第五幕 サン=タンジェロ城


 夜の闇がその暗き天幕を空から外しはじめ朝の光が世を眩しく照さんとする時であった。死刑囚が最後の一夜を過ごす礼拝堂に一人の男がランタンを持って入って来た。
 制服を着ているがスカルピアの手の者達の黒いそれではない。白系統の制服である。元々サン=タンジェロ城に勤めている看守達の制服である。
 看守は眠そうに目を擦っている。そして廊下の灯を一つずつ息を吹いて消しながら進んでいる。
 城の中に鐘の音が入ってくる。朝の祈祷の鐘の音だ。
 鐘の音とは別の音も響いてくる。これは鈴の音だ。羊達の喉に着けられている鈴の優しい音色である。
 羊達を追う少年達の歌声も聞こえてくる。清らかな子供の声で歌われている。
 
 風が動かす木の葉程多くの溜息を僕は貴女に送ろう
 だが貴女はそんな僕を意に介さず僕はそれを悲しむ
 ああ、そんな僕を慰める金のランプよ、御前の優しい灯も僕の心を癒せない

 その歌声に城を警備する兵達も聞き惚れていた。夜の厳しい勤めを終えようとしている彼等にとってこの鐘と鈴の音、そして少年達の声は他の何にも替え難い心の癒しであった。
 ランタンを左手に持ち替え右手で礼拝堂の扉を開けた。その中の一つにマリオ=カヴァラドゥッシは座っていた。
 見れば自身の青い上着を身体に掛け眠っている。前の机には何か細長く薄いものが二つ置かれている。
 「子爵、起きて下さい」
 看守は声を掛けた。カヴァラドゥッシはその声に応じゆっくりと瞼を開けた。
 「貴方の番ですよ」
 「ん、少し早いんじゃないかい?」
 辺りを見回しまだ暗いのを確認して言った。
 「一時間あります。司祭様が貴方の最後のお祈りをお待ちです」
 「それは要らないって言ったのに。律儀だね、全く」
 カヴァラドゥッシはそう言って苦笑した。
 「規則ですので」
 「そうか。けどね、悪いけどいらないよ」
 「そうですか」
 「あ、ちょっと待って」
 立ち去ろうとする看守を引き留めた。
 「何ですか?」
 「一つ聞きたいんだけど。兄は今どうしてる?」
 「伯爵ですか?停戦協定を結ばれにあらためてマレンゴへ向かわれました」
 「そうか、じゃあ心おきなくこれを渡せるな」
 そう言って机の前のもののうち一つを看守に手渡した。
 「これは?」
 「兄への最後の手紙さ。こんな事もあろうかと前々から考えていたんだ。今その時になったけれどね。もう一つあるよ」
 そしてもう片方の手紙も看守に手渡した。
 「こちらはフローリアへ」
 「トスカさんですね」
 「そう。これも別れの手紙だよ。悪いけれど二人に届けてくれるね」
 「はい、子爵の御願いとあらば」
 「有り難う、これはお礼だよ」
 指から何か外した。大きなルビーの指輪だ。
 「えっ、よろしいのですか?」
 「もう僕は死を待つ身、それなのに持っていても無意味だろう?気にしないでいいからチップだと思って受け取ってよ」
 「・・・はい」
 看守はそれを受け取った。
 「じゃあ手紙の事、くれぐれも頼んだよ」
 「解かりました」
 二通の手紙とルビーの指輪を受け取った後看守は礼拝堂を後にした。カヴァラドゥッシ一人が残った。
 「もう一時間か・・・。一眠りするか」
 上着を掛けまた眠りはじめた。すぐにまどろみだした。
 意識が遠のいていく。その中でカヴァラドゥッシは夢の世界へと入っていった。
 夜空に無数の星々が瞬いている。その光は星の数だけ多様である。そして庭には色彩り彩りの花々と若い草木が芳わかしい香りを発している。その中に彼はいた。彼女もいた。共に楽しみ愛の言葉を交わし合うーーー。かっての素晴らしき日々の思い出だった。
 「まだこの世に未練があるのかな」
 カヴァラドゥッシはふと目が覚め苦笑交じりに呟いた。
 「絵とアンジェロッティが気懸りだが・・・。絵は何時の日か誰かが僕の志を受け継いで完成させてくれるよう祈るしかない。アンジェロッティは・・・生きていてくれ、友よ」
 再び目を閉じた。そして再び眠りへと入っていく。
 「子爵、子爵」
 誰かがカヴァラドゥッシの右肩に手を掛け静かに揺り動かした。ふと目を覚まし声のした方へ顔を向けた。
 「ああ警部、貴方でしたか。眠っていたのですが。私に更に深い眠りを知らせる為に来られたのですか?」
 「いえ」
 スポレッタは静かに右手と顔を振ってそれを否定した。
 「貴方にお会いしたいという方がおられまして。その方に貴方も是非お会いになりたいと思われます」
 「・・・・・・フローリアかい?」
 「はい」
 スポレッタはそう言うと指で扉の前に控えていた一人の警官に合図をした。警官により開けられた扉の向こうにはトスカがいた。
 「マリオ!」
 トスカは喜び勇んだ足でカヴァラドゥッシの方へ駆け寄る。そして思い切り抱き締めた。
 「フローリア!」
 カヴァラドゥッシもトスカを抱き締めた。二人は互いを強く固く抱き締め合った。
 「御免なさい、マリオ。私の愚かな嫉妬が貴方を苦しめてしまって」
 「いや、謝るのは僕の方だ。いつも君を惑わせてばかりで酷い事も言ってしまった。この君との最後の別れの時になってそれが大いに悔やまれる」
 「いえ、これが最後のお別れではないわ」
 「えっ!?」
 トスカが小声で言ったその言葉にカヴァラドゥッシは驚いた。
 「スカルピア長官に私が頼み込んだの。そして貴方の命は助かったのよ」
 「本当かい!?」
 スポレッタは無言で頷いた。彼が人払いをしたのだろう。見れば礼拝堂の中には二人と彼の他は誰もいない。
 「貴方は銃殺にされるの。けれど安心して。銃には火薬だけ詰めて貴方を撃つ真似をするだけ。処刑場で兵隊さん達が銃を撃ったらそれに合わせて倒れて。兵隊さん達が引き揚げたら私達はローマを出られるのよ、すぐに」
 「けれどそんな事が本当に・・・・・・」
 訝しがるカヴァラドゥッシにトスカは胸元に隠してあった旅券を見せた。
 「フローリア=トスカと・・・・・・」
 「同行の騎士の自由通行証」
 トスカも一緒になって読んだ。
 ね、貴方は自由の身なのよ」
 「本当なのか、信じられない」
 スカルピアのサインに印まである。どう見ても偽者とは思えない。
 「信じてよろしのですね、警部」
 カヴァラドゥッシはスポレッタの眼を見て言った。
 「はい、信じて下さい。私が保証します」
 その眼は何処となく泳ぎそうになっている。
 「そうですか」
 その眼を見てカヴァラドゥッシも察した。だが言わなかった。
 「では私は準備を進めに行って来ます。夜が明けないうちがお二人にとっていいでしょうし」
 スポレッタは二人から何気無く視線を逸らしつつ言った。カヴァラドゥッシはそれに気付いていたがトスカはそれには気付いてはいなかった。
 「警部さん、本当に有り難うございます。貴方に神の御加護がありますように」
 「いえ、そんな・・・・・・。それでは私はこれで」
 スポレッタはそそくさと礼拝堂を後にした。なるべく二人と目を合わせないようにして。
 スポレッタがいなくなるとカヴァラドゥッシはトスカに尋ねた。
 「これは一体どういう事なんだい?あの男が僕達に恩恵を初めて与えるなんて」
 「そして最後の」
 トスカは旅券を懐に入れながら言った。この時手に何かが当たった。それが何かすぐに思い出した。
 「えっ!?」
 「あの男は貴方の命か、私の愛かを要求してきたの。じりじりと私に迫って来たわ。何とか拒もうとしたけれど無駄だったわ。そして遂に私は彼と約束をしたわ。私は覚悟した・・・・・・。けどその私の目に光る刃が入ったわ。あの男はこの旅券を作り私を抱き締めに来たわ。けれどその時に私はあの男の胸に刃を突き刺したの」
 「君がこの手で・・・・・・。僕の為に・・・・・・」
 トスカの手を取りそう言った。
 「その為にこの手が血に塗れるなんて・・・。白く美しいこの手が・・・・・・」
 「貴方の為なら私は血に塗れても構わないわ。だって貴方は私が愛する唯一人の人だもの」
 「フローリア・・・・・・・・・」
 トスカを思い切り強く抱き締めた。
 「チヴィタヴェッキアから海に出ましょう、舟で」
 「うん」
 「その前に大事な仕事があるわ」
 「処刑場だね」
 「そう、その時これを持って行って」
 そう言って懐から何か取り出した。
 「それは・・・・・・・・・」
 それは十字架だった。普段トスカが首から提げているものとは違い妙に大きい不思議な感じのする十字架だった。
 「ファルネーゼ宮である方から頂いたの。緑の瞳をした紅い服の方ね。何かある時必ず護ってくれるだろうって。これから貴方は銃の前に立たなければいけないでしょ。御守りに持って行って」
 「けど僕は・・・・・・」
 断ろうとするがその十字架とトスカの真摯な顔を見て彼は考えを変えた。
 「有り難う、頂くよ」
 「うれしい」
 そしてその十字架を上着の胸の部分にあるポケットに入れた。奇しくもスカルピアが刺されたのと同じ場所だった。
 カヴァラドゥッシが胸に十字架をしまい終えてすぐだった。看守とスポレッタが一緒に礼拝堂へ入って来た。何故一緒だったかというと深い意味は無い。二人共カヴァラドゥッシを呼びに行こうとしてたまたま一緒になっただけである。
 「解かってる、用意は出来ているよ」
 「はい」
 行こうとするカヴァラドゥッシにトスカがそっと近付いた。そして小声で囁く。
 (上手くやってね。最初の銃声で倒れるのよ)
 (うん)
 カヴァラドゥッシも答えた。
 (そして私が呼ぶまでは立たないで)
 (解かったよ。舞台でのフローリアみたいにすればいいんだね)
 (そうよ)
 二人に連れられカヴァラドゥッシは礼拝堂を後にした。トスカはスポレッタに自分も付いて行きたいと頼み込んだ。スポレッタはしばし考え込む顔をしたが結局それを認めた。
 「けれど、本当に宜しいのですね?」
 暗く悲しげな顔でトスカに念を押した。
 「?」
 トスカはスポレッタが何故そんな顔をするのか解からなかった。パルミエーリ伯爵という人物がどの様な人物か知っていたら理解したであろうか。
 「はい」
 トスカは笑顔で答えた。
 「解かりました。ではどうぞ」
 スポレッタは溜息をつきその願いを認めた。カヴァラドゥッシの後をスポレッタに導かれ処刑場へ向かって行く。
 処刑場は城の屋上であった。この城では死刑囚の処刑も多かったが屋上でもそれが行われていたのである。
 屋上には一つの穴がある。それはティベレ川へ向けられている。それは何故か。
 斬首する。その首を穴へ落とす。すると首は穴を転がってゆきティベレ川へ落ちていくのである。
 ユーモラスであるが残酷な話である。これも現世で人が為す事の一部分なのだ。
 空は次第に明るくなろうとしている。東から暁を告げる仄かな光が差し込み始めている。だが空には星がまだ煌いている。雲一つ無い晴れ渡った空である。ローマ市中が一望出来るその中にはサン=ピエトロ寺院もファルネーゼ宮もある。サン=アントレア=ヴァッレ教会もだ。
 その屋上の最も高い場所にまるでローマ全土を守護する様に立つ像がある。この城の名の由来ともなっている大天使ミカエルの像である。
 今将に聖剣を鞘に納めんとするその像は十八世紀にピエター=フェルシャッフェルトによって作られた。黒死病をもたらした悪霊を降した姿をそのまま青銅の像としたのである。
 この天使は悪を討ち滅ぼす天使であると同時に人の罪を裁く天使でもある。最後の審判の日に魂を計る天秤を持って人々の前に現われ、その善悪を計るのである。そしてそれを下にして人々は最後に神の下により裁かれるのである。
 その天使が見守るこの城において今一人の男が処刑の場に現われた。ミカエルの眼にその男が映った。
 カヴァラドゥッシはトスカに別れの挨拶を済ませ処刑場にいる士官の一人の後につき処刑の場に立った。それを見届け看守はこの場を去った。トスカはスポレッタに勧められ警備室に向かうがそこには入ろうとせずカヴァラドゥッシをしかと見詰めている。
 トスカから見て正面の壁のところにカヴァラドゥッシは立っていた。銃を持ち立ち並ぶ兵士達の横から彼の姿がはっきりと見えている。
 下士官がカヴァラドゥッシに歩み寄り目隠しをしようとするが彼は微笑んでそれを拒んだ。下士官は去った。そして兵士達の方へ行き何やら命令を与えている。
 その一連の動作を見ながらトスカは考えていた。これからの事である。
 (馬を替えながら行けば四時間でチヴェタヴェッキアまで行けるわね。そこからヴェネツィア行きの船に乗ればもう安心。私達の邪魔をするのは誰もいないわ)
 カヴァラドゥッシを見る。毅然として立っている。
 (マリオ、何て凛々しいの・・・・・・。本当に格好良いわ)
 ちらりと階段を見た。一抹の不安が脳裏をよぎった。
 (誰かがあの男を起こしに行かなければ良いのだけど。もし私が殺したとわかれば・・・・・・)
 兵士達が銃に弾を込め終えた。下士官が退き士官が軍刀を抜いた。
 (いよいよね・・・・・・。マリオ、上手くやってね)
 士官が軍刀を振り上げた。兵士達が一斉に銃を構える。トスカは銃声が聞こえないように手で耳を隠した。そしてカヴァラドゥッシに対し上手く倒れるよう頭で合図した。
 カヴァラドゥッシは頷いた。そして声には出さず口だけで彼女に言った。
 サ・ヨ・ウ・ナ・ラ
 と。
 (まあ、本当に役者ね)
 それを見てトスカは笑った。同時に軍刀が振り下ろされた。
 銃声が刑場に轟いた。カヴァラドゥッシは後ろへのけぞった。そして前に倒れ横に転がりうつ伏せになり止まった。
 下士官が彼に近寄り注意深く見る。スポレッタも来た。
 下士官が腰から拳銃を取り出した。倒れ込むカヴァラドゥッシの頭にそれを近付け最後の一撃を与えようとする。だがそれをスポレッタが止めた。
 スポレッタは下士官を遠ざけた。そして自分の着ていた外套を脱ぎそれをカヴァラドゥッシにかけた。そして十字を切り彼から離れた。
 士官が兵士達を整列させる。下士官は置くにいる番兵を呼び戻す。士官とスポレッタは互いに敬礼し合い士官は兵士達を連れ階段を降りて行く。スポレッタも下士官と番兵を連れ場を後にする。トスカと擦れ違う。彼女に一礼するがどういうわけか目を合わせようとはしなかった。
 スポレッタ達も去った。銃の硝煙も消え静まり返った処刑場にトスカとカヴァラドゥッシだけがいた。
 「マリオ!」
 トスカは二人の他に誰もいなくなるのをもどかしく待っていたのだ。どれだけ長かっただろう。だがもう誰もいない。場には二人しかいない。カヴァラドゥッシの下へ駆け寄った。
 「さあ行きましょう、早く!」
 外套を取りカヴァラドゥッシを揺り動かす。だがカヴァラドゥッシから返事は無い。
 「どうしたの!?ねえマリオ、マリオ!」
 次第に怖くなってくる。揺り動かしが強く激しいものになっていく。
 手がカヴァラドゥッシの腕に触れた。その時腕に着いたものを見てトスカの顔から血の気が引いた。
 「血・・・・・・そんな・・・・・・・・・マリオ!」
 その時だった。カヴァラドゥッシの身体がピクリ、と動いた。
 「・・・・・・フローリア・・・・・・・・・かい?」
 顔をトスカの方へ向けてきた。その顔には生気があり死者のものではなかった。
 「マリオ・・・・・・良かった・・・・・・・・・」
 起き上がるカヴァラドゥッシに抱き付いた。黒い瞳から歓喜と安堵の涙が溢れ出てくる。
 「フローリア・・・・・・」
 カヴァラドゥッシもトスカを抱き締める。二人は強く抱擁し合った。
 「もし・・・・・・もしもの事があったらって・・・・・・・・・私、怖かった・・・・・・・・・」
 トスカは泣きながら言った。涙がカヴァラドゥッシの青い上着を濡らし藍色にしていく。
 「フローリア、スカルピアは僕を殺すつもりだったんだ」
 「え・・・・・・」
 トスカは顔を上げた。その黒い翡翠の様な瞳を見つつカヴァラドゥッシは続けた。
 「あの警部を見て解かったんだ。妙に態度が後ろめたかっただろう」
 「そう言えば・・・・・・」
 スカルピアとのやりとり、礼拝堂やこの処刑場での行動、どれを取っても面妖な点ばかりであった。
 「だから僕はあの十字架を受け取り君に別れを告げたんだ。もうこれで最後だと思ったからね」
 「それで・・・・・・」
 今まで教会で祈り一つしなかったカヴァラドゥッシが何故十字架を受け取ったかトスカはようやく解かった。恋人からの最後の贈り物を受け取ったのだ。
 「けれど君の贈り物が僕を救ってくれたんだ。見てくれ」
 そう言うと懐からその贈り物を取り出した。
 十字架は所々が砕けていた。それが弾丸によるものである事は明らかだった。
 「ああ・・・・・・・・・」
 トスカはそれを手に取った。そして両手で強く握り締めた。
 「腕に一発当たって貫通したけれどね。他は全てこの十字架が守ってくれた。君のおかげだよ」
 「いえ、神のお力よ」
 トスカは感極まった顔で言った。熱い涙が頬から銀の十字架へ落ちていく。
 「そうかも知れないね」
 そう言うと優しく微笑みトスカを再び抱擁した。そして二人は立ち上がった。スカルピアの邪な目論見は完全に費え去ったのだ。
 否、まだスカルピアの魂はこの城にいた。生き長らえた二人に再び襲い掛かってきた。
 「逃がすな、まだ上にいるぞ!」
 スポレッタの声だった。その他にも怒声が続く。スポレッタが階段から姿を現わした。警官達や兵士達も後から続く。
 「ご婦人、やってくれましたね。まさかこの様な事を為さるとは」
 左手に持っている物をトスカに見せた。先端が血塗られている。あのナイフである。
 「しかも子爵までおられる。一体どういう事かわからないが」
 そう言いつつも内心では胸を撫で下ろしていた。彼にとってもやはり後ろめたい仕事であったのだ。
 「ですがあの方を殺した罪は償って頂きます。我等の主の命は高くつきますよ」
 スポレッタもまたシチリアの男だ。血の絆とその報復は骨の髄まで染み込んでいる。
 「待て、フローリアに近寄るな!」
 カヴァラドゥッシがトスカの前に出た。そしてジリジリと歩み寄って来る兵士や警官達から彼女を護ろうとする。
 兵士の一人がその足下へ銃を撃った。スポレッタも懐から拳銃を取り出した。
 「御心配無く。子爵にもトスカさんにも指一本触れませんよ。今この場で主の下へ行って頂きます」
 兵士も警官達も二人へ向けて銃を構えた。それぞれの引き金に指が掛けられる。 
 「シチリアの掟、その身を以って教えて差し上げます」
 「くっ・・・・・・・・・」
 カヴァラドゥッシは歯を噛み締めた。元よりトスカに救ってもらった命、惜しくはない。覚悟は出来ている。だがトスカを死なせたくはなかった。
 トスカを護る様に彼女の前に立った。己を盾にしてでも護るつもりだった。だがトスカは動いた。
 ミカエルの像がある高台の方へ走った。そしてその側に着くとスポレッタ達の方へ振り向いて言った。 
 「貴方達に殺されるぐらいなら・・・・・・・・・。またマリオを殺させるぐらいなら・・・・・・・・・。私はティベレ川へ飛び降りて貴方方の罪を全て主の御前で申し上げるわ!」
 「!!」
 彼女の行動と言葉にスポレッタも兵士達も驚愕した。そしてその時だった。
 突如としてローマ中で大歓声が沸き起こった。それは口々にフランスを、ナポレオンを讃える声だった。 
 「スポレッタ、まずいぞ!」
 コロメッティとスキャルオーネが飛び込んで来た。二人共息を切らしほうほうのていで入って来る。
 「アンジェロッティ候を共和主義者達に奪われた、そして彼と共にフランス軍がローマの前に姿を現わしたんだ!」
 「何!!」
 信じられなかった。彼等は全てマレンゴにいる筈ではなかったのか。
 「だが・・・・・・」
 トスカとカヴァラドゥッシの方を見る。二人共何が起こったのかまだ把握しきれておらず呆気に取られている。
 「一刻も早くローマを脱出するんだ、さもないと我々は狂った市民達のリンチで皆殺しにされるぞ!」
 そうだった。権力を失くした彼等を待つ運命が何なのか、それを本能的に知っていたのだ。
 「・・・・・・解かった、行こう」
 スキャルオーネとコロメッティに急かされスポレッタ達は屋上から逃げる様に消え去った。最後尾にいたスポレッタが階段に足を入れた時サッと二人の方を振り向いた。
 「・・・・・・・・・お元気で」
 スポレッタはそう言うと去って行った。後には恋人達が残された。
 暫くの間城内の殆どの者が逃げ去ったサン=タンジェロ城は静まり返っていた。だが朝日が姿を現わす時になると城内に喚声が木霊しはじめた。
 
 「カヴァラドゥッシ、無事で良かった」
 朝日に輝きはじめたポンテ=サンタンジェロの上でカヴァラドゥッシとアンジェロッティは手を握り締め合った。カヴァラドゥッシの傍らにはトスカがおり三人の周りを共和主義者や青い軍服の将兵達が囲んでいる。
 「アンジェロッティ、君こそ。よく生きていてくれた」
 二人は再び両手を握り締め合った。強く固く握り合った。
 「警官達に追い詰められた時は流石に僕も駄目だと思った。だが奇跡が起こったんだ」
 「奇跡?」
 「うん。今将に捕らえられようとしたその時彼等が現われたんだ。そして僕を救い出してくれた」
 そう言ってフランス軍の将兵達を指し示した。
 「彼等を導いてくれていたのはこの方だ。この方こそ僕の命の恩人なんだ」
 アンジェロッティに手で指し示された男が前に出て来た。その男の姿を見た時トスカは思わず叫んでしまった。
 「貴方は・・・・・・!」
 男は悪戯っぽく左目をウィンクした。紅衣のあの男であった。
 「どうしたの、フローリア。お知り合いの方なの?」
 「いえ・・・・・・」
 男が手で紹介されるのを制止したのでトスカは言うのを止めた。何か知ってもらいたくない事情が男にも有るのだろう。
 「何でもフランスともこのローマとも所縁の有る方らしいんだ。それで僕を助ける事が出来たらしい」
 「成程」
 「僕はまたこのローマで領事を務めさせてもらう。今度こそローマを自由と平等が息吹く街にするつもりだ」
 「うん、頑張ってくれ。君なら出来る」
 カヴァラドゥッシは友に言った。
 「そして君はどうするんだい?ローマに残るのかい?それならば一緒に働かないかい」
 「そうだね」
 トスカの方を見た。自分に対し微笑んでくれている。
 「僕はあの絵を完成させてフローリアと一緒にヴェネツィアへ行くよ。予定していた事だしね。それに僕は彼女と何時までも一緒にいたいんだ」
 「マリオ・・・・・・・・・!!」
 トスカがカヴァラドゥッシの胸に抱きついた。衆人の前でありカヴァラドゥッシも顔を赤らめた。
 「そうか。じゃあ残念だけどもうすぐお別れという事になるね」
 「ああ」
 「機会があったらまた会おう。そして何時までも変わらぬ友情を」
 「こちらこそ」
 ローマと自由を讃える声の中カヴァラドゥッシとトスカは歩きはじめた。既に陽は高く登りローマの街をその黄金色の光で照らしていた。

 その後欧州は十五年もの間ナポレオンという風雲児によって席巻される。そこにいる全ての者が彼の強い影響下に置かれる事となった。
 エマ=ハミルトンはネルソンとの愛に生きるが彼の死後放蕩の末カレーで失意のうちに死す。
 マリア=カロリーネと彼女の王国は後にイタリア統一という大きな激流に呑み込まれその中に消えた。
 アッタヴァンティ侯爵夫妻はローマにおいて貴族として平凡な一生を終えた。
 スポレッタ達はシチリアへ逃げ帰った。その行方はようとして知れない。おそらくは元の山賊にでも戻ったか平凡な農民になったのであろう。
 アルトゥーロ=カヴァラドゥッシはオーストリア軍の将として各地を転戦、知将として歴史に名を残す事となる。
 アンジェロティは再度ローマ共和国領事に就任。紅衣の男の補佐を受け自由主義の普及に尽力する。彼の死後紅衣の男は姿を消した。一説によると姿を消す直前ナポレオンの前に現われたらしい。それ以後ナポレオンの没落が始まった。
 マリオ=カヴァラドゥッシはトスカと共にヴェネツィアへ行き絵を描き続ける。後に欧州の政変に伴い彼女と共にアメリカへ渡りその地で一生を終える。彼の絵は今でも名画として世界中の美術館に飾られ美と芸術を愛する人々に愛されている。
 フローリア=トスカはヴェネツィアへ行った後も高名な歌手として恋人共に欧州を回る。ナポレオンが倒れると恋人と共にアメリカへ移り以後ニューヨークを中心に活躍した。稀代の名ソプラノの歌と愛の生涯は彼女が泉下の人となって尚人々の心に生き続けている。そして今でも我々の心を惹き付けてやまない。



良かった、良かった。
美姫 「皆、無事だったわね」
うんうん。一時はどうなるかと思ったシーンもあったけれどね。
美姫 「ハッピーエンドね」
だね。坂田火魯志さん、お疲れ様でした〜。
美姫 「でした〜」
大変、面白かったです。
美姫 「普段、オペラなんて見ないもんね、アンタ」
ほっとけ。でも、これは面白かったな〜。
美姫 「原作とは違うって言ってたから、原作はどんなお話なのかしらね」
暇があれば、ちょっと調べてみようかな。
美姫 「それでは、ありがとうございました」
ございました。



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