第六話
なのははぼうっと天上の星を眺めていた。
彼女がいるのは高町家の庭。
そこに立ち、首を上げて、ただ遠い夜空を見上げていた。
別に何かがしたかったわけでもなく、ただ何もする気が起きなくて、そんなふうに星を眺めることぐらいしか思いつくことがなかったのだ。
いつもならきっとこんなところで、こんなことをしていたら恭也が部屋から出てきて何かを言ったかもしれない。
縁側に立ち、注意するか、それとも心配してくれるか。それはなのはにもわからない。
だが、彼は今護衛の仕事で家を出ている。だからそんなことはなかった。
それが寂しいと思いながら、だが良かったとなのはは思っていた。
会いたくないとは言わないが、会ってしまったら、自分がどうなってしまうかわからなかった。
「おにーちゃん……」
恭也はすでに恋人がいる。
すでにそれを知って二週間近く。
「大丈夫……妹で……いられてる」
いられているはずだ。
前のように恭也を避けてなんかいないし、蛍とだって会えば色々な話をする。
だから妹でいられている。いられているはずだ。
もう……妹でいられなければならない。
いや、だいたいにしてずっと自分は妹だったじゃないか。
妹でいられているとか、いられないといけないとか、そんなことは関係なく、生まれた時から高町恭也の妹であったはずだ。
それがどうして、そんな確認が必要なのだ。
それは本当に簡単なことであって、本当に普通のことであったはずなのに。
「……私にとっておにーちゃんは……」
ずっと兄だった。
だけど、同時に父であり、男だった。
いや、高町なのはの世界において、高町恭也は全てだったのかもしれない。
恭也は常に傍にいてくれたから。
兄として、父として、男として……。
確かになのはには父親はいなかった。だが、その分兄がいてくれた。
高町恭也という兄が傍にいてくれなければ、きっとここに今の高町なのはという少女はいなかった。
いたとしても、それは別人の誰かでしかない。
剣の修行などが忙しくて、いつも一緒にはいられなかったかもしれないが、それでも恭也は甘えさせてくれた。
寂しいと思うと、いつのまにか傍にいてくれた。
生まれた時から、今までずっと……見ていてくれた。
暖かく見守ってくれていた。
恭也は、高町恭也として高町なのはに色々なものを与えてくれたのだ。
だからこそ、高町なのはは高町なのはとしてあれたのだ。
「だから私は……」
だからこそ……好きだった。愛おしかった。
もしかしたら、兄への愛、父への愛、異性への愛をごちゃ混ぜにしてしまっているのかもしれない。
なのはが恭也を好きになったのは、ただ本当の恋というものを知らなかったからなのかもしれない。
ただ周りに恭也しか男性がいなかったからなのかもしれない。
世間一般から見れば偽物の想いなのかもしれない。
本当はそんなことなのは自身、理解していた。もしかしたら、これは本当の恋ではないのかもしれないと。
だが、それはその分純粋で、同じく真剣だった。
理解してなお、それでもこれは自分の想いなのだと。
なのははなのはなりに、幼くとも真剣に、恭也を愛していた。
それが例え、他の人から見れば偽物にしか見えないものであろうとも。
端から見れば偽物に見えるものかもしれなくても、なのはにとっては本物で、全てで、唯一の答えで、何より暖かいものだった。
その全てが、兄である高町恭也から受け取ったものであったから。
そして、血が繋がっていない可能性を得て、それは確証となり、恐れとなった。
やはり自分は兄が好きなだとわかり、だが同時にそれを今まで通り気付かれてはいけない恐れ。
だけど、もうそれも関係ない。
「っ……」
痛かった。
身体ではないどこかが、痛くてしょうがなかった。
その想いが痛かった。
恭也が与えてくれた想いが痛かった。
「うくっ……」
自分はずっとこんな痛みを抱えて生きていくのだろうか?
なのはは、まるで痛みから逃れるように自分の身体を両手で抱きしめる。
それでもその痛みは治まらない。鈍い痛みを絶え間なくなのはのどこかに与えていく。
耐えきれない。
今までと似ていて、だが確かに違う苦痛。
恐れていたときとも違う。
本当の意味で可能性が潰えたことへの……
なのはの目に涙がこみ上げてきたそのとき、
「なのは」
背後から優しい声が聞こえてきた。
「風邪ひくよ?」
そこには姉の美由希がいた。
彼女は縁側に立ち、ただ微笑んで、なのはを見つめていた。
「おねーちゃん……」
「うん」
その微笑を見て、なのはは何とか涙を流すのを耐えた。
涙を流しているところを見せたらきっと心配させてしまう。姉を心配させたくないというのもそうだが、同時にそこから兄へと伝わるのをなのはは恐れた。
そして、この想いを姉に気付かれ……さらにそれをきっかけに、血についてまで気付かれてしまうのではないかと恐れた。
普通に考えれば、そこまでわかるわけがないが、なのはには自分の隠していることの全てがばれてしまうと思い込んでしまっていた。
美由希はそんななのはに気付いているのかいないのか、なのはを手招きした。
それに操られるように、なのはは美由希の前に立つ。すると美由希は、なのはの視線に合わせるように膝を折り曲げた。縁側の上にいるため、それはほとんど座ったような感じだ。
「庭に誰かいるなぁって思ってたけど、なのはだったんだね。敵意とかないから、うちの誰かなのはわかってたけど」
その言葉になのはは先ほどまでの痛みも恐れも忘れて苦笑した。
そういえば、姉もわりと人間離れしているんだった、と。
「なのは、ちょっとお話しようか?」
「え?」
その突然の言葉に、なのはは目を瞬かせる。
何の話をするつもりなのかと、内心で身構える。
だが美由希はなのはの反応を見ても、マイペースに縁側へと座り、なのはも座れという感じでペタペタと自分の隣を叩いた。
それを見て、なのははおずおずとその隣に座った。そしてそこから美由希を見る。座っているか立っているかの違いはあるものの、彼女は先ほどまでのなのはのように夜空を見上げていた。
だが、お話しようと言っておいて、彼女から口を開く様子はなかった。
ただじっと空を見上げている。
むしろ、なのはから話しかけられるのを待っているかのように。
だからなのはは、自分から口を開いた。
それはずっと思っていたこと。
姉に対してだけではなく、多くの人に対して思っていたことだ。
「……おねーちゃんはよかったの? おにーちゃんのこと好きだったんでしょ?」
その言葉は色々と足りなかったが、絶対に意味は伝わる。
「あはは、やっぱりわかっちゃうかな?」
「それは……わかるよ」
正確には恭也の従妹である美由希。
その彼女が、恭也を好きであるのは理解していた。それはきっとなのは自身が恭也への恋心を自覚した時から。もちろん嫉妬はあった。姉は最初から可能性があったから。
だが、今はそんなことはない。
姉もきっとそれに対して色々と複雑なものを抱えていたのだろうと、今ならなのはもわかるから。
「私は、いつかはこうなるってわかってたからねぇ」
それは簡単な答えだった。
だが、
「え?」
「いつかは恭ちゃんに恋人ができるってわかってたから。だからずっと前に覚悟もできてたんだ」
なのはには美由希が何を言っているのかわからなかった。
いや、わかるのだが、その意味がまったくわからない。
それが表情に出ていたのか、美由希は苦笑した。
「いつかは恭ちゃんに恋人ができて、結婚する。そんなのはずっと昔からわかってた。もちろんそれが私だったらいいな、とは思ってたけど。でも同時に私じゃないだろうな、とも思ってた。ただ恭ちゃんの恋人になるのは、私の予想としてはフィアッセだったんだけどねー」
苦笑しながら続ける美由希を見て、なのははますますわからなくなる。
なのはにだって美由希が恭也を男性として好きなのはわかっていた。それも彼女は別にその気持ちを押さえる必要はないのだ。
なのに昔から覚悟ができていたという。
いや、それはある意味は当然なのかしれない。いつか恭也に恋人ができるというのはおかしいわけではなく、それが自分でないかもしれないと覚悟する。
それは別におかしいことではないかもしれない。
強く想っていれば、その想いを向ける相手と絶対に結ばれる、なんてことはないのだ。そんなことなのはが一番わかっている。むしろ絶対に届かないとわかっていたのだから。
だからこそ覚悟する。この想いが叶わなかったときのことを。
だがそれでも、絶対に叶わないと思っていても、なのははどこかに希望を持っていた。
それは誰でも一緒ではないだろうか。好きな人と結ばれるという希望は持っていたいものではないだろうか。
しかし、美由希が言うことは違うような気がするのだ。
まるで最初から自分を除外しているかのように聞こえた。
なのはが沈黙していると、美由希は淡々と語る。
「もしかしたら……御神流を教わってなかったら、そんな覚悟はできなかったかもしれない。今でも諦められなかったかもしれない」
「どういうこと?」
「うーん、説明が難しいんだけど。私はたぶんね、恭ちゃんを追いかけていたいんだと思う」
「追い……かける?」
なのはが再び聞き返すと、美由希は夜空を見上げたまま静かに頷いた。
「私はずっと弟子として恭ちゃんを追いかけてきたから。皆伝したけど、それは今でも変わらない。今でも勝てないし、母さんと再会して、膝がほとんど完治して、色んなことがあって恭ちゃんもっと強くなったし。たぶん追いつくことはできないんじゃないかなぁ」
それはきっと、肉体的な強さだけを指しているわけではない。
何となくなのはにはそれがわかった。
そして追いつけないと言う美由希は、なぜか少し嬉しそうで……
「恭ちゃんの背中だけを目指して今まで来た。それはずっと変わらないんだ、今までも、これからも。たとえ恭ちゃんから教わることはもうほとんどなくても」
「……それが?」
「私じゃね、恭ちゃんの隣には立てないんだよ。恋人になるなら、きっと恭ちゃんの隣に立たないといけないから。隣に立って、恭ちゃんを支えてあげないといけないから」
「あ……」
その言葉で美由希が何を言いたいのか、やはり何となくなのははわかった。
「私の追いかけていたいっていうのとは相反しちゃうんだよね。私が見えるのは恭ちゃんの背中だから」
今度はどこか寂しそうに告げる美由希。
でも嬉しそうで、だが同時に寂しそう。そうなのはには見えた。
「それがわかっちゃったとき、私は覚悟してたんだ。そのときは諦めようって……もしも、もしも本当に恭ちゃんに追いつくことができたってそう思えたなら、そう思える時が来たなら、言おうって。だけど思えなかった」
「…………」
「でも、追いつくことができても、隣に立つのは無理だったかも」
「どうして?」
「恭ちゃんが私に求めてるのは、私が恭ちゃんに追いつくことじゃなくて、私が追い抜いていくことだから。それだって隣には立てないんだ」
寂しそうに笑い、それでもどこか誇らしげな表情。
その誇らしげな意味は、御神流を習っていないなのはにはわからない。
だが、一つだけわかるのは……
「結論を言うと、確かに恭ちゃんのこと今でも好きだよ。でも本当は従妹だったとしても、私が恭ちゃんの妹であることは絶対に変わらないことだから。弟子っていうのもね。私はそれで十分。妹として笑いあうことができて、弟子としてでも、ずっと恭ちゃんの背中を追いかけていけるなら」
美由希は、後悔はしていないのだ。
恭也に自分の気持ちを気付いてもらえなくとも、自分の想いが叶わなくても、それでも美由希に後悔はない。
そして本当にそれで十分だと思えている。
「おねーちゃん……」
「……少し寂しいけどね」
「あ……」
月の光を反射するものが、少しだけ美由希の瞳に見えた。
「でも、これが私の選んだ道だから。私が恭ちゃんとの関係で望んだものだから」
だから後悔はしない、そう美由希は呟いた。
「みんなはどう考えて、二人を祝福したのかはわからないけど、でも私はそうだったから。恭ちゃんを支えてくれる人ができて、妹として、弟子として嬉しかったから祝福できた」
それが恭也との関係で、美由希が出した答えだった。
妹として、弟子として祝福するという答え。
美由希は寂しそうな表情を笑みに変えて立ち上がった。
そして、優しげな目をなのはに向ける。
「なのは、後悔するななんて言わない。だけど、ちゃんと前を見て歩かないとだめだよ?」
「え?」
「自分の気持ちを封印しろとも言わない。たぶんなのはは今までずっと苦しんできただろうから。私なんかよりもずっとずっと、その気持ちで苦しんできたと思うから。今も苦しんでるのがわかるから」
「おねー……ちゃん………」
「逃げるななんて言わない。受け入れろなんて言わない。でも……なのははなのはとして、よく考えて……その気持ちをどうするのか。じゃなきゃ、恭ちゃんが心配するよ?」
気付かれていた。
たった今じゃない。きっと昔から。
この気持ちに、この想いに、姉は気付いていたのだ。
気付かれてはいけない気持ちに、想いに。
「おねーちゃん……」
なのははどうしてなどとは問わず、美由希を見上げた。
だが美由希も何も言わずに笑っているだけだった。
そして、
「さっきも言ったけど、風邪ひくから早めに部屋に戻るんだよ」
笑顔でそう言って、そのままその場から離れていった。
美由希は、なのはを一人にしてくれたのだ。
姉としてかけなければいけない言葉だけを残して……。
なのはは、しばらくじっとしていた。
ただ縁側に座って……
『なのは……』
恭也の声が聞こえた。
隣から、まるでいつものように、恭也が話かけてくれたような気がした。
兄として、妹に話かけてくれているように。
幻聴だと理解して、それでも顔を横に向ければ、今度は幻の恭也がそこに微笑を浮かべて座っていた。
だが、それも一瞬で消えた。
「あ……」
あの微笑。兄が『妹』に向ける笑顔。
蛍に向けるものとは少し違う笑顔。
それをなぜ……
「うあ……ぁあ……っく……」
今なぜ、自分の心が幻として見せたのか……
「あ……うっ……おにー……ちゃん……くっ……あっ……わた……し……んくっ……は……おにーち……ゃ……んが……!」
わかってしまった。
「好き……だった……!」
このときなのはは、長い長い自分の初恋が終わったのだと、受け入れることはできなくても、それでもそれを理解した。
この想いを封じなければいけないと、やはり同じく……理解した。
だから最後の言葉だった。
想い口にするのはこれで……。
美由希が自分の部屋に戻る途中に通った廊下。
そこに桃子が立っていた。
美由希は彼女に最初から気付いていた。
あくまで御神であり、不破ではない美由希は、恭也や美沙斗のように気配だけで人物を特定するのは得意ではない。人がいる、悪意の有無というのはわかっても、あの二人のように人物まで特定するのは難しいことだ。
だが、それでもここにいるのは母であるとわかっていた。
もちろん、先ほどの妹との会話が聞かれていたことも。
「かーさん、ごめんね。かーさんの役目取っちゃった」
なぜ桃子がここにいたのか理解していて、美由希は言った。
本来あれはたぶん、母の役目であったはずだから。
それを美由希は奪ったのだ。
自分から、わかっていて。
だが桃子は笑っていた。
それは慈愛に満ちた母親の表情だった。
「いいのよ。私には他にも役目があるし、娘は一人だけじゃないもの」
桃子はそう言って、美由希の頭に両手を添えて、彼女を自らの胸元に抱き寄せた。
美由希はそれに逆らわず、ただ桃子の胸の中で震えていた。
そんな美由希の頭を桃子はゆっくりと、だが優しく撫でる。
そして、
「うっ……うっく……あ……ああ……!」
その中で、決してなのはには届かないように、美由希は低く嗚咽を漏らした。
それは厳しい鍛錬の中でも決して漏らさなかったもの。
決して流さなかった涙。
「本当に……恭也って罪作りよね」
桃子は、そんな美由希の頭を撫でながら、そして目は同じく涙しているであろうなのはがいる方向へと向けて、ポツリと呟いた。
あとがき
なのはパートでした。
エリス「うわあ、もうなんていうか、あんたなのはファンに刺されるよ? 今までだってなのはを辛い目に合わせてきたのに」
いやいやいや、自分だって心が痛いんだよ? 本当に。ただこうしないと話が展開できないのですよ。とくに恭也の考えの問題で。
エリス「だからって」
恭也の恋愛となのはの葛藤は必要なんです。
エリス「まあなのはの葛藤もあれだけど、今回ある意味一番目立ってたのは、何となく美由希に見えるかな」
同じ妹としての立場だから。なのはとはまあまた違う立場だけど。自分は美由希も好きだからね、ここで目立ってもらった。まあ言葉は少ないし、ほとんど行動はしてないけど、最後に出てきた桃子が全てをかっさらっていったような気もするが。
エリス「とらハ本編では、こういうのはすっきりしてたのに」
そうなんだけどね。
エリス「それにしても短い」
またもすみません。とりあえず、今回は二話連続で送ってますので。
エリス「とりあえずそちらへ」
なのはパート。
美姫 「美由希がお姉ちゃんしているわね」
うんうん。俺も美由希は好きなキャラだから、こういう役は嬉しいです。
美姫 「の割には、アンタの書く美由希は……」
あ、あはは。それは置いておいて、自分の想いをちゃんと理解し、それを口にしたなのは。
美姫 「これからどうなるのかしら」
滅茶苦茶気になります。
美姫 「気になる次回は……」
この後すぐ!