〜冬の情景〜

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 第四話――リュッケルトの詩「苦しみの谷にあっても絶望する事なかれ」からの引用に

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 ――誰も、選んだ後に導いてはくれない。だから常に、浮き沈みを覚悟しておきなさい。

それが世の常なのだから――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 涙をそのままに、聖は恭也の瞳を見て、

「私の昔話は、これでおしまい……ちょっと、みっともないけどね」

 言うとようやく、細い指でそっと拭う。

「……」

 恭也は、少しの間何も言葉に上せなかった。ただその間、何かをずっと考えているよう

だった。

 何か話しかけた方がいいかも、聖がそう思い始めた頃、恭也はおもむろに口を開く。

「聖さん……貴女は、やはり〔乗り越えた〕んですよ」

「えっ?」

 まるで、手に入らぬ何かに憧れるような――いや、もう既に喪われてしまった何かを懐

かしむかのような、静かで、しかし胸を締め付ける響きが、その声にはあった。

「俺は、父さんが死んだ時……美由希と父さんの〔約束〕を果たすのは、もはや自分しか

いない……そう思いました」

 まったく、淡々と恭也は話し始める。

「思い詰めて、己をとことん追い詰めました。その甲斐あってか、上っ面だけは強くなっ

たように見えましたが……まだ子供だった俺は、自分で思うほど、強くも何ともなかった

のです」

 約束というものが、どんなものだったのか。恭也が言う〔強さ〕とは、もしかしたら前

に令が直面したものと、何か共通点があるのだろうか。

「あの頃〔家族〕と、当時出会った幾人かの人たちとの関わりがなかったとしたら、俺は

今頃……こうしていなかったでしょう」

 はっ、となった。聖は確かに気付いた。

(恭也さんは、私と同じように……ううん、私なんかよりももっと、多くのものを失って、

それを乗り越えてきたんだ)

 今、聖の隣にいる青年は、ずっと〔自分の弱さ〕と向き合い続けてきたのだ、と。

 

 

 

 

 

 ――嵐が幾度も、残った葉に押し寄せた。それでも葉は、緑を残している――

 

 

 

 

 

 雲が、切れ間を見せた。

 その切れ間から、展望台の遠くに見える水平線上に、冬の陽がいく筋も差して行く。

 飲み干したコーヒーの缶を静かに置いて、恭也はベンチから立ち上がる。二、三歩進む

とそのまま静かに、言葉を紡いだ。

「忘れる事はありません。忘れてもいけない。自分が何を失い、何を得たのかを……」

 ゆっくり、自分自身に言い聞かせるかのように。

 決して大きな声ではない。普段通りのあの低い、しかし、よく通る深みのある響き。そ

の一語一句が、心の中に働きかけていく。

 聖は恭也の背中を見て、不意に何かに突き上げられるような感覚を覚えた。

 ――危ない。

 この先の言葉がどんなものであれ、それを聞いてしまったら、私はきっと――

 甘美な戦慄が、聖を呪縛しようとその身体を駆け抜けていく。

 すっかり冷えてしまった缶コーヒーを置き、次の言葉を待つ。と、恭也はゆっくり聖の

方へ振り返り、言った。

「優しくなるのに、必要なものなど何もない……痛みも悲しみも、悔しさも、何もかも全

て、自分の一部です」

 低く、深く、それでいてまるで、強さも弱さも、全てを包み込むかのような、限りない

優しさを込めたひと言を。

「あ……恭也、さん……」

 思わず立ち上がる。気が付いた時にはもう、聖の両腕は恭也の背中に回っていた。

 広い胸板に顔を埋めて、涙を恭也の服に染み込ませる。

 あの清らかな、全てを浄化するかのような白を好むのは、今でも変わる事はない。しか

し今、新たに聖の心を捉えたのは、澄んだ黒曜石のごとき瞳。暗い色彩すらそっと包み込

む、優しき心。

 そして、〔己の弱さと向き合い続ける〕という強さであった。

 

 

 

 

 

 ――時が、いくつもの喜びを贈った。いくつもの強さを――

 

 

 

 

 

「ご、ごめん……」

 我に返って、急に恥ずかしくなった聖は、うつむいたままそっと身を離した。恭也がど

んな表情をその時していたか、結局は分からぬまま。でも、

(恭也さん、私を拒まなかった)

 今は、それで充分だった。栞にのめり込んだ時は〔その先〕を性急に、貪欲に手に入れ

ようとしていた。

 欠けている何かを、自分自身にとって大切なものの存在により補おうとする、その無意

識の心情は、誰しもが心の奥底に持っている。

 あの時、それは悪い方向に働いた。今は――

「恭也さん……」

「?」

「恭也さんもその内、きっと誰か大切な女性(ひと)が出来るだろうけど」

 彼の表情を見上げると、まるでそんな事があるだろうか、などと言いたげだ。それをさ

り気なく無視して、

「でも、もしそうだとしても、私は……」

 好きだ、恭也さんが欲しい、ひとつになりたい、なんて言ったら、きっともの凄く驚く

だろうな――思いつつ、実際に口にしたのは違う言葉だった。

「恭也さんの事、嫌いにはなれそうもないよ……絶対に」

 ただひたすら、臆面もなく栞を求めていたあの時とは、明らかに違う。

(あの時、こういう〔好き〕が出来る事を分かっていたなら、きっと……)

 もう、時は戻せない。しかし今なら、どんな結果になっても受け容れる事が、自分に出

来るような気がした。

 それは偽らざる気持ちであり、発せられた言葉は、

〔今の聖なりの告白〕

 でもあった。

 

 

 

 

 

 ――ひと筋の光が漏れ落ちる――

 

 

 

 

 

 恭也は、どうすれば良いものか、全然分からなかった。もちろん、

「聖を口説き落とす」

 という選択は、最初からない。ただ、問わず語りに語られた聖の過去を聞き、

(今は、どんな形でも聖さんを励ませれば、それでいい)

 そう、思いきわめていただけだったのだ。

「うふふっ。今ここで私を選んでとか、そんなんじゃないから。安心していいよ」

 笑顔の聖にそう言われ、恭也は表情にこそ出さなかったものの、

(……敵わないな)

 内心で諸手を上げ、降参したのだった。

 今まで、折に触れて見た聖の表情は、

(どこか、何か〔醒めた〕ような……)

 そんな雰囲気を見せる事が、度々あった。特に斜に構えている、という風には見えなか

ったのだが。

(まぁ、こんな程度ですぐに変わる、という事はないだろうが……少なくとも、俺なんか

の差し出口が、前に進む一助になるのであれば、何も言う事はない)

 気が付くと、もう陽が傾き始めている。冬は陽の暮れるのが早い。ここにいるよりも、

まだ〔翠屋〕で時を過ごした方がよほど気が利いていた。

「聖さん」

 呼ばれた聖は、恭也の言おうとしている事くらい、恐らく察していたのだろう。

「エスコートしてくれるよね? 当然、〔翠屋〕まで」

 女性とは――少なくとも、否定的に捉えた事のない恭也の感性は、だからこそ女性は、

男なんかよりはるかに〔強い〕のだ、そんな確信をより、深めていた。

 聖が飲み干した空き缶を恭也は受け取り、自分の分の空き缶も一緒に、少し離れた缶用

のごみ籠目がけ、見事に投げ入れる。聖が驚いたのは、言うまでもない。

「わっ、すごぉーい!」

 

 

 

 

 

 

 ――そして、限りない喜びは花を開く――

 

 

 

 

 

 藤見台から喫茶店〔翠屋〕までの道、聖は恭也の手をずっと握っていた。

 大きな手だった。古流の剣術をたしなんでいるという話だったが、そのごつごつとした

感触はいかにも、と思わせる。しかしそれ以上に、

(あったかいな……恭也さんの手……)

 いつまでも握っていたい、そう感じさせる手だ。

 抱きついた時の感覚も、学園でいたずら半分――紅薔薇のつぼみこと小笠原祥子をから

かう為に、その〔妹〕に抱きついている時とは、また違った。

 文字通り、

(包まれている)

 そんな気がしたものだ。

 栞を抱きしめた時に感じていた、あの狂おしい感覚とも違う。今触れているのはその手

の平だけなのに、それでも充分満たされていると思う。こうしている事そのものが、今や

〔喜び〕として、聖の心を柔らかく包んでいた。

 商店街に差しかかろうとする頃、恭也の表情が微妙に変わる。何かを察したようだ。

「どうしたの? 恭也さん」

「……多分、聖さんの知ってる人が、店に来ていますよ」

「?」

 そのまま〔翠屋〕を臨む場所まで来て、聖は恭也の言葉の意味が分かった。

 そこにいたのは蓉子と江利子だった。恭也は、行ってあげなさい、と言うように、優し

く頷きかける。

 聖は頷き返し、待っているふたりの元へ、手を振って近付いていく。

「蓉子ー、江利子ー」

 その後から、恭也はなるべく三人の邪魔にならぬようにと、そう思っているのだろう、

ゆっくりとした歩調で歩み寄る。

 冬の海鳴の空が、今少しで暮れようとしていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――苦しみの谷にあっても、絶望してはいけない。多くの喜びは、苦しみの中から生ま

れるものだから――








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