狂想
動く想いと諦めの笑顔
なのはの想いが狂い、歪みながら、大きくなり続けて早数年が経った。
どれだけの時間が経とうと、なのはの狂想は大きくなることはあっても、小さくなることはなかった。
なのははその狂った想いを育て続けた。
それでも周りの家族に気付かれることはなかった。
すでになのはは、二つの顔を持っていたのだ。
家族たちが見る高町なのはという顔。
恭也を想う高町なのはという顔。
家族たちが見る高町なのはは、演技だったのかもしれない。なのは自身使い分けていたというわけではないのだが、最近ではそう感じるようになっていた。
家族に見せる顔は兄を手に入れるための演技であって、より恭也を手に入れやすくするためのものでしかない。
なぜなら、なのは自身で恭也を想っている時の表情の方が、より自然に見えるのだ。
もしくはその両方で高町なのはなのか……。
もっとも、それはどうでもいいことだった。重要なのは恭也を手に入れることで、誰がどのように自分のことを見ようが今更関係ないことなのだとなのはは考える。
ただ、家族に恭也を想う自分に気付かれると面倒くさいことになるから、二つに分けているのだろう。
そう思うこと自体、恭也を想う高町なのはが本当の顔である証なのかもしれないが……。
そんな風に生活しながらも、今年度で恭也が大学を、なのはが小学校を卒業するという年になった。
なのはは自分の部屋のベッで、恭也への狂った想いが生まれた時よりも大きくなった身体を横にしながらも、考え事をしていた。
彼女が深く考えることなど一つしかない。もちろん恭也のことだ。
「もうすぐでおにーちゃん、大学卒業だ」
なのはも小学校を卒業なのだが、そんなものはあまり興味がなかった。
学校を卒業するというのは、自分の身体が、心が、知識が大きくなった、恭也を手に入れる日が近づいてきたということ。それらは嬉しいと思うが、やはり学校を卒業するということ自体には何の感慨もない。
今考えるべきは恭也のこと。
恭也が大学を卒業する。それは必然的に社会人になるというのと同じだ。無論、そうとは限らないこともあるが、恭也の将来はその剣を活かす職になるだろう。
つまりはボディガードか、それに近い職業。
おそらく翠屋で働きながら、ボディガードをすると思うのであまり心配はしていないが、
今回は一生ものの選択であるためか、母も兄に何かを言っている様子もない。
やはり恭也本人に進路について聞いた方がいいかもしれない。
策を立てるには、入念な情報が必要なのだ。
「だいたいは出来てるけどね」
恭也を手に入れるための大本の策はできているが、やはり細かい所も必要だろう。
そう思いついて、なのはは立ち上がった。
兄は今、家にいるはずだ。
大学の四年にもなると、ほとんど授業がない。もちろんそれまでの単位の取り方や、試験の結果にもよるが、恭也は三年の間で卒業に必要なほとんどの単位を取ってしまっていた。
恭也はあまり勉強に力を入れる方ではないし、たまに仕事で長期の間自主休講したりすることもあったはずなのだが。このへんは友人の協力が大きいのだろう。
進路の関係もある意味特殊であるため、大学の力は借りることはない。そのために、この所は家で鍛錬をしていたり、盆栽の手入れをしたり、翠屋の手伝いをしていたりすることが多い。
なのはも一緒にいられる時間が増えたので嬉しいことには違いない。
というわけで、なのはは部屋を出て居間へと向かったのだが、恭也はいなかった。
「部屋かな?」
さすがに兄や姉のように気配を探るなどという人外な真似はできないなのはだが、恭也がこの家にいることは確信している。
兄が自分に何も言わずに家を離れることはない。
それはなのはがあの笑顔を見せてからは特にだった。
なのはには、恭也があの笑み……歪み、狂い、綺麗すぎる自身の笑顔を見て、どう感じて、何を思ったのかは今でもわからない。だがあれのおかげで恭也がそれまで以上に気にかけてくるようになったので、彼の考えは関係なく利用させてもらっている。
そんな恭也が、何も言わずになのはがいる家から出ていくわけがない。家の中に他の家族がいようとも、絶対に一言何かを言ってから出ていく。
そういうわけで確実に恭也は家にいる。
なのはは恭也の部屋に向かおうとするのだが、その前にドアを開いて恭也が現れた。
その手には何やら封筒を持っていた。
「おにーちゃん、どこか行ってたの?」
「いや、これが届いたから取りに行っただけだ」
そう言って、恭也は持っていた封筒を見せた。
おそらくは気配で配達に来た郵便局員にでも気付いたのだろう。このへんはやはり相変わらず人間離れしている。
「お手紙? 誰から?」
「美沙斗さんからだ」
「おねーちゃん宛?」
「どうも俺のようだな」
日常の会話。兄妹の会話。ぎこちなさなどない会話だ。
だがそんな会話と行動であるはずなのに、それはどこか探り合いにも似た、日常と非日常、普通と狂気の間にあることを、なのはも……そして恭也も理解していた。
だがお互いそんな素振りは一切見せず、恭也はソファに座り、なのはもその隣に自然な動作で座った。
そして恭也は、懐から取り出した小刀で封筒を開けたのだが、そこでいきなり電話の呼び鈴が鳴った。
恭也は封筒をテーブルに置いて、その電話を取る。
どうやら桃子からであるらしく、しばらく会話を続けていたのだが、恭也は最後にわかったと告げ、受話器を置いた。
それからなのはの方に向き直る。
「なのは、翠屋に行ってくる」
「お手伝い?」
「ああ」
「私も行った方がいい?」
この頃はなのはも頻繁に店の手伝いをするようになった。表向きは翠屋の店長二代目になるために。裏の目的として、大学の授業が少なくなり頻繁に店を手伝うようになった恭也の傍にいるために。
だが恭也は首を振る。
「いや、俺一人で大丈夫だ」
「うん、わかった」
なのはが頷くと、恭也は行ってくるとだけ残して、手紙のことを忘れてしまったのか、それをテーブルに置いたまま出ていく。
それを確認してから、なのはは封だけ開けられた封筒を見た。
確かに差出人は御神美沙斗で、恭也宛になっていた。
御神美沙斗、彼女には感謝している。彼女だけではなく姉である美由希にも……。
だって、よりこの狂った想いを強くしてくれた。あの時はまだ狂いきってはいなかったと教えてくれた。
それはなのはにとって感謝すべきことであった。
「……本当に感謝してますよ、美沙斗さん」
なのはは笑って呟く。
それは恭也以外は知らないなのはの笑顔。それを本当に自然に浮かべる。
それからなのはは封筒の中から、恭也宛である手紙を取り出した。
どうにも気になるのだ。なぜ娘である美由希宛ではなく、恭也へと手紙を送るのか。別に美由希宛の中に恭也の手紙も入れてしまえばいいはずなのに、それさえもしない。
直感的に何かある、と思ったのだ。だからこそ今回、一緒に手伝うと強く主張しなかった。
兄が関わっているいる以上、自分宛でなかろうが関係ない。それが悪いことであってもなのはは迷わず実行する。
なのはは何の躊躇もなく取り出した手紙を読み始める。
それを読み進めていき、なのはは手紙を睨むように目を細めた。
「そういうこと……か」
なのはは呟き、手紙を元あったように封筒の中に戻し、それを持ったまま立ち上がった。
それから恭也の部屋にまで行き、それを彼が使う机の上に置いた。
「美沙斗さん、すみませんけどおにーちゃんをあなたの所に行かせるわけにはいかないんです」
そしてその手紙を見たまま再び微笑んだ後、なのはは自分の部屋へと戻って行った。
恭也は、美沙斗から送られて来た手紙を手に持ったままため息を吐いた。
「どうしたものか」
すでに深夜を越えているので、本当に小さく呟く。
あれから翠屋の手伝いをしていて、この手紙のことを恭也は忘れてしまっていた。
だが夕食の時、なのはが自分の机に手紙を置いたという話を聞いて思い出した。しかし結局深夜の鍛錬などもあり、読むのが今になってしまったのだ。
美沙斗から手紙の内容は、端的に言ってしまえば、大学を卒業したら香港警防隊で働かないか、というものだった。
前まで恭也は、一つの進む道としてその道を考えていたし、同時に翠屋で働きながら護衛の仕事を続けるのでもいいと思っていた。
家族のことは皆伝した美由希に任せてもいいし、膝も完治とまではいかないが大分良くなり、神速にもある程度耐えられるようになった。だから別段、この道に行くのに恭也とて否はないのだ。
「どうしたものか」
同じことを呟いて、恭也はやはりもう一度本当に深々とため息を吐いた。
思い出すのはなのはの笑顔。
家族に見せる笑顔ではなく……あの狂っていて、歪んでいて、綺麗すぎる笑顔。
自分の心の中に焼き付いてしまった笑顔。
美由希と美沙斗との件から数年経ったが、その間にあの笑顔を恭也は何度か見た。
その度に、恭也は何も言えない自分を罵った。あの笑顔が気になり、何よりなのは自身が気になり、今までなるべく彼女の傍にいた。
だが結局、あの笑顔の意味がわかることは……なかった。
それは嘘だ。
「…………」
気付いているだろう。
「っ……」
お前はその想いの形がわからずとも、なのはが向けてくる想いに気付いているだろう?
「黙れ……」
その想いが誰に向いているのかも、その想いが狂っていることにも……。
「黙れ……!」
自身の本能を押さえ込みながら、恭也は声を絞り込んで唸った。
それでも本能は言う。
もうダメだと。
「何が……」
何がダメなものか。
意味のない戯れ言を囁くな。
確かに……確かに自分はなのはの歪みに気付いている。なのはの狂気に気付いている。だがそれが何だと言うのだ。
だから傍にいてやらなければならないのだろう。護ってやらなければならないのだろう。
理性は、だからこそ一度なのはから離れるべきではないのかと言う。
だからここは美沙斗の所へ行くべきだと。
そうすれば……時を利用すれば、あのなのはの歪み、狂気も多少は晴れるかもしれない。
そんな迷い自体が戯れ言であると気づきながら、恭也は美沙斗からの手紙を握り潰した。
本当は歪みや狂気だけでなく、なのはの想いにも気付いていながら、気付いていないと言い聞かせて、自らを演じ続ける。
自分の行き先を迷う。
本能と理性、高町恭也という人格の全てが、なのはを主軸として彼を迷わせる。
「どうしようかな」
なのはは天上を見上げながら呟く。
美沙斗からの恭也への手紙。その内容の意味はなのはとてわかる。
つまり恭也に自分と同じ場所で働かないか、と美沙斗は言いたいのだろう。
なのはも美沙斗がどこに勤めているのかを知っている。その仕事内容は知らなかったが、今日手紙の内容を見て、だいたい理解した。
確かに恭也の剣の腕なら、即戦力となるのだろう。
だが、
「この家から……私から、おにーちゃんを離すわけにはいかないんだ」
そう、兄が美沙斗と同じ場所で働くということは、それは香港にまで行ってしまうということだ。
まだなのはは最高学年になったとはいえ、それでも所詮小学生でしかない。中学生になったとしても、海外までそう簡単に行くことなどできはしない。
何より会えなくなるのは困る。策がうまくいかなくなってしまう。最後の大詰めの策を使うには、まだ時間が必要なのだ。
故に、恭也を自分の傍から離すわけにはいかない。
せっかく、せっかくこの所は恭也の方から傍にいてくれるようになったのに、逃す訳にはいかないのだ。
「逃がすつもりなんてないよ」
あと数年の時間、それだけの時間を稼がなければならないのに、こんな所でもたつくわけにはいかない。
障害があるのなら、取り除けばいいだけのことだ。
なのはは最後にもう一度だけ笑い、ベットの中へと入っていった。
それからしばらくが日数が経ち、なのはは恭也の様子を探っていたのだが、やはり彼が何かに悩み、迷っているような素振りを見せていたことに気付いた。つまり進路のこと……。
だから行動を開始することにする。
直接言ってしまってもいいかもしれないが、やはり周りのことや先のとを考えても、恭也自身に選ばせた方がいい。
無論、選ばせるとは言っても、香港に行かせるわけにはいかない。だからその思考を操り、恭也自身にこの地に留まるという選択を選ばせる。
それはさほど難しいことはではない。
「おにーちゃんは……私が、家族が大事だもんね、護りたいよね?」
クスクスと笑って、なのはは恭也の在り方を呟いた。
兄とて単純な男ではないとわかっているが、その根底が変わることはない。ならばどうすればいいのかなど簡単なことだ。
家族と離れてはいけないと間接的に思わせればいいのだ。
そろそろ言い出してもいいころだろう。
すぐさま行動を開始しなかったのは、間接的に言うとはいえ、さすがに美沙斗からの手紙が来てすぐにそのような言葉を発してしまえばばれる。それを考えてのことだ。
美沙斗の手紙にも、しばらく考えてから返事がほしいと書いてあったので、おそらくはいきなり決めたりはしない。
なのでゆっくりとやっていく。
日常の中で、ゆっくりと恭也を染めていく。
例えば、
「ありがとう、おにーちゃん。やっぱり、おにーちゃんはうちの大黒柱だね」
それはちょっとした相談事を恭也にして、その解決策を教えてもらった時。無論、問題自体も本当に起こったことで、なのははただそれを恭也に繋げただけ。
「うちの大黒柱はかーさんだ」
「うーん、お母さんもそうだけど、うちは大黒柱がお母さんとおにーちゃんで二本あるんだよ」
この家の中心にはあなたがいるのだと言外に言う。
例えば、
「このままでいいのかなぁ?」
演技過剰にならない程度の声で、なのはは呟く。
それに隣にいた恭也は、案の定反応してくれた。
「何がだ?」
「進路」
「なのはのか?」
「あたりまえだよ」
恭也がこんな反応をするのも当然だ。
なのはは最高学年であるとはいえ、まだ小学生だ。本来は進路を考えるほどの歳ではないし、その小学校自体が公立であったならともかく、聖祥は私立でエスカレーター式なのだから、そのまま大学にまで進学できてしまう。もちろん途中で進路を変えてしまう者もいるだろうが、中学生から変えることは少ない。
「私、翠屋を継ぐつもりだから、やっぱりもっとお菓子とか作れるようにならないといけないかなと思って」
そう言うが、なのはが想像する未来では、自らが生きていない可能性があるので、まったく意味のないものになってしまう可能性はある。しかし生きていたなら、生活する地盤がなくては意味がない。だからこの言葉は半ば本気ではある。
それに今回の件を繋げようとしているだけ。
「なのは、俺はお前が翠屋を継ぐというのは反対しないし、そのための進路を考えるなとも言わない。だが、まだそこまで深く考える必要はないだろう?」
「そうかな?」
「ああ。むしろ今はかーさんに色々と教わっている方がためになると思うが」
「確かにそうだね」
恭也の言葉を聞いてなのはは頷いてみせてから、悩み事は解決したかのように笑う。
そしてそれから肝心の言葉を口をする。
「そういえばおにーちゃんもそろそろ大学卒業だね。やっぱり翠屋で働くんだよね?」
そう、今までの会話は、この言葉を言うために行われたものでしかなかった。あくまで自然な形でこの言葉を言いたかっただけ。まあ、恭也が言ったことは参考にさせてもらうが。
「……それは」
なのはの言葉に、恭也は表情こそ変えないが、それから言葉が続くことはなかった。
「あれ、違うの? あ、それじゃあボディガードかな? もしくはその両方みたいな感じで」
「まあ、それら全ては考えの中にはある」
あくまでこれだという答えを出さない恭也。
それはまだ兄が迷ってるということ。だがそれはいい。
「じゃあ、ずっと一緒にいられるね」
そう言ってなのはは笑った。
その笑顔は、あの歪み狂ったものではなく、あくまで日常で浮かべる笑顔。こんな会話では……恭也を本当に想ってる時でしか、あの笑顔は浮かばない。
「そうだ……な」
恭也はそのなのはの笑顔を見て、何を思ったかはわからない。だが、それでも彼は頷いた。
例えば、
「うちは女の人しかいないから、おにーちゃんがいなくなったら大変だなぁ」
と、なのははそんな言葉を、目の前で軽々とタンスを持ち上げている恭也に向かって言う。その声には驚きも混じっていた。
この日は恭也に部屋の模様替えを手伝ってもらっていて、主に重いものを運ぶのに協力してもらっていた。まあこれは策の一つ……今の言葉が言いたくて始めたことではあるのだが。
しかし自分で頼んだこととはいえ、さすがにここまで兄が力持ちだとはなのはも思っていなかった。タンスの中身を全て出しているというのならともかく、中身をまったく出していないのだ。
「どういう意味だ?」
恭也は指定された場所にタンスを置くと首を傾げながら聞き返す。
「だって、おねーちゃんたちも武術とかはやってるけど、でも力は男の人には負けるでしょ?」
「それはまあ、そうだな」
美由希や晶、レン、彼女らもさすがに単純な力という意味でなら、ある程度鍛えてる男には敵わないだろう。それでも平均的な男子よりもありそうだが。
「だからこういう時、おにーちゃんがいてくれないと大変だなって。それにおねーちゃんたちが強いのはわかってるけど、男の人がいるから安心できることもあるから」
「そんなものか」
「うん」
そんなあくまで日常生活の中での会話。どこにでもある会話。
本当にいつも通りの会話であるはずのものの中へ、意図的に兄がこの家には必要だというのを含ませる。さらには、この家から離れたりはしないか、と遠回しに聞く。
それらを本当に自然に混ぜ合わせる。
時には会話の流れを操って、他の家族たちにも同じようなことを言わせた。
ゆっくりと恭也の思考の中にこの家から離れてはいけないと思わせる。ここには自分が必要なのだと思わせる。
そんなことを本当に、なのはは恭也が大学を卒業する少し前まで繰り返した。
「これでもダメなら、実力行使に出ればいいし」
カレンダーで今日の日付を確認し、なのははポツリと呟いた。
恭也が卒業するのは一ヶ月後。同時になのはが小学校を卒業する月でもあるのだが、それはやはりどうでもいいこと。
そろそろ恭也は答えを出すだろう。だがそれが自分の望むものでなければ、実力行使に出る。
結局の所……。
「逃がさないよ、おにーちゃん」
なのはは笑って呟く。
逃がさない。
兄を逃すつもりはない。ここで離れさせるつもりなんてない。
まだ手に入れていないのに、離れていくなど許さない。
いつか来る、自分が兄を手に入れた未来まで……離すつもりなんてないのだ。
他のことはどうでもいい。
ただそれだけのこと。
恭也は自室で、随分前に握り潰し、ヨレヨレになってしまった美沙斗からの手紙を再び読んでいた。
この数ヶ月、この手紙を何度読み返しただろう。 書かれている内容は簡単なものであるはずなのに、簡単なことしか書かれていないのに。
「何を迷っているのだろうな」
本当に自分は何を迷っているのだろう。
この手紙を読み返した所で、決めるのは自分自身であるのに、だ。
簡単なことだ。この家に残り、翠屋の手伝いをしながら護衛の仕事をして生きていくか、叔母と同じ所で働くか。
いや、選択肢など他にもいくらでもあった。
誰かの、例えばCSSの専属の護衛になってもいいし、他の会社……もちろん護衛関係の……に勤めてもいいだろう。香港警防に限らず、いくつかから誘いは受けているのだ。実際に姉と幼なじみからもそんな話をされている。
結局の所、
「この家を出ていくか、出ていかないかの問題か」
恭也が迷っているのはそれなのだ。悩む理由はそれだけでしかなく、そしてこの手紙はそれを最初に意識させただけにすぎない。
今日まで、彼女や家族に色々と言われてきた。この家には自分が必要なのだと。
確かにそれは嬉しいと思う。たぶん、前までの恭也ならば迷わずこの家に留まることを選んだだろう。
だが本当は、出ていくか、出ていかないかを迷ってるわけでもないのだ。
「……なのは」
恭也が悩んでいるのは、なのはから離れるべきか、傍にいるべきかなのだ。それを考えるたびにあの笑顔が頭の中にちらつく。
本能が諦めろと告げ、理性が彼女の傍から離れろと諭す。
だが理性すらもすでに諦めている。どちらの道に行こうとも結果は変わらないのではないかと。
「……お前の狂気の、歪みの原因は何なんだ?」
恭也は、あの笑顔を思い出して、絞り出すように言葉を紡ぐ。
だが、その笑顔を見るたびに、思い起こすたびに、恭也の本能と理性が……恭也の全てがざわめく。まるでその笑顔を見るたびに、思い起こすたびに、恭也の全てがあの狂気と歪みに塗り潰されるかのように。
恭也も普通の人とは違う道を歩いてきた。その中で狂い、歪んだ人間というのも何度か見たことがあったし、戦ったことすらあった。
だが、あのなのは決定的に何かが違う。そういう者たちとは違うのだ。
「俺は……どうすればいい……?」
結局自分は妹のことすら護れないのかと、恭也は髪を掻きむしった。
歪みに気付きながら、狂気に気づきながら、そこから救い出してやれない。
いや、むしろ……それをしてしまえば、高町なのはは高町なのはでなくなると思ってしまっている。
それはつまり、あの狂気と歪みがあってこそ、彼女は彼女であると……。
「そんな訳があるか……!」
押し殺し、怒りに震えた声で自身に言うが、それこそがすでに認めてしまっているということだ。
だがすぐに、まるで道化だと、恭也は苦笑を漏らした。
すでに自分の四肢と心は鋼糸以上に丈夫な糸に括られ、操られてしまっている。
そしてその糸を天上から操るのは……
「なのは……」
彼女の名前を部屋の扉に向けて言うと、それが開き、その先に妹が普段通りの笑みを浮かべて立っていた。
なのはは普段の通りの笑顔を……家族に向ける笑顔を浮かべながら恭也の部屋へと入る。
部屋に入る前に、まるで入れというように恭也から名前を呼ばれたが、今更その程度驚きはしない。今では兄ならそのくらいわかるのだろうと納得している。
恭也は机の前に座っていた。そしてその机の上には、例の手紙があった。ただなぜかそれはクシャクシャになっているが。
「どうかしたのか、なのは?」
その言葉を聞いて、なのはは気付かれないように僅かだが眉を寄せた。何か恭也の声と表情に余裕がないように見える。
なのはは、これでも恭也の表情の読むのは、家族の中でも一番うまいと思っている。間違いはないはずだ。
もしかしたら香港に行くか行かないか迷っているいた所なのかもしれない。それならば丁度良い所に来たと、なのはは内心で笑った。
「少しだけ話があったんだ」
そうは言ったものの、どうしようかと悩む。いきなり実力行使に出てしまうべきか。
実力行使と言っても、やることは簡単だ。単純に進路を聞き出し、その中に香港警防隊の選択肢があったなら、行かないように説得するというだけ。その説得の仕方は、なのはにしかできないものだろうが。
なのはは恭也の隣に座り、わざとらしくないように彼の机を見た。
「それ手紙だよね?」
「ああ」
恭也は頷いて、その手紙に視線を向ける。そしてすぐにそれを掴み、丸めてゴミ箱に捨ててしまった。
「おにーちゃん?」
「必要のないものだからな」
恭也はそう言って、どこか自嘲気味に笑った。
「必要……ないの?」
それはどちらの意味でなのだろう。家に留まることを決めたからいらないのか、それとも香港に行くと決めたからいらないのか。
「俺の取れる道なんて結局一つしかないからな」
その言葉になのはは首を傾げた。
兄の言っている意味が良くわからない。
「ただ、俺はお前の傍にいるっていうだけだ」
そう言って、恭也は少しだけ笑った。その笑い方はいつもなのはに見せるものとは違うものに見えた。その笑顔の意味はなのははわからない。
だが、聞きたかった言葉は聞けた。
つまり、恭也は留まることを選んだのだ。
それがわかり……なのはは笑った。
恭也は、おやすみなさいと挨拶してくるなのはに、同じくおやすみと返す。
それからなのはの気配はゆっくりと遠ざかって行った。
結局妹の話というのがなんなのかはわからなかった。普通に世間話のような会話をしただけだったのだ。
まあ、それだけではないのだうが。
「また笑っていたしな」
もちろん会話をしていて、なのはは何度も笑顔を見せた。だがなのはが本当の意味で、彼女自身の笑顔を見せたのは一度だけだ。
「…………」
それを思って、恭也は笑った。
それは先ほどなのはにも見せた、諦めに似て、自嘲にも似た笑い方。
結局認めてしまっていたのだ。受け入れてしまっているのだ。なのはの歪みも、狂気も。
逃れられない所まで来ているのかはわからないが、自分はもうそのなのはが、本当のなのはであると認めてしまっていた。
なぜならすでに自分は、あの狂い、歪んだ笑顔をこそが、なのはの本当の笑顔だと思ってしまっているのだから。
「なのは……」
これから自分たち兄妹はどうなっていくのか。
それを思いながら、恭也は妹の名を呼んだ。
そして、さらに数年の時が過ぎた。
「……今日で終わりになるのかな、それとも始まりになるのかな」
鏡に映る裸の自分を見て、なのはは笑顔を浮かべてそう呟いた。
鏡に映るなのははすでに子供ではない。大人とも言えないが、それでも少女から女性に変わる直前の美しい姿だ。
そして女性に変わる直前ではあるが、だがその笑顔は酷く妖艶な笑みであった。むしろそれは綺麗すぎていて、狂いすぎていて、歪みすぎていて……。
それは幼かった時とまるで変わらない高町なのはの笑み。だが今の彼女の笑みは、真に大人の女性でも浮かべられないような妖艶さまで含まれるようになっていた。
「どちらでもいい。どちらにしても、私はおにーちゃんを手に入れてる」
失敗などありえない。長い間練り続けてきた策は、どんな状況でも対応できる。兄がどんな反応をしても対応できる。
ようやく……ようやく兄が手に入るのだ。
この日を幼い時より待ち続けてきた。想像してきた。焦がれてきた。思ってきた。
ただこの日のために生きてきた。
想いを狂わせ、歪ませ、壊れさせ、積もらせ、満たさせ、墜ちてきた。
ただこの日のためだけに……。
「おにーちゃん……」
愛おしい人を呼ぶ。
それだけで、想いがさらに狂って逝く、歪んで逝く、満たされて逝く、墜ちて……逝く。
全身全霊で愛し、手に入れたいと想っていた人を、ようやく手に入れられる。
「ふふ……あはは」
さあ逝こう。
この狂い歪んだ想いを達成するために……。
この世で一番愛おしい兄を手に入れに……。
そうしてなのははバスタオル一枚だけを身体に纏わせて立ち上がり、笑顔を浮かべたまま歩き出した。
最愛の兄の元へと歩き出した。
彼を……愛する兄、高町恭也を手に入れるために。
狂想『短編』へと続く……
あとがき
この話だけ少し長くなりましたが、この後に狂想の短編版に繋がります。
エリス「正確には短編の中盤の方だね。書き直せばいいのに」
それも考えたんだけどね。短編版はそれまでのいきさつを軽く説明しただけだったから、それに合わせて恭也の思考となのはの思考が多少削られているのと、少し改定しているだけで、それほど変わらないから止めた。
ですので、次の話は短編版を読まないと訳がわからなくなります。
で、ちょっと短編版に少しだけ書いていた、結構重要なところを今回削除してます。前にカットすると言っていた部分です。
エリス「どこ?」
恭也の元カノと美由希たちがどうやって、誰とくっついたか。
エリス「ああ、そういえばあったね」
端的に言っちゃうと、相手は恭也を含めてほとんどオリキャラです。そうしないと頭数合わないし。
エリス「それはそうだけど」
それで恭也の相手だけ少し情報入れると、単純に護衛の仕事で知り合った女性。
エリス「あらら」
付き合い始めてすぐになのはにばれる……が、しかし、なのは放置。
エリス「あの黒なのはが?」
その間に外堀を埋めていった。つまり恭也に恋人がいる間に、他の人たちの心を言葉たくみに、他にも色々して操ってどんどんくっつけていった。まあ、恭也に恋人がいるから新たな恋に、みたいな感じ。
エリス「ある意味策士」
それがだいたい終わったら、恭也の相手を色々な方法で追いつめていった。
エリス「追いつめ……」
別に直接何かしたわけじゃない。偽情報、嘘情報を、さらに少しの真実を流していき、彼女自らに別れを告げさせた。つき合っていた期間はだいたい二年に入るか入らないかぐらい。
エリス「恭也、可哀想なんだけど」
そだね。まあこのへんも恭也、ある程度気付いてた節があったんだけどね。
エリス「で、なんでそんな重要な部分を削除してるの?」
んー、オリキャラと原作ヒロインをくっつけるのは賛否両論ありそうだから。作品越えて似たようなことをしてる自分が言うべき言葉じゃないだろうけど。
自分も初めて書いたから、オリキャラと原作ヒロインをカップリングさせるなんて。だからオリキャラの魅力が薄いというかほとんどないと思う。登場する頻度も高くないから。
エリス「なるほどね」
話的にはやった方がいいだろうってその時は思って書いたんだけど。人間的な魅力がないから、読んでいておもしろいと思ってもらえる自信がまったくない。むしろこんなオリキャラとヒロインをくっつけやがってという反応しかこないと思う。
他の理由としては、恭也とその女オリキャラで、まあエロッちいシーンがあったり(他ヒロインと『オリキャラとの』はありません)したし、それとこのへんだけかなり長いんだわ。前にも言ったとおり、元の話は区切りとかなかったから気にならなかったんだけど、そこをやったら今まで改訂した話より少し少ないくらいの話数になってしまうと思う。
エリス「確かにかなり長いね」
それと中編版では、恭也となのは以外はほとんど出さないって決めてたから。あと今読み直してみると、情けない話なんだが、粗が多くてどこを改訂して、削除すればいいのかもかなり迷う部分でさ、ここやったらいつ終わるかわからない。
エリス「それで削除、と」
そです。こんなですみません。
エリス「申し訳ありません」
まあ、こんなんで狂想短編版で要約してしまった箇所は終了です。
エリス「あとはラストだね」
うん。これは全部書き直しです。元のまんまでは送れないし。
エリス「えっちっちだからねぇ、元は」
ふ、思えば若かった。たぶんもう二度と書かない。
エリス「一年とちょっと前だって、書き終わったの」
まあ、そんなわけで次回がラストです。
エリス「ではでは、次回でお会いしましょう」
それではー。
なのはが、なのはが…。
美姫 「いやー、今回は今までにも増して黒いというか、策を弄してたわね」
恭也も何となく勘付いているみたいなんだけれど。
って言うのが良いな。
美姫 「結局はなのはから離れる事も、止める事も出来なかったのね」
そして、物語はいよいよクライマックスへ!
美姫 「一体、どうなるの!?」