〜〔翠屋〕にて〜
第二話
どこから話すべきだろうかと、桃子は迷った。
恭也の過去は複雑であり、本当ならば本人に語らせた方が、まだよほど分かりやすい。
しかし、それを当の本人は絶対に良しとしないだろう。
結局、知っている限りの事を最初から全て、話してしまった方がいい――そういう結論
に達した。
紅茶やコーヒー、そしてスイーツがそれぞれ行き渡ると、桃子もまたそれに加わり、い
よいよ時が来たのである。
「これから話す事は、他言無用よ? いいかしら」
いたずらっぽく笑顔を見せる桃子に、〔山百合会〕の全員が何の疑いもなしに頷く。
「あの子……恭也が私の実の子供でないのは、多分水野さん達なら知っていると思うけれ
ど」
つぼみ達は、この時点でそれぞれ表情を変えていた。一番驚いた表情を見せていたのが
祐巳だったのは、まぁお約束として。
「あの子のお父さん、私の夫の士郎さんは、元々不破って名字だったのよ。だからあの子
も、元は不破恭也って名前だったの」
初めて聞く話である。〔山百合会〕の全員が、桃子のひと言に集中し始めた。
「それでは、実の母親は……恭也さんの産みの母は、今……?」
「聞いた話だけど、あの子を産んでからすぐに、姿をくらましてしまったって。その理由
はともかく……どこでどうしているのかも、今では分からないわね」
江利子の問いに、桃子は微苦笑しながら応じる。これだけでも、ひどく重い話だ。それ
ぞれ境遇なり環境こそ違え、〔山百合会〕メンバーは全員両親が健在だし、離婚などして
いない。しかし恭也はそうではなかった。
「それでも、親戚の人たちが可愛がってくれていたそうよ。その頃のうちの人は、親戚と
の折り合いがあまり良くなくて、あの子を連れては度々、あちこちに遠出してたみたいな
の」
あの子が、うちの人と親戚をつなぐ〔かすがい〕だったのね――そう言って、桃子はく
すくすと笑う。
「でも、それも長くは続かなかったわ」
親戚――正確には本家である御神家が、一族のひとりの結婚式を狙った凶行によって、
文字通り〔族滅〕されたのである。
御神家は、代々伝え受け継いできた武術〔御神真刀流〕を駆使して、要人警護や犯罪組
織との戦いを人知れず続けてきた。しかし、慶事というわずかな気の緩みを突かれ、報復
を狙った何者かの仕掛けた爆薬により、出席した全員がその生命を失ったのだ。
「うちの人はその時、恭也を連れて遠出していたから、助かったの。でも、不破家の他の
人たちもみんな、亡くなってしまったそうよ」
震えが走っていくのを、〔山百合会〕の全員が自覚した。
「あの子の妹の美由希だけど、本当は恭也の従妹なの。恭也の叔母にあたる美沙斗さんが、
本家の跡取りさんと結婚して産んだ子供よ。美沙斗さんは、たまたま風邪を引いた美由希
の付き添いをしていて、助かったわ。でも、夫を失って、その犯人を捜す為にうちの人に
美由希を預けて……最近になって、ようやく連絡が取れたの」
「……そ、そんな過去が……」
実の母親の愛情を受けられなかっただけではなく、可愛がってくれた親戚を、叔母と従
妹を除き、幼くして全て失ってしまったとは、何という事だろう。
そして、その事が示唆する、恭也に関する重大な事実に気付いた人物がいた。
「あの、桃子さま……恭也さんのお父様は既に、亡くなっていますよね?」
蓉子の質問に、桃子は首を縦に振る。
「……今の恭也さんには、血のつながった両親がいない……美由希さんと、美由希さんの
お母様を除くと、大本の親戚もいない……と、いう事なのですか?」
桃子の淋しげな微笑が、質問に対する肯定を表す。蓉子はすぐに、質問した事を後悔し
たが、もう遅かった。彼女は恭也の〔闇〕に、触れてしまったのだから。
慄然とした。辛いという言葉が、まるで陳腐ではないかとすら思えた。蓉子はもちろん、
江利子、聖も何を言えばいいのか分からない、という表情だ。つぼみ達に至っては、もは
やくどくどと書く必要すらあるまい。
桃子は、更に話を続ける。
「その後どこで、どうしてたのかは分からないけれど、ある時うちの人は、イギリスのと
ある議員の護衛を引き受けたの。アルバート・クリステラ……こう言えば分かるかしら」
多くが合点のいった表情を見せる中で、祐巳だけがまだ、ショックを引きずって話題に
付いて来れていないらしい。
「祐巳ちゃん、いい?」
助け舟を出したのは、由乃だった。
「あ、う、うん」
「高町さまの親戚がひどい事になってからしばらくして、高町さまのお父様は、イギリス
の議員さんの護衛を引き受けたのね」
「うん」
「その議員さんが、フィアッセ・クリステラのお父様って事」
「あ、そうなんだ……って、ええっ!?」
盛大に驚いて、桃子の方を見る祐巳。フィアッセの父親、という事は――
「そ、それじゃあ……あ、あの〔世紀の歌姫〕の……」
「そう、その通りよ」
高町さまに関する事は、驚く事ばかりだ――祐巳の情報処理能力は、早くも臨界点に到
達してしまったように見える。
「私がうちの人や恭也、美由希と出会った時は、アルバートさんが来日した時の事だった
けれどね」
桃子は、かつて大阪の調理師専門学校に学び、その後フランス、イタリアと研鑽修行を
積み、帰国後は短い間ながらもいくつかのホテルのパティシエを歴任、当時は都内の有名
ホテルでチーフパティシエとなっていた。天賦の才というものが桃子にあったとしても、
それを更に高める努力を怠らなかったからこそ、弱冠とみなされる年齢でありながらチー
フパティシエとして迎えられたのだ。
ともあれ、クリステラ議員を迎えた海鳴のホテルからの要請があった事から、桃子は臨
時のパティシエとして赴任したのである。
「当時のアルバートさんは、その政治姿勢から、内外のテロリストや犯罪組織に狙われる
事が多くて……あの時も、彼を狙ったテロリストが襲撃してきたの。それを阻止したのが
うちの人だったわ」
そうした事があって後、士郎と桃子は親交を深め、やがて結婚する事になる――
「あの……その頃の高町さまは、どんなお子さんでしたのでしょう?」
それまで黙っていた志摩子が、口を開いた。
「そうねぇ。大人しいけれど、美由希の面倒をよく見ていたわ。目も、今よりもくりっと
した感じだったわよ? だから、笑顔になると可愛くて可愛くて……あ、そうだ……とっ
ておきのが……」
桃子はエプロンのポケットに手を突っ込むと、一枚の写真を取り出してテーブルの上に
置いた。
「あまり写りたがらない子だから、この頃の写真はこれの他に、二枚か三枚あるかどうか
かしら?」
それは、士郎と桃子が結婚して間もない頃のスナップで、普段は物静かで大人しい恭也
の、そっと微笑んでいる様が自然に撮れている。引き寄せられるかのように、全員顔を近
付ける中、
「か……可愛い……」
突然漏れた呟きに、蓉子達が一斉にその方を向く。呟きの主は、祥子だった。上気して
いる頬が、何もかもを物語っている。もっとも、それは〔山百合会〕全員の共有するもの
だったのだが。
ひとしきり、恭也の子供の頃の写真に見入った後で、ようやく話が進み始める。
「結婚する頃には、勤めてたホテルも辞めて……この店を開いたのは、結婚してからね。
オープンしたての頃は、それなりに苦労もしたけど」
「あっ……そうしたら、恭也さんが甘いもの苦手になったのって……」
江利子が、リリアンの学園祭の時に恭也から聞いた話を思い出した。
「あら、それは話してたのね。うふふ……ここだけの話だけど、うちの人も美由希もね、
美味しい美味しいって食べてくれたけど、味の加減については全然だったのよ」
今や、店のシェフ的存在である松尾さんを迎え入れるまでの一時期、この店で売られる
ケーキなどの味は、恭也の味覚によって支えられていたのだ。
「その頃ね、フィアッセがうちに遊びに来てたんだけど。ある時クリームいっぱいのケー
キをおやつに出して……そうしたら……」
恭也は自分の分のケーキを平らげて、リビングから出ようとしたところで急に動きを止
め、〔ばたっ〕と倒れてしまったそうな。
「もう、桃子さんショックだったわぁ」
全員が、腹を抱えんばかりに笑い出す。しかし、そこはリリアンの生徒だけあって、盛
大な笑い声にはならない。ただひとり、
「あはっ、あっはっはっはっ……うくっ、だめ……苦しい……」
聖だけは除く――
そうした平穏な生活の中、桃子は士郎との絆の結実を宿す。
「産まれるのが女の子だって分かった時、うちの人は漢字で〔菜乃葉〕ってつけるつもり
だったけれど、固いからひらがなに変えさせたわ」
だが、士郎はなのはの生まれた姿を見る事も、抱く事も、遂になかった。
「アルバートさんだけじゃなく、ティオレさんやフィアッセも、一緒に狙われていたの。
うちの人は、みんなを護って……爆弾の爆発に巻き込まれたらしいわ」
――それが、まだ幼いと言って良い年齢だった恭也、美由希、そしてフィアッセの心に
どれほど大きな影を落としたことか。
「幼心に、恭也は自分しか〔家族〕を、御神流という流派を護る者がいない、そう思い極
めたのね。普通ならとっくに倒れてるくらい無理をして……ある時交通事故に遭って、右
膝を複雑骨折したの」
蓉子を始め〔山百合会〕全員の瞳が、驚愕で開かれた。
「で、でも……そんな……恭也さん、膝が悪いなんてひと言も……それに、歩いてる様子
だって、全然そんな風に見えない」
聖が呆然と呟き、皆がそれに頷く。見た限り、恭也は全く普通に足を動かしていたし、
とても事故で右膝を傷めたようには見えなかった。しかし実際に、その時恭也の右膝は完
治不能と診断されるほど、手ひどく砕けていたのである。
「一時、ものすごい投げやりになってたの。でも、どうにか普通に動けるくらいには持ち
直したわ。そうね……あの子が泣いたのを見たのは……歩けなくなるんじゃないかって、
お医者さんが言ってた時くらいかしら」
桃子が、恭也の流した涙を見たのは、それが最初で最後だった。以来今に至るまで、誰
も――誰も、恭也が涙を流すところを見た事はない。そして、恭也が表立って見せなくな
ったのは、涙だけではなかった。
「それまで以上に、人前で表情を大きく変える事はなくなったわ。美由希に御神流を教え
たり、なのはを始め、みんなの面倒を見たり……私がこの店に集中出来るようにって、き
っとあの子なりに気を遣ってたのかもしれないわね」
その後、歌手の生命とも言える喉を痛め、療養を兼ねて海鳴に来たフィアッセを迎えた
のも、恭也だった。
「あの子や美沙斗さんは、私を高町家の要だって言ってくれるけれど、違うわ。本当はあ
の子が〔要〕なの。あの子は、もしかしたら自分の事を、自分の幸せを考えない事で、み
んなを護り抜いて来たのかしら……時々思う事もあるわ。でもそれって哀しい……哀し過
ぎる事じゃないかしら」
やがて、フィアッセは喉の状態が回復すると、再び歌手としての道を歩み始め、今では
〔光の歌姫〕として、押しも押されぬ人気歌手としての地位を、急速に不動のものとして
いる。美由希やなのは、そしてレン、晶――高町家で暮らす〔家族〕もまた、それぞれの
道を歩もうとしている中、桃子のただひとつの気がかりは恭也の事であった。
恭也の進む道は、確かに恭也自身が進まなければならない。しかし、隣に好き合った恋
人がいるというだけでも、また恭也の心持ちは違ってくるのではないか――進む道もまた、
もっと充実したものになるのではないだろうか――
「あの子はね……自分の事を、過去も含めてまだ完全には整理出来てないと思うの。だか
ら、恋愛に対しては未だに踏み出せないし……それに、私から見ればやっぱり鈍感なのよ
ね。とうとう、フィアッセの想いには応えずじまいだったし」
この台詞を聞いて、さて〔山百合会〕の何人が安堵しただろう。これで恋敵が〔光の歌
姫〕だったとしたら、もう勝負以前の問題である。いや、もしも恋愛の神様、あるいは運
命の女神なんかがいたとして、そのさじ加減がほんの少しだけ変わっていたとしたら――
今、こうして桃子の話を聞いていただろうか。それ以前に、果たして恭也と出会っていた
だろうか?
「私は……恭也さんが、自分の事を断片でしか話さなかった事に、疑問を持っていたので
す。でも、これで分かりました。やっぱり、恭也さんは優しい方なのですね」
蓉子の言葉は、半ば重いものを押し出すかのようだったが、最後の方はむしろ、確信を
深めたような口調だった。蓉子の中で、それだけ恭也は抜き差しならない存在になってい
たのである。
「……色んなものを、失ってきたんだ……恭也さんって……でも、それを乗り越えてきた
から、あんなに暖かいんだね」
ぽつりと、聖が呟いた。桃子の話を聞いて、再確認出来た事だった。ここにいる皆、恭
也が失ったもの、その背に背負わねばならなかったものの、何分の一も己が身にふりかか
った事はあるまい。
「……恭也さんは……うん、私なんかが真似出来る人じゃない……だから見ていたい、傍
で見ていたい……そう思うのかな」
恭也は色々なものを失いつつ、自らをも律しながら、ひとつのものに打ち込んで来た。
しかし、その不器用さ以上に、彼の根幹には慈しみがある。江利子は、自分が恭也のどこ
に惹かれたのか、これでよりはっきりと、認識する事が出来たような気がしていた。
「恭也のことを好きになってくれて、ありがとう」
桃子がそっと微笑んだ。
「あの子はね、見た目こそああだけど、本当はとても優しいの。それは、この桃子さんが
保証するわ」
令と由乃が、相前後して頷き合う。二人とも、その片鱗を実際に感じたからだ。祥子や
祐巳、志摩子はそれを間近に感じる機会こそあまりなかったが、これまでの恭也を見てき
て、悪い印象を抱くに至った試しはない。女子校にありがちなゴシップに直面する事も多
かった彼女達の目に、恭也は好意を抱くに然るべき存在として映ったのだった。
ひと段落して、皆ようやくカップに口をつけた。桃子の話を聞いている間、誰もがそれ
に聞き入っていたからだ。しばらく、遅まきのデザートタイムに興じてから、
「そう言えば、来れれば来るって言ってたけど……」
桃子が不意に呟いた。それが恭也の事だろうとは、充分推測がつく。しかしこの時ばか
りは、恭也が来なくて良かったのではないか――それが蓉子達の偽らざるところである。
つまり、今テーブルを囲んでいる全員が、全てではないにしても、
(恭也の過去という名の秘密)
を共有した、というわけだ。それも、本人の承諾なしに。
「……これで、私たちは決着が付くまで引き下がれなくなっちゃった、ってわけだね」
「私たちって言うけど、一体何人かしら?……んふふふ……」
聖が椅子の背に身体を預けて呟くと、江利子が〔山百合会〕の全員を見回して含み笑い
を漏らす。桃子はその様を見て、どこか満足気な笑みを浮かべるのだった。
恭也は〔刀剣 井関〕にいた。思い出した用事――年始の挨拶に行った時、
「近く良いのが入るので、その時見に来んかね」
井関氏に持ちかけられたのだが、その品がこの日来たのだった。今、井関氏と共に刀剣
鑑賞に興じている恭也は、桃子が自分の過去を話してしまった事を、知る由もなかったの
である。