第十七話 代価
待った。
待ち続けた。
いつか来るあの男の血族を。
いつか来る我が身を御する存在を。
いつか来るあの男の魂を受け継ぐ者を。
いつか来る日……と言った男の生まれ変わりである存在を。
そして、それは本当に来た。
どれだけの時が流れたかは、朧気にしかわからない。どれだけ……と共に眠り続けたかは、やはり朧気にしかわからない。
もしかしたらその時は来ないのかもしれないと、どこか恐怖にも似た感情が浮かんだこともあったが……確かに来た。
きっと『一人』では気付かないほどか細い力。
『二人』いるからこそ気付いた。
あの『二人』には、あの男ほどの力はないだろう。あの男よりも弱い。
しかし、しかしだ。あの二人のうちの一人はあの男よりも強い。
もう片方とは違い、霊力はほとんどなく、自分という存在が息を吹きかけただけで死にそうな力のない者。
だが、あの男の血を、魂を継いだ男は、間違いなくあの男よりも強い。あの男よりも弱いが、だけどあの男よりも強い。
その魂はどこまでもあの男に似ていて、だけどそれ以上の輝きを放っている。
それは『もう一人』も同じ。
もう片方も強くなる。
もうすぐ。
もうすぐだ。
もうすぐ……も気付く。
そのときは……もあの『二人』を見て、あの『二人』に近付くため、約定を守るため、この封は、眠りは解ける。
その時こそ、あの遠い昔の約束通り……遊ぼうじゃないか。
なあ……の血を継ぎ、魂を継ぐ二人よ。
◇◇◇
「恭也、呼んだか?」
「兄さん、呼んだ?」
いつも鍛錬で使う森の中、その鍛錬が終わり、休憩していたとき、二人は同時に言った。
「俺は呼んでいないけど」
「俺もだ」
二人して、誰かに呼ばれたような気がしたのだが、と首を傾げた。
その所作は、兄弟故か、それとも他の理由か、どこまでも似ている。
しかし、兄である恭吾は、首を振り、気のせいかと結論づけた。
それから、クールダウンして木の幹に身体を預け、休んでいる恭也に近付く。その行動で、これより先ほどの鍛錬の評価か、もしくは座学が始まると、恭也は身を正す。
「恭也、お前はどこまで強くなりたい?」
「は?」
しかし、恭吾の口から出てきた言葉は、そのどれにも当てはまらず、恭也は一瞬目を瞬かせたが、その質問に答えることにした。
「俺の大切な人たちを守れるぐらい強くなりたい」
恭也の答えを予測していたのか、それともそれが当然だと思ったのか、恭吾はさも当然に頷き返す。
「守れるほどか、それはどの程度の強さだ」
「大切な人たちに襲いかかるすべての存在を撃退できる強さ」
続く質問にも、淀みなく答える恭也に、やはり頷く恭吾。
何が言いたいのだろうと、恭也はまた首を傾げる。それに恭吾は、答えを出した。
「人は何かの結果を求めるなら、目的を持つなら、それと等価な代価が必要だ」
「代価?」
「ああ。強さに関わらず、物であれ、それが趣味であれ、勉学であれ、手に入れたいものがあるのなら、その求めるものの大きさに従って、代価を支払わなければならない。
それは体力であったり、金銭であったり、労力であったり、時間であったりだ。
そして、それは求めるものが大きいものであれば、より多く支払わなければならない」
それは当然のことだった。
衣食住を求めても、労力と金銭が必要で、また趣味とて同じ。
この世に代価を支払わないで手に入れられるものは、驚くほど少なく、代価を支払わずに得られる物は危険をはらむ。よく言うだろう、ただほど怖いものはないと。
「先ほど鍛錬ら使った時間、使った体力、受けた怪我、今こうして兄さんと話している時間も、ということ?」
「そうだ」
今、こうして恭吾と話をしているこの時間も、先ほどの鍛錬の時間も、恭也が支払うべき代価。
「さて、お前は何を支払う?」
「今、時間や体力だと」
それならばすでに払っているだろうと、恭也は首を傾げる。
しかし、恭吾はそれに低い言葉で返した。
「足りん」
そして、短い言葉で切って捨てる。
それに恭也は、息を詰まらせた。
恭吾の声が、酷く重いのだ。
「お前が求める強さは、大切な人に襲いかかるすべての存在を撃退できる強さ。それは言い換えれば、誰よりも強くなると言っているようなものだ」
「そうだ。俺はそのぐらい強くなりたい」
「ならば代価が足りない。
お前の体力では足りない。お前の労力では足りない。お前の時間では足りない」
求める結果が大きい故に、労力と時間では足りない。
その一生の労力と、一生の時間と恭也が求めるものは、つり合わないと恭吾は言い切る。
「では、何を支払えばいいんだ?」
「それは自分で考えることだ」
恭也の当然の疑問も、恭吾は切り捨てた。
それはではどうすればいいのかわからないと、恭也は憮然として表情を浮かべる。
その反応を見て、恭吾は肩を竦め、ヒントはやろうと前置きし、再び語る。
「俺の知り合いの幾人かは、強さを得るために様々なものを支払った」
「それは?」
「……過去そのものであったり、未来であったり、精神の在りようであったり、残りの寿命…そして命そのものである者もいた」
その代価に、恭也は驚きでいつもよりも目を大きく開いた。
「美由希や……まあ、お前も才能はある。だがな、お前たちよりも才能がなくとも、お前たちよりも、ずっと強い者は、この世にごまんといる。
お前より才能がないにも関わらず、お前がこれから強くなるために支払う時間を、体力を、それらを含めた労力を使い、一生かかってお前が手に入れられるであろう強さを、お前より才能がないにも関わらず、そいつらは簡単に越えてくる」
なぜか。
それは払った代価が違う、と恭吾は言い、自分の頭をトントンと叩く。
「そういったやつらは……大抵ここがおかしい。
強さのために、それ以外を捨てた者たちだ。過去を捨て、未来を捨て、心を捨て、残りの寿命を減らし、命を捨てる。それらを供物にして、強さを得ている」
それはつまり、人間としては心底イカれている。しかし、だからこそ強い。
「俺もまあ、似たようなものだ」
「兄さんが?」
「ああ。俺の場合は人間性といったところか」
珍しく苦笑う恭吾。
それに先ほどよりも、大きく目を開くことで、恭也は今まで以上の驚きを伝えていた。
そんな恭也に、恭吾は苦笑を戻し、淡々とした声で続けた。
「恭也、今この場に、かーさんと赤の他人がいる、そう思い浮かべろ」
恭吾の告げる仮定がどういう意味なのかはわからなかったが、恭也は疑問は口にせず、その状況を思い浮かべた。
「そして……その二人の目の前に、やはり二人の男が拳銃をそれぞれに向けている。
さて、どちらを助ける? 無論、弾は発射される寸前で、どちらかしか助けられない」
「は?」
一瞬、何を言われたかはわからなかった恭也だったが、すぐに理解し、答えを出した。
「当然、かーさんだ」
恭也にとって当然の解答。
そのとき、恭吾の表情が僅かに揺れた。
一瞬浮かんだ表情、それは……憧憬だろうか? もしくは憐憫?
相反したような感情。
だが、すぐに恭也は内心で首を振った。見間違いだろう。憐憫はともかく、憧憬など恭吾が、自分に向けるものか。
「では、かーさんではなく、そこにいたのが、お前のクラスメイト……それも顔は覚えていても、名前など思い出せない人物だったなら? お前のことだ、そういうクラスメイトもいるだろう?」
断定されている。
事実だから、恭也も否定はできないのだが。
つまり顔を少し知る程度のクラスメイトと、正真正銘顔も知らぬ人物。そのどちらを助けるか。
少し迷い、
「クラスメイト、だろうな」
そう答えた。
すると恭吾は僅かに笑った。
そして……
「お前は……現実でその瞬間が来たなら、間違いなく迷うだろう。その対象が……かーさんと赤の他人であってもだ。
そして、その迷いが、かーさんを死なせる可能性もある」
「なっ!?」
「どちらを助けると聞かれて、お前はかーさんのときは、最初何を言われたのかわからず、クラスメイトのときは、決断が遅かった。それは迷いだ」
告げられた言葉は、恭也にとっては認められないものだった。
恭也は御神の剣士だ。しかし、正義の味方ではない。
守りたい者を守る。
それは確かに自分勝手なのかもしれない。自分が守りたい者以外は、どうでもいいと言っているとも取れるのだ。
だが、そう言われても、御神の剣士は大切な人たちを守る者。
そう考えている恭也にとって、恭吾の言葉は認められるものではない。その言葉は、自分が大切な人と赤の他人を天秤に乗せて、どちらにも傾いていないと言われているのと同じだ。
口から出そうになったのは否定だったのか、それとも罵詈雑言だったのかはわからない。
しかし、それが放たれることはなかった。
「それは人として間違っていない。お前は……お前と美由希は、御神の剣士とて、剣士である前に人なのだから、間違っていないんだ」
恭吾がそう言ったから。
恭也は言葉を飲み込んでしまった。
「そんな状況になれば、人は間違いなく迷うんだ。今の例えが、護衛からは離れたものだ。今この場と言ったのだから、日常の中でのこと。
護衛という前置きがあったなら、お前は迷わなかっただろうさ。自分が護らなければならない者が、最初からわかっているのだから」
日常の中と、護衛中の違い。
その違いは大きい。
「突発的自体において、人は必ず迷う。大切な人を救うのは当然だ、と思っていても、その場面に出くわせば、必ず迷うんだ。迷ったあとに出る答えが同じでも、だ。
どんな戦闘者でも、殺人者でも……その人物が正しい人間性を持っているなら……迷う。
だがな、それは人としてどこまでも正しい。
赤の他人と、大切な人……家族を比べて、それでも見捨ててもいいのかと迷うことは、当然のことなんだ」
そう言って恭吾は目を瞑る。
「それは弱さじゃない。優柔不断なのでもない。人間としてどこまでも正しい迷いだ。
その迷いをなくした時点で、それはもう人としてのおかしいんだ。人間性を捨てている。人が持つ正しい感情を、人が持つ迷いという優しさを……全てなくした人間以下の最低な存在なんだ」
そして、
――俺はそういう人間以下だ。
――人である前に、剣になった人でなしだ。
恭吾のそんな重く、淀んだ声を聞いて、恭也は喉の奥が詰まったかのように、震える息を吐いた。
わかった。
恭吾の言うことは正しい。
彼がそういう人間だということではなく、人間が迷うのは当然だということが正しい。
言われて、始めて理解できたのだ。
突発的自体で、そしてそれがその人物の死に直結する危機を助けるという行為は、本当に難しいのだ。
たまにあるだろう。溺れた人を助けるために、その助けようとして亡くなった、という話が。
人は、誰かの死の危機を見ると、どうしても助けようとする。勇気のあるなしではない。人の自身に対する死という結果は、どうしても想像の埒外なのだ。自分には無縁なもの、自分だけは大丈夫だ、と思ってしまう。
だからこそ動けてしまう。迷わない。自分も死ぬかもしれないと忘れてしまうのだ。無論、中にはそれを自覚して、それでも向かう勇ある者たちも、多くいるだろうが。
しかし、自分の行動の結果が、誰かの死に直結するという場面では、誰であれ迷うのだ。
それは恭吾の言うとおり、弱さではない。優柔不断だからでもない。
つまり……命の重さを知るが故にだ。
正しい人間であるならば、誰もが知る重み。
その重みをそこで見捨ててしまっていいのかと、誰もが悩む。
対象が赤の他人であるからこそ、過去をまったく知らないからこそ迷うのだ。その人物が悪人である、とわかっていれば、誰も迷わない。
だが、これから大切な人のために、見殺しにする人にとて、恋人がいるかもしれない。子供がいるかもしれない。家族がいるかもしれない。
相手が誰であるかわからないからこその迷い。
それが人なのだ。
迷うことが人という種の優しさでもある。
恭也が正しく理解できたのがわかったのか、やはり恭也は笑う。
「俺は迷わない。人でなしであり、ただの剣である俺は迷わない。
赤の他人とかーさんならば、何の躊躇いもなくかーさんを救う。顔を知っているクラスメイトと赤の他人ならば、何の罪悪感も浮かべずクラスメイトを救う。
なのはとかーさんならば、かーさんを無視し、なのはを救う。かーさんと美由希ならば、かーさんを救い、美由希には死んでもらう。美由希とお前ならば……お前を斬り殺し、仲間割れとでも思わせて美由希を救う」
ならば……ならば目の前の兄は何だというのだ。
不破だから、等という理由はありえない。確かに不破というのは殺して守る者たちだが、それは後ろに守るべき者たちがいるからだ。
恭吾のように、大切な人間同士でも躊躇いがない者など存在しなかっただろう。
「ぁ……」
その異常なまでに早い優先順位付け。
護る対象であっても、そこに付けてしまい、正しくその通りに動ける壊れた人間性。
弱い者を最も初めに護り、それ以外には当然の如く少しでも自身にとって大切であると思える者を救う。
それは人間として致命的に壊れていた。
だけど……
「でも……! 実際にそうなってみないと……!」
わからないと告げようとしてた。
しかし、
「実際にそうだった」
「っ!」
すでに彼は経験しているという。
「俺はほんの少しの知り合いと、見も知らない他人を天秤に掛け、一切迷わず、前者を救った。元より、そうであろうと思っていた」
彼は望んでそうなった。
つまり、
「兄さんは……」
――人間として正しいモノを捨てた。
――強くなるために、捨てた。
――守れるように、捨てた。
それが彼の強さであり、強さを得るために捨てたもの。
彼は人として当然のものを捨てたのだ。
その人間性は、理解できても納得できない……のではない。納得できても理解できない。
解答は納得できるのに、そこにいくまで思考が理解できないのだ。
恭吾は、なのはを、桃子を、美由希を……そして、恭也を大切にしている。
その好意に順位などない。皆が横一列。
だが、護るときには、完璧にまで順位をつける。
誰がどう見ても、人としては壊れていた。
だがそう、それは確かに恭吾の強さなのだ。
迷わないという強さ。
恭也はいつのまにか溜まっていた唾を飲み込んだ。
そんな恭也を見て、恭吾はまたも苦笑する。
「お前もそうなれと言っているわけではない。が、代価が足りないのも事実だ。どうするかはお前が考えるしかない」
「……俺は」
それでもと恭也が何か言おうとすると、恭吾を首を横に振る。
「今すぐ決めることもない。お前は普通の代価でも、まだ成長する。決めるならば成長を終えてからか、それとも今の成長率では足りないと思ったときでもいい」
「…………」
「無論、そんな外れた強さを手に入れず、今のまま行ってもいい」
「わかった」
今はまだ自分はそんなところにいない、恭也はそう思った。
だからそれについてを悩むのは辞めておこう。
恭吾はさらに続けた。
「ただ例外もあり、世の中には、代価を払わず得られる強さというものもある。それがどんな強さであるのかは省くが」
「代価を払わない……」
「だが、もしお前がそんな力を手に入れられる機会を得たとしても、勧めはしない」
「なぜだ?」
「代価を払わずに得られる強さは、いつかお前を裏切る。もしくは本来は最初に払うべきだった代価を、後に数倍になって、そして強制的に払わされるだろう」
それは当然のことなのだ。
「溜まりに溜まった借金は、いずれ利子が借りた代金を超える。そのとき払うものは、お前の命となり、またお前の周囲の破滅ということもありえる」
そんなものを自分は幾度も聞いてきたし、見てきたと恭吾は言う。
「ある者はその力に飲み込まれて死んだ。ある者はその力を暴走させて、家族を殺したらしい。ある者は発狂し、目に見える者を殺し続け、最後には精神が逝った」
わかった。
何となく恭也は理解できた。
恭吾の言うそれらは、恐らくこの前言っていた超常現象を操る者や、人知を越えた能力を持つ者……もしくは、それらを後天的に手に入れた者たちのことを言っているのだ。
「俺も、いずれ払わなければならないときが来るだろう」
「兄さんが……そんな力を手に入れた、と?」
「俺は力ではない。今このとき、この瞬間、お前を強くするために使った時間。それそのものがあり得ないことであり、代価を支払っていない状況だ」
なぜか、その言葉を聞いたとき、恭也はしっくりきた。
恭吾が代価を支払っていない云々ではなく、この場にいること。
それはそう、恭吾の言う通りあり得ないことなのだ。
それが何となく恭也には理解できたのだ。
だけど、それならば……いつか兄はその代価を支払うことになるのだろうか?
◇◇◇
恭吾は、暗い廊下を歩きながら、一つ大きく息を吐いた。
「代価、か」
恭也が何を支払うのか。それは恭吾にはわからない。
だが、恭吾はどれを選んでもいいと思っていた。
恭也が望むのならば、それが精神でも、寿命でも、命でも。もしくは自分と同じく、人間性であっても。
それは恭吾が口を挟むことではない。あくまで恭也自身が選ぶこと。
そして、それらは決して間違った強さでもない。
なぜならそれらは、正邪の関係はなしに、何かしら目的がなければ選べない強さだ。
目的を果たすために足りないからこその供物。
そこに正しい、正しくないも、正道も邪道も関係ないのだ。
後は選んだ本人次第なのだから。
もちろんどれも選ばなくともいい。
今のままでもいいのだ。
今のままを選んだとしても……
「俺があいつを強くすればいい」
そう、恭也が支払わないのであれば、恭吾が支払えばいいこと。
恭也の時間と体力と、労力と……それらに合わせ、恭吾の全てを恭也にくれてやればいい。それだけで代価は倍だ。
代価は、必ずしも本人が払われなければいけないというわけではない。ならば足りない分を、師である恭吾が払えばいいことだ。
すでに膝という代価を恭吾はかつて支払っている。それと同じだ。
恭也や美由希が強くなるために、四肢でも、精神でもくれてやればいいのだ。
むしろその方がいいと言えるかもしれない。
「代価……か」
もう一度、その言葉を呟く。
恭吾が、それを意識したのはいつだっただろうか。
元より、恭也に言ったことは意識していた。過剰なまでの優先順位を心のどこかで決めていた。
それは今の恭也の年齢のときには。
父を失い、暴走していたことは確かだが、それでも恭吾は、家族を守ることに躍起になっていた。泣かせてしまっていたかもしれないが、それでも恭吾は家族を守るという意思の元に強くなろうとしていた。
守れる者は自分しかいないとわかったときに、恭吾はその代価を支払うことを決めた。
そうでなくては、一切迷わず選ぶことができなければ、あのときの恭吾は、何も守ることはできなかったのだ。
だって、自分たちには、確かに狙われる理由があったのだ。
不破士郎の息子だから、娘だから、妻だから。
御神の生き残りだから。不破の生き残りだから。
それだけで、家族たちには狙われる理由があり、可能性があり、それらから守るためには、人間として正しいものを捨てるしかなかった。
守る者は多く、だがそれを守れる者は自分一人という状況で、しかもまだ幼かった彼が歪まないわけがない。
だが、それが本当に機能しはじめたのは、恭吾が恭也であったとき、その人間性を歪ませたのは……
――どうして彼も助けてくれなかったの!?
何の躊躇も、何の迷いも、何の罪悪感もなく、決定的に選んでしまってときだったのだろう。
そのとき恭吾は、代価を確実に払った。そのとき人間性を捨てた。
恭也は今、恭吾という自分よりも強い存在が居て、また恭吾が家族を守っているという状況で、恭吾のような代価を払う必要はなかった。だから、その考えさえ、浮かばなかったのだ。
まあいい。あの様子からすると、恭也が選択するのは随分と後になるだろう。
今気にしても仕方がないと、恭吾は首を振る。
そして、足を止めると、目の前のドアを引いた。
「来たぞ」
「あ、恭君、久しぶり」
その向こうには、椅子に座る七瀬がいた。
「一昨日も来ただろう」
「二日は十分久しぶりの範疇じゃない?」
「そんなものか」
人と会う機会の少ない彼女らしいとも言える。
出会ってまだ数週間ではあるが、七瀬とはそれなりの頻度で会話を交わしていた。
昼休みにということが多いが、今日のように、夜の鍛錬帰りに、学校に侵入して会いに来ることもある。
「こうも簡単に侵入できるのは、管理体制に問題があると思うのだがな」
「そのお陰でこの時間でもお話できるんだし、良いことだよ。もっとも恭君なら、ガチガチの警備体制でも侵入しそうだけど」
「まあ、監視カメラやセンサー程度なら抜けられるが」
「いや、それは程度じゃないから」
彼女との会話は、楽しいというのとは違う。しかし、それでもこの時間は恭吾にとって有意義なものだった。
いつのまにか、恭吾は恭君と呼ばれ、さらには自分のことも御神流なども含め、ある程度話してあった。無論、時間を逆行していることなどは話せないが。
正直、『恭君』に関しては突っ込みたいところだが、そう呼ぶ七瀬の顔を酷く嬉しそうで、それはできなかった。
「さっきの弟さん? 確か恭也君だったっけ?」
見ていたのか、それと感じたのか、唐突に七瀬は聞いた。
実際、風芽丘の前で恭也と別れたので、七瀬がそれを見ていても、感じていてもおかしくはない。
「ああ。まあ正確には従弟だがな」
さらに正確に言えば、同一人物だが。
「へー、似てるね」
「よく言われる」
それもやはり当然のこと。
ここ最近は、さらに恭也は恭吾に似て……いや、近付いてきた。
「うーん、外見だけじゃなくて霊力の質も……でもこっちは……」
「霊力?」
独り言のように呟かれた七瀬の言葉に、恭吾は反応した。
「うん。霊力もそれぞれで色とか質とかが人によって結構違うんだ」
今一ピンとこない。
霊力自体、恭也には縁遠い……自分の中にもあるというのはわかっているが……ものなので、七瀬が言いたいことが理解できなかった。
「でも恭君と弟君の霊力の質……まったく同じ」
それもやはり同一人物であるのだから、当然というべきだろう。
しかし、七瀬はそんなこと早々あるわけがないと言う。
「世界には三人は同じ顔の人がいる、とか言われてるけど、双子以外でまったく同じ顔の人なんてそうそういないでしょう? あくまで似てるだけ。双子だってどこかしら違う」
「それは、そうだな。雰囲気であったり、筋肉の付き方であったりと、違う部分はある。まったく同じ生活でもしなければ、双子とて同じ人間にはならないだろう」
「霊力の質の差はそれ以上に差が出るもので、双子でもまったく同じ質を持つ人なんて稀もいいところだと思う。恭君が言ったように、双子で全く同じ生活でもしないと難しいんじゃないかな」
「…………」
これはまずいかもしれない。
「だけど、恭君と弟君の質も色も同じなの。こんなことあるのかなって」
「…………」
恭也と恭吾は同じ存在だ。
これからの生活次第では、それなりの変化は出るだろうが、最終的には恭吾と似た顔、似た性格、似た体付きになるだろう。下手をすれば、しかしやはり生活次第では、全く同じ顔にもなりかねない。
これは血縁だから、と誤魔化すことは可能だ。
この世に全く同じ人間などいないと誤魔化せる。
クローン、という風に考えられる可能性もあり、それだと恭也が恭吾の、ということになってしまうが、それならそれで何か問題があるかと、と開き直れるし、クローンとて生活次第では、全く同じ人間にはならない。双子と一緒だ。
まあ、恭吾が恭也は自分のクローンである、等という嘘は流石につけないが。
だが、外見など以外で、同一人物に近いなどと言われれば、恭吾には反論する手段がなくなってしまう。
そうなると、七瀬には全部話さなければならないかもしれない。
「あはは、まあ、でも質は同じでも量が全然違うしね。弟君、凄く霊力が大きいよ」
「なに?」
だが、七瀬自身がそれを覆した。
「大きい?」
何度も言うが、恭也は恭吾であり、恭吾は恭也だ。そこに年齢以外の差はない。
とくに恭吾の感覚では、霊力とは本人であれば変わり様がないと考えていた。
「弟君、霊力かなり大きいよ? それこそ退魔師をやってけそうなぐらい。とはいえ、どれだけ霊力技を覚えても、私が言うのもなんだけど、下級の霊障を相手にするのが精一杯だろうけど」
「……それでもかなりあるのか?」
「うん。少なくとも一般人レベルではないね」
どういうことだ?
恭吾はかつて退魔師である薫や那美に、霊力がかなり小さいと、少ないと言われている。
そして、目の前にいる七瀬にも、少ないどころか、少なすぎると言われた。
この乖離は一体何なのか?
「弟君に剣術教えてるの?」
「あ、ああ」
その乖離が、嫌に気に掛かり、恭吾の返答は上擦っていたのだが、七瀬は気付かなかった。
「ちなみにかなり疲れるような訓練?」
「それはまあな」
「それじゃあ、恭君が弟君と同じぐらいの歳のとき、やっぱり同じぐらい疲労していた?」
「ふむ、肉体は俺の方が数倍酷使していたが、疲労に関しては同じぐらいだろう」
確かに恭吾は膝が壊れるまで、身体を酷使していたが、それは結局無茶苦茶な鍛錬でバランスが崩れたのだ。
ちゃんとした密度で、そして休息をいれればそこまではいかなかったはずだ。
なので、恭也の鍛錬は、効率的であり、密度で言えば、それほど変わらない。だからこそ、疲労度自体は同じ程度だろう。
しかし、その疲労をうまく抜けさせ、身体を酷使させないようにしている。
「そっかあ、じゃあ違うのかな」
「何が?」
「恭君の霊力がそこまで低い理由を考えてたんだけどね」
「暇人か、お前は」
「うん、割と暇」
なぜか笑って頷く七瀬。
まあ、自縛霊である彼女は、基本的にこの学校に縛られている。その上睡眠を取る必要がない……寝ようと思えば寝られるらしいが……ため、退屈な時間が多いのだろう。
「で、何が違うんだ?」
「うん、ほら恭君って、霊力が極端に低いから、それで御神流だったっけ? それをやってるって聞いたから、とんでもないくらい疲れてて、それを無理矢理霊力で回復させてるんじゃないかな、って思ってたの」
「それで霊力が常に消費されてるんじゃないか、と?」
「そう思ったんだけどね。弟君は、それでも霊力が消費されてる様子がないし」
なるほどと恭吾は頷く。
しかし、それはないだろう。
先ほど言った通り、疲労度自体は大した違いはないし、今現在の恭吾も、疲労度で言えば、その年齢の差も考えても、恭也と大した差のない疲労に過ぎないはずだ。
しかし、恭吾は今でも霊力が小さく、恭也は大きいという矛盾が発生している。
「先ほど言ったが、俺は肉体を酷使していたし、実際今も酷使したせいで砕いた膝がある。それは?」
「うーん、確かに霊力が大きいと自然回復力は高まるけど、もし元は弟君と同じ……とまでは言わなくても、普通の人と同じぐらいの量の霊力があったと過程しても、そこまでは減らないかな。
そもそも自然回復力が高まるって言っても、そこまで便利なものじゃないし。霊力技ならともかく、霊力そのものだけで怪我が治るのが、極端に早くなる人なんていたら、今ごろ有名になってるよ」
「それは確かに」
霊力が高い人間など世界中を探せば、それなりにいるだろう。
その全員の傷の治りが早ければ、有名にもなる
ならばHGS患者や夜の一族のような回復力は望めないと見るべきだろう。
「それに腕を切断したからって、その治療中ならともかく、治ったあとまで減り続けたりはしないよ。恭君の膝だって、治ってはいなくても、小康状態にはなってるんでしょ?」
「なるほど。疲労なら蓄積するから、それを癒すためには、蓄積した分時間がかかり、その間にまた疲労が溜まり、そして霊力で癒す、なんていう悪循環にもなりかねない、と?」
「うん」
ますます分からない。
質は同じだが、量が違うという恭也と恭吾の霊力。
その乖離は酷く重要な気がした。
この世界は、全てが恭吾の過去と一致している。そこに乖離が出る理由は……
「恭……君?」
「ああ、いや、すまん」
どうも眉に力が入ってしまっていた。
「…………」
「どうした?」
七瀬が、どこか呆気に取られたような表情を浮かべている。
それに恭吾の方も目を瞬かせ、首を傾げて問いかけていた。
「あ、うん。あれだね、うん、よくわかった」
「なにがだ?」
「恭君はたぶん怒ると恐い、って」
「はあ?」
七瀬のいきなりの発言に、恭吾は珍しく呆気にとられて、やはり珍しく口を大きく開けた。
「今の顔、凄く恐かったよ?」
「そうか、すまん。そんなつもりはなかったんだが」
「あ、ううん。別に恐がってるわけではないないんだけど。恭君と争うことになった人は可哀相だな、ってね」
「不必要に誰かと争う気はないのだがな」
試合として、誰かとその武技を競い合うために戦うのは、それなりに好きだ。
しかし、恭也は戦闘狂ではない。
意味もなく誰かと戦いたいとは思わないし、また必要があって誰かと戦う場合でも、強い相手と戦いたいなんていう感情を持ち込むことはない。
そもそも、戦いに自分の感情など持ち込むことはほとんどない。
意味もなく戦うのも、またそれを好む者も嫌いだと言っていい。
「わかってるけどね。もし恭君があれな人だったら、初めて会ったとき、私も危なかっただろうし。
ホント、そういう人じゃなくて、いい人で良かった。じゃないと、私とこうして話なんかしてくれなかったでしょ?」
「さて、どうだろうな。そもそも、俺はいい人なんかではない」
恭吾は、僅かに頬を赤くし、肩を竦めた。
やはり珍しく照れている。
それに七瀬はクスクスと笑っていた。
「ふう、もう俺は帰るぞ」
「あ、怒った?」
「違う。もう時間も時間だ。あまり長いこと留まると帰りたくなくなる。それだと母さんたちに心配をかけるからな」
そう言って、恭吾は七瀬に背を向けた。
「じゃあ」
「うん、じゃあ」
また、という言葉はない。
七瀬が、またという言葉を嫌うことを恭吾は知っている。
いや、また、ではなく、約束を嫌うことを。
そして、その理由も何となく、恭吾は予想がついていた。
恭吾も、未来に繋がる約束を嫌うところがあるから。
「ああ、何かあったら、俺の携帯に連絡してくれ」
「うん、わかってる」
七瀬には、恭吾の携帯の番号を教えている。
多少力を使えれば、彼女は物に触ることも可能だ。この学校の職員室にでもある電話を使えば、恭吾と連絡はとれる。
電話番号を教えたときは、なぜか七瀬は酷く喜んでいた。
番号を教えたのは、一種の保険だ。
この学校に通っている薫が、彼女に気付いていないとは思えない。
あの薫が、まさかいきなり攻撃をしかけることはないだろうが、何かあった場合は、七瀬との間に自分が入り、何とか話をつけようと考えていた。
彼女は、まだ成仏する気はないらしいから、それならそれでいいと恭吾は思っていた。
そんなことを考えながら、恭吾は教室のドアから廊下に出た。
「じゃあね」
もう一度その言葉が聞こえて、恭吾はただ右手を振ることで応え、ドアを閉め、家に帰るために歩き出す。
だから、七瀬のその言葉は聞こえなかった。
「やっぱり恭君は優しいよ」
あとがき
というわけで、こちらではお久しぶりになります。またも久々の投稿でした。
エリス「お久しぶりです」
や、やっと完成した。
エリス「本当に時間かけすぎ」
いやいや、掲示板に投稿はしてたのよ?
エリス「これは半年以上ぶりだけどね」
すみません。
エリス「とにかく、今回は代価の話」
また、なぜか恭也と恭吾に差が出ているという話でした。
エリス「そして、冒頭でなにやら急展開が」
恭吾がいるからこその変化というか、何というか。というか、大抵の人にはバレバレでしょう。
エリス「あれ、もう動いて来るの?」
そろそろ本格的にオリジナルの展開というか、恭吾がいるからこその変化を投げかけようかと。
エリス「というわけで、次回をお楽しみに」
では、ありがとうございました。
エリス「ありがとうございましたー」
冒頭の二人というのは恭吾と恭也かなと思ったけれど。
美姫 「霊力が違うみたいだから、誰だって思ったわよね」
ああ。でも七瀬との話からすれば、二人の霊力に差が出ているみたいだな。
美姫 「この差異が何を意味するのかしらね」
恭也も順調に成長しているみたいだし。
美姫 「代価に付いては今すぐ答えは出ないでしょうけれど」
今後の展開も楽しみです。
美姫 「次回も待っていますね」
待っています。