第三幕 カヴァラドゥッシの別邸


 ロムルスとレムスの兄弟により建てられローマ帝国の帝都となりローマ=カトリック教会の聖都となったローマは古の時代よりあり長い歴史を歩んできた。多くの栄枯盛衰、興亡を見てきた。それと同じ数だけ戦乱や陰謀の舞台ともなってきた。
 ローマ劫だけではない。ローマの時代にはケルト人やカルタゴが攻め寄せて来た。スラとマリウスが権勢を争いユリウス=カエサルも流血の中に倒れた。カリギュラが血の帳で覆った時代もあった。ゲルマン人とビザンツ帝国の争奪の場ともなった。この時ビザンツの将兵達は喜び勇んでローマの市民達を殺戮して回った。やがて東西教会の分裂を経てフランク王国や神聖ローマ帝国の後ろ楯を得るようになるがそうなると今度は聖俗入り乱れての権力争いの場となったのである。
 メディチ家やボルジア家といった教皇を輩出した権門だけでなくハプスブルグ家やヴァロワ家といったドイツやフランスの帝室、王室まで介入してきた。毒や刺客を使っての暗殺なぞ日常茶飯事であった。とりわけその中でもカンタレラという秘薬を使い政敵を次々と抹殺していったルネサンス期の教皇アレッサンドロ六世とその長子ヴァレンティーノ公チェーザレ=ボルジアの親子は有名であろう。
 同じ時代の生きたマキャベリが自らの著において理想の君主とさえ讃えたチェーザレ=ボルジアは美男子としても有名であったがその美貌はメフィストフェレスの美貌であった。悪魔的に切れる頭脳でもってローマ中に監視を置き次々に政敵や自らの障害になる存在を消していった。その中には自身の弟ガンディア公ホアンも含まれていた。
 この時カヴァラドゥッシ家は教皇父子にとって目の上のタンコブであったナポリのスフォルツァ家と縁戚関係にあり彼等にとってあまり面白い存在ではなかった。宴の場で教皇やチェーザレに遠回しにボルジアに着くかスフォルツァに着くか問われたこともあった。夕食を盗み食いした猫が急に苦しみだして死んだ事もあった。夜道に上から石が落ちて来た事もあった。教皇もチェーザレもカヴァラドゥッシ家を除くつもりだったのだ。
 だがある日カヴァラドゥッシ家の者はローマから消えた。教皇はローマの隅から隅まで捜したが見つからなかった。やがて教皇もチェーザレも世を去りカヴァラドゥッシ家を脅かそうとする者達はいなくなった。
 二人がいなくなったのを見計らってカヴァラドゥッシ家の者達は再びローマに姿を現わした。ローマの者達はあのチェーザレの目を盗んで一体何処に隠れていたのか不思議がった。家の者は軽く微笑んで答えをはぐらかしてばかりで結局誰にも解からなかった。そのうちナポリにでもいたのだろうという事になり話は収まった。だが真相はどうだったか。
 実はローマにいたのである。カヴァラドゥッシ家は本邸の他にカラカラ浴場とシピオン廊の間に別邸を持っていたが実はもう一つ別邸を持っていたのだ。
 ローマの外れにあるこの邸は泉と緑に深く覆われ外見は極めて質素である為教皇父子も全く知らなかったのだ。この邸は古くよりカヴァラドゥッシ家の秘密の隠れ家であり、それを知る者は家の者とごく限られた代々の使用人だけであった。従ってスカルピアも本邸と別邸は知っていてもこのもう一つの別邸までは知らなかったのである。
 その燭台で照らされた一室にカヴァラドゥッシとアンジェロッティはいた。椅子に座り話をしている。
 「ここならもう大丈夫だよ」
 落ち着いた表情で笑みを浮かべて友人に言った。
 「済まないね、何もかも」
 アンジェロッティが申し訳無さそうに言うのをカヴァラドゥッシは手を振って打ち消した。
 「何言ってるんだよ、小さい頃からの友達じゃないか、固い事は言いっこ無しだ」
 「有り難う、けどよくこんな所に別邸を持っていたね」
 「何、御先祖のちょっとした遺産さ」
 「遺産?」
 「そうなんだ。ここは元々僕よりかなり前の祖先ルイギ=カヴァラドゥッシの建てた別邸だったんだ。避難用のね」
 「避難用?」
 「そう。このローマはかって三度世界を支配しただろう」
 「ああ、法とキリストと・・・・・・力によって」
 「そう。そしてその三つにおいて世界から恨みを買った」
 「だから実に色々とやって来てくれたな。その度に街を荒らしてくれた」
 「そういう時の為に古い家だと秘密の隠れ家がある」
 「その通り」
 アンジェロッティはニッと笑った。何故なら彼もその隠れ家を使ってエマ=ハミルトンから隠れていたのだから。
 「我が家ではこの家がそうなのさ。僕とこの家にいる二人の従僕、兄さん、そしてフローリア以外誰も知らない秘密の場所さ」
 「だから途中で馬車から降りてわざわざ遠回りしてここまで来たんだね」
 「そう、用心してね」
 「などスカルピアの奴は目聡くて執念深いよ。ひょっとするとここまで来るかも知れないよ」
 「大丈夫、もう一つ逃げ道がある」
 アンジェロッティの危惧にカヴァラドゥッシは答えた。
 「それは?」
 アンジェロッティは思わず身を乗り出した。
 「この家の庭に糸杉に囲まれた帝政ローマの頃の古い井戸がある。今さっき言った祖先が偶然見つけたものだけどね。実はその井戸には横穴があるんだ」
 「横穴ねえ」
 「そこへは綱を掛けて降りて行くんだ。入口はやっと這って身体が入られる位の広さだけど先に行く程広くなっていくんだ」
 「成程。そしてそれからどうなっているんだい?」
 「人一人立てる程の広さになる。そして外に続いているんだ」
 「脱出路、という訳だね」
 「ああ。おそらくかってこの家が建てられるより前に帝政時代の貴族の家があったのだろう。その貴族が非常時の為に密かに造っておいたのだろう。この家の従僕の一人から聞いた事なんだけれど当のルイギも彼を侮辱したメディチ家の一人を決闘で殺してしまった時にこの家に逃げ込んで井戸から外へ脱出して難を逃れたらしい。君もいざという時はこの井戸があるから安心してくれ」
 「重ね重ね有り難う。しかしマリオ、いいのかい?」
 「何が?」
 「脱獄した僕を匿っている事だよ。おそらく僕には多額の懸賞が懸けられているだろうし匿っている者は縛り首だろう。しかも君は前からスカルピアの奴にマークされている。下手をすれば命が無いんだよ」
 「アンジェロッティ、それはお互い言いっこなしだよ」
 カヴァラドゥッシはニコリと笑った。
 「君は幼い頃から僕が困っている時はいつも助けてくれた。その恩を忘れた事は無い。今その恩を君に返す時が来た。それだけだ。それにカヴァラドゥッシ家の家訓にこうあるんだ。『水に溺れている者がいたならば命を賭して助けよ』とね。例え絞首台に架けられてもそれまでの事」
 「マリオ・・・・・・」
 その時正面の扉が開く音がした。誰かが家に駆け込んで来た。
 「!!」
 二人は席を立った。アンジェロッティは窓から庭へ逃げようとする。
 「待ってくれ、追っ手ではない」
 足音は一人だったし心なしか軽めだ。それに“マリオ、マリオ”とアンジェロッティの姓ではなくカヴァラドゥッシの名を呼んでいる。そしてその声はかん高い女性の声だ。
 「フローリアだよ。今夜別邸に来るって言ってたんだ」
 アンジェロッティは安堵の息を漏らした。そこへトスカが部屋の扉を開け飛ばして入って来た。恐ろしい剣幕である。
 「やあ、早かったね」
 カヴァラドゥッシは微笑んでトスカを迎えた。
 「そうよ。わざわざ飛んで来たのよ。浮気者を捕まえにね」
 きっとカヴァラドゥッシを睨み付ける。
 「浮気者って!?」
 じつは全く身に覚えの無いカヴァラドゥッシはトスカのその言葉にきょとんとした。
 「まあ白々しい、私の目を盗んであの女と会っていたくせに!」
 「あの女って?」
 トスカがだれの事を言っていて何故これ程怒っているのか理解出来ない。身に覚えの無い事であるしそれに今はもっと重要な事を考え話していたところなのだから。
 「まだ白を切るつもりなの、これを見てもまだ言える!?」
 と手にしていた扇を見せつける。
 「扇?これが一体?」
 狐につままれた様な顔になった。ふと扇に彫られている紋章が目に入った。
 「アッタヴァンティ侯爵家の紋章か。とするとこれはマルケサのものか」
 「そうよ、貴方の浮気相手のね」
 「浮気相手!?」
 カヴァラドゥッシはようやく事態が飲み込めてきた。
 「分かったよ。まあ少し静かにしてくれ。今から君に説明するよ」
 「何を!?」 
 「ちょっと落ち着いて。それじゃあ気が狂っているみたいだよ」
 トスカを宥めようとするが当のトスカは一向に収まらない。
 「そうよ、私は狂ってるわ。狂っているからこそ卑劣で嘘つきで浮気者で恥知らずの遊び人を愛しているのよ。私からあの女へ、あの女から私へと遊び歩いてその残り香を私の下へ運んで来る図々しい蜜蜂をね。その蜜蜂を心で、身体で、そして血潮で愛している私は狂った花なのよ!」
 「・・・・・・・・・言いたい事はそれだけかい?」
 「まあ、憎たらしい、開き直るつもり!?」
 その時何か踏んだ。見ると女物の服だった。
 「こんな物まであるのに!」
 服を手に取り扇と一緒に見せつける。
 「拭く?じゃあ話が早い。確かにそれもマルケサのものだよ」
 「やっぱり!」
 トスカは更に激昂する。だがカヴァラドゥッシは相変わらず冷静である。
 「話は最後まで聞いて。これを着ていたのは彼女じゃない」
 「えっ!?」
 今度はトスカがキョトンとした。
 「これを着ていたのは彼女のお兄さんだよ。そこにいるアンジェロッティだ」
 「アンジェロッティって・・・・・・。夕刻にサン=タンジェロ城を脱獄されたというアンジェロッティ侯爵!?」
 トスカはこの時ようやく自分と恋人の他に部屋にいる人物に気がついた。トスカが自分の方に顔を向けるとアンジェロッティは一礼した。
 「じゃあ・・・・・・」
 次第に落ち着きを取り戻してきた。そして事態を把握してきた。
 「そうだよ。サン=タンドリア=デッラ=ヴァッレ教会に逃げ込んでいた時に会ってね。今この邸に匿っているのさ」
 「まあ、そうだったの。そうだったら早く言ってくれれば良かったのに」
 トスカの顔が急に晴れやかになった。
 「君を巻き込むまいと思ったからね。後で話すつもりだったけれど」
 「御免なさい、マリオ。貴方を疑った私を許して」
 そう言って恋人の胸に顔を埋めた。
 「マリオ、貴方は素晴らしい人よ。自分の命を賭けて御友達を助けるつもりなのね。そんな人を疑うなんて・・・・・・。嫉妬深い私を許して。私は貴方の愛が無くては生きられないの」
 「フローリア・・・・・・・・・」
 カヴァラドゥッシもトスカを抱き締めた。
 「アンジェロッティは今夜ここにいてもらい朝にはローマを脱出してもらう。僕もヴェネツィアに発つまでここに潜んでいるつもりだ。フローリア、君も怪しまれないように自分の家に帰るんだ。そしてあの街で落ち合おう」
 「そんな、暫く会えないの!?」
 「仕方無いさ。僕も暫くあの絵をほったらかしにするのは忍びないが君まで危険に晒すわけにはいかない」
 「けれど貴方が捕まらないか・・・・・・心配だわ」
 「僕の事は心配無用さ。ここは誰にも絶対に見つからない。それにしても・・・・・・・・・」
 アンジェロッティが着ていた服と共にトスカの手にあった扇を取った。
 「この扇が君を嫉妬に狂わせたのか。罪な扇だな」
 右の親指と人差し指で持ち苦笑しながら見ている。
 「御免なさい・・・・・・・・・」
 トスカも反省している。完全にしょげていた。
 「いいよ、済んだ事だ。多分教会に落ちていたんだろうけどどうしてこの扇を手に入れたんだい?僕が教会を出た後またあそこへ行ったの?」
 「いえ、頂いたのよ」
 「誰に?マルケサは今ローマにいないと聞いたし侯爵でも情友のトリヴェルディ子爵でもないみたいだし」 
 「スカルピア男爵よ。何か思わせぶりな口調だったけれど」
 「スカルピア!?」
 カヴァラドゥッシとアンジェロッティに雷が走った。その時外から多くの声がした。
 「御主人様大変です。大勢の人が戸を叩いています」
 従僕の一人が駆け込んできた。
 「やはり!」
 カヴァラドゥッシは外の者達が何なのか瞬時に理解した。そしてすぐに動いた。
 「チェッコ、悪いが時間を稼いでくれ」
 チェッコと呼ばれた従僕はすぐに部屋を出て行った。
 次はアンジェロッティの方へ向き直った。すぐに友へ言った。
 「追っ手だ、もう時間が無い。すぐに井戸を使って逃げてくれ」 
 「判った」
 頷きすぐに服を手に取り窓へ向かった。
 「元気でな」
 振り返らずにカヴァラドゥッシが言った。
 「ああ、また会おう」
 そう言うとアンジェロッティは窓から消えた。風が入って来た。風に吹かれた窓は大きく開かれたがその反動で音を立てて閉じられた。
 「そんな、私のせいで・・・・・・」
 トスカは顔を真っ青にしオロオロとしている。窓と扇をきょろきょろと見、手も身体もガタガタと震えている。
 「心配する必要は無いよ、君は悪くない」
 「けど・・・・・・・・・」 
 恋人の暖かい言葉にもトスカは震えている。
 扉が開かれる音がした。廊下をドスドスと大勢の者が大股で歩く音がする。そしてその音は次第に扉へと近付いて来る。
 扉が開かれた。警官達が入って来た。蝋燭の炎に照らされた黒い制服を見ただけでトスカは気を失いそうになった。
 警官達はトスカとカヴァラドゥッシを取り囲む様に部屋中に散った。トスカはカヴァラドゥッシの左腕にしがみつき必死に意識を保とうとしている。また廊下を歩く音が近付いて来た。そして岩山の様な男が部屋に入って来た。
 スカルピアだ。アッタヴァンティ侯爵を伴っている。後にスポレッタとコロメッティ、そしてスキャルオーネを引き連れている。蝋燭の炎がその顔を下から照らし出している。 
 「こんな夜中に何の用だ?」
 カヴァラドゥッシがスカルピアに問うた。冷静かつ毅然とした態度を崩さない。
 「失礼、実は子爵にお聞きしたい事がある方がおられまして」
 「誰だい?」
 「こちらの方です」
 そう言って侯爵を手で指し示した。
 「あ、これは侯爵。この様なところにまでおいで下さるとは。一体どの様なご用件でしょうか?」
 カヴァラドゥッシは尋ねた。それに対し侯爵はオドオドとしていた。するとスカルピアが出て来た。
 「実は侯爵がこちらに奥方がおられるのではないかと仰いましたので」
 と言った。
 「そして訪ねて来られたのですか。残念ですがご夫人はこちらにはおられません。疑われるのならここにいるフローリアに聞いて下さい。彼女もそれを確かめにこの家へ来たのですから」
 カヴァラドゥッシは言った。トスカも同調した。
 「はい、間違いありません」
 「でしょう?先程から申し上げているように私はカヴァラドゥッシ子爵を若い頃より存じ上げているのです。この方はそんな事をする筈が無いと申し上げているではないですか」
 と侯爵も言った。だがこれは計算のうちだった。スカルピアは次の手を打った。
 「ですが貴方が仕事をしておられる教会に侯爵夫人の扇が落ちていました。これは何故ですかな」
 と問うた。カヴァラドゥッシは応えた。
 「あの方は何回か教会に来ておられました。その時に落としたのでしょう。あの方が教会に来られていたという証拠は私が今あの教会で描いているマグダラのマリアの絵です。モデルに使わせて頂きました」
 例え相手がスカルピアでも臆するところは無い。
 「そうでしょう、それで話の辻褄が合います」
 と侯爵も相槌を打った。
 「それに侯爵夫人がここにおいでになっていないという事は家捜しでも何でもしてお確かめになれば宜しいでしょう」
 カヴァラドゥッシはしれっとして言った。あえて挑発の意も含んだ。それに相手も乗った。
 スカルピアが目配せするとスポレッタとコロメッティが動いた。数人の警官が後に続く。
 家の所々を捜し回る音がする。それを聞きながら侯爵がオドオドとした様子でスカルピアに窺った。
 「私はもう用が無いみたいですが。これで失礼させて頂きたいのですが」
 その言葉にスカルピアは少し考えたがもう侯爵に用が無いのは事実だしこれ以上いられても邪魔にしかなりそうにもなかった。
 「ええ、侯爵はもうお帰りになって下さって結構です。奥様も御自宅へお帰りになっておいででしょうし。それに奥様がここへ御自身の兄をわざわざ連れて来るとは思えませんし」
 とさりげなくアンジェロッティの事も入れた。これに対し侯爵は慌てた。
 「妻の兄がここに?男爵、いくら何でもそれは冗談が過ぎますぞ」
 いささか狼狽し過ぎている程だ。スカルピアはそれに対し口の両端だけで笑っている。
 「ははは」
 「彼とは出来る限り早く縁を切りたいと考えているのです。何かある度に身の周りを探られそうになるのはもう嫌ですから」
 早口で言う。それに対しスカルピアは妙ににこやかに笑っている。
 「それではこの場は我々にお任せ下さい。スキャルオーネ」
 名を呼ばれスキャルオーネが出て来た。
 「侯爵を馬車でお送りするように」
 スカルピアの言葉に返礼し侯爵を送り出していった。足音が次第に遠のいてゆく。
 二人と入れ替わりにスポレッタとコロメッティが入って来た。スカルピアの前で敬礼する。
 「何か見つかったか?」
 スカルピアはまずそう聞いた。
 「いえ、何も」
 「家の中にもか」
 「はい」
 「いないか」
 「はい、誰も」
 「何も無いか」
 「はい、何も」
 それを見ながらカヴァラドゥッシは心の中で会心の笑みを浮かべていた。全ては彼の思惑通りであった。
 「そうか」
 スカルピアの眼が光った。
 「子爵」
 カヴァラドゥッシの方へ向き直った。顔に何やらドス黒い陰が挿した。
 「少しお聞きしたい事があります」
 「何です?証拠なら何も無かったではないですか」
 「今のところはね。それにしても貴方の服といい靴といいお髭といい実に素晴らしいですな。良く似合ってらっしゃる」
 カヴァラドゥッシのフランス国旗に見立てた服と靴、そして顎鬚を皮肉る。
 「それはどうも。服や靴はともかく髭を誉めてくれる方はあまりおりませんので光栄です」
 カヴァラドゥッシは返した。この程度の皮肉は余裕をもって返せる。
 「確か今アルプスを越えてマレンゴで死んだ蛙達もそんな格好だった」
 「ほお」
 「最・2ヘおりません。志ある者ならおりますが」
 「失礼、言葉が過ぎました。では子爵、改めてお聞きします。今日囚人が一人サン=タンジェロ盾フ物真似師と貴方は幼い頃からのお知り合いでしたな」
 「そうでしたっけ。何しろ私の友人は実に多くて誰かまでは。ただ物真似師の友人はおりません。志ある者ならおりますが」
 「失礼、言葉が過ぎました。では子爵、改めてお聞きします。今日囚人が一人サン=タンジェロ城から脱獄したのは御存知ですね」
 「そうだったんですか?知りませんでした」
 「そしてその囚人を貴方が匿った」
 「何処に?」
 「この別邸に」
 「で、家捜しして何も出なかったと」
 「巧く隠れていますな」
 「男爵、人を疑うのは感心しませんな」
 「仕事なので。やっかいな鼠共を捕らえるには何事も注意深くなくては」
 スキャルオーネが帰って来た。スカルピアはそのまま控えさせた。
 「その注意深さからお聞きした。アンジェロッティは何処ですか?」
 「知りません」
 「この邸にいる筈です」
 「知りません」
 スカルピアは一息置いた。蝋燭の炎が揺れた。それに合わせてスカルピアの影も生物の様にユラッと動いた。
 「子爵、よくお考えになって下さい。その様に強情を張られても良い事は何もありませんぞ。すぐに本当の事を仰れば苦痛から避けられるのです。忠告致しましたぞ」
 「どうも」
 「ではもう一度お聞きします。アンジェロッティは何処ですか?」
 「知りません」
 スカルピアの全身の気が変わった。何かが剥き出しになった。それを見て彼の部下達も思わず身震いした。
 「これが最後です。応えなさい、アンジェロッティは何処ですか?」
 「知りません」
 「ああ、縛り首確実だな」
 三人は呟いた。今まで上司にそういうふうな態度を取った共和主義者達の末路を散々見てきたからこそそう言えたのだ。
 「そうですか。では致し方ありませんな」
 警官の一人に目配せする。その警官が退室した。暫くして黒く長い服の査問官が警官に案内され入って来た。
 「マリオ=カヴァラドゥッシ子爵、査問官が貴方を証人として望んでおります。貴方とその御婦人に別々に尋問させて頂く事にしましょう」
 スカルピアが右手の指を鳴らす。警官達が動き出した。
 カヴァラドゥッシはトスカの耳に顔を近付け囁いた。
 (ここでの事は何も言わないでくれ。さもないとアンジェロッティも僕も死ぬ事になる)
 トスカはちいさくええ、と頷いた。 
 カヴァラドゥッシの両腕を警官達が掴む。連行されながら彼はスカルピアに顔を向けた。
 「私を痛めつけても何も出ないぞ。それに彼女は何も知らないぞ」
 スカルピアは聞いていない。その代わり査問官に何やら耳打ちしている。
 「まずは普通のやり方でな。後は・・・・・・・・・」
 チラリとトスカの方を見た。
 「私のやり方でいくとしよう」
 査問官は頷き部屋を後にする。カヴァラドゥッシと警官達が続く。コロメッティ、スキャルオーネも同行する。スポレッタだけが残るが部屋の置くの扉の傍に引き下がった。
 部屋の真ん中にトスカだけが残された。必死に震えを抑え冷静さを保とうとしている。
 「さて、トスカさん」
 この場におよそ似つかわぬ親しげな猫撫で声でスカルピアは騙り掛けてきた。
 「二人だけで、ごく親しい友人としてお話ししましよう。まあそんな苦しそうな顔なぞなさらずに」
 「苦しんでなんかいません」
 トスカは無理に強がって言った。
 「そうですか。まあお座り下さい。ゆっくりとお話しましょう」
 「はい」
 スカルピアに勧められ席に着いた。スカルピアもそれに続く。
 「ではお話しましょう。扇の件についてですが」
 「私の焼き餅でした。馬鹿げた嫉妬に過ぎませんでした」
 スカルピアは探る様に目を動かした。トスカは心の中を覗かれているのではないかと感じた。
 「そうでしたか。ではこの邸に侯爵夫人はおられなかったのですね?」
 「はい。あの人一人だけでした」
 背中を冷たい汗が伝った。その悪寒に思わず身震いした。
 「一人?確かですね」
 「嫉妬深い者は例え髪の毛一本であろうとも見逃しません。絶対に一人でした」
 トスカが激昂してきた。スカルピアはわざと背を引き姿勢を正し自分を大きく見せてきた。
 「本当に?」
 「間違いありません」
 背を屈めてきた。顔をトスカに近付ける。
 「何か妙に興奮されてますね。まるで自分が誰かを裏切ってしまうのではないかと怖れている様だ」
 「そんな事はありません!アッタヴァンティ侯爵夫人は確かにこの邸にはおられませんでした!」
 キッとスカルピアを見激昂しつつ言った。スカルピアはそれに対し両手で押し止める様に制した。
 「まあ落ち着いて下さい。アッタヴァンティ侯爵夫人がここにおられなかったという事実は確かに解かりました」
 その言葉にトスカはホッとした。だがスカルピアは口の端に邪な笑いを作って言った。
 「確かに侯爵夫人はここにはおられなかった。だが彼女の兄はどうか?」
 その言葉にトスカは戦慄を憶えた。驚きが顔に浮き出ようとするが慌てて無表情の仮面を被りそれを覆い隠した。
 「よく考えれば彼女も彼女の兄も子爵とは幼なじみ。しかも侯爵は子爵と同じジャコビーニ、充分考えられる事ではある」
 「侯爵夫人もそのお兄様もこの邸にはおられませんでした」
 トスカは強く頭を振って言った。だがそれに対しスカルピアが返したのは冷笑であった。
 「ほほう、果たして最後までそう言い切れますかな?」
 「え!?」
 「スキャルオーネ」 
 「はっ」
 スキャルオーネが部屋に入って来た。
 「どうだ、子爵は何か仰ったか?」
 「いえ、一言も」
 「そうか」
 笑った。岩石の様な顔に悪魔の笑みが浮かび上がった。
 「伝えよ。もっとやれ、とな」
 「分かりました」
 あえてトスカに聞こえる様にはっきりと、そして大きな声で言った。スキャルオーネは敬礼し部屋を後にした。
 「無駄です、あの人は何も知りません」
 「そうですか、残念ですな」
 「どうしたら御理解して頂けるのでしょう?その為には嘘をつかねばならないのでしょうか?」
 萎れるトスカ。だがスカルピアはそのトスカを見て更に笑った。
 「その必要はありません。ですがもし貴女が本当の事を仰れば苦しい時を短くする事が出来ます」
 その言葉にトスカはハッとした。
 「苦しい時!?何がですか?あの部屋で一体何が・・・・・・・・・」
 「法は守らなければなりません」
 わざと素っ気無く言った。
 「それは・・・・・・」
 トスカの問いにスカルピアは先程の笑みと共に答えた。
 「何、大した事ではありません。子爵は手と足を縛られ、こめかみには鉤の付いた輪が嵌められ椅子に座られているだけです。もっともこちらの質問にお答えして頂けないと輪が締められそこから血が噴き出るのですがね」
 「そんな・・・・・・・・・」
 トスカの顔から血の気が完全に引いた。スカルピアはそれを見て心の中で笑った。
 「だが貴女なら彼を救う事が出来ます」
 「う・・・・・・・・・」 
 トスカの目の前が急に暗くなった。部屋を出る時の恋人の言葉が脳裏に響く。だが今の彼の姿を想像しただけで胸が潰れそうになる。
 「さあ、どうします?全ては貴女次第ですよ」
 何か聴こえたように感じた。それは恋人の呻き声だった。
 「わ・・・・・・・・・わ・・・・・・・・・」
 出ない。声が出ない。声にしたくとも声にならないのだ。
 「わかり・・・まし・・・・・・た・・・・・・・・・」
 テーブルの上に崩れ落ちた。それを見届けスカルピアは席を立った。
 「コロメッティ」
 名を呼ばれコロメッティが入って来た。
 「解いてやれ」
 ちらりと崩れ落ちているトスカを見下ろしつつスカルピアは言った。コロメッティは敬礼しつつ問うた。
 「全てですか?」
 「そうだ」
 「解かりました」
 再び敬礼しコロメッティは退室した。スカルピアはトスカに歩み寄り覆い被さる様に彼女に顔を近付け問うた。
 「あの人に逢わせて・・・・・・」
 「駄目だ」
 「そんな・・・・・・」
 「真実を」
 トスカから離れ再び問う。トスカは身体を起こした。スカルピアは睥睨する様にトスカを見下ろしている。扉が目に入った。立ち上がり駆け寄ろうとするがその前にスポレッタが立ちはだかった。
 力無く崩れ落ちた。だが扉に顔を付ける事は出来た。
 「マリオ」
 恋人の名を呼んだ。暫くして声が返ってきた。
 「フローリアか」
 恋人の声を確認出来少し安堵した。
 「大丈夫、ねえマリオ、大丈夫?」
 扉越しに必死に声を掛ける。
 「僕は大丈夫だ。落ち着くんだ、いいね」
 「ええ、けど・・・・・・」
 「いいね」
 「はい・・・・・・」
 トスカはそう言って扉にもたれかかった。スカルピアはその後ろへ音も無く近付いて来た。
 「ふむ、まだ言わないか。スキャルオーネ」
 扉の向こう側へ話し掛けた。
 「はい」
 スキャルオーネの声がした。
 「また始めろ」
 「解かりました」
 すぐに声がした様に感じた。その声は恋人の呻き声だった。
 その声が耳からトスカの心へ入って来た。
 その声がトスカの心の最も弱い部分を強く幾重にも締め付ける。胸が苦しくなりその顔は雪の様に白くなり汗が髪と顔を濡らす。
 「駄目、止めて下さい」
 耳を塞ぎ目を瞑った。
 「では話してくれますかな」
 表情を何一つ変えずにトスカに言った。トスカの心は潰れんばかりになった。
 「いいえ・・・・・・」
 もう少しで言いそうになった。だがすんでのところで止まった。
 「鬼よ・・・・・・・・・鬼だわ、貴方は。あの人も私も苦しめ抜いて殺すつもりね」
 絶え絶えに喉から搾り出す様にして言った。それに対しスカルピアは極めて、そう氷の如き冷酷さでトスカに言った。
 「それで?私は貴女がそうやって口を閉じられている方がより一層隣の部屋におられる方を苦しめてしまうのではないかと思いますがね」
 「そうやって心の中で笑うのね・・・・・・。地獄の炎の中の様な怖ろしい責め苦を与えそれに悶え苦しむ様を見て笑うのね・・・・・・。鬼よ、本当の鬼よ!!」
 「・・・・・・・・・」
 悲嘆と苦悶の入り混じった顔で壁に崩れ落ちるトスカをスカルピアは表情を変える事無く見ていた。そして密かに考えていた。
 (舞台でのトスカはこれ程まで悲劇的ではなかったな)
 スカルピアの嗜虐的な欲望に更に火が点いてしまった。トスカから一旦目を離し顔を上げた。
 「スポレッタ」
 一人残っていたスポレッタに声を懸けた。スポレッタはそれに対しほぼ反射的に敬礼をした。
 「扉を開けろ」
 スポレッタはその言葉に一瞬戸惑ったが上司の強い口調と眼光に怯み扉に手を掛けた。
 「そうだ。悲鳴がよく聞こえてくるようにな。よく、な」
 スポレッタは扉を完全に開けた。そしてトスカに立ち塞がる様にその前に立った。顔をトスカからそむけながら。
 スカルピアの思惑通り隣の部屋からカヴァラドゥッシの呻き声が聞こえてくる。くぐもり地の底から呻く様である。
 「負けるか」
 だがカヴァラドゥッシは屈してはいなかった。もし屈すれば自分の命や誇りだけではない、友や恋人の命をも失ってしまう事になるからだ。
 「強くしろ!」
 スカルピアは言った。すると隣の部屋から聞こえてくるカヴァラドゥッシの呻き声が更に強くなった。
 「負けてたまるか」
 それでもカヴァラドゥッシは負けない。どうしても負けるわけにはいかなかった。このまま責め続けてもカヴァラドゥッシは死ぬまで口を割らなかっただろう。だがトスカは違っていた。
 「話しなさい」
 トスカに問うた。
 「何をです?」
 トスカは顔を上げた。
 「早く」
 「何をですの?私は何も知りません。それなのに何を言えと仰るのです!?」
 トスカは必死に否定しようとする。だがそれをスカルピアは次の言葉で打ち消した。
 「流石に名の知れた女優だけの事はある。愁嘆場もお上手だ。しかし先程貴女も聞かれた筈です。子爵の『まだ大丈夫だ』というお言葉を。そしてそれがどういう意味かも」
 トスカの顔が凍りついた。それを確認してスカルピアは続けた。
 「これはアンジェロッティ候の居場所が何処か知っておられるという事の証だ。そしてそれを知っているが何があろうとも言わないという事だ。子爵だけでなく貴女も」
 完璧であった。後は追い詰めていくだけであった。
 「さあ言いなさい。何処に隠れているのです?」
 「あ、ああ・・・・・・・・・」
 「ぐっ・・・・・・・・・」
 その時部屋から聞こえていたカヴァラドゥッシの声が止まった。気を失ってしまったのだ。
 「起こせ」
 すぐにスカルピアは言った。そしてトスカに顔を向けた。
 「貴女が話されれば貴女も貴女の恋人もすぐに自由になれるのです。さあ早く話しなさい」
 次の一手を打った。トスカの心が動いた。否、動いてしまった。
 「あの人に会わせて。全てはその後で・・・・・・・・・」
 黒い瞳が大きく見開かれたその顔は今にも割れんばかりであった。ハァハァと肩で息をしている。
 「コロメッティ、どうだ?」
 スカルピアはあえてそれを無視した。何も無かったかのように隣の部屋の者達に問う。
 「息を吹き返されました」
 コロメッティの声がした。カヴァラドゥッシの意識が戻った事を知りトスカは少し胸を撫で下ろした。
 だがもう限界であった。隣の部屋へ行こうと立ち上がった。スカルピアはそれを待っていた。
 スポレッタに目配せをする。スポレッタは横に身を退けた。
 廊下を駆けトスカは隣の部屋に入った。部屋の中を見た時トスカは危うく気を失いそうになった。
 部屋の中には数本の燭台に照らされ十人近い男達がいた。
 黒い制服の警官達が椅子を取り囲んでいた。スキャルオーネやコロメッティもいる。
 椅子の正面には拷問係と記録官がいた。拷問係は暗灰色の服を、記録官は白い服を着ている。彼等の前のその椅子にカヴァラドゥッシは座らされていた。
 椅子は肘掛け椅子だった。そこに両手と身体を括り付けられている。そして三つのきっ先が付いた鉄の爪が頭に
被せられている。きっ先は赤黒い血に濡れカヴァラドゥッシに向けられていた。一つは首に、一つは右のこめかみに、そして最後の一つは左のこめかみにーーー。その三つからカヴァラドゥッシは血を流している。
 「マリオ!」
 蒼白の顔でトスカは呼び掛けた。
 「フローリア」
 血を流し失神さえ経ていながらもカヴァラドゥッシの態度は毅然としていた。しっかりとした表情でトスカの方へ振り向いた。
 「心配する必要は無いよ。例え胸を弾丸で貫かれようが僕は死なないよ」
 微笑さえ浮かべ恋人に言った。トスカを落ち着かせ心配を取り除く為だった。トスカの気の強さと気丈さを知っていたからこそだった。彼は知らなかった。彼女の気の強さも気丈さも上辺だけのものだという事を。そしてその二つの鎧で護られた彼女の心がどれだけ脆くて弱いものであるかを。
 恋人の言葉でトスカは何とか心を持ち直した。だが恋人の姿を見てしまったのは命取りだった。スカルピアの言葉が心の隅々まで打ち続ける。これ以上自分の愛する者が苦しむのを見たくも聞きたくもなかった。限界だった。カヴァラドゥッシが倒れるより先にトスカの心が割れて砕けてしまったのだ。
 「マリオ、私、もう駄目・・・・・・・・・」
 血の気なぞ微塵も感じられない死人の様な顔でトスカは恋人に言った。
 「フローリア・・・・・・」
 カヴァラドゥッシは言葉を失ってしまった。今まで自分が見た事のない、想像した事もないトスカが目の前にいたからだ。
 「私、もう耐えられない・・・・・・・・・」
 振り絞る様に言葉を出した。黒い瞳から涙が零れ落ちる。
 「何を言っているんだ、君が何を知っているというんだ」
 幼な子の様に泣きつつ言うトスカに驚いているが必死に彼女を抑えようとする。この時彼は過ちを犯してしまった。トスカに対し『君が何を知っている』と言ってしまった。確実にトスカは何もかも知っている。そしてその何かも。
 それまでトスカといた部屋で事の成り行きを見守っていたスカルピアが動いた。まずスポレッタを顎でしゃくった。
 スポレッタが動いた。トスカの下へ走り彼女の腕を掴んだ。嫌がる彼女を恋人の前から引き剥がし元いた部屋へと連れて行った。
 そこにはやはりスカルピアがいた。部屋めでトスカを入れると扉を閉めその前に立った。
 トスカは震えていた。まるで血に飢えた獣の前に立たされた子供の様だった。
 スカルピアは半歩踏み出した。それだけで総毛立つ様だった。王手詰み。
 「井戸・・・庭の・・・・・・井戸の中です・・・・・・・・・」
 震える指で窓の向こうを指し示した。スカルピアはそれに対し頷いた。
 「スポレッタ」
 素早く敬礼し部屋を出る。扉を出る瞬間彼は指で十字を切ったがそれは誰にも見えなかった。
 やがて責め苦から解放されたカヴァラドゥッシが二人の警官に連れられ入って来た。頭から血を流し足取りはふらついている。しかし心はしかとしていた。
 「何も言わなかっただろうね」
 強い視線でトスカを見つめる。それに対しトスカは伏し目がちで言った。
 「え、ええ・・・・・・」
 その声は弱い。それを見てカヴァラドゥッシは大体の事を察した。
 「井戸だ、行け!」
 あえて二人によく聞こえるように命令を出した。警官達が一斉に動く。
 「フローリア・・・・・・」
 弱々しい。そこには怒りは無かった。哀しみだけがあった。
 「御免なさい、私・・・・・・・・・」
 それ以上は言えなかった。涙と嗚咽に埋もれてしまったからだ。
 「いやいい、いいんだ」
 責められなかった。この女は自分の為に、自分を苦しみから解き放つ為にしたのだ。そうまで自分を想ってくれる女をどうして責められようか。
 (アンジェロッティ、生きていてくれ・・・・・・・・・)
 今はもう願うしかなかった。友が逃げ延びてくれるのを願うばかりであった。
 スポレッタが戻って来た。扉を閉めスカルピアに敬礼する。
 「井戸はどうなっている?」
 「はっ、途中に横穴があります。おそらくそこから逃亡したものかと」
 「そうか。スキャルオーネとコロメッティに伝えよ。ここにいる警官の四分の三を連れて逃亡者を追え、とな。場合によってはその場で殺しても構わん」
 「解かりました」
 スポレッタは退室した。扉が閉められるのを確かめるとスカルピアは二人へ視線を移した。
 「さて、と。次は・・・」
 その時一人の警官が駆け込んで来た。
 「何事だ、騒々しい」
 肩で息をしている。よく見ればファルネーゼ宮に残してきた警官の一人だ。
 「長官、一大事です」
 「何だ?王妃からの御命令か?」
 それはそれで厄介である。またあの公爵夫人が有る事無い事王妃の耳にいれたのだろうか。
 「いえ、マレンゴの事です」
 「勝ったではないか」
 少し安堵した。またぞろ無理難題を押し付けられるのではないかと内心気にかけたのだ。
 「敗戦です」
 「あの小男が、どろう」
 「いえ、我が軍がです」
 「何っ!?」
 「やったぞ!」
 その報せにカヴァラドゥッシは飛び上がった。余りの喜びに我を忘れている。
 「勝ったぞ、勝利だ。自由の旗がこのローマに再び立てられる日が来たのだ」
 「くっ・・・・・・・・・」
 スカルピアは悔しさで顔をしかめた。それを見てカヴァラドゥッシは続けた。
 「苦しみを受けたがその後にこの様な喜びが訪れようとはな。これでアンジェロッティも助かる。長官、貴方も王妃に睨まれぬうちにシチリアへ帰るんだな」
 「ぐぐっ・・・・・・」
 顔を紅潮させるがすぐに気を収めた。そしてトスカに視線を一瞬向けた後冷静な口調で言った。
 「その続きは場所を変えて聞かせて頂きましょうか。絞首台でね」
 指を鳴らす。警官が二人近寄りカヴァラドゥッシの両腕を押さえようとする。カヴァラドゥッシはそれを振り払い自分で歩いて行く。
 「さあ貴女も」
 呆然とするトスカを有無も言わさぬ態度で連れて行く。後には誰も残らなかった。
 従僕達は何処へ行ってしまったのだろうか。邸には人の気配が全く無かった。静寂が時を支配しようとしていた。
 窓が大きく開いた。バタンと音がする。
 風が吹いた。ゆらゆらと照っていた蝋燭の炎を消し去ってしまった。
 数台の馬車が遠ざかる音がする。そして全ては暗闇の中に消えた。


 裁きを下すべき方が席に着かれる時
 隠されていた事柄は全て露となり
 誰もがその報いを避けられぬ



おおー、物凄い展開…。
美姫 「果たして、これからどうなるのかしら」
逃げたアンジェロッティも気になるし。
美姫 「続きが楽しみね」
うんうん。次回も楽しみにしてます。
美姫 「それじゃ〜ね〜」



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