新しい年が明けて、数日が経った頃。

 冬休みの内に、一度は〔山百合会〕のみんなで喫茶店〔翠屋〕に行こう――そんな事を

言い出したのは、白薔薇さま(ロサ・ギガンティア)こと、佐藤聖だった。

 紅薔薇さま(ロサ・キネンシス)こと水野蓉子、黄薔薇さま(ロサ・フェティダ)こと鳥居江利子にそれぞれ電話をかけて段取りを

つけ、その後〔妹〕の藤堂志摩子にも連絡して参加を承知させると、次に電話したのは当

然〔翠屋〕である。

 去年の内に、店の電話番号は控えていたから何の事もない。電話には折り良く店主が直

接出てくれた上、その日を貸し切りにしてもいいと、請け負ってくれた。

(んー、幸先いいなぁ)

 こういう時の聖の運は、結構強く出来ているようだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 〜〔翠屋〕にて〜

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 第一話

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 成人の日を間近に控えたとある一日、高町恭也の姿を海鳴大学附属病院に見る事が出来

る。前年から続けている、かつて傷めた右膝の根本的な治療の為、なのだが。

(やれやれ……)

 知っている人が見れば毎度の事と言うかもしれないが、恭也は気が重そうである。主治

医の的確な診察と、慎重な治療の甲斐あって、受ける度にわずかずつながら、膝の調子は

良くなっていると言うのに。

「高町さん、高町恭也さん」

「はい」

 看護婦の呼び出しに応じて、診察室へと入って行く。足取りもまた、どことなくゆっく

りと、しかも重いものを引きずって歩くような印象を受けなくもない。そのくせ、表情が

やけに従容としているから、なおさら変に見える。

 待っていたのは、長い銀髪の小柄な女性だった。美人、と言うよりはむしろ、可愛らし

いと形容するべき容姿だが、その瞳には強い意志が見え隠れしている。

「おはよう、恭也くん」

「おはようございます、フィリス先生」

 フィリス・矢沢。右膝を傷めている恭也の主治医を任ずるようになって、そろそろ一年

というところだが、彼女の存在なくして現在の膝の回復は、まず考えられない。ただ、恭

也のサボリ癖――自らを顧みる(あるいは省みる)事のない性格から派生しているものが、

診察を定期的に受けに来ない、というところに現れていて、しばしば彼女の頭痛の種にな

っていた。

「恭也くん? 去年はさぼってばかりだったから、今年こそちゃんと来てもらわないと、

困りますよ」

「はぁ……すいません」

 ほとんど拗ねたような表情で、じいっと上目遣いに見る仕草に、恭也は恐縮しているよ

うだ。もっとも彼の常で、ほとんど表情には現れてこない。

「でも、今日はちゃんと来てくれたので許してあげます。それじゃ、始めましょうか」

「はい」

 診察となると、フィリスは真摯な姿勢で患者に相対する。最近はあちこちで医療ミスの

話題が聞こえるだけに、元々責任感の強い彼女ゆえ、気の休まる時は少ないようだ。

「うん……最近はあまり、無理していないみたいね?」

「ええ。ここしばらく、激しく膝を使うような事はなかったので」

「いい傾向よ。鍛錬だからって、休日の度に八時間も十時間も膝を酷使されたら、わたし

の方がどうかなっちゃうわ」

「はぁ、すいません」

「そう言えば、去年は舞楽をしたのよね。それ以降、日課以外に何か動いたかしら?」

「さて……後は出稽古で、東京に行ったくらいでしょうか」

 受け答えしつつ、診察は進む。

「今日は、軽めの整体と……テーピングも変えるわね」

「はい」

 恭也は長いこと激しい動きをすると、無意識に右膝をわずかにかばう癖が出来てしまっ

ていた。それが知らず知らず、身体全体に負担をかけているのである。

 フィリスの見立てでは、根気が必要だけれど、治療を続ける事で完治出来る可能性があ

るとの事だった。恭也は当初半信半疑であった(と言うより信じていなかった)ものの、

今ではフィリスの診察を、全面的に信頼している。

 それはそれとして、やはり病院に行く、という事自体にどうしても抵抗を覚える、とい

うのが恭也の本心なのだが、こうして診察を受けなければ、治るものも治らない。

「服を脱いで、横になって下さい」

 今年は、果たしてどこまで先生の言う事を守れるものか――もしも口に出したら、整体

の内容が一気にグレードアップする事確実な感慨を抱きつつ、恭也はベッドに寝転がって

その時を待つのだった。

 

 

 

 

 

 電車に揺られてしばし、海鳴に着いた頃には昼になっていた。三薔薇さまはともかく、

つぼみ達にとっては初めての海鳴である。三薔薇さまには見慣れた海鳴駅前のロータリー

の光景にしても、つぼみ達には新鮮に映っていた。

 駅前に建つ、いくつものビルを縫うように、数羽の鳩がさっと飛び抜けていく。見回す

と人の通りも多く、この点はM駅周辺とさして変わらない風だ。

「普段見慣れた景色と、そんなに変わらないかしら」

「でも、何となく落ち着くような雰囲気ですよ」

 そんな会話を交わしているのは、小笠原祥子――紅薔薇のつぼみ(ロサ・キネンシス・アン・ブゥトン)とその〔妹〕、福沢祐

巳である。

「さぁ、早速行こうか。いざ〔翠屋〕へ!」

「お姉さま、ちょっとはしゃぎ過ぎです」

 意気盛んな聖を、〔妹〕――白薔薇のつぼみ(ロサ・ギガンティア・アン・ブゥトン)こと志摩子が、苦笑しながらやんわりとた

しなめ、

「相変わらずと言うか……」

「でも、白薔薇さまのおかげで海鳴に来れたんだし、感謝しないとね。令ちゃん」

 支倉令――黄薔薇のつぼみ(ロサ・フェティダ・アン・ブゥトン)と、その〔妹〕の島津由乃が苦笑しながら話していた。

「さぁ、いつまでもここにいるわけにはいかないわ。そろそろ行きましょう」

 紅薔薇さまこと、蓉子の鶴の一声で、〔山百合会〕一行は揃って移動を始める。喫茶店

〔翠屋〕は商店街の中にあるので、駅前からは少し歩かないとならない。

 既に商店街は、年明け初売りの喧騒も過ぎて、日頃変わらぬ様子を取り戻していた。と

は言え、通りかかる店先では時折、

「明けましておめでとうございます」

 そんな挨拶が未だに交わされている。見ると、どうやらそこは貴金属店で、商用で来た

らしい中年のサラリーマンが、店の主人らしき人物とにこやかに会話を交わしていた。

 ドラッグストアの前を通りかかると、若い店員が声を張り上げて商品の安売りを宣伝し

ており、八百屋では主人夫婦が、客を相手にこのキャベツはどうの、この牛蒡はいい品だ

のと、忙しく立ち働いている。

 あちこちの喧騒を横目に商店街を歩くと、ちょうどその中間と言える場所に、目指す喫

茶店〔翠屋〕が見えてきた。

「もう少しね。ほら、すぐそこ」

 黄薔薇さまこと、江利子が、どこかうきうきとした声を上げ、指差す。

「わぁ、あれが〔翠屋〕なんですねぇ……わぎゃ!?

 祐巳が突然頓狂な声を上げ、何事かと皆がそちらを向いてみると。

「んー、祐巳ちゃーん」

 聖がいたずらっぽい笑みを満面にしながら、祐巳に抱きついていた。まるきりセクハラ

おやぢ。

「あわわわ、ロ、ロ、ロ、白薔薇さまっ!?

 祐巳にとって、実はここからがおっかない。祥子が柳眉を逆立てて、怒りのオーラもあ

らわに詰め寄って来るのだ。

「白薔薇さまっ! 祐巳から離れて下さいませんかっ!!

 自分が叱られているわけでもないのに、思わずびくりとして目を閉じてしまう。

「おぉ、怖い怖い」

 さすがに、〔翠屋〕を前にして騒ぎを大きくするつもりはなかったのだろう。聖はあっ

さりと退散した。祥子に服の乱れを直してもらい、祐巳は安堵の笑みを浮かべる。

「蓉子ぉ、江利子ぉ、祥子がいぢめるー」

「はいはい、いたずらはそのくらいにして。目的地はすぐそこなんだから」

「はぁい。さぁて、恭也さんいるといいなぁ」

 江利子は蓉子が聖をあしらう様を見て、微笑みながら肩をすくめた。それは祐巳が普段

の学園生活にあって、度々目にする光景である。

 そんなこんなで〔山百合会〕一行は、喫茶店〔翠屋〕に到着したのだった。

 

 

 

 

 

 店の中は、簡単ではあるが貸し切りにふさわしく、一部のテーブルをつないで〔山百合

会〕全員が会食出来るように、模様替えされていた。

「いらっしゃいませ」

 店のマスターである高町桃子が、笑顔で迎えてくれる。恭也の姿が見えないのは残念だ

ったが、とりあえず、店自慢のランチメニューで腹ごしらえ。

 喫茶店イコール軽食、というイメージが割と多いのではないかと思うが、〔翠屋〕のラ

ンチメニューは、種類こそ少ないものの(その時々でレパートリーが変わる)、下手なフ

ァミレスなんかより手のかかった一品ばかり。しかも数量限定、売り切れ御免なので、ラ

ンチ時は早い者勝ち。売り切れであれば諦めて、パスタやサンドイッチにするより他にな

し、という事も少なくない。

 例えば、由乃や令、祐巳が注文したカレーライスは、ルーからしっかり作り込んだ一品

だったりする。

「美味しい……最初はちょっと辛いかな、って思うけど、すぐに気にならなくなるよ」

「ありがとうございます。松っちゃん……うちで働いてくれてる松尾さん自慢のメニュー

なんですよ」

 令の言葉に、桃子は厨房の方をちょっと向いて、小さくVサイン。すると、厨房から同

じサインが、ひらひらと上下するのが見えた。

 味がホテル譲りであるのに気付いたのは、やはりと言うべきか、祥子である。桃子は主

にパティシエとして腕を振るっているが、食事に関しては、ホテルで修行した松尾さんの

力量が大きい。

「どこか、ホテルのレストランで修行されたのですね……とても美味しいですわ」

「ありがとうございます」

 ご令嬢、という形容もふさわしく、祥子は優雅にスプーンを取り回している。もっとも、

食べているのがオムライスなのは、まぁご愛嬌だろう。

 蓉子、江利子、聖、志摩子が口にしているのはハヤシライスなのだが、これがまた特製

のドミグラスソースを用いた、本格の品。

「んー、美味しい」

「お肉も柔らかくて、美味しいですね」

「本当。でも、これは喫茶店どころか、洋食屋さんよね」

「それも、この店のもうひとつの顔なのかもしれなくてよ? 江利子」

 最初、小冊子で見た時の、

(洋菓子販売と喫茶店)

 という印象は既に外れてしまっているが、これもまた、繁盛しているひとつの理由なの

であろう。

 しばしランチタイムを楽しんだ後は、食後のお楽しみである。

「今日は、本当に来てくれてありがとう」

 桃子が手ずから、紅茶やコーヒーを淹れてくれた。

「フィアッセがいれば、ひと味違う紅茶を淹れてくれるんだけど」

「え?」

「フィアッセ、って……ま、まさか……?」

 そのまさか。今や、世界にその名を轟かせる〔光の歌姫〕――フィアッセ・クリステラ

が、実はこの〔翠屋〕でチーフウェイトレスをしていた時期があるとは、〔山百合会〕メ

ンバーの全然知らなかったところである。

「うふふっ。これでも、家族同然の付き合いなのよ。びっくりした?」

 あっけらかんとした話に、皆唖然とするばかり。

「あらやだ……恭也ったら何も話してなかったのね」

 桃子は肩をすくめて苦笑すると、いかにも息子らしいと内心で思う。でも、彼女達の内

少なくとも三人は、間違いなくあの子に傾いているのだ。そろそろ、昔話を聞かせてあげ

ても、バチは当たらないだろう。

「そうね……この場にいないのもちょうどいいし、あの子の事、少し話そうかしら」

 

 

 

 

 

 病院内から恭也が出てきたのは、正午過ぎである。

 フィリス先生に、

「今後も、無理は出来るだけ控えてください。診察も定期的に受けて下さいね?」

 厳重、とまではいかずとも強く念を押され、とりあえず首を縦に振ってきたものだ。

 朝早い時分はいささか冷えていたものの、この頃には冬の陽が柔らかく差していて、暖

かさすら感じる。

 病院に出入りするタクシーや自家用車を横目に、駐輪場まで歩く。膝に巻かれたテーピ

ングがいささか窮屈と言えば窮屈だが、それでも以前より、身体に余計な負担がかからな

くなっていた。

「うん、前よりも良くはなっているな……」

 充分に実感できる。しかしまだ、完治には長い時間がかかるだろう。

(確かに、動ける事はいい事だ。だが、この分では……)

 そうそう簡単にサボり癖が改善出来るとは、露ひとしずくも思っていない。今年もまた、

先生を困らせてしまうだろうな――苦笑した恭也は、自転車に乗ると病院を後にした。

 多少冷え冷えとした空気が、顔を撫でていく。

(そういえば……)

 今日は、〔翠屋〕は昼から予約のお客さんの貸し切りだったが――ふと思い出す。診察

を受ける日だったので、可能ならば昼から出る、という事で話はしてあるが。

「とりあえず、店に行こうか」

 近くのアンパスを通って線路を越え、海鳴駅前に出るまで数分。ちょうど駅前ロータリ

ーを望む場所まで来て、

「む、赤星か」

 親友の姿を認める。向こうも気が付いて、

「おっ、高町じゃないか」

 声をかけて来る。恭也は赤星の目の前で自転車を停めた。

「病院の帰りか?」

「ああ、まぁな」

「で、どうだ? 膝の具合は」

「ぼちぼち、というところだな」

 挨拶代わりの会話を終えると自転車から降り、連れ立って商店街の方まで歩く。赤星は

たまたま所用で出ていたらしく、ちょうど家に帰る途中であったそうな。

「そういや、さっき〔翠屋〕の前を通りかかったんだが、貸し切りの札がかかってたな」

「ああ、予約だ」

「貸し切りって事は、団体さんか?」

「ああ」

 赤星は頷くと、

「うちも、今日は晩に予約が入ってるんだよ。常連さんの誕生祝いって事で、十何人も来

るみたいなんだ」

 笑顔で言った。ちなみに赤星の家は寿司屋で、店を営む赤星の父親は、実は生粋の江戸

っ子ではないか、と思えるほど気風(きっぷ)の良い人となりをしている。

「相変わらず、元気そうだな。親父さんは」

「商店街の名物親父、ってやつさ。ああ、そうそう。たまにはうちに食べに来ればいい、

って言ってたぞ」

「そうか。まぁ、次の定休日にでも、かーさんに持ちかけておくよ」

「その時は電話のひとつもくれよ。そしたら親父が、最高のネタ仕入れてくれるから」

「期待している」

 その後赤星と別れて、恭也は〔翠屋〕に足を向けかけたが、

(ああ……そうだ)

 ふと思い出して、行き先を変更する事にした。

 この時、恭也は桃子が何をしようとしているか、思ってもいない。




山百合会メンバーが揃って海鳴に。
美姫 「単に遊びに来たつもりだったんでしょうけれど」
まさか、ここで恭也の過去が語られる事になるなんて思ってもなかったんじゃないかな。
美姫 「しかも、恭也本人じゃなくて桃子からだしね」
何処まで話すのかは分からないけれど、恭也の過去を聞いてそれぞれに何を思うんだろうか。
美姫 「この章で物語も転機を迎えるわね」
一体どうなるのか。



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