〜〔翠屋〕にて〜
第三話
井関氏の店を辞した時、恭也は〔翠屋〕の客の事をほとんど忘れていた。見せてもらっ
た刀は、それほどの業物であったのだ。
太刀拵で身の反りが大きめな故に、抜き打ちに向かないものではあったが、鞘から抜い
て錆止めに塗られた丁子油を拭うと、地肌はきらびやかにして傷一つなく、自分の顔がは
っきりと映っているのが分かる。
角度を変えてかざして見ると、波紋が概ね一定の起伏をもって付いていた。どれひとつ
として同じものはないと言われる日本刀の波紋の中で、野趣溢れる不規則な波紋とは一線
を画した、調和の取れた実に見事な波である。
「……これは……」
懐紙を咥えている為、言葉がくぐもった響きになっているが、恭也は感嘆の唸りを上げ、
目を細めつつ見入っていた。井関氏の老妻がお茶を淹れてくれたのは分かっていたが、そ
れよりも刀身の美しさの方に集中していたのである。
反りの曲線も、古の太刀を髣髴とさせる美しさを持っていた。剣そのものは、幕末頃に
鍛えられたものだという話だが、どこか古風な雰囲気も感じられ、刀身から優美さすら漂
う――恭也の審美眼は、大いに満足したものだ。
もちろん、恭也が名刀を鑑賞する事が出来るのは、井関氏と親交篤く且つ、氏に認めら
れた、
(然るべき者)
であるからに他ならない。ともあれ、
「新年早々、良いものを見たな……」
ひとりごちて自転車に乗り、家に戻ろうとペダルを踏みかけて、
(ああ、そうだ。いいかげん店に行かないと)
ようやっと思い出し、本来の行き先にこぎ出した。
井関氏の店から〔翠屋〕までは、自転車をゆっくり走らせてもせいぜい二、三分ほどの
距離しかない。と、恭也は覚えのある〔気〕を感じて自転車を止めた。
(……うん? これは……)
疑念、ではないがまさか、という思いがする。考えてみれば、店を貸し切りにすると知
った時に、
(客の事については、聞かなかった)
のだから、どこの誰が、というところまでは全然分からなかったのだ。が、しかし。
「参ったな……これは」
恭也の感覚は理屈でなく、〔翠屋〕の中にいる客の正体に思い当たっている。だからと
て、ここまで来ておいて中国兵法の、
「走為上(いわゆる〔逃げるにしかず〕というものだ)」
を打つわけにもいかないだろう。家に帰っても特に、これと言ってしなければならぬ程
の事はないのだし。
(仕方あるまい)
胆を決めて店の通用口に至ると、自転車を停め置いて店内に入り、足音を忍ばせて厨房
に近付いた。そっと聞き耳を立ててみる。最近何度か耳にした声がすぐに、恭也の耳に快
く入り込んで来る。
(やはり、か……しかし、まさか全員来るとは思わなかったな)
確認が取れると一旦更衣室に入り、ウェイターの服に手早く着替える。服装がきちんと
整っている事も、接客の仕事では重要な要素になるから、何分気が抜けない。恭也はこの
点早くから桃子の薫陶よろしきを得ているから、どこかの誰かが口に上せた、
「かっこいいウェイターさん」
が、すぐに出来上がる。鏡を見て最終確認――襟を少し整えてから、もはやためらう事
なく足を踏み出す。
厨房に足を踏み入れると、調理器具を片付けていた松尾さんに、
「あ、ようやく主賓が来たわね。待ってるわよ、みんな」
言われて苦笑すると目礼を返し、更に歩み出して行ったのだった。
「あら、恭也。遅かったわね?」
「済まない、かーさん」
「ううん、いいわよ……とりあえず、これでお膳立ては整ったわね。それじゃ恭也、しば
らくの間お願いするわね」
「ん?」
「後は恭也がみんなの相手をするの。いい?」
「いや、それは分かるが」
恭也のいささか憮然とした返答を意に介さず、
「これから松っちゃんと一緒に、ちょっと買い物して来るから。だから、戻るまでよろし
く」
笑顔で言い放つと、桃子はそのまま厨房へ。
「母め……いつぞやの久我先生みたいな真似などしてからに……」
恭也の絞り出した呟きに、やり取りを見ていた〔山百合会〕の全員が、揃って思い出し
笑い。皆、恭也がリリアンに来た時の事を思い出したのだ。
どうしようか、そう恭也が思っていると、引っ込んだはずの桃子が声をかけてきた。
「恭也、そこに座ってなさいな。出かける前にコーヒーの一杯くらいは、ちゃんと淹れて
あげるわよ」
否応なし、とはこの事か。わずかに肩をすくめると、それまで桃子がいた席に座る。程
なく、桃子が淹れたてのコーヒーを持って来て、恭也の目の前にそっと置く。
「それじゃ、よろしく」
肩に一瞬触れた桃子の掌から、恭也は確かに〔何か〕を感じ取った。しかし、それは本
当にわずかな間の事とて、
「それでは皆さん、ごゆっくりお過ごし下さいな」
店の奥に姿を消した桃子に、恭也はかける言葉を失っていた。それを見て、聖が笑いな
がら、
「形無しだね。恭也さん」
しかしどこか、羨ましげに話しかける。
「まぁ、あんな母ですが……」
憎まれ口、と言うには、恭也の漆黒の瞳は優しい光を宿していた。
「あの、高町さま」
思い切って、という言葉が似合いそうな表情で、祥子が口を開く。
「はい」
「その……高町さまの事、桃子さまより色々と聞きました」
「!?」
思わず恭也は〔すっ〕と目を細めたが、そこで生じた急激な〔気〕の変化が、その場に
いた全員を文字通り、
(凍りつかせた)
のだった。微妙に自分を制御し損ねたらしい、と悟った恭也は、憮然とした表情で天井
を仰ぐ。そして大きく溜め息を吐いて、わずかに苦笑した。
「寄り道したツケが、高く付いたか……」
小さな、本当に小さな呟きは、そのまま口の中で消えてしまった。ともあれ、こうなっ
てしまっては隠したところで意味もない。
「……母は妙なところでおしゃべりになるから……まぁ、どれだけの事を話したかは分か
りませんが、少なくともほら吹きではないので」
その言葉は〔山百合会〕の全員に、これまで桃子から聞いた恭也の過去が、全て事実で
ある事を再認識させるに充分であった。と、
「初めてお会いした時から、落ち着きのある方だと思っていたんですけど、その理由がよ
うやく分かったような気がします」
志摩子が、そう言って恭也に微笑を向けた。その視線を、恭也は表面には出さぬものの、
戸惑いながら受け止めている。
「ふふふ……志摩子も恭也さんにぞっこんかぁ」
「え、あ、あの……そ、それは……」
見た目にも分かるくらい、うろたえた志摩子を横目に、
「志摩子は強く前に出るって事があまりないし、どっちかと言うと私とは、見方が違うか
な。でもま、恋ではないけど好意は持ってる、と」
聖はしれっとした表情で、あっさりと言い切ってのけた。志摩子はうつむき加減になる
と、何かぼそぼそと呟いたようだが、何を口にしたかは分からない。
「そうね、〔うち〕は……あなた達はどうかしらね」
江利子が、令と由乃に水を向ける。由乃はともかく、令の方はどうも居心地が悪そうな
面持ちになってきた。それを見て何故か納得気に頷くと、
「蓉子は当然として……」
にんまりと、蓉子の方を向いて笑う。
「江利子? 何よ、その当然って」
「だって、〔紅〕の方は蓉子の独壇場だもの。これから争奪戦に入ろうと言うのに、何か
つまらないわ」
江利子の台詞の後半部分に、看過し得ぬ部分を聞きとがめた恭也は、
「……江利子さん」
「はい?」
「今、何と言いました?」
間違いであれば、最悪冗談であればどれほど気が楽だろう――どこかで思いながらも、
恭也は聞き直すより他にしようがない。
「それは、ねぇ?」
江利子が笑顔を見せて恭也に向き直る。しかし、その瞳はふざけてなどいなかった。
「要するに、恭也さんとお付き合いしたい」
「あっ、ずるい。言おうと思ってたのに」
聖が言葉尻をあっさりとかっさらってしまったが、つまりはそういう事だった。これで
恭也は本当に、
(面倒な事)
の渦中に立つ羽目になったわけだ。
「……」
ここ最近、ようやく少しは〔そういう事〕を考えられるようになってきた恭也ではあっ
たが、いざ表立って口にされると、困惑の色を隠し切れない。
「私は……どちらかと言うと〔お兄様〕かも」
そう言ったのは祥子だ。少なくとも恭也に対しては普通に振舞えるが、それが恋愛感情
に直結する――とは限らない。
何とも言えない表情だったのは、祐巳である。恭也に対して好感は持っているが、それ
は恋愛感情と言うには違うと思う。かと言って、祥子曰く、
「お兄様」
とも、また違う。兄弟姉妹、という事になれば、実際には双子の弟――祐麒と言う――
がいるし、姉妹となれば隣の祥子が〔姉〕という事になる。思いあぐねてくるくる表情が
変わるのを見た聖が、
「祐巳ちゃーん」
声をかけてきて、ようやく〔百面相〕になっていたと気付いた。それはともかく、祐巳
にとっての恭也は新しく出来た友人、と言うべきか。一方で、由乃はこう口にした。
「私は、どちらかと言うと祥子さまと同じかも。今は令ちゃんを応援する立場、かな?」
「よ、由乃ったら……もう……」
肩身狭く、令はうつむいてしまった。これを見てはもう、令の本音などバレバレである。
江利子はそれを見て、口に手を当て微笑む。
来るべきものが来た――そう言うべきだろうか。剣術で相手をいかに倒すかより、はる
かに難しい課題が、恭也の目の前に突きつけられたのだ。
恭也が殊、恋愛について朴念仁、鈍感であるとしても、その本来の気質までがそうだと
は、必ずしも断言出来ない。例えば〔御神流の剣士〕としての意識は、常に〔ひとりの人
間〕としての恭也を抑え続けていたし、高町家の〔事情〕があるから、自身に必要最低限
の甘えしか赦さなかった――と言っても、せいぜいが授業中に居眠りするとか、たまさか
に美由希やなのはをからかって、ちょっとしたコミュニケーションを図る、そんな程度の
ものだが――事もある。
それだけ、高町恭也という人物の精神的環境に、
(余裕がなかった)
という見方も出来るかもしれない。
いずれにしろ、運命のいたずらか、はたまた神様の差配なのか。現実に恭也に告白した
のは、つい数ヶ月前まで丸っきり接点のなかった女性達なのである。そして、彼女達に何
らかの返答を、今すぐとはいかずとも、いずれはしなければならない状況に、恭也は追い
込まれてしまっていた。
「もちろん、既に恭也さんに付き合っている方がいらっしゃれば、そう言って下さればい
いのです。私達はどうしようもないですから」
蓉子が、恭也に微笑を向ける。しかし、その瞳は微妙に揺らいでいた。
「あ、いや……親しくしている人が、いるにはいますが……あくまでも友人として、なの
で……」
つい、恭也は答えてしまう。
思い返せば、例えば従妹の美由希は恭也にとって、なのはと同じく妹であるし、今は離
れているフィアッセとなると〔姉的存在〕である。
「幼い頃に交わした約束」
というものが、わずかに恭也の心にひっかかりを残さないではなかったが、それも今と
なっては、思い出の領分に属する事であった。
晶やレンは〔妹分的存在兼料理長〕といったところで、忍は気の置けない親友――ちょ
っとした出来事から忍の〔素性〕を知る事になり、そこから始まった親友付き合い――で
あった。那美は、と言うと、かつて右膝を傷め、投げやりになっていた頃に一度出会い、
大いに力をもらった事がある。最近になって再会し、以来交流が続いているが、恩人と言
うだけでなく、今では美由希達にとってもかけがえのない親友と言えた。
こうして見ると結局、恭也は周りにいる異性にこれまで、恋愛感情を抱いた事がなかっ
た事になる。
もちろん〔山百合会〕のメンバーに対しても常に、一歩退いた姿勢を取り続けて来ては
いたが、一方で自分がどこか変化しつつあるのではないか、とも思い始めていた。
(後戻りが、利かなくなりつつある、か……)
相手が、その意志をはっきりと表面に現してきた以上――
「皆さんの気持ちは、本当にありがたいと思います」
が、まだ自分には――
「ですが、俺はまだ、皆さんの気持ちに答える事が出来るかどうか、自信はありません」
だから。だからこそ――
「恥ずかしい話ですが、俺はそういう人間です。ですからせめて、しばらく考える時間を
下さい。どのような答えを出すにしても……」
そして沈黙する。好意を示した彼女達の表情が上気していたのと同様に、恭也もまた、
今精一杯の〔勇気〕をもって、本音を打ち明けたのだ。すぐにコーヒーを半分ほどあおっ
たのは、その気恥ずかしさを幾分でも誤魔化す為だった。
「……恭也さんがそう仰るのでしたら、私達も無理強いは出来ませんわね」
蓉子が助け舟を出す。ありがたかったが、それで終わりではない。
「だったら、期限を切っておこうよ」
「そうね。どんなに遅くとも私達が卒業するまでに。いかがですか? 恭也さん」
聖と江利子の共同攻撃に、恭也は全くなす術なく、その条件を受け容れるよりなかった
のだった。