第一幕 聖タンドレア=デッラ=ヴァッレ教会
ローマには多くの教会がある。その一つとして聖タンドレア=デッラ=ヴァッレ教会がある。俗にデッラ=ヴァッレ教会と呼ばれるこの教会はローマの教会の中でも特に有名なものの一つである。内部は高窓から差し込む黄金色の光で眩く照らされカルロ=マデルナの建てた巨大なドームがそれを覆っている。カルロ=ライナルディの造ったバロック様式の
ファザード、ランフランコ兄弟の楽園と聖アンドレアを描いたフラスコ画等多くの芸術作品で飾られている。その中にはまだ作成途中の絵画もある。そして礼拝堂も。
長い歴史を誇る教会なだけはありローマの高名な貴族達の家それぞれの礼拝堂がある。どれもその権勢を誇示するかの様に豪奢な装飾が為されているがその一つにアンジェロッティ家のものがある。
ローマ、いやイタリアでアンジェロッティ家をしらぬ者はいない。ローマで代々重要な役を担ってきた侯爵家でありハプスブルグ家やブルボン家とも繋がりがある。古い家の多いローマでも五本の指に入る名門でありその権勢と富はイタリアに知れ渡っている。同時に代々進歩的な人物を輩出していることでも有名でありことに当代の主チェーザレはフランス、それもジャコバン派の熱狂的な支持者であった。
当初彼はさして急進的なでもなくどちらかと言えばオーストリア寄りの保守的な人物であった。オーストリアの外交官としてナポリやローマに赴任したことがある。この時フランスは革命の業火の中にあった。
フランスの情勢を把握する為にアンジェロッティは派遣されたわけであるが彼はこの時のフランスを調べるうちに革命派に惹かれていった。
そこでナポレオンという若者に出会ったのは彼にとって幸だったのか禍だったのか。幾度となくナポレオンと語り合ううちに彼はナポレオンの虜となってしまった。
常にナポレオンの側にいるようになった彼をオーストリアは嫌うようになった。外交官を罷免され宮中への出入りも禁じられた。だが彼はそれを全く意に介さなかった。ナポレオンの第一次イタリア遠征に従軍しフランス軍がローマに入城しローマ共和国という傀儡国家を建てるとその領事となった。領事とはいえナポレオンの操り人形である事は誰の目からも明白であったがこの時彼の心は絶頂の中にあった。しかし運命の女神達は時として人に残酷な運命を与えるものである。アンジェロッティは神を信じてはいなかった。ましてや遠い北の人々に忘れ去られた神々なぞ知りもしなかったかもしれない。だが運命の女神達は実に皮肉屋であった。信じられない程奇妙な時の糸で彼を捕らえた。
領事として各国の大使や外交官達を招いたパーティの会場でナポリより招かれたイギリス公使ハミルトン伯とその若い妻に会った時彼の顔は思わず凍りついた。
ハミルトン伯の若い妻、エマ=ハミルトンと名乗る美しい女性、それはアンジェロッティがロンドンにオーストリアの外交官として派遣されていた頃よく通っていいた高級娼館の娼婦だったのだ。
貧しい鍛冶屋の家に生まれた彼女は美貌に恵まれていた。当時日々の糧に困る女が就く仕事といえば真っ先に挙げられるものが娼婦であった。エマ=ハミルトンも例外ではなかった。だが美貌だけでなく頭も良かった彼女は裕福な貴族達を次々と篭絡し、遂にハミルトン伯の後妻となったのである。
夫がナポリ公使に任命されるとその美貌と知性によりナポリ社交界、そして王妃マリア=カロリーネに気に入られ絶大な信頼と影響力を手に入れた。その二つは夫のそれを凌ぐ程であった。特に外交手腕は見事でありロイヤル=ネービーがナイルの海戦でフランス軍に対し勝利を収めたのも彼女の尽力でシチリアの制海権を得たことによるのが大きかった。
その様に大きな力を持つ彼女が一つ恐れる事があった。それは娼婦として生きていたという自らの忌まわしい過去が暴かれる事であった。母国イギリスではナポリ公使を務める有力者の妻ということもありそれを完全に消してしまう事が出来た。ナポリではその様な事知るよしも無い。だが目の前に彼女の過去を、しかもそれを直接的に知る者がいたのである。
彼女は怖れた。自らの過去が暴かれ事は彼女にとって今の栄華が崩れ去ることに他ならなかった。彼女にとってアンジェロッティという男は災厄そのものであった。
刺客を送ろうと考えた。だが彼の周りは常にフランス軍の兵士達が固めており暗殺は不可能であった。アンジェロッティの方も自身の命が狙われている事は察知していた。その為身の周りを常に用心していた。エマとアンジェロッティの命を賭けた駆け引きは暫く続いた。だがそれも終わる時が来た。欧州の情勢の変化に伴いフランスのイタリア半島における影響力が後退した。それによりフランスの傀儡国家であったローマ共和国も崩壊してしまったのである。
その機を逃すエマではなかった。アンジェロッティの屋敷へすぐさま刺客を送ったがそこに獲物はいなかった。だがエマは諦めなかった。王妃に頼みアンジェロッティの手配状をイタリア全土に配布した。彼の首には大金が掛けられ他の共和主義者達と共に追っ手を差し向けられた。
だがイタリアに大きな影響力を持ち用心深い彼の行方はようとして知れなかった。情報は次々と入ってくるがそのどれもが風聞でありその尻尾は掴めなかった。
そうこうしているうちにナポレオン率いるフランス軍が再びフランスへ攻め入って来るとの話が来た。エマが焦った。このままではアンジェロッティに逃げられてしまう、彼女は次第にその焦りの色を濃くしていった。
やはりナポレオンは来た。瞬く間に北部を席巻しローマへ向けて南下して来る。これにより共和主義者達が活気付くのを怖れた王妃は大軍を北へ向かわせると共に自らの腹心スカルピア男爵を対共和主義者の為の秘密警察総監としてローマへ送り込んだ。
スカルピアは着任早々共和主義者達を次々に捕らえていった。そして片っ端から絞首台へ送り込んだ。ここで捕らえられた共和主義者の中にアンジェロッティもいたのである。彼は自らの本拠地ローマに潜んでいたのだ。
エマは狂喜した。すぐに死刑にしてしまうよう王妃に進言した。大きな影響力を持ち王妃の実家ハプスブルグ家とも関係があるアンジェロッティ家の当主だけにその処刑には難色を示したが家督を教皇領の重職にある彼の弟に継がせる事、そして獄死という形で始末してしまう事で王妃を説得した。そしてその旨をローマのスカルピアに届けた。これでエマはようやく安堵した。その心は過去を知る男への憎悪からエジプトでフランス海軍を破った片目片腕の提督への愛へとなっていった。
アンジェロッティが暗殺されるという話は王妃とエマ、そしてスカルピアだけが知っている筈だった。だがエマが彼に多額の賞金をかけていた事とスカルピアが捕らえた共和主義者達を略式の、既に判決が決せられている裁判の後処刑台に送っている事からアンジェロッティの命が風前の灯にある事は容易に察せられた。アンジェロッティ家としては何としても主を救い出さなければならなかった。
まず教皇に仕えている彼の弟シモンが動いた。兄が投獄されているサン=タンジェロ城の典獄を買収した。トレベリというこの典獄は袖の下に弱く信用の置けぬ人物であったが牢獄の鍵を持っている事から彼を取り込むしか他に無かったのである。
次はアッタヴァンティ侯爵家に嫁いでいる妹マルケサの番だった。兄が脱獄したならすぐにアンジェロッティ家の礼拝堂が有る聖タンドレア=デッラ=ヴァッレ教会に行くよう伝えそこで変装してローマを脱出するよう手配した。無論礼拝堂の中には変装する為の服や小道具を隠しておいた。
二人の手となり足となりアンジェロッティ家の者達は動いた。スカルピアの目を盗みながら主を救出する計画は進められた。
六月十七日、計画は実行に移された。アンジェロッティはサン=タンジェロ城を逃げ出し教会へ向かった。
ドームの中はフラスコ画や豪華な装飾で飾られている。高窓から差し込む光が翳ろうとしている。夕暮れが近付いている。光に照らされている絵画の中にはまだ完成していないものもあり布で覆われている。その下びは絵具や筆等が置かれている。そのすぐ隣に入口がある。木製の大きな扉だ。その扉が少し開いた。外から囚人服を身に纏った男が入って来た。
金色の髪に青い瞳をしている。背は普通位か。汚れてはいるが気品のある整った顔をしている。囚人服はボロボロで所々破れている。肩で息をし何やら震えている。何処からか逃亡してきたようだ。
左右を見回しながら礼拝堂の方へ向かう。礼拝堂の前へ行くと懐から何やら取り出した。
それは鍵だった。鍵で礼拝堂の扉を開けると中へ入っていった。
扉が閉められた。中からガチャリと音がした。
暫くして入口から二人の男が入って来た。一人は白髭を生やした小柄な老人でもう一人は手に籠を下げた若い男である。
籠はパン籠であった。中には少量のパンとコールド=チキン、無花果数個にナプキン、二つの銀の杯、そしてワインのデキャンタが入っている。
老人はデキャンタを見て言った。
「ゼッナリーノ君、そのワインはグラグナノではないかい?」
その言葉にゼッナリーノは苦笑した。
「何言ってんですか堂守さん、これは白ワインでしょ、グラグナノは赤ワインじゃないですか」
「はて、そうだったかの?じゃあマルサラか」
「そうですよ。閣下のお気に入りなんです」
「鶏に白ねえ・・・。閣下も少し変わっておられる。まあ変わっておられるからフランスなんぞ支持なさるんだろう」
「ちょっと」
堂守を咎める。強い口調だ。
「あ、済まぬ済まぬ」
両手の平でゼッナリーノを制しながら謝る。
「何も御前さんの御主人に悪気がある訳ではない。優しい方だし礼儀正しい。何より気前が良い。子爵殿には感謝しておるよ」
「なら良いんですけどね。閣下の事を悪く言うと承知しませんよ」
「判った判った」
そう言い終わると堂守は教会の清掃を始めゼッナリーノは入口の側にある布で覆われた絵の下に置かれている絵具や筆の手入れにかかった。少しして一人の男が入ってきた。
「マリオはいるかい?」
背の高い黒い髪と瞳を持つギリシア彫刻の如き端正な顔立ちの男である。逞しい身体をオーストリア軍将官の軍服とマントで覆っている。
「あ、伯爵」
堂守とゼッナリーノは思わず直立不動となった。彼こそローマの有力貴族の一つカヴァラドゥッシ伯爵家の当主でありまたオーストリア軍きっての知将と謳われるアルトゥーロ=カヴァラドゥッシである。
かってオーストリアのフランス大使を務めた父と哲学者エルヴァシウスの姪孫娘との間に生まれ長じてオーストリア軍士官学校に入り軍人として武勲を挙げてきた。謹厳実直で度量も広く兵士からも人気が高いオーストリア軍の名将カール大公の懐刀でもある。この度のイタリア戦役においてもその知略でもってフランス軍を大いに悩ませた。特にゼノア城に籠城するフランス軍を打ち破り多数の捕虜を得たのは彼の策に拠るところが大きい。この功によりナポリ王妃より勲章を賜る為ローマに来ていた。
「いないのか?確かこの教会で絵を描かせてもらっていると聞いたのだが」
「ユダヤ人街へ画布を買いに行かれたのではないでしょうか?画布が少なくなってきたと言っておられましたので」
「ユダヤ人街か。ならばすぐに戻って来るな」
「はい」
ゼッナリーノが答えるとすぐに扉が開いた。
「ゼッナリーノ、誰か来てるのかい?」
前後に短く切った黒い髪を持ち顎鬚を生やした男が入って来た。黒い瞳をしている。その光は強く明るい。細面の美男子である。どうも髭が似合っていない。青い丈の長い上着に白いシャツ、赤のタイを身に着けている。黒の長ズボンにブーツをはいている。背は高い方か。彼こそアルトゥーロ=カヴァラドゥッシの弟、マリオ=カヴァラドゥッシその人である。
二人の父はフランス大使をしていた折ディドロやダランベールといった百科全書派の学者達と交流があった。エルヴァシウスの姪孫娘と結婚したのもその縁からであった。
兄は軍人を志したが弟は父の影響か学者を志した。フランスへ留学しパリで哲学を学んでいたが絵に興味を持ち始め当時その絵が大いに話題となっていたダヴィットの元へ弟子入りした。才能があったのかその技量はすぐに師を唸らせるまでになった。独立しすぐに名が売れ始めたがその矢先に両親が急死したとの報が入ってきた。
遺書が残されていなかった為兄と遺産相続を相談する為ローマに帰ったがある個人的な事情の為相続の件について話が着いてもローマに留まり絵を書き続けている。
「マリオ」
声の主を見た。そこには彼が良く知る人がいた。
「兄さん、どうして此処に!?ファルネーゼ宮にいたんじゃ・・・」
「少し御前と話がしたくてな。二人で話したいのだが」
「うん」
マリオは頷くと堂守とゼッナリーノを呼び二人にチップを渡した。
「これで何か美味しいお菓子でも食べに行ってくれ」
二人は喜び一礼した後すぐに教会を後にした。二人が出て行ったのを見届けるとマリオは兄に向き直った。
「何の話かは解かってるよ。スカルピアの事だろう?」
弟の問いに兄は黙って頷いた。
「そうだ、奴が御前を狙っている」
一呼吸置き続ける。
「フランス軍がイタリアへ侵攻してきて以来カロリーネ陛下は共和主義者への締め付けを厳しくしておられる。あの男をこのローマへ送り込まれたのもその一環だ」
「だからといってあの様な男を」
スカルピアの評判は悪かった。残忍で狡猾と称され袖の下や色欲に目が無いと噂されていた。その屋敷には自身の故郷から連れてきた品性の卑しい者達が絶えず出入りしていた。ローマの貴族や市民達は彼を嫌悪の目で見ていた。
マリオも例外ではなかった。否名家の出身であり芸術とローマを愛する彼にとってスカルピアは最も嫌悪する種の人間であった。これは彼の主義、信念も入っていたがそれ以前に彼はスカルピアを生理的に嫌悪していたのだ。
「マリオ、すぐにローマを去るんだ。さもなければ次に絞首台へ登るのは御前だ」
「そうさせてもらうよ、兄さん。ただもう少し待ってくれないか」
「何故だ?」
兄の問いにマリオは顔を下に向けはにかんで答えた。
「今は離れたくないんだ。ここで描いている絵の事もあるし」
絵の方へ顔を向けて言った。
「それに・・・フローリアのローマでの舞台がまだ残っているんだ」
「フローリア?今ローマで話題になっているというソプラノのフローリア=トスカのことか?」
「やっぱり知っているみたいだね」
「少しだけだがな」
武人である彼は芸術に疎いところがある。
「素晴らしい美声と技術、そして艶やかな美貌の持ち主だという話だな。私はまだ会ってはいないが」
「実はね・・・・・・」
マリオがまたはにかんだ。
「今彼女と付き合ってるんだ」
「何ッ!?」
思わず声をあげた。
「一年前アルジェンティーナ座で仕事をしている時に出会ってね。お互い一目惚れだったんだ。それ以来続いてるんだ」
「おい初耳だぞ。何で知らせてくれなかったんだ」
「御免御免、知らせるつもりだったんだけどね。忙しくてついつい」
「全く・・・。で彼女の舞台は何時終わるんだ?」
「三日後だよ。その頃にはこの絵も完成するし彼女の次の契約地ヴェネツィアへ一緒に行くつもりなんだ。その準備は済ませてあるよ」
「ヴェネツィア・・・。あの執政殿のお気に入りの水の都か」
「うん。彼の庇護を得られるしね」
その言葉にアルトウーロは表情を険しくした。
「マリオ、御前の主義についてとやかく言うつもりは無い。だがな、ボナパルトには注意しろ。あの男は自らの栄光ばかり追い求めその為には他の者の命なぞ塵芥程の価値も無いと考えている男だ。彼がエジプトで兵士達を見棄て、このイタリアでローマ共和国を切り捨てた事を知っているだろう」
「・・・・・・・・・」
マリオは反論しなかった。彼はナポレオンの信奉者だった。共和主義こそが正義だと信じていた。兄に反論しようと思えば出来た。だがそれをあえてしなかったのは兄が指摘した事を彼はよく知っておりそれに対し彼も思うところがあったからである。
「最近あの男はとかく専制的になってきている。王以上にな。まるで皇帝の様に振る舞いだしたという。だがそれを見極め結論を出すのは御前だ。よく考えて決めろよ」
「うん・・・」
今度は頷いた。
「では私はこれで失礼する。これからファルネーゼ宮に戻り陛下と御会いしなければならないからな」
「うん。じゃあ兄さんも元気で」
「うむ。今度二人で飲もう。トカイのいいのがある」
「トカイか。楽しみにしてるよ」
挨拶を交わすとアルトゥーロ=カヴァラドゥッシは教会を後にした。兄を見送るとマリオ=カヴァラドゥッシは教会の扉に鍵をかけ絵に掛けてある布を引き降ろし仕事に取り掛かった。
暫く描いていたが絵具が切れた。絵具を取る時そのすぐ側に置かれている籠が目に入った。
「ゼッナリーノの奴またこんなに持って来て」
籠を右手に取り中身を見て苦笑した。
「昼食ならともかくおやつには多過ぎるだろうに。まあ後でゆっくり食べるとするか」
籠を元の場所に戻した時礼拝堂の方からガチャリと音がした。
「!?」
咄嗟に柱の陰へ隠れた。顔をソッと出して覗き見るとアンジェロッティ家の礼拝堂の扉が開き中から人が出て来た。
「あれは・・・・・・」
礼拝堂から出て来た人物をカヴァラドゥッシは良く知っていた。幼い頃からの友人であり思想的、政治的にも同志であるからだ。
「アンジェロッティ、君か!」
思わず柱の陰から身を現わした。アンジェロッティは柱から人が急に現われたのを見て思わず肝を冷やしたがそれが自分の知っている人物と解かりアンジェロッティも思わず声をあげた。
「カヴァラドゥッシ、君か!」
二人は駆け寄り抱擁し合った。二人の顔に喜びの色が現われた。
「良かった、スカルピアに捕われたと聞いて心配していたんだ」
「サン=タンジェロ城に今まで入れられてたけれどね。もう少しで暗殺されるところだったんだ。それを弟と妹が救い出して
くれたんだ」
「そうか、それは良かった・・・・・・。で、これからどうするつもりだい!?」
「それなんだが・・・・・・」
その時教会の外から女の声がした。
「!?」
その声は高くはりがありそれでいて澄んだ美しい声だった。その声の主をカヴァラドゥッシは非常に良く知っていた。
「マリオ、マリオ」
自分の名を呼ぶその声の主が誰か彼は知っている。アンジェロッティの方へ顔を向け右目を瞑って言った。
「レディだよ。僕が良く知っている人でね。善良で信心深いがとても焼き餅屋のね。悪いけれど少し隠れててくれ」
カヴァラドゥッシの言葉にアンジェロッティは頷き礼拝堂の中に入って行こうとした。その時籠が目に入った。
「ああ、これかい?」
カヴァラドゥッシの方もそれに気が付いた。
「うちの使用人がおやつに持って来てくれたんだけどね。生憎お腹は減っていないんだ。逃げて来て疲れているだろう、良かったら食べてよ。中身は割りと豪勢だよ」
「いいのかい?」
その言葉にアンジェロッティは喉を鳴らした。
「ああ。是非食べてくれ」
「有り難う」
礼を言うと籠を手に取りアンジェロッティは礼拝堂に入っていった。一方教会の扉の入口からはカヴァラドゥッシを呼ぶ声と扉を叩く音が喧しい程聞こえて来る。
「待ってくれ、今開けるよ」
苦笑しつつ扉を開ける。
慌しく一人の女性が入って来た。茶の波がかった長い髪と琥珀色の瞳を持つ艶やかな女性である。肌は雪の様に白く赤のドレスと良く合っている。その唇は紅であり右手には花束がある。やや高めの身体は非常に均整がとれその美しさは芸術の女神ミューズを思わせる。この女性こそ当代一と称せられる歌姫でありマリオ=カヴァラドゥッシの恋人であるフローリア=トスカその人である。
トスカは北イタリアヴェローナ近辺の貧しい羊飼いの娘として生を受けた。彼女が幼い頃に両親は流行り病で死んだ。他に兄弟も親戚も無い彼女はヴェローナにあるべネディクト派の修道院に引き取られた。ここで彼女は教育を受け聖書と信仰、そして賛美歌をしった。
彼女が十歳になった頃であろうか。修道院のオルガン奏者が彼女の美しい声に気付いた。それから特別に歌の訓練を始めたがそれにより彼女は声だけでなく歌い手としての才能も素晴らしいものだとうことが解かった。やがて修道院の誰もが彼女は歌手に相応しいと思うようになった。
その歌はやがてヴェローナ市民の知るところとなり祭日になるとトスカの歌と声を聴きに市民達が大勢で賛美歌が歌われる教会に来るようになった。その中には高名な音楽家も含まれていた。とりわけ作曲家チマローザは彼女の美声と歌、そして艶やかさに魅せられてしまった。完全にトスカの虜となってしまったチマローザは彼女に自分の作品を歌って欲しいと考えるようになった。そしてこの修道女をオペラ歌手にしようと修道院に掛け合ったがこの美しいが善良で人を疑う事をしらない娘を心配した修道院の僧達は彼女が神に仕える身である事を楯に取り譲らない。だが諦めるという事を知らないチマローザは修道院を脅したり宥めたり、挙句には騒ぎの好きなヴェローナの市民達を巻き込んだりしたので遂には市議会まで動きヴェローナを二分する大騒動にまで発展してしまった。
この騒動はすぐにあちこちに知れ渡りローマ法皇ピウス六世の耳にも入るようになった。話を調停する為法皇はトスカの歌声を聴くことにした。そしてサン=ピエトロ寺院の法皇の間にてトスカは自らの歌を法皇に披露する事となった。
法皇は彼女の歌に聞き惚れた。歌が終わると彼女にこう言った。
「貴女の歌声は私の心を和ませたのと同じ様に多くの神の子達に優しい涙を流させる事になりましょう。そしてそれは神への愛と祈りに通じる道でもあるのです」
その言葉にトスカは感涙した。そして法皇に跪いた。法皇は彼女を立たせ言った。
「さあお行きなさい。そして貴女の歌で神の慈愛と信仰を世に広げるのです」
こうしてトスカは還俗し歌手となった。チマローザの下で育てられ短く切り揃えられた髪も長くなりその歌と美貌は日増しに輝かしいものとなっていった。
彼女のデビューはパイジェッロの『ニーナ』、タイトルロールであった。幾十とカーテンコールに呼ばれる程の盛況でその話を聞いたスカラ座やフェニーチェ歌劇場にも呼ばれるようになり瞬く間にイタリアを代表するソプラノとなった。その技術は素晴らしくどの様な難解な歌も歌いこなした。美しい舞台姿も評判となり役柄も多かった。
ローマでも歌った。とりわけ法皇の御前で歌う事が多かったが歌劇場でも歌った。アルジェンティーナ座で師でもあるチマローザの『秘密の結婚』に出ていた時そこで絵を描いていたマリオ=カヴァラドゥッシと会い今に至る。
「何故鍵を掛けていたの!?」
教会の中を疑わしげに見回す。
「教会の番人がそうしてくれって言ったんでね」
「そう。で、誰とお話してたの!?」
疑わしげな目でカヴァラドゥッシを見上げる。
「誰とも話なんかしていないよ」
「嘘、話し声がしたわ。他の女の人と一緒だったのでしょ!?」
「違うよ、信じてくれないのかい?」
「信じないわ。貴方みたいな人誰が放っておくというのよ」
「ちょっとフローリア」
むくれるトスカを宥めようとする。
「そんなに僕はもてないよ。君は一体何でそんなにふくれるんだい?焼きたてのパンじゃあるまいし」
「えっ、それは・・・・・・」
今度は顔を赤らめた。視線を恋人から外した。
「もてないけれど君一人にもてたらそれでいいさ」
そう言ってトスカを抱き寄せる。
「駄目よ、いけないわマリオ。聖母様の前でそんな事」
両手の平で恋人の胸を押し止める。
「後でね、あの別邸に行ってから」
「別邸?僕の家に来ればいいのに」
「私はあの別邸が好きなの。銀の星々が散りばめられた紫の空の下で赤や黄の花々、青い泉、そして緑の草達が芳しい香りで私達を誘っているのよ。愛の女神の泉みたいに。私には自分でも抑えられない激しい気が狂いそうになる程の血が流れているの。貴方の為に。その血があの邸を欲しているのよ」
「解ったよ。じゃあ今日の仕事が終わったら夕食を食べる時に待ち合わせよう」
「御免なさい、それは出来ないわ」
「何で?今日は休みなんじゃ」
「急にファルネーゼ宮で歌う事になったの。短いカンタータだけれど」
「成程」
何故彼女が急に歌う事になったかカヴァラドゥッシはすぐに理解した。だが顔には出さなかった。
「朝になったらヴェネツィアへ発つ準備をしましょう。あの街には何回かお仕事で行った事があるけれどとても素敵な街よ。今から楽しみだわ」
「そうだね、じゃあ僕も早く仕事を終わらせるか」
「そうしましょう」
どう言って絵に花束を捧げた。ふと絵を見上げた。
「この絵ね。貴方が今描いているのは。・・・マグダラのマリア?」
「そうだよ。気に入ってもらえたかい?」
「いいえ」
「どうしてだい?僕はよく出来ていると思うんだけど」
「金髪に青い瞳なんですもの。茶の髪と黒い瞳じゃなければ嫌よ」
「おいおいフローリア、それって君のことじゃないか」
思わず苦笑する。
「悪い!?」
「いいや、君らしいなと思って」
「けれど確かによく出来ているわね。誰かに似てるけど」
「ああ、マルケサをモデルにしたんだ」
「マルケサ?アッタヴァンティ侯爵夫人の事!?」
「そうだよ。彼女とは幼馴染だしよく知っているしね」
「マリオ、貴方ひょっとして・・・・・・」
疑惑の目を恋人に向ける。
「ちょっと待ってくれよ、何でそうなるんだよ。彼女は単なる幼馴染だよ」
「どうかしら。美人だしその上情友がいらっしゃる方ですし」
「あのねえ、フローリア」
ふとカヴァラドゥッシの顎鬚が目に入った。
「まあいいわ。今日は信じてあげる」
「良かった」
「このお髭に免じてね」
両手でカヴァラドゥッシの顎をさすった。
「私が貴方を好きなった理由を思いだしたの。このお髭が私の目に入ったから。沢山の人が似合わないって言うし司教様なんか早く剃られなさいって仰るわ。けれど私は嫌。貴方のこのお髭がなくなったら生きていられないわ」
「フローリア・・・・・・」
再びトスカを抱き寄せようとする。トスカはそれをまた宥めた。
「マリア様の御前だから駄目って言ってるじゃない。それは後で」
「解かったよ」
多少渋がりながらもそれに従う。
「じゃあそろそろ宮殿へ行って来るわ。パイジェッロ先生と打ち合わせをしなくちゃいけないから」
「それが終わったら別邸においで。夕食とワインを用意して待ってるよ」
「楽しみにしてるわ」
立ち去ろうとする。扉を開けた時に振り返った。
「マリア様の瞳は黒にしてね」
「うん、じゃあそうしとくよ」
「絶対よ」
扉を閉め教会を後にした。中にはカヴァラドゥッシだけが残された。
「そうか敗れたか。ならば急いだ方がいいな」
そう呟き礼拝堂の方を見た。アンジェロッティが出て来ていた。
「さっきの話の続きだけれどこれからどうするつもりだい?」
「ローマを脱出するつもりなんだ。僕を逃がしてくれた城の典獄の手引きでね。女に化けて」
「服は?」
「弟と妹が礼拝堂の中に隠しておいてくれた」
礼拝堂の中を指差した。
「そうか、そしてその典獄は何時ここへ来るんだい?」
「明日の朝だ」
「じゃあその服は着ておいた方がいいよ」
「どうしてだい?」
「夜になるとこの教会は冷え込むからね。用心にこした事はない」
「そうか。じゃあ早速着るとしよう」
礼拝堂へ入り衣装を取り出してきた。白っぽいドレスとヴェール、そして扇である。
アンジェロッティは服を着込み始めた。ヴェールを被ろうとしたその時遠くの方から砲声が聞こえて来た。二人は愕然となり顔を見合わせた。
「城の方からだ」
アンジェロッティの顔が蒼白になった。
「どうやら典獄が君を逃がした事がばれたらしいな。スカルピアの刺客達が街に放たれるぞ」
「どうしよう」
「僕に任せてくれ。いいか、よく聞いてくれ」
カヴァラドゥッシは話を始めた。
「この教会出ると囲いの少ない菜園がある。その向こうに藤の茂みがあるがそこは野原を通って僕の家まで続いている。僕の家には馬車がある。それで別邸に行こう」
「別邸に!?」
「そうだ。あそこなら大丈夫だ」
「じゃあすぐに」
「待ってくれ、用心にこした事はない。僕も一緒に行こう」
「それじゃあ・・・・・・」
二人が出ようとしたその時扉の向こうからカヴァラドゥッシを呼ぶ声がした。
「スカルピアの!?」
アンジェロッティの顔が凍りつく。
「いや、違う」
カヴァラドゥッシがその恐怖を打ち消した。
「ここの堂守と僕の侍従だ。それにもうすぐ枢機卿と聖歌隊が来る。それに紛れて教会を出てくれ。すぐに僕も行く」
「解かった。じゃあ暫く隠れているよ」
「ああ」
急いで礼拝堂へ消えた。その時扇を落とした。だが二人はそれに気が付かなかった。礼拝堂の扉が閉められると同時に堂守とゼッネリーノが駆け込んで来た。
「騒々しいな、何事だい?」
あえて落ち着き払ってみせる。
「何って、聞こえなかったんですかあの大砲の音が!!」
「ああ、さっきのあれだね」
外から子供達の声がしてきた。そちらの方へ気をやるふりをしてアンジェロッティ家の礼拝堂へ目をやる。
(もう少しだ)
堂守がまくし立てる。
「サン=タンジェロ城から政治犯が一人逃げ出しました。引き渡した者には褒賞として銀貨千枚、匿った者は縛り首だそうです。共犯の典獄は拷問で白状させられた後絞首台へ送られたそうです」
(やはりな)
四方八方から子供達と市民達が入って来た。礼拝堂がそっと開かれる。誰もそれに気付かない。
(よし)
アンジェロッティが出て来た。人の中へ上手く紛れ込んだ。
「物騒な話だな。ひょっとするとここに警官が来るかも知れないな」
「ええ、閣下もお気を付けた方が良いですよ。スカルピア男爵は閣下を快く思われてませんし」
「そうだな。そろそろ枢機卿殿が来られるし今日はこれでお終いにするか」
そう言ってアンジェロッティの方を見た。
「そう言われると思って馬車を用意しておきました」
ゼッナリーノが得意な顔で言った。
(しめた)
カヴァラドゥッシとアンジェロッティの顔が明るくなった。
「気が利くね。じゃあ正門に回しておいてくれ。それから後片付けも頼むよ。急いでね」
「はい」
チップを渡されゼッナリーノは出て行った。
教会の中の燭台に火が灯され暗くなりかけた教会を照らし出す。あちこちの出入口から入って来る市民達の中にアンジェロッティは潜み正門へ向かっている。
「あ、子爵面白いお話が」
「何だい!?」
堂守が子供がとっておきの話を告白する様な得意そうな顔をしているのを見て彼が何を言わんとしているのかカヴァラドゥッシは察したがあえてとぼけてみせた。
「フランスの小男がマレンゴでまけちゃいましたよ。折角アルプスを越えてはるばるイタリアまで来たってのに可哀想な事ですね!」
やはりそれか、と思ったが知らないふりをした。
「へえ、そうだったんだ」
堂守の言葉をあっさりと聞き流す事にした。向こうもそれで気が削がれた。
アンジェロッティが正門を出た。カヴァラドゥッシはそれを見送り心の中で笑みを浮かべた。
「人が多くなってきたな。もうこれで帰らせてもらうよ」
そう言うとすっと帰っていった。扉の入口ですれ違ったゼッナリーノに絵の片付けを再度頼むと自分で馬車を駆りそのまま去っていった。二人が絵の片付けに取り掛かろうとする中聖歌が流れてきた。
その時だった。ドヤドヤと音がして教会へ黒い制服姿の警官達が押し入って来た。教会内が騒然とする中数人の警官を従えた一人の男が辺りを見回しながら入って来た。
濃く黒い後ろに撫で付けた髪に重くそれでいて不気味な、陰惨な光を放つ漆黒の眼、無表情で何処か鉄仮面を思わせるやや細長い筋肉質の顔、黒と赤で色彩られた服、山の様な背丈、古代ローマの剣闘士を思わせる身体、彼こそローマを恐怖のどん底に落とし込んでいる男、秘密警察の首領ヴィットーリオ=スカルピア男爵である。
シチリアに生まれた。父は男爵、母はある大地主の娘だった。男爵といっても元は山賊の頭でありナポリ王家に帰順した時に男爵の称号を授けられた。要するにそれまで裏から仕切っていたのが公に治めるゆになったのである。農民達の面倒を見てやる代わりに袖の下や上前を要求する、言うならばヤクザの親分である。それもお上から許されている。元々その大地主の家とは関係があった。その娘と結婚して繋がりを更に深めたのである。
二人の長子として彼は生まれた。幼い頃より柄の悪い者達に囲まれこの地独特の掟を叩き込まれた。若くして父の代わりとして一帯を取り仕切るようになりその手腕は宮中においても注目されるようになった。
だがその手腕以上に宮中において彼が彼が有名になった事がある。それは彼自身の悪評であった。
山賊上がりの一族の者なぞ宮中の毛並みの良い門閥貴族達にとって吐き気ももよおすものであった。その上裏社会に育った彼は行いも悪かった。
毎夜如何わしい館に入り浸り手下の者達と謀議を重ねる。逆らう者は片っ端から罪をでっち上げ嬲り殺しその財産を残らず懐に入れた。賄賂を受け取り上前をはねる。その周りを素性の知れぬ人相の悪い者達で固めている。彼を嫌悪するある有力貴族は彼を除くよう王妃に進言したが彼女は取り合わなかった。彼の悪評より彼の能力を評価していたからであった。
やがて王妃に取り立てられナポリ王国の共和主義者に対する取締りの責任者に任じられた。
この時ナポリはフランスと結んだ共和主義者達の為全くの無政府状態に陥っていた。彼は着任するなり国王の勅命を以ってナポリ全土に戒厳令を敷いた。そして市民達に共和主義者を連れて来た者には多額の褒賞を与える事を約束した。同時にナポリを混乱に陥れているのは外から来た共和主義者であり彼等こそが全ての元凶であると喧伝した。
スカルピアに煽られた市民達は次々に共和主義者と思しき外国人や不審な者達を捕らえスカルピアの下に連れて来た。その数は数千に及びスカルピアは彼等のほとんどを死刑にし全財産を没収した。これには彼の配下であるシチリア出身のならず者達の力が大きかった。
戒厳令を敷くと同時に彼はナポリ全土へ手の者達を放ったのである。そして共和主義者達のブラックリストを瞬く間に作り上げたのである。そして市民達を煽り共和主義者達を連れて来させたのである。
無論ブラックリストの中には共和主義とは全く関係の無い者達もいた。それはスカルピアも承知していたしそうなる事も解かっていた。それが誰かさえ。
では何故そうしたか。袖の下を要求する為だ。賄賂をせしめた後放免する。そしてそれをネタに彼等を脅し自分達の協力者に仕立て上げるのだ。こうしてナポリの対共和主義者秘密警察は作り上げられていった。
秘密警察やスパイを街に放ち市民に密告を奨励する。こうしてナポリ全土の共和主義者達を血祭りにあげていったのである。
それが王妃に認められ不穏な状況となっていたローマに送り込まれた。そしてローマでもナポリと全く同じ事をした。
元ローマ共和国領事アンジェロッティ候を捕らえた時王妃にすぐに獄中で暗殺する様指示された。密かに行うつもりであったがその話が何処からか漏れた。否その考えはアンジェロッティの実家に容易に読まれていた。脱獄された。このまま逃げられれば自分の首が危ない、そう直感した。
ナポリでのやり方が余りにも狡猾で残忍であった為彼を嫌う者はこの上なく多かった。流石に王妃も庇いきれないようになっていた。まして共和主義者の中でも大物中の大物であるアンジェロッティを逃したとあれば・・・・・・・・・。王妃と親しいエマ=ハミルトンの事もあり粛清される、そう確信していた。今彼は将にダモクレスの剣の下にいたのだ。
「出口は全て押さえろ。猫の子一匹見逃すな、獲物は悪賢いぞ」
低く野太い声で指示が出される。警官達が一斉に散る。それを見て教会の中の市民達は恐れおののいている。
「気にするな。礼拝の準備をしろ。今日は戦に勝った事を祝わねばならない」
市民達はまだ怯えながらも動き始めた。堂守もその中に入ろうとしたがスカルピアに見つかってしまった。
「おい、そこの堂守」
「はい」
恐る恐るスカルピアの方を振り向いた。
「聞きたい事が有る。こっちへ来い」
「はい」
蛇に睨まれた蛙の様に竦みながらも来た。
「ここに囚人が一人逃げ込んだとの情報が入った。名はチェーザレ=アンジェロッティ。その男の家の礼拝堂がここにあったな。そこに用が有る。何処だ」
震える手で礼拝堂を指差す。
「スキャルローネ」
「はい」
名を呼ばれた赤髪の人相の悪い大男が二人の警官を引き連れ出て来た。
「礼拝堂をさがせ」
「はい」
スカルピアの指示に従い礼拝堂の中を調べる。すぐに一つの扇を持って来た。
「扇か」
扇を手に取り調べ始める。要に彫られた紋章が目に入った。
「アッタヴァンティ家の紋章か。どうやら奴の妹が手引きしたのは間違いないな。もう逃げた後か」
扇をスキャルローネに返した。
「大砲を使ったのは失敗だった。獲物に逃げられてしまった。・・・・・・・・・ん!?」
ゼッナリーノが後片付けをしている絵が目に入った。
「本人がこんな所にいるとはな。マグダラのマリアの様だがまだ未完成みたいだな。描いているのは誰だ」
「マリオ=カヴァラドゥッシ子爵です」
「あのフランスかぶれか。中々尻尾を出さないが格好や経歴を見ただけでも怪しい奴だ」
堂守の答えに忌々しげに顔をしかめる。
スカルピア達が教会中を調べ回っている最中にゼッナリーノは後片付けを終え遠くに置かれたままにしてあった籠を持ってスカルピアの前を横切ろうとする。
「待て」
呼び止められた。思わず身体が硬直する。
「御前が手に持っている籠は何だ」
「閣下のおやつを入れた籠ですが」
「見せてみろ」
ガタガタと震える両手で籠を差し出した。
奪い取り中を改める。何も無い。
「随分と大きい籠だな。子爵はいつもこれだけ召し上がられるのか?」
「いえ、今日はお腹が空いてないと仰っていました」
ブルブルと顔を横に振り否定する。
「そうか、良く解かった。堂守、もう一つ聞きたい事がある」
「はい」
完全にすくんで動けない。
「子爵の他に誰か来たか」
「子爵のお兄様です」
「伯爵殿か。他には?」
「他は・・・・・・・・・」
絵に捧げてある花束に気付いた。
「花束が捧げられてますね。トスカ様が来られたみたいです」
「トスカ、フローリア=トスカか」
スカルピアの眼に邪な光が宿った。
「神と王家には忠実な女だがあの男の恋人だったな。目をつけておくか」
意味ありげである。そのと寺院の正門から紅衣に身を包んだ枢機卿が行列を従え入って来た。市民も聖歌隊も警官達も恭しく頭を垂れる。スカルピアもである。
(これからどうするかだ。思わぬ方向へ話がいくかもな)
頭を垂れながらも謀を巡らせていた。
「コロメッティ」
一同頭を上げると側に控える薄い茶髪のずるそうな小男を呼んだ。
「捜査は終わりだ。マレンゴの勝利への感謝を主と聖母様に捧げた後ファルネーゼへ帰るぞ」
「はい」
スカルピアと警官達も会衆に加わった。教会の中の全ての者が歌う賛歌『テ=デウム』とオルガンが教会中に鳴り響いていた。
神である貴方を私達は誉め讃え
主である貴方を私達は信じます
全ての者は永遠の父である貴方を崇めます
ドキドキ。
美姫 「一体、この先、どうなるのかしら」
いや〜、手に汗握るね。
美姫 「続きが気になるわね」
うんうん。オペラって、面白そうだな。
美姫 「本当に」
ああー、次回が楽しみだよ。
美姫 「次回も楽しみにしてますね〜」
ではでは。