに終わる」
「そうだな」
 伯爵はそれを聞いて言った。
「貴様が死ぬからな」
「そんな・・・・・・!」
 レオノーラはそれを聞いてさらに顔を青くさせた。
「そうなったら私は・・・・・・。マンリーコ様、お止め下さい」
「それはできない」
 しかしマンリーコはそれを拒絶した。
「この男を倒すのは我が宿命、我が主君の望みでもある」
「それはこちらとて同じこと」
 黒い騎士と白い騎士が白銀の月の下で睨み合った。
「だが愛は我が手にある」
 マンリーコは勝ち誇って伯爵に対してそう言った。
「ならば私は」
 伯爵は彼を睨み返した。
「その愛を奪い取って我が愛としてみせよう」
「出来るものならな」
 二人はそこで姿を消した。暗闇の中から剣撃だけ聞こえる。レオノーラはその音を白い顔で聴いていた。






さてさて、今回はどんな物語なのかな。
美姫 「いきなりの決闘。一体、どうなるのかしら」
これから先の展開が楽しみです。
美姫 「どうなるのかしらね」
決闘の行方も気になるし。
美姫 「次回も楽しみに待ってますね〜」
ではでは。



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