バレンタインデー、という日は、現代日本では女性から好きな男性にチョコレートを贈
る――あるいは〔義理チョコ散布の日〕という認識がされているが、そこら辺はリリアン
女学園でも、大して変わりないようである――渡す相手こそ違え。
〜バレンタインデーにまつわる風景〜
リリアン女学園高等部において、バレンタインデーを盛り上げる為の企画に協力して欲
しい、という提案が新聞部の築山三奈子から出された時、当初薔薇のつぼみ達は難色を示
していた。
衛生面の問題――手作りの、それも人様の口に入るものが長時間放置されるのは、ぞっ
としない――を引き合いには出したが、はっきり言ってしまえば、つぼみ達は新聞部に強
い不信感と警戒感を抱いている。
例えば紅薔薇のつぼみこと小笠原祥子と〔妹〕の福沢祐巳については、学園祭前に散々
取材を迫った、という実績があるし、黄薔薇のつぼみこと令と〔妹〕の由乃などは、学園
祭後のいわゆる、
「黄薔薇革命」
のおかげでとんだゴシップ記事をばら撒かれたのも、記憶に新しい。一方で白薔薇のつ
ぼみこと藤堂志摩子の場合、直接そうした事はなかったものの、
『いばらの森』
という小説に端を発した、〔姉〕の聖に対する記事の件がある故に、新聞部――特に三
奈子に好意的な見方をする理由など、どこにもないのであった。
祥子個人にしてみれば、それ以前に、
(チョコレートを学校に持ってくる時点で論外だし、好きでもない人から一方的に送られ
てくるプレゼントなんて、迷惑なだけ)
なのだが。もっとも、それを言葉足らずのまま口に出してしまった事で、祐巳をへこま
せてしまったなど、実は全く思ってもみていなかったりする。
ともあれ――三奈子は何とか企画を通そうと粘り続け、これならば、という〔切り札〕
として出した提案が、
「薔薇のつぼみ達の手書きのバレンタインカード、半日デート券付き」
というものだった。ここで、
「反対!! 絶対絶対、絶対反対!!」
危険物扱いされる猛犬ですら、尻尾を巻いて逃げ出すだろう勢いで三奈子に、
(がぶがぶと)
噛み付いたのは由乃である。これまで心臓の疾患の為に、
(お淑やかな猫の皮を何枚も……)
引っ被っていたのを知らなかった三奈子は、それこそ目に見えてうろたえたものだが、
しかしなりふり構わぬ持久戦に持ち込んで、つぼみ達に返答を翌日まで延ばしてもらうと
いう確約を取り付けたのだった。
――翌日、状況はあれよあれよと言う間に激変していた。三奈子は三薔薇さま――蓉子、
江利子、聖の三人に働きかけて、つぼみ達が企画に対して嫌と言えないところまで追い詰
めてしまったのだ。
これは後知恵と言うべきものであるが、つぼみ達はこの場合、徹底的にエゴイストとし
て振舞うべきだったかもしれない。拒絶の意志こそはっきり持っていたにも関わらず、な
まじ高をくくって返答を(形とは言え)留保したが為に、三奈子に戦局逆転の余地を与え
てしまったのである。
大体が〔妹〕というのは〔姉〕に対して、殆どの場合受け身になる。その事は分かって
いるから、後はいかにして三薔薇さまを動かすか――三奈子は容易ではないにしろ、この
一点を考えれば良かったのだ。
三奈子がどんな策を弄したかはともかく、こうなるといかに由乃が奮闘しようが、最早
どうにもならない。祥子にしたところで、蓉子が、
「生徒と交流、いいじゃない? あなた、祐巳ちゃんを〔妹〕にしてから、表情が良くな
ってきたもの」
なんて言ってきては、反撃出来るはずもなく。志摩子に至っては、何をかいわんや。
その光景を祐巳は、ただ黙って見ているよりなかった。祥子に精神的に寄りかかれる事
が、ただひとつの安心材料であった祐巳だが、こうなってしまってはそれも、難しいよう
であった。
細々とした交渉の場が幾度か持たれ、それから数日。
新聞部発案のバレンタイン企画は、生徒達の間で持ちきりの話題になっていた。もちろ
ん、これにまつわる様々な光景が学園の各所で見られた。
例えば、昼休みに図書室へチョコレートに関する本を見に行くとか、例えば休み時間返
上で手編みのセーターを編み、当日にプレゼントするとか。
例えば、祐巳が水面下で行っていた工作――と言えば何だか大仰だが、何の事はない。
〔姉〕に贈る為のチョコをどうしよう、である――に不審の念を抱いた祥子が、実は祐巳
に避けられているのではないか、嫌われているのではないか、と勘違いして詰め寄ってし
まった、とか。
そうした生徒達の諸々の動きとはまた別に、恭也をめぐる関係――という事になってい
る――蓉子、聖、江利子、令の四人が、バレンタインデーを間近に控えたある一日、〔薔
薇の館〕に顔を揃えていた。
普段集う、本来会議室として使われる部屋には四人きり。この日、他の〔山百合会〕の
面々は早めに帰している。
「これで、揃ったわね」
蓉子が優美に微笑む。今いる全員、この言葉の意味を、これから何が話されるかを、当
然の様に理解していた。
「今日、残ってもらったのは他でもないわ。バレンタインデー企画とは別に、私たちも贈
り物をしようと思うの」
誰に、とは言わない。言わずもがな、というやつだ。
「企画を放り出してでも……ってわけには、さすがにいかないかしらね」
江利子は小首を傾げるが、
「うーむ……それはそれで、かなり魅力的だけどなぁ」
「ロ、白薔薇さま……」
聖は江利子の発言に触発されたか、一学生としては大問題な台詞を全く平然とぶち上げ
て、令を呆れさせていた。
「聖、いいこと? 当日は、普通に授業があるんだから」
「へいへい」
「脱線したけど、話を続けるわよ。今回の企画は、とても恭也さんを呼べる性格のもので
はないから、こちらから贈るより他に方法はないわ。私は当日受験があるから、企画の方
には付き合えないけどね」
蓉子の言うように、学園祭や剣道部の臨時講師といった、恭也を呼ぶ事について曲がり
なりにも〔教師達が納得出来る理由〕が、今度ばかりは作れない。しかし、だからとてた
だ黙して待つには、彼女達の何かが納得しないのである。
バレンタインデーという日は、そういう意味で恭也の決断を促す為の、
(またとない機会)
なのであった。自分達の気持ちを今一度伝える、その為にも。本当なら、当日に届くよ
うに出来れば一番だが、企画を控えているので無理は出来ない。
「とりあえず、それぞれ思い思いに贈る物を決めておきましょう。当日、企画が終わって
から持ち寄る事にして」
「そうだね。どうせ後片付けもあるんだし、終わってからもここに残ってた方が、いいか
もね」
蓉子の提案に、聖が応える。
「異存ないわ。令も、いいわね?」
「はい」
話は決まった、とばかりに、江利子と聖が次の段階を話し合う。
「そうしたら、用務員さんに頼んで小さめのダンボール箱と緩衝材でも用意してもらうわ。
みんなの分、それに入れて贈れるでしょ?」
「うんうん。贈るとすれば、やっぱり宅急便かな?」
時間は、次第に迫っていた。
バレンタインデー当日の放課後。
薔薇のつぼみとの〔デート〕を賭けた、宝探し企画がいよいよ始まった。
この時を待ちかねていた、およそ二百余名――いや、それ以上の生徒達、そしてつぼみ
の〔妹〕ふたり――祐巳と由乃がカードを捜しに散らばって行くと、江利子や聖、そして
つぼみ達は、開放した〔薔薇の館〕でお茶会を開く。
――この頃、蓉子はどうしていたのかと言うと、これまでにない最悪の状態で大学の試
験に臨んでいた。
恭也への贈り物をどうするか、という話し合いの時間を持ったそれより前から、実は兆
候があった。だましだましやってきていたのが、とうとう前夜になって発熱し――それで
も恭也への贈り物はしっかり作ったが――間の悪い事に、この日は女性であれば月に一度
必ず経験するものの日であった。
結局、解熱鎮痛剤を飲んで何とか熱だけは下がったが、今度は副作用のおかげで頭はも
うろう、胃がきりきりと痛む有様。朝食をちゃんと食べていればまだしもマシだったが、
ホットミルクをコップに半分だけでは、もはやどうにもならない。
「最悪だわ……」
そんなふらふらの状態で試験を受け――終わった帰りにバス停ひとつ分乗り越して、よ
うやくリリアン女学園に着いたのである。マリア像の前で、ちょうど集まっていた生徒達
と会話を交わし、それで企画の事をようやく思い出したくらいだったから、これは相当に
重症だった。
トイレに入って、やっとひと息。
(こんな痛みが、これから何十年も続くなんて……男女の間って不公平よね)
そうこうしている内にも、外は嵐の様に騒がしくなって過ぎていく――宝探しは大賑わ
いのようだった。
少し落ち着いてから――と言っても、微熱からであろう浮遊感は残っていたが――〔薔
薇の館〕へ。
(……ああ……今、恭也さんに抱き止められたら、最高の気持ちになれるかも)
この場にいない人を想いつつ歩いていると、いつの間にやら蓉子は下級生を従えた〔家
来持ち〕になっていた。
下級生達は、ずっと蓉子を、
「完璧で、隙がない」
そういう風に見ていた。本人に自覚はなかった。生徒みんなに歩み寄りたかった。でも
どこか、すれ違っていた。普段は忙しく立ち振る舞って、立ち止まる事もなかった。
(違うわね……思えば、そうする事で私は、周りに〔必要とされる人間〕だという事を確
認したかった、のかしら)
蓉子は、それがどこかしら恭也と似通った思考だという事に、全く気付いていない。
聖の出迎えを受け、ゲームに参加していたのだろうか、綿埃をまとった江利子とも合流
して〔薔薇の館〕の会議室に入ると、そこには蓉子がずっと望んでいながら、果たされて
いなかった風景が具現化していた。
生徒達の笑顔、明るい声に満たされた、暖かな空間――これは夢だ。それも、今までで
最良の――そんなはずなどないのに、蓉子の脳裏に突如、あの低く、それでいて慈しみを
伴った声が焼き付いたのは、
「夢では、ないですよ……」
正にこの時だった。それまで心身を支配していた浮遊感が、唐突に吹き飛ぶ。
「何て素敵なのかしら」
江利子の、感に堪えぬかのような呟き。そして、聖に誘われて開け放たれた窓から外を
見下ろすと――
「いい光景でしょ? 蓉子の、リクエスト」
聖が、そっと告げる。生徒達の集う〔薔薇の館〕。蓉子は頷くと、視界を涙で霞ませた
まま、そっと、心の中で呼びかけた。
(ええ……今日は、私にとって最良の日になりましたわ……恭也さん)
企画の決着が着いて、後片付けも終わると、令はいささか慌てた様子で、
「あの、例のものなのですけれど……夜に伺うのはだめでしょうか?」
蓉子に聞いてきた。
「構わないわよ。でも、どうして?」
その問いに、令は何とも肩身狭げにしながら、
「その……実はまだ、出来上がっていませんので……」
消え入りそうな声音で、事情を話したのだった。詳細を知った蓉子は、鷹揚に頷くや、
すぐに令を帰したのである。
既に自分の分、聖と江利子の分――恭也へのバレンタインデーの贈り物は揃っていたの
だが、
(それにしても……ねぇ)
まさか、令が肝心の贈り物を作り忘れていたとは、思ってもみなかった。日が近付くに
連れて、企画の方に気が行ってしまった、という事だが、蓉子はそれも仕方ないか、と思
う。そして令から江利子や由乃の分も、実はこれから渡すのだと聞いて、肩をすくめたも
のだ。
それからしばらく。午後七時になろうかという時に、令は息せき切って蓉子の家に姿を
現すと、やけに細長い紙製の箱を手渡した。
「……また、勝負に出たわね」
「い、いえ、そそ、そんな事は……」
「うふふ、冗談よ。でも、江利子に由乃ちゃんの分もでしょ? 大変だったわね」
令が、実は道場に通う子供達にも同じものを作ったとは、蓉子の知らぬ事である。
四人分揃った贈り物をダンボール箱に詰めて、宅急便に手続きしに行こうかしら、と思
った丁度その頃合い、
「ただいまぁ」
父親が帰って来た。
「あっ、おかえりなさい。お父さん」
「ん? どうしたんだ? そのダンボール箱は」
「お友達に贈る物が入ってるの。宅急便に届けてもらおうかって、考えていたのだけど」
「ふぅん……ちょっと待っていなさい」
父親は携帯電話を取り出し、宅急便の事務所にかけ合ったようだ。しばらくして、
「来てくれるみたいだよ」
そう言って電話を切る。
「ごめんなさい、お父さん」
「それはいいんだが、普段ならとっくに電話かけて済ませてるだろうに。万事気の利くお
前にしては、珍しいな……もしかして風邪でも引いたか?」
図星だった。蓉子にしてこの父親あり、だろうか。
「うん……ちょっとね。昨夜から」
「おいおい……今日の試験、大丈夫だったんだろうな?……ああ、まぁそれはいいか。後
は、父さんがやっておくから。部屋に戻って休みなさい」
「ごめんなさい、お父さん」
「気にするな。あぁそれと、相手の名前と住所は、分かってるんだろうね?」
蓉子から受け取ったメモ用紙の切れ端を見て、父親は怪訝な表情を見せたが、それは一
瞬の事。普段の蓉子だったら、まずこんなうかつな真似はしなかっただろう。
部屋に戻って行く蓉子の後ろ姿を、
(いやはや。何だかんだ言って、蓉子も年頃……なのだなぁ)
特に慌てるでも怒るでもなく、むしろ感慨深げに見送る父親。
「……海鳴、ねぇ……そう言えば、〔翠屋〕のお菓子は美味かったな。まぁ、あいつはし
っかり者だし、眼鏡に適った男なんだろう、きっと」
蓉子は、自分のした事に全く気付いていなかった。父親は、蓉子のメモに記された相手
が、その〔翠屋〕に連なる者だという事に、全く気付いていなかったのである。
後日、企画の結果に基づきカードを見つけた生徒とつぼみ達が、それぞれデートする事
になるが、差し当たり物語の本筋とは関わりを持たない為、敢えて書き記すのは控えてお
こう。