高町恭也、という名のひとりの大学生が、リリアン女学園高等部の生徒達に与えたイン
パクトは、相当なものだった。
写真部の武嶋蔦子が撮りに撮った舞の写真が、それを観ていた生徒達の間で人気になっ
たほどである。
少しながらでも、恭也と直接話をする事が出来た生徒などは、〔山百合会〕上演の『シ
ンデレラ』で王子役を務めた、花寺学院の生徒会長――柏木優よりひいきにしていたから、
生徒達にどれほどの影響を与えたかは、想像が出来ようものだ。
もっとも、そんな彼女達も〔山百合会〕を差し置いてまで、とは思っていなかったし、
恭也はあくまでも、学園祭のゲストとしてただ一度、来ただけの人間。いずれはこの熱狂
も醒める。
普通だったら、そうだった。これもまた思い出のひとつとして残るもの、それだけの話
に過ぎなかったのだが。
――どういうわけか、話はそれで終わらなかった――
〜学園祭後のとある話〜
私が学生の時に出会っていたなら、間違いなく〔転んで〕いただろう。
初めて高町恭也に会った時、山村先生が抱いた感想である。
(なるほど、あれは三つの薔薇が目をつけても、おかしくないわね)
リリアンの学園祭で舞った恭也は、観に来ていた生徒達の心をそれこそ、
(がっちりと……)
鷲掴みにしてしまった感がある。外見が外見なだけに、ぱっと見た感じでは美形ながら
もどこか近寄り難い印象こそあったが、いざ話してみるとそれほどでもない。まぁ、良く
言えば年齢に似合わず落ち着いた、悪く言えば若いくせに枯れ切った印象だけれど。
しかし、それも義理の母親――高町桃子と言った――の話を聞いて、締め付けられるよ
うな感覚を覚えつつ、何となく納得したものだ。
元々、大人しめだった幼い子供が、あまりにも強烈な体験をし過ぎたのだ、そうとしか
言いようがない。
(普通の家に生まれた子なら、まずそうそう体験する事じゃないわね……)
桃子の話を思い出す度に、溜め息が出てくる。彼女の義理の息子は、多感な頃にあまり
にも多くのものを喪ってしまったのだ。
産みの母親、可愛がってくれていたはずの親戚達、そして――父親。
もし、恭也のこれまでの体験をまとめたものがあったとして、それを生徒達に読ませた
なら、同情とか何だとか、そういう性質の違いに関わりなく、きっと涙という名の鉄砲水
が、そこかしこで噴出するに違いない――
よしない想像をして、山村は思わず苦笑した。
(それはともかく、ちょっと興味深いわね)
山村が抱いた興味とは、恭也が剣をたしなんでいる事である。幼い頃から父親に古流の
剣術を習い、今でも続けていると言う。流派はさすがに分からなかったが、昨今では学生
でも居合を習う者がいるそうだから、その点では別段驚くに値しない。
もちろん、生徒達に教えている剣道と、恭也がたしなむ剣術は、自ずと違う。ただ、そ
の精神面なり何なり、どこかしら共通する部分はあるはずだ。
(うちも、それなりに強い強いと言われているけれど)
何と言っても、リリアンは知らぬ人とていない〔お嬢様学校〕であり、それ故かどうか、
どこか突き抜けられない部分があった。少しでも何とかしたい、とは思っているが、
(どこか道場の先生を呼ぶとしても……中々折り合いつきそうにないし)
もちろん、恭也を呼ぶにも問題はある。リリアンが女子校だという問題もそうだし、距
離的な問題もそうだ。呼べたとしても時間的な問題があるし、何より〔道〕と〔術〕の違
いに生徒達がどのような反応を示すか、かなり未知数だったりする。
山村自身にしても〔道〕と〔術〕にどれほどの違いがあるのか、今ひとつピンと来ない
ところがある。相当違うかもしれないし、実は同じなのかもしれない。
いずれ、多くのものを喪い、実際に傷付きながらも、それを曲がりなりにも乗り越えて
きたひとりの青年、彼の持つ強靭な精神の、ほんの一部分でも部員達に伝える事が出来れ
ば――
(話を聞いた限りでは、彼は己の弱さをちゃんと知っている、という事よね)
まるで逆説的なようだが、だからこそ高町恭也という青年は、〔剣術〕を自分の一部に
する事が、出来ているのかもしれない。
(うちのエース……支倉さんの実力を引き出すには、彼の存在は好都合かもね)
支倉令。〔山百合会〕の黄薔薇のつぼみ。剣道二段の腕前で、父親も剣道をたしなんで
いる。その薫陶を受けている割に、彼女の太刀筋は自身の繊細な性格からか、山村の目か
ら見ても、どこか定まっていないところがある。
その辺が、彼によって少しでも良い方向に変わってくれれば。
(意外に、上手くいくかも……?)
そんな気がして、山村は行動を起こす事に決めた。環境が整うかどうかがまず問題では
あったが、交流試合を間近に控えているからこそ、早急に話を進めないとならない。
恭也のその後に影響を与える事となる、これが発端だった。
ごく普通の日常が、これでようやっと戻って来た感じがする。
そう思っていたのが、高町恭也にとってそもそもの間違いだった。
リリアンの学園祭が終わり、海鳴に帰って来てから最初の日曜日。家の電話が鳴ったの
は、ちょうど昼に差し掛かる頃だった。
「もしもし、高町です」
[あ、恭也?]
「ん……かーさん、どうした?」
かーさん――高町桃子からの電話。
[あ、よかった。家にいたのね?]
「ああ。何かあったのか?」
[ちょっと、店に来てくれる?]
「忙しいのか?」
[そうね。昼時だから確かに忙しいけど、頭数は心配しなくていいわ。とにかく、ウェイ
ターしなくていいから、ちょっと来て欲しいのよ]
「ふむ……分かった。すぐだな?」
[うん、よろしくね]
「ああ」
受話器を置いてから、何かあったのだろうか、そんな事が頭をよぎったが、
(まぁ、行けば分かるか。特に切羽詰った感じでもなかったから、別段大した事でもない
だろう……)
思い直して〔翠屋〕に行く事にした。
家から駅前商店街にある〔翠屋〕まで、歩いて片道で大体十五分程度。まあまあ程近い
場所にある。これが海鳴大までとなると、家から自転車で片道三十分以上は優にかかるも
のだから、妹のなのはが、
「ちょっと遠い大学」
と言うのも、実はあながち間違っていない。ともあれ、商店街に通じる慣れた道を歩く
事しばし。
着いてみて窓越しに中を覗くと、相も変わらずの客の入りである。
ふむ、繁盛しているな。いい事だ、などと、まるで偉そうな事を思いつつ店に入ると、
「いらっしゃいませ」
ウェイトレスの、小気味良い声が出迎える。
「店長は?」
「あ、はい。少々お待ち下さい」
簡単なやり取り。少しすると桃子が厨房から顔を出した。
「来たぞ、母」
「ありがと。早速だけど恭也、奥のボックス席に行ってくれる?」
「……俺に用、という事か?」
「他に誰がいるってのよ、うふふ」
桃子の切り返しに肩をわずかにすくめ、言われたままに奥のボックス席に行くと、
「お待たせしまし……」
見覚えのある人が、座っているのに気が付いた。ここで会う事になるとは、ちょっと意
外な気がしたのだが。
「ごきげんよう……と言うより、こんにちわ、の方が良いかしら?」
「山村先生、ご無沙汰しております」
「ああ、堅苦しい挨拶はいらないわ。しばらくぶりですね、高町君」
ボックス席に座っていたのは、リリアン女学園高等部の教師、山村だった。
「いつか行こうとは思っていたんけど、中々時間が取れなくて」
「いえ。おいで頂き、ありがとうございます」
恭也が座ると、気楽な挨拶が交わされた。二人ともまだ昼食を摂っていなかったので、
まずは腹ごしらえとしゃれ込む事にする。
お冷の中で溶けて小さくなった氷が、わずかに動いた。
既に昼食も終わり、食後のコーヒーが目の前で湯気を立てている。
「そろそろ、本題に入りましょう」
山村がおもむろに切り出した。恭也はもちろん異存ない。さて問題は、今回何が話とし
て持ち込まれるか、という事だ。
「貴方のお母様から、多少の事情は伺ったのですけれど……高町さんは、剣をたしなんで
いるとか」
瞬間、恭也の瞳がわずかにすっ、と細められたのを、山村は見逃さなかった。表情その
ものは変わっていないが、それだけに、目の前の青年が相当な鍛錬を積んできた事を推察
するには、充分である。
「はぁ……まぁ、否定はしません。古流ですが、いささか」
こう答えながら、内心では、
(母め、こういう事を軽々しく人に話してどうする!?)
すぐにでも怒鳴りつけてやりたい恭也だったが、流石にそういうわけにもいかない。こ
こは客の多い喫茶店の中。まして目の前に相手がいることでもある。今は、話の方を優先
させるべきだ。
「……それと、この度先生が来た事、関わりがいささか分かりませんが」
「そうね。まずはそこから話さないといけないわね。実は私、リリアンで剣道部の顧問を
しているの」
「剣道部、ですか」
「そう。学生の頃……と言っても、私もリリアンの卒業生だけど……これでも剣道を習っ
ていたのよ」
言って、山村は微笑む。
「なるほど」
それで合点がいったところが、恭也にはあった。楚々とした雰囲気の中に、どこか凛と
したものを、初対面の時から感じていたのだ。もしかしたら剣道でも、という推測はして
いたが、これで裏付けられた事になる。
と言う事は、ここで考えられるべきは――ひとつだ。
「で、本題なんだけれど。うちの部に一度、臨時の講師として来てくれないかしら」
やはり、恭也はそう思った。だが、本来ならばこういう話は、
(俺よりも、むしろ赤星なんだがなぁ……)
コーヒーを少し飲んで、考える。
赤星との手合わせや、以前世話になった事のある道場などでの経験から、剣道の形もそ
れなりには出来る。だが、恭也がたしなんでいるのは実戦、つまり生死を賭けた実戦を想
定した、ある意味総合的な武術、それも〔殺人術〕と言うべきものだ。
それよりなら、自分よりも余程剣道に親しんでいる――それも有段者だ――赤星を、適
当な理由でも付けてリリアンに放り込んだ方が、よほど筋が通る。
もっとも、その赤星も最近は部の練習試合などがあったりで、結構忙しくしている。卒
業した風芽丘学園にも、後輩の指導の為に顔を出しているらしい。
「剣道と剣術では、似ているようで相当の差がありますが?」
「ええ、その辺は心得ているつもりよ。私が高町君に期待しているのは、そういう事では
ないから」
「と、言いますと?」
「分かりやすく言えば、うちの部員に度胸を付けてあげたい……そんなところかしら」
「……度胸、ですか?」
「貴方も知っての通り、リリアンは〔お嬢様学校〕として知られているけれど、そうした
学校特有の弱さというものが、どうしてもあるのよね」
それを、剣術の視点から少しでも指摘してくれれば――
「近く、交流試合があるから、というのもそうなんだけれども……」
苦笑する山村が、優雅な手つきでコーヒーカップを口に運んだ。
「ひとり……見どころのある娘がいるの。彼女は有段者……二段の腕前なんだけれど、そ
の割にはどこか、筋が定まってないところがあるの」
本人も、どうやら自覚はあるらしいけれど。そう、山村は言って、ふぅ、と溜め息を吐
いた。
「もっと伸びる事が出来る……そういう事ですか?」
「ええ。うちでは一番の成長株かしらね。支倉令……高町君は、会っているはずよ」
聞いて、恭也は腕を組み、考え込んでしまった。
(なるほど……彼女か……)
リリアンで会った時は、敢えて口に出す事をしなかったのだが、令には何かしら武道を
している者に特有の、一種独特な雰囲気を感じていた。
(確か、江利子さんの〔妹〕だったな)
とは言え、恭也が令に感じた第一印象は、高町家の和食料理長――城島晶の、闊達さと
言う以上に、これが男性だったらと思わせるほどの身体能力――を多少抑え目に、淑やか
さをプラスしてやれば意外と似るかも、そんなとんちんかんなものだったが。
晶がこれを知ったら、一体どう思うだろう。それはともかく。
「支倉さんにも〔妹〕がいて……まぁ、実際従妹に当たるから、彼女にとっては同じよう
なものかしらね。島津由乃さん」
「ああ……」
「島津さんは、元々身体が弱い方で……今ちょうど学校休んでるから、支倉さん、心配し
てるみたい」
得心がいった。後夜祭の時に由乃を見て感じた違和感は、当たっていたのだ。同じ学校
で、しかも令にとって従妹ともなれば、それは心配しない方がおかしい。
(だが……)
それは、試合には持ち込めない。と言うより、持ち込んではならない。もしも実戦だっ
たなら、間違いなく己の命を縮めてしまう。それが、いかな人情だと言っても。
誤解されがちだが、武道では格上格下の違いだけで必ずしも、勝敗が決まるとは限らな
い。目の前の相手にどこまで集中出来るか、己の力を出し切る事が出来るかどうか、それ
以前にどれだけ日頃の練習で、
(実際の試合のように)
集中して臨めるか、という事に集約される。戦う前から勝負が決まる、というのは大体
そういう事であり、負けるべくして負ける、というのもそういう事なのだ。
だが、令の場合はそういう一般論とも、また少し違うようだった。更に話を聞くにつけ
て、何となく見えてきたものがあった。
(やれやれ……昔の俺、とはまた違うのだろうが……どうやら、支倉さんも相当思い詰め
ているらしいな)
苦笑が、表に出たのだろう。山村が怪訝な表情でこちらを見ているのに気が付き、恭也
は肩をすくめた。
「これは憶測ですが。支倉さんは、決して身体が丈夫でない島津さんが大事なあまりに、
自分自身を見失いつつある……のかもしれませんね」
卓見だ――山村は驚いた。推測でもここまで言われると、もう見事としか言えない。
「いざ試合という時になってすら、肝心の精神がその状態だったとすれば……支倉さんは
戦うまでもなく、まず己に負けるでしょう」
そこから先は、言わずもがな。恭也の言葉には容赦がない。山村は確信した。
「高町君のその見識を、一度でいいからうちに役立てて欲しいの。もしかしたら試合まで
には、間に合わないかもしれないけれど……何とかお膳立てはするから、お願い出来ない
かしら」
頭を下げられて、困惑する恭也。
「せ、先生……頭を上げて下さい」
「引き受けてくれるのね?」
真顔で聞かれ――まず、断れないだろう――恭也は胆を据える事にしたのである。
山村は、安堵の表情を見せて〔翠屋〕を後にした。いつの間にか、客の入りはひと段落
ついたらしく、バイトのウェイトレスが交代で賄いを摂り始める。
そんな中、恭也は未だ席に着いた状態で、ひたすら沈思していた。そこへ、厨房を空け
られる程度には余裕が出来たのか、
「恭也。話、長かったわね?」
桃子が声をかけてくる。
「ん? ああ」
「どうしたの? 何か山村先生に頼まれでもしたの?」
「御明察」
「何を頼まれたの?」
「簡単に言えば、またリリアンに来て欲しいのだそうだ。今度は、剣道部の臨時講師とし
て、な」
「それで、答えは?」
「……引き受けた。本当なら、俺より赤星の領分だが」
恭也が剣をたしなむ事を山村に教えた張本人は、笑みを大きくしてこう聞いた。
「それじゃあ、赤星くんも誘ってみる?」
「都合がつくかどうかだが……って、かーさん……何考えてる」
「んー……とりあえず、日にちが決まったら言いなさい。もし泊りがけだったら、その分
のお金はちゃんと出したげるわよ」
そう言うと、桃子は厨房に戻るついでにレジを覗いてひと言。
「あ、そうそう。山村先生、恭也の分も払ってくれたみたいよ?」
聞いた恭也は、借りがひとつ出来てしまったか、と察して、思わず苦笑すると席を立っ
た。
店から出て、何気なく空を見上げると、秋の柔らかい陽射しが青空に映えている。
ひとつ、溜め息が出てきた。
(はぁ、参ったな……)
ひとつ事に関わって、それを大過なくこなすと、そこから頼まれ事が増えていくように、
どうやら世の中は出来ているらしい。
山村によると、とりあえず部の方のお膳立てを整えるのに時間がかかるとの事だったが
――そこはやはり、女子校というところが大きい――もしかしたら、許可そのものが下り
ないかもしれないけれど、その時はごめんなさい、そういう話だった。まぁ、許可が出な
かったならそれまでの事だ、そう恭也は考えた。
話が決まったら連絡を入れると、山村は確約した――恭也は〔翠屋〕の電話番号を教え
ておいたので、少なくともそのまま放ったらかしにされる、という事にはならない。
そんなこんなで家に帰ると、
「おかえりなさい、師匠」
「ただいま」
庭で、晶がサッカーボールをリフティングしていた。高町家の和食料理長、という肩書
きを持つ、むちゃくちゃ元気な〔家族の一員〕である。
よっ、というかけ声と共に晶はボールを蹴り上げ、落ちてきたところをキャッチする。
「あ、そうだ。師匠宛てに手紙、来てましたよ」
「……俺にか?」
「はい。リビングのテーブルに上げときました」
「ああ、済まん……相変わらず、精が出るな」
「えっへへ。時々やんないと、なまっちゃうんで」
再び、リフティングを始めた晶を微笑ましげに見やると、恭也は家の中に入る。
リビングには、誰もいなかった。綺麗に片付けられているテーブルの上に、封筒がひと
つ。手に取って裏返すと、覚えのある名前が書かれていて、恭也の微笑を誘う。
封を切り、中の手紙を取り出して目を通してみると、達筆な、そして丁寧な言葉遣いの
文章が綴られていた。
拝啓
秋も深まりし今日この頃、高町君にはいかがお過ごしでしょうか――
日常へと、と思いきや。
美姫 「まさかの再訪問ね」
しかも、今度は剣道の指導でだよ。
美姫 「しかし、剣術の事まで話していたとはね」
桃子さん、結構話してたみたいだけれど。もしかして、ここまで計算して?
美姫 「いや、流石にそれはないと思うけれど」
さてさて、再びリリアンへと赴く事となった恭也。
美姫 「どうなるのかしらね」