第二幕 ファルネーゼ宮殿


 ローマには多くの歴史的建造物がある。コロシアムの様に帝政ローマの頃からあるもの、サン=ピエトロ寺院の様にルネサンス期に建てられたもの等時代も建築様式も多岐に渡っている。
 ファルネーゼ宮は後者に当たる。時の枢機卿アレッサンドロ=ファルネーゼによって建てられた為その名が冠せられた。
 後に法皇となりパウロ三世となるこの枢機卿は神に仕える身ではあったが神に仕えてはなかった。彼は元々宗教に関心を持たぬ所謂ルネサンス的人物であり、最大の関心は地位と権力、富、そして美女であった。ルネサンスの時代だけでなく何時の時代でも何処の場所でもこうした人物はいるものであるが群雄割拠の状況であり聖俗の権力がアラベスクの如く複雑に絡み合ったこの時代のイタリアにおいてはこうした人物が目立っただけである。
 『右手に奸智、左手に謀略』と揶揄されたアレッサンドロ六世とその長子チェーザレ=ボルジアはあまりにも有名であるが彼等ボルジア家の政敵ローヴェレ枢機卿もそうであるしあの富豪メディチ家もローマ=カトリック教会と深い繋がりを持ちその栄華を誇っていた。そういった時代であった。
 パウロ三世も先のアレッサンドロ六世と同じく法皇という名の第一級の政治家でありこのままだと贅を極めた君主としてのみ後世に名を残していたであろう。だがこの時北の平野にある人物が出て来た。
 その者の名はマルティン=ルター。大食漢で大酒飲みで世話好きで子煩悩であったが同時に極めて清廉潔白な宗教観の持ち主であった。彼が教会の世俗化と腐敗に対し異議を唱えたのである。
 ローマはすぐに彼に破門を言い渡したがその程度で引っ込む男ではなかった。過激な発言と行動を繰り返し何時しか神聖ローマ帝国全土を巻き込む大騒動となった。
 混乱はローマにも飛び火した。それは大火事となった。神聖ローマ帝国軍とルター派新教徒、そして教皇軍がローマで衝突したのである。世に言う『サッコ=ディ=ローマ』である。
 帝国軍と新教徒達はローマ中で暴れ回った。所々で略奪と虐殺という名の血の宴を開き建物は破壊され火が点けられた。聖アンドレの聖骨は地面に投げ付けられ聖ヨハネの聖骨は蹴球にされた。数万の市民が殺されティベレ川へ投げ棄てられ路という路は堆く積み上げられた屍で埋められた。人の首や手が宙に飛び交い血が汚物と混ざり街を彩った。ローマは死の街となった。パウロ三世は枢機卿の時にこの混乱に巻き込まれ命からがらサン=タンジェロ城に逃げ込んだのである。
 そうした経緯から彼は新教徒達を激しく憎むようになった。法皇に即位すると先頭に立って宗教戦争を繰り広げ異端取締の為『聖丁』を設けイグナティウス=ロヨラやフランシスコ=ザビエル等ルターに勝るとも劣らぬ過激な修道僧達が作った『イエズス会』を修道会として認知し厳格なカトリックの教義を広めさせた。さらにトレントで公会議を開きローマ=カトリック教会の権威を取り戻した。彼のこうした行動により旧教徒と新教徒の憎悪と殺戮、異端審問による陰惨な魔女狩りが欧州全土を覆ったとも言える。
 この様な人物であるから歴史において彼の評判はすこぶる悪い。だが芸術においてはその評価は高い。
 ミカランジェロにシスティーナ礼拝堂の大祭壇画『最後の審判』を描かせ、またサン=ピエトロ寺院の大ドームを完成させた。
 ファルネーゼ宮もそうした彼の芸術における業績の一つである。反宗教改革の盟主である彼の強固な意志と贅と美を好む気性を反映しこの宮殿は他に多々建てられているローマの建造物のどれにもひけを取らない威風堂々たる建造物であった。広い中庭を持つというローマ建築の主流であるローマ様式の建物であり、その中庭を多くの部屋が取り囲み、各部屋には中庭に向かってロジックという独特の涼みの為の廊下が付けられている。大広間は上の階にありバルコニーと繋がっている。宮殿の正面はエジプトから取り寄せた花崗岩で造られた噴水が二つ置かれている。この二つの噴水のみならず宮殿全体はアントニオ=ダ=サン=ガロの設計によるものであるが彼がこの世を去るとミケランジェロが後を継いだ。彼は宮殿の上階を担当し、軒蛇腹と中庭側の正面の三層は彼が担当した。ミケランジェロが没すると彼の後継者ジャコモ=デラ=ポルタが師の仕事を引き継ぎ完成させた。この時ファルネーゼはこの世にいなかった。
 正門の入口は馬に乗ったまま入られる事からも解かるようにかなり大きい。大きいだけではない。豪華であり壮麗である。その威容はローマのどの建築物にも比肩し得る。後の人はこう評した。
 「アレッサンドロ=ファルネーゼはローマで最も美しいものを三つも持っている。―――一つはイエズス会のジェズ教会、一つは彼が神から授けられた一人娘、そして彼の一族の宮殿であるファルネーゼ宮殿」
 残念な事にファルネーゼの娘を見た者はローマにはもういない。 だがジェズ教会とこのファルネーゼ宮殿はローマの誰もが見ている。そしてその美しさを知っている。宮殿の大広間は多くの燭台で照らし出されている。その中を着飾った者達がいる。バルコニーの下にも灯火が輝き明るい広場をローマの市民達が埋めている。広間の中には演奏台や大姿見、テーブル、そひて玉座が置かれている。テーブルでトランプに興じている者達がいる。
 「司教、ローマは如何ですかな」
 黒い髪に灰色の瞳の男がカードを切りながら向かいの白い髪と鳶色の瞳の男に問うた。
 「満足しておりますよ、カプレオラ男爵。噂に違わぬ素晴らしい都です」
 司教はニコリと笑って言った。
 「そうでしょう。この街は一度住むと離れられなくなります。この街に虜になってしまって」
 切り終えたカードを司教に配る。
 「モンペリエをジャコビーニに追われた時はどうなるかと思いましたが。一生ここに住むのも悪くないですな」
 「そうでしょうとも」
 カードを手に取る。
 「唯一つ不満がありますが」
 「それは何です!?」
 ピタと手が止まる。
 「カードで勝てない事です」
 それを聞いてカプレオラ男爵は思わず噴き出してしまった。
 「ハハハ、これはちょっとしたコツがあるのですよ」
 「コツ・・・・・・・・・!?」
 「はい。賭け方がありましてね。その通りにやれば勝てるというものです。実は私もある方に教えて頂いたのですが」
 「どの様な賭け方ですか?そしてそれをご存知の方は一体どなたですか?」
 「はい、それは・・・・・・」
 その人物の名を言おうとした時二人の座るテーブルの横を誰かが通り過ぎた。
 「あ、さっき通り過ぎられた方です」
 見れば赤い炎の様な色の上着とそれと全く同じ色のズボンを身に着けた小柄な男である。髪は茶がかった金である。後ろ姿なので確かな年齢は解からない。
 「!?」
 その後ろ姿を司教は何処かで見た様な気がした。だがよく思い出せない。
 「どなたですか?」
 「ザラストロ伯爵という方です。ついこの間ワイマールから来られた方でしてね。まだ四十程ですが様々な事に造詣の深い方でいらっしゃいますよ」
 「成程」
 ふとある人物の事が脳裏に浮かんだがすぐに打ち消した。
 (そんな筈が無いな。あの方はもうこの世にはおられぬ)
 フランスで誰もが知る人物、だが何処に生まれどのようにして育ちどうやって生きているのか誰も知らなかった男。霧の様に何処かへ去りそして姿を現わさなくなった。森羅万象ありとあらゆる事を知りどんな事も器用にこなした男。ある者は彼を錬金術師と言いある者は彼を山師と言った。その男の名は歴史の謎の部分にしかと刻まれている。
 大広間の中で貴族達が遊びに興じたり談笑したりしている。戦いに勝利を収めそれを祝うとあってどの者の顔も晴れやかである。
 ただ例外もいる。茶の髪と瞳をした細身で中背の男が何やらせわしなく歩き回っている。
 名をジュゼッペ=アッタヴァンティという。アンジェロッティの妹の夫であるアッタヴァンティ候である。
 この人物の評判はパッとしない。凡庸で小心な人物であり風采も冴えない事から宮中でも忘れられがちである。美人で頭も良い夫人とは全く不釣合いな人物とよく陰口を叩かれている。善良であるが消極的で人付き合いも不得手でありかつ無気力な人物の為彼と親しい者も少ない。
 何やらそわそわと歩き回っている。何か気になる事でもあるのだろうか。不意に誰かに呼ばれた。
 「侯爵、どうなされました」
 アルトゥーロ=カヴァラドゥッシ伯爵である。ゼノアでの武勲により王妃から直々に勲章を賜ったのだ。
 「あ、伯爵、どうしてここに?」 
 「オルロニア公爵夫人に頼まれ事がありまして。侯爵を呼んで頂きたいと」
 王妃付きの女官である。金髪碧眼の長身の美女であり頭の回転が早い。王妃の側近である。
 「どちらです?」 
 「こちらです」
 大広間を出て廊下を挟んで前にある階段の前に夫人はいた。何やら意味ありげな微笑を浮かべている。
 「侯爵をお連れ致しました、マダム」
 「有り難うございます、伯爵」
 「どう致しまして。では私はこれで」
 「ご武運を」
 アルトゥーロ=カヴァラドゥッシは二人に一礼し階段を降り宮殿を後にした。すぐ馬に乗りマレンゴに向かった。
 「さて侯爵」
 カヴァラドゥッシ伯を見送るとオルロニア公爵夫人はアッタヴァンティ候に向き直った。
 「お聞きしたい事があるのですが」
 「な、何です!?」
 優雅に微笑む夫人に対し侯爵は狼狽している事が一目で解かる。それが夫人にとっては楽しいようだ。
 「奥方は今どちらにおられます?」
 悠然とした笑みの中で青い瞳がキラリと光った。その光に気付いた侯爵は更に慌てた。
 「フ、フラスカティですが、そ、それが!?」
 「いえ、唯お聞きしただけです」
 目を閉じて言った。疑われている、冷や汗が背筋を伝う。
 「ひ、一言言わせて頂きますがアンジェロッティ候の逃亡については家内も私も全く関係ありませんぞ」
 声が震える。演技ではない。それも手に取るように分かる。
 「あらあら、そんな事お聞きしておりませんわよ」
 「で、ですが・・・・・・」
 「まあまあ気を落ち着けになられて。もう一度確かめたいのですが。奥方は今どちら?」
 「フラスカティです」
 「分かりました。お時間を取らせて頂き有り難うございました。それでは宴をお楽しみ下さい」
 「・・・はい」
 アッタヴァンティ候は逃げる様に大広間へ戻って行った。その時階下で何やら話し声がした。
 「あら」
 見ればスカルピアである。不機嫌そのものの顔で部下達と何やら話している。
 「子爵の消息は掴めないか」
 「はい。お留守でした。捜査令状を盾に家の隅から隅まで捜しましたが使用人達がいるだけで。昼も夜も家を空けられる事が多いらしく何処かに隠れ家があるそうです」
 スキャルオーネが報告する。 
 「使用人は何と言っている」
 「誰一人として知りません。どうやら相当用心深いようです」
 「そうか。で、トスカは?」
 「パイジェッロ先生の邸宅で打ち合わせと軽いリハーサルの後自宅で食事と身支度を済ませ先程この宮殿へ来られました。カヴァラドゥッシ子爵の気配は何処にもありません」
 コロメッティが報告する。
 「糞っ、つくづく隠れるのが上手い奴だ。このローマは歴史と共に街が造られた。迷路の様に入りくんでいる。奴はローマの人間だ。この古臭い街の何処かに消えて今頃我々を嘲笑っているぞ」
 「はい」
 「そしてそのままローマを去り頃合いを見て舞い戻って来るつもりだ。我々が陛下の御不興を蒙り首が飛ぶのを見届けてからな」
 「はっ・・・・・・」
 部下達の顔が暗くなる。宮中における自分達の評判を最も良く知っているからだ。
 「だがそうはさせん。スポレッタ警部、アッタヴァンティ侯爵夫人は今何処だ?」
 「はい」
 薄い茶髪の小男が答えた。
 「フラスカティに行かれお留守でした」
 「それは知っている。だがな、我々が近寄って来ないのでそれが気になっている筈だ。おそらく夫人の方からローマへ戻って来て嫌疑を打ち消す為ここへも顔を出すだろう。その時に白状させる。どんな手を使ってもな。場合によっては捕まえるぞ」
 「えっ、宮中にも強い影響力をお持ちの侯爵夫人をですか?」
 懐から扇を取り出した。
 「これが何よりの証拠だ。それにトスカも関与しているかも知れぬ」
 「それはまさか」
 「否定出来るか」
 「えっ、いえ・・・・・・」
 スポレッタはスカルピアに睨まれ萎縮した。
 「ナポリでもこのローマでも解かった筈だ。誰が何をしているか、全く知れたものではない。知らぬうちに利用されていたりするからな。だが・・・・・・・・・」
 「だが・・・?」
 スカルピアは続けた。 
 「子爵は賢い。女を危険に巻き込む様な事はしないだろう。足跡は消してある筈だ」
 「はい」
 「今から陛下にお目通りして来る。情報も集めて来る。私が合図するまで待っていろ」
 「はっ」
 部下達は敬礼し門から出て行った。スカルピアは階段を昇り大広間へ向かった。
 「あら長官、お元気そうで」
 入口でオルロニア公爵夫人と会った。おそらく上で話を聞いていたのだろう、何やら皮肉な笑みを口の端に微かに浮かべている。
 忌々しい女だ。心の中で舌打ちしたが顔には出さず会釈する。
 「今晩は、マダム。本日もお美しくていらっしゃる」
 スカルピアはこの夫人が嫌いだった。代々伝わる名家の出身である彼女は成り上がり者のスカルピアを嫌い何かと王妃に彼の悪評を耳に入れていたからだ。
 「どういたしまして。ところで夕刻大砲が鳴りましたわね。如何いたしましたの?」
 眼に侮蔑の光が宿る。脱獄の件をあからさまに皮肉っている。
 「鼠が一匹消えましてね。今猫達に追わせているところです」
 「あら、あの小汚い猫達ですの?」
 スカルピアの眼に殺意の光が宿った。だが彼はそれをすぐに消した。
 「それは誤解ですな。極めて優秀な猫達ですぞ」
 「まあシチリアやナポリでたっぷりと食べて大きくなりましたからね。どなたかとご一緒で。随分と走り回っていたし、足も速いでしょう」
 「・・・・・・・・・」
 言い返そうとしなかった。怒りで顔と手が真っ白になっていた。
 「まあお気をつけあそばせ。もし鼠がローマから逃げ切ったら猫達も無事ではありませんし」
 「・・・・・・はい」
 「それでは私はこれで。陛下をお迎えしなくてはなりませんので」
 「そう言うと小馬鹿にした顔で去って行った。その後姿をスカルピアは忌々しげに見ていた。
 (フン、今に見ておれ)
 大広間に入る。誰もスカルピアには近寄ろうともせず声も掛けない。
 肉を口に入れた。葡萄酒で流し込む。
 暫くしてパイジェッロに連れられトスカが大広間に入って来た。大広間からどよめきの声が聞こえる。
 男達がトスカの周りに集まり次から次に先を争う様に彼女の手の甲に接吻する。その手にあるブレスレットはルビーとサファイア、そしてダイアモンドで飾られている。カヴァラドゥッシからの贈り物である。
 男達がトスカの周りから去ると今度はスカルピアが近付いて来た。他の男達と同じ様にトスカの手に口付けをする。
 「男爵、脱獄囚はもう見つかりまして?」
 立ち上がったスカルピアに対しトスカは言った。その言葉に隣のパイジェッロは色を失った。だがトスカはそれには気付いていない。
 「それが貴女にどういう関係があるというのです!?」
 不機嫌そのものの顔でトスカに答える。同時に極めて用心深くトスカの顔色を窺う。彼女の反応を探っているのだ。
 「ええ。牢獄からようやく逃れる事が出来た気の毒な方ですから」
 「ほう、それはお優しい事で。では一つお聞きしましょう、その人が貴女の家の扉を叩いたならば貴女は一体どうします?」
 「開けてあげますわ」
 「では貴女はその囚人と一緒にサン=タンジェロ城に入る事になりますな」
 スカルピアはトスカに釘を刺した。同時に一貫してトスカの顔を見ていたが結論が出た。白だった。またもや心の中で舌打ちする事となった。
 周りを見回す。誰もスカルピアと顔を合わせようとはしない。情報も集まりそうにはない。渋い顔をした。その時だった。王妃の到着を伝える声がした。
 それまで広間中に散らばり談笑し酒や料理を楽しみ賭け事に興じていた一同が左右に整列した。今までカンタータを鳴らしていた樂者達は国歌を演奏していた。
 大勢の従者達を従え王妃マリア=カロリーネが入って来た。豪奢な絹の白いドレスに身を包み手には王妃を表す杖が、そして頭には冠が被せられている。ブロンドのやや巻いた髪、青く強い光を放つ瞳、整った細い顔立ちに大きな特徴が幾つか見られる。
 鷲の様な鼻、厚い唇、やや出た下顎、それ等の特徴が彼女の出自を表わしていた。
 ハプスブルグ=ロートリンゲン家、神聖ローマ帝国皇帝として欧州全土にその権勢を誇示する欧州きっての名門である。
 かってはスイスの一地方貴族に過ぎなかった。だがこの家のある者が神聖ローマ帝国皇帝ルドルフ一世として即位するとその地位は一変した。以後婚姻政策を中心とした積極的な外交政策によりその勢力を拡大していく。
 ウィーンを本拠地としてオーストリア、ドイツはもとよりハンガリー、チェコ、スペイン、ベルギーそしてイタリアへとその勢力は拡がっていった。先に出たカール五世もハプスグルグ家出身である。彼だけでなく『忠誠最後の騎士』と謳われたマクシミリアン一世、スペインの絶対君主として君臨し『日の沈まぬ国の王』と称されたフェリペ二世もこの家の者であった。ハプスブルグ家の力と血は欧州を長きに渡って支配していた。教会が心ならばハプスブルグ家は背骨である、とある歴史家が書いた様に。
 多くの高名な君主を出したハプスブルグ家であるが最も偉大な人物を挙げよ、と言われてこの人物を挙げる者は多い。マリア=テレジア。オーストリア中興の祖とされ神聖ローマ帝国の事実上の女帝、国母としてオーストリアを、そして
ハプスブルグ家を支えた偉大な人物であった。
 彼女が父の後を継ぐや否やプロイセン、バイエルン、フランスといった周辺諸国がその継承権に異を唱え宣戦を布告した。世に言う『オーストリア継承戦争』である。プロイセンにシュレージアを奪われながらも何とかこれを凌いだ彼女は内政及び軍事での改革を断行すると共に長年対立関係にあったフランスのブルボン家と同盟を結んだ。『外交革命』である。次に以前より同盟関係にあったロシアとも繋がりを強めここにオーストリア、フランス、ロシアによる三国同盟を完成させた。欧州の外交史にその名を残す『三枚のペチコート』が完成した。ペチコートの狙うはサン=スーシーでコーヒーばかり飲み神も教会も無視し女性を侮蔑してやまない男、三国にとって今や目の上のたんこぶとなった成り上がり者、プロイセンのフリードリヒであった。
 彼が気付いた時事態はとんでもない事になっていた。周りはオーストリア、フランス、ロシアに取り込まれており四方から大軍が迫って来ていた。だが彼も大王と呼ばれた男である。自ら軍を率い戦場を駆け回った。幾度となく命を落としそうになったが生き残り戦い続けた。そしてプロイセンを守りきった。『七年戦争』である。
 勝てはしなかったが当代一の軍略家フリードリヒ大王を相手に一歩も引かなかった事はマリア=テレジアの名を欧州に知らしめる事となった。優れた人材を抜擢し内政、軍事の改革によりオーストリアは中欧に確固たる地位を築くようになっていた。それは文化や芸術にまで及びウィーンは『音楽の都』とさえ呼ばれるようになった。音楽の神の寵愛を一身に受けたあの若者モーツァルトも彼女の前でその天より授けられた才を披露した。
 また彼女は良き母でもあった。愛する夫フランツ=フォン=シュテファンとの間に十六人の子をもうけ限り無い愛を注いだ。後のオーストリア皇帝ヨーゼフ二世も、フランス革命の際断頭台の露と消えた悲劇の王妃マリー=アントワネットも彼女の子であった。
 マリア=カロリーネもまた彼女の子であった。母親譲りの統治能力とカリスマ性を併せ持ち、ナポリ王国を事実上支配していた。性格は苛烈にして果断、また幼い頃より共に遊び可愛がっていた妹を殺された事からフランス革命政府及びそれに与する者達を激しく憎悪していた。
 王妃は進んでいく。後には従者達だけでなくアラゴン公やオーストリア軍の将校達、そして各国の大使達もいる。広間にいる者達は皆王妃に礼をする。玉座の前に着くと向き直り一同に宴を楽しむよう言った。広間からも階下からも王妃を讃える声がした。シャンパンが次々と栓を放たれ乾杯の声が木霊する。
 王妃は賑やかな宴の中に入った。そしてトスカとパイジェッロの前に来た。
 「あ、王妃様」
 二人は王妃に跪き手の甲に接吻をした。王妃は二人を立たせると優雅な笑みを浮かべてトスカに問うた。
 「フローリア、喉の調子はどうですか」
 「はい王妃様、今宵は王妃様に満足して頂けると存じます」
 「それは何より。楽しみにしていますよ」
 「はい、有り難うございます」
 「それにしてもパイジェッロはそなたに謝らなければならない事が一つ有る様に思えるのだけど」 
 「えっ?」
 トスカは解らなかったがパイジェッロはギクリとした。パイジェッロがナポレオンに招かれてパリに行き、彼の為に作曲した事を皮肉っているのだ。
 「陛下、この者は罪有りとはいえ悔悟の情有りと見受けられますが」
 スカルピアが口を挟んできた。
 「おやこれは男爵」
 皮肉な陰を込めた笑みを浮かべてスカルピアに顔を向けた。
 「他人の事よりもアンジェロッティを逃がした此度の事件がそなたの不幸にならなければ良いのですが。そなたは敵が多いようですから」
 「申し上げますが陛下と同じ敵かと存じます」
 スカルピアも流石だ。負けてはいない。だが王妃も引かない。
 「それに彼の者の妹は美しく、裕福ですし。まあこれはどの者も知っている事だけど」
 好色で袖の下に弱いと言われるスカルピアに対し暗に当てつける。だがスカルピアも伊達に今の地位まで来たわけではない。
 「陛下は私に何か後ろめたい事があるとでも言われるのですか」
 怯まない。とそこへ従者が王妃に演奏の準備が出来た事を知らせに来た。 
 「そうですか、解かりました。フローリア、準備はよろしいですか?」
 「はい」
 王妃に会釈し演奏の場へと向かった。そこに置かれている台に登った。パイジェッロが指揮棒を手に取り曲が始まった。
 高く澄んでいてそのうえ美しい声である。幾十もの色彩りのの宝玉を転がす様に歌われたかと思えば小河の清らかなせせらぎの様に、そして庭園に咲き誇る紅の薔薇の様に、激しく赤い血潮の様に、それから一変して夜の冷たく澄んだ森の中の湖に映る白銀の満月の様に、次々と色彩りを買え歌われるその歌はその場にいた全ての者を魅了した。その歌声と技量に誰もが言葉を失った。
 「・・・・・・・・・」
 歌うトスカの姿も美しかった。その場に応じその美しさを変え時に楚々と、時に激しく、時に祈り深く、時には艶やかだった。これがトスカの魅力の一つでもあった。歌だけでなくその美貌でもイタリアに知られていたのだ。
 スカルピアもその一人だった。だが彼は他の者とは異なる感情を抱き始めた。この女を自分のものにしたいと考えた。どの様な手段を使ってでも奪ってやりたいと思った。
 カンタータは終わった。広間からは割れんばかりの拍手が沸き起こった。階下の広場からも歓声が轟く。やがてそれはナポリ王国とオーストリア軍、そして王妃を讃える声となっていった。
 「陛下、民達が貴女を讃えています。愛すべき彼等に陛下の慈しみをお示しになって下さい」
 アラゴン公が慇懃に会釈し王妃に頼む。王妃はその頼みに対しバルコニーへ進み微笑みでもって応えた。
 「フローリア、貴女も」
 王妃に誘われトスカもバルコニーへ進んだ。そして王妃にやや遅れてバルコニーへ姿を現わした。
 「王妃様万歳!王妃様万歳!」
 バルコニーに王妃が姿を見せたのを認めるとローマの市民達は更に声を大きくして叫ぶ。王妃は喜び手を振っている。
 「トスカ!トスカ!」
 トスカにも声が送られる。トスカも恥ずかしそうに手を振る。
 声は続く。やがて別の声も混ざってきた。
 「フランスを倒せ!共和主義者を倒せ!アンジェロッティを倒せ!」
 最早市民達の中にもアンジェロッティを快く思わない者がいた。多くの者にとってフランスと同じく共和主義者もまた歓迎されざる者達だったのである。
 「聞きましたか男爵。ローマの者達はアンジェロッティの首を求めていますよ」
 王妃がすぐ後ろに控えていたスカルピアに声をかけた。広場の民衆はスカルピアの姿を認めると言葉を変えた。
 「スカルピアを倒せ!スカルピアを倒せ!」
 スカルピアの評判は共和主義者達のそれよりも悪かった。シチリア出身の成り上がり者でその上得体の知れぬ柄の悪い者達の主であるからそれは至極当然であった。
 「今度はそなたの首」
 王妃の言葉に広間にいた者も広場にいた者も皆笑った。スカルピアは苦虫を噛み潰した様な顔になった。
 王妃がバルコニーから去るとトスカもスカルピアも広間へ戻った。トスカは先程フランスの司教が後ろ姿だけ見た紅衣の男に声をかけられた。
 茶がかった金の髪に猫の様な緑の瞳を持っている。知的だが何処か悪戯っぽさを含んだ顔立ちをしている。左手には何やら不思議な色の指輪がある。紅の衣は一見絹に見えるが絹ではなかった。この様な衣は今まで見た事が無かった。何の生地で出来ているのだろうかと考えた。
 「この衣ですか?牛の乳から作ったのですよ」
 男はトスカの思っている事を読んだかのように言った。
 (何でこの人私の考えている事が分かったのかしら?)
 トスカはそう思ったが別に不思議だとも考えなかった。純真な彼女は自分の考えている事をよく当てられたりしたからだ。それよりも牛の乳から服が作られた方がより不思議であった。
 「牛の乳、からですか?」
 「はい。少しコツがありましてね。まあいずれ皆が着るようになりますよ」
 「はあ」
 男の悪戯っぽい笑みとその言葉に狐につままれた様な気になった。牛乳とは飲むものであり加工して食べるものなのにどうやって。どうしても理解出来なかった。からかわれているのかと思った。
 「おっとっと、からかいに来たのではありませんよ」
 「はい」
 また読まれた。それ程表情は出していない筈なのに。
 「実は貴女にお渡ししたい物が一つありましてね」
 「何でしょうか」
 「これです」
 懐からある物を取り出した。それは銀色に輝く大きな十字架であった。
 「十字架、ですか」
 「はい。貴女にはよく似合うと思いまして。きっと貴女を御護り下さる筈です」
 「よろしいのですか?私なぞに」
 「貴女だけではありません。貴女の愛しい人も御護り下さいます」
 「そうでしょうか。あの人はあまりこういった事は・・・・・・」
 少し苦笑した。だが男は自信を湛えた満面の笑みで答えた。
 「そんな事はありませんよ。この十字架に貴女と彼はきっと感謝する筈です」
 「そうでしょうか。でしたらあの人が私にだけ振り向いてくれますように」
 そう言って十字架を受け取り十字架に対して祈った。そして男に対し礼を言った。男はそれに返礼をすると人ごみの中へ入っていった。
 スカルピアは広間の端の方で思案に耽っていた。今自分の置かれている状況とそれに対する対策である。
 (アンジェロッティに逃げられた事は痛いな。オルロニア公爵夫人はここぞとばかりに陛下に讒言してくる。今この場でも)
 オルロニア公爵夫人の方を見る。こちらをチラリ、チラリと見ながら王妃に何やら囁いている。
 (公爵夫人だけではない。この広間にいる奴等も下の広場にいる連中も皆このわしを地獄に叩き落そうとしている。糞っ、あのイギリス女が妙な事を言わなければこの様な事にはならなかったというのに)
 忌々しげに飲みかけの杯を置く。長く溜息を吐いた。高ぶりだしていた気が落ち着いてきた。
 (落ち着け。だとすれば逃げた男を捕まえれば良い。おそらくマリオ=カヴァラドゥッシが匿っている筈だ。あの男を探し出せばそこにアンジェロッティもいる。だが用心深い奴の事だ。姿を現わす頃にはアンジェロッティは高飛びしている。奴は無理にしても奴の妹ならこの扇を証拠にして捕まえられる)
 懐から扇を取り出し手に取る。
 (とにかくカヴァラドゥッシの居場所を突き止めなければならない。知っているとすれば・・・・・・・・・。使用人共は誰も知らん。おそらく秘密の隠れ場所にいるな。だとすれば兄のアルトゥーロ=カヴァラドゥッシ伯爵、は無理だな。もうマレンゴへ向かった。それに伯爵に感づかれてはまずい)
 もう一つ厄介な事に気付いた。カヴァラドゥッシの兄に気付かれては全てが終わるのだ。
 (オーストリア軍きっての将だ。こちらからは手出しが出来ぬ。唯でさえわしが弟をマークしている事に不快を示しているというのに。アンジェロッティに逃げられぬうちに伯爵に気付かれぬ様に。わしの首が飛ぶより速く、か。さてどうしたものか)
 扇から目を離し考え込んだ。ふとトスカが目に入った。何やら多くの淑女達と話し込んでいる。
 (トスカはあの男の恋人だ。だとすれば奴の隠れ家も知っているやも知れぬ。だがどうすれば)
 その時ある考えが脳裏に閃いた。
 (そうだ、トスカは情熱的で直情的な女だ。奴が女にもてるのみいつも焼き餅を焼いていたという。それを使おう。それに・・・)
 先程の歌を唄った時のトスカの姿が思い出された。トスカに対し邪な欲望が首をもたげはじめていた。
 (あの男が消えればわしのものに出来るかも知れぬ。獲物が多くなるかもな)
 顔がドス黒くなる。鉄仮面の様に表情に乏しい顔だがそれが変色していく。
 (だがどうするかだ。待てよ)
 手にする扇に気付いた。そしてある劇を思い出した。
 (この前見た『オセロー』とかいうイギリスの劇でイヤーゴという男はハンカチを使って事を運んでいたな。それではわしは扇を使うとするか)
 再びトスカに目をやる。何も知らずに楽しくお喋りに興じている。
 (あの女が嫉妬深ければおそらく一直線にカヴァラドゥッシの下へ行くだろう。嫉妬に狂った女鷹に比べれば警官なぞものの数ではないわ)
 笑みを仮面の下に隠しながらトスカに近付いていく。スカルピアを見て淑女達は潮の様に引いていく。
 手を取った。あえてわざとらしく親しそうに言った。
 「トスカさん、貴女のこの美しい手に冷たい手錠を架けるのも、あのサン=タンジェロ城へ送るのも全て私の一存でどうとでもなるという事を御存知ですかな」
 露骨に脅しをかける。普段は陰に陽に仕掛けるがあえて露骨に仕掛けた。その言葉を聞いた者は思わず顔を顰めた。スカルピアはこういった言葉を出す時必ず罠を張っているからだ。そして当のスカルピアは周りの視線を無視した。
 「貴女のそのブレスレットはルビーとダイアモンドとサファイアで飾られている。まるでフランスの国旗だ。その件で手錠をお架けしてもよろしいのですよ」
 「?」
 トスカは彼が何を言っているのか解からなかった。悪ふざけかと思った。それに構わずスカルピアは続ける。
 「それよりも貴女を異端者としてサン=タンジェロ城へ送ろうか」
 「私を、ですか!?」
 この言葉にトスカは驚いた。自分の信仰の篤さと王妃への忠誠は誰もが知っていると確信していたからだ。
 「はい。貴女は教会でジャコバン派の者とお会いしていたので」
 トスカはその言葉を聞きその事か、とホッとした。だが彼女は気付いてはいなかった。スカルピアの罠に落ちた事を。そしてスカルピアの親しげな仮面の下の邪悪な笑顔を。
 「あの方は私に見も心も捧げてくれています。御心配無く」
 「そうですか」
 スカルピアはあえてにこりと笑った。そして懐からあれを取り出した。
 「それでは安心してこれを返す事が出来ます」
 扇をトスカに手渡した。
 「これは・・・・・・・・・!?」
 トスカは扇を手にして呆気に取られた。
 「夕刻サン=タンドレア=ヴァッレ教会で拾ったものですが。貴女の物でしょう?」
 その時扇の紋章が目に入った。トスカの顔が割れた。否、割れたかと思える程の驚愕だった。
 「これは私の物ではありません!」
 「えっ、それでは何方の物です?」
 スカルピアはここでも演技をした。驚いてみせる。
 「扇にあるこの紋章はアッタヴァンティ家のもの、これはあの夫人・・・・・・」
 「ああ、そういえば教会のあの絵はアッタヴァンティ侯爵夫人によく似ていますな」
 スカルピアの言葉にトスカは火が点いた。事を完全に理解した、と思った。そう、思ったのである。
 「やっぱりあの教会で会っていたのね、私の目を盗んで」
 一人酒を飲んでいるアッタヴァンティ侯爵の所へ行く。怖ろしい剣幕で詰め寄り問い質すトスカに何も知らない侯爵はタジタジとなる。しかも多少ぼんやりしたところのあるこの侯爵は当の扇が誰の物なのか解からない。仕方無く妻の情友であるトリヴェルディ子爵を呼んだ。
 情友とは妻や夫以外の恋人の事である。今で言うと愛人となるだろうか。ただし今の愛人とは違い当時のイタリアではこの情友と愛人は似て非なるものであった。愛人とは一目を盗んで相手の下へ入り込み誘惑し、相手の妻や夫の名誉や面目を損なわせる恥知らずな輩達のことであり、日本でよく泥棒猫だの女狐だの間男だのと呼ばれる連中と言えば解り易いか。これに対し情友とは相手の妻や夫公認の第二第三或いはそれ以上の立場の恋人である。情友とは天からも認められた堂々たる恋愛崇拝者であり、相手の妻や夫の許しの下節度と慎みをもって相手に近寄り機嫌を取るのだ。開けっ広げな恋愛観を持つイタリア人ならではの存在と言えよう。
 もっともイタリアだけでなく当時の欧州の貴族社会は何処も似たり寄ったりだった。むしろ見方を変えれば愛人が主流であった国も多いのでイタリア人から見ればそちらの方がけしからん事だったかも知れない。ロシアのエリザベータ女帝もエカテリーナ二世も男性遍歴の激しさで有名であったしイギリスのチャールズ一世は稀代の女たらしであった。何しろイギリスはヘンリー八世の女性問題でローマ=カトリック教会と袂を分かった国でもある。処女王と言われその冷徹さと鋭利な頭脳で知られたエリザベス一世も幾人か愛人がいた事が確認されている。
 この点において特に有名なのがフランスであろう。どうもこの国の国王は代々女好きの国王ばかり出てくる。フランソワ一世、アンリ三世、アンリ四世と次から次にとカサノバの向こうを張る色事師が登場する。アンリ三世に至っては自分の身辺を着飾った美男の剣客達で固めていたのだからその道の人物まで揃えていた。それでも彼等はルイ十四世、ルイ十五世の二人程ではなかったが。この二人によってどれだけの花が折られてしまった事であろうか。フランスの夜が長いのも考えものである。
 こういった状況だからおしどり夫婦として有名だったマリア=カロリーネの両親マリア=テレジアとフランツ=シュテファン=フォン=ロートリンゲンは特筆に値する。ただし中々の美男子であり人柄も良かった神聖ローマ帝国皇帝の夫には言い寄って来る女性が結構いた様である。浮気の虫が起きる前にいつも夫に気付かれぬように妨げていたので何事も無かったが。
 マリア=テレジアは男女関係、女性の誇りについてとかく口やかましい人物であり夫婦や親子の愛が何よりも好きだった。これは女性を蔑視してやまない宿敵プロイセン王への対抗意識も含まれていた。もっともこのプロイセン王は生涯独身でありサン=スーシーで哲学書を読んだりコーヒーを飲みながら青年士官達と談笑するのを無上の喜びとするこの時代屈指の変人であったが。
 勿論アッタヴァンティ侯爵にも情友はいる。彼なりに楽しんでいる。妻に情友がいるからと騒ぐつもりは毛頭無い。むしろ情友が自分も知っている気心の知れた人物だったので安心している程である。
 トリヴェルディ子爵が来た。黒の髪に緑の瞳を持つスラリとした美男子である。侯爵から例の扇を渡された。侯爵とトスカの双方からこの扇が夫人のものかどうか問われた。
 暫くまじまじと見ていたが侯爵に返し言った。それはトスカが危惧していたものだった。
 「そうです、これは侯爵夫人の扇に間違いありません」
 トスカはその言葉にワナワナと震えだした。顔が紅潮しその黒い瞳に嫉妬の炎が宿る。
 「マリオ・・・・・・許せない!」
 口から燃える様な言葉が吐き出る。
 「きっとあそこね、見てらっしゃい!」
 ここでトスカは致命的なミスを犯してしまった。それに彼女は気付いていない。だがこの言葉が彼女を地獄へ引き摺り落とすことになってしまった。
 「あそことは!?」
 計算通りだった。スカルピアは次の一手を打った。
 「貴方が知らせに行かれるとよくありませんからお教えするわけにはいきません。私が飛んで行って二人を捕まえます」
 そう、二人だ。その二人へ向けて今鷹が放たれた。侯爵が扇を受け取るや否や王妃とパイジェッロに挨拶を済ませ宮殿から姿を消した。
 「これでよし、と」
 スカルピアは笑った。
 「御一緒して下さいませんか」
 そう言ってアッタヴァンティ侯爵を引き寄せた。王妃に挨拶を済ませると侯爵を連れて下に待たせておいた部下達と合流し二人残し馬車でトスカの後を追った。宮殿を出て暫くして一台の馬車と擦れ違ったが気に留めなかった。
 トスカとスカルピアが退場した後も大広間では宴が続けられていた。王妃も他の者達も皆美味い酒と料理、そして勝利に心地良く酔っている。そこへアルトゥーロ=カヴァラドゥッシが駆け込んで来た。
 「どうしたのですか、将軍。何か忘れ物でも?」
 「いえ、火急の早馬が来ましたのでお伝えに参ったのです」
 美酒に酔う王妃にそう言うと固い表情で懐から一通の書を取り出し王妃に手渡した。
 手に取り読む。その書を読むうちにそれまで酒と喜びで紅かった王妃の顔は見る見るうちに蒼白になった。そして最後には気を失い倒れ込んだ。
 それを伯爵が支える。周りの者は皆王妃を気遣い駆け寄る。
 書が落ちていた。一人が王妃が手にしていた書を拾い読んだ。そして思わず叫んだ。
 「・・・・・・・・・負けた!」
 周りの者も書を覗き込む。本当だった。
 それまで賑やかだった広間は大騒ぎとなった。敗戦の話を聞きそのショックで叫ぶ者もいれば悲鳴をあげる者もいる。だが外ではまだその事を知らないローマの市民達が万歳を叫んでいる。
 伯爵はその喧騒の中で一人冷静だった。近侍の者を呼び王妃を介抱するよう言うと場を静めだした。伯爵の手により人々は恐慌状態から立ち直り落ち着きを取り戻していた。
 広間は伯爵のてにより静かになった。皆騒いでいたが何とか落ち着いてきた。
 この時伯爵の他にもう一人冷静な人物がいた。人々の中に入って解かりづらかったが一人だけいたのだ。紅衣を着たあの男だ。
 トスカに十字架を渡してから広間の端の方に控えていたがトスカの行動を一部始終見ていたのだ。スカルピアの行動も。
 「予定通りだな」
 一言呟いた。動いた。猫の様に素早くしなやかな動きだ。
 「それでは次の行動に移るとしよう」
 まるで影の様に誰にも気付かれる事無く広間を後にした。この人物が何時退場したのかこの広間にいた誰もが
知らなかった。
 トスカは恋人の下へ馬車を急がせる。そしてその後をスカルピアが追う。陰惨な劇が幕を開けようとしていた。



恋人の下へと急ぐトスカ。
美姫 「その後を付けられているとも知らずに…」
果たして、どうなってしまうのか。
美姫 「緊迫した状態が続くわね」
次回も目が離せない!
美姫 「楽しみに待ってますね〜」



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