冬休みが終わると、学生はその年度の最後、およそ二ヶ月をそれぞれ過ごす事となる。
これからは、その期間の事を少し、覗いてみよう。
〜冬休み後の風景〜
三学期になって、リリアン女学園高等部では大きな出来事があった――こう言えばいか
にも大げさに聞こえるが、普通の高校に当てはめれば何の事はない、
「次期生徒会役員選挙」
である。生徒会に相当する〔山百合会〕のメンバー選出、という事になるのだが、これ
まではそんなに大事として取られる事などなかった。
リリアンの〔山百合会という組織〕を考えれば、大体頷けるのではないだろうか。何し
ろ三薔薇さまの下にその〔妹〕であるつぼみが、つぼみ達の下にはその〔妹〕がいるとい
うわけで、大抵の場合は選挙と言っても名目的になりがちとなる。
「無投票当選」
こんな事を言えば、どっかの小さな自治体の選挙の事を言ってるみたいだが、当らずと
も遠からずだろう。
しかし、今回はいささか勝手が違った。何故なら白薔薇さまこと、佐藤聖の〔妹〕が一
年生だったからだ。そして次期白薔薇さまに名乗りを上げた二年生がひとり、いたのだか
ら。
名乗りを上げたのは蟹名静。その珍しい名字も相まって、〔ロサ・カニーナ〕なる異名
を奉られた、合唱部の歌い手である。
立会演説会を経た後、結果として次期白薔薇さまは、白薔薇のつぼみたる藤堂志摩子に
決まった――二つの薔薇については、まず無投票当選と言って良かった――のだが、静の
存在が、当初は立候補に二の足を踏んでいた――何かに属する事で縛られたくなかったと
言う志摩子を、形はどうあれ突き動かすきっかけになったのは間違いあるまい。
もっとも、静の思うところは決して複雑でも、大それたものでもなかった――ただひた
すら白薔薇さまを追いかけていた、それだけなのだから。もっとも、彼女は役員選挙に至
るまで、聖の視界に入る事さえなかったのだったが。
静は音楽の勉強の為、イタリアに留学する事が既に決まっていた。しかし、その前に一
度でいい、聖の瞳に自分自身を映したかった――それだけの為に? そう思われるだろう
が、しかし彼女なりに切実な願いだったのである。
聖は、留学の餞別代わりに、静の頬――唇に、限りなく近い場所に――接吻る事で、そ
の返答としたのだった――
全てが決まって、志摩子と共に家路につく道すがら。聖はふと、志摩子に聞いてみた。
「こんな事、あんまり意味ないけどさ……もし、恭也さんが今回の事で口を出したとした
ら、どんな話をしただろうね?」
「そう、ですね……高町さまでしたら、きっと……お姉さまとは違う形で、私に勇気を与
えてくれたかもしれません」
聖は、志摩子に後を継いで欲しいとは強要しなかった。自分で決めた事は最後まで責任
を持て――それは結果的に、志摩子を後押しするひと言になったが。
「当ってるかどうかは分からないけど……恭也さんなら多分、自分の道を決めるのは、他
の誰でもない、自分自身だ……くらいの事は、言うと思うな」
そして、小さく呟いた。
「……恭也さん、さ……もしかしたら、私や志摩子がこの世にひとりしかいない、代わり
などいないんだって事を、ちゃんと知っているのかもね……ふふっ、買い被りでも構わな
いけどさ」
「私が、この世に、ひとりしか、いない……代わりなど、いない……」
志摩子は、言葉をひとつずつ切るように繰り返す。あの人は、同年代の多くが経験する
より数多くの生と死を正面から受け止め、その上で前に進んでいたのかもしれない。
本当に大事なのは〔私がもし、いないとしたら〕ではなく〔私は今、どう進むべき〕な
のか――他の誰かが決めるのではない、私自身の進む道。
「高町さまが、自分の道から逃げなかったのであれば……私も、逃げません」
「志摩子……うん」
ともあれ、この選挙によって聖の後継者は志摩子と確定し、新しい体制もまた決まった
のであった。
受験、というものは、結局のところ人生と言う名の街道に設けられた、いくつかの〔関
門〕のひとつである――大多数にとって、これを通過するのは中々に大変なものだ。
ある日の晩。紅薔薇さまこと水野蓉子は、それまで向っていた机から視線を外し、少し
く凝ってしまった身体をほぐしていた。
「ふぅ……」
最近、空いた時間をほぼ受験勉強に費やしている蓉子だが、そんな彼女がひとつだけ、
(どうしようかしら?)
迷っている事がある。
つい先だって海鳴に行った時、土産にもらったクッキーの包みを飾ったリボン。それに
書かれていた恭也の携帯の番号。
ひと息ついて、それが視界に入ると、電話をかけようか、それともかけないでいようか
と、決まって悩んでしまうのだ。いざかけようと思ってみても、そこから先、ほんのちょ
っとの勇気が出てこない。
受験先に、海鳴大を選ばなかった事を後悔していないし、間違った選択だとも思ってい
ない。しかしどこか、心のどこかに屈託じみた何かが蠢いているのも、また感じている。
そうしたあれやこれやが、複雑に絡み合っていた。
(江利子や聖は、一度でも恭也さんに電話、かけたかしら?)
気になっているが、それを聞くのも何か気がとがめる。二人だけではない。令も名乗り
というほどではないにせよ、恭也に傾いた心情を露呈してしまっているのだし。
そう考えると実は、志摩子だって分かったものでない。恭也が学園祭に来ていた時、彼
とのちょっとした会話で頬を染めていたのを、覚えている。結構記憶力がいい方なだけに、
蓉子はそういう事まで、つい思い出してしまうのだ。
大きな溜め息をひとつ吐く。これで勉強に集中出来るわけがない。
「少し休憩ね……」
椅子の背にそっともたれて、瞳を閉じた。形あるものは何も見えないが、照明の明るさ
が、閉ざされた視界の大部分を白く染めているのが分かる。
三学期が始まってからも生徒会役員選挙があったりして、蓉子も内心気が落ち着かなか
ったものだ。白薔薇姉妹の事もあったし、自分の〔妹〕――祥子も当然心配だった。
もっとも、次期白薔薇さまは志摩子に決まった。祥子にはこれから先を共に喜び、悩み、
進んでいく似合いの妹がいる。後の事はまず、心配いらない。
そして、自身の事を顧みると、進路はともかく、恭也に対して何をどうすれば良いもの
か、今更ながら決め手を欠いているのに気付いていた。
(恭也さんを好きなのは、私だけじゃない……それに……)
仮定ではあるが、恭也が、
「誰も選ばない」
という可能性だってあるのだ。あの時〔翠屋〕の席で、桃子は恭也の過去を話し、
「あの子は、もしかしたら自分の事を、自分の幸せを考えない事で、みんなを護り抜いて
来たのかしら……時々思う事もあるわ。でもそれって哀しい……哀し過ぎる事じゃないか
しら」
そう、述懐していたではないか。
「恭也さんが、だからこそ私たちの誰の手も取らない事だって、充分あり得る……」
蓉子は恐らく〔山百合会〕メンバーの中で最も、
(ものを見過ぎてしまう、あるいはものが見え過ぎる)
のかもしれなかった。それは、あらゆる局面で多く利点として彼女を助ける一方、時に
ある意味冒険が必要とされる場合において、前に進むのをためらわせる事がある。
「でも……それでも……」
思考の迷路に踏み込みかけて、不意に思い出した事があった。
(……もう少しすればバレンタインデー、だったわね)
閉じていた瞳を開き、その視界にあのリボンを映す。恭也の携帯電話の番号と共に書か
れた住所――蓉子は何かを決意したようである。
知らぬ間につい、うたた寝をしていたらしい。
鳥居江利子――黄薔薇さまが目を覚ました時には、もう夜の十一時になろうとしていた。
さっきまで雑誌を読んでいたはずなのに。
(あ、そうか……)
一応は受験生という身分の為、それなりに彼女も受験勉強なるものはしていたが、この
日は、ただでさえムラっ気のある気分が全くと言っていいくらい乗らず、机に向っていた
のはせいぜい三十分程度。
学校の帰りに、たまたま立ち寄った本屋で買って来た雑誌を開いたまではいいが、読ん
でいる内につまらなくなって放り出し、そのままぼけーっとしている内に、睡魔に身を委
ねてしまったという、やっぱりつまらない成り行きだった。
それはさて置き。蓉子と同様に、江利子もまたリリアン女子大を受験する、という道を
選ばなかった。そして、これまた同様に海鳴大受験という道も選んでいないが、元々から
受験の選択肢に考えていないところが、蓉子とは違う。
(傍で見ていたい……そう思うのかな)
恭也に対して抱くこの気持ちに、嘘はない。だからと言って、その為〔だけ〕にわざわ
ざ海鳴大を受ける必要を、江利子は感じていなかった。
それとは別に、
(……それにしても恭也さんは、一体私たちの誰を選ぶのかしら……ほんと、どうなるの
かしらね。面白くなりそう)
そんな事も思っていた。今のところ恭也は、結論を出していない。それが、ある種のス
リル、刺激として江利子に働いている。
期限を切った――卒業するまでの内に――のは、もちろん恭也に配慮した結果なのだが、
三学期という時間的制約の中で、何かもっと楽しい事が起きないかしら、なんて事も期待
していたのである。まずは目の前の事、なのかもしれない。
で、その楽しい事になりそうなイベントがもう少しすればやってくる、と気付いたのは、
〔翠屋〕でのひと時を終えて、家に帰ってからだった。
「そろそろ、準備しとかないといけないかしら」
バレンタインデー。江利子はこの数年、この時期に合わせて四人分のチョコを、欠かさ
ず作っている。もちろん、あげる相手は親バカ丸出しの〔たぬき親父〕と、自分を何やら
神様扱いしているとしか思えない〔変てこブラザーズ〕だ。
つまり、今年は四人プラス恭也、という事に――
「って……恭也さん、確か甘いお菓子が苦手だったわよね?」
恭也本人から、そして〔翠屋〕で桃子からも聞いた。そうなると、
「単に甘いチョコレートじゃ、意味がないのよね……うちの男共なら、大して問題になら
ないのに」
もし、恭也が甘いものに抵抗がないのであれば、その分作るのに手間はかからない。同
じ材料を使って、
(恭也さんのだけ、特別大きくて凝ったのを作ってあげるのに)
鳥居家の男達が知ったら、それこそ泡吹いて卒倒しかねない事を平気で考えているのだ
が、現実はそういうわけにもいかない。甘いものが苦手となると、ケーキという手段もあ
まり適当とは思えなかった。
「にしても、直接手渡しするには、やっぱり遠いのよね……海鳴って」
まぁ、そこは現代と言うこの世の中。離れていたとしても宅急便なり何なり、送る手段
はあるけれど。
(んー、こうやって考えるのが楽しいのも、恭也さんのおかげだわ)
自然と顔が綻ぶのをそのままにしていると、
[江利ちゃん、そろそろお風呂、入ったら?]
「はぁい」
インターホンから母の呼びかけがあり、江利子は部屋を後にした。まだ時間はあるのだ
から、そう焦らなくてもいい――何でもない一日の終わりである。
支倉令は(恐らく、剣道以上に)家事全般を得意とする。当然ながら、お菓子作りはお
手の物だ。
去年のバレンタインデーで作ったのは、江利子向けのチョコトリュフ(抑えた甘味が好
評だった)に、〔妹〕である島津由乃の為のチョコレートケーキ(由乃曰く〔年々大きく
なる〕いわくつきのもの)、そして、父が切り盛りする剣道の道場で教えを受けている門
下生、特に子供達の為のクッキー(例年の習慣である)と、三種類に及ぶ。
もちろん、時間的な余裕があったから出来た事だが、令は今年も同じ陣容でバレンタイ
ンデーに臨もうと思っていた――当初は。
そんな計画の修正を余儀なくされたのが、〔翠屋〕での、
「ささやかな自爆」
以降だった。要するに、
(高町さまの分も、何か作らないと……)
そういう事である。
さて、ここで令は考え込んでしまった。江利子と同じように。
「はぁ……高町さまって、甘いものが苦手だったんだよね……そうなると、チョコレート
はだめ、か……ビターでもだめなのかなぁ?」
こと手作りにこだわる性質の令としては、何かしら心づくしのものを作って贈りたい。
しかし、相手は甘いものが苦手な恭也だ。
――目の前を、ふわりと霞むものが漂っている。腕を上げると、暖かいお湯がさっ、と
流れ落ち、霞もまた腕の動きに翻弄されながら、形なく天井の方へとたなびいていく。
支倉家自慢の総檜の湯船に、令は身を委ねているのだ。少しばかり上に伸ばした腕を再
び沈めて、考える。
(チョコでなくても、ケーキがあるか……でも高町さまって、クリームいっぱいのケーキ
で倒れたんだっけ)
思い出し笑い。まだ〔翠屋〕が開店して間もない頃の話だそうだから、多分当時の高町
さまは、短い間に相当な数の洋菓子を食べた(食べさせられた?)のだろう。
チョコレートという手段が使えないとなれば、他の菓子あるいは、食べ物でなくとも別
の何か、という手もある。ただそうなると、令はなまじ〔手持ちのカード〕が多い為、か
えって迷ってしまう。
(一体、何を贈ればいいんだろう?)
何を贈れば、高町さまは喜んでくれるのだろうか。頭の中が、その事だけでぐるぐると
回転を続けているが、どうもこれといった妙案が浮かんでこない。
(うーん……あ、いけない)
もう少し浸かっていたかったが、考えてる内に危うくのぼせそうになって、仕方なく風
呂から上がる事にする。
――風呂場を出てからも、令は考えていた。今度は恭也への贈り物ではなく、父の門下
生に、
(今年は何を作ろうかな)
この事だった。元々は母が、父に内緒でチョコレートを子供達にあげるという、全くさ
さやかなものだったのが、いつの間にやら、令の手作りお菓子が公然と振舞われるように
なっていたものだ。
父は苦虫噛み潰すかと思いきや、さにあらず。
「娘が、多く作り過ぎたから」
そんな事を言って容認し、体面を保っているようである。実は父本人が、令のお菓子を
楽しみにしている、という説もあるとかないとか。
何であれ、門下生の子供達が毎年楽しみにしているのだから、美味しいものを作ってあ
げたい。支倉令は、そういう性格なのである。
(はぁ……明日、改めて考えようかな。うん、そうしよう)
今日はここまでという事にして、令は寝る事にした。両親におやすみの挨拶をすると、
部屋に戻ってベッドに潜り込む――明日は、何かいいアイデアが出ますように。
冬休みが終わり、バレンタインを目前とした日常か。
美姫 「皆、乙女しているわね」
うんうん。恭也へ上げるもので悩む少女たち。中々微笑ましいものがあるな。
美姫 「当人たちにとっては楽しみでもあり、悩みどころでもあるみたいだけれどね」
一体、どんな風になるのかな。
美姫 「楽しみです」